フロントページ   »  2012年11月
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
web拍手 by FC2
 
dakn3.jpg

 『タントラへの道』(チョギャム・トゥルンパ著)を、僕個人の視点からざっくりかいつまんで説明してみる、という記事の3回目です。

 今回のテーマは、エゴを剥ぎ取る「苦痛の道」について――。


 著者のトゥリンパは、人の生に真に必要なあり方とは、自己を開いて「ありのままの私」になること。そうして「ありのままの世界」に直接的に関わることだと説いている。

 そのためのきっかけとなるのが、目の前の出来事に「これは素晴らしい」とか「これは悪いことだ」とかラベルを貼ろうとする、自らの習慣的反応に気づくこと。
 自分がそのような価値付けを絶え間なくしていて、それによって得るものは何もないと認めれば、「もう抜け出す道を見つけたようなもの、すべてがゲームの一部だと分かり始める」、と語る。


 ただし、そこで一つだけなすべき重要なこと!――
 それは、相当な痛みをこらえてでも、自分の「仮面」を剥ぎ取ることだと、トゥルンパは力説する。

 私たちはこれまでの人生で、エゴの構造を幾重にも重ねてきている。
 エゴの論理的な声に従って、人に親切にしたり、定まった職に就いたり、居心地のいい家に住んだりもする。そして、そのような人生が、そのまま続いていくことを願っている(あるいは逆に、今の状況は絶対に嫌だと、背を向けて抵抗したりもする)。

 この、「自分はこうありたい」「こうあらねばならない」という願望――、まさにそれを基準に、私たちは周りのあらゆる状況への判断・期待を常に加えながら、世界を眺めているわけだ。
 この価値付けがベールのようになって、今ここにある「ありのままの世界」を覆い隠してしまっている。さらに、そうした構造がエゴそのものを強化・存続させ、「ありのままの私」をまったく見えなくしている。


 このような、自分の中にある「自己欺瞞」のすべてを根本からさらけ出し、何の守りも飾りもない丸裸の自分を認めて受け入れていくプロセス――、これをトゥルンパは「厳しい道」「苦痛の道」と呼んでいる。(逆に「楽な道」とは、エゴを満たす罠であることを、前々回の記事で書いた)

 この「厳しい道」は、エゴにとって最大の脅威だという。
 でも、自分の仮面はいつか必ず剥ぎ取らなくてはならず、逃げ道は一切ない。あきらめてあっさり手放すか、無理に闘い続けたすえにすべてを落とすかで、「このショックを経験せずに成長することはできない」と断言する。

 
 仮面を剥ぎ取るために、トゥルンパは師(グル)の必要性を強調している。ただし、師がしてくれることを、「麻酔なしの手術」なんていう、実に穏やかでない表現をしている。

 自分を守る覆いが突然に剥がされるのは大変な苦痛で、丸裸の自分を見いだすのは、耐え難いほど恥ずかしいことだという。
 だが、自己を開くのを楽にしてくれる特効薬みたいなものはない。師が魔術的パワーを使って、痛みのないまま気がついたらOKになってる、なんていう望みは一切捨てるべきだ、と強調する。

 知恵のある師に付いてみると、自分の安全なんて全く保障されていないことに気づく。その無遠慮さが、あまりに法外にすら見えるそうだ。
 なぜなら、そのような師は、自らの安楽を守ろうとするエゴの企てには、一切くみしないからだ。

 常識的な見方からすると、慈悲を持つ人は親切で優しいのが当たり前だ。もし、あわれに打ちひしがれた弟子が、体を温める毛布とか、顔を覆うための新たな仮面を必要とするなら、それを師が差し出してくれると思うかもしれない。しかし、本当の慈悲は、エゴから見れば徹底的に無慈悲なのだという。


 窮地に立たされ、最後にすべてを手放すまでの心の動きを、トゥルンパは次のように描写している――

 あらゆるものをむしり取られ、もう隠れる場所もない。ショックだ! つまらない見せかけやうぬぼれも、すべて暴露された。仮面をかぶろうとする不器用な企てが、まったく無意味だったことを思い知る。
 それでも私たちは、この苦しい状況を何とか正当化しようとする。自分を保護する方法、窮地を弁明する方法を見つけることで、エゴを取り繕うとする。そう考えたり、ああ考えたり、心は忙しく動き回る――。
 さらには、自分を「空」にしようとしているその時さえも、自らを保護し、満たそうとして、実は後退している自分を発見する。やがて混乱は極致に達し、ついに自分が完全に迷ってしまったこと、根拠を失ったこと、出発点も到達点も喪失したことに気づく。自分の心が、自らの統制機能の中に完全に呑み込まれてしまったのだ…。

 そこで、最後に残された唯一の選択は、すっかり降参して任せきるしかない。混乱をぜんぶ放り出し、何かをしようとする試みを完全に捨てて、ぴたり停止することを強いられる。
 目覚めが起こるのは、まさにその瞬間だ。
 

 またトゥルンパは、高名な師のこんな逸話も紹介している――

 弟子の混乱と忍耐はとうとう頂点に達した。師は、その瞬間を見逃すことなく、サンダルを脱ぐやそれで弟子の横っ面を張り飛ばした! 大の男がサンダルで張り飛ばされた結果、突然彼はまったく何もできなくなってしまった…。
 弟子はその瞬間に目覚め、「空」を見たのだ。


 自分をさらけ出すということ――。それは、衣服も肉体も脳もすべて脱ぎ捨て、宇宙に対して自分をさらけ出すこと。そして生そのものに対して自己を開くこと。これが「道のあるべき姿」なのだという。

 これによって、これまで何とか営々と築き上げてきたエゴの基礎的構造が崩れはじめる――。解体し、開き、そして捨てる過程こそ、「学ぶ」という本当のプロセスなのだと、トゥルンパは説く。


 そして、ひとたびすべてをさらけ出したら、あとは故意に自己を開こうとする必要はないという。
 以降のプロセスは、自分でやることではなく、自然に起こってくるものであり、ただあるがままを受け入れることが大切だ。

 やがて、自己を開くこととは、この世界で最も単純なことであると悟る。取るに足らぬ、平凡極まりない、全く何でもないことだと分かるという。
 それは完全な開放、一切の評価の不在を意味する。


 自己を開く過程に取り組むには、独力ではなく、師の存在が不可欠であることをトゥルンパは語っている。
 「さらけ出すのを見ている人が必要だ。誰もいない部屋で服を脱ぐのは容易なことだが、多くの人の前で裸になるのは難しい」「師を持たずに自分のありのままを見ることは、私はできないと思う」などと明言している。

 さらに開いていくプロセスについて、次のように解説している――
 「師が自己を開き、あなたも開いて目覚めたときに初めて、もともと同じものである2つが出会う。これが真の『入門』だ」
 「師が真理を体験し、それをインスピレーションとして弟子に伝える。このインスピレーションが弟子を目覚めさせる。それは情報として伝えられるものではない。教えとはリアルな体験なのだ」


 確かにそういう図式なら、師が不在だと目覚めが起こりようがない…。
 ただ僕の意見だけど、例えばエックハルト・トールをはじめ最近のスピリチュアルのリーダーたちは、師がいないまま目覚めている例がむしろ多いのではないだろうか?(エゴを落とす大変な苦しみはあるみたいだけど)。
 また、「師との出会いが必要だ」といったメッセージ自体も、近年はずいぶん減ってるように思える。

 かつて「目覚め」というものは、たぐいまれな「師」から伝達されるしかなかった。ところがもし今、「宇宙」そのものが開いて、私たちが普遍的な源泉からダイレクトに伝達を受け取ることができるとすれば、それはまさしく特別な「恩寵の時代」だといえる。
 どうなのでしょうか?――


 もう一つ付け加えだけど、弟子を目覚めさせるための師の冷酷ともいえる態度を、「無情の慈悲」と呼ぶ。
 トゥルンパは、この「無情の慈悲」を実践できるまでには、大変な修行を経なければならないことも説明している。「教えを研究し、自己欺瞞を見いだして切り捨て、さらにユーモアのセンスを培い、瞑想修行を十分に積むまでは、無情の慈悲を行うには非常な危険が伴う」と。
 それっぽい厳しい態度を、「自己顕示スタイル」として使っているケースは、世の中に多いと思いますけどね…。


 最後に、すべてをさらけ出し、自己を開くことに関する、トゥルンパの言葉をいくつか――。 

 ◇自分の中に「醜さ」を見るのは、単なる先入観にすぎない。その感覚はまだ、「善と悪」の考えに結び付いている。

 ◇私たちは、常に何かを求める性質を捨てなくてはならない。「自分自身に対する慈悲」を養わなくてはならない。そこから、開かれた道は始まる。

 ◇頭で考える言葉や概念を超えて、あるがままの自分に入っていく。自分自身に向かって完全に自分を開くことこそ、世界に向かって自分を開くことだ。


 次回は、覚醒した意識での「ゆだねる生き方」をテーマに、まとめてみたいと思います。



 結びに、定例のヒーリング音楽の紹介。
 今回も有名な人で、Kamal 「Song of the Deep」。

 日本の「霊気」をテーマに、クジラの声と、ホーミーのようなおじさんの歌声という、組み合わせの理屈はよく分からないけど、ハーモニーはとても素敵です。
 

スポンサーサイト
web拍手 by FC2
  ☞ コメント:11

 


 前回に続き、最近読んでとても面白かった『タントラへの道』(チョギャム・トゥルンパ著)の主な内容について、僕個人の視点からざっくりかいつまんで説明してみる、という記事の2回目です。

 今回のテーマは、「至福体験」について――。


 スピリチュアルにかかわる色んな出来事や経験の中で、とりわけその魅力に惹かれてしまうのが、「至福体験」だろう。

 精神的修行のすえ、あるいは全く突然の出来事として、まばゆい光が降り注いでくるとか、周りのものすべてから愛のエネルギーを感じるとか、宇宙と一つになった歓喜に満たされるとか――。

 その素晴らしすぎる意識をぜひ体験してみたいとあこがれるし、また体験こそしなくても、この問題だらけの世界の背後にそんな美しい実相が広がっているという話を知るだけでも、何だか救われる気がしてくる。


 さまざまな本とかブログとかを見ると、至福体験をする人は確かに増えているようだ(とはいえ、まだ何十万人に1人の希少難病くらいの出現率かな?)。また、その素晴らしい感覚が消えてしまい、何とか取り戻そうと懸命になっているという人の話も聞く。
 でも最近は、「そのような経験も、来ては過ぎ去るものの一つだから、執着しない方がいい」という捉え方が主流のようで、それはすごく真っ当にも思える。


 で、自分が実際に巡り会うかどうかは別にしても、それだけの強烈で神秘的な状況を投げかけられた際に、人はどうそれに向き合えば良いものなのだろうか?
 また、その至高ともいえる状態がゴールとは違うならば、それを超えたどんな状況や在り方を、私たちは志向すればいいのか?――

 これについて、著者のトゥルンパは、じっくりと明解に説明している。


 高い意識を一時的に経験しているとき、人はすべてが美しく見えるハイな状態になり、ブッダの境地に到達したようにも感じるという。世俗的な懸念が一切抜け落ち、あらゆるものが望み通りに進んでいることが分かり、深い瞑想や開放の瞬間が常に起こり続ける。

 ただし、そうした経験のことをトゥルンパは「禁断のリンゴをかじる例えに似ている」と表現する。「神聖なことをやり遂げた!という悪魔の祝福の歌が聞こえ、そこから輪廻的なパターンが始まる」という。

 至福の状態は、やがてあえなく消え失せ、普通の感覚に戻る――。
 努力のすえに体験を手にしたり、至福に長くとどまることも不可能ではないが、それが「落ちてゆく」ことを避けることはできないそうだ。


 修行によって自らを駆り立てるように達成した体験者は、ハイな状態が消えた後、自分が以前と同じところに立っていることに気づいて、救いがたい幻滅感にさいなまれるという。
 至福や開放は、「今の経験」ではなくなり、単に言葉や概念だけの「色あせた記憶」に置き変わってしまう。

 ところが、成就した人としての立場を手放したくないから、過去の体験に執着して、そのストーリーを繰り返し語る役割を好むことになるという…。

 こうなると、もう完全に「エゴの罠」であり「二元性」の生き方だ。そんな人のストーリーに追従してしまう人は、もっと災難といえよう。


 もちろん、至福体験そのものが、何か厄病のような出来事というわけでは決してない。
 トゥルンパは、「はかり知れない喜びを体験できるのは、美しいことだ。しかし、その後に来るものが問題なのだ」と指摘する。


 その後に来るもの――
 それは、「体験を価値付けしようとする考え」だという。

 私たちが深遠な至福に包まれた次の瞬間、その経験を「崇高なもの」「貴重なもの」と評価してしまう連鎖反応が起こる。すると、出来事をあるがままにとらえる繊細な感性が失われてしまい、自己欺瞞がたちどころに忍び込む。
 「わぁ、すごいぞ! これはめったにない神聖な体験だから、しっかり捕まえておかないと!」と――。

 そして、人が何かを「貴重なもの」と見なした途端、それは「自分から切り離されたもの」として存在するようになるのだという。
 本来は自分と一体であるはずの至福や開放が、瞬時にして、自分から切り離された対象に変わってしまうわけだ。


 トゥルンパはこう説く。
 「誰でも、自分の頭や手足のことを、それほど貴重なものとは思っていない。それが自分の一部であることを知っているからだ。自分の構造の一部であるものを、特別に評価することはできない。それはただ在るものなのだ。一方で『価値付け』というのは、何かから切り離されることへの恐怖から生まれる。実はその恐怖こそ、私たちを切り離されたものにしている原因でもあるのだ」――。

 そして、「体験にしがみついて、それを再現しようとあがくか、それとも単なる一つの体験として、あるがままに任せるか」と問いかける。


 では、それほどの至福や高い意識状態を「単なる一つの経験」と見た上で、私たちはどのような在り方を志向すればいいのだろう――。
 幸せや喜びといった要素がないならば、スピリチュアルな道というのが、何の感興もわかない平板なものに思えてしまう…。


 トゥルンパは、精神性に対する誤った期待や衝動が収まることで、「やがて単調で退屈になってくるが、それは良い兆しだ」と明言する。
 そして、「自分自身や、自分自身の体験と本当に関わることが真髄なのだ」と強調する。

 私たちがいま目にしている世界の本当のありのままの姿というのは、一時的な至福体験なんかを遥かに超えた、壮大でいきいきとした生のリアリティーがダイナミックに躍動しているのだという。
 それを単に「空」として見るだけではなく、ありのままに「感じる」ことが、私たちに真に必要なのだと――。
 これが般若心経の「色即是空、空即是色」で、詳しいことは長くなるので、後の方の回でまた書きたいと思います。

 
 その辺りに関連する、トゥルンパの言葉を2点。

 ◇夢の世界を超えた真の体験とは何だろうか。それは生活の中で常に、「今」の美や感覚を本当に体験することだ。

 ◇
「私」と「他」という二つの派を識別しなければ、あなたは開放された広大無辺の状態に達する。至福というのは分離した個の体験だ。至福を体験する主体もいなくなるという、まさにその事実によって、至福そのものが無意味になる。


 次回は、真の私を現すための「すべてをさらけ出す」「降参して任せきる」、ということをテーマにまとめてみます。
 トゥルンパはこれを「厳しい道」と呼んでおり、けっこうキツいことを言っています。



 最後のおまけに、定例のヒーリング音楽の紹介。
 今回は、スピリチュアル音楽の大御所Deuter「Earth Light」。
 やさしい笛の音に、ハートが溶けていきそう――。


web拍手 by FC2
  ☞ コメント:8

 
 玉石混交のスピリチュアル本の中で、これは!という「当たり」に巡り会うのは、年に1冊あるかないかくらいかな。

 で、先日に図書館で借りた、チョギャム・トゥルンパ著『タントラへの道』という本は、まさしく「これは面白い!」と目を見開いてしまうような、ひさびさの会心作との出会いでした。


 この本、内容はけっこう以前のもので、チベット仏教のマスターが1970年当時にアメリカで行った講演録である。

 他にはない独創的な教えというわけではないけれど、「今ここ」「あるがままの自分」という、今の時代にも合った焦点の当て方をしながら、スピリチュアルな世界と道について、非常に鋭い明晰さで語っている。


 とりわけ、「至福体験」とか「高い意識の状態」とどう向き合うかの話は、なかなか貴重な内容だと思う。
 その状態のことを指して「悟り」だなんていう人もいるし、瞑想をする人はそれに魅力を感じて目指すことだろう。また一度それを経験して、何とかまた取り戻したいと苦悶している人の話も聞く――。

 「至福体験」の素晴らしさを語ったものは多いけど、「その経験に対して自分はどうすれば良いか」という実践的な指南をした本はあまりないと思う。
 これからの時代、その意識状態を経験する人がもし増えるのであれば、聞きかじっておいても無駄な知識ではない。


 ただしこの本、すでに絶版で希少らしく、ネット書店の中古品にかなりの高値が付けられていた。図書館にもあまり置いていない(僕は東京・杉並区の図書館で借りたけど、近隣の中野区や練馬区にはなかった)
 また、読みやすい翻訳ではあるけれど、斜め読みして中身がするすると頭に入ってくるほどは平易でない。

 ということから、僕が個人的にとらえたこの本の内容について、ざっくりかいつまんで説明してみる価値が、多少なりともあるかなと考え、これから数回に分けて連載していきます(たぶん計5回くらいにはなりそう)
 ただ、ストレートなスピリチュアルなテーマに、がっぷりと取り組むような内容だから、果たしてどれだけの人に関心を持ってもらえるやら…。


 でも、「どうしても書いたほうがいい」という気持ちがしてならないから、いつかこの記事を読む誰かの意思が、今の僕を道具のように動かしているのかも知れない…。 

 誰なのだろう。 あなたですか?


 まず初回である今回のテーマは――
 スピリチュアルな道を本人はまじめに歩んでいるつもりでも、実は単に「エゴを満たしているだけ」、という罠についてです。

 この罠については、色んなところでも語られている。
 実はこの本の原タイトルは「精神の物質主義を断ち切って」というもので、つまりはエゴを満たす罠に陥らないための専門書ともいえるわけだ。
 スピリチュアル分野の数ある本の中でも、この側面に主題を絞った一冊というのは、そう多くはないだろう。


 ちょうど当時のアメリカでは、東洋の教えに心酔した高学歴ヒッピーとかが「自分はこれだけ素晴らしい修行をした、こんな貴重な神秘体験をした、これだけのレベルに達した」なんてことを誇らしく意味深長に語り合い、周りの人たちもそれに関心を寄せるといった、エゴの裏返し(あるいはエゴ丸出し)ともいえる変な方向に傾きだした時期であろう。

 その状況に対し、著者のトゥルンパは、「精神の物質主義」という言い方で指摘したのだろうと思う。
 彼は、そのような人々のことを、スピリチュアルな装飾品をコレクションする「骨董屋」と評している。集めてきた色々なものを展示しては、自分が「精神的な人間」になっていることを、自らに証明しようとしているのだと。


 また、そんな誤った歩み方を、トゥルンパは「ヒロイズム(英雄主義)」とも呼んでいる。
 そのヒロイズムに陥ってしまうのは、次のような憶測が根本にあるからだと説明している。

 ――本来の自分とは、価値のないダメな存在であり、精神性を高めて自分を「改造」しなければならない――

 つまり、スピリチュアルな生き方によって自分を変えて、やがて「自分でない自分」になる、「特別な人間」になるという、完全に間違った期待があるとのことだ。(なかなか手厳しい指摘!…)

 でも、それで英雄になっていくのは、実はエゴだけ。
 ヒロイズムというのは「楽な道」であり、それを通り抜けた後で、自分の本当の内面そのものに取り組む「厳しい道」があることを発見して、ショックで途方に暮れることになる。


 「精神の物質主義」という罠には、前述の「骨董屋」のほかにも色んなケースがあるようだ。
 
 その1つは、集めるのとは全く逆に、「捨てる」ということも。
 何か大切なものを手放して捨てたとき、捨てたもの以上に、「捨てた」ということ自体が、その人にとって何倍も重い意味を持ってしまう。そして誰かに会うたびに「私はこれを捨てたんです」と口にするのだと。
 (僕自身も、サラリーマンを手放した立場として、気をつけないと…)

 またトゥルンパは、「現象世界を操ることで、心の混乱を何とかしようとしても、そうはいかない」と喝破する。
 さまざまなワークなどを通じて、生活を変えようとしたり、願望をかなえたいと望む人は多い。でもたいてい、そのおおもとの根っこには、「心の混乱を解決したい」という意図があるだろう。
 たとえ新しい何かを実現できたとしても、結局はいつか、自分の内面に直接的に取り組まなくてはならなくなる、ということだ。


 さらに瞑想などによって、穏やかになろう、善き心であろう、と考える人は少なくない。
 それに対してもトゥルンパは、「敬虔な思考も、美しい思考も、みんな思考であることに変わりはなく、依然としてノイローゼ的な一面にすぎない。それを培う必要はない」とまで言い切っている。

 そもそも、人がスピリチュアルなものごとに引かれるきっかけは、それが幸福や慰め、知恵や救いを自分にもたらしてくれると期待するからだ。
 でもその期待自体を「精神物質主義に巻き込まれた利己的な見解であり、完全に覆されるべきだ」と、容赦なく断言する。
 人は、精神的な歩みといいながら、自分の欠陥をどれだけ克服したか、否定的要素をどれだけ取り除いたかで、進歩を測る基準にしている。それこそが「二元対立的な戦場」であると――。


 こうした二元的観点に立つ限り、「ありのままの自分」という真のリアリティーから、自分自身を切り離してしまう。
 本当に「あるがままの自分」になるためには、エゴの欺瞞のすべてが暴かれて、完全に開かれる必要がある。
 それが「内面の道」というものだ。

 「内面の道」では、まずノイローゼ的な思考や感情に取り組み、そして次に「空」や「開放」を体験することによって、誤った概念を取り除く。そうしたプロセスが、この本の中でずっと説明されている――。


 この辺りの説明で、特に印象に残ったトゥルンパの言葉を2点。
  
 導きはあなたの目の前でなく、あなたと共にある。

 
自己という感覚は、本当はつかの間の出来事にすぎない。にもかかわらず、混乱した心にとっては、固定した継続的なものに見える。この混乱した視点をリアルなものと見なすから、固定した自己を高めようなどと考えてしまうのだ。


 次回は、「至福体験」とその消滅をテーマにします。



 結びに、定例のヒーリング音楽の紹介。
 今回は、Ken Davis「The Vision」。

 こういう、広がりのある壮観な感じの響きが、僕はとても好みですね。

web拍手 by FC2
  ☞ コメント:6

 


 前回の記事では、人は自分が「持っているもの」よりも、「失ったもの」「不足しているもの」の方に、意識の重点をどうしても置いてしまう、という話をしました。
 
 そして、「失ったもの」「不足しているもの」という、いわば「存在していないもの」が、自分の考えや行動をガイドするようになっているのではないか。
 その「存在していないもの」を、実は人生最大の重荷として背負っているのではないか。
 ――というところで、話を区切りました。


 喪失や不足が重荷になり、それが人生を主導するという構図は、よく映画などでも描かれている。
 このテーマを、とりわけ巧妙な描写と筋立てで描き上げた作品というのが――「なんて浅はかな」って言われそうだけど――ピクサースタジオのアニメ『カールじいさんの空飛ぶ家』だと思う…。

 もちろん子供向けの冒険コメディーだから、意味深いせりふやメッセージが含まれているというわけではない。
 でも、「失ったもの」こそが人生のすべてだった主人公が、過去への固執をごそっと「断捨離」したら、まったく新しい人生が始まったというストーリーを、「物理的」な見せ方で明解に描き切っている点で、とても見事だと思う。


 3年前の映画だから、筋書きの要点を説明すると――。

 カールじいさんが失ったのは、子供時代から親しんできた最愛の妻・エリーである。映画の冒頭から、流産・不妊、老化、死という、おおよそアニメらしくない「人生の現実」が、矢継ぎ早に、そして美しい描写で繰り出される。
 妻に先立たれ、楽しみも望みも失ったカールじいさんは、人と交流することなく、妻との思い出が詰まった古い家と古い家具、そして装飾品や小物に至るまでを、後生大事に頑なに守りながら、「むっつり」と余生を過ごしていた。

 ところがその家を、不動産再開発のために立ち退かざるを得なくなった。
 そこでカールじいさんが取った行動は、家に1万個以上の風船をくくり付け、家ごと空を飛んで旅に出ることだった。
 向かった先は、かつて妻と訪れることを夢見ていた、南米にある伝説の地「パラダイスの滝」だ――。


 カールじいさんは、自らを「亡くなったエリーの夫」という在り方に徹していた。
 妻の死に絶望し、ずっと悲しみ、名前を口にして呼びかけ、追憶の世界に生き、そして家と形見の品すべてと共に旅に出た…。
 もうそれ以上、何ができるだろう? でも、そこまでしてもカールじいさんにとって、亡き妻との関係は「完結」できるものではなかった。
 

 「パラダイスの滝」に着いたカールじいさんは、冒険で出会った少年を救うために、ふたたび家を空に飛ばさなくてはならないという緊急事態に迫られた。
 ところが家に付けた風船は既にしぼみかけていて、重い家をもう浮かび上がらせることができない…。

 カールじいさんはそこでハッと気づき、家にの中にある家具家財の一切合切を、家の外に惑うことなくなげうつ。これまで頑なに守ってきた、あの古い思い出の品々である。
 まさに価値意識が、「過去」から「今」へと転換した。

 そして身軽になった家は浮力を得て、ふたたび空へと舞い立つ――。


 喪失や不足は、どうして人生に起こってしまうのか。
 そして人はなぜ、その「存在しないもの」に意識を向けながら生きるのだろうか――。

 エリザベス・キューブラー・ロスは「それは人の手に負える問いではない」と言い切る。でも無謀にも、意味を見いだしてみるならば――

 たぶんそれは、今ここにあって当然なものや、絶対にあってほしいと切望するものを、手の届かないところに隠してしまうことで、あえて「今」から視線を外すためではないかなと思う。

 その経験を経てから、ふたたび目を向け直したとき、「今ここ」や「私」という存在の真価がはっきりと際立って見えるはずだ。
 あってほしいものは依然と無いままであっても、実は全く失われていないもの、何一つ欠けていないものを、そこに見いだす。



 喪失や不足は「結果」ではない、それは「途上」として起こることだ。
 やがて、それまでネガティブな形でため込まれていたエネルギーが、錬金術のように、この生を飛躍させる大いなる力として発揮される――。


 カールじいさんは故郷の町に戻り、冒険を共にした少年と生き生きとした新しい人生を歩み出す(この少年も、父親と別居という、心の傷を抱えていた)。

 この映画のところどころのシーンに、妻・エリーが思い出の写真などを貼り付けたスクラップ・ブック(日本でいうアルバム)が出てくる。
 カールじいさんにとってそれは、ページを繰りながら「過去を追想するためのもの」であった。

 映画のエンディングでは、少年と共に遊ぶ写真が貼られた、スクラップ・ブックの新しいページが次々に映し出される。
 古いスクラップ・ブックが、単に追想のためだけのものでなく、「現在進行形で書き足していくもの」に変わったわけだ。
 それによって、ブックの前半ページ、妻と共に過ごした日々までもが、生命力を吹き込まれたように一段と輝きを増したに違いない――。


 ちなみにこの映画の英語の原題は、「UP」というものすごくシンプルなタイトルである。
 これは「上昇」という意味とともに、「希望」とか「成長」の意味も込められているという。

 仏教で言うところの「ギャーテー、ギャーテー(行け、超えて行け)」だろうか。でもそこまで解釈すると、深読みしすぎ…。




 最後にヒーリング音楽の紹介。
 今回はJon Mark「Perilous and Mystical Journey」。
 短調のしんみりした印象だけど、じっくりハートの内へ向かう瞑想などに適した曲です。


web拍手 by FC2
  ☞ コメント:5

 


 以前、ある作家がエッセーで、「『上を向いて歩こう』という歌があるということは、人間は放っておくと下を向いてしまう生き物であるということだ」と書いていて、なるほど確かになぁと思った。

 顔の向きだけでなく、心の向きについても、人には同じような性質がある。自分の「可能性」よりも「制限」の方に、「持っているもの」よりも「損失」や「不足」の方に、どうしても気が向いてしまう…。

 今回は、そういうマインドの偏った性質に関連した、株式投資の話題です――。


 株式投資などで成功した投資家のスタイルは、驚くほどに千差万別だ。
 著名投資家が「これは絶対にやってはならない投資手法だ」と警告しているかと思えば、別のトレーダーがまさにそのやり方でものすごく高いパフォーマンスを上げていたりする。つまりマーケットは、決まった「成功法則」なんてものが存在しない世界の典型だと言っていい。

 ところが一方、成功とは逆に、投資で破綻してしまうケースはどうかというと――、意外なことにそれには「たった1つのパターンしかない」という研究がある。


 米国の心理学者が、何人もの被験者に株式の模擬トレーディングをしてもらって、資金を失ってしまう背景にどのような心理状態や投資行動があるのかを検証した。
 その結果、破綻に至るケースには、必ずある共通した動機が確認されたという。それは――

 「損失を取り返そう」、とする意図だ。


 つまり、負けが込んで損失が膨らんできたときに、何とか早く逆転したいと考えて、思い切った勝負に出る。ところが目論見通りにはうまく行かず、結局は取り返しの付かない状況に陥ってしまう、という道筋だ。

 ありきたりで単純とも思えるけど、経済史に残る大破綻はまさにこのパターンといえる。
 英国の名門銀行・ベアリングス社の破綻は、先物取引の損失を隠蔽しようとしたディーラーが暴走し、膨大なポジションを取ったことが原因。
 ノーベル賞学者を擁した米国大手ファンド・LTCMも、ロシア国債の投資失敗を挽回しようと、リスクの大きな取引に出て破綻した。


 株式投資などの経験がある人の大方は、こうした心理に多少なりとも覚えがあるのではないだろうか。

 もちろん「損を取り返したい」と思うのはごく当然のことだ。一番問題になるのは、大きなマイナスを出したときに、「状況のどの部分に着目して、自分自身をどう位置づけるか」ではないかなと思う。

 仮に、元本500万円で投資を始めたのが、失敗して300万円に減ってしまったとする――。
 そうしたらその人は、自分のことを、手元に残っている通りに「資金300万円の投資家」とは普通あまり考えない。
 自分は「200万円の損失を抱えた投資家」であると考える。

 どうしても、現に存在する資金の方ではなく、もう消えて無くなってしまった損失の方ばかりを考えてしまうわけだ。
 そしてその人は、セオリー通りに資金300万円にふさわしいリスクを取ることもしない。資金500万円があったときと同じ投資基準や感覚を持ち続け、過大なリスクを負ってしまうことになる…。


 このことは、投資に限った話ではない。人は人生の全般において、「今あるもの」よりも、「失ったもの」とか「持っていないもの」の方へ重点的に意識を置いてしまう。
 これは、人間の本当に皮肉な性癖だと思う…。

 だって、「失ったもの」とか「持っていないもの」は、それがどんなものであっても、もう既に(あるいは最初から)存在していないものだ。
 その「存在していないもの」が、いわば力を持つものとして在らしめられ、自分の考えや行動や生き方をガイドしてしまうわけだから…。
 
 私たちの多くは、損失とか不足といった「存在していないもの」を、実は「人生最大の重荷」として背負っているのかもしれない。


 ――ここらあたりからスピリチュアルな話題に転換しようと思っているのだけど、さらに倍以上の文字量を要しそうなので、いったん切りますね。

 話の続きは次回!
web拍手 by FC2
  ☞ コメント:2

 
 料理の話題のつづきです。

 料理の腕を一定レベルに上達させるポイントは――、「定番メニュー」を繰り返し作って、基礎固め徹底することだと考えている。
 家族から「最近は野菜の天ぷらが多いね」と言われるくらい、何度も作ればいい(もちろん連日はひんしゅくだけど)。

 世の中の傾向としては、そういうベースの部分をすっ飛ばして、「風変わりなアレンジ」や「ワンポイントのコツ」に走りすぎるケースが多いと思う。どうしても料理番組や雑誌が、受けのいいネタとして、そういう要素だけを取り上げるからではないかな…。


 もう一つの有効と思うポイントは、手順だけのレシピ本やネットの情報よりも、プロがきちんと監修した、文章が多めの「解説書」的な料理本を使うことだ。

 どうして「解説書」が良いのかというと、主要な工程について「なぜそうするか」という理屈が書いてあるから。

 例えば、なぜ煮物はまず砂糖だけで煮て、しょうゆを後で加えるのか。なぜムニエルは途中でバターを足しながら焼くのか。照り焼きは素材の表面をこんがり焼いたあと、なぜ油をふき取ってからタレを絡めて焼くのか。シチューやソース作りは、なぜ最初は強い火加減で混ぜ炒めるのか――。

 こういった「なぜ」が、おいしさの成否を分けるポイントであることが実際に多い。でも、そのような理屈は、分量と手順だけを書いたレシピでは分からない。

 レシピ本の情報だけで調理すると、単に「書いてあるからその通りにする」という作り方になてしまう。すると、もし出来上がりがうまくいかなかったときに、「どうしてうまくいかなかったか」という理由が、はっきりとは分からない。
 結果、「いつもうちの野菜炒めは下に汁がたまってグチョッとしている…」と、食べる側も作る側もモチベーションが上向かない。


 とはいえ…
 何のために料理をするのか、ということを突き詰めると――、それは、食べたり生きることの「喜び」や「幸せ」をつくり出そうとしているのかな、と自分で思う。

 そして、どんな料理を「おいしい」と思うかは人によって万別であるし、さらにどんな食生活や生き方が自分にとっていいのかも人さまざまだろう。そこに決定的な価値尺度なんてものは存在しない――。


 例えば、先週は銀座の吉兆、今夜はジョエル・ロブションで、なんて食生活なら、料理の質的レベルや経済的価値では最高に豊かで幸せであろう(特に望みはしないけど…)。
 一方、家で手製の茶碗蒸しを家族皆で「おいしいねぇ!」と食べるのも、これも食事の幸せとして、何ひとつ遜色はない。ハートにとっては互角といえる。

 さらには、ヒマラヤの登山者がテントでインスタントラーメンを作って食べてる写真とかを見ると、世界のあらゆる食事の中で一番おいしそうな瞬間に映る。温もりと味わいが骨の髄までしみわたり、もうハートが全開という満足感に違いない――。


 だから、こう言っては身もふたもないけど、結局は料理をどうするかなんていうのは、単なる個人的な「条件付け」の一つでしかないですよね。

 でも「条件付け」だと分かりながらも、「それでも自分はおいしく作りたい」と思うならば、それは自分の歓迎すべき生き方の一部だと思う。
 また、もし台所に立ったことがほとんどないサラリーマンとかが、退職後は料理の腕を身に付けたいなと思ったとすれば、それは運命的な選択であり、まさに「魂に資する行為」と言っていい。
 ――そういう人に参考になればなという趣旨の、今回の記事です。



 最後にヒーリング音楽の紹介。
 今回は、久石譲「銀河鉄道の夜」。

 スタジオジブリの映画音楽でものすごく有名な人だけど、そうした代表作に比べたらこの曲はあまり知られていないんじゃないかな…。
 
 15年以上前のことだけど、出勤前のかなり朝早くに目が覚めてしまい、テレビをつけてチャンネルを変えていたら、「放送大学」の放送開始の画面でこの音楽が流れていた。

 このとき初めて耳にしたのだけど、「なんてきれいな曲だろう!」と、起きてすぐの多感な心が音の世界へ引き付けられていくような思いがした。そして会社に行って昼休みに、わざわざ放送大学に電話して曲名を問い合わせたという、個人的エピソードがある一曲です。



web拍手 by FC2
  ☞ コメント:8

 


 ここのブログタイトルには、「カルマ・ヨガ」という言葉を掲げているけど、これは「日常行為を通じたヨガ(統合)」という意味です。


 もともとは日々の身近な内容のブログにしようと思って始めたのだけど、実際に書き始めてみたら、地球生命の進化やら、宇宙のビッグバンやら、イエスの言葉やら、意識の覚醒やら、日常から遥か離れたバリバリのスピリチュアル方面へと傾注していくことになった…。

 この傾向は今後も変わりそうもないけれど、たまには看板にふさわしいテーマをと思い、今回は料理の話題です。(ちょっと自分の得意話だけど…)

 
 以前、あるプロ野球ファンの知人が、「プロ野球を見ないやつは、人生の大きな楽しみの一つを放棄している」、なんてことを言っていた。
 でも僕にとって野球は、文字通りの「他人ごと」でしかない。テレビもほとんど見ないから、今時分になって「今年は巨人が優勝したのか」と、誰かからの話をつてに知るくらいだ。野球に関しては、自分はその程度の関与度で十分だと考えている…。

 一方、この知人の主張に対して、あくまでも僕の好みから言葉を返すとすれば、「料理をしない人は、人生の大きな楽しみの一つを放棄しているようなものだ」――と思っている。


 僕は料理がけっこう得意技で、サラリーマンを辞めたあとは、家の食事作りは僕が担当している。妻は家事全般が苦手なうえ、子供は外食に行くのも面倒がる出不精という、まさに恵まれた家庭環境のもと、僕は料理の腕にどんどん磨きをかけることになった。

 今や、このブログのプロフィル写真まで、台所に立っている写真にしているほどだ…。


 台所には、中華などの「○○のもと」とかルーなどの既製品は一切置いていない。それよりも、塩やしょうゆや酒、バターとかの基本調味料で味作りしたほうが圧倒的においしいからだ(実際にプロだってそれで作ってるわけだし…)。

 例えば炒め物の場合、仕上げに熱い鍋肌に回しかけたしょうゆの香ばしさが、料理の風味を格別なものに引き立てる。調味料一式が混ざったレトルトの「もと」を入れてグチャグチャと加熱したところで、あの食欲をそそる何ともかぐわしい香りは出せない。
 マーボ豆腐とかも、材料に味をしっかりと煮含ませた後でとろみ付けをすることで、よく馴染んだふくよかな味わいに仕上がる。味もとろみも最初から一緒になった「もと」では、それができない。

 シチューも、丹念に練り伸ばした手作りのホワイトソースのまろやかな舌触りは、既製品の固形ルーなんか比べものにならないほどだ。
 カレーだって、カレー粉とスパイスから作ったほうが、鮮やかな香りがもう圧倒的に際立つ。


 調理手順にはどうしてもひと手間加わってしまうけど、それほど時間や技術を要するものではないし、コスト面ではむしろ安い。

 中学生の息子も「レストランよりもおいしい」と言っているから、決して作り手の自画自賛ではないですよ…。
 妻はたまに食べながら「私はもっと濃い味が好き」とか難癖をつけてくるけど、それを「うん、そうかもね~」と笑顔で聞き入れることによって、自らの懐の奥行きを広げることにも役立っている。


 料理という行為は、スピリチュアルな道を歩むうえでも大きな意味がある。

 禅寺では、食事の支度は修行が進んだ僧が担当する。なぜなら、禅の明晰な意識を保ちながら、同時に料理の煩雑な作業をこなすことが、ものすごく難しいからだ。普通は「次は急いであれをしなきゃ」「やばい失敗した」とか、頭の中が想念の渦で簡単に埋め尽くされてしまう。
 カトリックの修道院でも、テーブルに皿を並べるとき、「愛をもって並べなければいけない」と言われる。やるべき作業だけを心を込めずにパッパと済ませるのは、愛のない無益な行為でしかないわけだ。


 しかし、どうしても料理中は、「効率的にスピーディーに進めよう」とか「失敗せずに思惑どおりの結果を出そう」といった意図やた思考が、あらゆる工程で次々に出てきてしまう。
 そんな中で、いま起こっていることを広がった意識ででとらえ、ハートを開いて愛をもって調理をするって――、もうインドのアシュラムよりも高難易度な修練かもしれない…。

 僕はまだ、「あるがまま」にオムライスを包める域には、達していない。



 締めに、リラクゼーション音楽の紹介。
 今回は、岩田英憲・服部克久「とき色の夢」。

 こういう、ふるさとを思わせるような曲って、日本人の心に本当に溶け込むように入って来ますね。初めて耳にするメロディーも、昔から聴き覚えのあるように、なつかしく思えます。


web拍手 by FC2
  ☞ コメント:2

 


 スポーツクラブの水泳インストラクターで、「それまで全く泳げなかった人に教えるのが得意」という人の話です。

 初めて習いに来た中年女性とかの中には、「私、水に浮かない体みたいなんです」と主張する人がいるそうだ。
 するとインストラクターは、こうアドバイスするという。

 「じゃあ、沈んでみてください」――。

 生徒は体ごと水の中に入って、息を止めて頑張って沈もうとするが、体は自然にプカ~と浮かんできてしまう。
 あれ? 顔を上げてもう一度息を吸ったら、「浮かばない自分を証明してやろう」と言わんとばかりに再びトライするのだが、ぜんぜん沈むことはできない…。

 沈むはずはない。比重の関係で、人の体は自然と水に浮かぶようになっているからだ。
 そうして、「自分は浮かぶ」ということが分かってから、泳ぐレッスンに進むそうだ。そうすると、余計にバシャバシャと動くことなく、比較的スムーズに泳げるようになるという。


 水泳から打って変わって、こんどは意識の目覚めの話――。

 「すべての人はすでに悟っている」という教えもある。
 普通は、「そんなわけはないだろう、自分はまだ違う」と思う。

 そこで、「じゃあ、悟ってない状態になってみてください」と言われたとしたら――。
 

 何をもって悟りとするかは色々あるだろうし、プールでの浮き沈みのように、誰にもすぐに明らかというわけにはいかない。
 でも、その眼目といえるのは、「私が在る」という意識であろう。

 この「私が在る」は、誰にとっても常に明白だ。
 「私が在る」ということ自体が無かった! とか、誰か別の人の「私が在る」を自分のものだと見誤っていた! なんていう事態は、あり得ない。

 他にも、「今ここ」にいるという意識も同様だ。「今ここ」から、瞬時たりとも抜け出すことは絶対に不可能だ。
 もちろん、頭の中で過去の記憶を何度も再生したり、未来の様々な憶測へと飛んでしまうことはあるけど、そうした思考活動を行っているのも「今ここ」である――。

 そういう意味で、私たちは、悟りの眼目とされる状態を失うことはない。いわば、沈むことができず、自然に浮かんでしまうようなものだ。
 絶対に沈まないという事実は、ある意味で福音ともいえる。


 とはいえ、「そうか、もう悟っているのか、じゃあ良かった」――なんてふうには普通なれない。
 犬や猫だって、自分が「在る」ということくらい気づいているだろうし、木や石だって「今ここ」にずっといる。そこには、何の意味も値打ちも感じられない。

 それに、「私が在る」という状態を失わないにしても、思考に巻き込まれて同一化してしまうし、自分と他者の分離感は疑いなくリアルだ。日常の状況も、制限だらけで楽ではない。
 それを何とかしたい! 悟りとか覚醒意識のパワーで、状況を変えたり超越したい。プールで浮かぶだけでなく、自由に泳ぎたいのだ!――


 これは以前にも書いたことだけど、私たちは、自らの神性をどう表わすかについては、実は全く制限など受けていない。

 たとえば、他者や自らを愛することとか、信じること、私が本当は何者であるかを宣言すること――。
 こういうことについては、制限だらけに見えるこの三次元世界にいながらも、私たちは常に自在な立場にある。決定するのは自分次第である。

 私たちが、犬や猫や木や石と明らかに違うところは、その意思で自らのあり方を「選べる」ということだ。
 この「選ぶ」ことこそ、真の私が本当にやってみたかったこと。

 「今ここ」に浮かんだうえで、三次元世界のプールを「泳ぐ」ということ――。



 最後にまた、スピリチュアルな音楽の紹介。
 今回はDavid Hykes「Gravity Waves」。

 これは、声を共鳴させて倍音を出す歌唱法「ホーミー」だ。
 平原で歌う本家モンゴルのホーミーとは違って、この人は石造りの修道院の中で反響させて歌っている。
 歌や音楽というよりも、まるで違う次元の声のみたいな、何とも不思議な音世界です…。


web拍手 by FC2
  ☞ コメント:0

 


 今回は、生命の進化の話です。

 「人類の意識進化」は、宇宙の発展プロセスの「完結」であるという考え方があります。

 つまり、宇宙が生まれて、地球が作られ、生命が誕生し、人類へと進化し、文明の発達し――といった一連の壮大な歴史の最終的な「完成形」として、私たちの意識の目覚めが起こるのだと。


 とはいえ、本来のスピリチュアルの考え方はでは、時間も物質世界もすべては幻想である。
 ということは、「目覚め」という総仕上げを経験するために、その裏付けとなる過去のプロセスの一切合切も、今のこ瞬間に全部まとめて創造した、という見方になるだろう。

 でも、そんなふうに考えたら、私たちの3次元頭脳には話がややこしくなりすぎるので、今回はごく普通に「過去からの歩み」として考えてください。


 地球生命の進化が「裏付け」として作られたとはいえ、その現代までの道のりは平坦なものでは全然ない。
 むしろ、「よく生きてこられたね…」と思えるくらい、まさに壊滅的な試練の繰り返しだった――。


 地球の歴史には、生命の灯が完全に消えうせてしまいそうな大異変が何度か起こっている。その一つが「海洋蒸発」だ。

 地球に海ができ、原始生命が既に誕生していた40億年前、直径数百キロという小惑星が地球に激突した。その衝撃エネルギーはすさまじく、地殻が津波のようになって地球全体に伝播。地表は高温で融解し、海の水はすべて蒸発。地球は気温4000度という文字通り「火の玉」と化した。
 海に生息していた原始生命は、ひとたまりもなく完全に死滅してしまった…。

 ところが、地中の数千メートルという深い場所に生息していた原始生命がいた。そこには地表の高温が届かないため、その生命だけは生き残り、完全絶滅をかろうじて免れることができた。
 それから数千年をかけて地表は冷え、地球上に海が再現され、生命はふたたび繁栄・進化の道を歩んでいく。


 もう一つ、地球の生命が完全絶滅の寸前にまで追いやられた破局的変化が、「全球凍結」だ。

 22億年前、大規模な気候変動によって地球の気温はマイナス50度まで低下。地上が厚さ1000メートルもの氷に覆い尽くされ、繁殖していた微生物はほぼ根絶。地球は数百万年間にわたり、生命活動が絶望的な「凍った玉」と化した…。
 しかし、ここでもごく一部の微生物だけが、細々と生き延びていた。火山活動が活発な場所では氷が融解したため、そこに最後の最後として残ったわずかな生命が、まさに「温存」されていたのだ。


 さらには、凍結期が終わるごとに大気の酸素が急増するという現象が起こり、これが生命に劇的な作用を与えた。
 酸素に満ちた環境の中で、単細胞生物から多細胞、目に見える大型生物への進化が遂げられ、そして今日の多様な動植物の原型が一気に出そろう「カンブリア大爆発」が起こった。


 それ以降の生物の進化も、まるで「大絶滅の歴史」と言い換えられるくらい、危急存亡の繰り返しだ。
 その流れをざっと書き出すと――

   魚類の出現
   大量絶滅(4.5億年前)
   両生類の出現
   大量絶滅(3.6億年前)
   爬虫類の出現
   大量絶滅(2.5億年前)
   恐竜の出現
   大量絶滅(2.0億年前)
   鳥類の出現・恐竜の繁栄
   大量絶滅(0.7億年前)
   哺乳類の繁栄

 ――という感じだ。
 例えとして非常に不謹慎でそぐわないかも知れないけど、天変地異による壊滅的状況からの復興振興を、「がんばろう東北!」みたいに、まるで地球生命の全体が取り組んできたようにも思えてくる。


 さらに言えば、破局に見える大量絶滅を起爆剤にして、後の飛躍的な進化が起こっている。
 ひょっとしたら地球の意識が、既存の生命の繁栄が安閑と続く道をそのつど手放して、進化に向かう別のパラレル宇宙を選び取った、というふうにも考えられる。

 たとえ地球の生命が、微生物のまま進化しないでいたとしても、それでも十分すぎるくらい「命に満ちた奇跡の星」である。
 ところが地球の意識は、その奇跡さえも比べものにならないほどの、とてつもない発展プロセスの道をあえて選んできたわけだ…。


 そして、これだけの遠大で壮絶なプロセスを経た上で、「完結」への切り替えスイッチを、いま私たち自身が握っている――。

 これは責任重大…なんて言葉で言い表せないくらい、宇宙創成からの運命を一手に負った、もうただならぬ大使命だ!…



 最後に、またリラクセーション音楽の紹介。
 今回はLifescapes 「The Dawning Pt.2」。

 深い青色に満ちた夜明けの景色、そして目覚めを思わせるような、広がりある音の雰囲気が好きです。

web拍手 by FC2
  ☞ コメント:1

 
 このブログで、評価を多くいただいた過去記事のひとつが「I AM」の祈りです。イエスの言葉にある「神」や「父」を、「私」に置き換えてみると、最近のスピリチュアルの教えのような新鮮なメッセージになる、という内容です。

 それに対し、こんな置き換えもあるよ、というのを教えていただいた。
 ←主に東日本の各地の道端でよく見かける、あの看板である。その「神」の文字に、ちょこっといたずら書きをしたら、このようになる。
 ほかにも――

 「ネコへの態度をあらためよ」
 「ネコの国は近づいた」

 ――というのもある。面白いね!
 ちなみに、ブログのプロフィル欄で、自分の顔写真の代わりにネコの写真を載せている人がけっこういるけど(犬よりも多数派ではないかと思う)、ブログ開設者にはネコを飼っている人がそれだけ多いのだろうか。
 皆さんちゃんと和解できていますか? 態度は大丈夫ですか?


 で、ここで、この看板の「神」も、「ネコ」ではなく「私」に置き換えてみると――

 「私への態度をあらためよ」
 「私の国は近づいた」

 ――と、自分自身を受け入れて愛しなさい、まもなく「I AM」の世界が現れますよ、みたいな、今の時代にふさわしいメッセージになる。
 道端にそんな看板があったら、ハッと立ちどまって、見つめて考えてしまうかも…。


 では、さらに転じて、今度は「ネコ」の付く慣用句を「神」に置き換えてみたら――

 「神に小判」…

 それってどういう状況なのか想像できないくらい、神と小判という対比が極度にアンバランスだ。
 「神」は、途方もなく壮大で、宇宙のあらゆる万物を創造してその内に包み持つ存在である。
 そのような創造者、つまり豊かさそのものを意のままに創造できる主体に、小判を与えたとしても全く何にもならない――。ネコに与える以上に、完全に無意味である。

 
 考えてみれば、実はこれがけっこう意味深いことだ。
 最近のスピリチュアルな教えでは、「神」というのは真の「私」であり、自分とお金の関係も、本来ならばまさに「神に小判」となるはずだ。お金そのものを与えられたり、望んだりしても、何にもならないのだ。

 人生における「お金」とは、自らが創造・経験するあらゆる物事の、いわば「副次的な一要素」という存在に過ぎない。 

 つまり、経験する現実がまず設定されて、その裏付けの一部としての収入なり資産が現れている。
 そして、別の新しい現実を経験することを選択すれば、お金の状況もそれに応じたものに変化する――。


 常識的には、「自分はこの収入レベルだから、現実的にこんな生活になって、さらにその結果として、満たされない気持ちになっている」と考えるけど、実はそれと主従の関係が全く逆といえる。

 もし「お金が足りないからもっと欲しい」というように心で望んだ場合、その「無いから欲しい」という気持ちが現実として存在できる状況、つまり「不足」というものがずっと創造され続けることになる。
 そして「不足」というものを可能にするための、自分の能力や出来事、社会環境までが、細大漏らさず完璧に現される。


 でも、それも神の創造の一つだ。
 神は、「神に小判」ではなく、まさに「人に小判」という特別な状況を経験してみたかった。お金の価値への期待とか切望、不足、欠乏感、稼ぐ能力の制約、自己否定までも…。

 でも、「人に小判」はうんざり! 神としての本来の状況――つまり、あらゆる創造性の一要素としてお金があって、人生の中に豊かさの経験を思い通りに生み出して楽しめる私になりたいと、誰もが思う。


 そのためには、「お金が不足している自分はだめだ」「稼ぐには自分はこうならなくちゃいけない」という条件付けをまず手放すことが不可欠といえる。そのような価値観そのものが、不足な状況を創造する、おおもとの要因なのだから。

 端的に言えば、「ありのままの自分を認める」ことだといえる。
 むしろ、「お金が足りない」という現実さえも、自分が持っていた価値観どおりに生み出されているなんて、自分の創造力ってすごいではないか、「オレって本当に神じゃん!」くらいに、自分を気持ちよく認めて喜ぶのがいい。
 その新しい立場から、新しい現実の創造が始まる。

 「私と和解せよ」――。



 結びは定例のリラクゼーション音楽の紹介。

 今回はリラクゼーションというよりも、リズムのあるニューエージ音楽のADIEMUS「Rain Dance」。

 ADIEMUSは、かなり前のNHKスペシャル「世紀を越えて」のテーマ曲でよく知られるようになって、今もテレビの「壮大な大自然」という雰囲気のシーンでバックミュージックとしてときどき流れる。
 歌詞が、歯切れの良いデタラメ言語であることも、また魅力。この曲は心身がウキウキ躍動してくる感じで、動かしたり踊ったりできる肉体ボディーがあるのも、なかなか素敵なことかな、なんて思えてくる。


web拍手 by FC2
  ☞ コメント:4

 
pks3.jpg

 人生は、変容するよう設計されている
 特に、この時代においては――


 これが、けさ目が覚めてしばらく後に、胸の内にフワッと浮かび上がってきた言葉です。


 本当にそうかもしれない。
 そのために、いま地上にいる人たちは今の時代を選んで転生し、変容への道筋が描かれた人生を生きているのかも――。

 でも、変容への道筋を歩むかどうかは、自らの「自由意志」次第だ。
 僕自身が、これまで自分の内面の状態などを観察してみて強く実感していることは、心の中の「抵抗」や「反発」があると、それが変容へと進むエネルギーを阻止してしまう、ということ。
 
 厄介なのが、その「抵抗」というのは、「自分が変わりたい」という気持ちそのものに対する抵抗ではない。
 むしろ気持ちの上では、ものすごく前向きに「人生を新しく変えたい!」と切望しているのに、何か別の物事に対する抵抗が心の中にあれば、それが変容の妨げになってしまう。

 つまり、対象に関係なく、「抵抗」というものの質や存在自体が、魂の歩みのブレーキになってしまうということだ――。

 ある意味でこれは、「大きな落とし穴」といえるかも知れない。


 人生の中で、「抵抗」や「反発」が最もストレートに現われやすい場面はどこかというと、多くの人にとってはやはり、夫婦や親子など「家庭での人間関係」ではないだろうか。

 職場など外での人間関係では、ある程度の遠慮があったり、役職の上下が明確だったり、ずっと一緒にいるわけではないという希薄さもあって、「まぁ、しょうがないか…」としぶしぶながらも受け入れることができる(全部が全部ではないけれど)。


 ところが夫婦関係の場合、何年も一緒にいると、相手に対する感情の許容範囲が極端に狭くなっているケースが少なくない。

 ここで大事なポイントなのが、本人の自覚はそれと全く逆に、「自分はずっと耐えながら、相手のことを一方的に受け入れてあげている。もう限界まで努力して、自分の許容範囲を『広げて』いる。なのに相手は無神経にも、自分の限界を超えるほどまで、気に触れることを言ってくる!」
 ――なんてふうに自分で考え、疑う余地なくそう信じていることが多い。

 でも実際には、広げているのではなく、狭めている。
 いや、そもそも受け入れに「範囲」なんていうものは存在しないのに、自分で勝手に限度を作ってしまっている、といえる。
 昔から「堪忍袋」なんて呼び方もあるけど、その本来の容量は宇宙大であり、イエスの言う「7度を70倍するまで」なのだが、ただ袋の口に付いたエゴの「緒」だけがブチ切れる、というだけだ。


 「自分は正しい立場にいて、正しいことを考えて、正しいことを言っている。なのに、どうしてこんな相手に批判されなきゃならないのか。自分が引き下がったり、折れたり、自分から許したりする筋合いなど全くない!」――
 という具合に、あまりの理不尽さに怒りがわき上がってくるのを感じたら、それが「チャンスの時」である。 This is it!

 相手の主張に対して、いつも通り抵抗したり反発する代わりに、無条件に一言こういえばいい。
 「だよねー」

 相手が、「あなたは何も分かっていない」「いつも間違ったことを言っている」「だから人間としてダメなんだ」とか、到底「だよね」とは返しがたい言葉を投げかけてきた場合も、「分かっていないのはそっちの方だ!」と正当に反撃する代わりに、こういえばいい。
 「ん~… かもねー」


 ここで受け入れるのは、相手の主張の中身そのものではない。
 目の前に妻なり夫がいて、それがそのように主張している――。この、今の自分の世界に現れている「厳然たる事実」を、「だよね」と言いながら無抵抗に受け入れる、ということだ。

 そうすると不思議なことに、何とも軽やかな開放感が、胸の奥底からわき上がってくる。やがて、人生を変容するパワーが始動する。そして、周りの世界のあり方までもが変わっていく――。

 「抵抗」や「反発」が、その対象に関係なく魂の道をふさいでしまうのと同様に、「受け入れ」というのは、その内容に関係なく、魂の歩みを加速させる作用がある。
 ――これは、今の時代に、誰もが胸に刻んでおいていい要点だと思う。


 それでもまだマインドは、あきらめずに主張する。
 「自分が譲歩したら相手は付け上がる、さらなる非難の矛先が向く、いやな物事を押し付けられて損をする」「相手に負けたくない、被害者はこちら側なんだから」「面目がつぶれる、男の沽券にかかわる!」――
 一時的には、そうなることがあるかも知れない。でも、それだけでは決して終わらない。

 真の私である「I AM」の創造性というのは、「この働きかけに対しては、人生のこの場面でこんな物事を反映する」といった、こまやかなリテール・サービスのような仕事はできないようだ。
 本当の人生を歩むかどうか、魂の普遍の姿を現すか否か――。「I AM」の唯一の関心事で、創造できる機能とは、いわばそれだけである。大口の一任勘定取引しか提供していないわけだ。

 「受け入れ」のスイッチが押されたら(そして再度OFFにしなければ)、あとはすべてが自動的に動いていく。



 今回は出だしの人生の変容の話から、ずいぶん卑近な心の中の話になって、最後にまた極大化してしまったけど――、本当に日常的な「抵抗」「反発」によって大事なものをふさいでしまっている人が、あまりに多いのではないかなと思う。

 そして、「抵抗」を手放すきっかけを与えるために、身近な存在として妻や夫がいるならば、その有難さを本当に認めるしかないだろう。
 相手からの、一見ネガティブな働きかけによって、魂の進化へと踏み出せるならば、それはまさにソウルメイトのなせる業である。


 そして夫婦関係だけでなく、例えば子供や仕事、家計の問題といった色んな日常の心配事や恐れも、「受け入れ」のきっかけであろう。

 すべての道は、「だよね」に通じる――。



 結びに、恒例のリラクゼーション音楽の紹介。
 今回は、チャネリング本の「ハトホルの書」の著者であるTom Kenyon「Harmonic Choir」。

 歌声に好き嫌いが分かれるかも知れないけど、宇宙や太古の源泉から呼びかけてくるような、魂の郷愁を感じさせるメロディーです。


web拍手 by FC2
  ☞ コメント:6

 


 スピリチュアルなものごとを納得するためのポイントとは――
 「真理はどちらか一方に決まっている」、という見方を捨てることかな、と思っています。

 真理というものは、既存の知識・常識で白黒が付けられるものではなく、いわば「矛盾する両極を含有する全体」としての性質があるのかなと。
 「私はアルファでありオメガ」、「光は粒子であり波動」といったみたいな感じで…。

 それと同様に、運命はすべて決まっていながらも、自由意志というものはある。
 宇宙には自分しかいないのに、無条件の愛の対象としての他者は存在している。

 この、矛盾する一方だけを受け取ろうとすれば、理解したいポイントを見失ってしまう――。


 僕自身にとって、この「決め付けない」という考え方の基盤になっているのが、実は株式投資の経験だ。

 サラリーマンだったとき、お金をためて早く会社勤めを辞めたいと、一時期、株式投資に熱心に取り組んだことがある。
 で、投資家が著した本などをずいぶん読んだけど、そこで誰もが気づくのが、「全員がバラバラのことを言っている」ということだ。

 ある世界的に著名な投資家は「一度買った株は生涯手放すな」と言うし、別の天才トレーダーは「株を1日以上持ち越すな」と言う。
 また「マーケットのトレンドに乗れ」という鉄則があれば、「相場の逆を張れ」という主張も多い。
 しかも、それぞれの投資家が、別々の方法でちゃんと利益を上げているわけだから、「その考え方は違う」なんて否定することはできない。


 「人の行く、裏に道あり、花の道」「麦わら帽子は冬に買え」「夜明け前がいちばん暗い」「『まだ』は『もう』なり、『もう』は『まだ』なり」――
 これらは古くからの相場格言だけど、一言の中に「どっちとも決め付けられない両極性」みたいなものが含まれてますよね。

 マーケットでは、結果としての損益ははっきり出るけど、常識や理屈としての「正しさ」は存在しない。むしろ、自分でこうだと決め付けて投資すると、たいていの場合は失敗してしまう――。


 この先は、ちょっと投資の小手先的な話題になるけど…
 僕がいちばん得意としたのは、デイトレードの空売り(相場が下落するほど儲かる売買法)である。

 例えば、平均株価が3日連続で上昇し、朝のニュースを見たらニューヨーク市場も上昇していたとする。
 そうした時に、日経平均先物を寄り付き(午前9時の最初の売買)で売却する注文を出しておく。そして大引け(その日の終わりの売買)で買い戻す注文も出しておく。
 出勤前にネットで注文しておけば、あとは自動的に執行されるから、放っておいて仕事に集中していればいい(勤務中は動揺するので市況ニュースを見ない)
 
 そうしておいたら、だいたい60%弱の確率で儲けになる。
 ただし確率60%弱だから、ある日は50万円の儲け、次は20万円の損、その次は10万円の儲け、30万円の損……といったのが延々と続いて、感覚的には儲かっているのか損しているのか分からない。
 でも、何度も売買を積み重ねて合計すれば、ちゃんとプラス収益になっている。

 そのような感じで、ほかに例えば、株価が3日連続で下落した場合はどうなるとか、さらには過去3日間の株価がプラス・マイナス・プラスと推移して、その日が金曜日だった場合は何%の確率で上昇するとか、そんなもう色んなパターンでの株価の騰落確率を計算しておく(僕の場合は過去40年分の毎日の株価データを表計算ソフトで計算した)。
 そして、計算した確率にしたがって、毎朝粛々と注文を出す。
 下がる確率が高い日には売り、上がる確率が高い日には買い、五分五分の日には売買はお休み――。


 僕はそれで、月にだいたい50万円ほどの投資収益があった。
 しかも、この方法の運用面の大きなメリットが、もし運悪く負けが続いた場合にどの程度の損失にかるかも、あらかじめ確率的に分かっていることだ。
 だから最悪の場合のリスクを常に踏まえながら、致命的ダメージを受けない範囲内で、投資を続けていくことができる。

 一方でこの方法のデメリットといえば、自分の予想を的中させるという、いわゆる「当てもの」としての株式投資の醍醐味がゼロであること。
 でも、そんな醍醐味を楽しみながら損を出すくらいなら、面白みもない投資法で儲けたお金を、何か好きなことに使って楽しんだほうが絶対にいい!


 当時、「あぁ、これで会社を辞められるな…」と、感慨深く考えていた。
 ところが、そんな矢先、こともあろうか勤務先でインサイダー不祥事が起こり、株式投資が厳禁となった。
 これは「もう手を引きなさい」という天のお告げだろうと考えて、以来、株式投資は一切行っていない。

 このあとで、サブプライム・ローン問題やリーマン・ショックなど、マーケットの世界的大混乱が起こったから、結果的にいいタイミングで「勝ち逃げ」ができたのかなとも思う。

 そして僕自身は、かつて『マーケットの魔術師』や『ジム・ロジャーズ世界を行く』などを読むことに傾注してきたエネルギーを、そのまま『神との対話』や『ニュー・アース』などへ方向を変えて、今日に至っている…という次第である。



 結びに、しばらく他ジャンルに寄り道してたけど、本筋に戻って、お気に入りのリラクゼーション音楽の紹介を。

 今回は、以前も紹介したスピリチュアル音楽界の大御所のDeuter「Khumbe」。
 チベタン・ボウルの、不思議と懐かしいような音色が、内なる静寂を広げます。
 
>
web拍手 by FC2
  ☞ コメント:10

 
 コロンと丸い、アボカドの種――。

 これまで料理のときに、生ゴミとしてポイッと捨てていたけど、そのたびに「これって種だから、植えたら芽が出るのかな?…」という問いが、かすかに頭をよぎっていた。
 それでも、特段に意識はしないままに、たぶんこの20年以上の間で、数百個のアボカドの種をそのまま捨ててきたと思う…。

  で、この春のある日に、はたと思い立ち(と言うほどのことではないけど)、いつもは捨てていたその種を、鉢に植えてみた――。

 すると芽が出て、茎も葉もぐんぐん伸びて、半年のうちにちょっとした観葉植物の鉢植くらいに生長した。

 羽ばたくみたいに広がる、生き生きした大きな葉――。
 「へぇー、アボカドって、実はこんな姿だったんだ!」と、ひそかに感激しているのだけど、あとで調べてみたら、比較的育てやすい植物だそうだ(ただし家で育てても実は付かないらしい)。

 さらに驚いたのは、近所の家の玄関先などに、同じ葉を立派に茂られた鉢植をたまに見かけること。
 アボカドを育てている人って、けっこういたんですね!――。近所の家々を毎日目にしながらも、全く気づかなかった…。


 そしていま思うのは――
 もし自分が日ごろ「真理の種」というのを手にしながら、「これって?…」と心の奥をよぎる小さな問いに気を止めることなく、ポイポイ捨てるように受け流していたとしたら…。

 何とも愚かで恐ろしいことけど、本当にそのようにしながら、自分はこれまでの半生を生きてきたのだろうなと思う…。


 それとちょっと似たようなこと――。

 数年前にネットの動画サイトで、JR東日本の駅の発車メロディーを、メドレーでピアノ演奏している映像をたまたま見つけた。

 僕は仕事で東京のあちこちを駆け巡っていたから、大半は知っている発車メロディーだ。いや、「知っている」というよりも、「耳にこびり付いる」と言ったほうがいいくらい。


 でも、それくらい日常的にしつこく耳にしてきたのに、一通りをまとめて聴いてみると、こんなに多くのバリエーションが存在することにすごく驚いてしまった。

 もちろん何種類かあることには気づいていたけれど、いつも駅の人ごみの中で、「また同じような音がうるさく鳴ってるなぁ」という程度しか意識していなかった――。

 さらに言えば、改めてじっと聴いてみると、どれもけっこう美しい旋律に思えてくる…。
 純粋な音楽とはまた違う、都会の生活が織り成す「音風景」のような、聴いているうちにどことなくいとおしくなってくる印象だ。


 これについても、いま思えるのは――
 もし高次のガイダンスが自分に呼びかけてくる声を、あたかも駅の発車メロディーみたいに、日常騒音の一部のように聞き流していたとしたら――。

 そのことに気がついたとたん、「これまでに色んなふうに語りかけられながら、どうして一度も気に留めずにいられたのか!」と、自分でも不思議に感じながら驚くに違いないと思う。





web拍手 by FC2
  ☞ コメント:6

 


 前回の記事では、私たちの人生は、本当は時間というものがない「小さな点」のようなものではないか、ということを考えてみました。

 そして、その点の内容を、時間軸に沿って小分けして切り出し、経験として再生することによって、私たちは「人生を生きている」と実感しているのではないかと。


 で、そんなことを考えていたら、一言のメッセージが胸の中にふわっと浮かび上がってきた――。

  つまり、時間とは「分離」なのだ

 あぁー、なるほど。確かに、そういうことかもしれない…。
 分離というと、「自分と他者」の区分のことをまず考えるけど、過去とか未来を作ってしまうのも同じ分離というわけだ。


 私たちの本来の在り方とは、一切の分け隔てがなく、宇宙の過去・未来の森羅万象すべてが一つとして在る、「ワンネス」や「宇宙の叡智」と呼ばれるものだといわれる。
 その一つとして在るものが、自らを経験的に知るために、この三次元世界や人間を作った。

 しかし、「ワンネス」や「宇宙の叡智」の全体像をそのまま把握することは、肉体人間の受容能力では全く不可能である。
 普通のコップに、地球上の海水をすべて注ぎ入れようとするみたいなものだ。

 そこでこの三次元世界では、多数の個人にばらばらに分離し、さらに経験する物事が少しずつ順に現れてくる「時間」のシステムを敷いているわけだ。
 この、1人分の人生が少しずつ展開していく仕組みによって、肉体人間の能力の範囲内で、色んな物事を経験していける。


 さらに言えば、私たちが、時間のない「今」という瞬間を意識するとき――、その今に「在る」という意識そのものには、自他を分け隔てる境界がない。

 ということは「時間」こそが、あらゆる分離を可能にしている根本的な魔力といえるのかもしれない――。


 アセンションとは、時間が分離したものを、再び一つにするプロセスといえる。
 ――なんて思ったとき、「これはどこかで聞いたことのあるフレーズだぞ…」と気が付いた。

 そうだ、ベートーベン交響曲第9番の合唱の歌詞である。
 改めて考えてみれば、あの詞の内容は、かなり「アセンション的」といえるかもしれない。


 本当の歌詞は、神を賛美して「あなたは」という言い方だけど、ここで以前の記事でも書いたように、「すべてを引き起こすのは私自身である」という最近のスピリチュアルの教えに立って、「あなた」を「私」に置き換えて文章にしてみたらどうなるか――。
 ということで、詞の一部をそんな観点から、ちょっと書き換えてみました。

 
 至福の喜び! 神々しい光! 麗しき高次からの誘い!
 私たちは炎のように酔いしれ、自らの聖域へと入っていく

 私に秘められた力は、時が分断したものを再び一つにする
 私の柔らかな翼のもとで、すべての人々は兄弟となる

 そうだ! この地上で魂だけが、唯一の自分のものだと知る者たちよ
 それが分からぬ者は、この輪から泣く泣く去るがよい!――



 本当に、この時代だからこそ一段と訴えかけてくる感じがする、エンパワーさせられる歌ですよね!

 まさに、アセンションは自ら起こすものなのかもしれない。
 私たちの内面には、それを起こす完璧な力が備わっていて、あとは「本当の私(I AM)」を信じてゆだねるだけ――。


 余談だけど、東京下町の芸者さんたちが「第九」の合唱コンサートに参加する際に、ドイツ語の歌詞を語呂合わせで覚えるために作った「とらの巻」というのがある。
 学生時代に音楽の授業などで、歌詞を無理矢理に覚えた経験のある人には、けっこう笑えて、感激すると思う。
 「アーレ・メンシェン(すべての人々)」が、「ああ冷麺 支援」である。もう、ゲシュタルト崩壊!…
 http://www.funkenclub.com/htm/dai9_onyaku.htm


 結びにまた、音楽の紹介。

 「ベートーベン交響曲第9番」はあまりに安直すぎるからぜったいに却下、と思っていたのだけど、改めて久々に聴いてみると、やはり素晴らしいなと聴き惚れてしまい、結局それにします…。

  「これはアセンションの曲なんだ」「新しい時代が始まろうとする2012年のテーマなんだ」という観点でじっと聴いてみると、なかなか新鮮な印象。
 第4楽章全部は、ネットで聴くにはちょっと長そうなので、じょうずに間引きされたダイジェスト版を。

 しかし、ここまでくると日本の「第九」は、「野球」や「ラーメン」みたいに、もはや独自の文化ですね…。
 日本から、このキスを全世界へ!

web拍手 by FC2
  ☞ コメント:4

 


 「時間というものは存在しはない」――。
 これも、覚者などが決まって口にする言葉の一つです。

 よく言われる説明は、唯一存在しているのは「今」のこの瞬間だけということ。過去の出来事も、それを体験したのは「今」であり、そして未来に起こることも、それを経験できるのは「今」でしかない――。という、まるで禅問答のような講釈だ。

 言わんとすることは本当にその通りだなと思うけど、左脳的には、すんなりと承服するのがなかなか難しい…。


 でも私たちの周りには、「本来は時間の要素が無いものを、時間に添って経験している」と言えるようなものがある。

 その一例が、テレビゲームなどのソフトだ。

 ゲームの内容は、ディスクなどの中に記録されている。
 色んなステージの構造や光景、登場するキャラクターやアイテム、そしてルールなどの設定条件――。
 そうした、ゲームに関する一切合財のあらゆる物事が、手にしているディスクの中に、形のないデータとしてすべて書き込まれている。


 ディスクそのものの存在には、時間の要素は全く関係がない。

 あらゆる「今」の瞬間、ディスクは変わらず存在し続けている。書き込まれているゲーム内容も、一瞬の中に全体が既に存在しているわけだ――。

 そして、私たちがプレーするときには、その内容が少しずつ時間軸に沿って画面に展開されることによって、ゲームとして楽しむことができる。

 もっとシンプルな例で言うと、「一冊の本」だって同じことだといえる。


 臨死体験や退行催眠の話を読むと、死んだ時に「すべての人生経験がひとかたまりになって見えた」「自分の人生が小さな点のように思えた」といった話がときどき出ている。

 昔からの言い方でも「一瞬、走馬灯のように」というのがあるけど、同じことを言い表しているのかなと思う。


 で、さらに言えば、生や死すらも、すべて時間軸の外にあるとされる。
 と言うことは、死後に人生の全部がひとかたまりに見えるのは、過ぎ去ったものが集約されてそう見えるわけではない――。

 それはもとから、時間に関係なく存在する、小さな点だった。
 私たち肉体人間は、その内容を時間軸に沿って小分けして切り出し、経験として再生することによって、「人生を生きている」と実感することができる、というように考えられる。


 私たちの日常的な感覚でも、物事についての知識や記憶というのは、1つのかたまりの状態だ。

 例えば映画の「アバター」と言われれば、パッと頭の中に、あのキャラクターや主要場面、大まかな筋書きなどが浮かび上がってくるだろう。
 それは、コマ撮りされた連続性ある形とは違い、時間軸のない1つの情報のかたまりのはずだ。

 私たちの頭の中には、1本の映画が、時間も空間もない「ゼロ次元」の状態で保持されている。その状態をもって、「あれは面白い映画だった」と満足している。


 もし仮に、自分がまだ見たことのない映画を、情報のかたまりである「ゼロD」の状態で、自分の頭の中にインプットできたとしたら――。果たしてその映画のことを、面白いと思えるだろうか?
 たぶん、あまり面白くはないだろう。
 
 やはり映画は、映し出される物語と向き合い、起こる展開に驚いたり喜んだり悲しんだりして、次はどうなるのかと不安になったり期待したりしながら、話の中に巻き込まれていく経験があって初めて「楽しめた!」といえるものである――。


 そう考えると、神が「遊び」のためにこの三次元世界を作ったというのも、よく分かる気がする。

 三次元世界が創造される前は、宇宙の森羅万象や可能性のすべてが、形のない概念として存在していた。そこには時間や個体というものもなく、すべてがひとつのゼロ次元、「空」「ワンネス」「大いなる愛」の状態だ。

 それは素晴らしそうだけれども、「ずっとそのままだと、ちょっと退屈かもしれないだろうな…」ということは、人間の頭でも何となく理解できる。

 昔の吉幾三の歌でいうと――

♪ハ~ァ
体もねぇ、時間もねぇ、恐れや不足は何ものだ
愛情は、あるけれど、愛する相手を見たことねぇ
オラこんな次元やだぁ~

 …ってなっちゃいそう。

 とは言え、もう今では、私たちはその三次元世界を本当にうんざりするまで経験したということで、再びすべてがひとつの次元に戻ろう、そのことを思い出そうと、切望している。

 もちろんこの展開も、ゲームの終章で起こる出来事として、もとから決まっているわけだ。
 いま、それを選ぶのはプレーヤー自身。
 あとは、アセンションの「Aボタン」を押すだけ――。



 いつもの結びは、リラクゼーション音楽の紹介だけど、堅めの話題が続いたこともあるので、今回はぜんぜん違う趣向のものを。

 ちょっと記事で触れたついでに、ものすごい完成度の「吉幾三 ゴースト・バスターズ」。
 一度聴いたら耳にこびり付いて、頭の中で流れ続けます。仕事や家事の合間も、瞑想中まで…。


web拍手 by FC2
  ☞ コメント:5

 


プロフィル

Koudai Mitsuna

Author:Koudai Mitsuna
 
光奈 広大(みつな・こうだい)

 20年のあまりのサラリーマン生活を経て、いわゆる「ザ・マネーゲーム」を何とか卒業。今では束縛されない自由な日々を存分に味わっています!

 そうした中で心がけているのは、普通の日常的な行いを通じて、意識の進化を目指す「カルマ・ヨガ」。

 日々の喜びや学び、インスピレーションから得たスピリチュアルな気付きなどをブログで紹介しています。

 妻子と都内在住――。





http://facebook.com/koudaimitsuna

最近の記事
ツイッター
アクセス

CALENDaR 123456789101112131415161718192021222324252627282930
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。