フロントページ   »  2012年06月
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
 


 「言葉というものは、あくまでも『道しるべ』にすぎない。それが指し示すゴールは、思考の次元では見つけることができないのだ。それにひきかえ、人の内なる次元は、何と深遠で広大無辺だろう!」
 ――これは、エックハルト・トールの言葉です。


 スピリチュアル系の優れた本を読んでいて最も素敵な瞬間というのは、書かれてある言葉がまさに道しるべとなって、それが読み手に対して指し示している「広大無辺な次元」を、自らの内側にハッ!!と感じとった時であろう。

 禅には「転語」という用語がある。人は通常、注意を自分の側から、外側にある本や話されている言葉の方へと向けている。けれど、その注意が瞬間的に正反対の方向に転じて、注意の源である自らの本質を認識する――、そんな逆転をもたらす言葉を「転語」というらしい。

 これと同じことを、言葉を使わずに動作によって指し示すのが、ダグラズ・ハーディングの「The Headless Way」だろう。これはツボにはまる人にとっては、人生で初めて経験するほどの感嘆とともに納得してしまう。単に「腑に落ちる」のではなく、「それ」そのものになれてしまう。


 芸術作品でも、そんな現象が引き起こされる――。

 ゴーギャンの代表作「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」は、絵の中に人間の誕生や人生の活動、そして死の場面が描かれている。しかし、描かれない形で、この作品に最も鮮烈に意味づけられているのは、タヒチの地で人間生命のいとなみや生滅する姿をじっと見つめる、キャンバスのこちら側にいるゴーギャン自身のプレゼンスなのではないだろうか…。

 つまり、目の前に映る情景を描きながらも、この作品が一番の主題としているものは、絵の手前にぽっかり開いた何もない広い空間、つまり「これを見つめている私」というものだと思う。

 そしてこの絵を眺めている人は、今ここにいる自分自身のプレゼンスと、描いた画家のプレゼンスとの間に、一切の差異や隔たりがない同一のものだという、当たり前のような不思議さを経験させられることになる。

 そんなことを言ったら、あらゆる芸術作品に同様のことが当てはまるではないかと、指摘されるかもしれない。その通りだと思う。
 そして「我々はどこから来たのか―」の作品を、主体的な自分バージョンでやっているのが、まさしくこの人生のこの日常生活というわけだろう。


 前掲のエックハルト・トールの言葉にこうある。
 「『そこに書かれていること』よりも『そこに書かれていないこと』、すなわちそれが指し示すことのほうがはるかに重要なのだ」
スポンサーサイト
  ☞ コメント:0

 
sumomo.jpg

 ふだん私たちは四六時中、何かを見たり誰かの話を聞いたりはしてはいるけど、真の意味での「見る」「聞く」ができる機会というのは、ほとんどない、と言われる。
 そのことは、「味わう」に関しても同様だろうと思います――。


 以前、ヨガのリトリート旅行に行ったとき、食事はすべてが自然食品による菜食メニューだった。菜食自体は別に珍しいことではないけど、この時は、食材は地元で自生しているものか、ないものは多少高価な無農薬・無肥料の農産物を取り寄せるなど、素材へのこだわりが、他のリトリート旅行では経験したことのないほど徹底したものだった。

 山で摘んできたウドやクワの葉の新芽の天ぷら(クワの葉って人間でも食べられるなんて知らなかった)、庭になっているパパイアの炒め物、歯ごたえのしっかりした切干大根と野菜の煮物、味付けは野趣に富む香りの塩こうじ、目の前の磯で取れた海藻の味噌汁、季節のヨモギと黒糖で作ったお菓子――。
 どれも口にすると、生き生きした素材の宿すパワーがあふれ出てきて、かみしめるたびにそのエネルギーが体中にじんわり染み渡っていく感じがする。

 あぁ、なるほど、そうだったのか、「味わう」とはこういうことだったのか…。単に味覚の領域だけではなくて、大地のエネルギーを体に受け取る喜びと心地よさの経験、そのことを「味わう」というのだ。
 40年以上も毎日色々なものを食べてきたけど、こんなことを深く知らしめられたのは初めてといえる。


 それまで菜食メニューは「やや頼りないもの」と頭の片隅で思っていたが、全くそんなことはないということも、このとき心底思い知った。肉類が入り込む余地なんかないほど、パワーに満ちたものだった。
 その後も他のリトリートで菜食メニューを口にしたけど、ただどれも「単に肉を使ってない料理」という感じで、パワーがあふれ出でくるような感触が乏しかった(ちなみに材料は普通のスーパーなどで買ったもの)。
 極端に表現すれば、かみ終わって味の抜けたガムをかんでいるみたいに、中身がスカスカな感じすらした…。

 高くていいウニを食べたら、もう安いウニは食べられないなんていう話を聞くけど、そういう「後戻りできない」という性格は、けっこう野菜の味わいのほうがはっきりしているかもしれない。
  ☞ コメント:0

 
tamagawa.jpg

 先日、人の体の自然治癒力に関する本を読んだ。
 その本は、食生活や病気治療などについては、かなりのページを使って細かなアドバイスが書いてある。一方で、日ごろの運動については、たった1項目「ただ一言、歩け!」という簡潔な解説があるだけだった。

 つまりは、長い能書きを述べる必要もなく、ウォーキングほど体の治癒力を高めてくれる運動は他にないということだ。ボールを使ったり相手と対戦したりといったスポーツの各種要素は、(治癒力に関する限りは)全く余分な要素といえる。


 健康面の効果はもとより、「始めやすさ」や「続けやさ」においても、ウォーキングの右に出る運動はないだろう。よくランニングと比較されることがあるけど、僕自身の考えているウォーキングの優位点は次のような感じだ。

装備が楽!
 ウォーキングは運動中も体温がそれほど上がらないので、冬場はダウンジャケットやセーターなどを着たままできる。ボトムスも、多少伸縮性のある生地なら、ジーンズのままでも特に問題ない。電車でどこかへ行ってからスタートする場合に、防寒着をどこに脱いで置いておくかのなどの段取りを、全く考えなくてもいいのは楽だ。

故障知らず!
 ランニングに比べ膝や足首への負担が小さいため、めったに故障しない。何年も安全に継続していうくえで、この利点は大きい。ちなみに、かつて僕は自転車で東京から京都まで走ったことがあるけど、このときはサドルに載ったお尻が紫色に腫れて、二度と自転車にまたがるものかという気持ちになった。そんな、「もうやめてやる!」なんて思うきっかけも、普通にウォーキングしている限りはまずない。

時間のぜいたくを満喫!
 ランニングの場合なら20kmを2時間弱で行けるだろうけど、ウォーキングだと4時間近くかかる。40kmだと7時間くらいはずーっと体を動かし続けることになる。長距離を歩いている最中は「走ったほうが楽なんじゃないか?」とさえ思う。それでも、あえて歩くところが良いのだ。有閑層の船旅に相当する、「時間のぜいたく」を満喫できる運動が、ウォーキングだと考えている。
  ☞ コメント:0

 


 時期はずれですが、桜の話です。

 桜(ソメイヨシノ)の開花といえば、一本の木まるごと、あるいは桜並木の全体が一斉に咲き誇る壮麗さが魅力。町のそこかしこでそんな景色を目にすると、「あぁ、春が訪れたな」という新鮮な感慨が浮かんでくる。


 で、今年の3月末に、鹿児島県の奄美大島に旅行に行った。
 出発前に「いま東京が開花前だから、向こうはちょうど満開では?」と考えて調べてみたら…あれれっ? 奄美大島の開花予想が出ていない。
 気象協会の説明を見ると、桜の開花予想の対象は「沖縄・奄美地方を除く全国」ということになっていた。

 暖かい地方ほど樹木の育ちが良くて開花も早い、という単純な性質ではないのだ――。
 実際に奄美に行ってみたら、ソメイヨシノの木はあったが、咲き方が本州などで見るのとは明らかに違っていた。
 葉っぱがすでに茂っている中に、ところどころにつぼみや花を付けていて、何だかやる気があるのかないのか分からないような、変な咲き方だった…。

 ちなみに調べてみたら、沖縄にも植樹されたソメイヨシノがあるらしい。そちらは、ずっとつぼみも葉も付けることなく、細い枯れ木のような姿で、育たないまま眠った状態でいるという。


 ソメイヨシノが花開いて生長するには、冬がどうしても必要なのだ。
 寒さの厳しい季節のあいだ、桜は葉を落とした裸木になり、幹の内に生気を充足させてじっと静かに待つ。気温がゆるむや、パワーを一気に外にほとばしらせて開花。それから葉を青々と茂らせて、盛夏のエネルギーを受けながら、堂々たる樹木になっていく。
 寒い冬がないと、この「成長サイクル」へのスイッチが起動しないらしい――。

 神田昌典さんの本で、人生のサイクルの中で「冬」は大切な時期であるという話があるけど、まさにそういうことなのだろう。
 またほかに、「この地球ではネガティブな経験が可能だからこそ、浄化や進化が効率的にできる」といった説明をする人もいるけど、これも「冬があるから開花できる」という桜の性質を考え合わせると、確かにそうかなと思える。
  ☞ コメント:0

 


 戦前に書かれた「子桜姫物語」という、すごく古いチャネリングの本を読んだ。その中に、鎌倉・鶴岡八幡宮の大銀杏にやどる老妖精と対話する話が載っていた。
 鶴岡八幡宮の大銀杏といえば、樹齢千年のご神木で、「鎌倉の顔」とも呼ばれたものだ。だが、数年前の強風の日に根元からばったり倒れ(写真)、人々を驚かせるニュースになった。

 往年に行われたこの対話で老妖精は、八幡宮よりも古くから鎌倉の歴史を見つめてきたことや、この木が多くの神々によって加護されているという内容を語っている。
 ――それだけの木が突然に倒れたわけだから、特別な意味があったのかもしれないな、そういえばいつのことだったかな…、などと思ってちょっと調べたら、大銀杏が倒れたのは2010年3月10日。東日本大震災の1年と1日前だった。


 僕の頭にふと、根拠のないある推察が浮かんだ――。
 ひょっとしたらあの大震災は、現実に起こった規模をも上回る、さらなる大難になるはずだったのではなかろうか? 首都圏沿岸への大津波を伴うスケールで、まさに起ころうとしていたのではないか。
 神々が守る千年の大銀杏は、この地に降りかかろうとする運命を前もって察していた。そして、しかるべきタイミングで自ら身代わりとなって倒伏することにより、起こるべく運命のエネルギーを打ち消し、鎌倉や東京に甚大な災禍が及ぶのを防いでくれた、のかもしれない。
 古来の「陰陽五行」的にいえば、木が土(地異)を剋した、ということだろうか。

 ――こんな話は全くの空想ファンタジーの域でしかないだろうけど。でももしかして、何らかの恩寵による守護の力によって、予定された「大難」がある程度の「小難」へと変更されつつ意識の進化を迎えられるとしたら、それは多くの人々にとって望外に素晴らしいことではないかと思う。
  ☞ コメント:0

 
biwa.jpg

 妻が、「傷みかけたビワが安かったから」と、山盛りで買ってきた。
 小ぶりのビワ20個くらいで100円というから、ものすごく安いのは確かなのだけど、無傷な実はほとんどなく、中には実の半分くらいがぐじゅぐじゅに黒ずでいた――。

 「この状態でこの個数をどうやって食べきればいいんだ?」と思っていたら、翌日に妻は、こともあろうか大きなスイカとパック入りのキウイフルーツまで買って帰ってきた…。スイカは早く食べないともたないし、昨日買った傷みかけのビワの方は、もはや朽ちるにまかせるしかないか――。

 で、ちょっと考えて、ビワのきれいな部分をまとめてシロップ煮にして、ゼリーを作ってみた。まがりなりにも生フルーツから作っただけあって、これは相当な完成度の一品に仕上がった。自宅でパッと作ったというのがウソみたいな、とても上品なおいしさだ。


 よく主婦の人が「だんなが大量の特売品とかを何も考えずに買ってきて困る!」なんてグチを言うのを聞くことがあるけど、うちの場合はその逆の立場かもしれない。

 僕は「足りないもや必要な品物は何か」という視点でまず買い物リストを作り、それを持ってお店に行く。一方で妻は、店の中で目に付いたものを「これは安い」「たまにはこんなものも」といった感じでヒョイヒョイ買ってくる。それでも賢く使い切れるなら構わないけど、残念ながら無計画なうえ調理による処理能力も及ばない。

 その結果、買いすぎた食品が古くなって捨てるとき、以前は妻に対してすごく怒っていた。でも今は、その僕自身の怒りこそが「手放すべき余計なもの」だと考えている。
 たとえば、妻が食品を過剰に買い込んでしまった時に、たまたま東京が震災に襲われて流通網が絶たれ、食料品を全く購入できない事態になったとしたらどうだろうか――。家の中に残っている食べ物を有り難く口にし、消費期限が過ぎようが果物が半分痛んでようが「多く買っておいてくれて良かった!」と妻に間違いなく感謝することだろう。過去に怒っていたことなんか、すべて帳消しにして。

 そういう「感謝の可能性」がわずかでも包含されているのに、自分で一方的に決め付けて相手を責めるのは良くないといえる。
 そもそも「感謝の可能性」が完全にゼロだと確定できる状況は、普通の日常にはほとんどないだろう。――そんな考えで生活していると、自分の感情も生き方もとても軽快になる。
  ☞ コメント:0

 
tomato.jpg

 サラッとした甘いトマトジュースというのを最近飲んで、「これをゼリーにしたらおいしいかも!」と思って、作ってみました。
 うちのゼリーとしては新境地とも呼べる味わいになり、ミントの葉などを載せたら一層さまになりそうだけど、コストの関係でそれは割愛。


 こんなふうに、スーパーなどで目に付いた飲み物でゼリーを作っては、夏場の「比較的低カロリーで比較的満足のゆくおやつ」にしている。
 最近多いゼロカロリー飲料を材料にしたら、ほぼゼロカロリーのデザートも可能だ。でもだいたい1個20~70kcalだから、あまり気にし過ぎずに好きなもので作って、他の食事や運動で調整すればいいでしょう。

 オレンジジュースとかグレープフルーツジュースとか、どんな飲み物でも固めてゼリーにすれば、「だいたい予想通り」の味わいにできる。フルーツの中では、マンゴージュースはかなりいける。あまりゼリーにしないようなものとしては、甘酒(これは絶品!)、抹茶ミルク、飲むヨーグルトなんかはとてもおいしい(いずれもカロリーは高めだけど)

 また炭酸飲料で作ると、シュワッとした味わいがして美味。ただし作るときに加熱するので、炭酸がだいぶ抜けてしまい品質は安定しない…。あと缶のメロンソーダなどは、加熱してゼラチンを加えると、乳性分がムラムラに凝固してしまって見た目が悪い…。


 人によっては「ゼリー作りなんて子供の向き」あるいは「手間が面倒くさい」なんて言われるかもしれない。でも、文字通り「身を削る」ような思いのダイエット生活に、多少なりの創意と味わいの楽しみが加わるというのは、よろしいんじゃないでしょうか――。
  ☞ コメント:3

 


 ダイエット生活のおやつは、低カロリーな手製ゼリー!

 先日に作ったピーチ・ティーのゼリーは、子供も「やばっ!」を連発しながらツルリと平らげ、すぐに売り切れました…。

 ゼリー作りで目指したいのは、まさにその「やばい」食感だ。
 ゼリーを固める材料には主に寒天とゼラチンがあるけど、僕はこの2つをミックスして作っている。寒天の口当たりはクシュクシュッと崩れるような感じで、ゼラチンは粘性のあるプルンプルンした感じ。両者の異なる持ち味を、いいとこ取りしようという意図だ。
 そして洋菓子店のゼリーみたいに、透明感があってフルフルにやわらかくて、舌に載せるととろけて広がるような味わいにしたい――。

 それを目指して色々と配分を変えながら作ってみた結果、ジュース500ccからゼリーを作るとき、「粉寒天を1g弱+粉ゼラチンを5g」が黄金比である、というところに落ち着いた。
 ただちょっと面倒なのが、寒天とゼラチンとでは、溶けたり固まったりする温度がかなり違うこと。そのため以下のような手順をたどることになる。

1) ゼラチンを溶かす
まず材料になるジュース500ccのうち、100cc弱を小さな器に入れ、そこに粉ゼラチン5g(ゼライスの小袋1つ分)を加える。電子レンジで20秒ほど加熱すればきれいに溶ける。(加熱しすぎると、吹きこぼれるので注意)

2) ジュースを温める
残りのジュースを鍋に移して火にかけ、熱めに温めておく。もしジュースの温度が低いと、後で寒天を加えた時に、固まりのムラが出てしまう。

3) 寒天を煮溶かす
別の小さな鍋に水100ccを入れて火にかけ、そこに粉寒天1g弱(小さじ4分の3くらい)と砂糖をスプーン1~2杯加えて、混ぜながら溶かす。しっかり沸騰させた方が、寒天がなめらかに溶ける。
(砂糖を入れるのは、ゼリーの味が薄まって水っぽくならないようにするため)

4) 混ぜ合わせる
温めたジュースの鍋に、溶かしたゼラチンと、溶かした寒天を一通り入れて混ぜ合わせる。

5) 冷やして固める
ゼリーの器におたまで分け入れる。表面に浮いた泡はスプーンできれいにすくい取る。水を張ったバットに器を入れて常温までさましたら、1つずつラップをかけて、冷蔵庫に入れて冷たくひやして固める。

 ――ゼリーごときに面倒だけれど、慣れれば、後片付けの洗い物まで含めて、全工程20分くらいかな…。

 で、何より大事なのは、こうした調理の最中も、余計な思考が頭の中を占領してしまわないよう明晰な意識をしっかり保つこと。そして感謝の気持ちや、食べる人(家族)への思いをハートに抱き、自分の手足がハートから直接伸びている感覚で作業をする、ということだ。
 これでカルマ・ヨガらしい調理になる。

 だが数品目を同時に作る夕食メニューとなると、どうしても明晰さやらハートがおろそかになり、単なる忙しい日常の無意識状態になってしまう…。
 まずはゼリーくらいが適度なのかも。
  ☞ コメント:0

 


 「甘い食べ物とどう付き合うか」は、ダイエット生活の眼目のひとつですよね。

 菓子類を悪魔ばらいのごとく徹底排除する手もあるけど、味覚の楽しみや充足感を得るためには、なんかちょっとは口にしたいものだ。

 ということで、僕はよくゼリーを作っている。
 きょう作ったのはピーチ・ティーのゼリー。ほかにも手軽な方法として、既製品のジュースで「これをゼリーにしたらおいしいかも」というのを買ってきて、寒天とゼラチンで固めている。

 ジュースをコップ半分だけ飲んでもまず満足できないけれど、同量のゼリーだとそれなりに「食べた感」が得られるのだから有り難いもんだ。しかも寒天は食物繊維、ゼラチンはコラーゲンが豊富だから、栄養面でもジュースよりアドバンテージが加わる。
 自家製ゼリー100gあたりのカロリーは、材料によって20~70kcalほどだから、これは他の甘い菓子(アイスクリームやケーキ、チョコ、まんじゅう等々)にくらべ画期的に低い。

 ゼリー作りはそれほど手間もなくシンプルだけど、固まるという現象が調理科学的になかなか面白みがある。色々な種類のものをバラエティー豊かに作れるところも楽しい。
 ――そんなことも追い追い紹介してみたいと思います。
  ☞ コメント:0

 
2bunko.jpg

 今年1月、これまで病気をしたことのなかった父親が突然高熱を出して寝込み、うろたえた母親から電話があって、たまにしか帰省しない関西の実家に急に帰ることになった。最悪を想定して黒いスーツも持って帰ったのだけど、結局はすべて杞憂で、普通のインフルエンザでした…。

 で、そのとき、実家の中であまりに暇だったから、本棚を何かないかと探していたら、自分が高校生の時に買った文庫本の遠藤周作「イエスの生涯」が出てきた。定価280円で消費税はまだ無し。安いですね。こういう古いモノを取って置いてあるところが、さすが田舎である。
 この本、高校生の頃は何も感じぬままページ繰った記憶しかなく、内容は全く覚えていなかった。でも、いま読んでみると、ものすごく面白いではないか――。


 イエスはなぜ処刑されたか。 当時の民衆は、ユダヤを救う指導者になるかもしれぬという熱狂的な期待を、イエスに託した。また貧者や病人たちは、効力ある奇跡を要求した。
 ところが、イエスが行ったことは、ただ「神の愛」について語るだけだった。「愛」というものは、現実的には全く役に立たない、無力なものだ…。
 人びとはイエスに幻滅し、期待外れの預言者、何もできない男として見捨てた。そしてたらい回し的な政治対応の中で、最終的に処刑されてしまう。

 この本を、この年初に改めて読む機会があったのは良かったと思う。
 今年か来年か、ずうっと先かは分からないけど、もし人類に進化を促す出来事が起こるとすれば、それは「愛」について伝える何かであろう。宇宙の源泉が「愛」であるならば、そこへ回帰するための進化は、やはり「愛」を通じてしかあり得ないはずだ――。
 でもそれはひょっとしたら、かつてのイエスの教えと同様、人が期待して待ち望むようなものではないかもしれない。見たら幻滅してしまうような、つまらなく映るものかもしれない。

 もしもその時、「結局は『愛』だなんて…、たったそれだけ?」なんてがっかりしたら、イエスが処刑された時と同じことの繰り返しになってしまう。
 2000年を経て、人はどれだけ学んだのか、そして自らを何者であると宣言できるのか、それを最終的に問われる場面に、遠からず立つことになるのだろうと思っている。
  ☞ コメント:0

 
22sanpo.jpg

 いろいろな宗教に、古くから「巡礼」の習わしがあるけど、その目的って、聖地に立つことと同じくらい、途中の「歩く」ことによる浄化の効果が意図されているのではないかなと思う。

 僕は週に一度ヨガを習いに通っているけど、自宅から教室までの距離は片道3.5kmある。いつもその道をゆ~くりと歩いて通っている。だいたい一時間半かけているから、お年寄りよりも遅いくらいかもしれない。
 川沿いなどを長距離ウォーキングする時はけっこう速いペースだけど、一方でこの街の中をゆ~くりもなかなかいいもんです。心にざわめく波や静けさをはっきりと見つめられるし、そして歩く動作によって、解放されるべきエネルギーが少しずつ外へ出て行く感じがする。

 ヨガに加えて、往復7kmのウォーキングで、都会にいながらも本当に心身がスッキリしてくる。
 何か楽しみの用があるとき、「おまけ」のウォーキングを付けるのは、人生のちょっとしたプラスになりそう。ま、暇な人か、時間に余裕があるときにしかできない「健康的ぜいたく」でしょう。
 
  ☞ コメント:0

 
3tsukin

 「毎日、朝と夕に瞑想の時間を持つようにしなさい」というアドバイスが、色々な本に出てますよね。
 僕は、サラリーマン生活の中で、その習慣を4年ほど続けてきた。

 どうしたかというと、通勤電車で瞑想していた。東京での通勤だから、行き帰り1時間ずつの時間が決まって確保される。その間、イヤホンで瞑想CDを聞きながら、じっと「立禅」していた。(降りる駅を乗り過ごしてしまうほど深い瞑想ではないけれど…)

 通勤電車での瞑想には、音楽が入ってないいわゆるバイノーラル・ビートのCDの「Insight」や「Hemi-Sync Meditation」「Brain Massage」などを聞いていた。まぁ、場所が場所なので、CDの効果よりも、周りの騒音をシャットアウトする役割の方が大きかったかもしれない。


 大都市の会社で働いていると、その毎日せき立てられるような生活スタイルが、瞑想には縁遠いと思われる。だが、山上の垂訓っぽく表現すれば、「東京のサラリーマンは幸いである」といえる。

 まず前述のとおり、朝夕の通勤電車での長い時間を、瞑想にあてることが可能なことだ。日課として根付かせていく上で、これはとても恵まれた基盤といえる。地方で車を運転して通勤している場合、そのようにはいかない。
 ちなみに筋肉の運動量に関しても、どこへ行くにもすぐ車という地方の生活者に比べ、歩いて駅まで行って乗り換えで階段を登り降りする東京の生活者の方が、日常の運動量が多くて健康面に良いという話を聞いたことがある。よく「通勤地獄」と表現されるけど、そのマイナス面をプラスに生かすこともできるわけだ。(劇的な混雑路線の場合は、通勤時間を早めた方がいいだろうけど)

 もう一つの貴重なポイントといえるのが、通勤時の精神状況である。朝、会社に向かう多くのサラリーマンの心の内というのは、まるで十字架を背負ってゴルゴダの丘へ歩んでゆくように、重く苦しいものだ(…このたとえはちょっと違うかな。でも現実に、通勤途上で倒れたり自殺してしまう人もいるくらいだから)
 人が悟りを開くきっかけになる出来事として、「三トウ」と呼ばれるものがある。それは「倒産・闘病・投獄」で、不慮の悲劇に遭うことで、外側世界への一切の執着を放棄し、覚醒に至ることがあるそうだ。
 日々の通勤時間というのは、この三トウの「緩慢なプチ版」と言っていいかもしれない。そういう時こそが、瞑想する時間として天が配剤したものだ、なんて考えてみよう。
  ☞ コメント:6

 
3cd

 自宅で瞑想するときは、「OSHO」の瞑想CDをよく使っている。
 インドの神秘家OSHOについては、日本にも帰依したお弟子さんがたくさんいるし、部外者の僕は詳述できる立場では全然ないけれど、まぁ、自分のお気に入り音楽の紹介くらいの説明を…。


 その瞑想法の特色は、ただ静かに座るだけではないこと。最初に体を動かしたり声を出したりして、ごちゃごちゃした想念とか鬱積したエネルギーとかを解放してから、次にスキッとした状態で瞑想するというパターンだ。
 確かにその完成度はすごく高くて、何年も修行して得られるような内側の深い静けさを、短時間で体験することが可能といえる。

 OSHOの瞑想CDは何種類もあるけど、中でも最も効果的なのが「ダイナミック瞑想」だろう。ただしこれは、東京の集合住宅の中で行うには極めて不向きである。近隣の人から「狂乱者が暴れている!」と警察に通報されるおそれも大きい。
 日ごろよく使うのは、体を揺さぶる「クンダリーニ瞑想」と、ン~という声でハミングする「ナダブラーマ瞑想」だ。でもこれらも、妻子に見せるのははばかられるため(不法薬物による発作か、怪しい新興宗教に入ったように思われてしまう)、自宅で一人になったときに行うようにしている。

 どんな瞑想法がしっくりくるかは、まるで料理の好みと同じくらい、人それぞれのようだ。僕は前述のナダブラーマ瞑想のように、「ン~」とか「ア~」とか声をハミングさせるのがとても心地良く感じる。
 モンロー研究所のCD「ゲートウェイ・エクスペリエンス」でも、冒頭部分に声を響かせて調和させる「レゾナント・チューニング」というがあるけど、僕はその個所だけを音楽編集ソフトで切り取ってつなげ、30分くらい延々とハミングし続けるオリジナルトラックを作った。長時間これを続けると実にスッキリする。ただ、このCD本来の効果はそっち除けだけど…。
  ☞ コメント:2

 


プロフィル

Koudai Mitsuna

Author:Koudai Mitsuna
 
光奈 広大(みつな・こうだい)

 20年のあまりのサラリーマン生活を経て、いわゆる「ザ・マネーゲーム」を何とか卒業。今では束縛されない自由な日々を存分に味わっています!

 そうした中で心がけているのは、普通の日常的な行いを通じて、意識の進化を目指す「カルマ・ヨガ」。

 日々の喜びや学び、インスピレーションから得たスピリチュアルな気付きなどをブログで紹介しています。

 妻子と都内在住――。

最近の記事
ツイッター

CALENDaR 123456789101112131415161718192021222324252627282930
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。