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 また、スピリチュアルなショートショート物語を書いてみました。
 ブログ上で、もしもこんな奇跡みないなことが起こったら素敵だろうな、という発想で考えたものです。
 画面で読むには長めかなと思い、2回に分けますね。


◇        ◇

 ユリカは怒りを爆発させた。
 どうして自分は、鬱で引きこもっているこの夫と、連れ添って暮らさなくてはならないのかっ!!――


 夫はこの1年半、会社を休職して通院治療中だ。様子はあまり良くなってない。起きている時間のほとんどは、テレビやパソコンの前で過ごしている。
 ときどき「会社や取引先の人たちが自分を除け者にしている」と、顔に汗をにじませながら口にする。
 ユリカが「そんなことないよ、みんな心配してくれているはずだよ」と言うと、「どうしてお前はそんなバカなんだ、本当のことを何も分かってない!」と、トゲトゲしい言葉を返してくる。

 気遣って支えてあげるだけでも大変なのに、困ったことに夫は最近、ネット通販で余計なものばかり買う癖がある。部屋の床には未読の本やら一度も使ってない雑貨やらが、整理されずにいつも散らかっている…。


 「amazon」の画面を熱心に眺めながらマウスを動かす夫に、ユリカはたまりかねて嫌味をつぶやいた。「どうせ買ってもまた読まないくせに。家計も大変になってきているのに」。
 すると夫は「必要だから買ってるんだよ! オレのことに口出しするな!!」と、激昂して歯向かってきた。
 まるで、こうして買い求めているものが、自分の中に開いた穴を埋めてくれると思い込んでいるような感じだ。

 ユリカもとうとう、ため込んでいたものが一気に噴き出して大声を上げた。椅子を蹴り飛ばし、激しい言葉を次から次へと並べ、烈火のごとく一方的にわめき続けた――。
 唇をモゴモゴ震わせながら聞いていた夫は、いきなり「死んでやる!」と叫び、寝室に駆け込んでドアを強く閉めた。


 ユリカは怒りが止まらない。
 パソコンに向かうと、自分のブログを開いた。そして感情にまかせるままにキーをたたき続けた。

 「――どうして、この夫と連れ添って暮らさなくてはならないのか! こんな、自分以外のことでもがき続けるなんて、私が何をしたっていう! 夫が社内でもエリートと呼ばれていたころ、あいつは私のことを低能な主婦のようにいつも見下していた。そして鬱になったいま、今度は私のことを世界で一番の非理解者みたいに言う。私の立場も苦労も、あいつはぜんぜん理解しようとしない。夫婦が支え合わなくてはいけないのは分かっている。でも、こんな状況では、もうどうやっても絶対に無理!!」 

 ユリカは数年前から、日記代わりにブログを書いていた。でも最近は、このような「感情のはけ口」みたいな内容になっている。
 鬱積する怒りや不満をぶつけるように書き綴ったものばかりで、アクセスしてくる人はあまりいない。コメントが書き込まれることもまず無い…。


 怒りはなお収まらず、ユリカは書き続けた。
 「憎い、憎い、憎い! 許せない、許せない、許せない!! なぜ私は、こんなにも不遇で息苦しい人生を歩まされているのか?」


 一気に書いた内容をそのままブログにアップして、ひと息ついた。

 ふとその画面を見ると、記事の下に「コメント(1)」と出ている…。
 どうせ茶化すような内容だろうと思いながら開いてみると、こんなことが書かれていた。


 「運命に対するあなたの怒りは、魂が成長へと踏み出すエネルギーなのですよ」――


 何なんだ? とユリカは思った。投稿者名は空欄だった。余計なお説教のような感じだけど、その見方が常識はずれに広すぎて、何ともとらえどころがない…。
 ユリカは、「どういうことですか?」と返信を打ち込んでみた。

 すると驚いたことに、それに対するコメントがまたすぐに来た。まるで、このブログをずっと見ていて、即座に書き込んだみたいだ。
 そのコメントはこうだ。


 「いまの状況は、不遇で息苦しいものに感じるでしょう。でも、あなた自身の『神性』については、実は、何ひとつ制限なんか受けていないのですよ。
 他者や自らを愛すること、信じること、そして自分が本当は何者であるかを宣言すること――こうしたことに関して人は、誰にも邪魔されない自在な立場にあるのです。自分は運命の被害者なのか、それとも夢をめざす旅人なのか、そのどちらであるかをあなたは選択するのですよ
」――



 不思議と心に引っかかる言葉だった。自分の奥底にある小さな何かが、呼応するような感じがした。
 その真意を探るように考えを巡らせているうちに、高ぶっていた感情がかなり落ち着いてきた。

 寝室のドアをそっと開けて覗くと、夫は布団にくるまって寝息を立てていた。
 「死んでやる!」なんて仰々しく言い放ったくせに…。いつも他人の言葉や妄想には執拗にとらわれる半面、自分の言ったことはコロッと忘れてしまう。
 この点は、症状を見守りながら一緒に暮らす上で、多少はやりやすい一面なのかもしれないけれど…。
(次回につづく)


◇        ◇

 終わりのヒーリングミュージックは、Llewellyn「Guardian Angel」。
 

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 中央アジアのどこかの地域の習わしで、「言葉は災いを呼び寄せ、モノは災いを遠ざける」という話を聞いたことがあります――。


 その地域の人々は、「オオカミ」という言葉を決して使わないそうだ。
 言葉には力が宿っており、「オオカミ」と口に出して言うと本当にオオカミがやって来て、牧畜のヒツジが襲われるからだという。
 これは、スピリチュアルな教えにもよくある、「ネガティブなことを言っていると、それが現実化してしまう」というのと同じだろう。


 で、もう一方の「モノは災いを遠ざける」は、なかなかユニークな風習である。
 例えば、親が病気で命まで危うい状況となったとき、なんと彼らは大急ぎで「棺桶」を買ってくるのだという…。

 そのようにして、家の中に「棺桶がすでにある」状況にしてしまうと、棺桶が必要とされる出来事(親が死ぬということ)を封じることができると信じられている。


 「初めに言葉あり」といわれるのに対し、モノというのは「結末」である。
 その結末を先回りして自らの手で用意することで、発生プロセスを打ち消してしまおうというのは、何とも面白い発想だなと思う。

 もちろん、運命として定められた死を避けることはできない。
 でも、この「モノは災いを遠ざける」という古くからの風習に何らかの効果があるのならば…、たぶんそれは一種の「受容」による効果なのではないかな、と考える――。


 家の中に棺桶が運び込まれる事態は、もう絶対に受け入れたくない「最悪の結末」である。
 その棺桶を現に目の当たりにすると、病床にいる親も家族たちも、「最悪の結末もいよいよだ」という覚悟なり、起こってくる現実に対する受容が、心の隅のどこかでなされるのではないかな…。

 目の前に起こってくる物事というのは「魂が定めたシナリオ」であり、通常は決して変えることができないものだ。すでに書かれてある人生のシナリオから、人を引き離すことは無理である。

 ところが唯一、起こってくることを「変えられるとき」というのがあって、それは「その出来事を受け入れたとき」だ。


 自分にとって嫌なことが起こるのは、「それを受け入れるため」だといえる。この目的のために、同じような物事が何度も何度も繰り返し起こってきたりもする…。

 そのとき、「これはあるがままに起こってきたものだ。私というひとつの広がりの一部なのだ」と受け入れたならば、その出来事はもはや起こってくる目的を失う。
 それによって、現れ続けるはずの物事が現れなくなったら、「運命が書き変わった」と考えることもできる。
 

 前述の「棺桶」はその極端な例で、いわば最悪の結末を受け入れるための「ショック療法」とも言えるだろう。
 もし、その死がタイミングとして避けることが可能なものであるならば、今の時点ではそれが起こらないように現実が書き変わることだってあり得るかもしれない…。


 受容することとは、決して自分の忍耐力や抵抗力を養う試練なんかでない。
 周りのあらゆる物事を「私というひとつの広がりの一部」であると認めること――。それを通じて、真の「私」とはどのようなものであるかをリアルに定義して認識することが、受容の本当の意味だといえる。


 棺桶を買うまでもなく、自分にとって想定できる最悪な人生を「あり得ること」として受け入れ、またその一方で、想定できる限りの最高に豊かで幸せに満ちた人生についても、同じように「十分にあり得ること」として全部認めたならば――
 それは、全方向に開放された生き方となる。まるで羽のような軽やかな気持ちで、日々を送っていくことができるだろう。


 そうしたら、周りの物事や人生はどう展開していくのか――
 そこまで軽やかで融通無碍になったあなたを、魂は決して「凝り固まった現状のまま」に放置しておくはずはないでしょう!



 結びのヒーリングミュージックは、カノン「プレリュード」。以前に読んだことのあるブログに貼り付けてあったのだけど、清らかに流れるような歌声がとても素敵です。
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 先日ちょっと気になり、なつかしい作家である星新一の『きまぐれ博物誌』というのを読みました。
 1970年(僕はまだ幼稚園児だ…)に書かれたエッセー集で、その中に次のような書き出しの一編があった。
 
 「いまの人類は34億人。30年後の21世紀に入るころには倍に増えるそうだ。糸川英夫氏の説によると、21世紀には全海水が汚染され、水中植物が全滅し、炭素同化作用が止まり、空気中から酸素が失われるとのことだ」――


 何ともショッキングな未来予想…。
 でも、高度成長期の真っただ中にあった当時、公害問題をはじめ負の側面が噴出した時代だから、このような警鐘的な問題提起も重要だったのだろう。

 で、実際にいまの世界人口が71億人だから、このシミュレーションはぴったり!ですよね。
 しかも驚くべきは、予想通りに人口が倍増したにもかかわらず、(社会的ひずみは色々あるとはいえ)壊滅的な汚染も資源枯渇も世界戦争もなしに、人類はここまで来れたということだ…。
 もしも、1970年当時の人たちに、今の私たちがこうして当たり前の日常を過ごしていることを伝えてあげたとしたら、信じられない奇跡のように思うかもしれない。


 また、文中に出てくる糸川博士の悲劇的な説は、幸いにも見事に「大はずれ」となった。
 21世紀の今も海産物はちゃんと採れるし、酸素だって支障なく吸うことができる。それどころか、東京の空気と水は、70年代とは比べものにならないほどきれいだ。

 さらにいえば糸川博士は、21世紀に自分の名前が小惑星に付けられ、そこに日本の探査機が着地・帰還する――なんて素敵な未来のことも全く想像していなかっただろう。


 過去に描かれたショッキングな未来像に比べると、実際の私たちがいる21世紀というのは、「180度違う」とまでは言えないけれど、空想や知を超えて「予想外に良い方向に進んで来られた」くらいには言っていいんじゃないかな…。


 スピリチュアルな観点でとらえると、この3次元には、異なる運命や選択によって枝分かれした無数の「パラレル宇宙」が存在している。
 そのあらゆるパターンの中には、実際に全海水が汚染されたり、世界戦争が起こったり、さらには人類が全滅した世界というのも存在するのだろう。

 そうしたパラレル宇宙の1つである、いま自分たちが現にいるこの世界というのは、かなり「奇跡的な側」に位置していると言えるのではないか、と思う。
 この調子で好転していったら、本当に間もなく「人類の次元上昇!」なんて事態が起こってもおかしくないかもしれない。 


 そんな見方を言うと、「あなたのような考えは無責任でイノセントだ」という意見もあるだろう。過去の人類が必ずしも良い方向に進んできたとは言えないし、現在もなお原発事故、中国の大気汚染、熱帯雨林の伐採、動物虐待、金融不安、領土問題等々…未来に向けた危機的な課題は山積している、と――。

 ちなみに先のエッセーで、星新一はこのように結んでいる。
 「おれの知ったことか。誰かが何とかしてくれるだろう。地球史上もっともいい時代に生まれた幸運を、素直に感謝すればいいのだ」

 今の僕もその通りだと思う。社会のことは、周りの人たちがうまくしてくれる。仕事や家庭など、自分の個人的な問題に直面することもあるだろうけど、それも起こることを受け入れていくしかない。

 僕は幸運なステージにいることを喜びながら、もっともっと良くなる未来を、流れるように経験したい――。



 最後のヒーリングミュージックは、山本純ノ助「時空への旅立ち」。
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 前回の記事で、「自分の信念を周りに押し付けるのは良くない」といった話を書きました。
 その最も難しいレッスンの場がといえるのが、「家族」関係ではないかなと思う――。

 よその家の出来事なら「そういうこともあるよねぇ、きっと大丈夫だよ」と言うような問題でも、自分の家庭のこととなると「人生を揺り動かす大問題」のように思えたりする。
 そしてパートナーなり子供をきちんと「コントロールしてあげる」ことが、相手のためを思ってする正義なり愛情だと考えてしまう…。


 もちろん、相手の話をしっかり聞いたり、一緒に考えてあげることはとても大切だ。
 でも実は――、最終的には自分が「コントロールを手放してゆだねる」ことを学ぶという目的のために、家族の色んな問題が起こっているのではないかな、と考えている。

 過去の記事にも書いたけど、僕も家庭の問題に直面すると、色んな生々しい感情がわき上がってくる。でも結局は、信頼しながらじっくり取り組んでいくしか手はないだろうと思っている。


 家族の関係というのは、「惑星」のようなものだと考えている。
 たとえば自分を「地球」だとすれば、パートナーは「金星」で、子供が「火星」、といった感じだ。

 これらの星は、宇宙の中ではものすごく近い距離にある。
 そして、同じ太陽の周りを回っている。
 でも「軌道」が同じわけではない――。

 それぞれの惑星は、あくまでも「異なる道」を歩んでいる。

 
 ここからがなかなか面白い現象なのだけど、近い距離で異なる軌道を回っている惑星は、地上からどんなふうに動いて見えるか?――

 夜空の星には、それぞれの位置が定まった「星座」がある。
 シリウスがいつの間にか大犬座から抜け出したり、オリオン座の三ツ星が並び方を変えたり、ということはあり得ない。

 それに対して、金星や火星などの惑星には星座がなく、日がたつにつれ位置がどんどん移り変わる。
 だから「惑(まど)う星」と書くわけだ。(英語の「Planet」も、ギリシャ語の「さまよえるもの」が語源という)


 で、この記事タイトルの下にある図は何かというと、日の出時刻に東の空に見える「金星」の位置の推移である(2012年6~12月)。
 まるで、行き先も定まらずに揺らめきながら、かなたへ飛び去っていく感じですよね…。

 ちなみに同じく、日の出時刻における「水星」の位置の推移は、以下のようになる。

maqr.jpg


 何だか不規則に跳ね回るような動きで、「これでマトモなの?」って言いたくなる感じだ…。
 ほかの星たちはきちんと決まった星座があるというのに、まるで放蕩息子である。

 でも当然のことながら、金星も水星も、太陽を中心とする精密な楕円軌道上を運行している。
 それなのに、私たちが地上から見れば、「惑ってさまよう」みたいな動きで見えるわけだ。どうしてこんな不思議な動き方になるのか、考えたら頭がこんがらがってくる…。


 家族というのは、いわばこの惑星のように、「近い関係にありながら異なる道を歩んでいる」からこそ、自分の目には心配なほど不安定な動きに映るのだと思う。
 でも、いくらそうにしか見えなくても、それは宇宙の法則によって完璧に安定して動かされている。自分はただそれを信頼して、ゆだねればいい――。

 この真実を見いだすことが、家族関係を通じた大きなレッスンではないかな、と考えている。


 以下、このブログでよく引用する、エリザベス・キューブラー・ロスの言葉です。

 子供に教えなくても、子供の体はちゃんと成長する。咲き方のセミナーなど開かなくても時期がくれば花は咲くし、いちいち指示がなくても惑星は正確に軌道どおりに運行する。宇宙は、こうした驚異的に複雑な作業を、信じられない巧みさでやってのける。

 私たちが自分を明け渡すことを恐れている相手とは、実はこの宇宙の力そのものなのだ
――

 

 結びのヒーリング音楽は、回るものつながりで、ディスクオルゴールが奏でる「ヘ長調のメロディー」。

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 前回記事の中で、ダレル・T・ヘアの『ラマー 愛と魂への旅』という本からの一文を紹介しました。

 有名なスピリチュアル本の部類には入らないかも知れないけど、この本は「人の生の意味」について物語形式でとても端的に言い表していて、込められているメッセージは素敵だと思う。

 その中核にあるのは、「人生をどうするか、はあなた自身が決めなくてはならない」ということ。

 周りに賛成してもらえなくてもいい。ときには自分の選択を後悔することもある。でも、そうして自ら選ぶことによって、魂は成長していくのだという。
 自分で決めたのならば、何をしても構わない。「あなたが何をしようと、罰を受けることは絶対にない」と言い切る――。

◇ 

 もう一つ、この本で特徴的に思えるのが、「自分の信念を他者に押し付けること」を、かなり徹底的に非難している点だ。

 色んなスピリチュアル本の中でも、このポイントをこんなに強調しているものは珍しいのではないかと思う。(もちろんこれは、「人生を自分自身で決める」ということの裏返しである)


 物語の中に、こんな会話のやり取りがある。

 「自分の信じることを、他人に信じるように勧めるのはいけないのでしょうか? それが真実であっても?」
 「無理強いするのが間違っているのです。つまりそれは、人の選択の邪魔をするということ。そんなことをすれば、その人の成長を妨げ、自分にも害を及ぼすことになる。誰かを傷つけたり、誰かのものを奪ったりしたときと同じように」


 同様にほかの箇所でも、「選択はいつも自分自身がするもの。誰かを傷つけたり、無理やり自分の考えを押し付けたり、何かを奪ったりすれば、あなたは活気を失い、明るく灯っていた光がどんどん暗くなっていく」とある。

 ――「価値観を押し付けてはいけない」という言い方は色んな本にもあるけど、それを「盗み」や「暴力」と同列に扱うのは、なかなかすごい視点ですよね。
 その報いとして、自分の活力や輝きまで失ってしまうとは…。


 そうした人たちの象徴として、この物語の中では、神父のことを最も「さまよえる者」のように描いている…。

 神父はこう主張する。「何が正しいかを人々に決めさせたら、正しい選択をするとは限らない。神の言葉どおりに振る舞う人間を、神は祝福され、神の言葉に背く者は罰せられる。神はすべてをお見通しで、神は愛の現われなのだ」と。
 その神父の言葉に対し、主人公は率直な思いを口にする。「それは、僕には愛という感じがしないのだけど」――


 ニール・ドナルド・ウォルシュの『神との対話』にも、確か同じことを言い切っている記述があったなと思って、本棚から取り出してパラパラめくっていたら、すぐに出てきた(三百数十ページもある中で、該当箇所がすんなり見つかるところが、この本のすごいところですよね…)

 「すべての人生は選択されたものだ。その選択に介入したり、疑問を持ったりすべきではない。まして、非難すべきではない。他の人たちの選択は、今の時点では完璧だということを知っておきなさい」――


 で、最近、こうした「価値観を押し付けてはいけない」「他者の選択に介入しないように」といったメッセージを、以前よりも頻繁に見かけるようになったと思う。僕自身も、つい気になって目を留めてしまう。

 また以前に比べて、どの教えが「正しい」かを議論したり、どんな手法が効果的かなどを批評・批判したりする人が、かなり減ってきている。
 それぞれが好きな道を歩めばいいんじゃないの~という風潮が、全般的に広がってきているように感じる。


 ひょっとしたら今、一人ひとりが自分自身の選択に取り組むべき、精妙なタイミングにあるのかな…、とも考えている。

 かの宗教家が予言した「三千世界の大洗濯ぞよ!」というのは、実際には、自分自身の在り方という、ごく個人的な「選択」ではないのかな?…



 最後のヒーリングミュージックの紹介は、Relaxx Project「Negro-El Silencio」。
 「黒-静寂」というタイトルだけど、そんな趣の深遠な曲調です。

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 再び、ショートショートの物語です。
 今回は、「僕」という一人称の私小説風にしてみました。実際に経験したことも組み合わせながら、全体はファンタジーです。


◇        ◇

 3連休初日の土曜日の朝、山積していた仕事にある程度の目途を付けるため、僕は会社の席に着いた。広いオフィスの中に、ほかに出社している人はいない。

 職場の室内には、いつも特有の匂いがこもっている。OA機器や書類、多くの人の匂いが混じり合ったその空気を吸うと、反射的に胸がぎゅっと凝縮するように重苦しくなる。
 会社の仕事は、もちろんやり甲斐の大きいものだった。でも、それが決して自分を幸せにしてくれるものではなく、内から希求する生き方とは違うことも、長年の勤務の中で切々と感じていた。

 その違和感を打開する何らかのきっかけになればと思い、僕はその連休に初めて、泊りがけの「座禅会」に参加することにしていた。
 午後の集合だったので、ここから昼前に電車で向かえば、ちょうど間に合うという段取りだ――。


 仕事に区切りを付けて会社を出ようとしたとき、同じ部の若手社員が1人出社してきた。彼も多くの仕事を抱えている。
 「大変だね、ご苦労さん。僕はもう引き上げるから」と声をかけた。
 「お疲れさまです。あっ、机の上を片付けておかなきゃいけないって、総務部が言ってましたよ。週末に何か作業が入るからって…」、とその若手が教えてくれた。

 「あぁ、そうだ、そうだった」…。実は、会社のビルの中に、ネズミが繁殖しているらしいのだ。引き出しに入れた菓子がかじられたり、床に排泄物が落ちているという被害もあった。そのため駆除の業者が、夜間に作業に来ることになっていた。

 「…もうこのビルも築40年以上だから、ガタが来たり、妙なものが棲み付いたりもするわけだ。僕も考えてみればこのビルと同い年だから、色々と気をつけないとね」などとしゃべりながら、急いで机を片付け、僕は会社を後にした――。
 

 座禅会では、これまでの日常とは全く違う、静謐さと温もりに包まれた時間を過ごすことができた。
 でも、その経験自体が、自分の中身や周りの見え方を一新してくれるわけではない。「ま、そういうものかな」と僕は思った…。

 ところが振り返ってみれば、その時点でもう、人生の方向を変える舵は切られていた。


 座禅会でミナさんという、自分よりひと回り年下の女性に会った。
 名刺を渡したら、「お世話になりました(〃⌒∇⌒)/。:*:」というお礼のメールが後日に来て、以降、何度かメールをやり取りした。

 すると驚いたことに、僕が通勤途中に交通事故を目撃した日に、彼女から「さっき家の近くの踏み切りで事故を見てしまったんです」というメールが来たり、また彼女が「図書館で借りて面白かった」という古い本を、僕もたまたま数日前に入手して読んでいたりと、不思議な偶然の一致が立て続けに起こった。
 「他生の縁がある人かもしれないな…」と僕は思った。


 あるときミナさんが、前日に見た夢のことをメールに書いてきた。

 夢の中に「バール」という声が響いたそうだ。そして「それは愛のいとなみだ」と告げられた。すごくはっきりした夢だったのに、その意味が彼女自身は全く分からないという。
 僕も気になって調べてみたのだが、でも結局、何の手がかりもつかめなかった。

 やがて、彼女とのメールのやり取りも途絶えていった。瞑想会以降、直接会うことも一度もなかった――


 それから3年ほどたった。

 僕は会社で管理職の立場になっていたが、組織で働くことの息苦しさはどうしようもなく増していった。でも、意を決して新たな道へ踏み出すような動機は、全く何もない。
 周りからは張り切って活躍しているように見えても、内側では鬱々とした気持ちを募らせながら、月日が過ぎていった…。


 そんなある日、ダレル・T・ヘアの「ラマー 愛と魂への旅」という本を読む機会があった。
 この本の中に数百歳という賢者が出てきて、その名は「バールー」という。すぐに以前のメールのことを思い出して、ハッとした…。

 本の中でバールーは、「神とはこういうものだ」と、1本の大きな樫の木にたとえて説明する。どんな生き物もその木の一部であり、われわれ人間は葉っぱであると――。
 「人によって、木の高い場所に生まれる者もいれば、低いところを選ぶ者もいる。そのため人間は誕生するたびに、それぞれに違った場所の違った角度から、宇宙を見ることになる。その一つひとつの人生は貴重なものであり、取り替えがきかないのだ」と。

 そして、それぞれの場所で生を経験した葉の一枚一枚が、知識を木にもたらす。人が見たり感じたりしたことは、神にも見えるし感じられる。「それが私たちの生きる理由だ」と、バールーは語る。
 
 葉の一枚は枯れて地に落ち、土になる。そしてまた木の根から吸い上げられる。そして時期が来れば、新しい葉として萌え出る。それも前とは全く違う枝の、異なる見晴らしの場所で葉となって、新しい生命を享受することになるのだ、と。

 ただし、それは永遠に繰り返されるわけではないという。
 バールーは説く。「学べるだけ学ぶと、その葉はドングリに姿を変えて、今度は一本の木になっていくのだ」――。


 「これが、ミナさんが夢で見たメッセージの全体なのかも…」と思ったものの、彼女に伝えようかどうか迷った。
 何しろ3年も連絡を取ってないし、過去の夢の話なんか既にどうでもいいことかもしれない。それに、この本の内容もやや「ありきたり」とも言えるし…。

 と、色んな言い訳も頭にわいてきたのだが、でもひょっとしたら何かの意味があるかもしれないと考え、思い切ってメールを送ってみた。


 返信が来たのは、それから何カ月も後だった。
 「素晴らしいメールをいただきながら、すぐに返事ができなくて、すみませんでした。実は――」という書き出しの、けっこう長文のメールだった。

 彼女がずっと親しくしていた学生時代の先輩が、先月がんで亡くなったのだという。
 入院している間、ミナさんは何度も見舞いに訪れた。その先輩は、自分が若くして死ななければならないという運命の非情さを、どうしても受け入れることができなかった。その嘆きと悲しみは、慰めるすべもないほど、あまりに痛ましかった。

 そんなタイミングに、僕からのメールが届いた。彼女自身はバールーの言葉にピンと来るものはなかったそうだが、すぐ入院中の先輩のことが頭に浮かんだ。
 先輩は、スピリチュアルの本などにはあまり興味のない人だった。また最近は体調もすぐれず、面会はつらい様子だった。
 でも思い切って、再び見舞いに行ってバールーのメッセージを伝えてみることにした。

 先輩はずっと黙って聞いたあと、「私はその話を、ずっと以前から知っていた気がする。やっと思い出した…」と言った。

 そして、「わざわざ伝えに来てくれて、本当に良かった。今こうして、人生の理由が分かり、その心持ちで旅立っていくことができそう…。この人生は長くはなかったけど、本当に素晴らしいことも色々あった…。次の、新しい葉っぱからの見晴らしは、どなんものだろう。いつかドングリになれるときが楽しみだな。そのメールを送ってくれたという人に、できればいつかお礼を言わなきゃ…」と、微笑んだそうだ。
 彼女が先輩に会ったのは、それが最後になった。


 「本当に、この世界は不思議なものですね」と、ミナさんはメールで語っていた。

 座禅会でたまたま出会って、彼女が3年前に夢を見て、そして僕が本を読み、そのメッセージが、ひとりの命の旅立ちの助けになった――。
 誰がいつ、どのようにつながっていくのかも分からない、不思議な輪のような構図だ。


 それから数日後のこと。僕はいつも通り出勤した。
 自分の席に着こうとしたとき、ハッと目を見張った。

 僕の机の上に、いくつものドングリの実が、置かれていた!!――

 誰からのメッセージであるかは、すぐに分かった。今度は僕に、人生の真意を伝えてくれている…。

 そうして僕はためらいなく決心した。会社を辞めて、魂が本当に求めている、新しい経験に向けて踏み出そうと。


 席の前で棒立ちしている僕を見て、同じ部の若手社員が不思議そうに近づいてきた。そして机を見るなり、思わず声を上げた。
 「あっ! これ、またネズミがやったんじゃないっすか? すぐ総務部に言わないと」…


◇        ◇

 定例の、結びのヒーリング音楽は、吉村弘「Time After Time」。
 水琴窟の滴のような、静かな響きと間合いが何とも素敵です。
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 南米アマゾンの最奥部。果てしないジャングルによって文明から隔絶された地に、1万年前から変わらない原初の人間の暮らしを今も続けるヤノマミ族が存在する。
 地球上の「最後の石器人」とも呼ばれる人々だ。


 4年ほど前のある日にたまたまテレビをつけたとき、この原住民のドキュメンタリー番組のエンディング・シーンが映った。

 何かを大きな葉っぱで包んだものが、ジャングルの木につり下げられていた。十代中ごろの1人の若い女性が、その包みをじっと見つめ、そしてその場から立ち去っていく――、という場面だった。

 このときは、葉っぱの包みが何であるかは分からなかった。でも、何かの道具などではないことは、すぐに分かった。
 彼女の、まるで自分の一部を置き去りにするような目線と足取り、そしてカメラのとらえ方にも、見るからに「異様」な印象が込められていた…。

 同時に、ジャングルの深々とした光景や、木漏れ日が差す小川のきらめき、そして女性が放つ人間としての鮮やかな生命感が、目に染み入るように美しかった。
 まるで、自分の内なる記憶の世界を眺めているような感覚がした。

 結局、テレビをつけてからエンディング・シーンを2分ほど見ただけで終わってしまい、この番組を最初から見ていなかったことを、ものすごく残念に思った――。


 それからどうしても忘れることができずに調べてみたら、このNHKスペシャル「ヤノマミ」は、放送文化賞を受賞して劇場公開版まで作られた、ドキュメンタリーの傑作だった。
 DVDも出ていたが、それよりも番組ディレクターが執筆した本がとても面白そうだったので読んだところ(その本もノンフィクション賞を受賞)、渾身のルポルタージュに引き込まれてしまった。

 ジャングルで捕らえた動物を解体して食べる狩猟採取の食生活、女性たちが森の地面で行う出産――。1万年前から続くその暮らしは、今の自分たちとはあまりに掛け離れたものだ。


 しかし一方で、集落の人々が触れ合いながらいつも笑ったり悲しんだりして、そして何より、エゴ丸出しで他者に嫉妬し、絶えず争い、秩序に背いたり、怠ける…。その人間としての本質は、現代人と完全に同じである。
 まるで彼らが、「原住民の身をまとった私たち自身」のように映る。

 人間のエゴというのは、本当に原初の時代から変わらずに、ずっと植え付けられているわけだ。
 経済社会の価値観に触れず、奥深い大自然と一体となって暮らしていても、こうした性質は決して離れることのない、人として生まれ持った「業」なのだ――。
 そんな事実をストレートに思い知らされ、愕然としてしまった。


 ちなみに、番組のエンディングに出ていた葉っぱの包みに入れられていたものは(そうだろうと察しながらも、そうでなければと願っていたのだが)、嬰児の遺体だった…。

 ヤノマミの女性は、森で出産したその場で、産んだ子を人間として育てるか、それとも精霊としてあの世に送り返すかを決める。
 あの世に返すことにした場合、産んだ子の息を止めてバナナの葉で包み、それをシロアリに食わせて埋葬するのだという。


 もし生まれた子供をすべて育てたら、周辺のジャングルの資源では養いきれないほどに人数が増え、部族が存続できなくなってしまう。だから人口調整のためにも、産んだ子を「あの世に返す」というショッキングな風習があるのだろう。
 そして彼らの文化では、人間自らも「食物連鎖」の中に入っている…。

 大勢の人々が生きていける「農耕文明」とは逆方向ともいえる、彼らは彼らなりのやり方で、石器時代からずっと変わらずに存続することができているわけだ。
 その風習のことを、恐ろしいとかむごいとかだけで、決して言い表すことはできないだろう。


 ネットで色々と調べていたら、個人のブログなどに「テレビで見たヤノマミのことが、いつまでも頭を離れない…」といったコメントがいくつかあった。
 僕もその一人だけど(しかも4年前に終わりの部分しか見てない)、たぶん彼らの姿が、人の心に共通して刻まれている遥かな記憶を呼び覚ますからかもしれない…。


 現在の私たちは、農耕文明の発展した社会にいる。人口調整などが必要ない状況に生きていることは、素直に幸いと言えるだろう。

 でも、その上で自分はどう在るのか?――

 原初の記憶と発展の上に立ち、周りが満たされ、でも人間としての本質は変わらず、他者との関係性に囲まれ、死を避けられない身体を持ち、この半生のさまざまな経験と感情エネルギーの集積を抱えながら――、その上で自分はどう在るのか?
 
 それは、1万年前からもずっと問われていたことかもしれない。
 でも決して、「永遠の問い」ではない。



 結びのヒーリングミュージックはSoren Hyldgaard「Children’s Playground」。

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 宇宙から地球に飛来する隕石などの物質は、1日あたり何と25トン!にも上るそうです。

 「じゃあ、地球はどんどん大きくなっているの?」と思えるけど…
 地球の誕生から45億年にわたり毎日25トンの隕石が落下したとしても、その合計は地球の全重量の1億分の1にも満たない。

 壮大な地球からすれば、文字通り「微塵もない」量なわけだ。


 でも、石や氷とかだけなら取るに足らないものかも知れないけど、実は隕石の中には、私たち生命の進化を引き起こすウイルスが含まれている――、という仮説がある。

 かなり前に読んだものだけど、「生命(DNA)は宇宙を流れる」(フレッド・ホイル著)という本は、「宇宙から降り注いでくるウイルスが、地球上の生命を遺伝子レベルで進化させている」と主張する。 
 同書では、インフルエンザなどのウイルスが、人から人へ伝染したとは考えられない速さで世界各地に同時発生しているといったデータを使いながら、宇宙飛来説を実証している。

 僕も最初に読んだときは、「すごく面白いトンデモ説」と思っていた。けど、その何年か後に、NASAの研究チームが隕石の中に生命の痕跡らしきものを発見したというニュースが発表されるなど、だんだん真実味のある話にもなってきた。


 ちなみにダーウィンの進化論の立場では、生物の進化のきっかけとなるのは、「遺伝子のコピーミス」である。

 コピーミスが生物の「突然変異」を引き起こして、それによってより環境に適した形態が獲得されていく、というプロセスだ。
 この場合の進化は、「偶発的な結果」といえる。


 一方で、宇宙からのウイルスが進化を引き起こしているという説の場合、どの隕石がいつ地球に飛来するかは、物理法則的に確定している。またDNA情報がどう置き換われば、生物がどのように変化するかも、超高度な生命工学のレベルから見れば明らかであろう。

 つまり宇宙飛来説を深読みすれば、生命がいつどのように進化するかが、「あらかじめ決まっている」と見ることもできる。


 スピリチュアル的に語るならば、地球上の生命の進化そのものが、イスラムでいう「マクトゥーブ」(神の手によって既に書かれている)であり、またブッダのいう「タタータ」(起こることだけ起こり、それ以外は起こらない)であるわけだ――。


 で、話がちょっと飛ぶけど…
 宇宙飛来説の余得ともいえるのが、風邪を引いて体調や気分が優れないときに「いま自分の体の中に、宇宙からの進化プログラムが取り込まれているんだな」と、とても前向きに考えられることだ。

 それは、「1人の人間にとっては小さな風邪だが、人類にとって偉大な進化である」と、言えるかもしれない。


 ちなみに、記事冒頭にある奇怪な物体の写真は、「バクテリオファージ」と呼ばれる、細菌に感染するウイルスである(その大きさは、細菌よりもはるかに小さい)。

 頭の箱みたいな部分に、らせん状のDNAが「格納」されている。そして、クモのような脚で細菌の上に「着陸」すると、DNAが中央の胴を通って細菌の中に注入される、という仕組みだ。

 こういうのを見ると、「本当に宇宙から飛来したのでは!」と思えてきますよね…。



 最後のヒーリング音楽は、Kavin Hoo「Still, Still, Still」。
 オーストリアのクリスマスソングなのだけど、幼少期の思い出のみたいに懐かしい感じのピアノに心癒されます。

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 きょうのブログはちょっと新しい趣向で、超短編の小説風のストーリーを書いてみました。

 テーマにしたのは、大胆にも1人のミュージシャンの半生そのもの。スピリチュアルな観点からとらえてみると、ふつうなら描写を加えるべき本題的な部分が単なる事実関係の羅列だけになったり、一方で余談的な情景をクローズアップしたりと、価値観がコロッと転換するところが、書いてみて面白いですね。

 いかがでしょう?……


◇        ◇

 永瀬翔は、1980年代後半からヒットを連発したシンガーソングライターだ。
 学生時代に路上ライブを行い、19歳のとき目を留めてくれたプロダクションに所属した。
 プロとしての初仕事は、都下の遊園地での無料コンサートだった。秋口の小雨が降る日、観客はたった1人。それも、付き合いで来てくれた学校の後輩だった…。

 やがて永瀬は、売れっ子ミュージシャンのステージの前座なども務めるようになった。
 でも観客たちはもちろん永瀬の曲が目的ではないし、こんな無名の若手のことなんか誰も知らない。茶化すような「帰れ!コール」が、歌い終えるまで容赦なく浴びせられた。

 変化は、不思議な流れのように急にやってきた――。
 ステージに立つ永瀬は、あるときから「帰れ!コール」が少なくなっていることに気付いた。リズムに乗って聴いてくれている観客も、ちらほら目に付くようになった。
 時には拍手や歓声が上がったり、何人かの観客が立ち上がるようになった。そしていつの間にか、大勢が手を振りながら一緒に歌うようになっていた。永瀬の歌に、会場は沸き立って一つになった。


 そこからシンガーソングライター永瀬翔は、まさに破竹の勢いで躍進した。
 ヒットチャートのトップクラスに立ち、全国ツアーのライブは数十本にも及んだ。
 時代の寵児となった永瀬は、自分を最初に発掘してくれたプロダクション担当者たちと共に、新しい会社を立ち上げた。これからは自分が経営者として、この有能な仲間たちを率いる立場になったわけだ。
 
 「新事業」の話が持ち込まれたのも、その仲間からだった。
 音楽や映画など、日本の芸術文化の担い手を育成する事業に乗り出すことは、永瀬の大きな夢と一致した。
 ところが、話には裏があった。順調に滑り出したように見えたそのプロジェクトは、数年で頓挫。億単位の負債が致命傷となり、永瀬の会社はあえなく破綻してしまった。

 事業の話を持ち込んだかつての仲間は、突然姿をくらました。弁護士に相談したところ、事業にかかわる取引の違法性は明らかでないものの、かなりグレーだという。金を目当てに、相当詳しい者と手を組んで、巧妙な罠を仕組んだのだ。
 「俺はだまされた!」――永瀬は憎しみで燃え上がった。見ず知らずの詐欺師ならまだしも、信頼を寄せていた長年の仲間に裏切られたことに、立ち直れないほどズタズタに打ちのめされた。絶対に許すことなどできなかった。

 そこから人生の潮目が大きく変わった。新譜がヒットチャートに上がることはなくなり、ちやほや持てはやすように群がっていた業界関係者たちも、周りから一気に消えた。
 すべての変わり目となったあの裏切りに対する恨みを、ずっと忘れることはなかった。

 それでも永瀬は、音楽活動をやめなかった。
 アルバムはそこそこ売れ続けたし、コンサートでも数百人のホールが一杯になった。自分が歌い続ける限り、ずっと支えてくれるファンの存在は本当に有難かった。


 そして最近のある日のこと――、仕事で訪れていた地方の街を歩いるときに、ばったり「あいつ」の姿を見つけた。自分を裏切って消えた、かつての仲間の男だ。会社の破綻以来、十数年ぶりだった。

 永瀬は駆け寄り、背後から肩をポンとたたいて声をかけた。「よう!」
 何事かと振り向いた男は、顔を合わせたとたん、アッと声を上げてのけぞった。そしてまるで閻魔と向き合ったみたいに、顔を蒼白にして固まってしまった。
 
 永瀬は笑顔だった。それも憎しみを宿した冷笑ではない、心からの満身の笑みだった。
 「元気か?」と永瀬は尋ねた。男は言葉が出ないまま、震えるように何度かかすかにうなずいた。
 「そうか!」と言って、永瀬は男の肩をポンポンッと励ますようにたたくと、そのままスタスタと歩いて去ってしまった――。
 

 実は永瀬は、自分を裏切った男にいつかどこかで会ったときには、必ずこのように振舞おうと心に決めていた。裏切りとか金のことなんか気にせずに、あっさり許してしまおうと。自分は、それだけの器であると…。

 男のもとを立ち去る永瀬の胸には、言葉に尽くせぬほどの開放感が湧き上がってきた。
 それはまるで、自分が生まれる前から背負っていた荷を下ろしたようだった。かつて誰もが失敗した大仕事を、自分がやっと初めて成し遂げたみたいな安堵感だ。

 街を歩く永瀬の頭に、ふと驚くような考えがよぎった。
 ひょっとしたら自分の人生は、この「許し」のためにあったのではないか?――。曲作りの中身とか、プロとしての業績などは実は二の次で、本当の目的はこの「許し」だったのではないだろうか。

 「許し」を経験するために、仲間の裏切りがあった。それを引き起こすために、歌のヒットがあり、コンサートでの観客たちまでいた。かつての「帰れ!コール」も、ここへ至るための一部だったのかもしれない。さらには…、と考えたところで、永瀬は自分を呼ぶ声がすることに気がついた。


 「永瀬さん! 永瀬さんじゃないですか。こんな所で、お久しぶりです」――。見ると、昔の学校の後輩だった。あの、初仕事の雨の遊園地で、たった1人の観客だったその後輩だ。

 永瀬は目を丸めた。「驚いたな。きょうは不思議な日だ…。懐かしい人に立て続けに会うなんて」
 「そうなんですか。僕はここへ転勤で来たばかりなんですけど、いきなり永瀬さんに会うなんてびっくりですよ。でも、今も変わらず元気にご活躍の様子で、何よりです!」と後輩は声を弾ませた。

 「ああ」、と永瀬は表情を崩して言った。「俺は、不滅に元気さ」――。

◇        ◇

 定例の結びのヒーリングミュージックは、Kristian Borregaard「City Walk」。

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 自分の体や心境の変化によるものなのか、あるいは周りの世界の方が本当に変化しているためなのかよく分からないのだけど、最近ちょっと感じている「異変」について書いてみようと思います――。

 異変は2つあって、まず1つ目は「外の景色が不思議なほどに輝いて見える」ということだ。
 これは昨年夏に「あれっ?」と思い(最初に気付いたのは海外旅行から帰って来たときだった)、とりあえず感じたままをこのブログの「光出る国」という記事に書いてみた。

 以降も、晴れたときは日の光がまぶしすぎるくらい明るい。空の雲や周囲の建物、道路、街路樹などあらゆるものが、降り注ぐ光に包まれて輝いているみたいだ。これまでの人生経験の中でも、「異常」と呼んでいい。
 人と一緒に外にいるときに「最近、日の光が明るくない?」とか尋ねてみるのだけど、「ああ、いい天気だしね」といった答えしか返ってこない。


 やっぱり自分だけの個人的な感じ方なのかな、と思っていたら…
 愛読している滝本洋子さんという方のメールマガジンに、先月、まったく同じことが書かれていた。

  太陽の輝きが今までと全く違うのに気付いた?
  花や、空や、木々が信じられないほど鮮やかになっている!
  でも、みんなそれにあまり気付いてないみたい。
  昔の真冬の太陽は、こんなにもまぶしくなかった。
  そして太陽の光が信じられないほど神々しい輝きだよ!
  光が地球上で確実に増している。
  ほら、空気感が驚くほど透明。
  前のようにどんよりしていない。
  私達人類は確実に次元上昇の道を進んでいる!



 ――どうでしょう? ほかにも同じように感じている方って、実はけっこういらっしゃるのだろうか…。
 これが本当に「次元上昇」とかの現われだとしたら、素晴らしいね!


 最近の「異変」のもう1つは、「春の香りがする」ということ。

 これは数週間前、1月のまだかなり寒い晴れた日に、ベランダで洗濯物を干しているときにハッと気付いて驚いた。
 季節的には冬なのだけど、草木が内に保っているエネルギーを、春の芽吹きに向けて少しずつ動かし始めた――、その生命活動から発せられる精妙で何とも気持ちのよい「香り」が、空気に満ちているのだ。

 何の香りなのかを誰かに説明されたわけでもないのに、なぜか本能的な感覚で分かる。冬ごもりしている色んな生き物たちも、この空気の香りで目覚めへの準備を始めていくのだろうと思う。


 これまでにも、2月中下旬くらいに、春の気配みたいなのを何となく感じたことはあった。でも、これほど早い時期に、しかもはっきりした「香り」として感じ取ったのは全く初めてだ。

 自分の嗅覚が敏感になったからなのかどうか分からない。
 これもひょっとしたら、単なる春の季節ではなく、もっと大きな変化に伴うものなのだろうか…。
 誰か同じように香りを感じている方が、ほかにもいらっしゃるかも――。



 結びのヒーリング音楽は、岩田英憲「紫陽花色の雨」。(かなり季節外れですが…)
 この人のパンフルートは、まるで「歌って」ますよね。

 
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 このブログの記事分類テーマの1つに、「浄化ウォーキング」というのがあります。

 これは僕の造語なのだけど、見晴らしのいい一本道を何も考えずにガシガシと長距離ウォーキングをすると、本当に心身が浄化される感じがする。
 その効果は、料金のかかるデトックスのワーク以上ではないかと、僕自身は思っている。

 で、このテーマの記事はしばらく書いてないけど(あまりに単調でトピックが見当たらないので…)、でも「浄化ウォーキング」自体は今も定期的にしている。


 歩くのは、東京の大河川である江戸川、荒川、多摩川などの堤防。
 堤防の上にはまっすぐな歩行者・自転車道が延々と整備されていて、周りよりも小高くて眺望がいいし、河川敷には原っぱが遥か先まで広がっている。

 その風景は、「男はつらいよ」や「金八先生」などの定番シーンとしてなじみ深いし、ベストセラーになった「もしドラ」の表紙絵もそうだ。
 河川敷の堤防というのは、どことなく、人々が営む日常世界のふちに立つみたいな、少し特殊な所という感覚がする…。

 アラブの人々が、街外れから砂漠を目にするとき、人間の手の及ばない神聖さを感じるというけど、同じように日本人の精神性においては「川」が、こちらの浮世との境域みたいなものを象徴するのかな、とも思う。

 ま、東京の川を眺めるくらいで、そこまでの感慨が浮かぶのであれば、何とも安あがりである。

 
 ただ最近ちょっと問題に感じるのが、同じところを歩いていると、さすがに飽きてくる…、ということだ。

 もちろん、ウォーキング中はノーマインドを保つようにしているし、変化の少ない景色はむしろ好都合である。
 とは言っても、わざわざ電車に乗って「非日常」を望んで行くわけなのだから、「あの向こうには何があるのかな」とか「あとどれくらいで着くのかな」といった、ちょっとしたワクワク感や、先の読めない不確かさは、少しくらい欲しいと思う。


 こんなウォーキング程度でさえそうなのだから、ましてや「人生」となると、なおさらのことだと思う。
 もし先の展開が難なく確信できたら、この世を生きることがものすごくつまらなくなってしまうに違いない…。

 経験する「価値」というものは、実は「不確かな状況」だからこそ生まれるのだろう。それに伴う「不安感」は、実は魂にとって待ち望んだ「楽しみ」なのかもしれない。


 で、最近は多少の変化を求めて、荒川水系の入間川を主たるコースにしていた。
 ところが入間川の景色もほとんど目に染み付いてしまったので、先日はその支流である越辺(おっぺ)川、小畔(こあぜ)川、都幾(とき)川を歩いてきた。
 (僕も最初読めなかったけど、ちょっと難読ですよね…)

 いずれもれっきとした「一級河川」で、血税の注がれた立派な堤防が整備されている。
 多摩川などに比べて圧倒的に田舎のため、人にほとんど出会うことがない(もし途中で急病とかで倒れたら、しばらく誰にも発見してもらえないかも…)。本当に、日常からずいぶん離れた辺境にいるみたいな感じがしてくる…。


 ――普通は「歩く瞑想」というと、ゆっくりと一歩一歩に神経を集中しながら歩くヴィパッサナや、長時間の坐禅の合間に行う経行(きんひん)が思い浮かべられる。
 そうした手法に反するかもしれないけれど、長距離ガシガシ歩くというのは、気持ちよくマインドが「空っぽ」になる上に、腹の底にわだかまっている余計な感情エネルギーなども燃焼されて、とてもいいですよ!



 結びのヒーリング音楽は、Llewellyn「A New Beginning」
 ふだん聞いているネットラジオでよくかかる素敵な曲のひとつです。

 
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プロフィル

Koudai Mitsuna

Author:Koudai Mitsuna
 
光奈 広大(みつな・こうだい)

 20年のあまりのサラリーマン生活を経て、いわゆる「ザ・マネーゲーム」を何とか卒業。今では束縛されない自由な日々を存分に味わっています!

 そうした中で心がけているのは、普通の日常的な行いを通じて、意識の進化を目指す「カルマ・ヨガ」。

 日々の喜びや学び、インスピレーションから得たスピリチュアルな気付きなどをブログで紹介しています。

 妻子と都内在住――。





http://facebook.com/koudaimitsuna

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