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 スピリチュアル系のブログを色々と見てみると、「アセンションの日」なんてふうにも言われていた12月22日に「けっきょく何もなかったね」という話題を、ちらほらとみかけます。

 でも最近は、「特定の日を境に世界が一変するわけではない」「これまでの急速な変化の流れは今後も続いていく」といった意見が大勢のようで、僕自身も同じように考えている。


 その様相を僕なりにイメージしてみると、こんな話になぞらえることができる――。


 東京の玉川上水から埼玉の志木に向けて、「野火止(のびどめ)用水」という、幅1メートルほどの小川のような水路が流れている。

 江戸時代初期に作られたもので、名前からして「昔の防火用水かな?」とも思ってしまうのだけど、そうではない。
 もともと乾燥した原野だった一帯を水田耕作地へと変容させた、農業生産の「大動脈」と呼べる一筋の水路なのである。


 この用水路を開削したのは川越藩主・松平信綱で、江戸の水不足を解消する「玉川上水」の工事を取り仕切って完成させた人物だ。
 その功績によって幕府から、自らの領内への分水を許された。そして、全長25キロにわたる野火止用水を、わずか40日間で掘り通したという。

 ところが、掘ったまでは良かったのだが、そこに水がぜんぜん流れなかった…。
 もともと水源に乏しい乾ききった土地だったため、水が地中へと吸収されてしまうのだ。この話には諸説あるものの、完成から3年間も、水が流れない空堀のままの状態が続いたといわれる。

 しかし松平信綱は、全幅の信頼を置く部下の技術を信じて待ち続けた。
 その間、付近の畑の野菜が今までになくみずみずしくなったとか、春先に吹きすさぶ武蔵野特有の砂塵が少なくなるといった、さまざまな「異変」が現れるようになった。

 そしてある日、猛烈な雨が降った後のこと、野火止用水は全体にわたり一気に通水したという――。


 3年の歳月をかけ、地中にしみ込んだ水が、目に見えないところで着々と土地を潤していき、そして十分に水気を含んだたところで、水路はようやく突然に流れをたたえることができたわけだ。


 たぶん、この2012年あたりで、人々の意識を進化させる「水路」そのものは、既に完成したんじゃないかな…。
 ただそこには、まだ肝心の水は流れていない。

 でも目に見えないところで、人々の意識の中に何かが着実に浸透していって、そしてある日、新しい在り方が表出する――。

 そんなふうなイメージで、これからの時代を見ています。



 結びにヒーリング音楽の紹介。
 今回は、Frank Borell「Birds Eye View」。
 幻想的な曲調にキラキラした音色が、自分好みですね。


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 前回記事からの続きで、映画『ファインディング・ジョー』の感想のシェアリングです。

 この映画には、多数の著書で知られるディーパック・チョプラをはじめ、豊かに成功して名声を得た人たちが何人も登場する。
 映画という興行作品を魅力的に仕立てるうえで、それは大切な要素だろう。

 ただ、そんな見せ方がメッセージの枠組みのようになってしまい、「じゃあ、この人たちみたいに成功できなかったら、『英雄の旅』としての人生は失敗なのか?」――という疑問も出てきてしまう。


 そうした疑問について考えるために、ちょっとこんなことを想像してみたいと思う。
 それは、成功や幸せとは全く対極的な人生についてだ。たとえば仮に――

 インドの最貧層に生まれた、1人の男。

 若いころからまともな職には就けず、家や家族を持つこともなく、ゴミをあさったりわずかな施しを受けながら、何とか生き延びてきた。
 人々からはさげすまれ、虐げられ、自分のわずかな持ち物すらも、だまされて奪い取られてきた。

 人生で喜ぶべきこと、期待することなんか一つもなかった。心を通い合わせる相手もいなかった。この飢えたみじめな人生を、もはや完全にあきらめていた。

 男は、そう歳もとらないうちに、重い病にかかってしまった。そして道端に横たわったまま、とうとう苦しみのあまり動けなくなった。
 倒れていた彼の体は、担架に載せられ、ある施設の建物の中へと運び込まれた。
 「死を待つ人々の家」――。

 
 数日後、粗末な簡易ベッドの上で、男はその生涯を終える時を迎えていた。
 若い修道女が、もはや力のない彼の手を握っていた。
 男は、手のひらに伝わってくる温もりに、これまで感じたことのない鮮烈な感覚を味わって驚嘆した。

 「自分は、受け入れられている!!」

 死を看取る修道女の目は、少しおびえている様子だった。
 すると不意に、その瞳の奥底に、地上のものとは思えない、美しく深遠な輝きが広がっているのを、彼は見いだした。
 そのまばゆい広がりは、彼自身の存在とつながり、そして包み込むように一つとなり、えも言われぬ喜びに満ちていった。


 そしてこの瞬間、人々に対して抱いていた恨みは、いとおしい親しみへと変わった。自分のみじめさは、尊さに変わった。あきらめは無制限の可能性に、飢えはあふれ出る至福に変わった。

 あらゆるものを分け隔てなく受容し、癒し清める、愛の壮大さ――。
 男は、その実在を圧倒的な経験として知ることができた。これまでの彼の人生があったからこそ。

 そして今、人生の状況という包み紙を解き開き、人類にとって究極で最大のプレゼントを手にしたのだ。


 「あぁ…」。感嘆のため息のような、かすかな声を最後に、男は簡易ベッドの上で息絶えた。


 ――と。 もしこの男のような人生があったとすれば、その過程は「英雄」とか「至福」と呼ぶには程遠いものだ。「虫けら同然」と言っていい。
 
 でも、その人生が全くの失敗だっかたといえば、それは違うと思う。
 もし、「無条件の愛」の実在と奇跡を、圧倒的な経験として最後に知ることができたならば(この話はあくまでファンタジーだけど)、経済的豊かさとか社会的名声をはるかに凌駕する「大勝利」である。


 神話や映画に描かれている「英雄」や「勝利」というのは、いわば「方便」としての表現なのだろう。
 人生にどれほど「非・英雄的」「非・至福的」なものがあっても、それが魂にとって「失敗」や「はずれ」になるなんてことはない。
 魂のストライク・ゾーンというのは、もう絶大に広いのだ。

 ある意味で、この地上世界に生まれること自体、魂にとっては冒険の始まりである。そして、人生の過程で何が起こってどんな境遇に置かれようとも(エゴは色々と価値付けするけど)、最後には必ず勝利の「帰還」を果たす。それは約束されている――。


 映画『ファインディング・ジョー』で、僕が最も印象に残ったのが、ジョーゼフ・キャンベルの次の言葉だ(確か映画の冒頭に出てきたと思う)。

 人間が本当に求めているのは、生きることの「意味」ではなく、生きているという「経験」だ。

 仏教などでよく言われる「人間は、ただ生きているだけで尊い」というのに近いかもしれない。


 神話が描く冒険には「二面性」があると、僕は考える。
 ひとつは、英雄物語のように「自ら求めて旅に出立する」という冒険。もうひとつは、「生きていることをただ経験する」という冒険。
 (社会的な成功者は前者であり、インドの貧しい男の例は後者であろう。その人生の冒険に、貴賎の差なんか無い)

 この両面の冒険が、人生のステージや意識レベル、転生の段階、時代背景などに応じて織り交ぜられながら、私たちの遠大な旅は展開していく。
 そうした図式の上で、今の時代に特に強調されるべきメッセージが、やはり「Follow your bliss(あなたの至福に従いなさい)」なのだろうな――。


 というのが、この映画を見ての感想です(単なる感想から外れて、長話になってしまったけど…)


 最後にヒーリング音楽の紹介。今回はAdiemus「Chorale I」。
 いつも好んで取り上げている静かな旋律とは違って、人を魅する渾身の歌唱という感じです。
 

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 何カ月か前のこのブログのコメント欄に、「自主上映会でしか公開されていない『ファインディング・ジョー』という映画が面白そうなので、ぜひ見てみたい」という書き込みがありました。

 僕自身も、機会があれば見たいなと思っていたら――、いつも瞑想リトリートでお世話になっている静岡・修善寺の「リーラスペース」が、その上映会を新宿で催すというので、先の週末に見に行ってきました!


 『ファインディング・ジョー』は、米国の文学者ジョーゼフ・キャンベルが唱えた「世界各地に伝承されている神話には共通パターンがある」という学説をベースにして、人生における挑戦や幸せについてのメッセージに仕立てた映画作品だ。

 キャンベルの神話研究については、このブログの過去記事「神話の記憶」でも、僕自身のスピリチュアルな解釈を交えながら簡単に紹介したことがある。


 で、この映画『ファインディング・ジョー』だけど、ものすごくメッセージ満載の内容だった…。

 世界の陰謀をテーマにした有名なドキュメンタリー映画『スライヴ』では、各分野の有識者らが何人も入れ替わり立ち代り出てきて、意見やらメッセージを矢継ぎ早に語るけど、それと同様の作りだ。

 こうした作りの映画に「特有の利点」ともいえるのが、情報量があまりに盛りだくさんで多様なために(しかも前後の脈略があまり緻密に構成されてないために)、印象の薄い箇所は見ている最中にどんどん頭から抜け落ちていき、一通り見終わった後は、「ごく一部分の断片的な情報しか記憶に残らない」という点だ。
 それゆえに、その人の状況なり意識レベルに相応した、限られたメッセージだけを受け取ることができる、という結果になる。 …あくまでも結果論だけど。


 もしも僕が、2年前のサラリーマン生活に忙殺されていた時期にこの映画を見たとしたら、以下のキャンベルの言葉を最も強烈なインパクトとともに受け取って、何日も心にとどめながら過ごしたと思う――

 私たちは、予定通りの人生を手放すべきだ。
 そうすれば、自分本来の人生を手にできる。


 でも僕は昨年に会社を早期退職して、「予定通りの人生」を思い切って手放した。だからこのメッセージ関しては、自分は「すでに卒業できた」とも思っている。

 これほど偉大でインパクトあるメッセージでも、それを受け取るべき状況から卒業することができる!――
 その事実を改めて認識したという意味で、映画の中でこの言葉に接した時、現在の自分の心にも非常に感慨深く響いた。


 多くの人にとって、『ファインディング・ジョー』の最も中核的なメッセージとなるのが、以下のキャンベルの名言だ。

 Follow your bliss(あたなの至福に従いなさい)

 インドの聖者は、「真の私」とは「サット・チット・アーナンダ(存在・意識・至福)」であると説明する。
 これについてキャンベルは、自らの考えを次のように述べている。
 「自分が正しい意識であるかどうかは分からない。また、自分の存在だと思っているものが、本当に私の存在であるかどうかも分からない。だが一方、私の喜びがどこにあるかは分かっている。だったら、その喜びについて行こう!」 と――。


 課題や苦難ではなく、自分にとっての「至福」に焦点を合わせ、それを追求しながら生きることは、本当にこれからの時代にふさわしいメッセージだ。

 ただし、ついつい私たちは、「至福」イコール成功とか、社会的評価とか、豊かさとかを念頭に据えてしまう。(映画の中でも、そのような感じに描かれていた)
 そして、その条件が満たされない限り、「自分は幸せでない」と考えてしまう。

 「そこが、けっこう大きな落とし穴かもね」――
 上映会が終わったあと、主催者やその知人の方々と、そんなことを話した。

 映画の感想の続きは、また次回…。
 

 結びにヒーリング音楽の紹介。
 今回はKevin Kendle「Evening Star」。
 僕がよくパソコンで聞いているネットラジオで、「あっ、いい感じの音楽が流れてる」と思って画面を見たら、この人の曲だったということが多い。厳かで幻想的な雰囲気が、なかなか好みですね。


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 今回はかなり気軽な、パソコンの話題です。

 僕が使っているノートパソコンはけっこう古いもので、6年前に購入したパナソニック「レッツ・ノート R4」という機種。
 最近では珍しい「メード・イン・ジャパン」のパソコンで、とにかく故障しにくい。

 これまでに、アメリカ出張の時に持って行ったし、フランスやスイス、中国にも行って、色んな電源電圧やネット環境、温湿度、落下などの衝撃を多々経験した。
 でもこのパソコン、ボディーも動作もいまだ全く問題ない。

 ただ時代の潮流には勝てず、動画再生などの処理能力は、やはりかなり力量不足と言わざるを得ない…。


 もう新しい機種に買い換えても良い頃なのだけど、家には3年前に購入したデスクトップパソコンと、2年前に購入した別のノートパソコン(妻が使用)があるので、さらに最新をもう1台というのはちょっと気が進まない。


 ということで、2万円程度の予算で、とりあえずスペックを上げることにした――。

 まずはメモリーを1.5ギガに増設。メーカーの説明書では「最大1.0ギガまで」と書いてあったけど、ネットの口コミでは「それ以上でも大丈夫」というのでトライしてみた。


 さらに、ハードディスク・ドライブを取り外し、データを高速に読み書きできる「SSD」という記憶装置に付け替えた。
 ただ僕の持っている機種の場合、パソコン本体をかなり分解をしないと付け替え作業ができないため、ネットで業者を探して任せることにした。

 でも業者といっても、個人がマンションの一室でやっているようなところだ。その見知らぬ相手に所定金額を振り込んで、パソコンを宅配便で送るわけだが、もしも詐欺ならば金をやすやすと持ち逃げされるパターンである(かなり非効率な手口だけど…)。

 そんな危惧も少しはあったものの、数日後にちゃんと注文通りに改造が施されて返ってきた。 信頼して良かった!


 このような改造の結果、新しい機種には及ばないものの、「中古品としては申し分ない」程度にはサクサクと動くようになってくれた。
 とりあえず、「半分生まれ変わった」ような感じだ。

 ――とは言え、古いボディーの中に、本来の許容を超えるスペックを詰め込んだという、実にいびつな状態…。いつお釈迦になってもおかしくない。
 搭載している基本ソフト(OS)のウィンドウズXPのサポート終了が2014年4月だから、いずれにせよもう先は見えている。


 図らずしも私たち自身もいま、意識の進化に向けて、ちょうどこのノートパソコンみたいな「過渡的な状態」にあるのかも。
 そのときが来たならば、喜んで「お釈迦」になりたいものです。


 最後に、定例のヒーリング音楽の紹介。
 今回はUmna Sa「Relaxation Music」。
 軽やかで広がりある、包まれるような優しい歌声です。

 
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 僕はサラリーマンのとき、マスコミ会社に勤めてました。

 そこでの仕事の中で、金科玉条のごとく強調されていたのが、「一次情報を取る」ということ。
 つまり、現場に行って、起こっていることを直接見て確かめたり、ことの当事者に話を聞いて、生の情報をきちんと仕入れる、ということだ。

 そのように、自分が直接得た「一次情報」に対して、他者を介して得た情報――誰かがそのように語っていたとか、ニュースでそう報じていたとか、本やネットに出ていた、といった情報――のことを二次情報という。要するに「また聞き」ですね。

 
 どうして一次情報が大事なのかというと、最大の理由は、情報の「正確さ」といえる。
 マスコミ会社というのは、情報そのものが売り物なわけだから、誤った情報というのは「商品」にならない(世の中のあらゆるメディアがそう考えているとは、決して言えないけれど…)

 だから、記事の書き手や編集者は、現場取材以上に、その内容や捉え方が事実として正確であるかどうかを確認する「ファクト・チェック」に、実はものすごい労力を費やしている。

 分厚い資料と格闘したり、詳しい人に解説をお願いしたり、そのための時間やアポイントメントを慌しく調整したり、上司や社内各所に報告・相談したりと…。
 ここが、地味な上になかなか神経の磨り減るところで、もしその光景がNHK教育番組の『はたらくおじさん』(ってもう無いか?)で紹介されたとしたら、たぶん見ている子供たちも気が滅入ってげんなりしてくると思う。


 で、そのような「ファクト・チェック」を徹底して行うわけだから、もとの一次情報がきちんと集められてないと、確認作業に耐えられない。
 二次情報をもとにした記述部分も、結局はそのおおもとの一次情報にさかのぼって調べることになる。

 質の良いメディアというのは、この「一次情報」と「ファクト・チェック」がきちんとなされているところだといえる。

 一方で、二次情報を集めては適当に加工し、ファクト・チェックなしに発信しているメディアというのは、いわばコピー商品を品質管理なしに乱造する、ずさんな工場みたいなものだ。


 ――と、こんな話を持ち出したのは、メディアとかジャーナリズムを論じるためではない。

 実は私たち個人の日常でも、この「一次情報」と「ファクト・チェック」が、ずいぶんおろそかにされているのではないだろうか。
 それはニュースの見方とか、生活情報の収集分析についてではなくて、ほかならぬ「私」そのものに関してである――。


 ふつう私たちは、自分自身が「どういう人物であるか」という解釈を、常に「他者の目線」からの推察や経験をもとに行っている。
 つまり、「人から以前こんなことを言われた」とか、「相手の側から見たら、自分はこういう人に思われているはずだ」「周りから実際にそう評価されている」といった感じに…。

 まさにそうした「二次情報」を積み重ねるようにして、「自分とはこういう者だ」と、自ら思い描いて信じ込んでいる(それが生きる上での制約になっている場合が多い)。
 ところがその解釈は、実際には「大はずれ」ではないだろうか。

 
 「人は、自分が見たいように物事を見る」という言葉があるけど、この、見たいように見て、好き勝手に解釈する傾向が最も顕著なのが、実は、「自分自身」に関してではないだろうか。
 つまり、「人は、自分が見たいように自分自身を見ている」。


 そう考えていたら、こんなメッセージがふわっと胸の内に浮かび上がってきました――。

 あなたが「これが自分だ」と思っている人物は、一度も存在したことがない。
 あなたがこうだと断定している、自分の人格、置かれている境遇、さらには容姿までも、全く正確ではないのだよ。

 ――なるほど…。
 自己イメージそのものを、全否定されたわけだ。

 じゃあ、他者が自分のことをどう思っているかといった内容が「二次情報」ならば、それに代わる「一次情報」というのは何なのか?――

 「私は何者か」の一次情報を得るために行うこと、それが「瞑想」なのかも知れない。
 そのとき見いだす私というものは、自己イメージとして描いていた人物とは丸っきり違うものといえる。

 また、有名な「バイロン・ケイティのワーク」では、悩んでいる問題の解釈や自分のあり方について、「それは本当ですか?」「絶対に本当だと分かりますか?」と繰り返し問うけど、いわばそれが「ファクト・チェック」なのかも。

 こうして、自らの「誤報」が明らかになっていく――。



 結びに、定例のヒーリング音楽の紹介。
 今回は、John Serrie「Once In Royal Davids City」。
 賛美歌を、宇宙的なアンビエント・ミュージックに仕立てている編曲が素敵です。

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 あなたの体には、「命」がいくつ宿っていますか?――

 って尋ねたら、「1つに決まっているだろ!」と即答されそうだけど。
 でも、果たしてそうでしょうか…。


 もしあなたが男性の場合、体内に「精子」を保有している。
 あれも、1つひとつが生命活動をして(べん毛で泳いで、目的のゴールをめざして競争する)、そしてやがては死ぬものだ。その貯蔵量は、1人に約10億個!

 また、私たちの体の中にいる、明らかに自立した生命体と呼べるものとしては、「腸内細菌」がある。
 腸の中に生息するビフィズス菌などの微生物で、消化活動を支える重要な働きをしている。その数は何と数百兆個!にも上り、総重量はどっさり1kg以上と、ペットの子猫の体重くらいはある。

 ただ、精子はいわば他者になる材料だし、腸内細菌は外から来て寄宿しているものだから、「そんなのは私自身のものじゃない」とも言える。
 ならば、免疫機能を担う「白血球」は、生体に欠かすことのできない自身の一部として異存はないでしょう。白血球は1つひとつがアメーバ状の生命体で、その数は2兆個。体内を巡りながら、外部から侵入してきたばい菌などの異物を捕食してくれる。


 さらに、体を構成する細胞となると、それは自分の体そのものだ。その数は1人で60兆個にも上る。
 実はこの細胞の1つひとつも、独立した生命体としての能力を持っている。そして1日に3000億個の細胞が死んでいく。200日で全部が入れ替わる計算だ。

 もっと言えば、細胞内にある「ミトコンドリア」も、れっきとした生命体である。
 もともとは地球上の原初の微生物として存在していたが、生命の進化の過程で、細胞の中に取り込まれた。
 1つの細胞内に数十から数万個のミトコンドリアがいて、酸素を吸ってエネルギーを生産するという、生命活動の根源的な機能を果たしている。


 ――そう考えてみると、「1つの身体に1つの生命が宿る」というイメージとはかなり違って、私たちの体というのは、もう途方もないくらい無数の「生命の複合体」といえる。

 しかも、その小さな個々の生命のことを、「私のもの」であるとは全く感じられない。そっちはそっちで、生としての機能と役割を、各自それぞれにまっとうしている。
 自分の体の中で1日に3000億個の細胞が死んでも、何の悲しみも興味もない。まるで、広大な森の中で虫たちが生死しているように、小さな「他人ごと」みたいな感覚だ。


 そうなると、そんな小さな個々の生命とは異なる「私自身の生命」というのは、一体どういうものか?…
 実は、人には、そもそも命というものはいのかも知れない。それは形も活動もない、「意識」としての存在でしかないのかも…。


 私というものが、固有の体を構築して生きているというのは、考え方として違っているような気がしてくる。
 いわば、たまたまそのような生命のかたまりに「憑依している」とか、あるいは単に「モニタリングしている」くらいにとらえる方が、現実に近いかも知れないですよね――。




 結びに恒例の音楽の紹介で、今回はちょっと趣を変えてバロック期の歌曲。
 スカルラッティ「すみれ」を、合成歌声キャラクターの初音ミクが歌ったもの。

 僕はアニメ趣味は特にないのだけど、かわいらしい人間味がありながらもデジタル的な歌声、西洋音楽でありながらも日本語的なカタカナ発音、古典でありながらも未来的、初めて聴くのになぜか昔の思い出のようになつかしい――と、あらゆる面で中道でもなく中途半端でもない微妙な表現性に、不思議と心にしみ入る思いがするのだけど…。

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 前回の記事では、「カクテルパーティー効果」と呼ばれる、人間の聴覚の特性について書きました。

 人はどんなに騒がしい中でも、自分が注意を向けた相手の声を、際立たせて聴き取ることができる。
 そのような性質が私たちに備わっている理由とは、実は、あらゆる物音のバックグラウンドにある「静寂」そのものを感じ取るためなのではないか、と…。


 そんなことを考えていたら、胸の内にこんな語りかけが起こってきた――

 それこそが、生のそもそもの目的だ。 

 人生とは、「何を感じるか」なのだ。
 周りの状況に対して、どう反応して感じるかだけではなく、いちばん肝心なのは、「私自身」をどのように感じるかだ。

 人はふつう、何か行動をしたり、自分に何かを付け加えようと努めてきた。そうして、「私自身」というものを、自我が期待する通りに感じられるよう試みてきた。
 ――でも、そんな感じ方は、もう終わりだ。


 人という存在は、何をしなくても、完璧に完成しているのだ。
 すでに完成している者として、いま何を感じるか?―― 

 その解答が、バックグラウンドとしての「静寂」なのだ。
 解答というより、「解答への入口」と言ったほうがいい。
 人は、その「静寂」の中に在ることによって、自らの「真の本質」を呼び起こして感じることができる。



 その「真の本質」以外のもの――それがどんなに心地良いものであっても、嫌悪するものであっても――、すべては虚飾に過ぎない。


 これからの時代に、起こってくることが分かるかな?
 すべての虚飾としての自我は、死滅へと向かい始める。

 自我をどうにか取り繕おうとしても、何とかして満たそうとしても、状況も精神面も、なぜかうまくいかなくなってしまう。
 それは見えない環境変動、地球上の新しい「大量絶滅」の始まりともいえる。


 その中で、死滅をまぬがれて進化をめざすことのできる唯一の場所というのが、「静寂」なのだよ――。


 ◇

 と、ここまで言い切られて、もはや付け足す言葉もなく、結びに定例のヒーリング・ミュージックの紹介。

 以前にネットラジオで聞いて、神妙でいい感じの曲だなと思っていたのだけど、調べてみたら今回の記事内容にぴったりのタイトルでした…。
 Santiago「Path to Inner Peace」


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 たぶん、同じような経験をして、「おやっ?」っと感じたことのある人も多いのではないかなという、人間の「聴覚」についての話題です――。

 僕は、サラリーマンだったとき、人の話をICレコーダーで録音する機会がよくあった(要はインタビュー取材)。

 会議室など静かな場所なら問題ないけれど、周りに騒音のある喫茶店とかイベント会場の中などの場合、録音した声を後で聞き取るのがなかなか大変だった。


 不思議なのは、その場で話を聞いている最中は、相手の声は全く何の支障もなくふつうに聞こえること。

 ところが、そこで録音した音声をヘッドホンで聞くと、周囲の騒音のあまりの大きさに驚いてしまう…。ほかの人の話し声や、コピー機やら空調の音、余計な構内放送、外の大型車がアクセルをふかしたりサイレンを鳴らした救急車が通ったりと――。
 「よくこんなにもうるさい中で、話しがしっかり聞こえていたものだ。人の耳ってすごい高性能だな」と、感心してしまう。


 以前にもこのブログで話題にしたことがあるけど、人間が音声を聴く能力には「カクテルパーティー効果」と呼ばれる特性がある。

 これは、大勢の人が歓談している騒がしいパーティー会場などの中でも、自分が注意を向けている相手の話し声は、際立って聞き取ることができる、というものだ。心理学では「音声の選択的聴取」ともいう。


 でも、このカクテルパーティー効果が働くのは、その場所にいて「生の音声」を聞いているときだけみたいだ。

 録音された「音声データ」を聴く場合だと、そのような効果は表われない。
 相手の声も周囲の雑音も、まるで同一のかたまりみたいになてしまって、必要な音だけを選択的にクリアに聞き取ることができない…。

 そこそこ性能の良いステレオマイクとヘッドホンを使えば、耳で直接聴くときの条件にかなり近いはずである。
 ところが、音質面はリアルでも、このカクテルパーティー効果に関しては生で聴く場合とは相当違っていて、「周りの騒音にまみれた声」としてしか聴こえない。 なかなか不思議だ…。


 「生の音声」と、録音された「音声データ」を聴くときの、もう一つの明らかな違いといえるのが、周りの「静寂」の聴こえ方ではないかな、と思う。

 ちょっとここから、禅の世界ような、微妙な感覚の話になるけど――

 周りに色んな音が聴こえるときに、よく耳を澄ますように全体を感じてみれば――、自分の周りには「音が現れるバックグラウンド」としての「静寂」が広がっていて、その静寂の上のあちこちに音が出てきては消えていく――。そんなふうな音の空間感覚を、誰もが持っているはずだ。

 そして、注意を向けた相手の声がカクテルパーティー効果によってよく聞こえてくるのと同じように、私たちは日常騒音の中にあっても、基底にあるこの「静寂」そのものを聴き入ることも不可能ではない。


 で、録音された「音声データ」の場合だと、ヘッドホンから流れてくる音にどんなに集中して聴き入ったとしても、音の裏側に広がるそうした「静寂」をあまり感じ取ることはできない…。
 むしろ、ありありと感じられるのは、頭にヘッドホンを付けながら自分がいる「今ここ」の背景にある静けさのほうだ。


 伝統的な禅や、最近のスピリチュアルな教えでも、音や物事が現れるバックグラウンドの広がり――その何もない意識空間――こそが、真の「私」そのものであるといわれる。

 とすれば、静寂の広がりは「今ここ」でしかありありと感じられないというのは、全く当然であろう。録音された音声データの中に、真の「私」の存在が感じ取れるはずはない。


 さらに言えば、カクテルパーティー効果を働かせて、選択的に聴き取るに値する「本当の価値ある音」というのは、この「静寂」なのではないだろうか。

 ひょっとしたら実は、そんな聴覚特性が私たちに備わっている理由とは、真の「私」に注意を向けて感知するという目的のため、なのかも知れない。
 

 結びに、ヒーリング音楽の紹介。
 今回は、Llewellyn「Mermaids of Atlantis」。
 穏やかな海に抱かれるような、深みのある曲調がいい感じです。

 僕は、「SKY. FM」というネットラジオの「Relaxation」のチャンネル(の無料版)をよく部屋の中で流しているのだけれど、最近のそこの選曲がすごく自分好みでうれしい。

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 人生における「所有」と「欠落」について、ちょっと思ったことです――。


 僕の息子は小学生の途中まで将棋を習っていて、中途半端に強かった。
 どういうことが「中途半端」なのかというと、相手の駒をとにかく1つでも多く取る、いわゆる「駒得」が好きだった。

 対局の中盤までならそれで構わないけれど、終盤になっても、肝心の「詰め」の手筋が全くつかめない…。そのため、目先にある駒を取っては、持ち駒の山に加えて、それを喜んでいた。

 まぁ、完全に子供の将棋である。厳しく評価するならば、これは決して「強さ」ではなくて、棋力が足りないゆえの「浅はかさ」でもある。
 将棋というゲームの目的は、言うまでもなく、「玉を詰める」ことであって、「駒をたくさん持つ」ことではない。


 ――このことを生き方に敷延してみると、そんな「駒得」みたいな人生を最後まで送り続ける人は、実際に少なからずいる。それを「望んでいる人」まで含めると、実は大部分の人がそうなのかもしれない…。

 厄介なのは、その「駒」というのは単純に「財産」とか「地位」ばかりではなくて、「スピリチュアルな知識」や「満足感」、さらには「自分らしさ」とか、ある意味での「幸せ」までもが、「駒得」の要素だったりもする…。
 もちろんゲームの過程としてそれらを得ることも大事だけど、ゲームの最終目的とは違う――。


 一方で、将棋の上級者の場合――
 指導などで初級者と対局するときに、対等に戦えるよう「駒落ち」というのをする。これは、自分の「飛車」「角行」などの駒を取り除いた形で試合を始めるもので、いわゆるハンディキャップ戦だ。

 このことも、生き方において実践している人がいる。
 「大きな進化を遂げるために、ボディーに障害を負って挑戦する勇敢なプレーヤーもいる」と津留晃一は語っているし、前世療法のブライアン・L・ワイスは「テロリストとなる人たちは本来、憎しみや戦いに代わるものを見いだそうとして、そのような人生を選んで生まれてきた」と言う。


 以前、テレビの報道番組で、ひとりの中東のテロリストが「なぜ自分がテロ組織に加わったか」といういきさつを、取材インタビューで語っていた。
 彼はもともと街の商人だったが、政府支持者から反逆者だという嫌疑をかけられてしまった。
 そしてある日、自宅を突然襲撃され、散々な暴行を受けたあげく、子供が連れ去られた。数日後、残虐にも両眼をくり抜かれ、手の指がすべて切断された子供の遺体が、家の扉の前に投げ捨てられていたという。
 「あいつらに復讐しなければ」と、そのテロリストは静かな口調ながらも、心で怨敵をにらみ据えるように話していた…。

 もしもこの男が「憎しみや戦いに代わるものを見いだす」ために、そこまで凄惨なシナリオを、あえて選んで生まれてきたとするならば、それはものすごいレベルの「駒落ち」だ。

 しかも、彼が負おうとしてた「憎しみ」というのは、自身の個人的な過去生で蓄積したものではないと思う。おそらく、人類が共通意識として抱えている、強大で根源的な「憎しみ」を少しでも解消したいと、人生をかけて挑んだのかも知れない。

 でも結局、彼はこの過酷すぎる挑戦に失敗してしまった。
 憎しみや戦いに代わるものを見いだすことはできず、その中に完全に呑み込まれることになった…。
 でも、その失敗を責めることなんか、誰にもできない。


 また、ホームレス生活者も、相当な「駒落ち」で対局をしている人だと思う。このかなり豊かな先進国において(雇用情勢は相当厳しいとはいえ)、それだけの生活を余儀なくされるというのは、やはり限られた運命を仕向けられている人たちといえるだろう。

 「137回の前世を持つ少女」(中野日出美著)という本に、ホームレスの人は「この世界には自分の力ではどうしよもならないことがある」ということを身をもって経験し、そして他者に無条件の慈しみの心を抱く機会を与えるために、そのような人生を生きているのだといった説明があって、なるほどなと思えた。

 彼らは、大都会の真ん中で、大勢の人々の視線に触れながら、そうしたメッセージを送り続けているわけだ。何とも崇高な人生…。


 何年か前に、スポーツ選手などが大勝負で活躍した後のインタビューで、「自分は持っている!」なんて言い方をよくしていた。
 そんな例とは全く逆の、「持っていない」人――つまり、あえて大胆な「駒落ち」の人生を選んだ人こそが、本当に意味深い挑戦の体験とかメッセージを、私たちに伝えてくれているのかも知れない。


 そして私たち自身もまた、テロリストまではいかないにしろ、何らかの欠落を人生で強いられている。
 そのハンディを超えて、「玉」を詰めることを目指し、今こうして生きているのかな、とも思う。


 ところがこの人生という盤面では、攻め入るべき「敵陣」が、実は自分自身の「内面」だったりする。
 そこに並んでいる相手の「駒」だと思っていたものは、本当は自分の「エゴ」であり、さらには最後に詰めるべき「玉」というのが、私自身の「魂」だったりと…。

 そんな壮大な自作自演のタイトル戦を、もう何百局も戦ってきたのだろうな――。



 最後に、ヒーリング音楽の紹介。
 今回はKamal 「Receiving the Energy」。

 「Into Silence」という瞑想技法のための音楽で、どんなものだろうと期待してCDを買って説明書きを見てみたら、OSHOの「ナダブラーマ瞑想」と全く同じ技法だった(要はパクリ?)

 ナダブラーマの方は、Deuter作曲による魂に呼びかけてくるような秀逸な曲だけど、このKamalの軽やかな曲調もなかなかいいかな。同じテーマでありながらも、モーツアルトのトルコ行進曲と、ベートーベンのトルコ行進曲みたいに、それぞれの持ち味がよく出ている、なんてと言うと、比喩がおおげさすぎるか…。


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 チベット仏教のマスターであるチョギャム・トゥルンパの講話集『タントラへの道』の内容を、僕個人の視点からざっくりかいつまんで説明してみる、という記事を連載してきました。

 今回はその最終回で、般若心経にある「色即是空」の「色」をテーマにまとめてみます。


 「色」とは「物質」とか「形あるもの」のことだとよく言われるけれど、トゥルンパは、その「色」のとてつもなく素晴らしい荘厳な意味について説いている。(ジル・ボルト・テイラーが語る「ララ・ランド」に近いのかも知れない…)
 そして、一般によくいわれる「この世界はすべて『空』である」という結論付けを超えて、私たちがここに生きている目的にまで掘り下げてズバッと言い表している。

 その見方を僕自身が「すごいな!」と感じて、すでにこの本が絶版でもあることから、うまくブログの記事で伝えられないものかと考え、これまでくどくどと回を重ねてきた、という次第です…。

 ということで、今回は「色」について――


 私たちは周りの物事を見るとき、「ありのまま」にではなくて、その上に絶えず「自分の価値観」という厚いベールを掛けながら認識している。
 トゥルンパは、人がものを見るときに起こるプロセスを、次のように説明している――

 最初の瞬間は、そこにあるものが自分の目に映るだけで、それに関する理論も概念化もない。ただ「開かれた基盤」の上に「対象」が知覚される。

 ところが次の瞬間、私たちはあわててその対象に何かを付け加えようとする。名前を見いだしたり、既知の分類パターンに当てはめて解釈してみたり、ほとんど義務的にあれこれと煩雑な考えを巡らせていく。

 それはわずか数分の1秒の間に起きることで、目にした対象は即座に、「頭で考えられた概念」へと置き換わってしまう。


 そのようにして私たちは、物事のありのままを正確に知覚することができなくなっている。自分自身が映し出した像を捉え、それに反応しているだけだ。
 さらに、本来の広大な視野を持つ意識から遠ざかり、「無知」の状態へと陥ってしまう。

 トゥルンパは語る。
 「無知とは愚かさではなく、ある意味で知的であるとも言える。ただ完全に『二元的な知』にほかならない」――。


 物事を見るときの、最初の瞬間の状態――つまり自分の概念を投影する以前の「在るものの根源的状態」――、それが「色」である。
 
 私たちがいるこの空間は、単に空っぽではなく、色鮮やかで生き生きとした壮大なエネルギーの表現で満ち満ちている。その全体が、ダイナミックに美しく躍動している。
 それが、あらゆるものの根源的状態である「色」の在りようだ。

 「満月の光も、大都市のゴミの山も、すべてはあるがままのものだ。あらゆるものが同じであり、『色』であり、ただ在るものだ。それらに付け加える評価は、後から私たちの心の中で作られたものでしかない。もし真にありのままに見るならば、それらはすべて『色』である」とトゥルンパは語る。


 ところが私たちは、壮麗で生き生きとした「色」を目にして、ただちに魅せられることはない。
 瞬時にして、その本質を完全に無視してしまう。そして「色」の部分部分に名前を付け、概念を加えて、ばらばらに区分された「固定したもの」として捉える。

 そうすると、空間全体を硬直化させてしまう。「色」は、檻に閉じ込められた色彩やエネルギーとなる。
 そのうえで私たちは、「固定したもの」の感触を実際に確かめてみる。そうすることで、自分というものの存在を保証しようとしているのだ。


 ただし、そうした概念化を避けようとして、「あらゆるものを『空』だと見なすこともまた、概念の衣を着せることになる」とトゥルンパは指摘する。そして、「『空』をあまりロマンチックに考えると、罠にはまってしまう」と――。

 般若心経では「色即是空、空即是色」――、つまり「色は空なり」と言った後で、「空もまた色なり」と言う…。
 「これは法外な言葉ではないか?」とトゥルンパは問いかける。最後に「空」とか「ただ在る」で終わってしまうのは、あまりに安易すぎるというのだ。


 そうして、次のように強調して説く。
 「私たちは、物事を本当にありのままに『感じ』なければならない。それに『空』というベールを掛けてしまうのではなく、物事がまさにそこに在る、その本質を『感じる』のだ! それこそが、正確な世界の見方である」
 「『空』として見ようとする望みを捨てて初めて、『色』の本当の姿が、先入観のベールの背後から現れてくる。それは、いかなる哲学的意味も含まない裸の形だ。そこで私たちは、非二元の経験を見いだす」


 禅では、悟りに至ると一切が無差別平等となり、「山は山でなく、水は水にあらず」という言い方がある。
 トゥルンパはこのことを、こう補足している。
 「私たちが初めて本当に正確に物事を見るとき、それは異常なほど精妙な『ありのまま』であるため、もはや『山は山でなく水は水にあらず』ということになる」

 そして、さらに修行が深まっていくと、山が山として、水が水として新鮮に蘇ってくると、禅では説明している。
 トゥルンパは、「その異常な精妙さは、やがて私たちにとって日常的な『ありのまま』となり、出発点に戻る。そうしてリラックスすることができる」という。


 異常なほど精妙な「色」を、ありありと体験するときのトゥルンパの描写が、この本の中でいちばん魅力的だ(あらゆるスピリチュアル本の中でも、屈指の内容だと思う)――。

 確かに、すべては「空」という結論に行き着くことが目的ならば、わざわざこの三次元世界を創造する意味があまりない。
 まさしくこの、概念を超えた「色」の生き生きしたリアリティーを体験するために、私たちはここにいる!――。そう確信させられるような、以下のトゥルンパの言葉で、この5回にわたる記事を終えたいと思います。

 花を見るとき、その色彩は、ただ花を認識することを遥かに超えた、壮大なメッセージを運んでくる。「色」に含まれる深い意味が、私たちを今にも飲み込みそうな力強い勢いで、伝わってくるのだ。

 例えば、石ころを手に取るときも、その硬さを感じるばかりではなく、それが含む精神的な意味に気付きはじめる。その中に、大地の堅固さと威厳の表現を、現実として「経験」するのだ。私たちは実際に「エベレストを手にしている」と言うこともできる。
 さらに物理的な意味だけでなく、平和やエネルギーの強固さ、つまり滅びることのない力についても語ってくる。石が真に石であることの本質、水が真に水であることの本質を、じかに知ることができるのだ。

 このような知覚には、ものごとを概念化しようとする気持ちが全く含まれていない。目の前を覆うベールが取り払われたように、あらゆるものが非常に精細に見えるのだ。
 目にするものすべては、精神的な表れの発見となる。これがマンダラの基本原理である。周りにあるすべてが意識の一部となり、その円全体が、生の生き生きとしたリアリティーの表現となる――。



 最後にまた音楽の紹介。
 今回は雰囲気を変え、祝祭的で躍動感あるバッハ「カンタータ第29番」、のシンセサイザー演奏。

 シンセサイザーで弾くバッハは、かっこいい雰囲気が以前からとても好きで、今回のは動画サイトで見つけた個人の方の演奏だけど、本当に見事にアレンジされていると思います。


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 絶版本の『タントラへの道』(チョギャム・トゥルンパ著)の内容を、僕個人の視点からざっくりかいつまんで説明してみる、という記事の4回目です。

 今回のテーマは、目覚めた視点と、その人生の展開について――。


 前回記事にある「厳しい道」を通じてエゴの仮面を剥ぎ取ると、自らの内部に存在する「目覚めた本性」があらわになる。
 それは、エゴが生まれる以前のまっさらな心の状態であり、ただ開かれた空間であり、そして根本的な開放と自由だという。

 しかし、他の色んな本などにも書かれてある通り、「空」を体験したからといって、世の中や自分の人生が溶け去ってしまうわけではない。
 「物事を知覚することや、地上に住むことをやめるわけではなく、今までと全く変わりなく生活するのだ」とトゥルンパも語る。


 ただ、今までと変わりない生活であながらも、自らのあり方や人生の展開は一転する。

 その大きな変化のひとつが、周りの世界を見る「視点」だ。
 意味性のない「空」を体験することで、私たちのものの見方は、善悪の価値観や、「あれ」と「これ」の区別を超越していく。そして、状況の「あるがまま」の性質を見るようになるという。

 それは、空中から全体を見渡するような視野で、世の中のあらゆる価値観の両極を、ただありのままに捉える。
 この目線からすると、人間同士が争い、愛し合い、あるいはちっぽけな人間として存在すること自体が、本当に些細な出来事に過ぎない。それを人々が大変な出来事のように振る舞い、喧騒を生み出している浅はかさが見えてくる。周りに起こっている「ゲーム」を見通すことができる。


 この、周りの世界を見る視点とともに、自分自身に対する認識や、行為のあり方も大きく変容する。

 通常の私たちの生活には精密さや鋭敏さがなく、ひとつの行為をするにも多くのエネルギーを浪費しまっている、とトゥルンパは指摘する。
 原因は、あるがままの自分を信頼しないためだ。

 そして自分の「限界」を勝手に作り上げ、狭く制限された環境の中に自分自身を押し込めてしまっている。
 さらに、マインドは常に錯乱状態にあり、ひとつのことをしている最中にも、他の何百もの物事にとらわれている。


 自己を開くこととは、「自分を守る必要などなく、自分は根源的な豊かさを内に持っている」という真実を知ることだという。
 その確信があれば、何の恐れも生じない。
 自分に対する不信感――自分が行うことがうまくいかないのではないか、状況に適応できないのではないか、拒まれるのではないか、失敗に終わるのではないか――、などといった疑いを一切手放し、純粋に「あるがままの生」として物事に対応すること。それが開かれた生き方だ。

 トゥルンパはこう語る。
 「もし自分自身に対して半信半疑ならば、世界はそれを反映して、不確かさが返ってくる。それがあなたを脅かす。しかし、開かれた空間を認識していると、世界はこれまでのように混乱しなくなる。あなたの投影は整然とし、ある意味で予想できるものになる」


 自己を開いた生き方は、一般的にイメージされる隠遁者などとは全く逆に、人々の間でエネルギッシュに活動するという。
 「開かれていることは、無責任で魂の抜け殻になることではない」「石やクラゲのようになるわけではない」と、トゥルンパは説明する。

 そこには依然としてエネルギーがある。
 何かをしなければとか、何かを得たいとか、愛とか憎しみとも全く関係ない、それらをすべて超えたエネルギーがある――。

 それが、「人とかかわり合うことを誘う」のだという。
 しかも、そのかかわり合いは、従来のようなエネルギーの消耗とは違う。自らの際限ない豊かさを知り、さらには相手がこちらにエネルギーを充填してくれる。だから、人々の困難な問題に取り組みながらも、自分のエネルギーが尽きるとは全く感じない。


 そして、自分が「何かを得よう」とは望んでいないゆえに、状況に本当にかなったやり方で、自由に行動できるのだという。状況と的確にコミュニケートして、周囲の物事との絶え間ない交流のダンスが起こってくる――。

 「直面している状況そのものの中に、知恵のような深みがある。それ以外の二次的なソースは必要ない。助けや指針もいらない。状況が自然に、あなたの行為を補強してくれるのだ」
 「自分の知恵を疑ったり心配することなしに、求められることをやればいい。あなたはそうするほかはない。ただ、状況の道具として働くのだ」と、トゥルンパは力説する。


 そして、人生のあり方そのものを、自然に起ここるがままにゆだねるよう、トゥルンパは説いている。

 「自分を特定の役割に押し込める必要はない。自分を管理する必要もない。コントロールを捨て、自分を『信じる』のだ。調整しようとすればするほど、物事の自然な展開を阻んでしまう」
 「ありのままに物事を見たら、解釈など加えなくていい。精神的体験や哲学的なアイデアを無理にあてはめながら、それを理解する必要はない。単純に、食べる時には食べ、眠る時には眠る。余すことなく徹底的に、ただすることをするだけだ。それができるのは、聖者にほかならない」

 さらには、「たとえ自分のしていることが危なっかしく感じられたり、何もかもが歪められたり破綻していきそうな兆しが見えたとしても、あなたがそれを心配する必要はない」、とまで言い切る。
 「状況は自然に展開する」――!

 
 終わりに、自らの行為とあり方に関するトゥルンパの言葉を2つ――。

 ◇慈悲を含まないあらゆる行為は、枯れ木を植えるようなものだ。慈悲に結びついたあらゆる行為は、生きた木を植えるのに似ている。

 ◇
ありのままのリアリティーに触れている限り、退屈な瞬間などあり得ない。常にエネルギーの火花が舞い上がり、無知の一方向的な道を超越していく。


 次の5回目は、いよいよ最終。
 この世界に生きることの、底知れぬほど素晴らしい意味をズバリ明察する、「空と色」をテーマにまとめてみます。



 結びに、定例のヒーリング音楽の紹介。
 今回は、Steven Halpern「Om Zone 2.0Ⅱ」。

 ヒーリングCDのベストセラー「Chakra Suite」などで有名な人だけど、そんな人が「オーム」のマントラを題材にして作ると、こんな厳かで広がりのある曲になるんですね。


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プロフィル

Koudai Mitsuna

Author:Koudai Mitsuna
 
光奈 広大(みつな・こうだい)

 20年のあまりのサラリーマン生活を経て、いわゆる「ザ・マネーゲーム」を何とか卒業。今では束縛されない自由な日々を存分に味わっています!

 そうした中で心がけているのは、普通の日常的な行いを通じて、意識の進化を目指す「カルマ・ヨガ」。

 日々の喜びや学び、インスピレーションから得たスピリチュアルな気付きなどをブログで紹介しています。

 妻子と都内在住――。





http://facebook.com/koudaimitsuna

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