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 あなたが今いる宇宙は「あなた版の宇宙」だと言われます。
 そして他者というものは実際にはいなくて、この宇宙に自分一人しか存在しない。

 じゃあ周りにいる他者に見えるものは何なのか? 現実には自分にとてもつらく当たってくる者もいるし、リアルに憎らしい人もいるぞ――というようなことを考えていたら、こんな一言がぽっかり浮かび上がってきた。

 他者の本質である魂はすべて、既に上の次元にいる。
 あなたが来るのを待っている!


 周りにいる他者に見えるものは、その本質である一つひとつの魂が、自らの化身としての「像」を、あなたの目の前に映し出したものだ。
 あなただけが一人いて、あとは「像」が映し出されている――。それが「あなた版の宇宙」の構造だ。 

 そして、他者に見えるその「像」は、あなたの内面が求める通りの役割を演じている。
 あなたが内面に怒りの要素があれば、その怒りに相応する役割を、あなたに対して演じる。嫌悪があれば、嫌悪にこたえる役割を、ただ演じることに徹している。
 さらに恐れや罪悪感、自己卑下、被害者意識、猜疑心などなど――。内に抱えるあらゆるものを、何度も繰り返し演じてくる。

 そういうのを経験していると、相手のことが本当に憎らしいし、復讐したくなる。報いを受けて悔やめと相手に言いたくなる。
 でも、相手である他者は、演じているだけなのだ。
 そしてその本質である魂は、その場所にはいない。
 上の次元にいる――。


 他者の本質である魂のすべてが、既に上の次元にいるというのは、驚くべきことだ。
 だって、これから次元上昇する必要があるのは、自分だけということだ。
 ほかの人はみんなとっくに上の次元へ移行していて、自分だけが遅れて、この次元に取り残されているということになる。

 そして「像」を見ながら、いまだに本気で怒ったり苦しんだりし続けて、「あたな版の宇宙」から抜け出せずにいる。
 これは、考えようによっては、何とも恐ろしい状況だ…。
 

 でも、すべての他者の魂が「あなたが来るのを待っている!」というのは、もう途方もなく素晴らしいことでもある。

 他者があなたの内面を映し出す役割を演じているのは、「あなたが自分や他者を愛するために、こんな不要な条件付けをしていますよ」と伝えることが目的である。
 そしてあなたが「無条件の愛」そのものになれるよう、条件を手放すことを促してくれている。
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 中学3年生の息子がいま夏休み中。進学先を検討するための「高校見学会」というのに、ときどき一緒に行っています。
 ただ自分が親として教育熱心なわけでは全然なくて、放っておいたらどこにも行きそうもないので…
 
 息子を見ていると、前向きな学習意欲はあまりなく、義務教育に対するお付き合い程度に、仕方なく勉強しているという感じだ。
 そういう子供は最近多いらしいけど、自然な反応だと思う。
 日本の社会が将来への方向感覚を喪失している中で、やれ進路だ受験だとけしかけたところで、子供のほうは「そんなことを頑張ったところで何も開けないだろう」と、世の中の空気感を読んで、はっきり勘付いているはずだ。
 十代の子供だって、何百回も転生した上で、この時代に生まれてきているわけだから、これまでの価値構造が終焉しつつあることに決して鈍感で無自覚ではなかろうと思う。


 一方、子供の態度を通じて、親もほうにも常に貴重なレッスンが与えられていると思う。
 周りにいる人の行動はすべて「原因は自分自身の中にある」「相手をコントロールしようしてはいけない」とよく言われる。
 ただ自分の子供が相手となると、ついつい自分のほうに原因があることを忘れ、そして「これをしなさい」「あれはダメ」とかコントロールしようとしがちだ。子供の勉強や進学につては、それが顕著かもしれない。
 
 ハワイの浄化法「ホ・オポノポノ」のヒューレン氏は、親の浄化や手放しによって、子供の行動が変わることを、次のように強調している。

 ――子供がどんな状況であれ、親が自らをきちんとクリーニングすれば、その子にとって一番ふさわしい場所へと自から探して行く。親が子供への執着を捨てなければ、親の意識に捕らえられてしまい、どこにも行けなくなる。
 「子供がマリファナを吸っては困る」という考え方を親自身が手放せば、子供は自然にマリファナを手放す。親はみな「子供がやめてくれれば」と思っているが、それを手放せば良いのだ。――

 子供の成績や進学も、不必要な古い考え方や執着を手放し、自らを浄化するチャンスの一つとして起こっていることなのでしょう。
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 ヨガの仲間と一緒に町を歩いていたら、駅に貼ってあった恐竜展のポスターを目に、「恐竜がいたなんて、すごく不思議じゃない? 実際に化石があるわけだから、進化論って本当なのかな?」 と、唐突に尋ねられました…。


 スピリチュアルの世界では、よくこう言われる。
 「目の前にある現実は、すべて自分自身で作り出している」
 「時間というものはなく、今この瞬間しか存在しない」――
 こうした考え方に、進化論は非常になじみが悪い。というか対立してしまう。
 そして「長い進化の果てに、今のあなたがいるのですよ」と、スムーズに論証されてしまう…。

 ニール・ドナルド・ウォルシュの『神との対話』の本では、生物の進化について、神が次のように説明している。
 「わたしはすべてを一瞬のうちに創った。そして、あなたがたの言う歳月でいえば、何十億年もかかって進化の過程をたどってきた」――。 何だか禅問答みたいな感じだ。


 ヨガ仲間の疑問に対して、このとき口をついて出た僕の答えは、「化石も恐竜も類人猿も、ダーウィンも進化論も、全部まとめて自分自身で作ったんだよ。この三次元世界のリアリルさを完璧にする目的のために」、というものだった。

 科学の諸分野が発達した世界にあって、もし人間や生物の起源だけが全く未知の状態のままであったとしたら、そのいびつな知のありようから、ひょっとしたら誰かがこの世界の幻想性を見抜いてしまうかもしれない。

 この三次元世界とは、唯一絶対の神が、分離を経験して、自らを相対的に知るために創造した幻想だといわれる。
 つまり「神が神自身にかけた魔法」なわけだ。だから神の目で見ても、隙が見つからないくらい、この世界という幻想は完璧に出来上がってなくてはならない。
 もし幻想であることが分かってしまうと、かんじんの分離と相対性がそもそも成立しなくなるから。

 そこで生物の起源については、化石やその発掘者や研究者、さらに裏付けとなる学説までも、すべてを全部まとめて自分自身で作り出しておいたのだ。
 あるいは数十億年にわたる無数の生物と進化過程、それを可能にする地球環境を、過去に経過した「現実」として、細大漏らさず本当に作り出したのかもしれない。だから恐竜が「実際にいた」と言うこともできる。


 ただし、生物の進化が先にあって、その結果いまの自分がいるのではない。私という存在が先で、生物の進化は後付けで作られたということだ。
 かくして私たちは、この三次元世界で疑うことなく分離と相対性を経験できるわけだ。

 そこまでやるかー! という遠大なスケールだけど、神ならばできる。今この瞬間に、数十億年にわたる地球全体の過去の現実を創造するなんて、実はたやすいことなのだろう。どうせ幻想なんだから。


 創造された幻想の世界というは、進化論などいわゆる物質世界の領域だけではない。
 「輪廻もまた創造の一部だ」と言われる。
 そうなると、この世界のことなんて「私は何も知らない」と、お手上げするほかない…。
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 十年以上ぶりにのこぎりや金づちを手に、キッチンの調味料の棚を工作しました。

 もともとは、醤油やみりんなどをシンクの下の扉の中に置いていたため、調理中にしゃがんで取り出すたび少々面倒な思いをしていた。また色々な種類のスパイス類は、電子レンジなどを置いたラックの上に並べていたが、これも奥の方にあるものが見えにくくて取りにくい点がずっと不都合だった。

 そこでキッチンの壁面に調味料類がぴしっと並べられる棚があれば便利だと考え、ネット通販で色々探してみたのだけど、思い通りのものがなくて、ならば自分で作ってみようと、板を買ってきて自作した――。

 出来上がった調味料の棚は、高さ160cm、横幅80cm、奥行きはわずか10cmで、壁面にへばりつくように立っている(写真は上部で、奥行きのない本棚のような感じ)。
 酢も料理酒もこしょうもハーブも、さらにラップやキッチンペーパーなども並んでいて、必要なものが即座にぱっと手に取れて非常に便利になった。


 ただちょっと問題なのは、高さのわりに奥行きのない平べったい形状のため、安定性はあまり良くない…。
 壁面に金具で固定すれば容易に解決できるのだが、賃貸マンションのために壁に打ち釘ができない。上に突っ張り棒をつけて、普段は動かない程度に自立させている。
 手で揺すってみたところ、震度3くらいまでなら大丈夫そうだ。ただ震度4だと「想定を超える災害」ということになる…。

 でも、まぁいいや――。棚をどんなに丈夫に作ったところで、建物ごと倒壊・焼失するような災害に対しては、棚なんて全くの無力なんだから。と、やや極端に考えて割り切ってみた。


 翻って(さらにかなり敷延して)考えてみれば、生きたモノとしての人間というものは、本当にもろくて弱いものだ。
 大洪水や噴火、隕石などの巨大災害が起こるまでもなく、1ミリにも満たない脳の血管が詰まっただけで壊れてしまうわけだから…。

 そんな無力に等しいようなモノが、当面の支障はなく生きているということ自体、大きなパワーによって養われていると思わずにいられない。
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 神の国に入りては、神のごとく振舞え

 ――といった意味の言葉が、またもふぁっと浮かび上がってきました。何だか、ことわざをひねったような。

 でも神のごとく振舞うって?… どうすれば振舞える?…

 この世界のすべてのものや出来事は、神の顕現であると言われる。そして人の本質は神性そのものであると言われる。
 でも三次元世界の肉体にいると、生きている状況や、自分の能力とかに色々な「制限」がかかっている。なのだから、とうてい神のように振舞うなんて…

 …と思ったけど、よくよく考えてみれば、神性の肝心なところについては、実は「全く制限など受けていない」のではないだろうか。

 たとえば、他者や自らを愛することとか、信じること、私が本当は何者であるかを宣言すること――。
 こういうことについては、三次元世界にいながらも、私たちは常に自在な立場にある。決定するのは自分次第である。
 そこにマインドの勝手な思い込みが、制限を作り上げてしまっている。こうならないと愛せないとか、今のままでは自分はみじめだとか…

 私たちの本質は、祖国である神の国にいる。でもそこでエゴの言葉をしゃべり、カネを食い物にしていたら、その国は言葉も食べ物も習慣も違う、まさに制限だらけの悪夢の国でしかない。
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 「覚醒」とか「悟り」に関連したスピリチュアル本を読んでいる人でも、「心霊」というテーマは相当に縁遠いものでしょう。特に、僕にっとてはそう…。

 本屋の精神世界コーナーで、エックハルト・トールやニサルガダッタ・マハラジなどが並ぶすぐ隣の棚に「心霊」の本があっても、それは板一枚を隔てた、自分の関心領域から全く外れたカテゴリーである。
 怨霊だとか憑依とかの心霊現象なんて、古い昔からの迷信としか思えないし、専門家と称する人も見るからにうさん臭いし…


 …と考えていたのだが、最近ちょっと関心が引っかかって、霊界について書かれた佐藤愛子「私の遺言」を読んだ。
 確かamazonでエリザベス・キューブラー・ロスの本を調べていたら、「この商品を買った人はこんな商品も買っています」のリンクをたどっていって知ったのだと思う。(あのお薦めのシステムは、ときどき思いがけない分野に連れて行ってくれる)

 同書は、佐藤氏自身のまさに渾身の体験記だ。北海道の山の中に別荘を建てたら、次々と怪奇現象に襲われた。やむなく霊能者に相談して調べてみると、その土地にはおびただしい数のアイヌ部族の霊がさまよっていた。彼らは生前に受けた侵略や差別への激しい悔しさや辛さのために、死んでも浄化されないまま苦しみ呪い続けていたのだ。
 それから佐藤氏は、善意に満ちた神審者に出会ったり、先祖からの因縁や守護の存在を知ったりしながら、実に30年の歳月をかけて、霊の怨嗟を浄化していった。そして、その経験のすべては「はからい」であり、自分の使命を成し遂げるためのものだったと振り返っている。


 特に印象深かったのは「霊は祓(はら)うのではなく、浄化されなければならない」という言葉。この怨霊の浄化の話を読むと、人の内面にある感情や記憶の浄化にも本質がよく似ているし、あるいは同じかなと思う。
  
 ハワイの浄化法ホ・オポノポノでは、「インナーチャイルド」の話がある。
 ――インナーチャイルドとは、自分の子供のころの記憶のことではなく、この世がつくられて以来、あらゆる者が経験した記憶を蓄えている潜在意識のこと。インナーチャイルドは、痛みを浄化してもらいたい。浄化しないと、ネガティブな記憶をそのまま投影してしまう。人間は生きていくにつれ、風邪をひくように「記憶」をひいてしまう。それを取り除いて清めてやる必要がある――。

 内面の浄化と比べ、怨霊の浄化の話のほうが図式として分かりやすいのが、怨霊というのは「自分に属するものでは決してない」ということだ。
 自分を浄化するというと、浄化の対象である悲しみや怒りなどを、つい自分自身が生み出して保有しているものと捉えがちだ。
 でもそれは違っていて、感情というのは実は自分のものではない。過去に誰かが作ったものがふわふわと漂っていて、それが人に取り付いたのだといわれる。
 なぜ取り付くかというと、理由はたった一つ、「浄化してもらう」ためである。怨霊と同じである。

 過去の誰かの記憶や感情は、自分のものではない一方、すべての人類で共有しているものである。そしてそれを浄化することは、受け取った人の仕事となる。
 私が怒って、私の怒りがわいてきているのではない。人類共有の怒りを、浄化してあげるために受け取ったのだ。

 人が生きている目的が、この「浄化」であるといわれる。いつどんな記憶や感情を受け取るかは分からない。あるいは生まれる前に、すでに自分で決めてあるのかもしれない。

 すべての人類が共有する記憶と感情を浄化すること、それを人生の使命とすること、これを言い換えれば、「すべての人々の罪を清めるために十字架にかかる」ことになるのかもしれない。
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 もっともっと自分のことを許してあげないと、同じことの繰り返しになってしまう!

 ――昨日こんな言葉が、夕飯の支度でアスパラガスを炒めている最中に脈絡なく、ふわっと浮かび上がってきました。


 自分を許すとか愛することは、僕自身かなり苦手とするところで、多くの人にとっても同じことだろうと思う。
 罪といえるような具体的な記憶は特にないけど、ただぼんやりおぼろげな、でも説明不要の確信を伴った、「自分が許されない何か」を負って生きている感覚が奥底にある…。

 僕は、かつてはそんな切迫感が原動力となって、人一倍の仕事をこなすタイプだった。
 でもいま考えてみれば、自分自身が許されようとして、「自他共に認める働き者」を演じられるだけの仕事量を、繰り返し果てることなく引き付けていたように思う。
 自分で自分を許し、在りままの自分を愛せない限り、それを学ぶための機会が次々にやって来る無限ループから抜け出せない。

 
 終末期医療の先駆者として著名なエリザベス・キューブラー・ロスも、著書「ライフ・レッスン」の中で、「私自身も、どうすればもっと自己を愛せるようになるかを学ばなくてはならない。正直なところ、自己愛という言葉とどうもそりが合わないのだ」と書いているのを読んで驚いたことがある。
 あれほどエネルギッシュに人々に愛を与え続け、世界中から愛されてきた人物に、「自分を愛するのは難しい」なんて言い切られた日には、もう並大抵の人には到底無理だと思えてしまう…。

 自分を許すことや愛することは、その気になれる小技的なワークは色々あるものの、根本的には単に許す、愛するという直接的な道しかないのではないかと思う。
 許すのも、愛するのも、信じるのも、進化するのも、すべては肉体にいる間の自分次第ということだろう。
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 昨夜はクリスタル・ボウルの演奏会に行ってきました。

 僕は、波動やエネルギーに敏感なほうでは全然ないのだけど、聴いてからしばらくの間は全身がぐたーっとして、だるくて仕方ない感覚になってしまう。
 今もそんな調子が続いている…。

 で、その演奏会の最中、目を閉じて床に横になって聴いているとき、以下のメッセージのようなものが自分の中に浮かんできた――。

 なぜ、体外離脱とか、悟りの体験とかを求めるのか? 来るときが来れば、そうなれるのに。
 せっかくの肉体にいるのだから、そこにいるときにしかできないことをしなさい。
 肉体は牢獄のようだ。でもその牢獄とは、浄化するための仕掛けなのだ。


 ――別に啓示のようにビシッと届いたというのではなくて、意味の塊のようなものが、ぼーっと現れてきた感じだ。
 僕自身は、体外離脱にはあまり興味がないから、単に脈絡なく頭に浮かんだものかもしれない。あるいは周りに、演奏でリラックスしながら何か特別な経験を求めていた人がいて、そんな人に向けたメッセージがこちらに飛び込んできたのだろうか。よく分からない…。

 でも確かに僕は最近、何か素晴らしい体験を探求するよりも、「見なくても信じる」ことにこそ、この物質世界に生きている意味があるのではないかと考えている。
 そういう捉え方で構わないという、僕に対する返事のようなものなのかもしれない。

 ときどき僕はこのように、自分で考えるのとは少し違う感覚で、メッセージのような意味が浮かんでくることがある(けっこう誰にでもあるのではないだろうか)。もちろん、チャネリングと言えるようなレベルのものでは全然ない。

 たまに、そうして現れた言葉などもアップしてみたいと思います。
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 以前も書いたけど、20年以上の習慣だったタバコとアルコールをやめたことは、僕の人生で最大級の収穫の一つだと思ってます。

 日々の体調は「元気な子供」のように好調だし、夜に無駄な時間をだらだら過ごすこともなく、何か楽しそうな新しいことを始めようという気力がわいてくる――、まるで「以前とは違う器の中に生きてる」といった感じだ。
 長年、「飲まないと人生の楽しみが減ってしまう」と思い込んでいたのだが、それは全くの誤りで、逆に「人生の楽しみが増える」ことがよく分かった。


 もう一つやめたものがあって、この一年ほど新聞、テレビ、そしてネットでも報道は見ないようにしている。いわゆる「ニュース断食」というやつだ。
 でも、別に確固たる意思をもって生活から排除しているわけではなくて、単に見てもあまり意味がないから目を向けないだけ。

 「世の中の動きを知らないと困るじゃないの?」とよく思われるが、実際に困るような事態に直面したことは一度もない。
 むしろ、ニュースを見ることに費やしてきた時間と関心を自分自身のことに向けられるし、世の中に対する不用な心配や不愉快さなども心にわいてこないので、より平静な気持ちで日々過ごせる。

 「消費税が知らないうちに上がってしまったらどーするの?」とか言う人もいるかもしれないが、過去に3%から5%に税率改定されたときに、ニュースを熟視してた人が何か得をしたという話なんて聞いたことがない。上がったら、それを「起こってしまったこと」として、しぶしぶ払うしかないだろう。
 

 キリスト教徒がイエスの教えのことを「グッドニュース(福音)」と呼ぶように、たとえ2000年前の情報でも、いま在る不変の魂に呼びかけてくるものであれば、その人の人生における真のニュースといえる。
 しかも最近の時代の素晴らしいと思うところは、古いグッドニュースばかりでなく、新しいグッドニュースに接する機会が決して少なくないことだ。
 自分がそんなグッドニュースの世界に生きていることを認識する上でも、余計なニュースを見ずに放っておくことは良いことかもしれない。


 ちなみに今回のタイトル下にある写真は、新聞を読むラマナ・マハルシである。
 へぇ、マハルシもニュースを見るんだ…。 
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 ブライアン・L・ワイス氏の「前世療法」を読むと、過去生でいったん死んだ人が、終えたばかりの人生をかえりみて悔いる場面がいくつも出てきます。

 怒りを手放すべきだったとか、もっと思いやりや愛を学ばなければならなかったとか――。そういうのを読むと、自分は果たして今の人生のレッスンをきちんと学べているのだろうかと、生きてる途中にいながらも身につまされる思いがしてくる。

 僕がいちばん胸にグサリとくるのは、死後世界でマスター(高次の存在)に会って語られた、以下の「信じる」ことについての反省だ。
 「自分の人生はどうにもならないと思いました。どうにかしたかったのに、どうすることもできなかったのです。私はもっと信じなければならなかった。マスターたちがずっと私を導いてくれていたのに、それを信じませんでした。人には信仰心が必要なのです。それでも私は疑ってしまい、信じるよりも疑うことを選んでしまう――」


 かりに僕が現時点で死んだとしたら、同じように「人生でもっと信じればよかった」ということを反省するだろうと思う…。

 人は誰しも「信じたい」と思っている。他人や自分自身のことをもっと信頼したいし、守護の存在や真理について確信したい――。
 そして信じることができるようにと、信じる根拠となる何らかのあかしを求めてきた。成果を出せたならば自分のことを信じられるとか、報いてくれるなら相手を信じる、望みがかなえられたら神を信じる、等々…。
 ところが、そのような願いや探求行為は、もはや「信じる」ことから外れて、条件付きの「取引」と化してしまう。


 イエスは、奇跡を求めてくる群集に対して、悲しみの言葉を残している――。
 「あなたがたは、徴(しるし)と奇跡を見ない限り決して信じない」「見ずして信じる人こそ、幸いなのに」

 また、親鸞を描いた戯曲「出家とその弟子」にも、同じような表現がある。僧の一人が「念仏して浄土に生まれるというのは何か証拠でもあるのですか」と問うたのに対して、親鸞はこう言い切る。
 「信心に証拠はありません。証拠を求るなら信じているのではありません」


 私たちがこの人生で、最も学んでみる価値があることの一つは、「何の根拠がなくとも信じる」ということだ。
 宇宙の素晴らしい真理を、人生で関係する他者を、自分の計れぬ尊さを、疑うことなく信じる!――。

 魂の観点からすれば、その人が「信じているかどうか」こそが要点であって、徴(しるし)や奇跡を見ること――成功してお金持ちになっているとか、名声や地位を得るとか、覚醒意識を経験しているとか――は、人生の学びに無価値な全くどうでもいい幻なんでしょうね。
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 ある人や物事についてちょっと気になった後に、特に意図してないのに、それに関連する話題がいろいろ繰り返しやって来て、「あれっ? また…」と不思議に思うことってありますよね。

 最近の僕にとっては、脳科学者のジル・ボルト・テイラー氏に関して、そのような状況にある。
 同氏の著書「奇跡の脳」を読んだのが数カ月前――。以降、右脳・左脳についての知識に頻繁に接したり、それを示唆するような奇妙な体験が起こったり、よく訪れるブログでテイラー氏の講演ビデオが紹介されてたり、先日もたまたまテレビをつけたらNHKの番組に出ていた。

 テイラー氏は、米国の精神病患者の団体の理事に最年少で選ばれたエリート脳神経学者だ。ところが自身が脳卒中に襲われ、左脳の機能が壊滅。そうしたら、今この瞬間にすべてのものと一つになる、平安に満ちた至福の世界に包まれてしまった。
 このとてつもなく素晴らしい空間のことを、同氏は「ララ・ランド」と親しく呼んでいる。


 「ララ・ランド」の話は、臨死体験談や、覚者が語るニルヴァーナの様相にも共通している。
 私たちがいるこの世界や宇宙の本当の姿というは、愛の光が無限に注ぐ、言い表せないほど美しく壮大で素晴らしすぎるところであることを、さまざまな人が同じように強調して語っている。

 テイラー氏の話の素敵な点は、その世界をいちだんと親密に身近に感じさせてくれることだ。目の前にある薄いベールを一枚はぐだけで、「ララ・ランド」が見えてきそうな気がしてくる。
 実際には、そんなベールすらない。真実が見えないように覆っているのは、「左脳の認識」という、形もない幻なのだから…。


 ――と、このことを考えていると、一つの当たり前の疑問がわいてくる。
 そんな素晴らしすぎる「ララ・ランド」にいる魂が、どうして厄介な肉体人間や物理的現実の社会をわざわざ作り出したのか? こんな世界に生きても、心楽しくない体験の方がほとんどだし、悲劇的なことさえ少なくないし…。

 それの理由は、たった一つしかないだろう。
 魂は、自らが今いる「ララ・ランド」よりも、さらなる高みを目指している!――

 制約された三次元世界での学びを通じて、「ララ・ランド」の心地良さに浸ったままでは実現しえない飛躍的進化を、魂は遂げようとしているのだ。
 人間の見方ではニルヴァーナが究極のゴールだけど、魂にとってはそこからが進化のスタートだ。その進化のために、この物理的な地球があるのだと思う。


 「ララ・ランド」でさえ言い尽くせぬほど素晴らしいところなのに、それを超越して目指すところって…、もう「ララ・ランド」どころじゃない、その素晴らしさを表現する言葉もなければ、その感覚を味わう機能も脳にはない。

 まさにその進化を遂げる主体として、自分がこの時代を待ち望んで転生したと考えてみると、これは「ワクワク」どころの騒ぎじゃないですよね…。
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 人間関係というものは「常識的には『そんなことあり得ない』と思うしかないような奇跡が、たくさん積み重なった結果なのだ」と、「生きがいの創造」などの著書で知られる飯田史彦氏は語っています。

 確かに、日常シーンで当たり前のように接する人についても、「なぜ自分は今この人と出会っているのか」を翻って考えてみれば、その背後に途方もなく複雑で精緻なストーリーが折り重なっていることに気づかされますよね。


 たとえば、僕は明日、震災復興のチャリティーコンサートを聴きに行くことになった。
 コンサートに行くきっかけとなったのは、ヨガ教室で知り合った年輩の方からのお誘いがあったからだ。ヨガ教室に行ってなければ、誘いを受ける接点はない。

 ではなぜ、僕がそのヨガ教室に通うようになったかというと――。もともと僕は、ヨガにはあまり興味がなかった。でも、数年前にとある瞑想リトリートに参加したときに、参加者の一人にヨガの先生もいて、話を聞くと教室が家の近くだったから「ちょっと覗いてみようかな」と思ったのが始まりだ。

 じゃあ、どうして僕とヨガ教師が、その瞑想リトリートに行ったのかというと、リトリート主催者が書いた本を読んで面白いと思ったからだ。その本は、失礼ながら書いた当人も不本意なほど、ほとんど売れてない。そんな本に、たまたま関心を持って手にしたこと自体、相当な奇遇である。
 また僕はそれまで、瞑想リトリートなどという、新興宗教みたいに怪しげな催しに近づくなんてあり得ないことだった。なのに、この本の内容に限っては胸に深く響いて、なぜか抗し切れないほど引かれるものを感じた。

 さらにさかのぼって、そもそもこの瞑想リトリートの主催者が、本を書いたり催しを行うようになった契機というのが―― その人が、悟りを開いた覚者に巡り会って教えを受けたことにある。
 この覚者というは2人いて、いずれも日本人ではなく、一人は東ヨーロッパ人、もう一人は中東生まれのアメリカ人である。

 聞いた話では、この2人の覚者がもともと知り会ったのが、インドのクリスタルの店だという。店の中で話しているうちに互いに意気投合して、やがて共に修行するようになったそうだ。


 ――というわけで、東ヨーロッパ人と中東生まれのアメリカ人の2人が出会ったことがきっかけとなって、(中略)その一つの小さな結果として、明日僕はチャリティーコンサートへ足を運ぶ。

 蝶のはばたきが、遠くの場所での将来の天候に影響を及ぼすという「バタフライ効果」というのがある。日本でいう「風が吹けば桶屋が儲かる」もそれに近い。
 人のあらゆる出会いや行動というのは、まさしくバタフライ効果のようなもので、前出の飯田氏が言う「たくさんの奇跡の積み重ね」であると実感する。

 ちなみにバタフライ効果というのは、将来は予測不能という「カオス理論」の世界で語られるものだ。
 でも、この偶発的で複雑とされるバタフライ効果が、実は決してカオスなものではなく、何らかの英知によって必然的な精緻な仕組みとして作られているとすれば――。


 葦原瑞穂氏の「黎明」という本の中には、次のような言葉がある。
 「その場所とその仕事、そしてその人間関係の中に自分が存在しているという事実は、魂が自分の進化のために設定した課題を学ぶために、最も相応しい環境を現象化しているのだ」
 (ちなみにブログタイトルにもしている「カルマ・ヨガ」について、僕はこの本から影響を受けた)

 目に前のあらゆる日常のひとこまは、自らの進化のために構築された場面というわけだ。しかもそれは、地球規模にわたる人々のつながりや、遠大な時間軸を駆使しながら作られている――。
 魂の能力というのは、何と途方もないことか。文字通り、人知の全く及ばないスケールだ。

 お付き合いでしぶしぶチャリティーコンサートに行くなんて、言ってはいられない。
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プロフィル

Koudai Mitsuna

Author:Koudai Mitsuna
 
光奈 広大(みつな・こうだい)

 20年のあまりのサラリーマン生活を経て、いわゆる「ザ・マネーゲーム」を何とか卒業。今では束縛されない自由な日々を存分に味わっています!

 そうした中で心がけているのは、普通の日常的な行いを通じて、意識の進化を目指す「カルマ・ヨガ」。

 日々の喜びや学び、インスピレーションから得たスピリチュアルな気付きなどをブログで紹介しています。

 妻子と都内在住――。

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