フロントページ   »  生活の色々
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
web拍手 by FC2
 


 この数日、息子の大学受験やら、役員をしているPTAの最後の行事やらで、ややあわただしく過ごしていました。

 肝心の息子の受験のほうは――、幸いにも第一志望校の合格が先日決まり、ありがたいことに早々と見通しがついた状況です。


 全国的にはそれほど有名ではないけれど、語学教育で伝統と定評のある中堅私大で、息子の学力レベルからすると「ちょっと厳しいかな…」と思っていたところだ。
 しかも第二、第三志望のほうは落ちたのに、いちばん可能性が薄いはずのいわゆる「看板学部」に受かった。

 息子は文字どおり欣喜雀躍しているし、こんな受かり方もあるものだなと不思議な感じですね。
 つい数日前まではネガティブに「どうせオレは入れる大学がなくて浪人だ」と、塾にも行かず、受験勉強にもあまり身が入らずにくすぶっていたことを考えると…、ま、結果的に「上出来」と言っていいでしょう。


 まだこれから有名私大の受験・発表がいくつか残っているけど――、当人は「あとは受かっても受からなくても、どちらでも全然かまわない」という、もはや気楽なおまかせモードになってしまっております…。


 もともと息子は、未熟児で生まれて体がとても小さいながらも、幼少のころはすごく明るくて利発な子だった。

 ところが、重い鬱を患った妻から虐待を受けたり、小中学生のころは校内でひどいいじめに遭った――。
 そうした状況の中で、だんだんと子供の「ハートが閉じていく」様子を目の当たりにするのは、親としてとてもつらい経験だった。

 成績もかなり下位レベルに落ちていき、かろうじて不登校にはならなかったものの、「学校に行きたくない」「進学したくない」としょっちゅう口にしていた。


 そこで高校への進学のときは、いじめのなさそうな、なるべくおっとりした(アンビシャスな感じでない)校風のところを選んだ。
 高校生活の3年間で、息子は親しい友達を1人も作ることができなかったけれども…、でも、ほとんど休みなく授業に出席するだけはちゃんとしてくれた。

 で、部活もせず、友達もいないため、あり余った時間をずーっとネットを見て過ごしていた。
 そうしているうち、アメリカのアニメに興味を持つようになった。

 その趣味はどんどんマニアックな方面に突き進んでいき、日本語吹き替えや字幕もない英語のままの「おたく好み」のアニメ作品を、来る日も来る日も深夜まで集中して見ていた。
 気に入った作品は、同じものを何度も繰り返して視聴していたようだ。

 すると、思いがけないことに、英語の成績だけがいつも間にか校内上位に上がっていった。


 そうして好きなものを見ながら身に付けた語学力で、自分の志望校に合格できたわけだから――、過去からの経緯からすると、「ベストの結果がもたらされていった」くらいにとらえていいでしょう。

 本当に人生は、何がどう幸いしていくのか、分からないものだ…。
 親としては、「アメリカのアニメさまさま」という感じ。


 進学先が決まったら引っ越すことも考えていることから、息子はいま、以前から机にたまっていた不要な紙や冊子などをバッサバッサ捨てて、思い切った片付けを進めている。

 何だか、「動のエネルギー」が訪れてきた感じですね。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Essential Guide To Yoga Celtic Chillout 「Walking Eden」。
スポンサーサイト
web拍手 by FC2
  ☞ コメント:65

 
 普段こういうのはブログの話題にしないのだけど、ちょっと気分がいいことなので書きますね。

 きのう文具店で買い物をしたら、金額が「444円」だった。
 次にその足でクリスマス・メニューの食材などをスーパーで買ったら、その金額は「4,444円」。
 こうした数字は気にしだしたらきりがないから(自動車のナンバーとか、時計の時刻とか…)、これは、これだけの話。


 で、きょうのクリスマスの日――

 朝の明るくなりはじめた時間に、ベランダから東の空を眺めてみたら、見慣れない不思議な光景が…。

 昇ってくる太陽から、真上に向かって、1本の「光の柱」がまっすぐ伸びている。

 そのときの写真がこれで、「太陽柱」という現象らしい。
 日の光が筋状に見える光芒(こうぼう)の一種で、光芒は英語でエンジェルズ・ラダー(天使のはしご)。

 横にモミの木みたいなのもあって、何となく象徴的ですよね。ただ、東京の住宅街なので、電線とかがじゃまだけど…。

 冬の朝日は、ちょうど朝食の支度などが終わった7時くらいの時間だから、晴れた日はいつもベランダから眺めている。
 太陽柱は珍しい現象ではないらしいけど、でもこうして見たのは初めてだ…。


 そして日の出から数分後、空がかなり明るくなったとき――

 光の筋はすごく長く伸びていって、空を渡る一直線のようになった。
 この写真は広角で撮ったもので、写真の上端が空のてっぺんあたり。

 雲の切れ間から放射状に漏れる光芒はよく見るけど、ここまで見事に長く伸びたものは、本当に初めてだ…。


 それからまたしばらく経つと――

 太陽が驚くほど白く、清らかで、神聖な輝きを放っているように見えてきた。

 これほど美しい太陽の姿を、これまで目にしたことがない…。
 薄いベールのような雲がかかっているので、その光を薄目で直視できるくらいのまぶしさだ。

 でも、これもカメラで撮ってみたものの、写真ではぜんぜん再現不能ですね…。ありふれた、ややきれいな輝きにしか映らない。

 やがて息子が「いったいどうしたの?」と様子を見にきたから、しばらくずっと放心しているように見入っていたのだろう…。

 何か素敵な前兆だったら嬉しいですね!



 結びのヒーリング・ミュージックは、John Serrie「Once in Royal Davids City」。

web拍手 by FC2
  ☞ コメント:22

 
 料理の話題のつづきです。

 料理の腕を一定レベルに上達させるポイントは――、「定番メニュー」を繰り返し作って、基礎固め徹底することだと考えている。
 家族から「最近は野菜の天ぷらが多いね」と言われるくらい、何度も作ればいい(もちろん連日はひんしゅくだけど)。

 世の中の傾向としては、そういうベースの部分をすっ飛ばして、「風変わりなアレンジ」や「ワンポイントのコツ」に走りすぎるケースが多いと思う。どうしても料理番組や雑誌が、受けのいいネタとして、そういう要素だけを取り上げるからではないかな…。


 もう一つの有効と思うポイントは、手順だけのレシピ本やネットの情報よりも、プロがきちんと監修した、文章が多めの「解説書」的な料理本を使うことだ。

 どうして「解説書」が良いのかというと、主要な工程について「なぜそうするか」という理屈が書いてあるから。

 例えば、なぜ煮物はまず砂糖だけで煮て、しょうゆを後で加えるのか。なぜムニエルは途中でバターを足しながら焼くのか。照り焼きは素材の表面をこんがり焼いたあと、なぜ油をふき取ってからタレを絡めて焼くのか。シチューやソース作りは、なぜ最初は強い火加減で混ぜ炒めるのか――。

 こういった「なぜ」が、おいしさの成否を分けるポイントであることが実際に多い。でも、そのような理屈は、分量と手順だけを書いたレシピでは分からない。

 レシピ本の情報だけで調理すると、単に「書いてあるからその通りにする」という作り方になてしまう。すると、もし出来上がりがうまくいかなかったときに、「どうしてうまくいかなかったか」という理由が、はっきりとは分からない。
 結果、「いつもうちの野菜炒めは下に汁がたまってグチョッとしている…」と、食べる側も作る側もモチベーションが上向かない。


 とはいえ…
 何のために料理をするのか、ということを突き詰めると――、それは、食べたり生きることの「喜び」や「幸せ」をつくり出そうとしているのかな、と自分で思う。

 そして、どんな料理を「おいしい」と思うかは人によって万別であるし、さらにどんな食生活や生き方が自分にとっていいのかも人さまざまだろう。そこに決定的な価値尺度なんてものは存在しない――。


 例えば、先週は銀座の吉兆、今夜はジョエル・ロブションで、なんて食生活なら、料理の質的レベルや経済的価値では最高に豊かで幸せであろう(特に望みはしないけど…)。
 一方、家で手製の茶碗蒸しを家族皆で「おいしいねぇ!」と食べるのも、これも食事の幸せとして、何ひとつ遜色はない。ハートにとっては互角といえる。

 さらには、ヒマラヤの登山者がテントでインスタントラーメンを作って食べてる写真とかを見ると、世界のあらゆる食事の中で一番おいしそうな瞬間に映る。温もりと味わいが骨の髄までしみわたり、もうハートが全開という満足感に違いない――。


 だから、こう言っては身もふたもないけど、結局は料理をどうするかなんていうのは、単なる個人的な「条件付け」の一つでしかないですよね。

 でも「条件付け」だと分かりながらも、「それでも自分はおいしく作りたい」と思うならば、それは自分の歓迎すべき生き方の一部だと思う。
 また、もし台所に立ったことがほとんどないサラリーマンとかが、退職後は料理の腕を身に付けたいなと思ったとすれば、それは運命的な選択であり、まさに「魂に資する行為」と言っていい。
 ――そういう人に参考になればなという趣旨の、今回の記事です。



 最後にヒーリング音楽の紹介。
 今回は、久石譲「銀河鉄道の夜」。

 スタジオジブリの映画音楽でものすごく有名な人だけど、そうした代表作に比べたらこの曲はあまり知られていないんじゃないかな…。
 
 15年以上前のことだけど、出勤前のかなり朝早くに目が覚めてしまい、テレビをつけてチャンネルを変えていたら、「放送大学」の放送開始の画面でこの音楽が流れていた。

 このとき初めて耳にしたのだけど、「なんてきれいな曲だろう!」と、起きてすぐの多感な心が音の世界へ引き付けられていくような思いがした。そして会社に行って昼休みに、わざわざ放送大学に電話して曲名を問い合わせたという、個人的エピソードがある一曲です。



web拍手 by FC2
  ☞ コメント:8

 


 ここのブログタイトルには、「カルマ・ヨガ」という言葉を掲げているけど、これは「日常行為を通じたヨガ(統合)」という意味です。


 もともとは日々の身近な内容のブログにしようと思って始めたのだけど、実際に書き始めてみたら、地球生命の進化やら、宇宙のビッグバンやら、イエスの言葉やら、意識の覚醒やら、日常から遥か離れたバリバリのスピリチュアル方面へと傾注していくことになった…。

 この傾向は今後も変わりそうもないけれど、たまには看板にふさわしいテーマをと思い、今回は料理の話題です。(ちょっと自分の得意話だけど…)

 
 以前、あるプロ野球ファンの知人が、「プロ野球を見ないやつは、人生の大きな楽しみの一つを放棄している」、なんてことを言っていた。
 でも僕にとって野球は、文字通りの「他人ごと」でしかない。テレビもほとんど見ないから、今時分になって「今年は巨人が優勝したのか」と、誰かからの話をつてに知るくらいだ。野球に関しては、自分はその程度の関与度で十分だと考えている…。

 一方、この知人の主張に対して、あくまでも僕の好みから言葉を返すとすれば、「料理をしない人は、人生の大きな楽しみの一つを放棄しているようなものだ」――と思っている。


 僕は料理がけっこう得意技で、サラリーマンを辞めたあとは、家の食事作りは僕が担当している。妻は家事全般が苦手なうえ、子供は外食に行くのも面倒がる出不精という、まさに恵まれた家庭環境のもと、僕は料理の腕にどんどん磨きをかけることになった。

 今や、このブログのプロフィル写真まで、台所に立っている写真にしているほどだ…。


 台所には、中華などの「○○のもと」とかルーなどの既製品は一切置いていない。それよりも、塩やしょうゆや酒、バターとかの基本調味料で味作りしたほうが圧倒的においしいからだ(実際にプロだってそれで作ってるわけだし…)。

 例えば炒め物の場合、仕上げに熱い鍋肌に回しかけたしょうゆの香ばしさが、料理の風味を格別なものに引き立てる。調味料一式が混ざったレトルトの「もと」を入れてグチャグチャと加熱したところで、あの食欲をそそる何ともかぐわしい香りは出せない。
 マーボ豆腐とかも、材料に味をしっかりと煮含ませた後でとろみ付けをすることで、よく馴染んだふくよかな味わいに仕上がる。味もとろみも最初から一緒になった「もと」では、それができない。

 シチューも、丹念に練り伸ばした手作りのホワイトソースのまろやかな舌触りは、既製品の固形ルーなんか比べものにならないほどだ。
 カレーだって、カレー粉とスパイスから作ったほうが、鮮やかな香りがもう圧倒的に際立つ。


 調理手順にはどうしてもひと手間加わってしまうけど、それほど時間や技術を要するものではないし、コスト面ではむしろ安い。

 中学生の息子も「レストランよりもおいしい」と言っているから、決して作り手の自画自賛ではないですよ…。
 妻はたまに食べながら「私はもっと濃い味が好き」とか難癖をつけてくるけど、それを「うん、そうかもね~」と笑顔で聞き入れることによって、自らの懐の奥行きを広げることにも役立っている。


 料理という行為は、スピリチュアルな道を歩むうえでも大きな意味がある。

 禅寺では、食事の支度は修行が進んだ僧が担当する。なぜなら、禅の明晰な意識を保ちながら、同時に料理の煩雑な作業をこなすことが、ものすごく難しいからだ。普通は「次は急いであれをしなきゃ」「やばい失敗した」とか、頭の中が想念の渦で簡単に埋め尽くされてしまう。
 カトリックの修道院でも、テーブルに皿を並べるとき、「愛をもって並べなければいけない」と言われる。やるべき作業だけを心を込めずにパッパと済ませるのは、愛のない無益な行為でしかないわけだ。


 しかし、どうしても料理中は、「効率的にスピーディーに進めよう」とか「失敗せずに思惑どおりの結果を出そう」といった意図やた思考が、あらゆる工程で次々に出てきてしまう。
 そんな中で、いま起こっていることを広がった意識ででとらえ、ハートを開いて愛をもって調理をするって――、もうインドのアシュラムよりも高難易度な修練かもしれない…。

 僕はまだ、「あるがまま」にオムライスを包める域には、達していない。



 締めに、リラクゼーション音楽の紹介。
 今回は、岩田英憲・服部克久「とき色の夢」。

 こういう、ふるさとを思わせるような曲って、日本人の心に本当に溶け込むように入って来ますね。初めて耳にするメロディーも、昔から聴き覚えのあるように、なつかしく思えます。


web拍手 by FC2
  ☞ コメント:2

 


 スピリチュアルなものごとを納得するためのポイントとは――
 「真理はどちらか一方に決まっている」、という見方を捨てることかな、と思っています。

 真理というものは、既存の知識・常識で白黒が付けられるものではなく、いわば「矛盾する両極を含有する全体」としての性質があるのかなと。
 「私はアルファでありオメガ」、「光は粒子であり波動」といったみたいな感じで…。

 それと同様に、運命はすべて決まっていながらも、自由意志というものはある。
 宇宙には自分しかいないのに、無条件の愛の対象としての他者は存在している。

 この、矛盾する一方だけを受け取ろうとすれば、理解したいポイントを見失ってしまう――。


 僕自身にとって、この「決め付けない」という考え方の基盤になっているのが、実は株式投資の経験だ。

 サラリーマンだったとき、お金をためて早く会社勤めを辞めたいと、一時期、株式投資に熱心に取り組んだことがある。
 で、投資家が著した本などをずいぶん読んだけど、そこで誰もが気づくのが、「全員がバラバラのことを言っている」ということだ。

 ある世界的に著名な投資家は「一度買った株は生涯手放すな」と言うし、別の天才トレーダーは「株を1日以上持ち越すな」と言う。
 また「マーケットのトレンドに乗れ」という鉄則があれば、「相場の逆を張れ」という主張も多い。
 しかも、それぞれの投資家が、別々の方法でちゃんと利益を上げているわけだから、「その考え方は違う」なんて否定することはできない。


 「人の行く、裏に道あり、花の道」「麦わら帽子は冬に買え」「夜明け前がいちばん暗い」「『まだ』は『もう』なり、『もう』は『まだ』なり」――
 これらは古くからの相場格言だけど、一言の中に「どっちとも決め付けられない両極性」みたいなものが含まれてますよね。

 マーケットでは、結果としての損益ははっきり出るけど、常識や理屈としての「正しさ」は存在しない。むしろ、自分でこうだと決め付けて投資すると、たいていの場合は失敗してしまう――。


 この先は、ちょっと投資の小手先的な話題になるけど…
 僕がいちばん得意としたのは、デイトレードの空売り(相場が下落するほど儲かる売買法)である。

 例えば、平均株価が3日連続で上昇し、朝のニュースを見たらニューヨーク市場も上昇していたとする。
 そうした時に、日経平均先物を寄り付き(午前9時の最初の売買)で売却する注文を出しておく。そして大引け(その日の終わりの売買)で買い戻す注文も出しておく。
 出勤前にネットで注文しておけば、あとは自動的に執行されるから、放っておいて仕事に集中していればいい(勤務中は動揺するので市況ニュースを見ない)
 
 そうしておいたら、だいたい60%弱の確率で儲けになる。
 ただし確率60%弱だから、ある日は50万円の儲け、次は20万円の損、その次は10万円の儲け、30万円の損……といったのが延々と続いて、感覚的には儲かっているのか損しているのか分からない。
 でも、何度も売買を積み重ねて合計すれば、ちゃんとプラス収益になっている。

 そのような感じで、ほかに例えば、株価が3日連続で下落した場合はどうなるとか、さらには過去3日間の株価がプラス・マイナス・プラスと推移して、その日が金曜日だった場合は何%の確率で上昇するとか、そんなもう色んなパターンでの株価の騰落確率を計算しておく(僕の場合は過去40年分の毎日の株価データを表計算ソフトで計算した)。
 そして、計算した確率にしたがって、毎朝粛々と注文を出す。
 下がる確率が高い日には売り、上がる確率が高い日には買い、五分五分の日には売買はお休み――。


 僕はそれで、月にだいたい50万円ほどの投資収益があった。
 しかも、この方法の運用面の大きなメリットが、もし運悪く負けが続いた場合にどの程度の損失にかるかも、あらかじめ確率的に分かっていることだ。
 だから最悪の場合のリスクを常に踏まえながら、致命的ダメージを受けない範囲内で、投資を続けていくことができる。

 一方でこの方法のデメリットといえば、自分の予想を的中させるという、いわゆる「当てもの」としての株式投資の醍醐味がゼロであること。
 でも、そんな醍醐味を楽しみながら損を出すくらいなら、面白みもない投資法で儲けたお金を、何か好きなことに使って楽しんだほうが絶対にいい!


 当時、「あぁ、これで会社を辞められるな…」と、感慨深く考えていた。
 ところが、そんな矢先、こともあろうか勤務先でインサイダー不祥事が起こり、株式投資が厳禁となった。
 これは「もう手を引きなさい」という天のお告げだろうと考えて、以来、株式投資は一切行っていない。

 このあとで、サブプライム・ローン問題やリーマン・ショックなど、マーケットの世界的大混乱が起こったから、結果的にいいタイミングで「勝ち逃げ」ができたのかなとも思う。

 そして僕自身は、かつて『マーケットの魔術師』や『ジム・ロジャーズ世界を行く』などを読むことに傾注してきたエネルギーを、そのまま『神との対話』や『ニュー・アース』などへ方向を変えて、今日に至っている…という次第である。



 結びに、しばらく他ジャンルに寄り道してたけど、本筋に戻って、お気に入りのリラクゼーション音楽の紹介を。

 今回は、以前も紹介したスピリチュアル音楽界の大御所のDeuter「Khumbe」。
 チベタン・ボウルの、不思議と懐かしいような音色が、内なる静寂を広げます。
 
>
web拍手 by FC2
  ☞ コメント:10

 


プロフィル

Koudai Mitsuna

Author:Koudai Mitsuna
 
光奈 広大(みつな・こうだい)

 20年のあまりのサラリーマン生活を経て、いわゆる「ザ・マネーゲーム」を何とか卒業。今では束縛されない自由な日々を存分に味わっています!

 そうした中で心がけているのは、普通の日常的な行いを通じて、意識の進化を目指す「カルマ・ヨガ」。

 日々の喜びや学び、インスピレーションから得たスピリチュアルな気付きなどをブログで紹介しています。

 妻子と都内在住――。





http://facebook.com/koudaimitsuna

最近の記事
ツイッター
アクセス

CALENDaR 12345678910111213141516171819202122232425262728
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。