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 台湾に4日間の家族旅行に行ってきました。
 北京・上海・香港は以前に訪れたことがあるけど、台北は初めて。大陸の大都市に比べると、雰囲気や気質がとても「日本に近い」という印象ですね。

 街のあちこちにセブンイレブンとファミリーマートがあって、店内には「コアラのマーチ」やら「なっちゃん」やら、日本のかな書きの商品がそのままびっしり並んでいる…。
 日本のお家芸といえば家電製品と自動車だったけど、今やコンビニとお菓子なのかな。


 で、今回はショートシートの物語です。

 聖書に、貧しい寡婦がわずかな有り金すべてを神殿の賽銭箱に入れて、それを見たイエスが「彼女は誰よりも多くを入れた」と語る話があります。
 では、有り金とは言わず、最後に残された命までをすべて投じたならば…と思い、ちょっとお話を考えてみました。

 全体をネットで読むにはやや長そうなので、4回くらいに分けて載せますね――。


◇        ◇

 チョガルは、まだ顔つきもあどけない、16歳の少年だった。

 清流をはさんで田畑が広がる、都から離れた村に、母親と2人で暮らしていた。父親は数年前に、隣国との戦に兵として駆り出され、そこで殺されてしまった。
 チョガルの家は、小規模な農作と手工芸を生活の糧としており、暮らしぶりは楽ではなかった。


 この地域には、自分の食事を少しだけ食べ残すという、古くからの風習があった。
 粗末な食事でも、困窮している時でも、必ず少量を食べ残して、それを薄紙に包んで家の外や屋根の上にパッと放り投げる――。それが自然の生き物への施しになり、天への供え物になると信じられていた。

 「自分が持っている最後のものは、与えるためのもの」。母親は紙の包みを放りながら、よく口ぐせのようにチョガルに言い聞かせた。

 自分が持っている最後のものは、与えるためのもの――
 そうは言われても、若いチョガルにとっては、そのわずかな食べ物でも自分の口に入れたい気持ちはやまやまではあったけれど…。


 ある日、領主からの通達が来て、村の会合が開かれた。
 隣国との大きな戦が再び始まり、兵となる男をこの村からは10人送り出さなくてはならないとのことだった。

 進んで戦に行こうとする者は誰もいなかった。村にとっても、これだけの働き手が出て行くことは非常に大きな痛手だった。
 村人たちの話し合いの結果、人選は村の長に一任することになった。村の長はやむなく、10人を選んで名を読み上げた。


 16歳のチョガルも、その1人に選ばれてしまった。

 体が小さく気弱な彼にとって、戦に行くことは死を意味するに等しかった。
 母親は、すでに夫が戦で亡くなっていることを訴えたが、聞き入れられなかった。何しろどの家も、状況は似たようなものだったから…。

 そうしてチョガルは、故郷の村を離れ、都の向こうに連なる山々のさらに彼方にある見知らぬ地へ、兵の1人として赴くことになった――。
(次回へ続く)

◇        ◇

 結びのヒーリングミュージックは、Ian Boddy & Erik Wollo「Reverie」。

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 僕が日常的にしている運動は、ヨガとウォーキングです。

 ウォーキングは、週に1度くらい電車で郊外に行って、20~30kmほどをまとめてドカッと歩いていた。でも最近、ちょっと方針転換して、近所の5kmを毎朝歩くようにしている。
 都内の住宅地なので景色はあまり良くないけど、でも日々の生活時間の中に組み入れてパターン化できる点は良いかなと思う。

 歩いている最中はいつも無思考を心掛けている。でも、色んな雑念はある程度の頻度で去来する。
 そしてたまに、何かメッセージのような直感が、脈略もなくフワッと浮かび上がってきたりする。それをよくブログのネタにもしている。


 で、きのう聞こえてきたのは、こんな言葉だ――

 人は「生きるため」にいるわけではありません。
 他者を「生かすため」、そして自分が「生かされる」ために、
 人はここにいるのです。


 あまりパッと意味が迫って来ない、いかにも無害な感じの文言なのだけど…。でも考えてみると、けっこう気持ちが軽くなるような言葉だ。
 面白いのは、自分も他者も、姿勢が完全に「受け身」ということだろう。


 もし私たちが、能動的に「生きるため」にいるのだとすれば――、そして世界が「生きるため」に生きる人たちでひしめいているとすれば――、この世界というのはすごく厄介なものになってしまう。

 そこは、食べるために働き、競争を戦い抜かねばならない過酷な場となる。負けてしまえれば、生の目的は完遂されず、自らの価値が損なわれることになる…。
 でもこれが、多くの人の目に映る、かなり普通の世界観かもしれない。


 それに対し、私たちが他者を「生かすため」にいるという視点は、大きな救いといえるのではないか。
 「人は、自分で自分の願いをかなえることはできないが、他者の願いをかなえてあげることはできる」と言われるけど、まさにそのことが生の目的になるわけだ。

 このとらえ方だと、他者という存在は、対立して競争する相手ではなく、生の目的を遂行するための対象となる。
 すると、この世界から、自分の価値を脅かす障害は消えてしまう。あらゆる関係性は、心地良いものも不愉快なものも、大切な意味を持つチャンスとなる…。


 さらにこれと並立して、自分が「生かされる」とういことも、生のもう1つの重要な目的になっている。

 「生かされる」とは、他者に与えるだけでなく、他者から喜んで受け取るということ。そして、宇宙の大いなる力に、安心してゆだねること――。
 また私たちは、「生かされる」限りは、この世界に生きていく。だから死すらも、無理に避けようとして恐れる必要はない…。

 詰まるところ、自分が生きるため、あるいは自分自身が何かになるための自主的な努力というのは、「そんなものは、せんでよろしい!」ということになる。

 なかなか胸のすくような考え方だと思えませんか――


 追伸: 今日から4日間、台湾へ家族旅行に行ってきます! パソコンは持ていくけど、記事の更新はちょっとの間できないかも。



 結びのヒーリングミュージックは、Rudy Adrian「Autumnal Twilights On Victory Beach」

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 臨床心理学者の河合隼雄のインタビュー本を読んでいたら、とても面白い一文がありました。

 症状が重い患者に対し、河合氏はときどき「あなたは絶対に治らないだろう」と言ったそうだ。
 でも、「偶然というのがあるから、僕はそれに賭けている。だからやってみましょう」と伝える。そうすると、治りそうもなかったような患者が、実際に治っていくのだという。


 河合氏は、こんなふうに語っている――。
 「僕は何をしているかというと、偶然待ちの商売をしているんです。みんな偶然を待つ力がないから、何か必然的な方法で治そうとして、全部失敗する。僕は治そうとなんかせずに、ただずっと偶然を待つだけです」


 この「偶然を待つ力がない」とか、「必然的な方法で全部失敗する」という指摘は、私たちの世界の色んな物事についてあてはまる。

 ちなみに、ここでいう「偶然」とは、ランダムに発生するわけの分からない事象、といった意味では決してないだろう。
 あえて言い換えるならば、「人の意図的な努力とは違う力」とか、あるいは「自然に現実化が起こってくる力」ということかもしれない。


 そして、この「偶然」こそが、実は究極的な「必然」なのではないか。

 それは、人の作為を超えて「起こるべくして起こる」こと。ときに「奇跡」とも呼ばれるもの――。そんな、常識からかけ離れた必然のことを、私たちは日常的に「偶然」と呼んでいる。


 この「究極的な必然としての偶然」を引き起こすための唯一の方法が、ただじっと「待つ」ということなのだろう。

 だから、信じて待つことをしないで、あれこれ行動しているときには(その行動の背後には抵抗や不安がある)――、望むことが起ってくる力は阻止されてしまう…。


 何か人生に望んでいることがあって、これまで色々と手を尽くしてきたのに一向にうまく展開しないとき――。
 もう私たちは「この状況はもう変わらないだろう」と割り切り、取り組んできた努力をパタッとやめて、お手上げするしかない。

 でも、「偶然というのがあるから、自分はそれに任せるから」と、自然に現実化される可能性を否定せずに、ただじっと待つ…。


 この「偶然待ち」の人生こそが、手放すべきものを手放し、そして起こるべきことを引き起こしていく、いわば「大船に乗った生き方」なのかもしれないですね――。



 結びのヒーリングミュージックは、Dean Evenson「Dream Space」。
 ヒーリングミュージックを聴いていると、ときどき「どんな人物がどういうふうに演奏しているのかな?」と思うときがある。その意味で、こうした本人が出ているプロモーションビデオは、とてもいいですよね。



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 今回も、スピリチュアルなショートショートのお話です。

 スーパーで買いものをしているときに思い浮かんだもので、いつもよりちょっと長めかもしれませんが、まとめて1回で載せますね。


◇        ◇

 安住ハルナは、駅前のスーパーで、レジのパートとして働いていた。
 大学を出て、今は26歳になるのだが、超氷河期といわれる就職事情の中で、これまで思わしい勤務先には巡り合えなかった。すでに3回の転職を経て、半年前からこのパートの仕事に就いている。

 スーパーの近くには、重い知的障害者のための支援施設「あさがお生活園」がある。月に1度、その施設の障害者たちがスタッフに連れられて、スーパーに「お買いもの体験」にやって来る。
 それが行われるのは、平日午後の来店客が少ない時間帯。今日はその日だった――。


 店内に入った知的障害者の中には、声を上げてはしゃぎ回ったり、床にへたり込んで動かなくなったり、ただ無言のまま車椅子に乗っている人がいたりと、その様子はさまざまだった。年代も、十代後半の若者から年輩者までいた。
 何人ものスタッフが、1人ずつの手を引いている。用具を詰めたリュックを背負いながらあちこち行き来して、とても大変そうだった。

 手のすいた時間帯なので、ハルナはレジに立ちながら、あさがお生活園のお買いもの体験を眺めていた。
 その中の1人が、買いものかごにチューブ入りのホイップクリームとイチゴを入れている。
 ケーキをデコレーションして、皆でおやつに食べるのだろう。

 「きっと、とても楽しみなんだろうな…」と、ハルナはほほえましく感じた。


 そうしていると、1人の中年女性がレジに来た。手には袋入りの菓子パンを1個持っていた。

 「いらっしゃいませ」と、ハルナはあいさつした。
 するとその女性は、食ってかかるような口調で言った。「ちょっと、これ、見てみなさいよ! パンに指で押した跡が付いているでしょ。あの人らがやったのよ」と、障害者たちのほうを横目で目配せした。

 ハルナはすぐに、「申し訳ございません。きれいな商品とお取り替えしますので」とわびた。

 ところがその女性は、「いやいや、私はこれを買うわけじゃないの。文句を言いにきたのよ」と切り出した。「買いものに来たら、あんな人らが何人も店の中をうろうろしているものだから、ギョッとしちゃったわ! この店は、一体どういうつもりなの?」


 ハルナは応えた。「施設のスタッフの方が付き添っていますし、ご迷惑にならないよう私たちも気をつけていますから」。

 すると女性は、口調を強めて言い寄ってきた。
 「ほかの人たちはあえて言わないみたいだけど、私がはっきり言うとね、ああいう人たちがいるだけで迷惑に感じるのよ。見た目にもかなり何だし、大声を出したり、手で品物を触ったり…。私たちはお客なのよ。そのお客が気持ちよく買いものができないって、どういう了見なの!」


 ハルナは、花粉症予防のために付けていたマスクを外した。そして、胸の内に噴き出てくる言葉を、何も考えずそのまま口から発した。
 「あなたのほうこそ、すぐに出て行ってください!! そんなに迷惑なら、他の店で買えばいいじゃない。あなたのような人に売る商品は、ここにはありません!」

 若いパートタイマーの思わぬ反撃に、苦情を言ってきた女性は一瞬ひるんだ。
 でもすぐに、ハルナが付けている名札に目をやり、わざとらしく落ち着いた調子で言った。「安住っていう名前なのね、分かったわ。お客に対してこんな無礼な態度を取るなんて、店の本社に名指しでクレームを入れておくわ。あなたみたいなパートなんて、すぐクビになるわよ!」

 「どうぞお好きに」と、ハルナは返した。


 すると、「ちょっと聞き捨てならないね」と、いつの間にかレジに並んでいた初老の男性が口をはさんできた。そして中年女性に向かって言った。
 「あなたね、レジのおねえさんの言っている通りだよ。それにね、私らが当たり前のようにしている買いものでも、あんな重いハンディのあるあの人たちにとっては、まるで夢のような経験だし、たいへんな冒険でもある。そんなふうに、考えたことないでしょう」

 中年女性の客は、わけが分からないという顔をして言い返した。「あなたは関係ないでしょ!」

 すると初老の男は「いやいや、関係は大ありだね」と答えた。そしてその女性客を目で見据えたまま、顔だけレジに立つハルナのほうを向けて言った。
 「僕は、気持ちよく買いものをしようと思ってここに来た。ところがレジに並んだら、社会良識がなくて人間性の欠落した、手前勝手なことばかり主張するオバはんがいる! こんな迷惑な人間を店内に受け入れるなんて、どういう了見なのか。この店に文句を言いたいね」 


 その中年女性の客は、言葉の出ないまま唇をワナワナ震わせ、そしてクルリと背を向けると、店の扉から出て行った…。

 その後ろ姿を見送った後、ハルナと初老の男は顔を見合わせた。
 何だか、ちょっとした「戦友」のような、互いのつながりを感じた――。


 すると初老の男が言った。
 「ところで、そのつぶれたパンをどうするの? 何だったら僕が買うよ」

 ハルナはあわてて、「いえ、そんなことまでしていただかなくても…」と返した。
 男は続けた。「でも、売り物にならないからって、処分しちゃうんでしょ。別にあの子らだって、悪気があって指で押したわけじゃない。そのせいで捨てることになるなんて、ちょっとしのびない…。
 たまたま僕は、パンを買うのを忘れていた。僕は膝の調子が悪いから、この広い店の中をまたパンの売り場までも戻るのも面倒だ。だからそれを買うのがちょうどいい」

 「そうですか、有難うございます! じゃあ、こちらの商品も」と、ハルナは好意を受け取り、パンをレジの読み取り機に通した。
 その男性が買ったのは、焼き魚弁当、ノンアルコールビール、そしてジャムとクリームとチョコが入った3色パン。どう考えても、最後の1品だけが不釣り合いに余計で、わざわざ買い取ってくれたことが明らかだった――。


 おつりを受け取りながら、男は不意にこんなことを口にした。
 「さっきのオバはん…、実は天使なのかも知れないな」

 「えっ!? ど、どういうことですか」。ハルナは驚いて声を上げた。
 初老の男は言った。「僕は10年近くこの店によく来てるけど、いつも黙って買って帰るだけだ。定年退職者だから、家の中でもほとんど話すことがない。
 でも、今日はずいぶん違う日だ。自分の中で長年じっとしていた大事なものが、突き動かされた気がする。
 パンとあのオバはんお陰かも知れないね。小さなつながりが世界を動かし、人の中身を掘り起こしていく…」


 さっきからずいぶん変わったことを言う人だと、ハルナは思った。夢だとか、冒険だとか、天使だとか。きれいな絵空事みたいな言葉を、よく気後れせず口にできるものだ。
 そもそも、そんなかけがえのないものが、この駅前のスーパーなんかに…。

 その時ふと、ハルナのハートをかすめるものがあった。
 何だかとてつもなく大事な、人生50年分くらいの気付きのヒントが舞い降りたような気がした。


 その男性客は、片足をちょっと引きずるようにして、店の出口に向かった。
 すると次に、あさがお生活園のスタッフが、若い知的障害者の手を引いてレジにやって来た。

 そのスタッフの人は、パンの袋を手に、申し訳なさそうに言った。
 「すみません。これ、この子が指でギュッと押して、つぶした跡が付いたんです。これは買わせていただきます。でも実は、他にも同じように触ってしまったものがあるみたいなんですけど、探しても見当たらない。きっと誰かが買っていったのかも…。もしそのクレームがあったら言ってください。こちらで弁償しますから」

 ハルナはにこやかに答えた。「大丈夫です。心配なさらないでください」


 そのスタッフに手を引かれていたのは、ハルナと同じくらいの歳かもしれない、目の小さな女性だった。ずっと無表情にうつむいていたが、一瞬ハルナのほうを見た。
 その、もの言わぬ眼差しの奥に、何かを与えてくるような光を感じた。

 ハルナは思った。
 ――そうか、あなただったのか。今日の、私のこの世界を、大きく動かしてくれていたのは! しかも、その指1本で――。


◇        ◇

 今回のヒーリングミュージックは、この分野のベストセラーであるSteven Halpern「1st Chakra」

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 以前から少し気になりながらも見ていなかった、旧作映画のDVDを2本見ました。

 ひとつはイタリア映画の『ブラザー・サン シスター・ムーン』、もうひとつはドイツ映画の『ヒトラー 最期の12日間』。
 どういう組み合わせ?と突っ込まれそうだけど…。両極端ともいえる人物ドラマを、立て続けに見ること自体が、なかなか面白かった。


 『ブラザー・サン シスター・ムーン』は、中世イタリアの聖者「アッシジのフランチェスコ」を描いたもの。

 裕福な商家の一人息子であるフランチェスコは、あるとき、自然の生き物たちが神の愛によって満たされていることを悟り、自らもその至福に包まれる経験をした(今でいう覚醒体験でしょう)。
 そして、家にあった高価な品々を窓から投げ捨て(今でいう断捨離)、「これからはキリストのように貧しき者として生きます!」と言って出て行く。

 やがてフランチェスコのもとには、同じように貧しい人々が多く集まって彼を支持するようになった。ところが、既存の教会組織はそれを快く思わず、フランチェスコの教会は焼き討ちに遭って、仲間が殺されてしまう。
 フランチェスコは、「もしも自分のしたことが間違いならば、戒めてもらいたい」と、ローマ法王のもとへ請願に赴く。ボロ布のような服を身にまとった姿のまま――。

 そして、きらびやかな法衣に包まれた法王に謁見したとき、フランチェスコはこともあろうか「空の鳥を見なさい、野の花を見なさい」と、法王に対して説法を始める。
 でも、その言葉は決して冒涜とはいえない。何しろ、彼は聖書の言葉をそのまま口にしているだけなのだから…。
 ローマ法王は、そのあり得ない行為に、大きく心を動かされる。そしてフランチェスコのもとに歩み寄ると、彼の前にひざまずく――


 …という話です。あらすじだけで、痛快で面白そうでしょう!

 この映画は、一般的には「駄作」という評も少なくない。
 でも、イタリアの丘陵地帯の風景はほれぼれするほど美しいし、随所に出てくるイエスの言葉は改めて心に染みる。そして何より、モデルであるフランチェスコの生き方が、とてもはっきりした強いメッセージを放っている。

 換骨奪胎した人物伝でも、もとの魂のメッセージが明快であれば、それほどボロボロには崩れない――、ということかな。僕自身は、ものすごく素晴らしい映画だと思いました。


 もうひとつの『ヒトラー 最期の12日間』は、ベルリン陥落のときにヒトラーが地下要塞にこもって自害するまでを描写したものだ。
 ヒトラーの元個人秘書による証言をもとにしており、ヒトラーの「人間的側面」を前面に出した点が話題になった。

 日常で個人的に人と接するヒトラーは、とても物腰やわらかな「優しいおっちゃん」として描かれている。
 ところが、「総統」としての立場でものを考え命令する段になると、激情にかられた悪魔的な独裁者となる…。


 これは以前から思っていたのだけど――、どの人の魂だって、もしもヒトラーのような人物に宿れば、全く同じように考えて行動したのではないだろうか。

 すべての人の内には、怒りや暴力性が存在している。
 自分が発した怒りや暴力が、もし自分に対する「賞賛」とか「求心力」、「栄光」として返ってきたとしたら…。しかも、それがエスカレートすればするほど、状況が自分に都合よく展開し、どんどん躍進していく結果になったとしたら…。
 たぶんやがて、周りの世界を巻き込みながら、破滅の道を突き進んでいくに違いない。


 ユダヤ人強制収容所から生還した心理学者のヴィクトール・フランクルは「人間とは何者か。人間とは、人間とは何かを常に決定する存在である」と語っている。

 今回、フランチェスコとヒトラーの映画を立て続けに見ると、本当に人というのは、どのような者にもなり得るのだなと、深々と実感してしまう…。


 でも、とても幸いだと言えるのは――、人がヒトラーになるのは容易なことではない、ということだ。
 ただならない条件を世界規模に整えた上で、唯一の立場に自分を置かなくてはならない。
 また、思い通りの人生を実現できる力が魂にはあるとしても、あえてその生き方を選ぶ人はいないだろう。あの経験は私たちの世界にとって、ヒトラーの「一例」だけでもう十分なのだ。


 ヒトラーになるのは難しい一方、フランチェスコになるためには――
 これは、誰でも決意さえすれば、すぐになることができる。

 もっとも、すべてを投げ打ってボロを着る必要はない。神の愛は、「空の鳥」や「野の花」と同じように、「先進国の生活者」だって普通に養ってくれるはずだ。
 私たちは愛によって養われている――。それを信じて、その信念をもとに生きていくという道を選ぶだけ。他に必要な条件などは何もない。


 望むべき在り方には、無条件になることができる立場に、私たちは常に置かれている――。
 このこと自体が、まさしく「恩寵」であり、「無条件の愛」だと思います。


 結びのヒーリングミュージックは、Clifford White「Hephaestus」。

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 高校生時代の、授業の思い出話です。

 当時、アメリカのスペースシャトルが初飛行に成功して、そのニュースで世界中がわいていたときのこと。授業中に先生が、おもむろにこんな話を始めた――

 「この教室の前の黒板は幅が4メートルくらいあるけど、これを地球の直径だとしてみよう。そうしたら、スペースシャトルは、どのあたりを飛んでいることになるかな…。一番前の席の君くらいのところだろうか? それとも教室の真ん中あたり? あるいは教室の後ろの壁よりさらに先の距離になるかな?」――


 宇宙を飛ぶというからには、相当な距離だろうと誰もが思った。でも、先生はこう言った。
 「黒板の表面から3センチ。たった、それだけなんだよね!」

 …このときのシャトルの軌道が高度300キロメートルというから、計算してみたら確かにその通りになる。

 いわばその程度の、黒板の表面から3センチで、もう地球の外側の「宇宙」になってしまうわけだ。
 そして、そこまでモノを1つ飛ばすのに、あんな巨大なロケットを使って、すさまじい勢いの「地球脱出速度」で打ち上げなくてはならない。

 私たちが「地球」と呼べる範囲(重力圏なり大気圏)というのは、思いのほか狭いのだということを、この高校のときの授業の雑談で思い知った…。


 高層ビルのエレベーターで20階くらいまで昇ると、気圧差で耳が痛くなる。つまりは、ビルの高さくらいで空気が薄くなってしまうほど、地球の大気の層はベールのように薄い。

 その薄いベールを、人類はせっせと汚しているわけだ…。
 また、「黄砂」がはるか中国内陸部から飛来してくるのを不思議に思う人もいるけど、これも「大気の層は高さがほとんどないから、飛び散ったものは横方向に広がっていくしかない」と考えれば、何となく納得しやすいのではないかな…


 で、スペースシャトルが飛ぶ高さは最高地点といえるけど、私たちが日常的に暮らしている範囲となると、それはもう極端に薄っぺらくて、はかないものだ。

 津波被災地の復興途上の映像を見ると、がれきが撤去された後の更地には本当に何もない…。
 震災前は、その何もない平原の上に、カーペットのように建物を一面に敷き詰めて街が形成されていた。そしてそこに、多くの人々のいとなみがあったわけだ。


 東京だって、ひと皮むけば大差はない。

 例えば「渋谷」は、その名が示す通り、単なる「谷」だ。
 地下鉄銀座線の渋谷駅は地上3階にあるけど、あれは電車が上に登ってきているわけではない。地下をまっすぐ真横に走ってきたら、低い「谷」である渋谷では、あの高さの地上に出てきてしまう。

 そして、渋谷という「谷」の周りには、青山や代官山、円山などの「山」が並んでいる。それは、どこにでもある田舎の風景と何ら変わりないものだ。(同じように地下鉄が地上に出る、四ツ谷や茗荷谷も「谷」である)

 そんな、谷や山がそのままあるところに、ビルとか道路を一面に敷き詰めて「大都市」を形作っている。でもそれらは、起伏のある床に敷いた布くらいの厚みにすぎない。


 私たちが生きるこの場所を「地上世界」なんて言うと、かなり大層なものに聞こえるけど、実際にはベールのように薄いものなのだ。
 そのすごく狭い範囲の中に、人の魂は何百回も転生を続けてきている――。

 そんな小さな世界の物事だと考えると、人生もうちょっと他にやりようがあるのではないか…、何か違う視点やとらえ方があるのではないか…、とも思えてくる。


 ただし、私たち自身もまた、ベールの一部であることを忘れてはならない。
 英語で、神の啓示のことを「reveal」というけど、これは「覆いを取り払う」という意味だ。(「veal」は、ベールの「veil」と同語源)

 この薄いベールである地上世界と、そして私たちが自分だと思っているものが、すべて取り払われたあとになお残るもの――。その何もない広がり、今の世界なんて比べものにならないほど、とてつもなく広大な「空」――。

 それが、最後に示される、真の「私」である。



 結びのリラクゼーションミュージックは、John Huling「Call of The Canyon」。

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 今回はショートショートの物語です。

 いわゆる「悟り」とか「意識の覚醒」は、スピリチュアルの分野の中核的テーマといえます。
 でも、覚醒していないからこそ可能な生き方というのがあるし、実はそれこそが、地上世界における魂の経験の要なのではないか――、というふうに考えて、ちょっとお話にまとめてみました。

 逆説的かもしれないけど、僕はこの方が素敵だと思うな…。


◇        ◇

 万年雪を頂いた雄大な山並みを望む田舎町に、「覚醒の星」と呼ばれる80歳のマスターがいた。
 そのマスターのもとへは、世界中の遥か遠くから多くの人が訪れた。

 マスターはこの世界の幻想性を明快に看破し、私たちのすべては1つであり、その本質は大いなる愛であるという真理を、魂からほとばしるような豊かな言葉で説いた。
 人々は講話に聴き入り、目の前の霧が晴れるような答えを受け取り、そして皆で輪になって瞑想し、浄化と平和のために祈った。

 マスターの住居は、質素な民宿のようなたたずまいだった。訪れた人たちはしばらくそこに滞在して、寝食を共にした。


 そうした来訪者たちの世話をする、ヨグという名の老人がいた。

 マスターとほぼ同じ年齢で、30年以上も共に暮らす最側近の弟子であり、そしてずっと雑用係としても働いていた。料理や後片付けをしたり、部屋の掃除や洗濯をしたり、お金の勘定をしたりと…。
 つまりは、田舎町の民宿のじいさんのような感じだ。


 ヨグ老人は、もちろんマスターを敬愛していたが、長年の付き合いのため堅苦しい師弟関係はなかった。「マスターには覚醒が訪れ、自分には訪れなかった…。単純にそれだけの違いかもしれない」と考えていた。

 彼の生活はシンプルではあったが、決して楽なものではなかった。時には精神的に苦しかったり、感情を揺り動かされる出来事なども当然起こった。彼は人生の成功者ではなく、聖者でもなかった。
 でもヨグは、マスターが説く真理を全く疑うことなく、無条件に信じていた。それを信じながら、人生に起こってくることを受け入れ、料理をしたり掃除をしながら日々を送ってきた――。


 マスターもヨグも、かなりの高齢だたっため、お互いにもう長くはないと感じていた。
 そしてやがて、最期のときは訪れた…。

 2人は、居間に並べて置かれたベッドの上に寝ていた。
 そしてマスターが肉体を離れて間もなく、ヨグ老人も息絶えた。


 すると、思いがけない平和が、ヨグに降り注いできた。
 まばゆい光が彼方へと導いて行き、そして永遠の存在の中で、彼の意識は目覚めた。
 ヨグはそこで、言い表せないほど荘厳で親密な愛のエネルギーと一体になった。そして自分が、人生や世界中で起こったあらゆる出来事の意味を、すべて知っていると感じた。

 それはまさしく、マスターが語っていた通りだった。信じてきたことに、誤りはなかった――。


 そのときヨグは、近くにマスターの存在を感じ取った。
 マスターは語りかけてきた。
 「ここよりもっと上がある。超えていきなさい! ここの場所は魂の旅のゴールではない。これから先に向かう、進化へのスタートなのだ」――

 ヨグは打ち震えるほどワクワクした。この場所でさえ想像を絶するほど素晴らしいのに、さらなる高みがあるとは…。そこを目指すことが、これからの自分の挑戦になる!
 そしてマスターに尋ねた。「あなたも一緒に来られるのですか?」


 マスターの答えは意外だった。
 「私はまだ、この先へ行くことができない。再び地上に戻り、人生をやり直さなくてはならないのだ」――

 ヨグは驚いて問うた。
 「どういうことですか!? なぜ弟子の私がさらなる魂の進化を目指して、マスターであるあなたが戻らなくてはならないのですか?」


 マスターは語った。
 「お前は、人生の根幹となるレッスンを終えた。私はそれがこれからなのだ。何のレッスンだか分かるかな?
 それは、『見ずに信じること』だ――。

 私の場合は、人生の途中で覚醒した。すなわち、宇宙の真実を垣間見てしまった。そのあとは単に、見た通りを信じたに過ぎない。
 覚醒を体験した以上、その人生では『見ずに信じること』に取り組むことはできなくなる。

 報いを望まずに与えること、状況がどうであれ自らを愛すること、執着せずに手放すこと、すべてのものと1つであると暗に感じること――。こうしたものは、見ずに信じて行うからこそ、真の価値がある。
 それは「自らの生の中に、真理を創造する」ということを意味する。

 この『見ずに信じること』こそが、実は、地上での輪廻を修了するための最終レッスンなのだ。お前はそれを、見事に終えることができた!」


 ヨグは、なお問い続けた。
 「でも、マスターの役割は偉大だったはずです…」

 マスターは答えた。
 「私の役割とは、人が信じるべき真実を体験して、それを語って聞かせること――。たったそれだけのことだ。

 これから私は、1人の修行僧としての生まれ変わる。そして覚醒はしない。見ずに信じることを、存分に経験することになる。ワクワクするよ――!
 そうしたのちに、再びお前に会うことを、心から楽しみにしている」


 ――そう言ってマスターは、小さな輝きを放ちながら、地上へと飛んで行った。
 一方のヨグは、高みの光の中へと、溶け込んでいった。


◇        ◇

 結びのヒーリングミュージックは、Llewellyn「Journey」。
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 本や映画の物語、あるいは現実の人生展開において、その行き先を決めている「力」とは、どういうものだろう?――

 それは、自分が「動く力」でなく、また周りを「動かす力」でもなくて、実は「動かされる力」ではないだろうか…、という話を前回記事で少ししました。 今回は、その続きです。



 この「動かされる力」について、作家の村上春樹がこんな話しをしている。村上氏は「主人公の中にある、向こうから来る力に対抗する一種の『動かされる力』みたいなものにすごく興味を持った」と語り、そして次のように説明する――

 「その力は自我じゃない。これが自我と外界の力のぶつかり合いであれば、話は簡単になる。図式として分かりやすい。
 そうじゃなくて、自分の中にある不分明な力が、外から来る不分明な力に呼応し、そこに新たな不分明な流れが生じる。
 それ自体のロジックを持ってはいるのだけど、僕らの目にはとりあえずブラックボックスとしてしか映らない」――。


 これがとても面白い捉え方だなと思うのは、主人公つまり人を動かしている力というのが、「自我」ではないという点だ。
 確かに、小さな自我は周りの状況について「いやだ」とか「こうしたい」とか色々言うけれど、それを動かすパワーはない。

 もうひとつ面白いと思うのが、自分の内にある力と、外にある力とが存在して、それが「呼応」するという考え方だ。これも、誰もが感覚的に分かるんじゃないかな。
 よく言われる「ワクワク」なんか、まさしく呼応している感じだ。また逆に、自我は「ノー」と言っているのに、何かに突き動かされるように新しい所へ踏み出していく、という経験もあるだろう。


 この「動かされる力」――、ロジックを持っているけどブラックボックスにしか見えないその何かを、いわば「闇」として描き出すのが、小説家の視点だろう。

 一方でスピリチュアルな観点では、そのブラックボックスが「魂の意思」であり、大いなる「I AM」であり、それに降服してゆだねて生きていくしかない…といった見方になる。


 私たちの生において究極的な選択というのは、どちらをするとか何かになることを選ぶのではなくて、単に「動かされる力」によって動いていくことを選ぶ――、ということなのではないだろうか。

 とは言っても、私たちは既に「動かされる力」によって動いているわけだから、それは選択ですらない。
 選択でなくて「覚悟」とも言えるけど、覚悟しようがしまいが結局はそのように動かされるわけだから、覚悟でさえ全く意味がない…。

 何だか答えに行き着かない禅問答みたいになってきたけど、こういうのこそ真理に近いのではないかなと思う。
 「あなたが幸せになるにはこれをすれば良い!」といったメソッドよりも極端にシンプル。もう、そう在るほか道はないわけだから…。


 でも、自我はこんなふうに言う――
 「動かされる力だとか、そんなものに頼って任せていたら、人生どうなるか分かったものではない! 世界を旅したいのに田舎にとどまるよう仕向けられたり、逆に、腰を落ち着けたいのに旅を続けさせられたり…。真我とか神なんかよりも、私自身のほうが自分が何をしたいのかよく知っている! その実現のために、真我や神の力を使いたいのだ」と。
 そんな自我のヨタ話に耳を貸すかどうか… 私たちに与えられている選択というのは、せいぜいそれくらいなのかも。

 と、前回記事の映画の話題から、こんな話にまでたどり着いてしまいました…。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Diane Arkenstone「The Secret Garden」

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 先日、『素晴らしき哉、人生!』という、古いハリウッド映画のDVDを見ました。1946年のモノクロ作品で、アメリカでは毎年クリスマスの日にテレビ放映される定番だそうです。


 あらすじは――
 主人公のジョージ・ベイリーは、子供のころから「故郷を出て世界を旅する」ことが夢だった。しかし父親が急死したことで、家業である小さな町の金融業を継ぐことなった。ジョージは心血を注いで実直に働き、家庭生活にも恵まれた。

 ところがある日、不運なミスで多額の事業資金を失ってしまう。ジョージは絶望して自殺を図ろうとする…。そこに、天国でまだ見習い中という頼りない天使が、彼を救うためにやって来た。

 「自分は生まれてこなければよかった」と嘆くジョージに、天使は、「もし彼が生まれてこなかった場合の世の中」というのを見せてあげる。
 するとジョージは、これまで自分が意図せずに行ったことが人々を助ける力となり、世界を大きく変えてきたことに気付かされる…。


 ――という話です。けっこう面白そうでしょう! 結末はクリスマス・キャロルというかバック・トゥ・ザ・フューチャーというか…、それより素敵かも。


 僕が、このストーリーとつい対比して考えてしまうのが、ブラジルの作家パウロ・コエーリョの世界的ベストセラー『アルケミスト』だ。
 その主人公の少年・サンチャゴも同じく、「故郷を出て世界を旅する」のが望みだった。

 サンチャゴのほうは実際に旅に出る。
 途中で所持金をすべて盗まれたり、故郷に帰れるだけのお金を儲けたり、運命の女性に出会ったりしながらも、彼は旅を続けようという思いに常に突き動かされる――。

 読んだ人なら知ってると思うけど、物語のところどころで、「旅を夢見ながらとどまり続けた人」が出てくる。父親、パン屋、クリスタル商人…。主人公自身は、そのような運命には背を向けるように、旅の道を進む。


 一方のジョージ・ベイリーの場合、まさに「旅を夢見ながらとどまり続けた人」ともいえる。
 都会への大学進学や新婚旅行のときまでも、いよいよ旅立とうという段になると、思わぬ出来事が起こって足止めされてしまう。そして望みを果たせないまま、小さな町に残ることになる。
 故郷を離れた友人や兄弟が、広い世界で成功を収める一方で…。


 双方の物語はあまりに対照的なのだけど、でも不思議なことに、ほとんど同じ共感を胸に起こさせる。

 「旅に出る・出ない」は、物語展開の大きな岐路だが、実はどちらでも同質なのかもしれない…。いずれも最後には、素敵なフィナーレが用意されている。
 さらに言えば、どの道をどう進むかは、主人公の計画性とか実行力とは全く違うように思える。ある意味で、選択ですらない。その人は、そうなるしかあり得ない――。


 「豊かさを得る・失う」「最愛の人と結ばれる・別れる」「長生きする・短命に終わる」…。こうした現実の人生展開も、同じように、計画や選択にかかわりなく、起こってくることかもしれない。

 私たちは動かされる――。
 この「動かされる」ことこそが、実は「生の原動力」ともいえるのではないかな?


 本や映画の物語の主人公というのは、色んな困難に立ち向かっているようで、大筋的なところでかなり「受動的」といえる。
 私たちが物語に共感する理由は、展開の中身そのものではなくて、目に見えない「動かされる力」というものをそこに感じるからではないかな…、とも思う。

 自ら「動く力」ではなくて、「動かされる力」――。
 これについて、また次回も書こうと思います。


 結びのリラクゼーション音楽は、ディスク・オルゴールが奏でる「The Entertainer」。
 どんなジャンルの曲でも、オルゴールの音色になると、「癒し系」になっちゃいますよね…。ちなみに、ジェミニ・ポリフォンというこのオルゴールは、ディスク2枚を装着して、ステレオ・サウンドで演奏する優れモノです。



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 今回は、スピリチュアルなショートショートの小話。

 無条件の愛や魂の目覚めは、私たちの生におけるテーマといわれます。
 でも、愛を忘れたり、目覚めていない状態になるまでに、実は今と逆の苦労もあったのでは?というパロディーです。 少しマニアックかな…。


◇        ◇

 もともと、この宇宙には、たった1つの「大いなる愛」だけが存在した。
 他のもはいっさい何もなく、空間や時間さえ存在していなかった。
 愛は、永遠不滅で広大無辺であり、絶対的な真実だった――。

 ところが、「愛」そのものはあるものの、愛する相手はいない。
 また、「愛」と対比できる何か他のものがないと、そもそも愛とはどのようなものであるが分からない…。


 あるとき、「大いなる愛」はこう望んだ。愛というものを経験して、自分は何者であるかを知りたいと。
 そしてそのために、たった1つの存在であった自分自身をバラバラに分離して、たくさんの小さな魂を作った。

 これによって、愛を与えたり受け取ったりする「関係性」ができた。愛を際立たせるためのざまざまな「愛以外のもの」を生み出すことも可能になった。

 さらに、小さな魂たちが生きる場としての「地上世界」を創造した。
 空と大地、海、植物、魚、鳥、動物――、そして人間を作り出した。


 あとは仕上げに、小さな魂たちを人間に宿せば良いだけだった。
 ところが、この段階で課題が生じた…。
 何しろ小さな魂たちは、自分自身がもともと1つの「大いなる愛」であることを分かり切っていた。知っている真実を忘れることはできない。

 でも、そうした本質を知りながら愛をやり取りするのでは、全く不十分だった。
 愛を真剣に経験するためには――困難に打ち勝って愛を選び取るという経験をするためには――、明確に分け隔てられた「他者」としての関係性がどうしても必要だった。

 かくして、すでに知っている真実を何とかして忘れ去り、エゴを揺るぎなく定着させるための、小さな魂たちの修行が始まった――。


 魂たちは人間の姿をしていたものの、まだまだ「半人前」だった。

 「思考が続かずに消えてしまう。巻き込まれるのが難しい…」
 「分離感覚あいまいで、なかなかエゴと同一化できない…」
 「あぁ、つい空意識や愛につながって寛いでしまう…」
 ――このように苦悩したり、挫折しそうになりながらも、修行に明け暮れた。

 多くの魂の中でも優秀な者は、早いうちに分離意識を会得し、地上世界に行って人間として生きた。
 また修行中の魂たちの指導にあたる者もいた。

 修行の場には、師の厳しい声が響いた。
 「エゴ道を習うというは、万法を忘るるなりだっ! 惜身命! 喝ーっ!!」
 
 出来の悪い弟子に対して、師はサンダルで頬を突然ひっぱたいた。
 すると弟子は思わず頭に来て、怒鳴りながら師に飛び掛ったりした。こうして、分離したエゴが成就した。

 厳しい修行が奏功し、やがて魂たちは次々と地上世界へと旅立っていった。


 そうした中で、全く成果が上がらない落ちこぼれの魂が、ほとんど最後の1人として残ってしまった。

 師はサンダルを手にすると、そいつ頬を思いっきりひっぱたいた。
 すると彼は、こともあろうか、もう一方の頬も差し出してきた…。

 師はため息をつきながら、首を横に振った。
 「お前のような者が地上世界に行くと、皆の足を引っ張って、せっかく努力して忘れることができていた真実をネタバレさせてしまう。もうあきらめて、ずっとここにとどまっているのだ」
 「私を見捨てないでください」と、彼は声を上げた。

 師はしばらく思案し、彼の願いを聞き入れた。「仕方ない。お前の能力レベルでは、条件付きの愛や分離を知ることは到底無理だ。でも、痛い目くらいなら経験できるだろうから…」


 こうしてすべての魂たちは、地上の制約された世界の中で、人間としての生を送ることができた。

 でも、その本質は1つの「大いなる愛」であることに変わりはない。原型である「愛」は、慈しみや哀れみ、共感、許しなど、さまざまな形となって人々の関係性の中に表れ出てきた。

 結局、がんばって忘れたはずの真実は、あっさりと露呈してしまった…。
 世界の多くの宗教、道徳、哲学には、まるで申し合わせたように、以下の全く同じシンプルな教えが示されている――


キリスト教=「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」
ユダヤ教=「あなたにとって好ましくないことを、あなたの隣人に対してしてはいけない」
イスラム教=「自分の願うことを、他人にも願うのでなければ、人は心から信じてはくれない」
ヒンドゥー教=「他人からしてもらいたくないと思ういかなることも、他人にしてはいけない」
仏教=「自分なら傷つくような扱いを、他人にしてはいけない」
儒教=「己の欲せざることを、人にに施すなかれ」



◇        ◇

 結びのヒーリングミュージックは、Frederic Delarue「A Healing Gift to Humanity」。

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 鮮やかな色彩と奔放な形が、あふれ出るようにキャンバスを躍動する――
 「抽象画の父」と呼ばれるカンディンスキーの作品世界は、魔法みたいな魅力に満ちています。


 でももちろん、もとからそのような作風だったわけではない。
kandsk2.jpg←これは初期の作品。素敵な雰囲気ではあるけれど、具象的な風景画で、まだまだ巨匠の真骨頂には程遠いですよね。


 カンディンスキーが、美の新境地を切り開くきっかけとなった、有名なエピソードがある――。

 あるとき彼は不意に、これまで全く見たこともないような絵を目した。何とも分からない色と形だけが描かれていて、それが素晴らしく神秘的な美しさ放っているのだ。
 「これはすごい絵だぞ!!」と、衝撃的な感動に全身を打たれた。

 ところが、よく見たらそれは、自分の作品が逆さまに置いてあるだけだった…。


 カンディンスキーは気付いた。
 このような絵の表現というのも十分あり得るのだ! 何の絵であるかという「対象としての形」が、実は自分の絵をダメにしているのではないか…。むしろそんなものが無いほうが、純粋に美的な喜びを見いだすことができるはずだ、と――。


 で、話はちょっとずれるのだけど、先日「バイロン・ケイティのワーク」を受ける機会があった。
 このワークは、自分の周りに起きていることに対する「思い込み」を外して、あるがままの現実を愛するというものだ。世界的に有名で、詳しい本もあるし、ネット上からワーク用のテキストなどをダウンロードすることもできる。

 僕も以前に、本やテキストを読むだけ読んで「ああ、なるほど」と感心していた。ところが実際に何人かと一緒に、ちゃんとしたワークとして実践してみると、単に読むのとは比べものにならないほど面白い。


 ワークの中に「置き換え」というプロセスがある。
 その真価は、やはりワークとして取り組んでみないと分からないものだった。簡単に紹介すると――

 例えば、Aさんという知人がいて、その人が自分に対していつも批判的なことばかり口にしているとする。
 そことを自分はとても腹立たしく思っていて、「Aさんは私を批判すべきでない!」と考えている。

 ワークの「置き換え」では、その考えの主語を変えたり、内容を反対にしたりして書き出してみる。
 例えば、
 「私はAさんを批判すべきでない」
 「Aさんは私を批判しても構わない」
 …といった具合。

 ほかにも、「私は私自身を批判すべきでない」「AさんはAさん自身を批判すべきでない」「私は私自身を批判しても構わない」「AさんはAさん自身を批判しても構わない」「私はAさんを批判しても構わない」…といったバリエーションがある。

 単なる記述として読むと、バカバカしい言葉遊びのようにしか思えないでしょう?
 でも、自分が実際に直面していることを書き出してみて、そのうえで1つひとつの言葉について「これはどういうことなのか?」と考えて吟味してみると――、どのパターンも状況として十分にあり得ることだし、考え方として通用する、ということが分かる。

 この世界では、あらゆることが並列的にあり得ることなのだ。
 にもかかわらず自分は、その一部に対して「これは変だ、許せない!」と手前勝手に解釈してしまっている――、という事実に気付かされる。


 これは、カンディンスキーが逆さまの絵を見て、形にとらわれない方が美しい絵画世界を見いだせることに気付いたのと、ちょっと図式が似ているなと思う。

 ワークの「置き換え」によって意味をひっくり返してみると、自分の見方がいかに制限されて凝り固まったものであるかが分かる。
 この思い込みを手放したならば、あとは全方向的に起こっていく現実のダイナミズムを、あるがままに感じるしかない。そうして、その新しい自分の在り方で人生を展開されていく――、というふうになっていくと、素晴らしいなと思っています。


 ただしカンディンスキーは、この気付きによって一気に新たな画境へ突入したわけではなくて、完全に非具象の抽象絵画を描くまでには、10年もの熟成期間を要した。
 ケイティのワークも普通は、天啓に打たれたように世界観が一新するものではなくて、まさに「そこから歩みが始まる」という感じです――。


 ちなみに今回のワークは、僕が何年も愛読しているブログ「ハッピー☆マトリックス」を書いている宍倉朋子さんが主催されたものです。
 声楽家でもある宍倉さんは、今週末の3月9日に東京・新宿区の淀橋教会で行われる、ルネサンス多声音楽のコンサートに出演されるそうです(ご自身のブログの中に案内があります)。僕も癒されに聴きに行きます!


 結びのヒーリングミュージックはPushkar「Simple Living」。シタールの音色がやさしく響くインド音楽です。

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 前回記事からの続きで、スピリチュアルなショートショート物語の後半です!


◇        ◇

 (前回から続く)
 寝室の床には、夫が無駄買いした本や雑貨が、ほとんど隙間がないほど散乱している。
 ユリカは朝、それらをかき分けるようにしながら、何とか掃除機をかけていた。
 その横で、鬱を患う夫は、布団にくるまって寝ている。

 ユリカは「夫は病気なのだから仕方ない、当人を恨むのは筋違いだ…」と、自分に言い聞かせていた。でもそのうち、目の前の状況の理不尽さや、掃除がはかどらないストレスで、腹の底に抑えていたムシャクシャが心頭に発する寸前までになってきた。

 そなんとき、夫が布団から首を出してぼやいた。
 「朝っぱらからうるさいぞ」――

 ユリカはキレた。
 掃除機を床にたたきつけ、床に転がっていた本を夫の布団めがけて投げて叫んだ。「いつまでもそうしてゴミみたいに寝てろ!!」


 ユリカはパソコンの前に座り、また自分のブログに怒りの言葉を打ちまくった。

 「――じょうだんじゃない! もう限界だ!! こんな思いをしながら毎日過ごすなんてできない。夫を何とか支えてあげようとしているのに、どうしてあんな身勝手な言い方をされなきゃいならないの。完全に間違ってる! あいつは、自分が間違ってることも分からないバカだ!! もっと稼いでほしいとか、見るからに幸せそうな夫婦関係までは、別に私は望んでない…。でもせめて、最低限のいたわりくらい、示してもらえるのが当たり前じゃないの!?」

 書いたものをブログにアップした。こんな個人的な感情の吐き出しを、誰かが読んでくれるとは思ってないのだが…。
 数分後に画面を見ると、記事の下にはもう「コメント(1)」と出ていた。開いてみるとやはり、投稿者名が空欄の、前回と同じ相手からだった――。


 「あなたは、本当の愛の経験に向けて、今そのような状況にいるのですよ。期待や条件を前提とした関係は、愛ではなくただの取引でしかない。そんなものは、もう今回の人生には必要ないでしょう。
 あなたが真に望んでいるのは、見返り必要としない、惜しみなく与える愛。それ以外の愛の形というのは、実はいっさい存在しません。

 報いを望まずに与えること
――、それはこの世界において、人がいつでも主体的にコントロールできる、唯一のものごとなのです。すべての人に当たり前のように授けられ、何者にも侵すことのできない『神性』です。ところが、この無条件の愛に取り組む人は、残念ながらあまりいない。

 相手がどうであれ、人に与えることができれば、自らの在り方を変えて、さらに周りの世界をも変化させることができる。
 あなたはそれを、この人生の旅で目指そうとしているのです。もうひとつの魂と、共に協力して。
 快挙を成し遂げる道筋は、もう見えていますよ
」――


 ユリカは押し黙って考えた。励まされる言葉ではあるけれど…、でもかなり現実離れした話としか思えない。
 それに「もうひとつの魂」って、まさかあの夫のこと? そんな崇高な見方を、うちの歪んだ夫婦関係に当てはめるなんて、からかってるんじゃないかと思えてくる。

 いったい誰がどういうつもりでコメントしているのか? ユリカは返信で問うた。「あなたは何者なのですか?」――


 まもなく、それに対するコメントが来た。

 「私はふだん、人の意識の中に語りかけています。ノートの上に語ることもある。それが本になることもあります。今みたいに、ブログのコメントの形で語っても、おかしくないでしょう?

 重度の脳障害を持つ子供の魂は、家族や周りの人たちが与えてくれる愛を、最高の感謝と喜びとともに受け取っています。でもそれを、言葉にして伝えることはできません。
 このことは、実はどんな人でも同じなのです。自分の魂レベルの真意を知り、それを相手に伝えるということは、めったにできない。
 そのために、あなたは行き詰ってしまっています。だから、あなたにここで伝えますね。『もうひとつの魂』からの、直接の言葉として。

 ありがとう!
――

 でも、5年先か、10年先か、あるいは死んだ後かもしれません。夫としての立場からの、同じ言葉をあなたは聞くでしょう
」――


 ユリカは、何とも不思議な気持ちになった。神妙なような、動揺したような、どう感じればいいかさえ分からないような…。

 どういうことだろう。私の「もうひとつの魂」というのが存在して、それがあの夫として生きている、ということ?… そして、鬱になって休職して、身勝手なことばかり言っている。そんな役柄をあえて負うことで、私が無条件の愛に取り組むための対象になっている… 夫自身も、自分が今の苦しい状況になっている真の意図を知らない… そして、その魂がこうして私に語ってきている…

 色んな推測がまとまらないまま、コメントに返信した。「面白い考え方を、ありがとうございます。でも、100%は信じられません」と。
 ――それ以降、コメントはなかった。


 パソコンの席から立ち上がり、ほとぼりも冷めたので掃除の続きをしようと、ユリカは寝室の方へ行った。

 すると夫は、パジャマ姿のまま、床に散らかっていた本や雑貨を手に、部屋の片づけをしている…。こんなことは、ほとんど初めてだ。
 夫はユリカを見ると、「ちょっと整理したほうがいいかなって、さっき思ってね」と、照れたような笑みを浮かべて言った。

 部屋の脇にとりあえず重ねるだけの、お粗末な整理だけど。


◇        ◇

 結びのヒーリングミュージックは、Deter「Nadabrahama Meditation 2nd. Stage」
  ☞ コメント:27

 


プロフィル

Koudai Mitsuna

Author:Koudai Mitsuna
 
光奈 広大(みつな・こうだい)

 20年のあまりのサラリーマン生活を経て、いわゆる「ザ・マネーゲーム」を何とか卒業。今では束縛されない自由な日々を存分に味わっています!

 そうした中で心がけているのは、普通の日常的な行いを通じて、意識の進化を目指す「カルマ・ヨガ」。

 日々の喜びや学び、インスピレーションから得たスピリチュアルな気付きなどをブログで紹介しています。

 妻子と都内在住――。

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