フロントページ   »  2012年08月
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
 
jpw.jpg

 雲黒斎さんのツイッターを見ていたら、アセンションが日本から起こるという噂がもしも本当だとしたら、「その大きな要因の一つは『さほど神に関心がない』という国民性だと思う」と語っていて、確かにそうかもしれないな…と感じた。


 この大きな要因のほかにも、副次的な要因として、日本人の「アセンション向き」な特異性がいろいろ考えられると思う。

 たとえば今の日本人は、何かに「帰属する」という意識がとても希薄なこと。
 宗教に関してはもちろん、ナショナリズムについても、某都知事がしばしば憤慨している通り意識が低い。
 また一時は「会社」が拠り所だったこともあるが、終身雇用の崩壊でそれも消滅。また家長の支配力なんてのも、いまやゼロだ。

 海外のスピリチュアル本には、「私」というものが宗教や民族、国家、地域社会、ファミリーといった様々なアイデンティティーを衣服のように厚くまとっていて、それを脱ぎ捨てなければならない、というようなことが書いてある。
 その意味で、日本人がまとっている衣服は、国際的に見てかなり薄着といえる。
 野球拳でいえば「完敗寸前」の姿の人も少なくないかもしれない…。
 最後にもうエイッっと脱ぐだけ――。 ヨヨイのヨイッ!


 次に、日本人は「一挙に大移動する」という性質があること。
 よく役所とか大企業を例に、日本は保守的で変化への行動が鈍すぎるなんて指摘される。
 だが、日本人の動き方というのは「バファロー型」だと表現する人もいる。
 バファローは、普段はいつも変わらぬ場所で群れをなして草をはみ、素早く動くようには到底見えない。
 ところが、新しい餌場を求めるなど動くべき時になれば、群れごと一斉にものすごい勢いでズドドーッと大移動する。
 
 終戦を境にした価値転換は、まさにそうだったと言える。
 それまで信服してきた価値観を、全国民規模で一挙に「断捨離」して、新しい経済成長にまい進した。こんな「生き方・信条の民族大移動」は、どの国にも可能なことではないだろう。


 もう一つ、よく言われることで、日本の社会には「自他共生」的な側面が大きいことも特色といえる。

 少々こじつけだけど、日本語では「私」「あなた」とかの人称代名詞をよく省略する。「私」「あなた」をいちいち言わなくても、互いの会話に全く不都合がない。英語などの場合だとそうはいかない。
 大阪人にいたっては、相手のことも「自分」と呼ぶ。
 自他の隔たりなく、あらゆる者が「自分」であることを、言葉じりでは実践していると思えなくもない…。


 こういう横並び主義の、あうんの呼吸的な特質は、日本人が単一民族だからだと従来から言われてきた。

 でも最近のDNA分析によると、日本人の遺伝子は世界的に珍しいほど多様性があるそうだ。
 日本列島がアジアの端っこに位置し、南北のルートから異なる民族が渡来してきたわけだから、遺伝子ごちゃ混ぜのチャンプルーであって当然なわけだ。純血の日本民族なんてものは存在しない。

 世界の大陸と日本の島の形が類似しているとして、日本は「世界のひな形」という見方がある。
 そこに住む日本人の遺伝子の多様性も(もちろん一般に黄色人種だけだが)、これもまた世界の縮図的な性質を帯びているわけだ。

 
 日本に、最初のアセンションの道が開かれるというのは、果たしてどうなのか分からない。

 でも全地球にそれが起こり始めたときに、日本人がまっ先に過去のあり方を捨て、一挙に民族大移動して、「結果としてトップランナーになる」なんていう事態は、起こり得ることかもしれないですよね…。
スポンサーサイト
  ☞ コメント:0

 



 前回記事の「外の常識、内なる声」で、無抵抗な捕虜を殺せという上官命令を拒否した新兵の話を紹介したら、何名かの方々からとても丁寧な「拍手コメント」をいただきました。
 ありがとうございます!

 ちなみに、その新兵だったT氏は戦後、京都の有名な食品メーカーの社長を務められた。
 またこの話は、学校の古いOBが母校を訪ねてきたときに、「誇らしい同窓生のエピソード」として語ったものだ。
 当人が自ら人前でしゃべったわけではないことも、また立派ですよね。

 
 このような、自分の信念や良心を最後まで貫く人の話に接すると、「こんなに強い生き方は、とても僕にはできないな…」と思えてきてしまう。
 そう感じていたら、胸の中にこんなメッセージが浮かび上がってきた。

 強さではではない、内なる声を聞く繊細さなのだ――

 う~ん、そうなのか…。


 ユダヤ人強制収容所の体験者である心理学者ヴィクトール・E・フランクルは、絶望的な飢餓と暴力が支配する収容所生活の中でも、他者に思いやりある言葉をかけたり、なけなしのパンを譲っている人々が、ぽつぽつと見受けられたと語っている。

 そして、凄惨な状況に屈しなかった人とは、粗野な性格ではなく、もともと精神的生活を営んでいた「感受性の高い人」であったと説明している。


 確かに、「頑強な意思の力」とか「冷静さを保つ理性」とかは、しょせん架空の人格の一部にすぎない。
 そういう強さは、やがては守りきれず破綻してしまうのだ。
 
 一方で、あらゆる人の内面には、外部のどんな力でも傷つけることができず、侵したり触れることすらできない「本質」が、静かに存在している。

 その本質に気づき、自らの拠り所とするとき、人は本来の無欠な価値を発揮し得る。

 前述のT氏や、収容所生活に屈しなかった人々は、外がどんな状況であっても、内なる本質に頼った。
 普段の精神的生活を通じて、本質からの声なき声を聞く、繊細な感受性が研ぎ澄まされていたに違いない。


 内なる本質とはなんだろうか――。
 それは、誰にでも感じられるものだ。
 
   不本意な行動をとるとき、「それは違う」とささやく声
   混乱の渦中にいながら、不思議にも冷静に見つめる視点
   悲しみに沈みながらも、不幸でないハートの深奥
   じっとしているときに、安らぎを送る内なる静けさ

 …こういったことを、普段どれだけ感じているだろうか。

 内なる本質に気を向けることなく、外側の常識だけに従って、忙しい役回りを演じている時代は、もう終わるべきタイミングに来ているのだろう。


 外の常識か、内なる声か――。
 この手近すぎる個人的選択が、結果的に、地球全体の時代の変化を選ぶことになる。

 いつ選ぶ?――。 いま!
  ☞ コメント:0

 


 たまには古い話題でもと思い、僕の学校の先輩の逸話を。
 先輩といっても、僕の親よりも年上で、すでに故人となったT氏という大先輩です。


 戦時中、学生生活を終えたばかりのT氏は、徴兵を受けて大陸に派兵された。
 到着して間もなく、上官はT氏に、現地人捕虜を1人連れて来くるよう指示した。そしてこう命令した。

 「こいつを殺せ」

 クリスチャンであるT氏は、それはおかしいのではないかと思った。
 互いに武器を持った戦闘なら分かるが、全く無防備で罪もない人間を理由なく殺すのなんて、道理にかなわない。自分は絶対にできない――。
 そして、きっぱりと応えた。

 「できません」と。

 上官は最初あっけに取られた目でT氏を眺め、すぐ憤怒をあらわにしてT氏の顔を力任せにぶん殴った。
 地面に倒れ込むT氏に、怒声で命じた。
 「何をぬかすのか! 言うとおりにすぐに殺せ!」

 T氏は起き上がり、すぐに気を付けをして、再び同じ返答をした。
 「できません」――。

 今度は、何倍もの怒りと力を込めた拳が飛んできた。
 そして、「殺せ」、「できません」、殴打のやり取りが何度か繰り返された。


 「上官の命令は天皇の命令」と言われた時代である。
 戦時下の支配的な価値観からすれば、T氏の行動は完全に常識から外れたものだ。
 しかもT氏は、まだ人としても認められてないような、十代の新兵である。
 それでもT氏は、常識や命令よりも「内なる声」に従った。


 頑として服従しないT氏に、殴り続ける上官も根尽きかけて、こう言い渡した。
 「貴様はどうしようもない腰抜けだ。日本男児の恥である。これから一晩考え直し、明日の朝にまたここに出直して来い!」

 T氏はその夜、神に祈りながら、どうすべきか考えた。
 考え抜いた結論は、「やはり命令に従えない」という、最初と変わらぬ答えだった。
 そして、自分が上官命令を聞かなかったことで厳罰に処されることは間違いないだろうけど、どんな制裁でも仕方なく受けることを覚悟した。


 翌朝、改めて「できません」と答えたT氏に、上官は「貴様はもはや犬以下だ」と吐き捨てるように言った。そして「そんな者にふさわしい罰」を与えた。

 その罰は――、靴ひもを口にくわえて四つんばいになり、兵舎の周りを犬のように歩き回る、というものだった。

 T氏の姿を見て、何人もの兵士たちがあざけ笑った。

 でもT氏は、胸の内で神に感謝していた。自分の真の思いを通すことができたこと、そして、受けた罰が考えていたよりもはるかに軽いものであったことを。
  ☞ コメント:0

 


 僕がサラリーマンをしてたときの話です。
 ある保険会社の「営業成績全国5位」という人と話すことがあった。
 そのとき「ちなみに営業成績1位の人って、どんなふうに仕事をしているのか」という質問をしたら、その答えがなかなか面白かった。

 「1位、2位、3位の人って、実は全く同じ仕事のやり方なんです。でも、あれはもう人間じゃないですよ!」――


 その仕事のスタイルというのは、次のようなものだそうだ。
 まず何時から何時までを「電話の時間」と決めて、顧客に次から次へと電話をかけ続ける。受話器から手を離すことなく、かけては次、かけては次と。
 アポイントは1日4件までとか決めて、それ以上の予定は入れない。
 それを毎日毎日、例外なく繰り返していく――。 それだけ。


 つまり、彼らは確信しているのだ。
 電話を何件したら何件のアポが取れて、そのうち何件が成約に結び付くかという、ごく単純な「確率としての現実化」を。

 かけた電話のほとんどは断られるだろうけど、それは自然なことだから意に介さない。
 そのうち一定確率で成約することを、必然の事実として知りながら、電話とアポを実践する。
 そして確率の通りの成果を得て、トップとなる。


 5位の営業マンいわく「普通の人が、彼らのまねをしようとしても絶対できない。だって、電話で何件も立て続けに断られたら、もうモチベーションが持ちませんから」
 「でも、次々に電話をかけてるトップの人に『すごいね』と声をかけたら、『そう? だって面白いじゃん』なんて、当たり前のように答えるんですよ!」

 ……これは確かに、通常の人間ではない。


 で、ここでスピリチュアルなテーマに立ち返ってみると――。
 引き寄せなど「望む現実の創造」って、それが宇宙の法則であるからには、「確率100%」のはずである(保険の成約率なんか比べものにならない高確率だ)

 にもかかわらず、その実践は本当に難しい。
 望みとは逆の出来事がいくつか起こったら、手法や結果への確信が揺らいでしまう。 
 まさしくモチベーションが維持できなくなってしまう…。


 そんな「望む現実の創造」の難しさをブレークスルーするような、バシャールの分かりやすい動画メッセージがあった。
 自分はバシャールは嫌いという人が「このメッセージは役に立つ」と紹介してきたものだから、どれどれと思い見てみたら、とても明快で素晴らしかった。特に後半の「エコー」の話は、さすがですね。

 既にけっこう知られているのかな? 以下、2部構成のものを貼り付けます。




  ☞ コメント:2

 
luk.jpg

 どんな映画や小説を「面白い」と思うかは、各人各様の好みでしょう。
 当たり前ですよね。何者かに「このお話を面白いと感じろ!」などと強制されるなんて無理だし。


 ところが、ある「基本構造」を持つ物語を見ると、なぜか人はその物語を「面白い」と感じるという法則があることを知って、すごく驚いたことがある。

 米国の文学者ジョーゼフ・キャンベルは、世界中に伝承されている神話を研究し、その多くに地域・民族・宗教を超えた「共通パターン」があることを発見した。

 神話に共通する基本構造とは、次のような筋立てだ――。


 【出立】 本来は高貴な人である若き主人公が、何らかの理由により身分の卑しい境遇で育てられる。そしてある日、自らの意思や突然の出来事をきっかけに、冒険の旅へ出る。
  ↓
 【試練】 旅ではさまざまな試練に直面する。未知の地で助けとなる仲間にも出会い、自らの才覚を発揮して苦難を乗り越え、主人公は成長していく。
  ↓
 【帰還】 最後に、主人公は勝利する。そして、宝物やお姫さまと一緒に本来の故郷へと帰り、尊い英雄となる。


 ――こうした物語の類型は「貴種流離譚(きしゅりゅうりたん)」とも呼ばれ、日本では「桃太郎」がそうだ。

 この物語構造を宇宙スケールに拡大して映像化したのが「スターウォーズ」で、世界中で爆発的にヒットした。
 「ライオンキング」をはじめディズニーの冒険アニメにも多く見られる。

 また「ドラクエ」などロールプレイング・ゲームも、だいたいこのパターンにのっとっている。
 

 幾分ありきたりの筋立てとも思えるけど、ではどうしてこれを人は共通して「面白い」と感じるのだろうか?
 同じような神話を何百年、何千年も昔から世界のあちこちで脈々と語り継ぎ、さらには映画やゲームなど「現代版」まで作り続けてきちんとヒットしているわけだから、潜在意識的な理由というのが必ずあるはずだ――。

 ジョーゼフ・キャンベルの解説では確か、自らが母胎を離れ産道を通って生まれ出たときの記憶になぞらえているから、とかいうようなことが書いてあったと思う(手元に本が残ってないので非常に不確かなのだけど…)


 でもここで、さらに踏み込んだ解釈もできるだろう。
 主要なスピリチュアル系の本をいくつか読めば、共通して出てくる話――。
 すなわち、神が自らを知るために、小さな魂となって本源を離れ、神であることを忘れてこの三次元世界であらゆることを経験し、最後にワンネスへと帰る、という話――。
 世界の神話の共通パターンは、まさにこの「魂の物語」の通りである。

 ではこの魂の物語を誰が作ったかといえば、それは神、すなわち「わたし自身」である。
 人は、「わたし自身」が作った自らの物語の記憶を、心の奥底でかすかに覚えているのだ。

 昔の神話の語り手は、魂の記憶をもとに、一つの物語をつむぎ出す。
 そして神話を聞く人々は、魂の記憶に照らし、その物語を「面白い」と感じる――。
 そう感じて当たり前なのだ。だって、もとは「自らが作った、自分自身の物語」なのだから。

 そしてその物語は、今まさに目の前で上演途中なのである。
 「試練」を経て、「帰還」へと向けて――。
  ☞ コメント:2

 


 前回に続いて理科的な話題です。

 日暮れの空を眺めて、「昨日もこの時間にここで空を見ていたなぁ…」と思っていたときのこと。

 「そういえば地球は宇宙空間を移動しているけど、もし昨日の地球が空に見えたとしたら、どんなふうに見えるのだろう…」という、いかにも暇を持て余しているような疑問がふと浮かんだ。


 調べてみると、地球は太陽のまわりを1年で1周しているが、その移動距離は「1日あたり260万km」になる。
 これは、地球から月までの距離のおよそ7倍に相当する。

 私たちがじっと同じ場所にいるつもりでも、地球全体ではものすごい距離を動いているわけだ。

 では、きのう地球が位置した軌道上にもう一個地球を置いたとしたら、今の地上からはどんなふうに見えるだろうか――。
 計算してみたところ、大きさとしては月の半分くらいで、夕暮れの上空に、半月のような「半地球」の姿で見えるはずである。ちょうど上の絵のような感じに。


 そんな遥かに望む「きのうの地球」がもし見えたとしたら、すごく感慨深いだろうね。

 たった1日で、ものすごい遠くに私たちは来ているんだなぁて…。 
 昨日いた場所には、絶対に戻ることはできない。人知ではどうすることもできないスピードとスケールで、私たちは運ばれているわけだ…。


 で、地球の動きというのは、それだけではない。
 太陽系全体も、銀河の渦の中を回っていて、その速度は実に「1日あたり2000万km」になる(よく聞く「フォンベルト突入」というのは、この移動によるものだろう)。

 さらにまだある。
 銀河全体も、宇宙の膨張によって移動していて、その速度は「1日あたり5000万km」くらいになる。

 これらの動きも加味すると……。どの方向にどれだけ動いているのか、もう分からない。
  ☞ コメント:2

 


 近年の科学の発見は、物理世界とスピリチャリティーとの境界を消し去っていくようです。
 量子力学の観察者効果をはじめ、ダークマター(暗黒物質)や、神の粒子と呼ばれるヒッグス粒子、等々――。

 でもそんな最先端でなく、高校物理くらいの知識でも、私たちの本質というのは「単なる物質以外の何かでは?」ということを思い起こさせてくれる。


 言うまでもなく、私たちの肉体は「原子」の集まりでできている。
2gen.jpg
 その原子の形は、よく左のような図で表現される。真ん中に原子核があって、その周囲を電子が回っている、という図だ。見たことありますよね。

 ただこの図は、見た目に分かりやすいよう相当にアレンジされたものだ。
 実際には、周りの電子は、原子核のこんなに近くを回っていない。

 仮に、真ん中の原子核を「直径10センチ」のソフトボール大だとすると、周りの電子はなんと「直径3キロメートル」の円軌道を回っている。

 10センチの原子核に対して、3キロメートルである…。絵に描けないくらい離れている。

 そしてその離れた間は、全く何もない「空」だ。物質というのは、中身が詰まっているように見えるけど、実際はスカスカの隙間だらけなのである。


 もしも人の体をギューッと押し縮めて、原子核と電子の隙間がなくなるまで小さくしたとしたら、人はどれくらいの体積になるだろうか――。
 ペットボトルくらい? コップくらい? サイコロくらい?…
 答えは、なんと赤血球くらいの大きさになってしまう!

 その赤血球くらいのサイズが、私たちの物質としての「実体」ということである。体の体積の残り大部分は、全く何もない「空」なのだ。


 赤血球サイズの実体が、果たして呼吸したり、食事したり、消化したり、生殖したり、さらには思考したり、感情を感じたり、人格を備えたり、そして命として生まれたり死んだりするものだろうか…。
 むしろ物質としての実体よりも、隙間の「空」のほうに、さまざまな行為や生滅を可能にさせている「私たちの本質」がある――。そう考えるほうが、ずっと自然だと思えるでしょ。
  ☞ コメント:3

 


 世界文化遺産であるバーミヤンの巨大石仏は、顔の部分が崩落して無くなっていた。
 その姿を見ると、三次元世界における「自分自身」の本当の外見というのは、ちょうどこんな様子なのだろなと思った。

 ダグラス・ハーディングの「The Headless Way」は、私たちには本当は頭が無いことを説いている。
 実際に、自分の身体の各所を見回しながら、純粋に感じてみると、「見る」という行為の出発点である頭の前の部分は、ぽっかり空になった透明な空間であることが認識できる。
 「いいや、ここには顔があるはずだ」という後付の知識を介入させない限り、認識している実感に疑いの余地はない。

 他人や鏡に映る像には、頭も顔も付いているのに、見ている当事者の「自分自身」にはそれが無い。

 その顔の無い状態の姿が、もし外側からリアルに見えたとすれば、ちょうどあのバーミヤンの石仏のようになるだろう。
 消えている顔の部分だけが、真実の次元に存在している。そして目に見える身体と周りの世界はすべて、この三次元世界の幻想の産物だ。


 たとえとしてかなり違うかもしれないけど、以前ある輸入車販売店を訪ねたときのこと。高級車種のオープンカーの価格が、屋根のある同じ車種よりも200万円も高いことに驚いたことがある。
 車体の上のスカッと開いた何も無い空間に、国産車まるまる1台分くらいの経済的価値が乗っかっているというわけだ。

 物質的にゼロのところに、価値がある――。


 バーミヤンの石仏は2001年にタリバンによって爆破され、現在では全身が無くなってしまっている。
 人類より一足先に、非物質の次元に行かれたのかな…。

  ☞ コメント:0

 
 今回はかなり雑談的なネタで、本の表紙のデザインの話です。

 ネット書店で、スピリチュアル関連本の読者コメントなどを見ると、「表紙が好き」といった評価をたびたび見かける。
 この分野の本の場合、その魅力を読み手のハートや魂に呼応するように伝える必要があるだけに、ビジネス書やミステリー小説などに比べても、「見た目」の印象が一段と大事なのかもしれない。


 とはいえ、その見た目の印象というのは、世界に普遍的なものではないようだ。
 翻訳本の場合、英語版と日本語版とでは、表紙デザインが大きく異なるものが少なくない。

 例えば世界的に売れたエックハルト・トール『ニュー・アース』は、次の通りかなり違っている。
ne.jpg

 左側がオリジナルの英語版だけど、われわれ日本人の感覚からすれば、右側の日本語版のほうが圧倒的にしっくり来て素敵だと思うのだけど…。

 ちなみに、英語版のデザインに忠実に日本語の表紙を作ってみたら、こんなのになってしまう。
ne2.jpg

 …これはちょっと、抵抗感あって書店で手に取れないよね。怪しい宗教の勧誘用冊子みたいだ。
 これと見比べたら、本物の日本語版の表紙は、実に見事に仕立てられていると思う。


 続いて、有名なニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』(の2巻目)
cg.jpg

 う~ん、左側の英語版…。オリジナルにけちを付けるのも筋違いだけど、ちょっと印象が違う気がするんだけど…。
 この表紙絵だと、休暇の旅行先で中年の男女が出会うラブロマンス物語でも書いてありそうな感じがしてしまうのは、僕の勝手な思い込みだろうか。


 次も、同じくニール・ドナルド・ウォルシュ『神よりしあわせ』
hg.jpg

 これも、この英語版の表紙って…、こうなのだろうか?
 細身の人物イラストが、仕事で使うプレゼンソフトのテンプレートに入っているものみたい。見た感じだと、「ちょっとしたヒントであなたもハッピーな気分になれますよ」という印象だけど、実際は「人生と幸せと真理」のテーマにがっぷり取り組んだ内容だ。
 あと、満開の桜を目にしていると、なぜかポワ~ッと幸せな気持ちになってくるのは、日本人だからなんでしょうね。
 やはり、民族とか文化の違いで、同じ本でもその表紙デザインは大きく変わってくるのだろう。


 次は物語だけど、パウロ・コエーリョ『アルケミスト』
al.jpg

 もちろん左側の英語版も無難で良いけど、日本語版の表紙絵はオリジナルを超えて素晴らしく魅力的に見える。
 ドラえもんがアニメ化されたとき、大山のぶ代の吹き替えの声に原作者の藤子不二雄が「ドラえもんって、ああいう声してたんですね」と言ったという逸話があるけど、同じようにパウロ・コエーリョに「サンチャゴ(主人公の少年)って、ああいう容姿だったんですね」と評価されてもいいくらいではと、個人的には思う。


 続いて、これも物語のエリンケ・バリオス『アミ 小さな宇宙人』
amjpg.jpg

 日本語版のちびまる子ちゃんの絵に「イメージが合っているのかなぁ」とも思ったけど、オリジナルのほうはもはや趣旨不明…。これじゃ電子玩具とかのパッケージではないか。
 でも、この表紙を見て母国の読者たちは「宇宙の友が伝える愛の物語」を感じるわけだろうから、外野の島国の立場から文句は言えない。


 引き続き、前出の本ほどは有名でないけど、ジュリア・キャメロン『ずっとやりたかったことを、やりなさい』(原題は『The Artist’s Way』)
aw.jpg

 この英語版の表紙って、日本びいきなのは本当に有り難いことだけど、何だかなぁ…。奇怪に峻険な富士山に、一列編成のタンチョウ鶴の群れ…。このデザインで日本の書店に置いたら、誰も買わないだろうね。
 ちなみに、この本の中にある「モーニングページ」というワークはとても素晴らしくて、僕が人生の舵を大きく切るときに助けになった。OSHOのジベリッシュの「記述版」という感じだ。


 最後に、すでに色々と意見されているけど、エックハルト・トール『さとりをひらくと、人生はシンプルで楽になる』(原題『The Power of Now』)
pn.jpg

 この日本語版の表紙は、なんか外してしまっている…。タイトルもイラストもデザインも、内容からかなり離れてしまっていると思うのだけど。
 日本を代表するスピリチュアル分野の翻訳家である山川紘矢氏も、近著『30冊の本』の中で、世界中で有名となったこの本の日本語訳が出たときにタイトルがこうなっているのを見て驚いたと評している。しかし、その上で次のように述べている。

 「きっと、すべてはなるべくしてなっているのでしょう。悟りを開くと、確かに人生はシンプルで楽になりますから、真実を伝えているタイトルだと思います」――

 要は、色々と言いたいことも出てくるけど、すべては、これでいいのだ!
  ☞ コメント:0

 
vf.jpg

 アマゾンのベストセラーを見たら、ヴィクトール・E・フランクル『夜と霧』が上位に入っていました。
 ランキングの前後はダイエットやタレント本ばっかりなのに、どうしてこんな「まっとう」な本が売れているのだろう? 高校の夏休み課題図書とかに挙げられているのかな…
 僕自身にとってもこの本は、影響を受けた本として相当上位に入る。(とはいえ、読んだのは遅ればせながら昨年なんだけど…)

 「心理学者、強制収容所を体験する――。これは事実の報告ではない、体験記だ。」という冒頭の書き出しから、読み手は急ピッチでユダヤ人強制収容所の情景へ、いや、強制収容所に送り込まれた人々の「魂の情景」へと引き連れられていく。

 凄惨な現実と人間の醜さ、そして愛が交錯する極限状態に置かれているからこそ見える「生」の真理を、思わずハッとさせられる言葉で伝えてくれる。
 この本は分野としてはスピリチュアルの本ではないけれども、その伝えるところは、スピリチュアルのマスターたちに同じと思う。生々しい体験事例を伴っているだけに、圧倒的な迫力とリアリティーがある。


 僕が最も印象深かったのは次の一文だ。
 「人間とはなにものか。人間とは、人間とは何かをつねに決定する存在だ。人間とは、ガス室を発明した存在だ。しかし同時に、ガス室に入っても毅然として祈りの言葉を口にする存在でもあるのだ」

 そしていま僕が思うに、人間とは何者であるかの「最終決定」を問われるタイミングに、私たちは遠からず差しかかろうとしているのではないだろうか――。
  ☞ コメント:0

 
bw3.jpg

 きのうの話題のつづきです。
 人は、「豊かさ」とか「成功」とかポジティブな結果を創造するよりも、その実現を抑止する「制約」を創造するほうが得意だという話をした。

 とはいえ、それは当然のことかもしれない。
 この三次元世界のそもそもの生い立ちというのを考えてみたら、全知全能で一つの大いなる愛である神が、わざわざ分離なり物質なり肉体といった「制約」を創造して、一人ひとりの「私」が作り出されたわけだ。

 天地創造というのは、要は「制約の創造」ともいえる。
 「はじめに言葉ありき」というのも、言葉というものは「制約」の象徴でもある。
 神が自らのために作り出した、偉大な創造物が「制約」というわけだ。


 私たちは何か実現したいことを考えるとき、ついつい「簡単には豊かになれない」「成功するのは難しい」といった「制約」を執拗に思い浮かべてしまう。
 そして「あぁ、自分はまた悪いように考えてしまっている…」と、やるかたなく落ち込んだりもしがちだ。

 でも「制約」を思うことは、とても当たり前のことだ。
 それは、じつに「神らしい」特質ともいえるものだ。
 だから、自分が物事を悪く考えてしまっていることに気づいた時は、「あぁ、いま神らしく制約を創造しようとしているな」くらいに考えればいい。
  ☞ コメント:0

 


 スキーは「減速のスポーツ」だという言い方があります。
 陸上や水泳など多くのスポーツは、加速することに力を注ぐ。一方でスキーの場合、加速することには努力を要さない。斜面を滑っていれば、どんどん加速していく。

 ただそこで減速しないと、直滑降のまま猛スピードでクラッシュするしかない…。
 ターンによって適度に減速しながら、うまくスピードに乗っていくことが、スキーというスポーツの要点となる。


 それと似たように言えば、我々がこの世界で行っているいわゆる「三次元ゲーム」は、いわば「制約のゲーム」とも表現できるだろう。

 制約がないと、単にそのまま覚醒へとまっしぐらで、ゲームにならない…。
 だから我々は、自らに備わる創造の力をフルに使って、「制約」を創出し続けている。スキーのターンで減速するように、人生で次々に制約を作り出しては、ゲームとしての楽しみを成り立たせている。
 そして、その人がどんな制約を作るかによって、人生の状況が決まる。
 
 創造の力で人生に何かを作り出すというと、ふつうは「豊かさ」とか「成功」「素敵なパートナー」といったものがよく考えられる。
 でも、人が習慣的に最も得意としている創造とは、それらの実現を抑止する「制約」の方ではなかろうか。
 つまり、「簡単に豊かになれない」「成功するのは難しい」「良い相手に出会えない」という「制約」を創造しては、そういう世界の中でゲームを演じているわけだ。


 とりわけ強力な「制約」となって現実を作り出しているのが、次のような思いだ。

 「こういう自分は認められない!」――

 例えば、「成功してない自分は認められない」という思いが根底にあった場合、まさにその思いの通りに、そんな自分のことを認めたくないくらい「成功してないまま」の現実が作り上げられる…。

 その「制約」を外してしまう方法は、逆説的なことに、「成功してない自分でもいいや」と、受容して認めてしまうことだろう。
  ☞ コメント:2

 


 サラリーマンを辞めてから10カ月以上が経ちました。
 その間に生活スタイルは一変したけど、それよりもメンタル面の変化の方が大きい。

 会社勤めの日々は本当に忙しかった…。いつもテンパってて、切羽詰って、綱渡りのようで、人心地がつかなかった。
 それに比べて今は、焦る必要があることは何もしてないから、いつも頭をポーッとして、安心して「うかうかした状態」でいられる。

 よく会社を退職した人が、肩書きや立場を失って精神的に落ち込んでしまうという話を聞くけど、僕にはそれが全く当てはまらなかった。
 会社の看板や名刺が「私」の要素でないことは、考えるまでもなく明白だ。これも、スピリチュアルなものごとを多少なりともかじったことの巧妙と言えるかもしれない。


 もう一つ、とても大きな変化が「ハート」の機能に関することだ。
 以前は、ハートは「心理的な器官」としての役割しかなかった。つまり、辛いことや嫌なことがあった時に「痛む」という機能だけだ。

 本とかワークで、ハートの中にある愛や光を感じてみましょうとか言われても、何も感じることができなかった。そこにあるのは鬱々とした痛みだけだった。

 でも今のように「うかうかした状態」でしばらく過ごしていると、ハートがかつての痛みを抱えた「窮屈な塊」から、色々な感情や思いを「受け容れて癒す空間」へと、徐々に変容してくるのが分かる。
 これは僕の人生にとって、まさに「新機能」と呼べるものだ。

 何かちょっと気に障る出来事があったとき、その気持ちをハートに受け容れると、「まぁ、いいか」という感じで、わだかまりを残さず立ち消えていってくれる。実に自然でシンプルだ。
 以前はそんな芸当はできなかった。過敏なハートで物事に触れると痛々しいから、とにかく感じることを拒絶するばかりだった。 

 「受け容れて癒す空間」としてのハートの機能は、生きていくうえで本当に素晴らしいものだ。このことを知っただけでも、会社を早期退職した甲斐があったと断言できる。
 これがハートの本来のあり方なのだろう。
 苦しみや痛みとは、この「本来のハートのあり方」が損なわれてしまった状態だとも言える。
  ☞ コメント:0

 


 先週、北京へ数日間の旅行をしてきました。
 ごくふつうの観光なので現地での感想はさておき、いちばん驚いたのが、日本に帰ってきてからのことだ…。

 成田空港から都内へ向かうバスに乗り、高速道路からの景色を何となく眺めていると、いつもと違う雰囲気に「おやっ?」と思った。「空とか町が、輝いているんじゃないのか!」

 まるで、白く澄んだ光が降り注いでいるように、空の雲や周囲の木々、道路、車、ビルなどあらゆるものが、清らかな輝きを帯びている――。
 これまで海外から東京に帰ってきたとき、人の多さや密集したビルなどに新鮮な違和感を覚えることはあったけど、「光」について感じたのは初めてだ。

 単に東京の天気が良かったからとか、中国の濁った空気と見比べたことも、要因かもしれない。でもこの国で、明らかに今までと違う何かが起こっているような感じもした。よく分からない…。

 これはたぶん、ずっと日本にいたままだと気づきにくい、大きいけれども微妙な変化なのかもしれない。
 でもこれだけ大勢の人が海外を行き来しているのだから、同じようなことを感じている人はいるのだろうか?――
  ☞ コメント:0

 


プロフィル

Koudai Mitsuna

Author:Koudai Mitsuna
 
光奈 広大(みつな・こうだい)

 20年のあまりのサラリーマン生活を経て、いわゆる「ザ・マネーゲーム」を何とか卒業。今では束縛されない自由な日々を存分に味わっています!

 そうした中で心がけているのは、普通の日常的な行いを通じて、意識の進化を目指す「カルマ・ヨガ」。

 日々の喜びや学び、インスピレーションから得たスピリチュアルな気付きなどをブログで紹介しています。

 妻子と都内在住――。

最近の記事
ツイッター

CALENDaR 12345678910111213141516171819202122232425262728293031
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。