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 スカッと見晴らしのいい河川堤防をウォーキングすると、本当に身も心も浄化される感じがする。同じような堤防ファンって、多くいるのだろうか? 僕は主に以下の、だいたい20kmくらいコースを好んで歩いています。

 ◇江戸川= 東京メトロ東西線・妙典駅 → JR武蔵野線・三郷駅
 ◇荒川= 都営地下鉄新宿線・東大島駅 → JR埼京線・北赤羽駅
 ◇多摩川= 京急線・六郷土手駅 → 京王線・京王多摩川駅

 どれも、電車で川の近くの駅まで行って、堤防上の歩行者・自転車専用道をガシガシ歩き、そして歩いた先の駅から電車で帰ってくる、というパターンだ。途中にも色々な鉄道路線と交差しているから、疲れたり天気が悪くなったりしたら電車に乗って引き上げればいい。

 あと河川沿いを歩くコースは、川の流れに合わせて上流から下流へと向かうのが自然な感じがするけど、僕は逆向きに歩くことが多い。というのは、東京の川はだいたい南の方へ流れているので、南を向いて歩く形だと直射日光が顔に当たって暑いし、景色も逆光になってあまり良くないからだ。


 で、昨日は上記のコースではなく、埼玉の入間川をウォーキングしてきた。川越運動公園(川越駅からバス)をスタートして、西武新宿線・狭山市駅まで20kmちょっとの距離。
 入間川というとやや地味なイメージだけど(別に江戸川や多摩川が華やかというわけではないが)、遠くまで緑の茂った広々とした景観はなかなかのもの。荒川と合流するあたりの河川敷(上の写真)は、尾瀬の湿原を彷彿させる。 ま、尾瀬は言い過ぎにしても、見た目で尾瀬の二割くらいの開放感を、都心から数百円の電車代で行けるのだから、けっこうお買い得だと思う。

 あと航空自衛隊の入間基地が近いため、離着陸する輸送機や戦闘機(練習機)が頻繁に低空を飛んでくる。僕はジェットエンジンの音がするたびに、おっ!と思ってつい空に目を向けてしまうのだが、道を歩いてる地元の子供を見ると、驚いたことに全く見向きもしてない(いちいち反応してたらきりがないだろうけど)。そんな子供たちを見ると、僕も飛行機なんかに気を取られずノーマインドでいなくちゃなと思う…。
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 断酒の話のつづき。 「お酒をやめると人生の楽しみの一つを失ってしまう」と頭から信じている人が多いけど、実際にはまったく逆で、生きる喜びが増えていく――、という話題です。
 僕自身が日々感じている明らかな変化というのは、次の通り。

■体が若返って、体調はいつも絶好調!
 上の写真は、先月買った多機能体重計が表示する「体内年齢」で、僕は「31才」。実際の年齢より何と15才も若い(これはさすがうれしくて、周りに自慢して言いふらした…)。数年前まで僕は、小太り体型・喫煙者・アルコール依存症予備軍で、健康診断の血液検査の結果では、中性脂肪値が高いなど要治療項目が5つもあった。それが現在はゼロになった。
 数値で示されるまでもなく、日々の体調はまるで元気な子供みたいに快調そのもの。毎日どんよりした感覚で過ごしていた昔の自分には考えられないことだ。この「若返って体調は常にサイコー」という喜びは、もちろん「お酒を飲むこと」ではなく「飲まないこと」によって得られるものだ。

■ダイエットがしやすくなり、軽やかで気持ちいい!
 お酒という相当なカロリー源を、生活から排除したことによって、ダイエットが格段に容易になった。今はピーク時から10kg落とした体重を、1年以上キープできている。最近は甘いものとか、楽しいものも色々と食べるようになったけど、そんな少々油断した状態になっても太らない。(ダイエットに関して別の機会にまた書こうと思うけど、体が軽くなるというのは、物理的質量や見た目の体型の問題以上に、本当に「気持ち」が良くなる!)
 以前は居酒屋で、空になった大ジョッキを手に威勢よく「もう一杯!」とか注文してたけど、カロリー的にはどんぶり飯を「おかわり!」って言ってたのと同じようなもんだ。体育会系学生の合宿じゃあるまいし、中年男性のカロリー摂取としてはちょっとオソロシイ…。(ちなみにアルコールそのものは体内で脂肪にならず、熱エネルギーとして優先的に代謝される。だがそのぶん、ほかの栄養素が利用されずに、蓄積されることになるらしい)

■「意識的な生き方」を選択できるようになった
 何かつらい不愉快な出来事があったとき、自分の内側にわき上がる強烈で生々しい感情と直面するのを避けるために、夜はお酒を飲んでいた。そしてグテ~ッと麻痺した頭で「まあしょうがないさ」「世の中そういうものだから」と、いつもお茶を濁すようにやり過ごしてきた。
 だが断酒をしていると、夜もずっとしらふだから、酔っ払ってごまかすという従来のメンタル対処法が不可能になってしまった…。とはいえ「問題解決を考えてポジティブ行動」というふうには単純にはいかない。余計に考えたり動いたりしても、どうせ空回りしてストレスが増えるだけだ。そこで自分として取れる手段が、スピリチュアルな視点での「浄化」というものだ。
 自分の目の前に起きるすべての出来事は、自分の内側にある何らかの原因が、外の世界に投影されたものであると考える。内側にどんなものがあるかは全く分からないけど、とにかく責任は自分自身にあるものとしてまず詫びて、その原因を消去してくれる恩恵の力に感謝する――。つまりは、ハワイの浄化法の「ホ・オポノポノ」である。そんな考え方によって、自分の生き方や周りの状況も大きく転換してきたということが、断酒・禁煙をきっかけにもたらされた最大の変化かもしれない。


 数年前と今とでは、自分というものの中にいる「住み心地」が全然違うように感じられる。体調面でも、メンタル面でも、世界観や生き方、周りの状況においても、まるで「別の器」に乗り換えたみたいだ。この喜びは、お金を出して買えるものではない。
 そしてもちろん、いつか自分が病臥に伏すかもしれないし、悲痛な喪失体験に遭う可能性もあるだろう。たとえそうなっても、それも自分の在り方としてきっと受容できるはずだと、今では思っている。
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 前回が禁煙の話だったので、今度はお酒について。(このブログタイトルは「生活習慣改善ノート」とかにしておいたほうが良かったかな…)


 ほとんどのサラリーマンは「アルコール依存症予備軍」だという警告があるけど、僕自身もかつては20年以上にわたり休肝日ほぼゼロという、まさに予備兵役として万端の準備態勢をととのえていた。
 でも、会社があるからもちろん昼間から飲むことはないし、お酒が原因で何か大失敗をしでかしたわけでもなく、「自分は依存症なんかになるわけがない、普通の飲み方をしているから」と、全く問題にしてこなかった。

 しかしながら、風邪で寝込んだ時さえも、必ず夜は飲まずにいられないこと。いったん飲み始めたら、ある程度の量まで飲まないと絶対に満足できないこと。休日は夕方早くから無性に飲みたくなって、貴重な休みの1日のうち6時間以上も酔ってグタ~ッと過ごしていること。朝起きたときはいつも頭が重くて、胃がシクシクして、年中下痢気味でという体調が常態化していること、等々…。「ちょっと、このままではあまり良くないかもしれないぞ」という実情に、少しずつ勘づかざるをえなかった。

 「ならば、これからは飲む量を減らし、必要な日しか飲まないようにしよう!」と意を決してみた。ところが、これがどういうわけか、ぜんぜん続けることができないではないか。数週間か長くて1カ月後には、もとの酒量を毎日飲むペースに戻ってしまう。それには自分で愕然とした。なるほど、今のこのような状況こそが「依存症予備軍」というやつか…。


 といったいようなきさつを経て、一昨年から僕は断酒を続けている――。
 上にある表みたいな写真は、自室のベッドの横に貼ってある「断酒カレンダー」。表計算ソフトで作ったもので、A3サイズの紙に日付を書いたマス目を並べ、そこに断酒を始めてからの日数をペンで毎日書きこんでいる(単色だとつまらないので、行ごとにペンの色を変えて虹みたいにしている)。日付は1000日分で、初日の2010年11/4から2013年の7/30まである。きょう5/29は「573」日目である。

 友人などからは「何も完全にやめなくても、たまには飲めばいいじゃん」なんてよく言われるけど、「たまに」とか「ちょっと」という飲み方を維持し続けるのは無理であることは、自分自身ですでに実証済みだ。
 一方で、断酒することによって、日々の生活に新しい喜びがたくさん増える。多くの人は「お酒をやめると人生の楽しみが減ってしまう」と考えているけど、それは全く間違った思い込みだということを強調したい。
 その話を、ぜひ今度したいと思います。
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fritea

 前回の禁煙の話のつづきです。

 禁煙外来ではニコチン貼付薬(いわゆるニコチンパッチ)が処方される。これは、体に貼り付けることで、ニコチンが皮膚から体内に常時供給されて、タバコを吸わないことによるニコチン禁断症状をやわらげるというものだ。
 もちろん、リアルなタバコをスパ~ッと一服したときの充足感にはまったくもって程遠い。でも、従来の禁断症状が「1分たりとも我慢できない」ものだったのが、パッチを貼っていると「15分くらいならまぁ我慢できるかな…」というようにはなる。その15分を、自分をだましだまし積み上げて、まず1日中そして次の1日中と経過させていく。


 そんな地道な徒歩旅行のような治療法だから、その人自身の意思と工夫はどうしても不可欠となる。工夫の面では、僕の場合、とても力強い支えになったツールが2つある。

 まず「禁煙者のブログ」である。
 例えば「禁煙 3日目」「禁煙 1週間」「禁煙 1カ月」とかで検索すれば、禁煙の実録を記したブログがけっこう出てくる。僕は禁煙日数の節々でそうした先達たちの生の声を読みながら、「5日目ではまだ相当つらいんだな。でも無理やりでも乗り越えれば、この人はいま3年も禁煙できているんだからすごいな」とか、「この人は2カ月目で大丈夫と思って試しに吸ったら、結局は普通の喫煙に戻っちゃったんだな、いつまでも油断できないな」とか思いながら、大いに励みと戒めにしていた。
 こういう、自分の禁煙日数と同じ局面と、その人の結果までがある程度分かることが、ブログならではのメリットである。

 僕のもう一つの支えのツールとなったのが、「フリスク・ティー」(上の写真)である。
 これは苦いくらい濃く入れた紅茶に、ミント菓子のフリスクを5~6粒ほうり込んで溶かしただけのもの。これがけっこう刺激感が強くて、口さみしさや、喉の刺激への希求を若干はまぎらわせてくれる。期待し過ぎなければ、まあまあの効果はあるかなという程度だけれど。


 いま、禁煙2年半を超えて僕が思えるのは、「タバコには本当に何の利点もなかったな」という、しごく当たり前のことだ。
 以前はタバコには、ストレスからの解放感とか、リラックスできる爽快感とか、欠かせないメリットがあると思い込んでいた。ところがそのストレスは何かというと、要は体の中でニコチンが切れかかったときの不快さである。リラックスできるというのも、これも「吸わないことにはどんな時でもリラックスできない」という依存状況に陥っていたからだ。
 タバコの利点と信じていたのは、単に「タバコによる自作自演の茶番劇」だったわけである――。話は飛ぶが(かなり飛躍するが)、人生やこの世の中には、「利点があるから絶対に手放せない」と執着しているけど実は幻想にすぎないものって、ずいぶん多い。
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kinnen

 週1度通うヨガ教室から帰ってきました。(男性は1人でした…。その状況にもう慣れてるけど)

 振り返れば、僕の今の生活スタイルは、数年前にヨガを習い始めたことがそもそもの転機になった。そこからダイエットして長年の小太り体型から脱却し、何度も失敗していた禁煙に成功し、そして一日も抜けなかったお酒も飲まなくなった。
 体調が格段に良くなったのはもちろんだが、僕にとって最大の成果は、タバコやお酒という手放しにくいものを「手放すことができた!」という経験そのものである。その経験が自身に刻まれたことで、人生の展開もかなり変わってきたように思える。
 ――ということで、またもブログタイトルから少々離れてしまうかもしれないけど、今回は禁煙の話をします。


 「禁煙なんて簡単なものさ、私なんてもう百回以上している」という米国作家の名文句があるように、僕も2年に一度くらいのペースで禁煙を決意していた。
 でもその一大決心の数日後(ときには数時間後)、常人には耐え切れない禁断症状の巨大波に襲われ、それを乗り切るための緊急的最終手段として、タバコとライターを買ってきて「どうしてもやむを得ない1本」を吸った。そしてニコチンが充足して血管収縮したその手で、箱に残った19本のタバコとライターをごみ箱にバッと捨てた。
 「残念だけど仕方ない、でもこれで大丈夫」と自らに言い聞かせたのもつかの間、再びつらい禁断症状が出たときにまたタバコとライターを買ってきて、今度はモッタイナイからと2~3本吸って…と、毎回そのような情けないプロセスを経て平常の喫煙生活に戻っていった。20年以上も、繰り返し。

 自分にはもうタバコをやめるのは無理とあきらめずにいられなかったが、ところが今では、無事に禁煙2年8カ月を迎えている。なぜ成功に至ったかというと、単純な答えなのだが、病院の「禁煙外来」に行ったからである。(当時僕はサラリーマンで、禁煙外来の治療費は会社が負担してくれた。今の時代、同様の制度がある会社も多いのでは)
 喫煙のことを生活習慣とも言うけど、あれは習慣なんて軽々しいものではなく、ニコチン依存症というれっきとした「病気」である。たとえば鬱とか腰痛の症状を「意思の力」だけで治そうとしても難しいのと同様、ニコチン依存症も現代医学の助けを得て治療したほうが効果的であろう。ただし、奥さんとかにいやいや病院に連れて行かれるのはダメで、自分が病気であることを認め、主体的な意思で赴くことが肝要だ。


 上に出した写真は、禁煙外来で処方されたニコチン貼付薬についていた「禁煙カレンダー」で、1日1枚ずつシールを貼っていくという、要は小学生のラジオ体操はげみ表みたいなものだ。
 ところがこんな単純な表が、どれほどの励ましになったことか…。5分くらいで終わるラジオ体操と違い、禁煙は起きている時間すべてをかけた闘病である。その1日の攻防に見事打ち勝った誉として貼られるシール1枚には、まさしく千鈞の重みがある。「昨日まで貼り続けたこのシールを、きょうここで裏切るわけにはいかない!…」と、たすきを受け取った駅伝走者のような使命感で、一日一日を積み重ねてきた。

 そうして半年から1年ほど経って、自分で「もう大丈夫」といえる離脱の状態になれた。
 再発するかしないかが100%自分だけにかかっていることが、ニコチン依存症のあえて幸いな点でしょうね。もう僕は生涯二度と、あの禁断症状のつらさを味わいたくはない。
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arakawa
 きのうは、都内の荒川沿いをウォーキングしてきました。
 湿った涼しい風が吹きわたり、だだっ広い河川敷の原っぱには野鳥が飛び交って、堤防の外側には、ビル群の無数の窓が見渡す限り遠くまで連なっている――。

 荒川のほかに、江戸川や多摩川などにも、よく僕はウォーキングに出かける。これら大河川には、東京としては並外れて見晴らしがいい歩行者・自転車専用道が、もう歩き飽きるほど延々と続いている。東山魁夷の初期の代表作に、一筋のまっすぐな道が地平の彼方へ伸びた「道」という絵があるけど、まるでそのアングルそのものである…。

 どこまで行っても、周囲には目移りするような面白いものはあまりないし、一本道だから地図を見て行程を確認する必要などもない。そういう、なんにもない所をひたすら何時間もウォーキングすることのメリットは、何より思考との同一性を断ち切りやすいという点にある。
 「瞑想とは、思考の背後にある空間のことだ」とも言われるけど、ほとんどものを考えないで黙々と歩き続けているうちに、まさに自分が景色の中に境目なく広がる空間そのもののような存在になってくる。その空白スペースの中に、思考がやって来ては過ぎ去っていったり、自分が「歩いていること」が今ここにただ起こっているのが分かる。

 また、クリアな意識でガシガシとウォーキングしていていると、明らかに自分が「浄化されている」という感じがする。腹の底に鬱積してくすぶっていた感情エネルギーがだんだんと燃焼されていく。身体を活動させ人生をいとなむパワーが、降り注ぐように供給されている感覚がする――。

 ウォーキングが浄化にいいという話が、断片的に紹介されることはあるけど、一冊の本として解説されたものはないようだ。詳しく調べたわけではないけど、あまりに単純すぎて、体系的でボリュームある内容にならないからだろう(同じようにシンプルな呼吸法については、数多くの解説があるのにね)。でも歩くことは単純極まりないからこそ、特定のデトックス・メソッドよりも着実な効用が、何かあるのかもしれない。
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 「男子たる者、書斎を持つべし」という言い方があるけど、僕としては書斎よりもぜひ「座禅コーナーを持つべし」とお勧めしたいですね。もちろん男子たる者に限らず、女子でも結構です。


 写真はうちの座禅コーナー。別に大がかりなものではなく、自分の部屋の隅っこに半畳の畳を置いて、側面に仕切りを設けたというだけ。かかった諸費用は次の通り。

  ◆半畳サイズの畳マット(ネット通販で2000円)
  ◆座禅用の丸い座布団(ネット通販で3500円)
  ◆仕切り用の和風ロールスクリーン(ホームセンターで1500円)
  ◆線香立て(100円ショップ) ――以上

 安上がりのわりには、世俗的生活色満載な自宅の中にあって、明らかに一線を画した閑寂な趣がある。ここに座ると、周りから隔絶されたように、集中して自分の内側の深くにすっと入っていけるところが、なかなか良い感じだ。
 しかも自分の家の中だから、寺の座禅会や瞑想リトリートなどに参加するときよりも、心底からリラ~ックスしてくつろげるのも大事な利点。まるでトイレやお風呂に行くような感覚で、「ちょっと座禅でもするかな」と、生活の一部に組み込める。

 場所もほとんど取らないから、どんな部屋でも棚やベッドの置き方などを多少工夫すればで、作れるんじゃないかな(以前に3畳ほどの狭い物置部屋の中に作っていたこともある)。立って半畳、寝て一畳と言われるけど、人の物理的身体を置くには、その程度の広さがあれば十分なんですね。
 でもそんな小さな空間から、実体のない壁を突き抜けるように、遥かな魂のホームランドへとふわーっと広がっていく――。この対比的な感覚が、大切なことへの気づきをもたらしてくれたりもします。


 …っと、タイトルに「行為のヨガ」を示しておきながら、いきなり真逆ともいえる、動かない座禅がテーマになってしまった。 まぁ、いいか…。
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 こんにちは。 光奈広大(みつな・こうだい)といいます。
 つい昨年までサラリーマンをしていましたが、大きな決心をして、長く勤めた会社を辞めました――。


 「金持ち父さん」とか「黄金の羽根」と呼べるレベルでは到底ないけれど、家族の生活をしばらくは維持していける程度の蓄えはあるので、今は何の肩書きも予定も持たず、24時間・365日を自分の自由に使うという、大方の40代男性なら経験しないような人生の一時期を楽しみながら過ごしている。

 でも、日々好きなように生きるといっても、僕にとって真に心地良いと感じるのはどんな時かといえば、海外旅行とか消費活動ではなく、実につましいことに「普通の日常生活」である…。
 朝は早めに起きて澄み通った空気を味わい、家の中をすっきり片付けて洗濯物をババッと干し、あっさりしたシンプルな家庭料理を作ったり、テレビやケータイなんか見ずに魂に呼びかけてくるような本を読んだり、自然の中をウォーキングしたり、自室で静かに座禅をしたり、たまにうつらうつら昼寝したり、週に一度ヨガ教室に通ったりと――。
 そんな飾り気ない穏やかな毎日を繰り返していると、「あぁ、こうしてしっかりと地に足をつけながら、今の人生をまっとうしているな」と、惑うことなく確信できてくる。


 そういう中で行き当ったのが、ヨガの一分野である「カルマ・ヨガ」というもの。これは、「日常のあらゆる行い」をヨガとしてとらえ、小さな活動の一つひとつに最善を尽くすことによって、自らを浄化して意識を向上させていくという考え方だ(ちなみに「カルマ」という言葉は、単に「行為」の意味)。
 これを知って、自分がしたいのを突き詰めると、要はこういうことなのだなと感じた。

 もっとも本来のカルマ・ヨガは、無私の奉仕精神で自らの仕事に献身し続けるという、厳しい態度で臨むものらしい。僕みたいに、勤労世代の真っただ中で会社を早期リタイアして、平日昼間から気楽に外をウォーキングしているようでは、はなから論外である。
 ただ「十字架の道」的な厳しい修行の考え方は、やはりもはや旧式と言えるのではなかろうか…。

 日常に接する人や行う物事のすべてを、「喜びや愛を表現するための機会」「本当の私を見出し、ワンネスの意識へと進化する大切なきっかけ」というようにとらえて、楽しみながら日々流れにゆだねていくほうが、みずがめ座の恩寵時代にふさわしいんじゃないかなと思う。


 ――というわけで、僕にとってのカルマ・ヨガ的な日々について、少しずつ書き連ねていきたいと思います。
 「こんなのはカルマ・ヨガではない、暇な主夫の身辺雑記じゃないか!」なんて指摘されそうだけど、「この人は自己流のヨガをやっているんだな」くらいに思ってもらえればうれしいですね。 web拍手 by FC2
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プロフィル

Koudai Mitsuna

Author:Koudai Mitsuna
 
光奈 広大(みつな・こうだい)

 20年のあまりのサラリーマン生活を経て、いわゆる「ザ・マネーゲーム」を何とか卒業。今では束縛されない自由な日々を存分に味わっています!

 そうした中で心がけているのは、普通の日常的な行いを通じて、意識の進化を目指す「カルマ・ヨガ」。

 日々の喜びや学び、インスピレーションから得たスピリチュアルな気付きなどをブログで紹介しています。

 妻子と都内在住――。





http://facebook.com/koudaimitsuna

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