フロントページ   »  2012年10月
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
web拍手 by FC2
 


 最近のスピリチュアルな観点から、イエスの言葉をとらえてみるという、大胆不敵な試みのつづきです。
 
 それにしても、イエスのたとえ話には、お金や財産のことが出てくるものが、本当に多いですね。


 今回は「不正な管理人」のたとえ話。実はこの話は、聖書の中で非常に難解といわれる箇所だ…。

 スピリチュアルな教えではよく、「ものごとを『悪』と決め付ける価値観を手放しなさい」「抑圧してきた自らの闇の部分を受け入れなさい」といったことが強調される。
 そのことへの、イエスの痛烈ともいえる意思が、この話の中に読み取れるのではと思い、取り上げてみました。


 まず、「不正な管理人」のたとえ話は次の通り――。

 金持ちの主人もとで、財産管理の仕事を任されている男がいた。

 ところが、その男が主人のお金を勝手に使い込んでいるという告げ口があった。
 主人は男を呼びつけ、「お前のしたことについては色々聞いている。もう管理は任せられないから、会計報告を出しなさい」と通告した。
 
 管理人の男は、窮して考えた。
 「仕事を失ったら、自分は力仕事はできないし、物乞いするのも恥ずかしい…。 そうだ! 自分がクビになっても、家に迎えてくれるような人を、いまから作ればいいんだ」――

 そして男は、主人に借りのある人たちを呼び寄せた。

 ある者は「油100パテ(大きな樽の単位)」の借りがあるという。
 管理人の男は「さあ、これがあなたの証文だ。すぐに50と書き換えなさい!」と言った。

 また別の者は「小麦100ロコス」の借りがあるというので、これにも、「この証文を80に書き換えなさい!」と言った。 

 その行為を知った主人は、この男の実に抜け目ないやり方をほめた。


 ――たとえ話の中身は以上だ。
 筋書きはいたって簡単だけど、最後の一文で誰もが「んんーっ!?」ってなるでしょう。

 だって、主人のお金を着服し、クビにされる前に、借用書を勝手に書き換えてしまう。こうして債務者たちに恩義を売っておくことで、あとで彼らに面倒を見てもらおう、という魂胆だ。

 救いようのないほどの不正行為に、主人は激怒して「この男を外の暗闇に追い出せ!」と断じるかと思いけや、何と「抜け目ないやり方をほめた」と来た…。


 さらには、これだけでは終わらない。
 このたとえ話を語ったあと、イエスは次のように続けるのだ――。

 私はあなたがたに言いたい。

 不正の富で、自分のために友を作りなさい。
 そうしておけば、富がなくなったとき、あなたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。

 小さなことに忠実な人は、大きなことにも忠実だ。小さなことに忠実でない人は、大きなことにも忠実でない。
 だから、不正の富に忠実でなければ、誰があなたに本当の富を任せるだろうか。
 また、他者の物に忠実でない人に、誰が自分の物を与えてくれるだろうか。

 しもべは、2人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方を重んじて他方を軽んじるか、どちらかである。
 あなたがたは、神と富の両方に仕えることはでない。


 ――ますます、わけが分からなくなりませんか。
 全体で何が言いたいのかもうまくつかめないし、「不正の富で、自分のために友を作りなさい」って、これが本当にイエスの教えだろうかと思ってしまう…。

 でも、もちろんこれはたとえ話なのだから、文面通りに「他人から横領したお金を使って仲間を作りなさい」という意味とは当然違う。
 では、この話で指している「不正」とは何か、そのもとにある「正しい」とは何のことなのか――。

 
 当時、イエスの周りに集まっていた人々とは、社会から見捨てられたり蔑視されていた病人や貧困者、罪人、取税人、娼婦といった者たちだった。
 こうした、家族や隣人からも見放されてしまった人々に、イエスは自ら近寄っては慰め、傷を癒したり、食事を共にするなどして、愛情を注いだ。

 そのように振る舞うイエスのことを、許しがたい者としてにらんでいたのが、既得権益層であるユダヤ教主流派(パリサイ人)や律法学者などだ。
 彼らは、自分たちこそ「正しくて神に近い者」だとして、民衆をさげすんでいた。

 当時の法では、らい病患者は神の罰を受けた者とされていた。娼婦も、現場を押さえられれば、姦淫罪で石打ちの刑となる。
 そんな人々に対して愛と許しを説くイエスは、パリサイ人や律法学者の目からすれば、まさに神や法を冒涜する「不正者」以外のなにものでもなかったわけだ。


 つまりイエスは、当時の法や常識では「不正」とされる行い、つまり「人々の罪を勝手に許して友となる」という行為をした。そして周りの人々にも、同じように行うように説いた。

 この「不正な管理人」のたとえ話で、イエスは自らの行為を、あからさまな悪事になぞらえているのだ。
 「それくらいに極端な見方をしても、間違いなくそれでいいのだ!」と言い切るかのように、遠慮のない辛らつさで語った。

 「不正」なんて言い方をしながら、実のところは、その根拠とする権威者の価値観の「正しさ」を断固として否定したわけだ。


 でも、たとえ話としてかなり難解な説明になっている理由とは――
 これを話したときイエスの前に、民衆とともに、当事者であるパリサイ人や律法学者たちがいたからである。

 彼らは、イエスが法を冒涜するような言葉をちょっとでも口にしたら、すぐに捕らえてはりつけにしてやろうと、虎視眈々と狙っていた。
 だからイエスはわざと分かりにくく、一見バカげた内容にしか聞こえないように話したと考えられる。

 幸いにも彼らには、このひねられた話の本意が伝わることなく、聞いていたパリサイ人たちは「イエスを嘲笑した」と記されている。


 で、ここでひるがえって、スピリチュアルな観点から話をとらえてみよう。

 話の中でたとえられているのは、イエス自身と、その前で話を聞く者たちのことである。


 その者たちとは――
 まず、人々にしいたげられて救いを求める「病人、貧困者、罪人」といった者たち。

 次に、既得権益にまみれて法と常識をふりかざし、自分を正しい者として民衆をさげすむ「パリサイ人と律法学者」。

 そして、人々の罪を許す「イエス」――の3者である。


 この3者って、考えてみれば、いわば「私たちの内面世界の縮図」なのではないだろうか?

 私たちの内面には、「闇」とも呼べる、自分自身の色んなネガティブな側面がある。
 臆病な自分、恥ずかしい自分、他人より劣る自分、除け者にされる自分、うまくいかない自分、敗北する自分、期待に応えられない自分、卑怯な自分、欲をむき出す自分、相手に冷たい自分など――。いわば「内なる罪人」だ。

 こうした自分を「悪いもの」として、責めたり抑圧し続けてきた存在も内側にある。
 「こんな自分なんか認められない!」「正しい自分とはこういうものだ!」と主張する、常識的な価値観や条件付け――。いわば「内なる律法学者」だ。

 そして今、自分のどんな側面も受け入れて、許そうとしている「私」もいる――。

 でもその受け入れを、「内なる律法学者」である古い価値観が、声高に拒否してくる。「それは許せない、不正だ!」と。


 イエスがたとえ話で断固否定したのは、単にパリサイ人や律法学者の価値観だけではなく、ありのままのものを「悪」だと決め付ける、私たちに根付いた価値観のすべてではないだろうか?――

 イエスの教えは、今の私たちの内面の葛藤に対して、こんなふうに伝えてくる――。 

 あなたの価値観が「悪いもの」だと主張しても、あらゆる自分を許して、友としなさい。

 あなたが迎え入れられる永遠の住まいは、そこにあるのですよ。

 「大いなる私(I AM)」からいつくしまれる人とは、小さな自分をいつくしむ人だ。

 だから、固執していた古い価値観に背かないと、新しい真に価値あるものを経験することはできない。
 
 あなたは、 「大いなる私(I AM)」と、常識的な価値観との、両方に従うことはできないのだから――。



 結びに、定例のリラクゼーション音楽の紹介。
 今回はHein Braat「OM」。

 ほとんど無名な人だけど、4年ほど前に、この人のマントラのCDのコピーが日本で出回った。「これはダライラマが特別に録音したもので、コピーして知人にプレゼントしたら幸せになれる」なんていうデマがくっ付いて…。

 そんなデマにもなるほど、朗々と響く声が美しい人です。
 「オーーーム」と唱える声が、優雅な時の流れのように、延々と続きます。


スポンサーサイト
web拍手 by FC2
  ☞ コメント:0

 
 イエスの言葉を、最近のスピリチュアルな観点から考えてみたら、どのように捉えることができるかということで、前回は「タラント」のたとえ話をテーマにしてみました。

 今回はその続きで、「ぶどう園の労働者」と「放蕩息子」の、2つの似たたとえ話について考えてみようと思います。



 私たちが豊かさなり幸せを得たいと望むとき、まず「どのようにすべきか」と考えるのが普通だ。その根本にあるのは、「それを手にするためには、相応の条件を満たさなくてはならない」という考えだろう。つまり――

 「努力を積む→資格・条件を満たす→ふさわしい結果が得られる」
 ――という、古今東西で一般的な人生の方程式である。

 ところがイエスが教え示したのは全く逆説的な仕組みで、求めるものは経緯などに関係なく「無条件に与えられる」ということだ。


 まず、「ぶどう園の労働者」のたとえ話は次の通り――。

 ぶどう園を経営する主人が早朝く、日雇い労働者が集まる街の広場に行った。
 そして「1日あたり1デナリ(当時の標準的な日当)」という約束で、労働者を雇った。

 再び主人が9時に広場に行ってみると、何もしないで立っている人たちがいた。そこで「あなた方もふさわしい賃金を払ってやろう」と声をかけ、ぶどう園に送った。
 主人はまた、昼の12時と3時にも広場に行って、同じように労働者を雇った。

 さらに夕方5時に行ってみると、まだ誰にも雇ってもらえないまま残っている人たちがいた。 
 主人は彼らにも、今からぶどう園に行って働くように言った――。


 夕暮れになり、労働者たちに賃金を払う時が来た。
 5時に雇われた人たちが、1デナリを受け取った。

 朝早くから雇われた人たちは、自分たちはもっと多くもらえるだろうと期待したが、ところが彼らも1デナリであった。

 そこで、彼らは主人に不平を言った。
 「最後に来た連中は、たった1時間しか働きませんでしたよ。私たちは、日中ずっと暑い中を我慢して働いたのに、どうしてこの連中と同じ扱いなんですか!」

 主人は答えた。
 「あなたに不当なことはしていない。1デナリの賃金を約束して、その通りに払ったではないか。私は最後の者にも、同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを、自分のしたいようにしてはいけないのかね。それとも、私の気前良さを妬むというのか」

 ――という話だ。

 抗議する労働者の言い分のほうが真っ当だと思えるほど、主人の「気前良さ」というのは常識はずれである。
 時間が長くいても短くても金額が同じというのは、全く正反対な例だけど、美術館や遊園地とかの入場料と同じシステムだ。

 どうやら神には、「時間」という尺度がそもそも存在しないらしい。
 「来た人たちに皆にお金をあげるのだ。これでいいのだ!」なんていう、バカボンのパパみたいな経済感覚である…。


 次に、これと似た構造のたとえ話が、以下の有名な「放蕩息子」だ。

 ――ある裕福な父親に息子が2人いた。
 あるとき弟の方が、自分が受け継ぐことになっている財産をいま欲しいと申し出た。それで父親は、財産を2人に分け与えてやった。

 すると弟は、すぐにその財産を金に替えて、遠い国へと出て行った。そして放蕩の限りを尽くし、すべてを使い果たしてしまう。

 やがて弟がいた国に、ひどい飢饉が起こった。
 彼は誰からも食べ物を分けてもらえず、豚の餌で飢えをしのごうとまでした。死にそうになって彼はやっと我に返り、父親のもとに帰ることを決意した――。


 家にいた父親は、帰ってきた息子のあわれな姿を遠くに見つけるや、すぐに駆け寄って抱きしめた。
 息子は、自らを悔やんで言った。「私は天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません」

 しかし、父親はしもべたちに命じた。
 「急いで一番良い服を持ってきて、この子に着せなさい。手に指輪をはめてやり、足に靴を履かせなさい。それから、肥えた子牛をつぶして料理するのだ。食べて祝おう!」
 そして、祝宴を始めた。

 一方、祝宴のさわぎを耳にして何事かと思った兄は、わけを聞いて憤慨した。そして父親に抗議した。
 「私はこの通り、何年もお父さんに仕えてきました。言いつけに背いたことは一度もありません。でも、私が友人と宴会を開くとき、あなたは子ヤギ一匹すらくれなかったではないですか。にもかかわらず、弟が財産を食いつぶして帰って来たら、子牛を料理して祝うなんて!」

 すると父親は言った。「息子よ、お前はいつも一緒にいる。私のものは全部お前のものだ。だが、あの弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて喜ぶのは当たり前ではないか」


 ――この話の父親の思いは、たいていの人が納得できるだろう。

 ぶどう園の主人と労働者も、図式としては同様だけれど、「賃金」の気前良さは筋が通りにくくても、「親の愛情」ならばあまり異論はない。

 両方のたとえ話で着目できるポイントが、期待通りに受け取れなかった者の「抗議」だ。
 私は長く働いた、我慢した、ずっと仕えている、背いたことがない――。だから、多く受け取る資格があるはずだ。そのようにしていない者は、受け取るに値しない!――といった具合に。


 でも、神が与えてくれるものは、徹底して「無条件」なのだ。
 受け取るに値するための努力の度合いとか時間といった、人の価値観にもとづく条件付けは全く的外れであることを、イエスはたとえ話を通じて確言している。

 もちろん、これらのたとえ話は、直接的にお金や財産を意味するものとしては解釈されない。信仰の深さや、悔い改めた者に対する神の愛として理解するのが一般的だ。


 一方、最近のスピリチュアルな考え方の根本が、真の「私」こそが「創造者」であり、「宇宙」そのものでり、あらゆるものは自分の意識が生み出しているということだ。

 その創造の一部である「豊かさ」とか「幸せ」に関しても、真の「私」の性質である「無条件」の仕組みが当てはまるはずであろう。

 さらに言えば、たとえ話に登場する、与える側の「主人」も、「受け取る者」も、そして「抗議する者」も、すべては自分の内側にある――。


 ただちょっと厄介なのが、たとえ話の中では「主人」が一方的な権力を持っていてたけど、私たちの内側では「抗議する者」も互角のパワーを備えていることだ。
 しかも、こともあろうか、自分自身がこれから受け取るものに関しても、社会常識的な価値観にもとづいて強烈に抗議してくる…。


 私たちが豊かさや幸せを望んで思い描くとき――
 真の「私」である宇宙は、それを無条件に与えようとする。
 ハートは躍動し、すぐに受け取ろうと構える。

 ところが自分の頭の中にいる「抗議する者」が、色々な条件付けを主張する。

 ――ちょっと待った! 自分はまだそれに値しないのではいのか。受け取るのはおこがましいのではないか。地道な苦労を知らずに結果だけ得るのは卑怯者だし、きっと思わぬ見返りが来る。自分は時間をかけて条件を満たさなくちゃいけない。「今」は努力するときだ。豊かさや幸せを手にしたり、好きなことをしたり、新しい意識を実現するのは、「将来のいつか」である――。

 こうした抗議によって、受け取ることが先延ばしされ、実現する「今」はずっとやって来ないことになる…。


 新しい時代の訪れに向けて、私たちに求められているのは――
 「私たちは無条件に愛され、無条件に与えられている」ということを、私たち自身が無条件に受け入れること。

 「新しい意識」とは、たったそれだけのことかもしれない。



 結びにまた、リラクゼーション音楽の紹介。
 今回は、有名なモンロー研究所の「Sleeping Through The Rain」。

 モンロー研究所の音楽だから、もちろんヘミシンクのバイノーラル音がバックに入っているのだけど、それとは関係なく曲としても何とも魅力的です。



web拍手 by FC2
  ☞ コメント:4

 


 以前、「I AM」の祈りという記事で、イエスが伝えた「主の祈り」を、最近のスピリチュアルな観点でとらえてみたら、どのような文章になるかという、不遜きわまりない「言葉遊び」をしてみました。

 でも、これが自分にとってなかなか面白い!…

 ふたたび今回、本当に僭越でおこがましくも、クリスチャンではない立場ながら、イエスの教えをスピリチュアルな観点からあらためて考えてみたいと思います。

 テーマは「イエスが語るお金の話」――


 イエスは色々な「たとえ話」などを残したけど、その中には、お金が出てくる話がけっこう多い。
 貧しい寡婦が銅貨何枚を賽銭箱に入れたとか、ぶどう園で夕方まで働いたら賃金いくら受け取ったとか――。金額や状況までなかなか細かい。

 しかも、そうした話の中でイエスは、お金そのものを決して「汚らわしいもの」としては表現していない(金持ちを悪役にしたものはあるけど)。
 むしろお金は、人々が受け取って嬉しいもの、実生活の支えるもの、増やしていくもの、施すものとして、話の中に位置づけられているように思う。


 で、そうしたイエスの教えの中で、もっとも「現金な話」といえるのが「タラントのたとえ話」だろう。

 「天の国とはこういうものである」と人々に説明するためにイエスが語った比喩で、聖書を読む人なら誰もが知っている有名な教えの一つだ。
 やや長めだけど、説明すると以下のようになる。
 ちにみに「タラント」とは、相当な金額の単位だそうで、分かりやすくざっくり「億円」くらいに考えてもいいのかな。


 ――ある大富豪の主人が、長い旅に出ることになった。

 旅立つ前に主人は、3人のしもべを呼び寄せ、財産を彼らに預けることにした。
 それぞれのしもべの能力に応じて、ひとりには5タラント、もうひとりには2タラント、そして最後のひとりには1タラントを渡して、旅立った。

 5タラントを預った者は、ただちにそれを使って商売を行い、さらに5タラントを儲けた。

 2タラントを預かった者も、同じようにして、さらに2タラントを儲けた。

 一方、1タラント預った者は、そのお金を失わないように、穴を掘って埋めておいた――。


 そして、主人が長い旅から戻って来った。

 まず、5タラント預った者が、主人の前に進み出て報告した。
 「ご主人様は、私に5タラントをお預けになりましたが、ご覧ください。私はさらに、もう5タラントを儲けました」

 主人は、「よくやった、良きしもべよ。お前はわずかなものに忠実であったから、今後はたくさんのものを任せよう。さあ、主人の私と共に喜びなさい!」と褒めた。

 次に、2タラントを預かった者も、同じように報告した。
  「ご主人様は、私に2タラントをお預けになりましたが、ご覧ください。私はさらに、もう2タラントを儲けました」

 主人はこれも、「よくやった、良きしもべよ。お前はわずかなものに忠実であったから、今後はたくさんのものを任せよう。さあ、主人の私と共に喜びなさい!」と、同じく褒めた。

 
 最後に、1タラント預った者が進み出て言った。
 「ご主人様、私はあなたがとても厳しいお方であると知っています。蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるような方です。ですから私は恐ろしくなり、このお金を埋めておきました。ご覧ください、ご主人様のお金がそのままあります」

 すると主人は怒って言った。
 「悪しきしもべよ! お前は、私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたと言うのか。それなら、その金をせめて銀行に預けておけば、利子と一緒に受け取れたのに…。さあ、この男からそのタラントを取り上げて、10タラントを持っている者に与えなさい。持っている者は与えられてさらに豊かになり、持っていない者は持っているものまで取り上げられるのだ。この役立たずのしもべを、外の暗闇に投げ出してしまえ。そこで嘆き、歯ぎしりするがいい」


 ――という話だ。

 一見、これのどこが「天の国」なのだ? と言いたくなってしまう内容で、主人の横柄な性格はまるでスター・ウォーズに出てくるジャバ・ザ・ハットである。

 一般には、ここで言う「タラント」とは、直接的にお金のことではなくて、人に授けられた才能とか、愛や信仰心、真理などの意味として解釈するのが普通である。
 教会組織ではこのたとえ話を、「多くの人に伝道して信者を増やさなければならない」という趣旨でとらえることもあるそうだ。

 さらに証券会社やエコノミストは、利殖の大切さこの時代から説いていたとか、強者に富が集積する市場メカニズムを言い当てているとか、立場によってバラエティー豊かな見方もされている。


 で、ここで意識して考えてみたいのが、この話の中で物事の成り行きを決定している「主体」は誰か?――ということである。

 常識的には、大富豪の主人がすべてを決める「主体」だと考えられる。しもべたちは、主人の厳しい要求や褒貶を受けながら、右往左往させられる立場に過ぎない。
 大きな社会と小さな個人の関係や、ある意味で神と人の関係も、そのようなものだと昔から思われている。


 一方で、いま世界に飛躍的に広がっている考え方は、真の「私」こそが「神」であり「創造者」であり、「宇宙」そのものである、といった視点である。

 その視点で見てみれば――、このタラントのたとえ話の真の「主体」とは、実は、しもべのほうではないだろうか。

 「主体」であるしもべが、信じて行動した通りに、お金の増え方や主人の態度が、現実的な結果として目の前に現れている。つまり、経験する世界が変化する――。
 それが「天の国」の仕組みである、という比喩だったとすれば、すごく話の収まりが良いように思える。


 5タラントを預かった者と、2タラントを預かった者のストーリーは、もう極端にシンプルだ。
 お金を渡されて、もっとたくさん増やしたいと思って、その通り増やしたら、主人に喜ばれた――というだけ。

 主人の性格だとか、お金を失うリスクといった、面倒な制約は最初から全く考慮されることなく、まるで幼児向けのおとぎ話みたいにすんなりとめでたく、お金が増えて主人が喜ぶ、という結末を得ている。


 他方、1タラントを預かった者の話は、そう単純ではない。
 彼は思慮深く、複雑な条件を置いてしまった。 主人は「蒔かない所から刈り取るような人物である」という前提を頭に浮かべ、その「恐れ」にもとづいて、お金を失わないように埋めておくという行動をとった。

 そうしたらこの男の目の前には、自分が「そうだと知っている」といって条件付けをした通りの、貪欲で徹底的に情け容赦のない主人が現れてしまう。
 「蒔かない所から刈り取るような」という抽象イメージが頭にあったのが、結果的に「銀行に預けておけば」「タラントを取り上げろ」「暗闇に投げ出せ」「歯ぎしりするがいい」といった、主人の細かく具体的な言葉や仕打ちとなって、その身に返ってきたわけだ。


 「天の国」の仕組み、すなわち、神が創造した本当の「この世の中」の仕組みとは――、自分が条件付けした通りのものを、自分自身で受け取る、ということ。
 要は、「私」が創造者そのものなのだ。

 だから、「タラント」のことを、わざわざ才能とか信仰心に置き換える必要は、必ずしもない。そのままずばり、「お金」のままでもいい。
 制約さえ自分で作らなければ、何でも得られるように既に決められているのだ。経済的な豊かさも、人々からの賞賛や喜びも、自分が信じて考えて行動した通りに、私たちは人生の中で受け取ることになる。 

 逆にもし、「この世の中はとても厳しいところだ」と確信していたら、本当にその通りに、「持っているものまで取り上げられる」ような事態が起こってしまうことになる…。


 このブログを読んでいる人の中で、「タラントのたとえ話というものを初めて知った」という人がいて、「ここに書いてあるような捉え方が自然でいいんじゃないのかな」なんてもしも思えてもらえたとすれば、本当に新しい時代の流れが来たなーって感じがしますね。


 で、最後のオチともいえるのが、そもそもこのタラントは主人から預かったものであって、自分のお金ではない。最終的には返さなくてはならない、ということだ。お金でも何でも、手にしたものに執着はできない。
 「皇帝のもの(ローマ銀貨)は皇帝に返そう。神のものは神に返そう」である。

 そしてさらに突き詰めれば、返す先である「神」とは、実は、真の「私」自身である。つまりは、私が望んだものを、私が作って、私が受け取って、それをまた私に返す――。

 人生とは、壮大すぎる自作自演ですね。



 結びに今回も、お気に入りのリラクゼーション音楽の紹介。

 前回まではあまり知られてないミュージシャンの曲だったけど、きょうはスピリチュアル音楽界の大御所のDeuter「Loving Touch」。

 有名なOSHOの瞑想音楽のほとんどはDeuterの作曲で、感情の爆発とか静寂、歓喜など、人のあらゆる内面状態を、まさにその通りといえるほどの見事なリズムと旋律で変幻自在に表現している。
 そのDeuterが描く、いとおしくなるような「Love」の音。


web拍手 by FC2
  ☞ コメント:2

 


 私たちの日常感覚や過去の知識からなかなか理解しがたいのが、「この世界はすべて幻想である」という教えでしょう――。 

 でも、どんなに理解しがたくても、あらゆる覚者がそのことを一貫して語っている。
 しかも、幻想でない現実もちょっとくらいあるとか、人によっては本物を見ているといった例外は一切なく、あらゆるものすべて100%が幻だという。
 「今あなたの前で語っている私も単なる幻なのだ」とまで言い放つマスターもいる。


 とはいえ、世界全体から見れば、そのように確信している人はまだまだ極めて少数派といえる。
 たぶんこれは、17世紀当時の地動説のようなものだと考えている。日常的な実感からどんなに程遠くても、有識者や大勢の意見がどうであろうとも、「それでも地球は回っている」と言うのと同様に「それでも世界は幻に過ぎない」のであろう。

 この答えを、自分のものとしてとらえるには、本当に「魂からの直感」に従うしかない。
 新しい考え方が公式に認められるのを待っていたら遅すぎる。天動説を説いたガリレオ・ガリレイは宗教裁判で無期刑に処されたが、この裁判が「誤りであった」とローマ教皇庁が認めたのは、実に1992年のことだ…。

 その調子だと、「私たち自身が創造主である」ことが認められるのは――何千年先か、たぶん永遠に来そうもない。


 かつて映画が発明されて間もないころの話。
 列車がやって来て走り抜けていく映像を映して観客に見せたら、こんな質問が出たそうだ。
 「走ってきた列車がスクリーンの端まで行って、そこから先は切れて見えなくなってしまったけど、あの列車は一体どこへ消えてしまったのか?」――

 現代人にとっては一見バカみたいな話だけど、でも数年前の流行語大賞っぽく言うと、これは「いい質問ですねぇ!」である。 

 
 いまこれを読んでいる人の目の前には、パソコンとかの画面があって、その周囲に室内の一部が見えていると思うけど、その視界の外にある「いま見えてない部分」はどうなっているのか?――

 それに対する、覚者たちの答えは一貫している。
 「あなたが知覚していないものは、存在していない!」

 今いる部屋の、背中が向いている側の見えない部分は、存在していない。
 今日どこかで知人に会ったとしても、いま目の前にいないその人は、存在していない。
 もし会社勤めの人でいま自宅にいるのならば、会社というものは存在していない――。
 これは比喩とかではなく、具体的な真実として、この宇宙から存在が消え去っている。というか、宇宙ごと全部無くなっている…。

 そして、後ろを振り返ったり、その知人にまた会いに行ったり、会社に出勤したとき、自分自身の創造力によってそれが再び自分の前に存在する――、ということだ。

 もう、コペルニクスも付いて来られないような宇宙観である…。


 でも現在の量子論では、物質というものを究極に突き詰めていくと、それは質量のない波動であると言われる。
 また量子の性質が、観察者の影響によって変化することは、スピリチュアルな分野でもよく語られる。

 つまりは、「物質」としての現実は、根本的には存在してないわけだ。
 そうしたいわば「無」の状態の中から、観察者が知覚するものだけが現れるという図式は、全くの非科学的妄想として切り捨てることはできないだろう。


 また、知覚すれば確実に現れるということは、色んなかかわりを持つ他者や、お金がかかる経済活動などが、ある意味で「実在している」とも捉えられなくもない。
 でもそれが、見る人に応じて出現しては消える性質であるからには、やはり「投影された幻」である。

 ただし、その幻の「再現性」はなかなか正確だ。
 預金残高をぱっと見たら桁が増えていた! なんて変化はふつう起こらない。さまざまな収支動向に応じた残高が、寸分の狂いなくその数字に反映されている。
 人の創造性は、自分でも心憎くなるほどパーフェクトなのだ…。


 では、そうした創造の源、リアルな世界を周りに投影するための原データというのは一体どこにあるのかというと――
 これは全くの私見なのだけれども、自分の「ハート」の部分にあるのではないかなと思っている。

 罪悪感とか嫌悪感とか、言葉では一言で簡単に表現されるけど、胸の内に実感する「痛み」としてのその感覚は、すごく複雑ではないだろうか。
 それは、容易に解消できないほど、色んな重苦しい思いが入り組んでよじれ合い、胸の内に粘っこくとどまり、さらに体の外にまで揮発していくようにも感じる。

 で、創造性の源がハートの中心にあると仮定すれば――
 その純粋な創造の力が、ハートを覆う感情の複雑な波動を帯びながら周囲に発せられてしまう。
 そして結果として、ややこしい波動を現実的な形として再現した世界が、目前に展開されていく――という仕組みなのかなと思う。


 また、私たちの目は、実は周りのものを写す「カメラ」ではなく、世界を映し出す「映写機」ともいえる。
 五感などの知覚や感情は、状況を受け取って感知するのではなくて、外側をつくるためのものかもしれない。

 そのように、実際には自分で創造したものであるにもかかわらず、それを「受身で感じ取っているだけ」と思えてしまうところが、この世界の大きなトリックでありトラップといえる。


 そんなことを考えながら書いていたら、こんなメッセージがふわっと心にやって来ました――。

 「幸せ」とは、自分のハートの辺りのとても小さなエリアの問題なのだ。
 そのわずかな点が、「あなた」であり「世界」だと考えていい。



 ――なるほど、確かに、自分の範疇をあまり大きくとらえすぎると、とても手に負えないように思えてしまうしね…。



 前回に続き、結びとしてお気に入りのリラクゼーション音楽の紹介。
 今回は、Medwyn Goodall「Rose Quartz」。

 メロディーは特になくて、水晶のエネルギーをきれいな音で表現した、みたいな曲です。
 最後のほうはもうキラキラの「ララ・ランド」といった雰囲気で、幼いころの夢見心地の世界に戻ったみたい!


web拍手 by FC2
  ☞ コメント:5

 


 何年か前、小学生だった息子がテレビゲームの「マリオカート」で遊んでいるのを、横目で眺めていた。

 こうしたレースのゲーム画面って、誰でも見ていてふと思うだろうけど、プレーヤーの乗り物はずっと画面の中央にあるままだ。
 周りの景色のほうがビュンビュン後ろに過ぎ去っていくことで、プレーヤー自身が走行しているように見える、という作りだ。


 で、そのことを、ゲームに熱中している子供ににちょっと説明してみようと思い、「このマリオって、動いているように見えるけど、実はずっと真ん中にいて、ぜんぜん動いてないよね」と語りかけた。

 すると子供は、大のおとなが何てトンチンカンなことを言うの? といった表情をこちらに向けて、「動いているよ、ほら、すごく速く走ってるじゃない!」と言い張る。
 僕が「そんなことはない、よく見りゃわかるよ」と言っても、子供のほうはほとんど要領を得ない。


mro2.jpg ←それで、こんな感じに、テレビ画面のマリオの上に、付箋をぺタッと貼ってやった。

 マリオは、体を左右に傾けたりジャンプしたりするけれど、付箋が付けられた位置からは微動だにしない。
 対戦者を何人も抜き去ろうが、バナナの皮でスピンしようが、爆弾に当たって破裂しようが、コースの外に転落しようが、実際はこれっぽっちも動かずに、同じ場所にとどまっている。

 これを見て一目瞭然に分かった子供は、「あれっ、へぇーっ、そうだったのかー!」と、まるで隠された真理を目の当たりにしたような驚きようだった…。


 ゲームの2次元映像でも、子供の目には、微動だにしていないキャラクターがスピーディーに動き回っているように、疑いなく見えてしまうわけだ。
 そしてゲームの最中は、カーブするときにキャラクターに合わせて自分も体を傾けたり、敵キャラに邪魔をされたら「ちきしょー」と悔しがったりするほど、映像世界にのめり込んでいる…。


 ひるがえって、私たちが今いるこの世界のことを考えてみると――。
 これも、周りに目に見えるものすべてが幻想だといわれる。

 しかも、任天堂のゲームどころではない。
 見えるのは超高精細な3次元映像で、そこにリアルな五感が完璧にシンクロして、さらには感情と思考までが周りに合わせて起こってきて、心の中を埋め尽くす――。

 そうなると、もう真実を知覚する手がかりが皆無となり、幻想世界の中に取り込まれるほか道がないわけだ。

 マイケル・A・シンガーの『いま、目覚めゆくあなたへ』では、この点がかなりしっかり説明してあって、幻想に没頭してしまった結果、「本当の自己認識が消滅する」と述べている。

 いくら覚者が「この世界は幻想で、あながどこへ行こうとも、今いる位置から全く動いていないのだ」などと説いても、それは全くバカげた話にしか聞こえない。
 目の前の現実を見ろ、無責任なことを言うな! と反論したくなる。
 「本当の自己認識が消滅」した状況では、本当に無理からぬことなのだ。


 一方で、この世の中には、突然に「自分が宇宙全体と一つである」といった真実を知覚してしまう、いわゆる「一瞥」と呼ばれる経験がある。
 この経験は、ある意味で、本当の私のことが分かるように「付箋を貼ってもらう」ような出来事といえるかもしれない。
 
 「一瞥」は、人為ではなく、まさに恩寵のなせるわざだ。
 その性質は、たとえが非常に悪いけれど、「死」と同じようなものだともいえる。来る時になれば来るのであって、本人の望みでやって来るものではない。


 でも私たちが真実に立脚して生きたいと思うとき、人為として自ら能動的にできることは、静かに立ち止まって「私が在る」という感覚にとどまることだろう。
 よく言われる通り、「私が在る」という感覚こそが、私たちが知覚できる、幻想とは違う唯一の真実だ。

 瞑想などでその感覚にとどまることは、一瞥ほどのインパクトはないものの、これも自らの手で「付箋を貼る」ことかもしれない。
 そして日常生活では、その付箋の付いたところを意識しながら、色々な行為をおこなう。周りのあらゆることは、幻想だと認識しながら――。


 そうしていると、何か人生の流れを変える出来事が起こるかもしれないし、一方で現状のあり方が真の自分が選んだ道ならば、何も変わらないかもしれない。
 でも――

 「自分はどうしようもない現実の中を生きていて、生活のためにはいやが応でも苦労して稼がなければならない…」といった従来の意識でいるよりかは、格段に救われるし、気持ちが楽になるし、選択肢や発想も柔軟になるし、そしてときには、新しい意識でいるだけでも十分幸せになれる。

 これは、確約された成果だといえる――。



 今回から記事の結びに、新コーナー(というほどではないけれど)。
 僕は家にいるとき、よくネットラジオのリラクゼーションミュージックを流している。どれも静かで雰囲気の良い曲がかけられるけど、でもほとんどは特に印象に残らないものだ。
 しかしごくたまに、ハッと心が釘付けになってしまうような曲に出会うことがある。

 そういうお気に入りの曲も、ぽつぽつ紹介していこうと思います。もし趣味が合えば嬉しいけど…。

 今回は、Oöphoi & Louisa John-Krol「A Vessel for Michael」。
 広がりのある清らかな響きが、すごく心地よく感じます。


web拍手 by FC2
  ☞ コメント:2

 


 僕はクリスチャンではないけれど、学生時代はプロテスタント系の一貫校に通い、そこでは礼拝が毎朝あった。

 「自分がしてもらいたいことを、他人に行いなさい」「心の貧しい人は幸いである」「明日のことまで思いわずらうな」 「神のものは神に返しなさい」――
 学校で接したイエスの言葉の数々は、いま自分が新しいスピリチュアルな教えに親しんでいる中でも、心の内に不変の黄金律として深く浸透している。


 でも、ここであえて、不遜きわまりないことを言ってみると――
 イエスの教えが、今の自分の意識のあり方や、近年のスピリチュアルな考え方と少し異なっているなと思える点を挙げるとすれば、イエスが神を「父」という位置づけで語っている、ということだろう。

 「天の父が養ってくださる」「父よ、彼らをお許しください」とか――。
 父としての神を、「私」とは別に存在する相手や対象として、イエスは語りかけたり人々に説明したりしている。

 一方で、いま世界に飛躍的に広がっている考え方は、真の私とは「空意識」や「I AM」と呼ばれるものであり、その「私」こそが神であり創造者である、といった視点だ。


 もちろんイエスも、本質的には全く同じことを語っているのだろうし、単に表現上の違いだけなのかもしれない。

 イエスの時代、人々が教え伝えてきた神の性質とは、怒って人々を裁く「恐るべき神」である。
 これに対しイエスは、神を親密な「父」になぞらえ、人間の哀しさを知る「愛の神」を説いた。この教えは、かつて誰も聞いたことがないほど革新的で素晴らしい、まさに時代を覆す「グッド・ニュース(福音)」だった。
 
 でも、「父」とか「愛の神」を説いただけでも、先鋭的すぎて十字架刑になったわけだから、まして「空意識」や「I AM」なんていう視点が、当時の社会に受け入れられようはずがない。

 「空意識」や「I AM」は、イエスの時代から2000年を経た今だからこそ、世界で共有できるとらえ方だといえる。


 「父」という表現が使われるイエスの言葉の中で、今も最も広く人々に口にされているのが、「天にまします我らの父よ」から始まる「主の祈り」だろう。
 これは、イエスが「祈るときはこにように祈りなさい」と弟子たちに伝えたとされる、世界のクリスチャン共通の祈祷文である。


 で、今日ふと――もしも、主の祈りを「父」ではなくて「I AM」の視点から言い直してみるとしたら、どんな文章になるのかな――なんていう、何とも尊大で大胆不敵な考えが浮かんできた…。

 でも、ちょっと言葉をひねってみると、これがなかなか面白い。

 「天」という言い方が「今ここ」になって、「~してください」という願いを伝える言葉も、「私は~します」という主体的な宣言のニュアンスに取って代わる。ほかにも、色々な言葉やとらえ方を、言い換えてみることができる。

 そうして作ってみた文章(いわば「主の祈り」の「I AM」語訳?)が、次の通りだ…。


今ここに在る、大いなる私――

私は、自らの神聖さを感じます
新しい世界をつくり出す意思と力がここにあります

私は、自らの本質である「愛」を、この地上に現していきます
豊かさを喜んで手にします

私が、分け隔てられた満たされない存在ではないように、他の誰一人として、分け隔てられた満たされない存在はいません
善しあしを判断したり、自らを小さくしてしまう自我に、私は決してとらわれません

世界と力と栄光は、永遠に私の内にあります

すべては、あるがままに

 
 ――どうでしょう? 「私」の素晴らしさや本来の力を高らかに宣言している感じで、読んでいてなかなか気持ちがいいですよね。


 何度も推こうしたわけではなく、ほぼ直感で書いてみたのだけど、「日用の糧」を「豊かさ」にしたのは、なかなかいいかなと思う。
 一方で、「罪」とか「悪」は言い換えがものすごく難しくて(善悪の価値判断を持ち込んだ時点で「空意識」や「I AM」のあり方ではなくなってしまうので)、かなり違った言い方に工夫してみた。
 それと結尾の「アーメン」は「あるがまま」にしてしまいました…。


 ま、これは、「ちょっと真剣な言葉遊び」みたいなものだから、冒涜だとか解釈がバカげているとか、好戦的にあげつらわないでくださいねっ! web拍手 by FC2
  ☞ コメント:9

 


 ふだん何気なく見たり聞いたりしているものが、あるときハッと「これは自分に向けたメッセージではないか」と気づくことって、まれにだけどありませんか――?

 たいていそれは、全く新しい知識というわけではなく、以前から知ってはいたのだけど内面でうまく消化しきれていないことを、「まだ分からないの、こういうことだよ!」と最後のだめ押しとして教えてくるときに、そんな形のメッセージで届くような気がする。

 天使とかガイダンスが使う、一つの定例的な方法なのかもしれない…。

 
 僕にとって、かつて意識の大きな転換点となったのが、「ユダヤ人大富豪」ならぬ「スターバクスのタンブラーの教え」だ。

 3年前の秋のこと、会社の自分の席でお茶を飲むときのために、近くのスタバでタンブラーを1つ買った。上に写真のある、ハロウィンのデザインのものだ。
 それを書類が山積したデスクに置いていたのだけど、何か微妙に心に引っかかる感じがして、仕事中も視界の脇にあるタンブラーの存在がどことなく気になっていた。
 そうして、何カ月か過ぎていった――。


 当時の僕は、仕事や家庭の出来事、そして自分のマインドや感情の騒々しい動きに、いつも翻弄されながら毎日を送っていた。
 スピリチュアル分野の本を多く読むようになったころで、色々と実践もしていたけど、まだうまく自分の生き方に落とし込めていなかった。

 で、いつものことながら会社で、次々にやって来るおびただしい量の仕事や、内にわき起こる考えに振り回され、席で煮詰まって悶々としていたときのこと――、机に置いてあるタンブラーにふと視線を向けたら、それに書かれている文字が、ここぞとばかりに目に飛び込んできた。

 「Trick or Treat」――!


 ハロウィンの日に、お化けに変装した子供が近所の家々を訪ね、「いたずらされるか、もてなすか」と言って、お菓子をもらって帰るという、西洋の風習での決まり文句である。

 このとき、いつも見ていたこの言葉のメッセージ性に、はたと気がついた。

 ――「あぁー、なるほど、そういうことなのか。色んな出来事、感情、思考というのは、自分のところへやって来ては『Trick or Treat』と、問いかけているわけなんだ…。この訪ねてくる出来事や感情を、嫌がったり無視しようとしたら、去らずに暴れ回ってしまう…。でも、ちゃんとふさわしい待遇をすれば、自分のもとから自然に離れていってくれる…、そういうことなんだ…」


 僕はこのタンブラーの教えをきっかけに、自分に起こってくる出来事や感情を、お化けの格好をして「Trick or Treat」と聞いてくる訪問者になぞらえてみるようになった。
 不快な気分がわき上がっているときに、「あー、いま来てるな。ちゃんと対応してあげないとな」、といった感じで。

 そんな物事のとらえ方が、色んな前向きな変化をもたらしていった。

 
 同じように、自分を苦しめる出来事や感情を「子供」にたとえているのが、「ホ・オポノポノ」の本に出てくる「インナーチャイルド」の話だ。

 ここでのインナーチャイルドとは、自分自身の幼少時代の記憶のことではない。
 人の潜在意識の中には、この世界が創られてから現在までの、全人類が経験したあらゆる記憶データが蓄積されているという。
 それが、その人の顕在意識に敏感に反応して、蓄えられているネガティブなパターンをそのまま、身の回りや心の中に投影してしまう。

 この潜在意識の働きは、放ったらかしにしているとまるで子供のように無秩序に振る舞うことから、インナーチャイルドと呼ぶそうだ。 


 インナーチャイルドが過去のパターンを再生し始めたときに、「ありがとう、許してください――」と唱えて、きちんと対処をしてあげれば、その記憶データは浄化されて消えていく。

 ホ・オポノポノを唱えることは、ちょうどハロウィンの小さな訪問者にお菓子をあげるのと同じ要領なのかも知れない。


 もう一つ、ちょっと物騒だけど似ているのが、憑依した「邪霊」を浄化するときの話だ。

 以前も一度書いたけど、佐藤愛子『私の遺言』にそんな話が出ていて、ホ・オポノポノの考え方にずいぶん似ているなと驚いたことがある。


 「邪霊」とは、過去の人が残した憎しみ、悔しさ、恨み、憤怒といった「想念のかたまり」のことだ。
 人は生きているときには、そのような感情にとらわれても、後の生活や人生の中で考え直したり、教えを受けたりしながら、偏った感情や意識を修正していくことができる。

 ところが肉体を失った霊には、現実生活というものがない。
 死ぬ時に最後まで抱いていた強い恨みなどは、「想念のかたまり」となってこの世に残り、ずっとさまようことになる。

 それらが成仏できずに苦しみ、人に頼って何とかしてもらおうと、取り憑いてくるそうだ。そして怪奇現象や、人の心にも様々な問題を引き起こしてしまう。


 普通は、こうした霊を怖がって祓(はら)おうとするけど、一時的に離れても必ずまた戻ってくる。

 霊とコンタクトする「神審者(さにわ)」と呼ばれる人は、霊を祓うのではなく「浄化する」のだという。
 その霊に恨みを与えた人々に代わって詫び、先人としての働きにも感謝し、そして怒りを解き放つように親身になって説得し、救いの道へと導いていく――。


 やや重々しい話だれど、これもまさに 「Trick or Treat」の図式である。

 子供が無邪気に口にするあのハロウィンの言葉は、実はこの世界の重要な側面のことを、なかなかリアルに言い表しているのかもしれない。

 ――いま、静かに胸の内側を感じてみて、心を痛めるかたまりのような感覚があるとき、あるいは何か嫌な出来事に遭った時のことが頭にとどまり続けているとき、それは問いかけてきている。
 「Trick or Treat」――。
web拍手 by FC2
  ☞ コメント:0

 
 前回記事では、作家・村上春樹がエッセーの中で、自らの「空」の意識状態について見事に説明しているのを読んで感心した、という話を書きました。

 
 文学、絵画、音楽などどの分野でも、作り手がインスピレーションの源につながって、作品の中に「真理の一端」が表されることがある。
 ある意味で、創作活動とは「チャネリング」なのかも知れない。
 それが必ずしも高邁な芸術作品ではなくて、ハリウッド映画やポップミュージックとかの場合だって十分あると思う――。

 多くの場合、その表現は抽象的、感覚的、断片的なものだけど、でも中には驚異的といえる具体的描写と臨場感ある説明を伴ったものもある。



d1.jpg

d2.jpg

d3.jpg

 僕が、「この人は絶対に何かとつながってたに違いない――」と思うのが、19世紀後半のフランスの画家ギュスターヴ・ドレだ。

 何年か前にベストセラーになった塩野七生『ローマ人の物語』の表紙にもドレの版画が使われていたから、「あぁ、この絵の画家ね」と分かる人は多いと思う。

 ドレは大衆向けの挿画画家で、51歳の生涯に1万点もの作品を量産した。
 よく知られている作品がダンテ『神曲』の挿画で、左にあるのがその一部、天国の場面だ。


 スピリチュアル分野の本をよく読んでいる人は「!」と思うのではないだろうか。
 臨死の体験談にはほぼ必ず、「あの世につながるトンネルを通って、まばゆい光の中に包まれて…」といった話が出てくるけど、この絵は見るからにまさしくその光景である。

 百数十年も以前の版画なのに、現代のCGでこしらえた安っぽい映像なんかよりも躍動感があって、描かれている世界を眺めていると圧倒されてしまうほどの、荘厳な畏怖を感じる。

 どうして、この光景を見て知っているかのように、ここまで克明に表現することができるのか、とても不思議だ。
 本当に、何かにつながってないと描き切れないと思う。



jes0.jpg
jes2.jpg

 僕がドレの絵を始めて知ったのが、新約聖書の絵だ。

 学生のとき学校の図書館にあった本で見たのだけど、特にイエスの受難の場面はジャーナリスティックな臨場感があって、「この画家はこの現場を実際に見てきたんじゃないのか?」と考えてしまったほどだ。

 ドレの絵には、宗教画的なあからさまな崇高さがなく、イエスは人々になされるがままに任せている。
 「救世主とか噂されたわりには、ただの弱々しい男じゃないか」なんていう群集のヤジ声が聞こえてきそうな感じだ。それくらい、イエスの存在が淡白で受動的で、人々の渦のようなエネルギーに埋まっている…。

 その中で、イエスの表情や目は、実に悲しそうな思いを、静かにたたえている。

 十字架にはりつけられるときイエスは、「彼らをおゆるしください。彼らは自分が何をしているのか知らないのです」と祈ったと伝えられているけど、本当にすべての人々を慈しみ哀れむような眼差しが描かれている。
 しかも、その眼差しが、今の私たちにも投げかけられているようで、はっとさせられる――。


 私たちが受け取るべきメッセージは、色んなチャネルを使って、人生の各所に偏在している。

 ジェームズ・キャメロンの映画やマイケル・ジャクソンの音楽にだって、あるいは自動販売機の「ありがとうございました」という電子音声にも、何かはたと気付かされるものがあるかも知れない。 web拍手 by FC2
  ☞ コメント:4

 


 スピリチュアル分野以外の人が語る、スピリチュアルな話のつづきです。

 前回は、俳優のジム・キャリーが語る「宇宙とのワンネス」について紹介しましたが、今回は作家・村上春樹が語る「空意識」について。

 国内外のさまざまなマラソン大会にも参加する“走る小説家”として知られる村上氏は、エッセー集『走ることについて語るときに僕の語ること』の中で、自身が走っている最中の意識についてこんなふうに記している――。

 僕は原則的には空白の中を走っている。逆の言い方をすれば、空白を獲得するために走っている、ということかもしれない。―中略―

 走っている時に頭に浮かぶ考えは、空の雲に似ている。いろんなかたちの、いろんな大きさの雲。それらはやってきて、過ぎ去っていく。でも空はあくまで空のままだ。雲はただの過客(ゲスト)に過ぎない。それは通り過ぎて消えていくものだ。

 そして空だけが残る。空とは、存在すると同時に存在しないものだ。実体であると同時に実体でないものだ。僕らはそのような茫漠とした入れ物の存在する様子を、ただあるがままに受け入れ、呑み込んでいくしかない。

 ――どう思います? 日ごろ瞑想とかをしている人なら感心してしまうくらい、見事にとらえていますよね。

 特に、来ては去る思考のことを「ただの過客(ゲスト)」と表現するところなんか、実にうまく言うなぁと思う。

 思考は、どこからか訪れて来るあくまでも「対象物」であって、自分が作り出したものではなく、自分に帰属するものでもないわけだ。
 そして最後に残るのは「空」だけで、その様相をあるがままに受け入れるしかないと――。


 この最後に残る「空」の意識――「私は在る」「I AM」「いまここ」「これ」など色んな呼び方がある――それこそが真の私であるというのが、禅や近年のスピリチュアルの教えが言わんとするところである。

 雪山登山での遭難など極限状態のときに、「空」を経験した話はけっこう多い。
 でも、そこまでの非常事態に追い込まれなくても、村上氏がランニング中に「空」にいるように、どんな人の日常の中にも空意識に立ち返る瞬間はある。


 よく「朝に目が覚めてすぐ、思考がわき上がる前の状態」がそれだという。
 またある本では、「空港カウンターの列に並んで、前の人の頭をボーッと眺めているとき」なんて例も挙げられている。「大きなくしゃみをした瞬間」というのある(確かに一瞬フワーッとまっ白になる)。

 そのように日常の節々で「空」や「I AM」を経験しているものの、そこには印象に残る要素なんて何も無いから、次の行動を始めたり何か考えが起こったとたんに、そんな状態にいたことすら忘てしまう…。 

 日常場面でその意識を克明にとらえる村上春樹は、さすがに並外れた感覚と表現力の持ち主ですよね。


 ここからは瞑想とか、僕自身の話――。

 瞑想を始めたら、従来の日常とは違って、「I AM」の意識にとどまるということをしなくてはならない。
 で、たいていの人は決まって「壁」に直面してしまう。それがあまりに難しく、そしてやっていて何とも頼りなく思えてくる。


 難しいと思えてしまう理由は、これまでの人生で培ってきた「努力と達成」の方程式がぜんぜん機能しないからだ。

 なぜなら「I AM」は、知識や技能のように「この自分」が「得る」ものではない。それとはある意味で全く逆の、「本当の私」を「思い出す」ことだ。
 自分が頑張ることや考えること、さらに、これまで自分だと思っていた枠組みそのものが邪魔になってしまう…。


 「I AM」の意識に目覚めた人はよく、「それは生まれたときから常にあったものだった」なんて言う。
 「あることが当たり前すぎて見えなかった」「努力を手放したとたんに気づいたのです」とか。

 ニサルガダッタ・マハラジさえ「どのようにするかを尋ねてはならない。それは説明できないのだ」と語っている。


 僕は以前、そういった言い方がすごく不服だった。だって情報性が全くないし、何ひとつ分からないじゃないですか!
 「もし自分の意識に目覚めが起こったあかつきには、誰もがスッっと落とし込めるくらい、もうちょっとはマシな分かりやすい言葉で説明してみたい」と思っていた。

 で、やがて僕にも、「あぁ、これ!――」と気づく瞬間がやってきた。
 ところが、いま説明できることといえば、結局は他の経験者と同じようなことしか言うことができない。
 そもそも、「目覚め」とか「起こった」なんて言い方をするのも大仰すぎると思うくらい、それはあまりに身近で本来的なことだった…。


 でも、自分が壁に当たった経験から、1つポイントを挙げるとすれば――。
 マインドは、「こんなのは目覚めの状態ではない!」「空っぽの意識にくつろいでいたら実生活で困ることになる」「もっと頑張れば素晴らしい境地に行けるはずだ」といったことを、もっともらしく何度も何度も語りかけてくる。そんなのはやり過ごして、安心しながらじっとしている、ということかな(これもよくあるアドバイスだな…)


 瞑想をしていて直面するもう一つの壁が、「頼りなく思えてくる」ことだ。
 マインドにとって、「I AM」意識そのものには、本当に何のありがたみも感じられない。

 スピリチュアルなテーマに関心を持つほとんどの人は、多少なりとも何らかの形で、自分の在り方や状況を変えたいと願っているだろう。

 禅では「悟ったあとも、山は山、川は川のまま在る」と言うけれど、以前はそれを聞いて、そんな変わらないようじゃ困ると思った。 
 例えば、豊かさや自分にふさわしいパートナーを望んでいる人がいたとして、「悟ったあとも、お金もパートナーもないまま」なんてことだとしたら、全くやる気なんて起きない…。


 もちろん、山も、川も、私も、在るがままというのは、根本的にはその通りである。

 でも、以前の記事でも書いたけど、真の私である「I AM」は、この三次元世界の「創造者」でもある。
 今回の転生で「私」をどのように表現したいかというビジョンと、世界のあらゆるものを動員してそれを実行するパワーを持っている。

 「I AM」にくつろぐというのは、その原初からのビジョンが展開されるのを許す、ということを意味する――。(仕事などのすべてを「無意識」の領域にゆだねてしまう、ジョー・ヴィターレのゼロ・リミッツの考え方は、これに近いのかも知れない)


 もしそのビジョンが豊かさであったなら、場合によっては山を川に変えてでも、その豊かさのビジョンが実行されるだろう――。実行されて変化した状態のほうこそが、本当の私としての「在るがまま」だから。

 また今生の目的が豊かさではなかったとすれば、単なる豊かさを超越した「私」の素晴らしさが現されるはずだ。


 これからの時代、人生の創造者としての「I AM」の側面が、もっともっと強調されても良いのではと思う。僕自身も今後、そんなことをうまく伝えていければなと思っています。
web拍手 by FC2
  ☞ コメント:2

 


 僕がスピリチュアルなテーマに関心を持つようになったのは2007年からで、けっこう「後発」のほうかも知れません。

 最初のきっかけは、翻訳家の山川紘矢・亜希子夫妻のメールマガジンの読者登録をしたこと(本を読んでではなく、確か山川氏の経歴が面白いと思って登録したと思う)

 その最初に届いたメルマガの冒頭に、次のエックハルト・トールの一言が記してあった――。

 出来事や経験に「悪」というレッテルを貼るのをやめ、かわりに、心で「イエス」といって受け入れるとき、そして、物事をありのままに放っておくとき、どんな変化が起こるか、観察してみてください。


 いま読めば、「ふつうにエックハルト・トールらしい言葉だな」と思うだけだけれど、これを初めて目にした時は、まるでメッセージの文字が輝いて目に飛び込んでくるようなインパクトを受けた。(よほど仕事のストレスで鬱々としてたのだろう…)

 で、そこから、この方面の本を色々読み、瞑想リトリートに参加し、ヨガも習うようになり、またダイエットして禁煙して断酒もして、のちに会社を早期退職して――、といった経緯を経て、いまに至っている。


 で、前述のメルマガを受け取った1年後くらいのとき、ジム・キャリー主演の「イエスマン」という映画の広告を見かけた。
 何事にも否定的で、さえない日々を送っていた主人公の銀行員が、ある時、どんなことに出会っても「イエス」と言うことを誓い、そこから人生が急展開していく――という話。

 このあらすじを見て、「まるでエックハルト・トールの本みたいだな」、なんて思って興味があったものの、映画はずっと見ていなかった。

 そのことを、昨日ふと思い出し、レンタルビデオ店へ実に1年ぶりに行ってDVDを借りて見た。

 古い映画の感想を今さら言うのもなんだけど、さすがコメディー巧者の面目躍如という感じ。
 また脚本の面でも、突然ハッピーな出来事が舞い降りるのではなく、まずきっかけとしてネガティブな出来事が起こったり、最初は無意味と思われることが後に価値を発揮したりという経過が、「現実の創造」としてもリアリティーがある。


 だが、この作品の「最大のエピローグ」は、後に主演のジム・キャリー自身が本当に「意識の目覚め」を経験してしまうことだろう。
 ありのままの自分を覆い隠す「マスク」を脱ぎ捨てたり、意識して肯定的な言葉を口にすることは、実にすごい効用があるのだなと感心してしまう(本人の私生活は色々大変そうだけど…)

 以下が本人のスピーチのビデオで、2年ほど前のものなので知っている人にとってはかなり旧聞に属するだろうけど、念のため貼り付けておきます。

 宇宙と一体となった素晴らしい意識を経験しながらも、そこにとどまれないもどかしさを、真剣に悔しそうに身を震わせ、そして照れ笑いしながら語る茶目っ気は、この人ならではの魅力だ――。




 知る人ぞ知るインドの老師とかではなく、ハリウッドの人気役者がこんなことを語るわけだから、本当にもうここまで人類の意識の変化が広がっているのだなと感じるし、修業の時代は終わったのかもしれないと思わせる。


 で、こういう映像を見たら、「でも自分には起こらないし、どうやってすれば――」なんて思ってしまうのが定例パターンだけれど、そういう反応の仕方もまた、もはや前時代的といえるだろう。

 ジム・キャリー個人の意識とか人生を、他の誰かが入れ替わって経験することは不可能だ。でも、彼が経験した「広がった意識」のほうは、誰もが全く同じものを共通して経験できる。

 コメディー俳優の意識なんかじゃ有難みがないなら、エックハルト・トールのその意識でも、ラマナ・マハルシのその意識でも、ニサルガダッタ・マハラジのその意識でも、同じことだ。

 
 その「広がった意識」は、すべての人に公開されているものであり、共有しているものであり、すべての人の「私」そのものだから――。
web拍手 by FC2
  ☞ コメント:0

 
 今回は、気が遠くなるような、宇宙の起源の話題です。

 宇宙の話って、そのケタはずれの壮大さを頭に浮かべることで、日ごろの肉体人間の目線から少し離れていけるところがいいですよね。

 しかも新しい理論ほど、まるで“非科学的”で、「こんな真理の中に人は存在しているのだぞ!」と、自分の知識や考え方に揺さぶりをかけてくる。

 そして、「私は何者か」という気づきにも近づけてくれる――そんな効用があるような気がする。


 で、そんな宇宙の話――。

 この宇宙は、150億年ほど前のビッグバンによって誕生した。そしてビッグバン以降、宇宙は現在もずっと膨張を続けている。
 では、どんどん大きく膨らんでいったあと、将来は一体どうなるのか?――

 宇宙はやがて膨張がピークに達し、今度は「収縮」に転じると予測されている。
 そして、これまでとは逆に、150億年ほどかけてどんどん小さくなっていくという。

 最後には、宇宙にあるすべての物質と時空が、無次元の点に収束してしまう。
 これが宇宙の終焉で、「ビッグクランチ」と呼ばれる。

 ビッグクランチによって、宇宙が存在した痕跡すらも、すべて完全に消滅するという。
 つまり、私たちが確かにいたという「過去」や「事実」が無い状態となるわけだ――。すごいことですよね。


 では、この宇宙が消えたあと、何が起こるのか?――

 ビッグクランチのあとは、何と、また再びビッグバンが起こり、新しい宇宙が創生されていくそうだ。


 でも、その状態からビッグバンが起こるって、すごく不思議だと思いませんか。
 だって、宇宙が生まれる前は、完全な「無」。つまり「現象を引き起こすもの」が全く無いのに、どうして「ビッグバンが起こる」なんてことができ得るのか?――

 物質も時空も何ひとつ存在しない中では、「さあ、今から宇宙を始めよう!」といった「意図」が最初にない限りは、何の現象も開始されようがない…。

 聖書の「初めに言葉ありき」というのは、そういうことなんでしょうね。科学の世界では「真空のゆらぎ」と呼ばれている。


 ここから、さらに気が遠くなる。

 ビッグバンで生まれた宇宙が、ビッグクランチで終焉し、また再びビッグバンが起こって新しい宇宙が生まれて――と来たあと、その先はどうなっていくのか?

 それは――、ビッグクランチ、ビッグバン、ビッグクランチ、ビッグバン、ビッグクランチ、ビッグバンというのを、これから先も延々と繰り返していくそうだ。

 宇宙というものは、すごいことに、丸ごとが絶え間なく再生していく。
 つまり宇宙そのものが、輪廻転生しているわけだ。
 (でもどうして創造主は、こうも「廻る輪」のような仕組みが大好きなのでしょうね? 映画「Thrive」で説明しているトーラスのエネルギーもグルグル回っているし…)


 インドの神話では、この宇宙は神が「遊び(リーラ)」のために創造しというけれど、その宇宙創造の遊びは「1回限り」ではない、ということになる。

 いわば神は、寝て起きては遊び、また寝て起きては遊びという生活を、この先ずーっと続けていくわけだ――。


 もっと気が遠くなる話――。

 この今いる宇宙は、初めてできたものではなく、超ひも理論によると、現在の宇宙は既に30~50回目のものになるそうだ。

 1回に億年単位の時間を要する、宇宙丸ごとの消滅と創生を、これまでにもう何十回も経てきたことになる。


 究極的には、すべては「私」という神が創造したものである。
 この三次元宇宙は、「私」という神みずからが、その中での経験を疑いようのない本物として味わえるよう作られている。

 過去50回の宇宙とその中身の全部は、三次元宇宙を完璧なリアルさで成立させるための、細大漏らさぬ壮絶スケールの裏付けであるわけだ――。

 私たちがいる今のこの宇宙の中には、全部で1000億個もの銀河が浮かび、それぞれの銀河には1000億個の星々が集まっている。

 その星の1つである地球には、800万種ともいわれる生き物が生息している。
 その1つの種である人間は、地上に約70億人が生きている。
 その人間の1個体は60兆個の細胞から構成されていて、これだけの裏付けのもとに、いろいろな経験が可能な「肉体人間」の自分が存在できている。

 ――で、そこまで作り上げておいたうえで、日ごろは「お金が足りない」とか「誰かが自分の悪口を言った」とかこぼしてるわけだから、それもある意味で、人間の驚異的なすごさですよね…。 web拍手 by FC2
  ☞ コメント:5

 


 人生の転機として最大級の一つといえる、「会社を辞める」ことについて書いてみます。

 僕自身が会社を早期退職してちょうど1年が経つので、かつての自分のように「いま辞めるべきか…」と決断に悩んでいる人にとって、ちょっとでも参考になればと思います。

 連休の暇にあかして(といっても僕は毎日が休日みたいなものだけど)、今回はやや長めです。


 僕にとってサラリーマン生活というのは、必要な経験を積むための大事な場であるものの、「そこにずっといることが自分の役割ではない」という思いを、前々から持っていた。

 とはいえ、勤続20年以上にわたり、それなりにクオリティーの高い仕事ぶりで組織には重宝されていたと思うし、また会社の知名度や給与水準も並以上のところだったので、退社への踏ん切りは容易につかなかった(自己都合で退職する社員は実際にほとんどいなかった)


 かなり以前だけど、スーパーマーケット「サミット」の元社長で作家の安土敏氏が新聞コラムでこんなことを書いていた――。
 銀行を定年退職した知人に聞いたら、同期入社のうち途中で亡くなった人を除いて全員が、その銀行を定年まで勤め上げたという。
 でも果たしてその人生が、一人ひとりにとって本当に幸せなことだったのだろうかと、同氏は問いかける。

 会社組織の中で、自分が絶対に譲ることのできない衝突に遭った人や、他の仕事をしてみたいという夢を持った人もいただろうと。
 でもいざ辞めることを考えたとき、年収が100万円ダウンするとなると、なかなか踏み切れない。まして200万円とか、300万円以上も減るならば、それはもう検討の余地無しだ。
 だから「給料のいい会社に勤めることは、実は恐ろしいことでもあるのだ」と――。


 失業やワーキング・プアの問題に比べれば、ぜいたくな悩みと思われそうだけれど、そこそこの給料のために「会社を辞める」という決断が現実的に許されない人は、世の中には多いはずだ。 

 その束縛と重圧が原因で、人生に行き詰ってしまう人も少なくない。人生の半ばで倒れてしまったり、あるいは最後まで自分にとって不本意な生き方に終わったならば、どれほどのサラリーを受け取っても、その代償にはならない。


 僕もずっと、そんな「辞める決断ができない人」の1人だった。
 でも昨年、以下の3つの物事によって、僕は突き動かされることになった。


 1つ目が、偽りない「本心」の苦しみだ。
 表面上は元気にバリバリ仕事をこなしながらも、会社組織にいることの「息苦しさ」が急速に増していった。 「ここで働くことが本当の役割ではない」と、まるで魂が強く揺さぶりをかけてくるみたいだった。
 そんな本心にあらがい続けていたら、やがて本当に精神的に破綻してしまいそうで、最後の数カ月は気力の面でもう限度という感じになった…。


 2つ目は、色々な本や言葉との出会いだ。とりわけ、エリザベス・キューブラー・ロスの本から受けたインパクトは大きい。

 何千人もの死にゆく人と向き合ってきたキューブラー・ロスは、「やりたくないことを無理にやり続ける人生に価値はあるのか。それは生きているのではなく、死んでいるのだ」と言い切る。
 実際に死の床で「もっと会社で働きたかった」「あと収入がいくらあれば幸福だったのに」と後悔する人は、一人もいないという。

 著名なキューブラー・ロスの本は、もっと早い時期に読んでいるのが当たり前かもしれない。なのに、なぜかこの時期に、計られたようなタイミングで出合うところが面白い。

 ちなみに後で知ったことだけど、『神のと対話』のニール・ドナルド・ウォルシュは、キューブラー・ロスのアシスタントをしていたことがあったそうだ。
 当時いやいやサラリーマンを続けていたウォルシュが、キューブラー・ロスに触発されて会社を辞めるという、運命のいたずらみたいなエピソードが『神との友情』の中に書かれている。


 僕が早期退職へと突き動かされた3つ目の要因が、自分の身の回りに起こった「サイン」だった。

 それまで僕は、「遠からず退職する」という意向は固めていたものの、どうも人生の流れがその方向に傾いているように感じられず(宝くじが当たるとか運命的な後押しがあれば良かったのだけど)、何だか無理やり辞めるようで現実的に決心ができなかった。


 そんなある夜、夢の中に、小さな神社のような祠(ほこら)が出てきた。
 それは、僕の京都の実家のすぐ近くに実在するもので、丘のような古墳の上に、鳥居と祠が設けてあるところだ。

 するとほどなく、急に大阪に出張する仕事ができた。その仕事がたまたま金曜日だったので、ついでに土日に久々に実家に帰り、夢に出てきたその祠へ行ってみた。
 そしてその場所で、「新しい人生に進む流れをください」と語りかけてみた――。


 その翌週、東日本大震災が起こった。
 仕事の受注がほぼゼロに落ち込み、通勤電車もまともに運行しなくなって、それまで当然の日常として見えていた企業活動やサラリーマン生活の「幻想性」が露呈したかのようだった。

 さらに信じられないことに、震災に前後して、同じ部署で2人の社員が突然亡くなった。1人が50歳で脳梗塞、もう1人はまだ30代半ばで、原因が分からない心不全だった…。

 僕はこれで観念した。
 これは「もう辞めるタイミングだ!」という、周りのあらゆるものを使って自分に伝えてくるサインに違いない。このタイミングを見逃して会社勤めを続けたら、たぶん一生後悔することになると――。


 そしてゴールデンウィークのまとまった休みの後、退職願を出した。
 その決心は、辞めるか続けるか、人生の夢を取るか現実を取るかといった「択一」ではなかった。いま振り返ってみれば、道は既に決められていて、「いつそこに踏み出すか」だけが、自分に問われていたように思える。

 それでも、ひょっとしたら、「会社にずっといる」という別の人生が、パラレル宇宙の1つとして存在しているのかもしれない。
 だが僕にとってそれは、「もし日本が太平洋戦争に勝っていたら」というのと同じくらい、現実性がなくて仮定する意味もないシナリオだ――。


 いま「会社を辞めようかどうか」と悩んでいる人に、僕が何かアドバイスするとすれば、次の3つのポイントだ。

 まず、なかなか決心が付かなかったら、辞めることをしっかり意図しながら、「流れが来るのを待つ」ことが大事だということ。
 自分の内の声や、本の言葉、あるいは周囲の変化によって、「今がその時だ」と突き動かされる何かが起こるだろう。

 その時にはもう、「難しい選択」ではなく「必然的な一本道」になっているはずだ。


 そして生活面のアドバイスとして、飲酒の習慣がある人は(サラリーマン男性のほとんどがそうだろうけど)、退職を考えるにあたってきっぱりと「断酒」をするのが良い。

 アルコールを摂取しないことによって、自分の本心を酔っ払ってごまかすことができなくなるし、毎日の夜の数時間をしらふの明晰な意識でいられる。(職場の「飲みニケーション」があるし…なんて言っているうちは、退職の決断は難しい)


 さらに実務的なことで、退職後の生活水準とお金の計算は、抜かりなくきちんとしておこう。
 ただし、その計算結果そのものを決断の材料にしてはいけない。なぜなら、マネープランのみから冷静に判断したら、誰も会社を辞めることができなくなるからだ。

 最終的には計算ではなく、「本心」とか「流れ」とか、理性では計ることのできないものが人生を動かす。

 その時は、もうお手上げしてゆだねるしかないですよね――。
web拍手 by FC2
  ☞ コメント:17

 


 会社を早期退職してから、ちょうど1年がたちます。

 この1年間、何をしていたのかと問われれば、「ハートを開いて、I AMの意識にいるようにしてきました」――といった説明になる。

 一般的には「はぁ!?」と怪訝な顔をされるだろうけど。でも他にやるべき「人間の生における優先事項」って、たぶん根本的には何もあり得ないのでしょう。


 とはいえ現実には、掃除・洗濯・買い物・料理・後片付けといった、家族3人分の家事は全部僕が担当しているので、それが日々の「すること」の最大シェアを占める。そういうのをきちっとするのはとても気分がいいので、僕にとって「心地よさを伴った肉体的義務」といえる。

 あと、こうして文章とかを書いて伝えるのはかなり好きなので、この関連で面白そうなことがあれば、今後の新しい仕事にしたいなぁとも思っている。それがいま「自分の宇宙に引き起こしたいこと」でもある。


 でも、もし僕が30代なら、今のこんな生活は決して耐えられないと思う。
 家計はすぐにひっ迫するだろうし、社会の最前線で活躍したいという向上心(あるいは社会の価値観に従った強迫観念)がすごく旺盛だったから。

 でも40代の今は、幸いにもある程度の蓄えはあるし、20年以上にわたる勤め人として「もう十分に役割を果たせた」という納得感(あるいは「もうたくさん」という飽満感)は大きいし。
 ある意味で、自分の性格や年代ステージに合った「必然的なシナリオ」の通りに、人生が進んでいる感じがする。
 
 こうした10年間の自分の変化は大きかったけれど、退職後の最近1年間の変化はやはりもっと大きい。さらには、ここ1カ月の変化は一段と大きい――。
 半年前にふと始めたこのブログも、当初考えていた実生活の身辺雑記ではなく、その意に反して、バリバリのスピリチュアルに傾注してきている…。


 「男は40を過ぎたら、自分の顔に責任を持て」なんていう、よく知られたフレーズがある。
 別に顔に責任を持つ必要性はないと思うけれど、転じて「自分の内面に責任を持て」というのは、かなり強調して心得るべきことだと考えている。(もちろん、男女や40を過ぎたからとかにかかわりなく)

 現れるマインドに執着せずスルーして、今ここに根付く――。
 そうした内面への責任が、「自分がどう在るか、どう生きているか」を決定づけるし、このことをさらに大きく言い換えてみると、「自分の宇宙に責任を持つ」ということになるだろう。


 ただ、そんなことをわざわざ言わなくても、既にすべての人が生まれながらにして、自分の宇宙に対する全責任を引き受けている。

 宇宙というものは、「その人の内面の在り方を形として反映する」という以外には全く何の機能も持たず、それが宇宙が存在する役割だ。
 別の言い方をすれば、「無意味であることが宇宙の役割」である。

 その無意味な宇宙に形と意味を与えることが、「人の内面の役割」といえる。

 ところがこれまで、多くの人が確たる責任を自覚しないまま、その役割だけが勝手に動き回っていた――。
 それって、ずいぶなことだと思いませんか。

 「宇宙をどげんかせんといかん!」とすぐに立ち上がらねば、いや逆に、I AMにくつろがねばならんですよね。
web拍手 by FC2
  ☞ コメント:2

 

 「わたしが在る」ことが奇跡だという。
 「すべては、あるがままで完璧」だという。
 「この宇宙に、愛以外のものは何もない」という。
 こういった言葉を、以前はあまり信じられなかった。

 そんなはずはない! だって自分は、望みどおりにならないし、満たされないし、色んな物事に苦んでるし、他者の中にいるとみじめだし…。


 それでは、そんな苦しくてみじめな自分を、どうするのか?――
 この「自分をどうするか」こそが、人生で自分が自分自身に引き起こす、最も素晴らしい崇高な奇跡。

 この「わたし自身の奇跡」に比べれば、外の世界のいかなる奇跡的な物事は――天体のいとなみも、自然界の神秘も、人命救助も、シュークリームも――、単に無常なものの一つにすぎない。


 苦しくてみじめな自分をどうするのか?
 ――結局のところ、そのままを認めて、受け入れるしかない。

 反射的に「無理っ!」と思ってしまう。「こんな自分は認められない」と。

 でも、本当にそうだろうか。
 どんなに満たされていなくても、苦しくてみじめな自分でも、すべての人はこれまでずっと、そんな自分自身と共にいたはずだ。一時たりとも、自分というものから離れることなく、そこにいた――。

 自分のことを見放して、自分というその場所から逃げ出すことは、絶対に不可能だ。
 これは、強制的にしばり付けられているわけではない。
 無条件の愛という本質の現われである。

 「自分はみじめだ、受け入れられない」と言いながら、実はあらゆる人が、そういう自分から一切離れることなく、すべてそのままを拒むことなく受容してきたのだ。

 「わたし」というものは、自分がどんなに問題だらけになっても一緒にいるという、他に道がない道を選んだ。その「わたし」こそ、愛にほかならない。


 そんな、「わたしの大きな部分」の存在に気づくこと――。

 すると、縮こまったかたまりのような自我が、そこに見えてくる。
 恐れや嫌悪、罪悪感などを抱え、周りに翻弄されている。

 そして驚いたことに、このかたまりが、自分という「主体」ではなくて、あくまで「対象」として存在していることが分かる。
 大きなわたしの立場から、どうあるかを決めることができる「対象」だ。

 恐れが浮かんできても、それとつながらなければいい。
 自分にふさわしくないものがあれば、違う選択へ進むこともできる――。

 
 大きなわたし――「わたしが在る」というものを、無欲で何の機能もなく、ただ在るだけのもののように、見くびってはいけない。

 もちろん根本的にはただ在るだけだが、この現象世界において、それは「創造者」である。
 わたしというものをこの人生でどう表すかのビジョンを持ち、その現実化のために世界のあらゆるものを動かす力を擁している。

 それは、「わたし自身の奇跡」を起こす創造者――。

 この奇跡のために、「わたしが在る」というものは、「問題だらけの自分」と一緒にここにいる。
web拍手 by FC2
  ☞ コメント:4

 
  大惨事の極限状態での奇跡――

 1982年1月、強い寒波が襲ったワシントン。
 空港を離陸した直後のボーイング機が墜落した。吹雪の中、橋に激突して自動車を巻き込み、厚く氷結したポトマック川に機体は大破して沈んだ。

 事故のあまりの凄まじさに、全員絶望と思われた。
 ところが、わずか数人の生存者がいて、川に浮かぶ破片などにしがみついていた。
 しかし、そこは厳寒の氷水の中。重傷を負った生存者の命は秒単位で削られていく――。


 救助に駆けつけたヘリが、川に浮かぶ生存者の1人に救命のロープをおろした。
 その男性はロープをつかむと、驚いたことに、近くにいた女性にロープを手渡した。一刻の猶予もない極限状態の中で、救助の順を譲ったのだ。

 ヘリはまず女性を岸へと運び、再び引き返してきた。
 そして、激しく衰弱したその男性に向けロープを投げた。すると彼はまたしても、別の生存者にロープを渡してしまう。

 ヘリの隊員は彼を救うために、予備のロープを垂らした。
 彼はそれをたぐり寄せると、信じられないことに今度もまた、近くにいたもう1人にロープを譲ったのだ。

 ヘリはその生存者たちを岸に運んだ。
 ロープを譲り続けた男性は、凍てつく川に最後の1人として残された。
 そしてヘリがこの男性の救助のために戻ってきたとき、彼はすでに力尽きて、川の中に沈んでしまっていた。隊員がいくら探しても、二度と姿は見えなかった――。


 九死に一生を得た奇跡とは違う。
 死の縁に追い詰められた中でも、「人は他者のためにここまでできる存在なのだ」ということを、世界に示した奇跡。


nsc.jpg ごくごく平穏な日常の奇跡――

 話はガラッと変わって……
 石神井公園からの帰り、洋菓子店「ノア」で買うシュークリーム。
 注文を受けてから、シューの中にクリームを詰めるという、作り手の心意気。

 香ばしく焼かれたサクサクのシューをほおばると、ふくよかな風味のカスタードクリームがあふれ出て、口いっぱいにトロリと広がる。
 思わず誰もが、ほおを緩めてしまう――。

 「シュークリームの味わいって、こうだったんだ」と納得させられる、洋菓子店ならではの一品。でも値段は、コンビニのシュークリーム並みの1個170円。
 こんなシュークリームを作ってくれるって、本当に素敵なことだと思いませんか!


 今ここに起こっている奇跡――

 ブログを書いている僕は、読んでくれるあなたのことを意識している。
 今それを読んでいるあなたは、書いた僕のことを意識してくれている。

 別々の他者が、互いを意識し合える――。
 これは、ワンネスの高次元では経験できない、この世界だからこそ可能な奇跡!! web拍手 by FC2
  ☞ コメント:1

 


プロフィル

Koudai Mitsuna

Author:Koudai Mitsuna
 
光奈 広大(みつな・こうだい)

 20年のあまりのサラリーマン生活を経て、いわゆる「ザ・マネーゲーム」を何とか卒業。今では束縛されない自由な日々を存分に味わっています!

 そうした中で心がけているのは、普通の日常的な行いを通じて、意識の進化を目指す「カルマ・ヨガ」。

 日々の喜びや学び、インスピレーションから得たスピリチュアルな気付きなどをブログで紹介しています。

 妻子と都内在住――。





http://facebook.com/koudaimitsuna

最近の記事
ツイッター
アクセス

CALENDaR 12345678910111213141516171819202122232425262728293031
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。