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 宇宙の奇跡――
 ハッブル望遠鏡が撮影した「M16/わし星雲」。世界を感嘆させた、有名な天文写真。

 「創造の柱」と名付けられたこの巨大なガスの塊は、最上部のごく小さな指先のような突起部分だけでも、私たちがいる太陽系全体がすっぽり入ってしまう大きさ。

 雲の中には、これから星となる「胎児」を宿している。
 途方もないスケールで生起している、宇宙の荘厳ないとなみ。


ms5.jpg ミクロの奇跡――
 モンシロチョウの目の電子顕微鏡写真。

 端正に並んだ6角形は、「個眼」という昆虫などに特有の微小な目で、1つの大きさは50分の1ミリ。
 それが1万数千個ぴっちりと並んで、頭部にある半球状の「複眼」を構成している。

 蝶はこの目で大空を舞い、花を探し、そしてパートナーと巡り合う。
 成虫の寿命は2週間ほど。
 この細密をきわめた命の精巧品も、惜しげなく土へ還っていく。


 最大の奇跡――。
 それは、奇跡の経験者である「わたしが在る」ということ。
 
 壮大な天体の生滅も、自然界の精緻な技も、すべては経験者の意識の内にある。
 経験者がいなければ、物事のスケールも、奇跡としての変化や形もない。


 誰もが、「わたしが在る」ということは当たり前すぎると言う。
 これまでの転生でも、ずっとそう思ってきた。

 だが、輪廻を脱した覚者は「これこそが奇跡なのだ」と強調する。
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 暑さもずいぶんやわらいだので、広々とした荒川河川敷にウォーキングに行ってきました。

 その途中、堤防の階段を登っているときに、こんなメッセージが脈略もなくふっと浮かび上がってきた。

 未来への選択肢は、無数に枝分かれするように見えるが、
 最終的には、1つの結果に収束する。


 ……んんっ? なにやら小難しそうな話だな。


 でも確か、『神との対話』の本に、似たような話が出ていた。
 子供が外に遊びに出て行ったとき、親はその子が鬼ごっこをするか、かくれんぼをするか、ままごとをするかなんてことを、いちいち気にかけないだろうと、神は説明する。
 それと同様に、神はあなたの行動に関心がないと言い切る。
 「なぜなら、究極の結果は確実に決まっているから」だと。


 私たちの人生には、ありとあらゆる可能性の「パラレル宇宙」が、無数に用意されている。
 そして、その中からどれを選んで生きていくかの「自由意志」も、私たちには与えられている。

 「AかBか」という選択で、「A」の道を選んだら、その次に「CかDか」の選択が待っている。もう一方の「B」の道を選んだら、次は「EかFか」の選択がある。そして、そのうちの1つを選んだら今度は――。
 という具合に、選択の道は次から次にどんどん細かく無数に枝分かれしていき、どう選ぶかによって行き着く先は全く違ってくるはずだ。

 そのはずなのに、こうした複雑多岐な選択の道筋があるにもかかわらず、「結果は1つに決まっている」のだという…。


 同じように、無数に枝分かれしていくように見えて、実際には全く逆に「小さく収束していく」というものの例として、こんなのがある。

 それは「自分の先祖の人数」だ。
 ごく簡単な算数だけど、ちょっと考えてみると不思議な感じがしてくる。

 まず自分の「両親」の数は、父親と母親の当然2人である。

 その前の世代である自分の「祖父母」の数は、父かたの祖父母と、母かたの祖父母で、計4人だ。

 そして、その前の世代の「曽祖父母」の数は、(祖父母4人にそれぞれ両親がいるわけだから)計8人となる。

 このあたりまでは、自然な実感として分かる。
 例外など絶対にあり得ない(処女懐胎でもない限り)。


 さらに計算していくと、その前の世代の「曽々祖父母」の人数は16人、その前の世代は32人、その前の世代は64人――。
 と、世代をさかのぼるほど、自分の先祖の人数が倍々にどんどん増えていく。

 そして、10世代前の「曽々々々々々々々祖父母」になると、その人数は実に1024人にもなる。
 10世代前というと、江戸時代後期くらいだろう。十数代も続く老舗が現存しているわけだから、決して古すぎる話ではない。

 その時代に、自分の血筋にあたる人が、驚くべきことに千人以上もいるわけだ。そのほとんどが、住む場所も境遇も異なる見ず知らずの関係だろうし、以後の出会いの運命の結果として今の自分がいると考えると、なかなかの感慨深さを覚える。 


 ――でもこの計算、間違いようがないくらい単純だけれど、何だかおかしいと思いませんか?
 さらに先を続けていくと、すごいことになってしまう。

 何しろ倍々で増えていくわけだから、27世代前(室町時代くらい)の自分の先祖の人数は、何と1億3000万人にも上る。これは、現在の日本の総人口よりも多い。
 そして33世代前(鎌倉時代くらい)になると、現在の世界人口を上回る約85億人という計算になる…。


 実際はそんなはずはない。鎌倉時代の日本に85億人もいたわけがない。しかも自分の先祖だけで。
 一般的な家計図を見れば明らかなように、時代をさかのぼるほど、先祖の数は少なくなっていくのが筋である(そして究極的には、アダムとイブの1組に行きつく?…)

 なのに計算上では、実際とは全く逆に、過去の世代に行くほど次々に枝分かれして、人数が増えていくという図式なのだ。
 

 この「過去にさかのぼった先祖の人数」の図式を、現在を中心軸にぐるり180度反転させて、「未来の選択肢の数」に当てはめてみると…。

 計算上は、未来に進むほど選択肢は無数に枝分かれしていくはずだ。
 けれど本当は逆に、その数は(家系図をさかのぼるように)どんどん減っていって、最終的には1つに収束していくことになる。


 無数のように見える道が、単純に幻なのだ。それはまるで「ネズミ講の詭弁」のようなものだ。 

 私たちは、1つに収束していくパラレル宇宙を生きている。

 それは、外れてしまうことのない道――。私たちの本質へと必ず行き着く「恩寵の道」である。
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uk2.jpg 前回に続いて蝶の話題です。

 そう書きながら何だけど、実をいうと僕は、蝶のたぐいがあんまり得意でない…。特に彩り鮮やかなビジュアル系のイモ虫や、羽の目玉模様は、写真を見るだけで背筋がゾゾーッとしてしまう。

 あの色や模様は、鳥などの捕食者に対して「オレを食べたら危険だぞ!」と脅すことが目的だという。
 そのため、僕の脳幹にある「動物脳」の部分が、それを見たとき脅されてひるむように、ゾゾーッと本能的に反応してしいるのだろうと思う。



 でもめげずに書きます。
 昆虫が苦手という人にはイヤな想像なのだけど、蝶が羽化する前の「さなぎ」の中身って、どういう状態になってると思いますか?――

 中にはもとの幼虫の体が入っていて、その体に羽などがニョキニョキと発育していって……という建設的な様子を僕は思い浮かべていたのだけど、それは間違ったイメージだった。

 答えは、さなぎの中身は、「ドロドロに溶けた液状」だそうだ…。


 さなぎの中では、体の大部分をまさに完膚なきまでいったん破壊し、成分レベルに溶解したうえで、蝶の体をいちから作り直している。

 どうしてそこまでするのかというと、幼虫と成虫とでは体の構造がぜんぜん違うからだ。
 羽の有無はもちろん、例えば口の形状も、幼虫は葉っぱをバリバリとかじる口だけど、成虫は液をチュウチュウと吸う口に完全に作り変えなくてはならない。
 視神経や筋力も、葉っぱの上をはうのと飛行するのとでは、格段に違う能力が必要となる。

 人間のような「毛の生えた程度」の成長でなくて、昆虫の「完全変態」というのは文字通り破壊と再構築なのだ。
 

 翻って、私たちの人生でも、大なり小なり、過去の成果などを打ち壊したドロドロの状態を経ることがある。
 覚醒を引き起こしやすい出来事といわれる「3トウ(倒産・闘病・投獄)」は、とりわけヘビーな典型といえる。

 そうした、ネガティブな破壊的出来事は、その人の生き方や在り方が変容して飛翔する前兆なのだろう。
 特に最近、個人レベルの話だけでなく、この国も、世界全体も、これから多くのもが崩れて失われていくように思える。


 地球という大きな「さなぎ」が、いよいよ羽化して飛び立つ時を迎える――。すべては、そのために必要なこととして起こっているのかな。
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 自由に解き放たれた「魂」を、よく大空を舞う蝶になぞらえますよね。
 エリザベス・キューブラー・ロスは、蝶を自身の思想のシンボルにもしていました。


 蝶が特に「魂のようだな」と感じられることとして、北米に生息する「モナーク蝶(和名はオオカバマダラ)」の大飛行がある。

 メキシコの高地にはモナーク蝶が数百万匹もの大集団で冬ごもりする木があって、テレビなどで「蝶のなる木」として紹介されるのを見たことがある人も多いだろう(世界自然遺産にも指定されている)。


 この蝶は春になると、越冬地のメキシコから、3000km以上も離れたカナダまで、大陸縦断の壮大な旅をする(日本に当てはめれば、北海道の稚内から沖縄の西表島までの距離!)
 「渡り鳥」のように「渡り蝶」とも呼ばれる。

 ただ渡り鳥の場合は同じ個体が移動するけど、それに対しモナーク蝶の旅が驚異的なところは、寿命数週間の成虫が何世代も生命のバトンをつなぐようにして、遥か目的地のカナダまで渡っていくことだ。

 1つの個体は、旅の途中で卵を産み付けて死滅してしまう。
 卵から生まれた幼虫は、羽化して蝶になったら、本能として北上の旅を続ける。
 この成虫も旅の途中で卵を産んで死滅し、次に生まれた幼虫が羽化して――と、世代交代を繰り返しながら、3~4世代をかけて夏のカナダに到達する。


 そうして、夏のカナダで生まれた新しい世代は、今度は越冬地メキシコへ戻るための南下の旅に出る。
 その蝶自身にとっては、まだ一度も見たことのない、先祖たちが旅立ってきた地に向けて――。


 ここでモナーク蝶の謎とされているのは、カナダへ北上する旅ではいくつもの世代交代を重ねたのに、越冬地へ帰る旅のほうは「1世代」で行われることだ。

 また、その新しい世代は、祖先が飛んで来たのと同じルートをたどり、越冬地では先祖がとまっていた同じ木に戻ることもあるという…。

 そうしてやっと、世代をつないだ一連の「渡り」の旅が終結する。


 モナーク蝶の旅は実に壮大だけど、私たちの「魂の旅」はさらにケタ違いのスケールといえる。
 何しろ、本源を離れた魂は、これまでに数百回もの転生を重ねてきたというから。

 でも、そこまでの大旅行をしながら、戻る旅のほうはたったの「1世代」で行うのかもしれない。
 戻るための「新しい世代」――、それがいま地上に生きるあなたや私だとすれば、何ともすごいことだと思いませんか!

 でも、どこへどうやって戻る?
 その目的地やルートは、蝶の自然な本能と同じように、私たちの内に初めから備わっているに違いない。
 ――「ここに在る」と。
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 この数日、自分の意識がずいぶん変化してきたのが分かります…。

 これを「シフト」とか「進化」と呼ぶと、あまり正確な表現でない。
 自分に後付けで構築してきた色んなもの――価値観とか反応パターン、自己の枠組みや境界――といったものが、はかなく抜け落ちていく…。

 そして、そこに最初からあった、平板で広い更地のようなものが、あらわになってきている――という感じ。
 国破れて山河あり、みたいな。


 その更地や山河にあたるものが、「私が在る」「いまここ」「空意識」とか、色んなふうに呼ばれている「これ」。

 「これ」の感覚は、もちろん以前からあったし、特段に珍しい経験ではない。
 でも今回は一つだけ、以前とかなり違う点ある。
 それは――「この無味乾燥なものだけのはずはないだろう。 さらに素晴らしい経験や状態があるはずだ」といった、マインドのひそかな意向が出てこないこと…。

 そのためか、今は「これ」があらわになるままに、シンプルに放っておける。


 以前ブログで、「悟りを得るというのは、確率的には数百万人の1人の希少難病にかかるくらい」ということを書いたけど、僕はこの前言を撤回しなくてはいけない…。

 「悟り」という言葉は、「神」という言葉と同様に、あまりに色々な意味やらイメージが付加されてしまっている。

 「意識の爆発やシフトが起こる」と表現している本もある。
 また、「大いなる愛に抱擁される至福」とか「とてつもなく美しい光に照らされた歓喜」「世界の幻想性を見通し、宇宙の真理につながる叡智」、といった説明も目にする(なんて魅力的な境地!)
 またすべてを打ち消して、「何もない遠大で平安な虚空」なんてふうにも言われるけど、その平安を特別なものとして味わおうとする自分を介在させてしまう…。


 人間の意識には、そのような局面が現れることも確かにあるのだろう。
 でもそうした経験は、あくまでも副次的で、来てはいつか過ぎ去るものであり、私たちの本質そのものにあたるものではない。

 私たちの本質――それは紛れもなくシンプルな「これ」であり、それより先に目指すべき地点が、あろうはずがない…。


 ただ、僕はこんなことは、ずっと以前から分かっていたはずだ。
 本には同じことが繰り返しくどくどと面白みもなく書かれているし、自分はそんな轍なんか踏まないよう、抜かりなく警戒しているつもりだった。

 でも、マインドは実にしたたかに、「精神世界に対する期待や夢」「自分はこうありたいという意向」を、どこか捨てきれないものとしてずっと潜伏させていたわけだ。


 自分の本質である「これ」に気づくことと、「これ」としての人生を生きることの間には、大きな違いがあるものだな…と、強く感じています。
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 前回の記事では、私たちの視覚は「色眼鏡をかけて見たものを真実だと信じてしまう」なんて話をしました。

 今度もそれにちょっと近い話で、私たちの知覚には「消去のメカニズム」が働いているという話題。


 人の頭脳が音声情報を処理する仕組みに、「カクテルパーティー効果」というのがある。
 
 ホテルの広間で行われる立食パーティーのような、大勢の人があちこちで歓談している中にいたとする。
 誰が何を話しているかも分からないような賑わいだ。

 そんな、周りで交わされるたくさんの声の中に突然、「このまえ○○さんがさぁ」とか自分の名前が出てきたら、その声だけが耳に飛び込んでくるように聞こえてきてハッ!とする――。
 そんな経験って、ありませんか。

 自分の名前が聞こえてくるまでは、その人の声なんか喧騒の一部にすぎず、全く気に止めてなかったのに…。


 実は私たちは、一度にたくさんの人が話している声を、潜在意識では全部聞き取っているのだ。

 そして無意識のうちに、「この内容は聞く必要がない、これもいらない」と選択したうえで却下している。
 その中に「これは聞く必要がある」と判断したものがあれば、その声だけがたちどころにクローズアップされて、顕在意識上に聞こえてくるわけだ。
 

 聴覚だけでなく、視覚でも同じようなことをしている。

 例えば、自宅の自分の部屋に入るとき、室内の光景はあまりに見慣れすぎていて、特にどこにも気を止めないだろう。
 何を見ているのか見ていないのか、自分でも分からないような状態だ。

 でも机の上に普段はない小物が置いてあったり、きれいなはずの壁にうっすらシミが付いていたりとかしたら、「あれ、なぜだろう?」ってパッと目に付く。

 ここでも、潜在意識が目に映るすべてのものを見ていて、「注意を向ける必要があるかどうか」を判断している。
 その上で、「必要がある」としたところにだけ、顕在意識に目を向けさせる、ということだろう。


 ホ・オポノポノのヒューレン氏も、「潜在意識の情報処理能力は膨大で、顕在意識の能力はその百万分の1しかない」といった話をしている。

 まさしく「超人的」な潜在意識がとらえた大量情報を、「人並み」の顕在意識が対処できるようにするには、大部分を消去してから引き渡さないといけない。

 こうして人は、無限の可能性をはらみながらも、制限された能力に基づいた人生を送れるのだろう――。

 錯覚などの知覚のメカニズムの中には、「神が人間となって三次元ゲームをプレーする際に、よりリアルになるように設定したのではないかな?」なんて思えるものがあって面白い。 
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 「見ることは信じること」って、ことわざで言いますよね。

 でも、見えた通りが果たして真実なのか?――、錯覚の図なんかを見ると、その点を改めて考えさせられます。


 僕がこれまで見た中でも特にすごいなと思うのが、下の図。

 円柱形のブロックがX字状に組まれているけど、その交差部分のブロック(矢印を付けた部分)が、どちらも「同じ色」だということが、信じられますか。



 はぁ?…何を言ってんだ。左側が濃い青で、右側は明らかに黄色じゃないか。誰がどう見てもぜんぜん違う色だろ! なんて思われるだろうけど、実際には本当に全く同じ色なのだ。

 でも、そう言われても、決して同じ色には見えてこない。じっと見比べるほど、青と黄色の異なる色にしか見えない。


 該当の交差部分だけを、拡大して並べてみると、以下のようになる。
X.jpg

 これでもまだ微妙で、片方ずつを見ると違う色に見えてしまう。
 だが、重ねた図が隣接している真ん中の辺りや、ちょっと遠巻きに全体をとらえるように見れば、確かにどちらも同じ灰色であることが分かる。



 この錯覚は、片側の背景が青色で、もう一方の背景が黄色だから起こるものだ。
 人間の視覚が、周りに合わせて色を自動補正して捉え、その結果、左右のブロックが違う色に見えてしまう。

 この自動補正の機能には、もちろん利点がある。

 例えば、暗い陰になった場所にリンゴを置いた場合、そのままだとリンゴはかなり黒っぽい色になっているはずだ。
 でも、周りに応じた自動補正によって、私たちの視覚には「黒いリンゴ」ではなく、ちゃんと「赤いリンゴ」として映る。


 一方で言えることは、私たちの目は「周りとの相対で色彩をとらえる色眼鏡」をかけている、ということ。
 そして、その色眼鏡を通して見えた色を、「絶対に見えている通りだ」と信じてしまうこと。

 ――ある意味で、「相対」が「絶対」へと置き換わってしまうわけだ。



 このことは、色の見え方に限った話ではないことも面白い。

 人の豊かさや、幸せとかも、「周りとの相対でとらえる色眼鏡」を通してしか捉えられない。そして、その見え方を「絶対」であると信じてしまう。

 その錯覚によって、「不足」や「不幸」の状態が創造される。
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 今回はちょっと趣向を変えて、語学っぽい話題です。

 「志(こころざし)」という漢字は小学校5年生のときに習うけど、習った時にふと、このように思った人が多いのではないでしょうか。

 ――「こころざし」って、心で目指すわけだから、「心指し」と書いてもいいなじゃないの? なのに、わざわざ「志」という一文字があるんだ…。


 たぶん、古代の日本にもともと、大和言葉としての「こころざし」という言い方があったのだろう。
 そこに、大陸から漢字が伝わってきた。

 そして「こころ」という言葉には「心」の漢字を充てた。
 一方で「こころざし」には、その意味に対応する「志」という漢字があったものだから、その字を充てるようにした――、といったいきさつなのだろうと思う。

 また日本語では同じ「はかる」でも、漢字で書く場合には「計る」「測る」「量る」などと書き分けなくてはならない(さらに「図る」「謀る」「諮る」もある)。
 これも、大和言葉と漢字との対応ギャップから来たものだろうし、同じようなややこしい例は色々と挙げられる。


 大人になったら、前述の「志」のような疑問なんて気にも止めなくなり、誰も当たり前のように使っている。

 でも、現代でも口にしている大和言葉をちょっと意識して考えてみると、「へぇ、昔の日本人はそんなふうに考えていたんだ!」と気づいて感心することがある。


 たとえば「いきる」は、漢字では「生きる」と書くけれども、もとの大和言葉は「いき(息)する」から来ている。

 つまり「生きる」とは「息をする」ことである。
 古代人は、呼吸をまさに命が活動しているあかしとしてとらえ、そのように言ったのだろう。


 また「おそれ」という言葉も、「恐怖」の意味とともに、「大雨のおそれがある」とか「おそらく」とか、将来の予想とか自分の推測の意味にも使う。
 ふだん口にする時には違う意味として言い分けてるけど、もとは同じ「おそれ」である。

 つまり大和言葉では、「予想や推測」イコール「恐怖」であるという、心理的な事実がきちんと把握されていたわけだ。


 さらに「あやまる」も、「ハンドル操作を誤る」と「ごめんなさいと謝る」の2種類の漢字と意味があるけど、大和言葉はどちらも同源らしい。
 つまり「誤ったら謝る」ということだ。論語に「あやまちては改むるにはばかることなかれ」とあるけど、そんな教えが入ってくる前から、日本人はその通りに考えていたといえる。


 極めつけといえるのが、古い詩文に出てくる「うつせみ」という言葉。
 「うつせみ」とは、「この世の中」とか、そこに「生存している身」の意味だ。

 この言葉のもとは、「空蝉」すなわち「セミの抜け殻」とか、影を表す「映し身」だという。……これ、ズバリ言い当ててますよね。


 古代の日本の人々は、仏教とかプラトン哲学とかスピリチュアル思想とかを知る前から、人の本質が肉体ボディーでないことや、この世界が投影された幻であることを分かって、言葉の上に表していたわけだ。

 ――それって、なかなかものすごいことだと思えませんか。
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 このブログは「スピリチュアル」というジャンルにいちおう位置づけているけど、同じジャンルのブログを色々と見ると、「スピリチュアル」の中には本当に色んなテーマがあるものだなと、あらためて感心しますよね。

 ちなみの大手書店の「スピリチュアル」の分類項目には、さらに細分化した、「死生観」「癒し・ヒーリング」「気・ヨーガ・瞑想」「占星術・錬金術」「神秘思想」「ニューエイジ」「超常世界」「宇宙人・UFO」――などといった項目がある。
 これらの項目でもまだまだ大雑把といえるほどで、より詳しい分類に絞っていくこともできる。


 こうした種々のテーマの中でも、とりわけ超絶的で孤高な性格といえるのが、「悟り・覚醒」のテーマではないだろうか…。

 何しろ、ヒーリングのように日常社会で役に立つことはないし、UFOの話のみたいに純粋な読み物としての面白さもない。
 あくまでも「悟り」についての本は、「悟り」に関心を持つ人のための、「悟り」の情報なのである。


 さらに「悟り」というテーマの大きな特殊性が、自分自身にうまく適用・再現できる可能性が著しく低いことだろう――。少なくとも現時点においては。

 いま世界中に、悟りを開いた人は、どれくらいの人数がいるのだろうか。
 見当もつかないけど、数十人くらい…? (一時的な覚醒体験をした、いわゆる「一瞥」の経験者も含めて数百人とか、せいぜい千人規模だろうか)

 これでも十分多いという人もいるかもしれないけど、かりに病気の患者数になぞらえれば、数百万人に1人の「希少難病」の水準である。


 例えば、老化が異常に進行するプロジェリア症候群という難病がある。
 もしある人が、自分がプロジェリアの患者になることを真剣に心配して、日々その予防に努めていたとしたら、誰もがその人にこうアドバイスするはずだ。

 「そんな病気にあなたがかかることは絶対にないから、もっと普通のことを頑張りなさい」と。

 ――悟りに関心を持つことって、確率的には、それと同じことだといえる。
 でも、今までは「悟り」が希少難病なみだったかもしれないけど、やがて何らかの変化によって、「がん」みたいにポピュラーなものになるのかもしれない。どうなるかは、もちろん分からない。


 僕は、悟りは生の最終目的だと考えているし、1日の中に瞑想の時間を設けたり、ときどきリトリートに参加もしている。

 でも「悟る」こと以上に、この「悟っていない」状態こそ、実は特別で貴重なものではないかと思っている。
 というのは、「悟ってない」状態であればこそ、「見ないのに信じる」ということが可能だからだ――。


 イエスは、十字架にはりつけられて死んだ後に、復活した。
 弟子の1人は、復活の話を耳にして疑った。
 そして、イエスの手のひらに空いた釘穴や、槍で突かれたわき腹の傷穴に、自分の指を差し込んでみるまでは、絶対に信じないと言った。

 後日にイエスは弟子たちの前に現れた。そして、疑っていた弟子に自らの手と腹を触れさせて語った。
 「あなたは私を見たから信じたのか。見ないのに信じる者が幸いなのに」


 奇跡というものは、起こしたり見たりすること以上に、「見ないのに信じる」ことに、真に重要な意味があるのかもしれない。
 私たちは、「悟り」という奇跡に対し、わざわざ自分の指を差し込んでみなくても構わない。
 イエスが語る「幸いな人」になるためには、聖者や覚者や賢者になる必要は無い。「見ないのに信じる」ことこそが大事なのだ。

 まだ「見てない」「悟ってない」状態の人は、正真正銘の「見ないのに信じる人」になれる条件を、十二分に備えている。何ひとつ問題点とか不足はない。


 とはいえ、何もしないで信じていれば良いわけではないと思う。

 このブログは、タイトルに「カルマ・ヨガ」という言葉を付けているけど、これは、日常のさまざまな活動を行いながら、ワンネスへの進化を遂げていこうという思いを込めている(記事内容は趣旨に即していると言えないかもしれないけど…)。

 ちなみにカルマ・ヨガの「カルマ」とは、「行動」という意味である。
 カルマといえば思い浮かぶ「過去生からの業(ごう)」の意味は、ここでは含んでいない。(考えてみれば漢字の「業」の字にも「行い」の意味がありますよね。営業とか事業とか)
 あと「ヨガ」のもともとの意味は、「結合」とか「合一」である。


 もし人類意識の大きな変革が起こるとして、その到達までにある程度の「過渡期」があるとすれば――、その期間は一人ひとりが普段の社会的活動などに最善を尽くしながら進化の道を歩む時代、すなわち「カルマ・ヨガ」の時代になるんじゃないかと思う。

 だからこれから「カルマ・ヨガ」という言葉が、もっと広まってもいいのではと思うのだけど…。
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 以前にブログで、高校時代の昔話を少し書いていたら、大事なエピソードを思い出した。
 実は、僕が高校生のとき物理の先生は、有名人なんですよ!

 僕が習っていた当時、その先生は外から招いたとても若い非常勤講師で、確かまだ大学院生だったと思う。



 僕の学んだ私立校は、独特な教育方針で知られるところだった。
 そんな校風の中にあっても、この物理の先生の授業は、輪をかけて破天荒だった。
 何しろ、教科書をあまり使わないのだ…。

 授業では、怪しげな機器を教室に運び込んでは、いきなり「実験」が始まる。

 例えば「慣性力」については、車輪の付いたボードを自作してきて、その上に生徒を立たせて動かし、慣性力というものを身体的経験として示して見せた。


 「静電気」の実験は過激だった。
 高圧静電気発生装置を使って、生徒の体を丸ごと帯電させるのだが、どうやらこのとき漏電対策が不十分だったらしく、電圧をかけている最中に生徒がまともに感電してしまった。

 それもパチッとかビリリッとかいうレベルではなく、大の高校生が「ギャー、先生、痛テェーーー!!」と顔面をゆがめて叫ぶほどである。

 映画「ランボー2」で、ベトナムで捕虜になったランボーが、電気ショックの拷問を受けて「ウォーー!!」と絶叫するシーンがあるけど、それのちょい手前、という感じだ。


 さらに、気体の温度・体積について理解するための「熱気球」も、生徒総出で作った。
 黒いゴミ袋を何十枚も張り合わせた、長さ10メートルくらいはあろう巨大なものだ。

 それを太陽熱で温めて、見事に空に浮揚させた。
 ところが風が強かったため、ある程度上がったところであおられ、高いケヤキの木にバサッと引っかかってしまった。

 すると先生は「僕は木登りが得意だから」と、高校生でもおじけづくような高さへヒョイヒョイと登っていって、引っかかった熱気球(というか、この時点では大量のゴミ袋の残骸)を無事に木から外した。

 でも考えてみれば、木に引っかかって良かったと思う。
 近くには自衛隊基地もあったから、あんな大きな真っ黒の未確認物体が空を飛んでたら、「スクランブル発進!」なんて事態になってたかたもしれない…。

 
 また手製の「吹き矢」を持ってきたこともあった。
 かなり長めの筒に、矢の先には鋭い釘まで付いていた。

 それを先生が思いっきり吹くと、教室の後ろにある棚の木の扉をバシッ!っと貫通した(その衝撃音に、後の席で寝ていた生徒らは一瞬で飛び起きた)。

 先生が校内で破壊行為をしてどーすんだよと思いながらも、吹き矢の単純さにそぐわない「殺傷能力」のすごさに、ど肝を抜かれて感心した…。


 ――一般に、学校の授業内容に関する「記憶残存率」というのは、年月とともにほぼゼロ水準まで忘却されてしまう。
 ところが、この物理の先生の授業は、まさに「異常値」といえるほど記憶残存率が高い。何しろ、授業で目にした「景色」が毎回違うわけだから。

 さらに、この先生の授業で、実験のほかに、もう一つなぜかよく覚えているものがある。
 高校3年生のときの「最後の授業」である。

 生徒たちは大学などに進学し、確か先生も、3年間にわたるこの学校での非常勤講師を終えられるという(そのあと都立高校の教員の職に就かれたと思う)、お互いの意味で「最後」だった。


 最後の授業の終わりに、先生は自身の大学受験の話をした。
 「僕は実は、大学に入るのに3浪したんだよね」と――

 1浪、2浪も相当ショックだったけど、3浪目のときには、先が見えなくなるほどひどく落ち込んだという。
 「これから、自分はどうなっちゃうんだろう…」と、茫然自失して社会との接点を閉ざしてしまい、どうしようもなく人生についてとかの本を読みながら、引きこもり同然の日々を過ごしたそうだ。

 「でも、そんな僕が、今こうして皆の前で教えているわけだから、人生ってどうなるか分からないものだよね」と言って、授業を結んだ。

 ――そんな、自身のありのままを語った、飾り気の全くない「はなむけの言葉」が、妙に印象深く心に残った。
 実験に関しては尋常でないほど凝るのに、ほかのことには控え目で、生徒と同じ目線で率直に話すところが、とてもこの先生らしかった。


 それから十数年後――。
 自分はとっくに社会人となって、結婚して子供もいて、というある日、テレビを見ていて仰天した。

 「あれれっ、この人! 高校のときに物理を習った、でんじろう先生じゃないかっ!」。しかも昔と変わらず、実験を披露してる…。

 その後もテレビで頻繁に目にするようになり、いまや「理科の先生」の代名詞的な存在となった。


 先生から学んだ一番大きなことは、実験はもちろんのことであるが、それ以上に、「人生って、先生が最後の授業で述べられた通り、本当にどうなるかわからないものですね!」ということだ。

 たとえ落ち込んだり、引きこもるようなことがあっても、人生捨てたものではない――。
 そのことを、実験のパフォーマンス以上に、鮮やかに示して見せてくれた。


 ところで、「静電気」や「気球」の実験は、今もテレビでときどきやっているのを見る。
 でも、あの最もインパクトが強烈だった「吹き矢」は、実演されているところを一度も見たことがない。

 たぶん、まねをするとあまりに危険すぎて、放送できないのだろう…。
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 「ツインソウル」という、共に転生している魂のカップルが存在するという話がありますよね。

 最愛の人、運命の相手、無二の伴侶――。そんなツインソウルがこの地上のどこかにいて、私と巡り逢って再び一緒になる時をずっと待ってくれている。

 ……なんて甘ったるいことを書いてたら、背中がむずがゆくなってきた(僕の偏見です、すみません)

 ツインソウルというと、普通は「愛情に満ちた関係」として描かれるけど、ひょっとしたらその逆の関係も時としてあるのでは、というのが僕個人の最近の考えだ――。


 僕の妻は、鬱を患っている。
 十年以上前に知り合って結婚してしばらくは、「人付き合いや会話が苦手なタイプなのかな」と思っていた。

 けれど生活を共にしていると、それだけでは片付けられない色々な問題があらわになってきて、本人も心の中で非常に苦しみ、精神科を訪ねたら鬱と診断された。


 日常的に特に困ったのが、彼女の被害妄想だった。
 「隣近所の人や、子供が通う幼稚園・学校の父母から、自分は陰口を言われて除け者にされ、いつも見張られている」――ということを、僕が会社から帰宅すると訴えかけてきた。

 僕は「そんなことはあり得ない。他人はあなたのことにそれほど関心がないはずだし、つまらない嫌がらせをしている暇もないだろう」と理屈で説明するのだが、全く聞き入れない。
 あげくに妻は「あなたは他人や社会のことを何も分かっていない!」と、僕を非難する結果にいつもなった。


 社会観が病んでいるため、妻は何か仕事に就いても1カ月から半年くらいで、続けられなくなってやめてしまう。

 また部屋の中の整理もできない…。放っておいたら、洗濯物とか本とか買い物袋とかが、床やテーブルやベッドの上などあらゆるスペースに、ゴミ屋敷のように山積していく。(トイレの箱に入れっ放しの、使用後の生理用品を始末するのも、僕の役目だ)

 でも僕が休みの日に掃除をしていると、「どうして余計なことをするの! 朝からガチャガチャとうるさくて寝てられない」と、非難の言葉を口にした。


 そして彼女は、社会に受け入れてもらえないことへの反発や、物事がうなくいかないストレスのはけ口を、よくこちらに向けてきた。
 でも僕はうまくリスニングができるカウンセラーではないし、自分自身も会社の仕事で常時ヘトヘトの状態だったから、聞いているうちにだんだんと突き放すような受け応え方になってしまう。

 すると、僕の一言を妄想的に解釈して膨らませ、「私のことを早く死ねばいいと言った」とか、僕が口にしてもいない言葉を、事実のように思い込んでしまう。
 やがて妻にとって僕は、「世の中で最も自分のことを理解してくれない、悲しいほど否定的な人」として位置づけられるようになった。そして僕をさげすむような態度を取った――。

 僕はもちろん腹が立った。普段は会社で何があっても、怒ることなんて全然なかったのに。
 でも「妻との関係を終わらせてしまおう」という気には、なぜか全くならなかった。


 そもそも妻が鬱を患ったのは、育った家庭環境に原因がある。
 彼女の家は経済的に相当豊かだったが、父親はアルコール依存症で躁鬱や暴力を繰り返し、家族関係はすさんだものだった。

 その父親がアルコール依存症になったのも、もとは祖父との関係に不和があり、兄弟が自殺するといった不幸な因果が背景にあった。


 一方で、僕の家系はというと、それほど豊かでない庶民的な家である。
 あえて特徴点をいえば、僕自身も両親も祖父母も、人一倍の働き者で勤勉な性格ということだ。
 社会一般的には美徳かもしれないけれど、この性格は自らの内面において、自己攻撃・罪悪感の温床となり得る。

 「きちんとしていない自分」を、自分自身で許せないないのだ。そして何事も抜かりないよう自分に無理強いして、ありのままの自己愛というものを人生から遠ざけてしまう。
 
 僕も人生の前半においては、自分が勤勉できちんとできていることが誇りでもあった。学校の成績も、仕事の実績や評価も、自他共に認められるだけの結果を出せていたと思う。

 でも40歳手前のあたりから、色々と無理を感じるようになった、単に年のせいではなく、魂が「この生き方は違うぞ!」と強く忠告してくるようだった。
 普段のくらしや仕事が、なぜかだんだんと息苦しく感じるようになっていった…。


 やがて僕は、「実はこれこそが自分が負っているカルマではないか」と気づいてきた。
 ありのままの自分を認められず、自己愛を遠ざけているカルマ。両親の家系の代々が誰も手放すことができず、僕が解消する役割を担っているカルマであると。

 そして、自分で到底許すことのできない「きちんとしていない自分」の化身ともいえるのが、まさしく目の前にいる「妻」の姿だった。 


 彼女をそのまま認めて受け入れることで、僕は自分で自分自身を受け入れられるようになる!――

 それを僕に気づかせて実行させるために、彼女はわざわざ、少女時代をすさんだ家庭環境で育つように転生してきたのだ。
 そして鬱を患いながら、僕と出会うという筋書きを生きた。すべて僕のため、それだけに――。

 そう思うと、彼女に伏して感謝せずにはいられない(使用後の生理用品も喜んで片付けなくちゃいけない)。

 やがて、僕がどんなことも受容しようと努める態度になると、妻のあり方も少しずつ変わっていくように思えた。
 一方で彼女は、もし良妻賢母のパートナーだったら起こらなかったであろう意識的変革を、僕にをもたらしてくれた。


 いま妻は、10年近い通院を経て、鬱をほぼ克服している。
 そして「自分が苦しんだのと同じ苦しみを持つ人の助けになりたい」という願いから、大学院で臨床心理を学びながらカウンセラーを目指している。

 さらにカウンセラーとして独立して、「いつか離婚するのが夢」だそうだ…。
 結構だと思う。僕も「自分を愛するレッスン」を遠からず修了でると思うから。


 もし妻との現世での関係性を終わらせたとしても、死んでからあの世で顔を合わせ、すべてを見通した上で、互いにこう言い合うだろうと思う…。

 「私たちの今回の人生の計画を、うまく成功できて良かったね」って――。
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 クマバチはなぜ飛ぶことができるのか――。これは航空力学での長年の謎だったっといいますよね。

 ずんぐりとした体型と、それに不釣り合いな小さな羽根では、航空力学上の計算からは「飛行不可能」という結論に至ってしまう。
 にもかかわらずクマバチたちは、自然にブンブン飛び回ってる。

 「クマバチは、自分たちが飛べないことを知らないから、飛べるのだ」という説を専門家が唱えたそうだけど、なかなか言い得て妙な言葉だ。


 少し似たような話で、僕が高校生のとき、理科の先生と一緒に東京大学の風洞実験施設を訪問した。
 何の目的で行って何をしたのか少しも覚えていないのだけど(学習に関する記憶残存率というのはその程度だ)、ただ、建物がすごく古くてオンボロだったことと、あと大学教授が話した「雑談」だけは今もはっきり記憶している。
 
 その教授は、ゴルフボールの飛び方を調べていたそうだ。
 すると「ゴルファーが打球をコントロールできている」という当たり前の事実が、とても不思議に思えてきたという。

 ゴルフのショットで、ボールがクラブに当たっている瞬間というのは、肉眼では感知できないほど速い「数千分の1秒」しかない。
 ボールがどう飛んで行くかは、そのわずか数千分の1秒の間ですべて決まるわけだ。

 そして打つスピードや角度のごく微細な変化によって、ボールが飛ぶ距離や方向は大きく違ってくる。
 しかも熟達したゴルファーは、インパクトの瞬間にボールに回転をかけて思い通りにカーブさせたり、着地した後の転がり方までコントロールする。

 「そのことを、人間の体が『数千分の1秒』で制御するなんて、本来できるはずがないと思うのだけど…」と、教授は語っていた。


 前述のクマバチになぞらえれば、「ゴルファーたちは、ボールのコントロールが不可能であることを知らないから、ゴルフをプレーできている」ともいえる。

 アスリートの技というのは全部そうなのかもしれない。また成功したビジネスや歴史上の偉業などでも、「不可能であることを知らなかったからこそ現実できた」というものは多いだろう。

 究極的に極端な例をいえば、イエスは「食料を人に分け与えると無くなってしまう」ということを知らなかったから、わずかなパンや魚を数千人分に増やす奇跡を行えたとも考えられる。

 「知らない」という状態には、色々な可能性や奇跡を巻き起こす力が潜在しているのだろう。
 その逆に、できないことを「知っている」と、起こることを封じ込んでしまう…。


 ――人は「知識の木の実」を食べすぎたのだ。
 それによって、本当は無いはずの自らの卑しさや限界を「知っている」状態になった。
 そして「知っている」通りの、制限だらけの世界を目の前に浮かび上がらせ、その中で延々と奮闘し続けている。

 この「知っている」という知識こそが、私たち本来の創造的パワーを奪い取っている根源であり、またこの三次元ゲームを動作させている「基本ソフト」ともいえる。

 だからこそ「私は知らない」ということを、ニサルガダッタ・マハラジや奇跡のコースをはじめ色々なところで、繰り返し強調されているのだろう。

 ――進化は「知らない」ことから起こる。 
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 世の中には自然の草木と会話ができる人がいますよね。
 その声が聞こえるほどハートが開かれているって、すごいなーと思う。

 とある地方のシャーマンみたいな人に会ったとき、そのことを尋ねてみたら、「あれは草木と話しているように見えるけど、本当は自分自身と話をしているんだよね」という答えが返ってきて、「へぇ、そういうものなのか」と驚いたことがある。
(その説が正しいかどうかは分かりませんが…)


 最近、そのときのことを思い出していたら、胸の内にこんなメッセージが浮かび上がってきた。 
 
  誰もが同じように、自分自身と会話をしているんだよ。
  相手が草木でなくても、そうだ。
  ふだん色んな会話を交わしている他人――。
  あれも本当は、自分自身がしゃべっている。
  相手の口を使って、自分自身に向けてね。



 「他人はいない」「すべては私」という話はよく聞く。でもこのメッセージでは、他人というものの位置づけがちょっとユニークかなと思った。
 相手の口を使って、自分に向けて話すという図式は、まるで「腹話術芸」の掛け合いみたいだ…。
 そして他人というのは、腹話術で使う「パペット(手踊り人形)」ということになる。


 そのように思いながら人と話しをていると、「実によくできているなぁ」と感心しくる。

 自分の魂が、見えない腕をにゅっと伸ばし、相手のボディーの中に手を入れて、口をパクパクさせながらしゃべらせている――。
 いっこく堂を凌駕する芸の巧みさは、さすが神のイリュージョンといえる。


 ただし、通常の腹話術と大きく異なる点は、自分がしゃべらせているという実感が全くなくて、パペットが何を話し出すか分からないことだ(顕在意識においては)。

 だから他人の言葉にすごく腹が立ったり、傷ついたりすることが少なくない。
 それでも、目の前で話している他人というのは、自分が手をつっ込んで動かしているパペットであり、しゃべっている内容は、すべて「自分自身のせりふ」なのだ――。

 
 通常の腹話術でも、パペットがぶしつけな言葉をよく投げかける。でももちろん、パペットなんかにそんな本心は無い。
 そこには、腹話術芸人とのやり取りを通じて「笑いを取る」という、脚本上の意図があるだけだ。

 この三次元世界で、他人というパペットが話してくる言葉も同じことだ。
 その言葉が、どれほど不快で感情を逆なでするものであっても、相手の本心というものは無く、必ず「根底的な意図」だけが存在する。


  いま内にある、その嫌悪の思いや感情を手放しなさい
  条件付けしている、価値観を捨て去りなさい――

 こんなことを自らに伝えて実践する意図のために、他人というパペットを使って語ってくる。
 つまりは、魂の浄化、カルマの解消が目的なのだ。
 そう思うと、ふだん聞く他人の言葉、とくにネガティブな感情を喚起するような言葉というのは、実は有り難いものなのだなと感じられてくる。


 たとえ草木や聖霊や神と対話して、何か素晴らしいご託宣とか未来予知を聞いたとしても、それが自らの魂の浄化に直接的に作用するものではない。
 また本などで「恐れを手放しなさい」といった言葉を読んでも、いわば「概念的に腑に落ちた」という効果しか得られないケースがほとんどだ。

 これに比べ、他人というパペットの言葉の効力は、ものすごくリアルかつ直接的だ。
 嫌悪や憎しみ、怒り、悲しみ、恐れ、妬みなどの思いや感情を、自分の内側にもういやというほどリアルに再現させる。

 そして「そう! それ、それ。それを手放すんだよ、いま!」と伝えてくる(もちろん、この最後のアドバイスまでは言ってくれないけど…)

 かくして、それに気づいて手放すことによって、今生に転生してきた目的の一部が果たされるわけだ。

 そんな図式を思い浮かべていると、他人の一言に反応して感情をぶつけるなんていうのは、全くの筋違いといえる。
 むしろ、この「魂の浄化」の仕組みが与えられ、自らの現前で今まさに行われていることに、大きな感謝の気持ちがわいてくる。

 「生かしていただいて、有り難うございます」…って。
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プロフィル

Koudai Mitsuna

Author:Koudai Mitsuna
 
光奈 広大(みつな・こうだい)

 20年のあまりのサラリーマン生活を経て、いわゆる「ザ・マネーゲーム」を何とか卒業。今では束縛されない自由な日々を存分に味わっています!

 そうした中で心がけているのは、普通の日常的な行いを通じて、意識の進化を目指す「カルマ・ヨガ」。

 日々の喜びや学び、インスピレーションから得たスピリチュアルな気付きなどをブログで紹介しています。

 妻子と都内在住――。

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