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 今回は「数字遊び」のような話題です。

 地球の歴史に比べれば、人の生涯なんて針の先ほどもないわずかなものに過ぎない、なんてよく言われる(前々回の記事でも、そうした例えの話をした)

 でもここで、「人間の人生というのは、実はすごい大きさだぞ」ということを、ちょっと数字で示してみようと思う。


 また、私たちは1人ひとりが個別に存在しているように見えても、本当は「1つ(ワンネス)」だと言われる。
 この表現はよくサラッと語られるけど、その「1つ」の中に含まれる私たちの経験の総和というのは、もう想像を絶する途方もないスケールであるということを、うかがい知ることができるのでははないかなと思う。


 と、仰々しく前置きをしたものの、計算は超単純です――。
 世界保健機関(WHO)がまとめた、世界193カ国の平均寿命は「68歳」。
 で、現在の世界人口が「70億人」。

 これを掛け算して、「全世界にいる人たちの人生の長さの総合計」を求めてみると…
 68年×70億人= 約「4,800億年」 にもなる。

 多すぎてピンと来ないかもしれないけど…
 地球が誕生して現在までが45億年で、その何と100倍以上!の長さだ。
 宇宙がビッグバンによって生まれたのは130億年前だから、4,800億年なんていう時間は、この宇宙には存在しない。

 そんな、積み上げたら「あり得ない長さ」になる人生を、実際に私たち地球上の人類は、それぞれがいわば手分けするようにして送っているわけだ――。


 で、さっきの計算は、「いま生きている人」だけでの話である。

 面白い数字があって、米国の人口調査局(Population Reference Bureau)が「地球上にこれまで存在した人類の延べ人数」というのを推計している。
 その数はおよそ「1,080億人」!!

 世界にいま生きている70億人というのは、過去から存在した人類のうちのたった6%程度に過ぎない。それ以外の94%は、すでにこの世を去った人たちの人生なわけだ。

 ただし、昔の寿命は現代よりもかなり短くて、農耕が始まる以前の時代の平均寿命はわずか15歳!で、4000年前が18歳、2000年前が22歳、1500年前が35歳――、と推移してきている。

 ざっくり全体の平均寿命を20歳としてみて、「地球上に存在したすべての人々の人生の総合計」を計算すると…
 20年×1,080億人= 「2兆1,600億年」!!!


 これを読んでいる誰の半生にも、さまざまな経験がいっぱいに詰まっているはずだ。それは自分自身でも、うまく整理しきれないほどだろう。

 ところが、この地球上では、これまで1,000億人以上の人生がすべて「一人称」の立場から経験されて、その総合計は何と2兆年以上と、宇宙そのものの歴史を遥かに凌駕するほどに長い――。

 しかも、その全体が「1つ」なのだと言う。
 この「すべての人々の人生の総和」がいかほどのものなのか? ジョン・レノンじゃないけど「想像してごらん」って、言われても…、全く想像できない。
 人間の生身の頭脳では、手に負えない。自分の人生1回分を受け入れるだけでも、「やっとこさ」なのに。

 本当に、その全体というのはもはや、「大きな1つの営み」と捉えるしかないでしょうね――。


 でも、1,000億人の人生といっても、その中にある要素は、「喜び」「怒り」「さみしさ」等々、今の自分が人生で感じているものと違わないだろう。
 その同じものが、途方もない累積量で、経験されてきたわけだ…。

 こうした経験は、他者との「関係性」があってこそ可能なものである。
 本来「1つ」であるのものをバラバラにしたから、膨大な経験を引き起こしていくことができた。

 その経験を通じて生じられたエネルギーは、ものすごいはず。それを使ってどうするのか?――
 これこそが、言うならば「地球流」のやり方。全宇宙の中でも稀有なチャレンジなのだろう。



 結びのヒーリング音楽は、Kevin Kendle「The Emperor」。
 こうした勇壮な曲調も、素敵な感じに心に響きます。


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 最近、レナード・ジェイコブソンの本を2冊読みました。
 いわゆる「覚醒体験」した人で、その経験をもとに世界各地で目覚めへのサポートを行っている。

 で、変な話なのだけど、最初にこの著者のプロフィル欄をサッと見たとき、どういうわけか瞬間的に、ちょっと飽き飽きしたような気持ちが浮かんできた――。

 「数回に渡る神秘的な目覚めの体験があり、その覚醒の体験が人生、真実、そして、現実に対する彼の認識を大きく変え、深遠で普遍的な意識の神秘が彼に開かれた」…等々と、そのプロフィルには記されている。


 実際にいま読んでみて、僕と同じような感覚を何となく感じてしまう人って、いるんじゃないかな?

 そういう人も、たぶん去年とか、それ以前なら感じ方は全く違ったはずだ。このような紹介文を目にすると、「新しい教えに巡り会えた」とか、「この人と同じような体験がしたい」「自らの進化のチャンス」と感じて、けっこう気持ちも高ぶったと思う。


 スピリチュアル分野の本を飽きるほど読んだわけではないし、そしてもちろん、ジェイコブソンの本には大切なメッセージがたくさん盛り込まれている。
 だけど…、少しうんざりしたようにも感じてしまうのは、どういうことなのだろう?

 僕が思うに、これも時代変化の現れなのかな、と考えている。

 特別な覚醒者が「教える人」となり、そのもとに「教わる人々」が集まり、それが目覚めへと進むための道とされた時代――、そんなあり方が既に終わったのだろう。これは、よく言われている通りだ。

 そして私たちの意識が、知らず知らずのうちにその変化に感知し、こうした紹介文とかを目にしても、「もう以前ほどは必要ない」というふうに自然に反応しているのではないかな、と思う――。


 個人的な好みの問題かもしれないけど、振り返って考えてみれば僕は以前から、覚醒者よりも「覚醒していない人」のメッセージのほうが、より強く引き付けられる感じがしていた(もちろん両者を意識して区分しているわけではないけれど)。

 このブログ内でも、代表的な覚者であるラマナ・マハリシやニサルガダッタ・マハラジ、OSHOなどの言葉を引用したことは、たぶん一度もない(すごくマイナーな、チョギャム・トゥルンパの絶版本については何度か書いたが)。

 一方で特に多く紹介しているのは、精神科医のエリザベス・キューブラー・ロスや、作家のパウロ・コエーリョなどの言葉だ。
 キューブラー・ロス自身はいくつもの神秘体験をしているものの、覚醒という観点から人生を語ってはいない。終末期医療の現場経験と考察から、魂について説いている。コエーリョも、世界中を旅した経験を原点に、創作という立場からそれを伝えている。

 
 これから先、覚醒意識を体験する人は多くなっていくといわれる。
 でも、それ以上に、覚醒していない人からのスピリチュアルなメッセージや、特定の覚者に拠らないつながりの輪が、飛躍的に増えていくに違いないと思う。

 そしてたぶん、そうしたメッセージやつながりが、人々の意識をリードしていくようになる――。
 

 「青は藍より出でて藍より青し」ということわざがあるように、藍染めに使う液というのは、ぜんぜん青くない。よどんだ泥水みたいな色をしている。
 なのに、その中に繊維を浸して引き上げると、空気と反応して鮮やかな青を発色する。その変化は魔法みたいだ。


 ちょっとこじつけた比喩だけど、目覚めた魂を「青」だとすると、青によって青を染めることは本来できない…のかも知れない。
 神聖な覚者に帰依したり、世の中から隔絶した修行によってそれを目指すのは、実際のところ極めて難しいのではないか。また神秘体験そのものだけでは、人をどこにも連れて行かないのではないだろうか。

 それよりも、藍によって鮮やかな青に染まるように、この三次元世界の経験によって魂が目覚めていく、いわば「幻想を通じて幻想を超えていく」――。
 このようなあり方が、これからどんどん顕著になっていくのではいかな。

 そんな思いで周りをこの眺めてみると、この世界は「藍」に満ちている。

 僕がいま感じるのは、こんなメッセージだ――。

 私たちの魂は、覚醒体験がなくても進化できるようプログラムされている。



 結びのヒーリング音楽は、沖縄のミュージシャンの「Tingara(てぃんがーら)」。
 10年ほど前にCDを買ったとき、個人的に「これはエンヤよりも素晴らしいのでは!」と感激した(沖縄音楽の音階と三線の音色って、どうしてあんなに心に響くのでしょう…)。

 この人の曲は動画サイトにあまり出ていないのだけど、本人が星空を撮影して自らの曲を付けたという映像があった。
 絵に描いたみたいな天の川が、漆黒の空を時と共に流れ、そして幕が開くように地上の夜が明ける――。とても短いものの、息を飲むほど深遠な実写映像です。
 ちなみに、沖縄の言葉で「てぃんがーら(天河原)」は「天の川」の意味。
 

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 地球が誕生してから現在までを「1年」で表すと、人類が出現したのは「12月31日23時40分」である――、という例えを、ときどき聞きますよね。

 それと同じことだけど、「地球の歴史」を「地球の大きさ」に置き換えて計算してみたら、けっこう面白い見え方がすることに気づいたので、ちょっと紹介しますね――。


 地球の歴史は45億年。その長さを、「地球をぐるっと1周する旅」に当てはめてみよう。
 タレントの間寛平が、ヨットとランニングで地球を1周する「アース・マラソン」を完走したけど、ちょうどそんな感じ。普通ではやり遂げられない、果てしなく長い距離だ…。
 それだけの壮大な旅を、地球の歴史のあゆみだとすると――

 地上に最初の人類(猿人)が出現したのは、700万年前といわれる。
 これは地球1周のうちどれくらいの距離に相当するかというと、神奈川の平塚から東京までの距離にあたる。
 地球というスケールからすれば、ものすごく短いものだ…。

 つまり例えば、東京・日本橋をスタートして東回りに、遥か太平洋を越えて北米大陸を横断し、さらに大西洋を渡り、ヨーロッパ・中東・アジアを経て、再び日本列島の西側に上陸して東京のゴールへと向かう、というアース・マラソンを走っているとすれば――
 もう延々と走ってきて、世界をほぼひと回りして平塚まで来たとき、やっと人類が現れるというわけだ。


 そこから、日本橋に向かってひた走るあいだ、人類は進化を遂げていく。
 原始人が「石器」を使いはじめたのが横浜あたりで、「火」を使うようになったのは多摩川を越えて都内に入ったくらい。

 人類の歴史というのは、大きな地球の中の、いわば「通勤圏内」の話なのだ――。


 ここから先は、本当に驚くほど距離が短くなる。
 
 現生人類「ホモ・サピエンス」が誕生したのは2万年前で、距離で表すと2km弱。これは新橋から日本橋までの距離に過ぎない。

 「農耕」が始まったのが90メートル。これは日本橋交差点の商業ビル・KOREDOあたりで、川にかかる日本橋がもう間近に見える場所だ。

 さらに「イエスの生誕」から現在までは、たった18メートルの距離しかない。日本橋の中央通りをはさんだ向こう側の歩道にいる感じだから、こちらから大声で「おーい!」と手を振ったら、気づいてもらえるくらい。

 世の中が近代化した「産業革命」は、1メートル80センチ。互いにちょっと前に出て手を伸ばせば、握手ができるほどの間隔だ――。


 それでは、私たち「人間の一生」の長さはどれくらいになるのかというと――、日本人の平均寿命だと70センチほどに相当する。生後3カ月の赤ちゃんの身長がそのくらいだろう。


 けっこうぴたりと当てはまって、ちょっと感慨深く思えませんか?
 地球の歴史が「地球の大きさ」で、人の一生は「赤ちゃんの大きさ」になる――。

 それくらい地球は途方もなく壮大なものだし、一方で人間の一生も、それなりの存在感や意味のある、とてもいとおしいものなのだな、という実感が心にわいてくる。

 赤ちゃんが小さな体で笑ったり泣いたり、手足を一生懸命にパタパタ動かすみたいに、人は1つの人生を送る。
 胸元に抱く赤ちゃんの笑顔は、本当に見ているだけでうれしくなるし、それは、地球の大きさにもひけをとらないくらい尊い。
 ――そんな感覚で捉えるのが、時間というスケールを超越した、私たちの在り方のイメージなのかも知れませんね!


 追伸:
 前回のブログ記事で、反抗期にある息子のことを書きましたが、家庭内の生々しいテーマだけに、読んで下さってた方々にご心配をかけしてしまったみたいです…。(自分とってリアルタイムな課題だけに、確かにあらためて読んでみると、文章の調子があまり穏やかでない…)
 お気遣いをいただいて、非公開コメントなどもいくつか頂戴しました。本当に有難うございます。


 でも、それほど深刻な事態にはなっているわけではないですから。
 そして、これも自分の世界の中に「ただ起こっていること」であり、また自分にとって「必要な経験だから起こっていること」として、じっくりと取り組んでます。

 本当に、こうして家庭での日々を普通に送っているだけで、滝に打たれたり断食修行をするまでもなく、「今に在る」ための一番いいレッスンが与えられるものですね!


 ちなみに昨日、息子に「3月に家族で旅行しよう」と言ったら、最初は「別に行きたくない」と拒絶していたのが、しばらくしたら「じゃあ、行ってやる…」と、某芥川賞作家の受賞会見みたいな言い方でしぶしぶ受け入れた。 
 そうしてから急に、中学の勉強のまとめの復習を始めたり、「自分はもう高校生だから」と今までにない前向きな発言をしたり、今朝も「行ってきまーす!」と珍しく手を振りながら学校に行った。

 やはり、ブログに「書く」という行為が、何らかの浄化をもたらしたのだろうか(単に本人の気持ちの起伏もあるだろうけど…)

 でも本当に改めて確信するのは、親にとっての子供の問題って、自分の外側にあるのではなく、「自分自身の内側にあるもの」なんだな、ということですね――。



 結びのヒーリング音楽の紹介は、Llewellyn「Place of Enchantment」。
 この人の、穏やかで幻想的な音世界は本当に魅力的です。


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 僕の息子は一人っ子で、いま中学3年生です。

 生まれたときの体重は1000gの極小未熟児で、今も体格は学年で一番小さい。スポーツは苦手で口数も少ないため、格好の「いじめの標的」になってしまう…。

 成績は「下位グループの上」というレベル。部活動もしておらず、ふだんよく話したり一緒に遊んだりする友人はいないという。
 本当に、「ただ仕方なく中学校に3年間通っていた」という感じだ…。


 そして最近、高校進学を控えたストレスもあって、自己攻撃的な不平不満ばかりを口にしている。

 「自分は毎日、なぐられるために学校に行ってるようなものだ。いじめられる人間は、社会にいない方がいい迷惑な人間なんだ」
 「頭が賢い人は成績が良くて、人生で得をしている。自分は勉強の才能なんかないバカだから、ずっと不幸に生きていくしかない」――とか。

 それに対して僕は、「私立の高校に進んだら、公立中学とは雰囲気もかなり違うよ」、「ほとんど勉強しなかったのにこの成績なんだから、十分いいじゃない。しかも無欠席だから立派なものだよ」「これから勉強が面白くなるかもしれないし、可能性はけっこうある」とか励ますのだけど…、息子の方は意に介そうとはしない。

 「これまで生きていて、いいことなんかなかった。この家に生まれて、こんな面白くない学校に行って、これから先が良くなるわけがない。もう手遅れで、どうせダメに決まっている。将来やりたいことなんか何もない。前向きとか積極的とか、そういう考え方は嫌いだし無理。自分のことは、親よりも自分自身のほうがよ分かっているから、黙ってあっち行って!」と、ネガティブなせりふを次から次に言い連ねて反発する…。


 こちらも聞いていて心底つらくなってしまうのだけど、でも、今のような性格なってしまっているのも仕方ないことだな、と考えている。

 息子が生まれるとき、妻は鬱を患っていた。いわばそのときから、胎内でネガティブなエネルギーをふんだんに浴びてきた…。
 妊娠32週目だったと思う。妻のおなかを触ったら、いつもあった胎児の動きがないことに気が付いた。心配に思って妻を産婦人科に行かせたら、妊娠中毒症と診断され、すぐに帝王切開となった。幸い、健康面の大きな問題はなかった。
 

 子供が生まれた後は、鬱の妻が精神科に通いながら育児をするという状態。情操面でまともな環境とはいえない。さらに妻は、育児ノイローゼや幼稚園のママ付き合いの摩擦で、心の状態は悪化するばかり。サラリーマンだった僕は、家にはほぼ寝に帰るだけという毎日…。
 でも、小さいころの子供は、とても明るく元気だった。休日には一緒におもちゃを手作りしたり、色んなところに家族で遊びに出かけた。小学生のときはかなりの距離をウォーキングして、40kmほどある山手線一周を踏破したこともある(これには達成感があって面白かったようだ)。

 今も息子が何とか学校に行きながら毎日を過ごしていられるのは、「面白いこともちょっとはあった」という経験的感覚が、最後の支えのように心に残っているからかも知れない、と思っている。


 で最近、息子の後ろ向きな姿勢を見て、僕も始めのうちは「子のためを思って言う」一般的なことを口にしていた。「勉強すれば人生の選択肢も広がる」とか。
 でも、そんな固定観念的なことを伝えたところで、子供自身の実体験に基づいた意識を変えられる力はない。


 そもそも親が子供にあれこれと言いたくなるのは、結局は「自分が正しい考えを述べていることを、全面的に納得してほしい」という理由からではないだろうか。子供がそこで「分かりました」と納得することで、多くの親たちの気持ちはとりあえず心地よく収まる。

 つまりは、自分が拠り所としている価値観を、子供にも同じように受け入れて、それに従ってもらいたい――、言い換えれば「自分を認めてほしい」。
 ただ、これって、親の考えのほうが子供じみてはいないだろうか…。


 そして最も重大なのは、「問題を抱えている子供」が目の前にいて、それに対して「責任を持つ親」としての自分が存在している――、という捉え方でこの世界を見てしまうということ。
 それが前回記事で書いた、問題や敵を設けることで「個としての自分」を作り上げている状況だ。

 でも、それは当然の現実的なものの見方では? と思われるかもしれないけど、真実は違っている。


 もはや言葉で説明できる範囲を超えてしまうけど、まず「私」という場が周りに広がっている。
 そして目の前にいる「自分の子供」というのは、その場の中に現れ出た現象だ。ちょうど、広い空に浮かんだ雲のような関係といえる。

 その子が、親の価値観から見てどれほど「問題がある」ように思えても、それはただ、そのようにあるもの。世界のすべては、ただその通りに現れるしかない――。
 そして、その現象が現れているのは、私がそれを感じて経験するため。だから、「何とかしなくてはならない」と心配して、親としてとやかく言うことを選ぶならば、その通りに感じて経験することができる。

 でも、子供が好きにしゃべって振る舞えるよう、信頼して放っておけば、それはおのずと行くべきところへと進んでいくようになる。雲が自然と形を変えていくように。


 本当にやるべきことは、「個としての自分」の立場から「問題を抱えている子供」に対し、作為的に働きかけるということとは違う。
 ちょっと飛躍した言い方だけど、ギリシャのアポロン神殿の入口に書かれている通り、「汝自身を知れ」ということ。「本当の私」の立場から、見て感じながら、自由に展開していくのを許すことだと思う。
 
 レナード・ジェイコブソン『この瞬間を抱きしめる』の中に、こんな言葉があった――。

 子供が必要としているのは、「今に在る」ことのできる親だ。


 で、その後も息子は、「自分には何の特技も、やりたいこともないから、面接では絶対にひと言も話せない。作文も1行も書けない。どこの高校にも行けない」と、不満・不安をぶちまけるように言っていた。

 でもやがて、ネットとかで色々と調べながら、自分なりに面接の想定問答みたいなものを作って練習していた。

 そして、志望していた都内の中堅私立高に、いわゆる「単願推薦」で無事に合格できた(きょう合格通知が届いた)。
 何しろこれまでの状況がこうなんだから、「まあ、上出来でしょう」と思っている…。



 結びのヒーリング音楽の紹介は、Deuter「Shamanic Healing」。
 なつかしい記憶のような、ほがらかな印象のメロディーです。

 
 
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 遅ればせながらかもしれないけど、児童文学賞をいくつも受賞したロングセラーの物語『西の魔女が死んだ』(梨木香歩著)を読みました。

 不登校になった中学生の少女・まいが、豊かな自然の中で暮らす祖母のもとでひと夏を過ごし、自分らしい生き方を少しずつ見いだしていく、というお話。


 特に印象深かったのが、まいが語る、中学校での友達づきあいの構図だ――。

 進級して新しいクラスになると、最初にバタバタといくつかのグループができる。そこで気の合いそうなグループに入るには、心理的な駆け引きや、無理に行動や話題を合わせるなどの媚びへつらいをしなくてはならない。
 まいはそれが嫌になり、一人ぼっちになってしまった。

 いったんグループに加わると、仲間内での忠誠心が試され、他のグループの子とは仲良くできない…。
 それについて祖母が「グループ同士が対立せずに、友好的になることは可能なのか」と尋ねると、まいは答える。

 「うん、簡単だよ。みんなで、誰かひとりを敵に決めればいいんだもの」――


 それを聞いて祖母は、深いため息をつく。まいが学校から離れてしまった気持ちのすべてを理解し、そしてこんな一言を語る。

 「自分が楽に生きられる場所を求めたからといって、後ろめたく思う必要はありませんよ」


 少女が語る学校での人間関係の話は、読んでるだけで、何だかリアルに息苦しい思いがしてくる…。
 昔の村社会のような、日本のコミュニティーによくある狭隘な風潮だし、1人を敵にすることで仲間がつながるというのは、低質で子供じみた関係作りといえる。


 で、ここから、かなり話が転じてしまうのだけど――
 そんなしきたりが子供じみているとは言え、「共通の敵を作ることで人を結束させる」という方法は、国の政策では歴史的な常套手段でもある。

 ヒトラーが掲げた「ユダヤ人排除」は、経済破綻によってドイツ国内に鬱積していた不満エネルギーのはけ口となり、人々の意識を結束へと向かわせた。

 また、色々と意見はあるだろうけど、「反日イコール愛国精神」という結び付け方も、図式としては同じといえる。
 一方の日本にも似たようなプロパガンダがまかり通っていたし、もちろん他のほとんどの国にも、そのような経緯なり実情はある。


 ふたたび身近な学校の例えだけど、スポーツ競技などで、クラス内のA班・B班などの対抗戦のとき、違う班の連中は競争相手となる。

 でもクラス同士の対抗戦になると、他クラスという敵対関係ができることによって、それまで戦っていた班同士が味方として結び付く。
 さらに学校対学校の試合だと、クラスや学年といった分け隔てはもはや意識されなくなり、同じ学校ということが自分たちのアイデンティティーとなる。

 地区対抗の代表戦になると、区とか市といった行政単位が、応援する相手かどうかの定義になってしまう。
 県対抗とか、さらには海外代表との交流戦の場合は――と、敵の置き方に合わせて、味方の枠組みもまた大きく変わる。「代表チームにいる○○君って、隣町の学校の生徒なんだよ!」って、本来は差異になるような条件すらも、互いを結び付ける共通項になってしまう…。


 つまりは、誰が敵とか味方だとか、誰と同質とか異質だとか、人を分け隔てる「枠組み」なんていうのは、実体の無いあやふやなものに過ぎない。
 そして、そんなあやふやな関係の中で、結束した関係を成り立たせるための即効手段が、「敵」を設定するというやり方だ。

 敵の存在があることによって初めて、一定範囲にいる人だけを結び付ける「枠組み」が浮かび上がる。しかもそれは、疑う余地のない「確たる一体関係」になってしまうのだ。

 敵というものには、人間の価値観を一転させる魔法のような力がある。そのことを、中学生は無意識にも知っているし、独裁者は有効な政策として活用する――。


 …といった話をしたのは、別に不登校の問題や隣国関係などについて論じたいからではない。

 「敵」を設けることによる力を、最も熟知してたくみに駆使しているのが、実は自分自身の内面にある「エゴ」ではないか――。


 私たちの過去の経験や知識、価値観といった、「個としての自分」を作り上げるための色んな要素は、本当は何の根拠も実体すら無いあやふやなものだ。
 そのまま放っておいたら、「個としての自分」はおのずとバラバラになって雲散霧消してしてしまう。

 ところが、何とかしなければならない敵や問題を外側に設けることによって、それに伴う恐れや不満が「結束のエネルギー」になり、バラバラになるはずのものが「疑いなく実在している自分」として構築されてしてしまう。

 これが、エゴのマジックかも知れない――。
 
 …と、またもけっこう長くなりそうなので、この話の続きをまた次回にしたいと思います。

 

 最後の音楽紹介は、いつものヒーリングミュージックとは丸っきり違って、今回はほとんどジョークです。

 戦争つながりで、合成歌声キャラクターの初音ミクたちがかわいらしい声で歌う、陸軍行進曲「抜刀隊」。
 でも聴いてみると、単なる不謹慎さを超えて、何とも言い表しにくい感慨が浮かんでくる…。

 親しげな歌声によって時代的な距離感が取り払われるためなのか、あるいは斜に構えて聴くぶん心が無防備になるためか、字幕に出てくる歌詞が壮烈で痛々しく胸に飛び込んで来る。
 「死すべきときは今なるぞ、人に後れて恥かくな」――

 この国が戦争を手放すまでの犠牲は、自分たちの霊的な記憶のどこかに刻まれているのでしょうね。

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 いくつか前の記事で、「すべての人は、他者のための道具である」といった話をしました。今回はその逆で、「他者から受け取る」ことの大切さについて。

 「逆」といっても、話がまるっきり矛盾するわけではなくて、「受け取る人がいるから、役立つことができる」「与える人がいるから、受け取ることができる」といった、同じことをもう一方の面からとらえる感じかな…。


 で、このブログではこれまでによく、エリザベス・キューブラー・ロスの言葉を引用してきた。終末期医療の草分けとなった医師で、何千人もの最期を看取り、人間の生に関する究極の真実を鋭く見通した人である。
 
 最晩年に書かれた『ライフ・レッスン』では、愛や恐れ、喪失、罪悪感、許しなど、人生で学ぶべき数々のレッスンについて考究し、命そのものの目的や秘密に迫っている。

 その本の最後の方で、キューブラー・ロス自身がいまだきちんと学べていないレッスンとして、「受け取る」ということを挙げている。
 本人は、必要と分かっていながらもずっと学ぼうとしないまま人生を送り、結局は最後に、過酷な体験としてそのレッスンを受けることになった、というものだ…。


 この「受け取る」ことは、謙譲を旨として人様の世話になることに常に遠慮がちな日本人にとって、まるで「罠のようなレッスン」ともいえる。
 そして、延命医療が整った状況において、自分の身内がそれを学んでいる場面に立ち会ったり、あるいは自らが経験するケースも少なくないだろう。

 だから、「受け取る」というレッスンの意味を、今から知っておくことは大切ではないかなと思う――。


 エリザベス・キューブラー・ロスが、高齢で元気な母親に会ったときのこと、母親が唐突に「もし自分が植物状態になったら、医師であるあなたの手で息の根を止めてほしい」と頼んできたそうだ。
 でも、「他の患者にするのと同じように、死が自然に訪れるまで助ける」と、きっぱり断った。

 どうして母親がそんなことを言ったのか――

 彼女の母親は、惜しみなく人に与え、誰に対しても親切で、一生を身を削りながら働いた人だったという。それだけに、人から何かしてもらうこと自体が、耐えられなかったのだ。
 そして、いつの日か自分が植物状態になってしまうことをひどく怖がっていた。もしそうなったら、完全に人の世話になるしかない。世話になるなんて、彼女の人生で起こりうる最悪のことだ――。


 ところがその3日後、何と母親は脳卒中で倒れてしまった。

 「身動きもできず、言葉もしゃべれない母は、私をじっと見つめ、万感の思いを目で語っていた。絶望と苦痛と恐怖を宿したその目が、あることを訴えていた。それが何かすぐに分かった。しかし、母の要求に応えるわけにはいかなかった」と、キューブラー・ロスは述懐している。
 口がきけなくても、母親の激しい憤慨が伝わってきたという。でもその体は全くの無力なため、体を洗ってもらい、食べさせてもらい、ありとあらゆる世話をしてもらう以外に、どうしようもなかった。

 当初は「数日しか持たないだろうから、それまでの辛抱だ」と思われた。ところが母親は、その状態のまま4年間も生き続けた――。

 キューブラー・ロスは、神を八つ裂きにしたいくらい恨んだという。母親がそんな体で生き続けた4年間だけでなく、亡くなった後も収まりがつかなかず、あらゆる言葉で神をののしり続けた。
 でも、神は全く動じなかった。何も答えてくれず、ただ沈黙があるだけだった。


 一体なぜ、愛と慈悲と理解にあふれた神が、母をあんなに苦しめたのか――。キューブラー・ロスはずっと懲りずに、神の気持ちについて考えた。

 それは突然、分かったという。

 「私は文字通り、その場で飛び上がりそうになり、口に出して言った。有難うございます! 有難うございます!」
 「すべては神の御業であることが見えてきた。神は母に、80年近くひたすら与え、愛し続けることを許した。でも母はそのために最後の4年間、『受け取る』ことを学ばなくてはならなかった。母は成長を続け、学ぶべきレッスンを学んでいたのだ」――。

 そして、「もし母を安楽死させていたら、きっとこの世に戻ってきて、最初からやり直しながら『受け取る』ことを学ばなくてはならなかっただろう」と語る。「もしかしたら、重度の障害を持って生まれ変わらなくてはならなかったかも知れない」と。


 ――どうでしょう?
 身内や知人などで、介護を受ける立場になった人って、もともとは献身的で、ずっと他者に与えながら働き続けるタイプの人だったというケースは、実際にとても多いのではないだろうか。
 その人は、これまでの人生で与えてきた分を、今は世話をしてもらうことによって「受け取る」ことを学んでいる、というのだ。

 そのようにしてバランスを整えながら、魂は進化していく…。


 キューブラー・ロスは、そこまで魂の意図を見通した。

 ところが彼女自身は、後の人生も、突っ走るように働き続けることをやめなかった。毎日17時間・週7日という仕事ぶりだったという…。
 それは仕方なかったのかもしれない。そのとき世界中が(そして後の世界の私たちも)、エリザベス・キューブラー・ロスという余人に代えられない人物の仕事を、真に必要としていたのだから。


 そしてとうとう、彼女もまた脳卒中で倒れた。

 「神は痛烈だった。倒れてもまだ、私の頭脳は明晰だった。若い頃からずっと与えることばかりで、『受け取る』ことを学んでこなかった。愛を受け、世話を受け、介護するよりされることを学ぶ。それが私のレッスンだ」と――、まさに母親の姿に見たのと同じことを、自分自身にも見いだす結果になった。

 また、受け取ることができなかった原因について、このようにも述べている。
 「ハートの周りに大きな硬い壁があることに、私は気づいた。それは傷つけられることを防ぐためのものだったが、それが愛を受け取ることをも防いでしまっていたのだ」と。


 この最後のレッスンを経て、エリザベス・キューブラー・ロスが死を迎えたのは、脳卒中による麻痺状態になってから実に9年も後のことだ…。


 多くの人にとって、「受け取る」ことは、なかなか難しい。

 何しろ子供の頃から、「人様の迷惑になってはならない」とか「一人だけ得をしたらしっぺ返しが来る」とか教えられてきたのだから…。
 そして、受け取ること自体に「やましさ」や「恐れ」を感じるという反応が身に付いてしまっている。さらにはそれが進んで、「都合の良いことは望まない」とか「自分自身を愛せない」といった心の性癖にまでなっている。


 でも、与えられたものを率直に喜んで受け取れる人を見ると、とっても気持ちがいいですよね!
 その1つの場面として思い出すのは、(たいした例ではないけれど…)スタジオジブリのアニメ作品「魔女の宅急便」だ。

 主人公のキキが、魔女の修行のため「空飛ぶ宅急便」の仕事を始める。初のお客さんから荷物を預かったとき、「お礼はいかほど?」と尋ねられるのだが、はたと気づいて「まだ決めてないんです…」と答える。
 するとそのお客さんは「これで どうかしら?」と、お札を手渡す。
 主人公のキキは驚いて、「こんなにたくさん!? 有難うございます!!」と、弾むような声で応える――。


 受け取る時って、こんなふうにありたいですよね!
 どうすればそれができるとか、小難しいことなんか言わずに、単純に何も考えないで喜べばいい。

 そうした「受け取る」ことを日常的にしなかった結果、人生の最後にバランスを取るために、重度の要介護状態になって何年間も面倒を見てもらうことになるのだとすれば――、もういちいち検討するまでもない。
 ハートの周りの壁がどうのとか、言ってる場合じゃない…。

 本当にきょうから、何か受け取れるものがあれば、万難を排してでも喜んで受け取ったほうがいい。
 「こんなにたくさん!? 有難うございます!!」って。


 最後に、ヒーリング音楽の紹介で、今回はJuliana「Where Angels Touch」。
 何だか心の奥がウキウキしてくるような、明るく柔らかなメロディーがとても素敵です。


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 僕は、スピリチュアル分野への関心を持つようになってからも、セミナーなどに参加した経験というのは、どちらかと言えば少ないほうです。

 一方で、本に載っていたワークなどは、けっこう継続して取り組むことが多い。同じ時期に色んなものを並行して行うから、どれが効果的だったのかは定かでないけれど、でもいちばん自分に合っていたなと振り返ってみて思うのが、「モーニング・ページ」というワークだ。

 たまたまのタイミングだったかも知れないけど、2年ほど前にこのワークをやって以降、自分の気持ちや周りの物事が、まるで急ハンドルを切るように転換し始めた…。


 このモーニング・ページというのは、ジュリア・キャメロン『ずっとやりたかったことを、やりなさい』という本に出ているもので、朝起きてすぐに、心に浮かんだことを何でもそのままノートに書き付けていく。
 それを毎朝3ページ、12週間続けるというものだ。

 心に浮かんだことを何でもといっても、もとから「朝起きたときはいつも晴れ渡った青空みたいにすがすがしい気分」という人は、こんなワークをするはずがない。
 たいていは、胸に渦巻く窮屈で鬱々とした思いや感情を、ノートにぶつけるように書きなぐっていくことになる。字は読めないほど乱れるし、文章としての体もなさない…。

 有名なOSHOのワークの一つに、ため込んでいた感情をデタラメな言葉でわめいて発散する「ジベリッシュ」という浄化法があるけど、その「記述版」ともいえる。
 個人的な印象で言うと、口で発するジベリッシュは「エネルギーをストレートに放出している」という感じだけど、文字で書くモーニング・ページのほうは、「わだかまりの構造を少しずつ解きほぐしている」といった感覚がする。
 

 僕の場合、このモーニング・ページを書いていた12週間、どういうわけだか仕事でいやなトラブルなどがよく起こるようになった…。
 まるで自分の内的な取り組みに呼応するように、外側の世界が「ほら、これも浄化しなさい」といってネタを差し出してくるみたいだった。
 そして、その出来事によって触発された重苦しい気持ちを、毎朝ノートに吐き出すように書きつらねていった。

 さらには同時に、周囲とのあつれきに対する、自分の抵抗力とか無神経さもどんどん剥ぎ取られ、感受性が過敏になったようで、正直言ってメンタル面ではなかなかつらかった。


 でも、もしあのモーニング・ページがなかったとしたら、自分はおそらく今とは違う状況の中を生きているのではないか、とさえ思える――。


 で、色んなブログを見ていると、僕のモーニング・ページのノートみたいに、内に鬱積した怒りや嘆きなどを、あて所もなく発散しながら書き綴ったブログをときどき見かける。

 もちろん他人の誹謗中傷は良くないけど、自らの気持ちをさらけ出すように書かれたタイプのブログには、実は大きな役割があると感じている。
 つまり、その人の書くという行為によって、心の状態や周りの世界のあり方までもが、少しずつ浄化されているのではないかと――。


 自分にとって理不尽でしかない怒りや、人生全体に尾を引くような悲痛な経験――そうしたことが起こるのは、その人が被害者として遭遇した悲運のせいだとか、身から出たサビのようなものでは決してない。

 過去の人類が経験し、未解決のまま残された膨大な感情エネルギーが、この地上世界に漂っている。
 それは属人的なものではなく、空気のようにすべての人々で共有されていて、ある意味では「連帯責任」的なものだとも言える。誰かがそれを浄化しない限り、自然に消え去るようなことはない。
 そして、その感情エネルギーはあるとき、生きている人の人生の中に入り込む。ちょうど亡霊が憑依したり、ウイルスが感染するように…。

 それが、さまざまな出来事を引き起こしながら、その人の内面や人生の状況を大きく揺さぶることになる。
 そうしたエネルギーは、人を苦しめようとして取り付くわけではない。「浄化してもらう」ことが目的なのだ。その浄化は、受け取った人の役割となる。

 「キリストは人々の罪をあがなうために十字架にかかった」と言われるが、大なり小なりそれと同じ性質のことを、すべての人は人生の中で課せられている。究極的には、人生はそのためにある、と言ってもいい。


 ただしほとんどの場合、人に取り付いた感情エネルギーは浄化されることなく、結局は他者への憎しみや暴力などの形でまき散らされて、地上に輪廻し続けることになる…。
 
 でも、そのエネルギーを受け取ったとき――つまり理不尽な経験に人生を大きく揺さぶられたとき――、何かのせいにして攻撃や抵抗をする代わりに、ペンを手にノートに書き付けたり、あるいはキーボードをたたいてブログにありのまま気持ちを吐露するならば、その人はまさに人類共有のエネルギーを浄化する道、すなわち「人々の罪をあがなう」道を選んだのだといえる。

 
 最近よく引用しているパウロ・コエーリョ『マクトゥーブ』 に、書くということについて、こんな一文があった。
 
 師は言う。
 書きなさい。手紙でもいい、電話をしながらの走り書きでもいい――書きなさい。書けば、神に近づき、隣人にも近づくことになる。

 もしこの世界での自分の役割を知りたいのなら、書きなさい。誰の目に触れなくとも、――誰の目にも触れさすつもりはなかったのに、意に反して読まれてしまったのだとしても――心を込めて書きなさい。書く、という単純な行為は考えをまとめ、自分を取り巻くものが何なのか、はっきりさせる。

 一枚の紙と一本のペンが奇跡を生む――苦しみを癒し、夢を明確にし、失われていた希望を取り戻したり与えたりする。言葉には力があるのだ。



 終わりに定例のヒーリング音楽で、今回はDeuter「Gaia Dreaming Herself Awake」。
 夢心地にいるように、うっとりしてしまう曲です。


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 ブログの訪問者履歴やコメント欄などを見ると、うれしいことにこのブログは、「自分もブログを書いている」という方にも、よく読んでいただいているようです。


 書くことはとても楽しいけど、それなりの労力を要することでもある。それを何カ月や何年も継続されている方は、「書き続けていくことが自分の在り方にふさわしい」といった認識が、心のどこかにあるのだろう。

 でも、そうした人たちが(僕自身も含め)、わざわざブログを書き続けようと思う、根源的な動機とは何なのか?――

 それは、本人が意識するにせよしないにせよ、自分が「他者のための道具」として役立つことを、望んでいるからではないかなと考えている。


 「自分は人生で大切なことの多くを、旅から学んだ」とか、あるいは「仕事の現場から学んだ」「スポーツから学んだ」といった色んなケースが人それぞれにあるけれど、僕の場合は「ブログから学んだ」と言っても決して過言ではないと思っている。
 
 いちばん最初の契機になったのが、2004年くらいに「実現くん」というブログに不意に出会ったことだ。それを発端に、「どうやらこの世界や宇宙というのは、自分が常識的に考えているあり方とは違うらしいぞ…」といったことを、少しずつだけど思い始めるようになった。
 そのブログの内容は、「豊かさの実現」とそのための「浄化」が中心で、この何年か後に「引き寄せ法則」や「ホ・オポノポノ」の本が日本で売れたことを考えると、先駆け的なメッセージだったといえる。


 以降も、有名無名を問わず、僕は色んなブログに出会いながら導かれてきた。
 有名なものでは、阿部敏郎、雲黒斎、そして賢者テラの各氏をはじめ、最近のスピリチュアル分野で注目されている方の多くは、ブログを活躍の軸にされている。

 一方、あまり知られていないブログでも、たまたま検索などで行き当たったところに、自分にとっての「金言」が記されていた、という経験が何度もある。
 かなり過去にアップされた記事なのに、「まさしく今の自分に向けたメッセージではないか!」としか思えないような巡り会わせだって少なくない。

 もちろん、内容のまとまりや読みやすさは、ブログよりも本の方がはるかに上だ。「ニューアース」とか「神との対話」レベルの内容を、ブログに期待することも無理ともいえる。
 でも、そうした本や作家のことを最初にどこで知ったかといえば、個人のブログがきっかけだったりする――。


 本当に不思議で面白いのは、ネットという有象無象の混沌世界の中に放り込まれたブログ記事が、なぜか読み手が本当に求めるときに、まさしく縦糸と横糸のようにピタッと出会うことが、現実的によくあるということだ(単に、検索エンジンの性能によるものではないだろう)。

 そこに書かれたメッセージが、行き詰っていた考えを打開してくれたり、新たな一歩を踏み出す支えになってくれたりする。 
 一方で、ブログを書いた当人のほうには、自分の記事にそれほどの意味があったという自覚は無いのかもしれない…。

 実は、「読む人の望み」のほうが先立って存在していて、その望みが時間をさかのぼって書き手に届き、ブログを書かせているのではないか、とさえ思う。


 ある本に、「人は、自分自身の願いをかなえる力はないけど、他人の願いに応えてあげることはできる」という言葉があった。
 ブログの書き手というのは、見知らぬ読み手のための「道具」のようになって、その願いに応えている――、という構造なり性質があるように感じる。

 「主よ、私を平和の道具としてお使いください」という、有名な聖フランチェスコの祈りがあるけど、この世界ではすべての人は「他者のための道具」といえるのではないだろうか。
 そうした道具としての表われの一つが、このようなブログなのだろうと思っている。
 

 あと全く異なるタイプだけど、自分の内側に渦巻く鬱憤をぶちまけるように書かれたグログもよくある。
 中には「読み物」としてのまとまりがあまりないものや、自ら「こんなことを書いて何の意味があるのか!」と、あて所なく訴えかけるものもある。

 ――でも僕は、こうしたタイプのブログも、ものすごく大事な役割があると思っている。そのことについて、次回に続きとして書いてみたいと思います。



 結びにヒーリング音楽の紹介で、今回はLlewellyn「The Elven Tree」。
 趣味が合う人ならば、心にしっくり来る、厳かで幻想的な曲調です。


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 20世紀を代表する陶芸家である人間国宝の濱田庄司は、釉薬をひしゃくでササッと流し掛けて描く、自然で生き生きとした作風が有名です。

 1つの皿で数十万とか数百万円の値が付くのに、絵柄を描くのに要する時間は、考える間も無いくらいの一瞬。
 その制作工程を見ていた人が、「先生、たった15秒くらいで済んじゃうんですか…」と思わず口にしたそうだ。

 すると濱田庄司は、「60年プラス15秒かかっている、と考えていただきたい」と答えたという。

 つまり、陶芸家としての60年にわたる経験と研さんの成果が腕に染み付き、それが思考や作為よりも確かな「創造的な手の動き」となって、15秒程度の一瞬の工程の中に表出している、というわけだ。

 芸術家や熟練の職人技とは、そのようなものだろう。
 ある意味でそれは、思考のわずかな介在をも許さない力、あるいは、無作為を拠り所としながら物事を生み出す力とも言える――。


 一方で私たちも、芸術家の制作とは少々異なるけれど、日常の中で意図せぬ「直感」を感じ取ることがある。 
 でもたいていの場合、そのような直感を「瞬間的で根拠のない考え」として、そのまま頭の中でやり過ごしてしまうケースがほとんどだろう。

 スピリチュアル関連本には、「直感」や「インスピレーション」の大切さを強調したものが多い。僕が印象に残っているのは次の言葉だ。

 人間は直感的な力を与えられており、それに従うべきなのだ。その力に抵抗する者は危険に遭う。(ブライアン・L・ワイス)

 真実を知るには、心の声を聞くこと。それは直感を通してだ。頭脳の思考活動は心の直感よりも優れているという常識を疑う必要がある。(アーノルド・パテント)


 そうした直感は、どこからやって来るのか――。
 ひとつの考え方として、すべての過去生の経験が凝縮された中から、今の自分に対する語りかけが起こってきているのではないかな、とも思う。

 ニール・ドナルド・ウォルシュの「神との対話」の中で、自分は何回生まれ変わったのかというウォルシュの質問に対して、神が「あなたは過去に647回、生きている。これは648回目の人生だ」と答えている。

 転生の仕組みなどには色んな考え方があるし、既存知識の延長で捉えるのは無理だろう。
 けれど、ざっくりとこの例をもとに600回くらい生きているとするならば、それだけの転生を重ねてきたうえで、「今回の生ではこうしたい」といった魂の意向というものは、やはりあるんじゃないかな…。


 その意向をもとに、人生のしかるべき局面で「こうしなさい」と語りかけてくるのが、「直感」というものではないだろうか。
 つまり600回の生の経験に基づくガイダンスが、ほんの一瞬のひらめきとなってわき上がってくる――。

 一方で、直感に対する「常識的な思考」というのは、この人生のわずか数十年の間に形成されたものに過ぎない。
 ならば、どちらを真の拠り所としていくべきかは明らかだ。

 瞬時に訪れる直感を頼りに、余計な作為を介在させることなく、ひと思いに動く――、それこそが創造的な人生の極意なのでしょう。



 結びのヒーリング音楽は、Peter Kater「Crown Chakra」。
 穏やかな広がりと、明晰さを思わせる音色がとても素敵です。


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 3年前に、とある人の個人セッションを受ける機会があり、その録音データがパソコンに残っていたので、今日ひさびさに聴いてみました。

 その人は、名前の文字を見るだけで、人生の状況や先の展開が読めるという能力がある人で(姓名判断とはまた違う)、忙殺されるサラリーマン生活に心底うんざりしていた当時の僕は、「できれば近く会社を辞めたいが、いつがベストか?」といった相談をした。

 結果、翌年の2011年なら「まあまあ良い」、2012年は「お金が出て行くので、タイミングが悪い」、2013年が「最も良いチャンスの時期」――ということだった。


 それから間もなく、勤務先の会社で「年金改革」があり、2012年以降の退職者は年金の受取総額が数百万円も減らされる、ということになった。
 「2012年に辞めると不利」という展望が、ぴたり的中したわけだ。

 で、僕は結局、「まあまあ良い」という2011年に、23年間勤めた会社を早期退職することにした。
 過去の記事「もう辞めるタイミングですよ!」にも書いたけど、自分の周辺に「これは決断を促すサインに違いない」と思えるような変化もあって、思い切って退職願を出した。


 一昨年に会社を辞めたとき、僕は46歳だった。
 著名人を例にするのは非常に身のほど知らずだけど、スピリチュアル分野で活躍されている方の経歴を見ると、同じ年代のときに勤め先を辞めているケースが何人かいらっしゃることに気がついた。

 この分野の先駆者である翻訳家の山川紘矢さんは、46歳のとき大蔵省を退職された。
 「生きがいの創造」の著書で知られる飯田史彦さんも、46歳で福島大学の教授職を辞されている。
 ヘミシンクで有名な坂本政道さんが米国半導体メーカーを退職されたのも、46歳のときだ。(いずれも著書の略歴から計算したので、前後1歳の違いはあると思う)

 ちょうど年齢的に体調が変化したり、経済的な面で独立が視野に入ったりと、事情はそれぞれだろう。でもひょっとしたら、この年代で見えない後押しがあるのかも知れない…。よくは分からない。


 で、会社を辞めることについてさらに言うと――

 このブログを開設している「FC2ブログ」にはアクセス解析機能というのがあって、どんな検索ワードからこのブログにやって来る人が多いかが分かるようになっている。
 それを見ると「会社を辞める」「退職 決意」といったワードが、いつもコンスタントに入っている(それに直接関連する記事は、たった1本しかないのだけど…)。

 悩みながら色んなサイトを見ているうちに、このブログに行き当たる人がいるのだろう…。そんな見知らぬ人の様子や気持ちが、本当に心に浮かんでくるようだ。
 僕自身も決意に至るまでの間は、多くの本を読んだりブログなども見ながら、「不安」を「確信」へと変えてくれるような何かを、もがくように探していた。

 でも今になって言えるのは、その胸に渦巻く「不安」というのは、単にネガティブな抵抗というわけではなく、人生の新しい展開が始まる「前兆」として見るのが良いのかなと思う。


 前出の坂本氏も、ヘミシンクのモンロー研究所を初めて訪れようとしたときの心の状況を、こんなふうに著書の中で表している。
 「自分が何かとてつもなく危ない方向へ、舵を切りはじめているような気がしてならなかった。これによって今後の人生が大きく変わってしまいそうな、何ともいえない不安、元に戻るならまだ間に合うぞ、と自分のどこかが叫んでいるような感じなのだ」――

 慣れ親しんだ状況とは違う、新しい道に踏み出すときの気持ちというのは、まさにこのように「すっきりしない」のが当たり前なのだろう。

 悶々としていて当然のだから、不安が大きいからといって、決断をためらう必要はない。
 チベット仏教のマスターであるチョギャム・トゥルンパは、魂が指し示す道を歩むときの不安について、こんな言葉を述べている。
 「たとえ自分のしていることが危なっかしく感じられ、何もかもが歪められたり破綻していきそうな兆しが見えたとしても、あなたがそれについて心配する必要はない」――


 ちなみに、僕はその3年前の個人セッションで、「退社独立するときは新しいビジネスネームを持ったほうがいい」というアドバイスも受けた。
 名前の字としては大地に根を広げるような「大」とか、あと「広」の字もいいかもと言われ、それで単純に今のペンネームを付けている次第です…。

 そして今は、僕にとって「チャンスが来る」と予想された2013年――。
 サラリーマンならば倦怠感と重いプレッシャーに包まれる年代にあって、自分はこんなにもリラックスしながら「楽しみな気持ち」で毎日を迎えられること自体、本当に幸せ!ですよね。


 結びに定例のヒーリング音楽の紹介で、今回はSandeep Khurana「Om Mantra Yoga」。
 最近ネットラジオで聴いて、きらめくように響く音色に心が惹きつけられました。

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 ある本の中に、「愛について辞典で読んでも、愛とは何かについて知ることはできない」という一節がありました。

 確かにそうかもしれないけれど、ほんの少しくらい何か知ることがあるのでは?――なんて考えて、試しにちょっと広辞苑を引いてみた。

あい【愛】①親兄弟のいつくしみ合う心。広く、人間や生物への思いやり。②男女間の、相手を慕う情。恋。③かわいがること。大切にすること。……


 等々の記述が続いていて、本当に驚くほど何ひとつ得るものがない。説明の言葉に実体感がなくて、まと外れで無意味なようにさえ思える。「愛ってたったそれだけのものなの?」と、何だかがっかりしたような気分にもなってしまう。


 よく言われるとおり、言葉というものには大きな限界がある。
 エックハルト・トールは、自著の冒頭に「言葉は道しるべに過ぎない。それが指し示すゴールは、思考の次元では見つけることができない」と、注意書きのように前置きしている。

 文章を読むこと以上に、書くほうもけっこう大変だ。
 村上春樹のデビュー作『風の歌を聴け』では、自身が文章を書くことについて、「正直に語ることはひどくむずかしい。僕が正直になろうとすればするほど、正確な言葉は闇の奥深くへと沈みこんでいく」と言っている。


 こんなブログの文章を書くときでさえ、同じような難しさに直面している人は多いのじゃないかな。

 僕自身も本当にそうだ。何かを書くとき、最初に自分の中に「意味のかたまり」みないなものがふわっと浮かび上がってくる。これは苦労を伴わない、自然発生的で瞬間的なものだ。

 ところがそれから先の作業――、そのぼんやりとした「意味のかたまり」をたぐり寄せ、左脳的な意識を使って内容や文脈を具象的に構築し直して、さらに他者に伝わる字面へと置き換えていく作業――というのは、なかなかの労力と時間を要する。

 天才の金言を引き合いに出すなど、おこがましさも甚だしいけど、まさに「1%のひらめきと、99%の汗」とも言える世界だ…。


 文章なんかを使わずに、内にあるそのものを手渡すように伝えることができたら、書くほうも読むほうもどれほど楽だろう…。

 再度、村上春樹だけど、『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』というタイトルの、アイルランド紀行のエッセイ本がある。
 この本の前書きで、ウィスキーの個性的な風味と味わいを文章の形に移し変えてみようと自分なりに努力したことを述べてから、「もし僕らの言葉がウィスキーであったなら、これほど苦労をすることもなかったはずだ」と語る。

 「僕は黙ってグラスを差し出し、あなたはそれを受け取って静かに喉に送り込む、それだけで済んだはずだ。とてもシンプルで、とても親密で、とても正確だ」と。


 また阿部敏郎さんもブログで、内なる「仏性」や「本当の私」について、こんな説明をしている。
 「できることなら、あなたの意識の中に入り込んで、コレだよ!って教えてあげたい。するとあなたは驚くだろう。 えっ!コレ?!」――

 そういうことが可能なら、言葉の何千倍もスムーズだ。
 覚者と呼ばれる人の中には、本を著さずに、対面でのイニシエーションだけを行うケースが多い。これも言葉の限界や、複数を対象とした伝達の非効率さを知った上で、そのようにしているのではないかなと思う。


 ところで、愛を言葉で説明することは難しいと言ったけど、生について語る名手であるエリザベス・キューブラー・ロスが「愛とは何か」について、まさに真正面から捉えて説明した一文がある。

 愛こそが、人生という経験の中でただひとつの真実であり、永続するただひとつのものだ。
 愛は恐れの対極にあるもの、つながりの本質、創造の核心、力の美しい部分、自己が自己であるための最も微妙な部分である。それは幸福の源泉であり、我々と我々の内部にある命とを結ぶエネルギーである。

 愛は、知識、教育、権力とはなんのかかわりもない。愛は行動を超えるものであり、人生においてただひとつの、失われることのない天与のものである。つまるところ愛は、真に与えることのできる唯一のものなのだ。
 この虚妄の世界、夢幻の世界において、愛は真実の源泉になる。


 ――もう、さすがだと、感服してしまいますよね。
 辞書の空虚な説明とは比べものにならないほど、愛の本質のさまざまな側面を切り出し、言葉の裏にある実体を示し出すようにして、こちらの魂を鼓舞するパワーで語りかけてくる…。

 言葉で愛について説明することは非常に難しい。けれど、おおもとに愛そのものがあれば、言葉という不自由な媒介物を使ってでも、他者の心の深部にまで伝達していくことができる――ということかなと思います。




 結びに定例のヒーリング音楽の紹介で、今回はJuliana 「Gurardian Angel」。
 言葉で伝えるのが困難でも、メロディーはそれを鮮やかに表現できてしまったりしますよね。


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 前回の記事で、パウロ・コエーリョの短編集『マクトゥーブ』を読んで心に止まった話について書いたけど、その続きでもう1つ――。


 この本の中に、古い名作映画「十戒」を話題にした一編があった。
 預言者モーセが、エジプトで奴隷となっていたイスラエルの民60万人を連れて、神より与えられた「約束の地」へと向かう、旧約聖書の物語を映画化したものだ。
 
 モーセが率いる民が紅海の岸辺まで来たとき、追っ手のエジプトの軍隊が迫ってきた。
 そこでモーセは、広大な海に向かって杖を挙げ、「海よ割れよー!」という感じで力強く念じながら両腕を広げる。
 すると目の前の海が左右にザバーッと割れて、海底が1本の道のようになって現れる。イスラエルの民はそこを歩いて海を渡っていく。

 ――という映画のクライマックスシーンは、ものすごく有名だ。


 ところが『マクトゥーブ』の本の中で、「聖書にはそのように描かれていない」と指摘している…。

 「聖書では、『イスラエルの民たちを進み行かせよ』と神はモーセに命じる。彼らが進みはじめてようやく、モーセは杖を挙げ、すると紅海は道を開ける」――のだと説明している。


 ちょっとした記述順序の違いのようにも思えるけど、これは確かに大きな違いではないだろうか――。

 映画や一般的な認識では、まずモーセが海を割りたいという「願望」を抱いて念じ、次に願い通りの奇跡が「現実化」し、そうして現実化した後で、民が進むという「行動」に移る。
 これは、スピリチュアル本などによくある、「願望実現」の順序と同じであろう。

 ところが実際の聖書の記述では、まず最初に起こったのは神の命令という、いわば「インスピレーション」だ。
 そして、そのインスピレーションを信じて、民を進めるという「行動」が次に来る(この段階ではまだ海が行く手を阻んでいる)。
 そうして行動に出た後になってやっと、海が割れるという「現実化」が起こる――、という順序なのだ。


 「もしお金があったら~したい」「素敵なパートナーがいれば~できる」「自分が悟ったら~になれる」といった願いを持ち続けながら生きる人はとても多い。
 でもこうした「望みが実現したあかつきには」という発想は、本当にやってみたい「行動」を、順序の一番最後に置いてしまっているのではないだろうか…。

 このモーセの物語では、「現実化」が始まるのは、「行動」を起こした後だということ。
 「海が割れてから民が進んだ」のではなく、「民が進んでから海が割れた」。

 またニールドナルド・ウォルシュの『神との対話』でも、まず「行動」を先にするようにと神が語っている。
 「しなければならないのは、思考―言葉―行為というパラダイムを逆転させることだ。考えが割り込む前に行動しなさい。かまうことはない!」と。


 ただし、その行動というのは、神の命令といった「インスピレーション」に基づいたものであるとこが必要といえる――。
 頭の中で色々と、他者と比較したり社会常識に照らしたりしながら、「自分はああなりたい」「この問題をクリアしたい」などと考えた上での行動だと、単なるマインドの罠にはまってしまう…。

 いくつか前の記事で書いた、神話学者ジョーゼフ・キャンベルの名言「Follow your bliss(あなたの至福に従いなさい)」も、インスピレーションに基づいて行動するためのひとつの方法といえる。


 ちなみに聖書のこの物語では、イスラエルの民を率いるという使命を神がモーセに与えるときに、神自身が「自分が何者であるか」を言明する有名な箇所がある。

 「私は、『私は在る』という者だ」――。
 英語では「I AM WHO I AM」で、このヘブライ語の頭文字を並べて、神の名を「ヤハウエ」とか「エホバ」と呼ぶ。

 キリスト教の「神」とは、すなわち「私が在る」という意識そのものであり、それが「真の私」の正体であり、神とは私なのだ――といったスピリチュアルな趣旨でこの箇所が引用されることは多い。


 つまりモーセが、海が行く手を阻んでいるにもかかわらず、まず民を進めるという「行動」を起こすきっかけとなったもの――、それはまさに「I AM」の声だったわけだ。

 この、「I AMの導き」→「信じて行動する」→「現実の創造」というプロセスは、これからあらゆる人の生き方に求められていくものだろうな、と思います。



 最後にヒーリング音楽で、今回はKip Mazuy「Silk」。
 幻想的にきらめく音色、静かで広がりある女性ボーカル、穏やかに流れる通奏低音――という自分の好みがそろった、僕個人にとっては満点の曲です。

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 代表作『アルケミスト』で有名なパウロ・コエーリョの『マクトゥーブ』という本をいま読んでいます。

 この本は、1ページに1話という超短編を180本も収録してあり、もとはブラジルの日刊紙のコラムとして連載されたものだ。内容は、キリスト教をテーマにした訓話が多い。
 その中に唐突に、明らかにアセンション的なメッセージが1編あったのが心にとまったので、以下に紹介しますね――。

 師は言う。

 これから――そして今後百年間――先入観に縛られた者たちの居場所はなくなっていくだろう。

 地球のエネルギーは刷新されねばならない。新しい考えが生まれる余地が必要だ。肉体にも精神にも新たな試練が必要なのだ。未来がすぐそこでわれわれの扉をノックし、ありとあらゆる考えが――先入観に縛られた考え方を除いて――あらわれ出ることになるだろう。

 残るのは大事なものばかり。不要なものは消えていく。だがしかし、人はそれぞれ自分自身の内に残されたものだけを判断すべきである。われわれは隣人の夢の善し悪しを判断する立場にはないのだから。

 自分の道に確信を抱くために、他人の道が誤っていることを証明する必要などない。そのようにする人は、自分自身の歩みに自信を持てない人なのだ。



 ――どうでしょう。
 この本が日本で出版されたのは一昨年だけど、もとの文章が新聞に載ったのは1993年だという。
 でも、最近書いたものだと言われても、全くおかしくないくらい、今の時代的ですよね。


 「先入観に縛られるな」「自分の内側にあるものだけを判断すべき」「他者の善し悪しを証明する必要などない」というのは、スピリチュアルな罠に陥らないためのキーワードとも言っていい。

 こうした直接的なメッセージが20年前のブラジルの新聞に載っていたということ自体、流れは以前から着々と始まっていたということでしょうね。


 今回の結びの音楽は、いつもと丸っきり雰囲気が違うロックミュージックを。しかも、とりわけうるさい昔のロックで、Rush「The Spirit of Radio」。

 この曲を聴いたのは中学生のときで、当時は学校の寮で生活していた。音楽を大音量で流しているやつがいると「うるさいなー」と思っていたのだけど、どういうわけだかこの曲に限っては、初めて耳にしたときに心が引き付けられて釘付けになってしまう感じがした…。よく分からない何かが、明らかにほかのものとは違っていた。

 以降、レコードとかCDは特に買わなかったのだけど、街で流れているのを偶然に耳にする機会があると(10年に1度くらいだけど)、「おおっ!」と思う。
 ちなみに、歌詞の要旨をスピリチュアルな捉え方で意訳してみると、以下のような感じです。

 見えない波動が、命のエネルギーを帯びて、価値を超えた贈り物を届けてくれる。タダ同然に。

 でもそのメッセージは、営利や賞賛によって覆い隠された、妥協の産物だ。

 これを見極められるかどうかは、あなたの誠実さの問題なのだ。そう、あなたの誠実さ――



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 正月に妻子と3人で、上野で開催中の「ツタンカーメン展」を見に行ってきました。

 この展覧会、ネットの書き込みなどで散々に言われてれているとおり、ツタンカーメンの秘宝の圧倒的な筆頭である「黄金マスク」は展示されていない…。


 あの黄金マスクの価値は計り知れないほどで、無理にでも金額換算したら数百兆円に上るともいわれる(エジプトの国内総生産のなんと十年分以上!)。
 かつてドイツでの展覧会で破損事故を起こしたこともあり、現在は法律で国外持ち出しが禁止になっているそうだ。

 とはいえ、やはり肝心かなめの黄金マスクがないツタンカーメン展というのは、すごく大きな欠落感を覚えてしまう。
 たとえば、「金閣」の建物が解体修復中に金閣寺を参拝したり、自衛隊入間基地の航空祭に行ったらブルーインパルスのアクロバット飛行がない、といったような感じだ――。


 以前に僕は、仕事でエジプトに出張したとき、カイロ博物館でツタンカーメンの黄金マスクを実際に見たことがある。

 あのすごさというのは、文化的・経済的価値がどうのとか、その人が考古学に関心があるかといった前提に一切かかわりなく、もう誰がどう見ても有無を言わさず「あからさまにものすごい」――、ということだ。

 地質学にぜんぜん興味がない人でも、アメリカのグランドキャニオンを目にしたら、景観に圧倒されてしまうのと同様といえる。


 ちなみに上野の「ツタンカーメン展」で展示してあった壷とか装飾品などの副葬品は、カイロ博物館では黄金マスクの展示エリアの一角に「興味のある人はこれも見てくださいねー」といった感じで陳列されている。

 もちろん、どの品々も文化財としてとてつもない価値があるのだけど、そうした周りのあらゆるものが単なる端役になってしまうくらい、黄金マスクが放つ威光というのは「絶対的に無比」なのだ。


 で、話は転じるけど――
 よく言われるように、私たちが内側に持っている宝――真我、空意識、神の国、大いなる愛――というのは、ツタンカーメンの黄金マスクやグランドキャニオンさえも比べものにならないくらい、もう圧倒的なものすごさ、なのでしょうね。

 知識があれば理解できるとか、「これがそうなのかな?」といった疑問が介在する余地なんか全くないほど、誰にとってもあからさまだと言われる。

 それが近日公開予定、というか、もう一部で既に公開中という状況なのかな。


 ついでに、以前に古代エジプトの遺産を現地で見た、個人的な感想を言うと――、その歴史の古さ、技術の高度さ、遺跡の巨大さは、実物を目の前にしながらも「こんなものは絶対にあり得ない!」と思えてしまうほどだ。


 「西暦600年ごろに建てられた法隆寺は世界最古の木造建築」というのは、人の想像が及ぶ範囲であろう。

 一方、エジプトのルクソール神殿などが建てられたのは、日本の縄文時代にあたる4000年前。神殿には高さ20メートルの太い石の柱がそびえ立って並び、その上には、豆腐みたいに四角く切られた数十トンはあろう巨大な石が、きちっと並べて載せてある…。

 われわれのご先祖が竪穴式住居に住んで土器を焼いていた時代に、どうしてそんな途方もないスケールの文明が存在し得たのか、到底理解できない。
 さらにツタンカーメンの王墓では、その時代の宝物がピカピカの状態に保存されていたわけだから、奇跡としか言いようがない。


 だが、日本にはもっとすごいものがある。

 屋久島の縄文杉は、何と古代エジプトとほぼ同じ時代から、ずーっと「生き続けている」わけだ。これはもう信じられないほど驚異的な生命力であり、自然環境の豊かさであり、森を守る文化のすごさだといえる。

 自然を征服し、砂漠化を招いて滅びていった古代エジプト文明。
 森を守り、自然と共生し、その延長上に栄え続ける日本の文化――。これは本当に、世界に誇れることだと思いますよね。



 結びに音楽の紹介。今回はAdiemus「Corrente」。

 以前も何度かこの人の曲を紹介したけど、僕にとってはツボにはまるように、心躍る感じがしてくる。歌詞はデタラメ言語で、その独特の響きもなかなか魅力です。


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プロフィル

Koudai Mitsuna

Author:Koudai Mitsuna
 
光奈 広大(みつな・こうだい)

 20年のあまりのサラリーマン生活を経て、いわゆる「ザ・マネーゲーム」を何とか卒業。今では束縛されない自由な日々を存分に味わっています!

 そうした中で心がけているのは、普通の日常的な行いを通じて、意識の進化を目指す「カルマ・ヨガ」。

 日々の喜びや学び、インスピレーションから得たスピリチュアルな気付きなどをブログで紹介しています。

 妻子と都内在住――。





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