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 前回記事の「バーさんと カーさん」では、古代エジプトの死生観について紹介しました。


 古代エジプトでは、人間は「肉体」と、魂の形態である「バー」と「カー」の3つによって構成されていると考えられていた。

 通常、私たちが「魂」というとき、純粋な「生命エネルギー」としての意味と、人格を持つ「霊」としての意味とを、混然としてとらえている。
 この両者を、明確に異なる「別のもの」としたところが、古代エジプトの死生観の特徴的なポイントだろう。


 で、古代エジプトには輪廻思想はなかったけれど、この「魂を2つの形態に分ける」というとらえ方で考えてみると、「転生の仕組み」がけっこう分かりやすくなるのではないかなと思う――。


 私たちの個人の人格を持つ魂――すなわち「霊」とか「精神」と呼ばれる部分には、人生で蓄積した色んな想念や感情がたくさん詰まっている。

 この「精神としての魂」は、死後にどうなるのかというと――、最終的に「バラバラに分解」されるのだと思う。


 前回記事でそのようなことを書いたら、非公開コメントで「バラバラよりも『融解する』という言い方のほうが良いのでは」という、とても丁寧な意見もいただいた。
 でもやはり、例えば工業製品のリサイクルになぞらえれば、素材レベルにまで均質に融解して再生するわけではなくて、あくまでも各パーツの原型と機能をとどめた状態に「分解」されるというイメージだと思う。

 ある人の魂に大きな「悲しみ」の感情があったとすると、死後にそれが根源的エネルギーのレベルにまで溶かされるわけではない。
 その悲しみの誘因や、反応としての痛みも伴う形で――いわば感情の「ユニット部品」というような形で、それは取り出される。まさにリアルで生々しい感情のままだ。
 同様に怒りや憎しみ、そして喜びなど、あらゆる想念・感情が、そのような部品の形で取り出される。

 「精神としての魂」が分解されるのは、そうした部品レベルまでだ。その魂が経験した「悲しみ」そのものは、消えることなく、リアルなパーツとして残り続けるわけだ。

 死後世界の中には、過去に生きた全人類のあらゆる想念・感情のパーツが、とてつもなく膨大な「在庫」として蓄積されている――。


 そして人がふたたび転生するとき――、その生の目的に最もふさわしいパーツが、無数の在庫の中からピックアップされる。
 そして、多数のパーツを組み合わせることで、1人ぶんの人格が形成される。


 この「組み合わせ」については、子供の顔のつくりのように考えてみると、分かりやすいと思う。

 子供の顔は両親に似ているけど、それは顔全体が父親・母親の中間的に似ている、というわけではない。
 よく見てみると、目は母親似で、眉が父親似、鼻は母親似で、耳の形は父親似、髪質は母親で口もとは父親――。といった具合に、母親・父親それぞれのパーツが部分部分に組み合わせられていることが分かるだろう。

 妙な言い方だけれど、神の創造というのは、実はそのような「型の組み合わせ」なのかもしれない…。


 「精神としての魂」の創造は、より複雑だけど、図式は同じだ。
 例えば、ある1人の人格を作るとき――、臆病な気質は10年前のインドにいた女性Aのもの、体の俊敏性は170年前のイタリアにいた男性Bのもの、絵が上手なのは3年前に日本にいた男性Cのもの、感情を引きずりやすい性向は60年前に中国にいた女性Dのもの…
 といった感じで、とてつもなく多項目にわたるパーツを細密に組み合わせることによって、1人の人格が形作られる。

 もとのパーツが特定地域のものに集中したり、同じ人物からのパーツが多くを占めたり、さらには過去生の記憶まで伴うケースもまれにあるだろう。


 そうして出来上がった「精神としての魂」に、「肉体」と「生命エネルギー」を加えれば、この世界における1人の人生として生きていくことができる…。


 つまり、性格や感情パターンなど、私たち自身の人格というものは、実は過去の人類が蓄積してきたものの「組み合わせ」に過ぎないわけだ。
 どの要素についても、何ひとつ、自分が最初から生み出したわけでもなく、そして「自分のもの」でもない。

 自分の中に「怒り」が湧いたとき、リアルで強烈な感覚として内に感じられるけれども、それは決して「私自身に帰属するもの」ではない。
 それは、過去の誰かが感じて残していった感情であり、人類が共有しているパーツなのだ。


 ではどうして、そんなパーツを受け継いでいるのかというと――、それはやはり「浄化」をするためだと思う。

 つまり、私たちの内にある怒りや憎しみや悲しみなどは、何とか浄化してもらうために、転生に次ぐ転生を経て、現在の私たちに持ち越されてきているわけだ。
 ところが私たちはなお、想念や感情に振り回されたり、それに抵抗したり拒絶し続けながら生きている。残念なことに、感情が癒されることなく人生は終わってしまう。
 そして死後に、その感情はそのまま再び巨大な在庫の中へと戻されることになる…。


 でももし、パーツをいま受け継いでいる私たち自身が、その感情をしっかり感じきって受け入れることができれば――、それは人類が共有する意識を癒やしたことになる。

 その癒しは単に自分個人のためではない。決して大げさな話ではなく、それは「地球のため」である。
 そしてそれは、「すべての人々の罪を背負って十字架にかかる」ことだとも言える。


 ――ここまでが、「精神としての魂」に関する話です。
 次回は、魂のもう一つの側面である、純粋な「生命エネルギー」から見た転生について書いてみたいと思います。



 いつも結びはヒーリング・ミュージックの紹介ですが、今回は音楽でなく映像です。
 「太陽系の本当の動き」で、これは僕も見て感激した。太陽系全体が、まさに生命のように躍動しています!

 かなり以前のブログ記事で書いたけど、地球は太陽の周りを回り、そして太陽系全体も銀河系の中を時速何万キロというスピードで公転している。
 ただその天体運動は単調とも思えるけれども、CGで表すと、こんなに魅力的で気持ちのいい映像になるんですね。

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 今回は、古代エジプトにおける「魂」についての話です。

 十年以上も前になるけど、仕事でエジプトに出張する機会があって、ガイド本やら初歩的なエジプト史の資料とかを色々と下調べに読んだ。
 当時、僕はまだスピリチュアルな物事にそれほど関心はなかったのだけど、調べている中でいちばん興味を引いた内容が、古代エジプトにおける特有の「死生観」だった。


 ちょっと話がそれるけど――
 エジプト文明は、ピラミッドや巨大神殿の建造をはじめ、ずば抜けた技術力で栄華を誇った。
 ただ、黄河文明やメソポタミア文明など他の大文明と大きく異なるのが、周辺の地域や後世への波及がほとんどなかった、という点だ。

 つまりエジプト文明は、とてつもなく傑出した文明ではあったものの、その地域だけに限られたいわば「ローカル文明」だったわけだ。
 それゆえに、ピラミッドの建造技術はついえたし、同様に特有の「死生観」も、後の時代に受け継がれていくことはなかった…。

 でも、そのユニークな死生観は、最近のスピリチュアルな観点も踏まえながら見てみると、なかなか面白いと思う。


 古代エジプトでは、人間は「肉体」と「バー」と「カー」の3つで構成されている、と考えられていた。
 そして人が死ぬと、その3つが分離する――。

 このバーとカーとは、いわば「魂の形態」といえるもので、私たちにはほとんど馴染みのない概念だ。
 両方とも「魂」と訳されることもあるし、カーのほうを「精霊」と呼ぶ場合もある。


 まず「バー」とは、死後に肉体から飛び立って、昇天する性質のものだ。そしてあの世へ行ったら、もう戻っては来ない。
 古代の絵では、バーは「人の頭を持つ鳥」として描かれている。

 あえて今風の言い方で表すならば、それは「純粋な生命エネルギー」と言えるかもしれない。
 非個性で非人格的な、「魂そのもの」である。


 もう一方の「カー」もまた魂なのだが、前述のバーとは違い、人の姿と性質を備えている。

 例えばツタンカーメンには、ツタンカーメンと同じ容姿と性格を持つカーが宿っている。平凡な一市民のAさんにも、Aさんの特色をそのまま持つカーが宿っている。

 別の見方をすると、カーを原型にして、その人固有の身体と人格が形作られているわけだ。
 そして生きている間は、カーが主体となって、その人の精神的活動を行うといわれる。
 これもちょっと踏み込んで今風にとらえてみると、「自我」や「エゴ」というものは、カーの働きによって形成されている、とも考えられる。

 古代エジプトの絵や像では、カーは「直角に曲げた両腕」という形で表されている(頭頂に描かれることが多い)。


 そして人が死ぬと、カーも肉体を去る。
 でも、バーのほうはあの世に行ったきりなのに対し、カーは死後に「あの世とこの世を自由に行き来する」という性質がある。

 エジプト考古学者の吉村作治氏は、「出て行って戻って来るのがカーさんで、戻って来ないのがバーさん」という説明をしているけど、分かりやすくて面白いですね。


 私たちが「死者の魂」とか「霊」と言うとき、このカーを指していることが多いだろう。
 例えば、お盆に霊が帰ってくるのを迎えるという風習はまさにそうだし、「千の風になって」の歌も、不死で自由なカーの性質を反映しているともいえる。
 また地縛霊や怨霊、そして過去生の記憶というのも、カーによるものかもしれない(ただし古代エジプトには輪廻思想はない)


 さらに、最近のスピリチュアルな考え方を上乗せして、大胆に解釈してみると――

 バー(純粋な生命エネルギー)は、死後にあの世に行ったきり戻って来ないとされるが、それは「ワンネス」へと還っているのではないだろうか。
 また、二度と戻って来ないわけではなくて、ワンネスである生のまた別の部分が、再びこの世界を経験するために(触手を伸ばすように)やって来ているのだろうと思う。


 一方で、人の形質を持っているカーは、実は死後に最終的に「バラバラに分解される」のではないかと思う。
 そして、バラバラになった大勢の人の要素や性質や業(ごう)の中から、適当なものが見つくろわれ、それを組み合わせることで、1人ぶんの新しいカー(人の原型としての魂)ができる。

 この原型が、再び生命エネルギーを得て、物理的な肉体と結び付き、この地上世界に生きていく――。それが転生なのではないかなと考える。


 また次回にでも、この考えの続きを説明してみますね。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Kamal「Silhouette Vinyl Good Night」
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 画家の安野光雅氏は、若いころに西洋の風景画を見て、「どうしてこんなに美しい絵を描けるのだろう?」と、不思議に思えてならなかったそうです。

 そして、「きっと彼らには、自分にはない感性なり表現力が備わっているに違いない…」と、敬服しつつ考えたという。


 ところが後に、実際にヨーロッパを訪れたら、拍子抜けするほど一目瞭然に納得できた。そこには、セザンヌやモネの絵にあるのと全く同じ景色が、そのまま広がっていた。
 画家たちは普通に、「見たまま」を描いていたのだ…。


 今回は、それとちょっと似た観点の話。
 「こんな崇高な生き方は自分には到底できない」「並の人間がなせるわざではない」と誰もが思うような偉業は、世界の中にいろいろと存在する。
 でも、その実際の理由を知ると、「なるほど、そういう状況なら自分も同じようにするかも…」と思える場合もけっこうあったりする――


 以前のブログ記事でマザーテレサの話題を書いたけど、彼女の死後に公にされた書簡集をいま読んでいる。

 マザーテレサがまだ若き修道女だったとき、祈りの時間のたびに、イエスが語りかけてくるこのような声が聞こえたそうだ。
 「最も貧しい人々、病気で死にかけている人々、幼い浮浪児。彼らとの間にあって、私の愛の炎となれる人が必要です。あなたを、私の栄光のために使いたい」――と。

 彼女はすごく戸惑い、ほかのもっと価値ある人に当たってくださいと言って、断り続けた。
 ところがイエスの声は、来る日も来る日も、「あなたは私の望みを拒むのですか?」と迫ってくる。
 さらには彼女の目に、貧しい人々や子どもたちの姿が群衆となって浮かんできた。そして「来て私たちを救って下さい! 私たちをイエスのもとに連れて行ってください」と、訴えかけてきたという。

 さすがに、そこまでイエスに直々にされたら、大抵の人は決意するのではないだろうか(もちろん、その活動に生涯を捧げ続けるのは、常人の域ではないけど…)。
 マザーテレサを貧者のもとへ向かわせたのは、彼女自身の自発的な問題意識や使命感というわけではなくて、ただ「言われたまま」に従っただけともいえる。

 それにしても(こう言っては実に何だけど)、イエスの誘い方って、芸がないほどストレートに「そのまんま」ですよね…。


 旧約聖書の時代に、預言者モーセが起こした奇跡もまた同様である。

 モーセは、エジプトで奴隷になっていたイスラエルの民60万人を連れて、神より与えられた「約束の地」へと旅立つ。
 ところが紅海の海岸まで来たとき、追っ手のエジプト軍が迫ってきた。そこでモーセは海に向かって、杖を上げて手を差し伸ばす。
 すると海が2つに割れて、海底が道のように現れるという、とてつもないスケールの奇跡が起きる。イスラエルの民はそこを歩いて、海を渡っていく。


 これも、旧約聖書の記述を見ると、モーセ自身が意を決して奇跡を起こそうとしたわけではないことが分かる。

 まず神が、海岸にいるモーセに、こう語りかけている。
 「あなたは杖を上げ、手を海の上に差し伸ばし、海を分け、イスラエル人々に海の中の乾いた地を行かせなさい」と。
 そしてモーセがその通りにすると、海が割れた、という経緯だ。

 モーセが行ったのは、何のひねりも工夫もなく、まるっきり「言われたまま」なのである…。
 もちろん、80歳を超えたモーセが、天命を受けて大勢の民を率いるというのは、並々ならぬことだ。
 でも、神にそこまで詳しく指南してもらったうえで奇跡が起こるなら――、「実は誰でも、同じようにできちゃうんじゃないの?」とも思えてくる。


 で、ひるがえって私たち自身について考えてみると――
 モーセやマザーテレサが天の意思を聞いたように、私たちは「現れ」によってそれを受け取っているのだと思う。

 つまり、仕事での色んな役割、家庭での境遇、内面にある思いや感情、さらには新しい生き方への夢――。
 それら現れてきたものすべてが、「これに取り組みなさい」と、神なり大いなる「I AM」が差し出してきているものだと思う。

 画家が「見たまま」を描くように、聖者が「言われたまま」に奇跡を行うように、私たちは「現れたまま」に取り組んでいく。
 その内容に、貴賤の差なんてないし、また難度の差もないだろう。

 現れたままに、ただ取り組んでいく――。誰の生涯も、これまでもこれから先も、本当にそれだけなのだ。



 最後のヒーリング・ミュージックは、Dreamscape「I Hope U Feel Well」。

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 「伝言ゲーム」というのは、口づてによる情報伝達の不正確さを面白がる遊びですよね。
 でも意外にも人は、言葉を通じてけっこう正確に物事を伝えている、というのが今回の話題です――。


 よく知られている沖縄料理に「ゴーヤ・チャンプルー」というのがある。沖縄にはほかにも、豆腐チャンプルーや素麺チャンプルーなど、色んな種類のチャンプルーが存在する。
 チャンプルーとは、沖縄の方言で「混ぜこぜにした」という意味だ。

 長崎料理には、似た名前の「ちゃんぽん」というのがある。
 これは、色んな種類の具材を加えた麺料理だ。また「ちゃんぽん」という言葉は、「別々の種類のものを混ぜ合わせる」という意味で全国的に使われている。

 そして東京をはじめ本州の各地には、「ちゃんこ」がある。
 こちらも多様な種類の具材をたっぷり使った、相撲部屋の大鍋料理だ。


 さらに、インドネシアやマレーシアには、ご飯と好みのおかずを色々と一皿に盛り合わせた、「ナシ・チャンプル」というメニューがある。
 どうやらこの辺りを語源に、チャンプルー、ちゃんぽん、ちゃんこ、と伝わったらしいと言われる。

 料理の中身や調理法は、各地の風土に合わせて変化したものの、「チャン○」という語感と「色んな材料を混ぜる調理」という基幹コンセプトには、全くぶれがない。
 もちろん料理の伝道師みたいな人がいたわけでもなく、人から人への勝手な口づてで、時代を経ながら伝えられていったものだ。
 にもかかわらず、なかなかの正確さだと思いますよね…。


 同じように、さらに世界に広く伝播したのが「茶」だ。
 原産は中国などで、発音は中国語も日本語も同じ「チャ」。 中東では「チャイ」で、英語は「ティー」、フランス語は「テ」と、ユーラシア大陸を延々と横断したにもかかわらず、けっこう似たまま伝わっている。
 また地域によってさまざまな加工法はあるものの、「茶葉から作った飲み物」であることは全く変わらない。

 こういうのを見ると、「人の伝言ゲームをあなどるなかれ」ですよね…。


 また、東日本大震災の大津波もそうだけど、科学的調査に基づいた想定よりも、昔からの言い伝えのほうが正確だった、といった例も世界に色々とある。


 話が極端に転じるけど…
 イエスも釈迦も多くの「言葉」を残している。その言葉が無数の人づてによって伝えられてきた。
 解釈の仕方がねじ曲がることはあっても、言葉の根底にある本質というのは変わることなく、今の私たちも受け取ることが可能といえる。


 イエスは言葉による教えのほかに、いくつもの奇跡も行った。
 でもその奇跡とは、わずかなパンと魚を数千人分に増やしたり、水の上を歩いたり、貧しい人々の病を治したり、さらに死んだ友人を生き返らせるなど、ある意味で物質的・肉体的なものだったといえる。

 一方で霊的・精神的な奇跡というのは――例えば、「神」を人々に疑いようなく目に見える形で現すとか、人の精神の中に入り込んで「天の国」を体験させるといった類の奇跡は――、全く行っていない。
 そして教えの要である「愛」に関しても、聞く耳を持たない人には空虚としか思えないような、言葉で示しただけだ(群集は失望してイエスを見放した…)。


 言葉というものは、私たちにとって制約だらけの媒介だ――。
 でもたぶん、イエスは知った上でそうしたはずだと思う。実はその言葉だけが、人々に延々と伝え続けられ、その本質が魂に届くものであることを。


 で、最近のスピリチュアル分野のブログを見ると、本当に色んな人が、直感的に浮かんだ内容を言葉にして書き綴っている(このブログもその1つだけど…)。
 それがさらなるインスピレーションや連想を生みながら、次から次へと文章化されて、伝えられている。
 際立った導師などがいるわけでもなく、ほとんど野放図的に、思い付きの日記的に…。

 でも、インスピレーションや言葉が宿す力、そして人の伝言ゲームの作用からすると――、きっとこれは素敵なことなのだろうな、と思って見ています!


 結びのヒーリング・ミュージックは、Llewellyn「Silver Stream」。

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 ハートの辺りに巣くっている「痛み」や「闇」の感覚は、私たちの人生最悪の伴侶と呼べるかも知れません…。

 それを何とか消し去りたいと思って、スピリチュアルな道を志向する人も少なくないでしょう。
 「この痛みがあるから不幸なのだ」「心の闇のせいで思うように行かないんだ」「内なる苦悩が自分の人生を支配している」なんてふうにも、考えてしまう。



 マザーテレサが、自分の心の内について、こんな告白の言葉を残している――

 私は人々に「神の愛」について語り、「貧者の中に神が宿っている」という話をします。すると皆が勇気づけられ、そして私も微笑みます。
 でも私は、心の底から微笑むことはできない。そこには、暗い闇があるだけなのです。


 彼女の死後に公にされた神父あての書簡には、かなり衝撃的ともいえる内面が吐露されている――

 私の心には信仰がありません。愛もありません。あまりにひどい苦痛があるだけです。

 さらに、ノーベル平和賞受賞を控えたときの心情は、こうだ――

 しかし、私自身はといえば、沈黙と空しさがあまりにもひどくて、見ようとしても何も見えず、聞こうとしても何も聞こえないのです。


 ここまで、自分の内が全くの闇や苦痛だと言い切る人物って、そういないですよね…。
 それはまるで、かすかな救いの光もない、100%の闇である。

 しかも、人類の愛の顕現と呼べるほどのマザーテレサがそうなのだから…、たぶん私たちが何をしようとも、どう在ろうとも、自分の内にある「痛み」や「闇」をきれいさっぱり消し去ることは、まず期待できないのかも知れない。

 いつか心地よい内面世界を実現したいと思っている人にとって、このことはかなりのバッド・ニュースといえる。


 絶望のあるところに希望を、
 悲しみのあるところに喜びを、
 闇のあるところに光を、もたらす者としてください――

 これはマザーテレサが好んで引用した、聖フランチェスコの祈りの一節である。
 彼女こそが、この言葉の最も偉大な実践者のひとりであったことは、誰も異論はないはずだ。
 世界中の最貧層の人たちに愛を届け続けた、文字通り「闇のあるところに光をもたらす者」であった。


 自分の内にある闇は、消し去ることはできないだろう。しかしながら、その闇は、自らの在り方や行動を制限するものでは全くない。
 そして、自分自身に闇がどれほど充満していようとも、他者に光をもたらし、光を広げることが可能なのだ。

 闇は光を灯せる――
 これは、マザーテレサの生涯から私たちが見いだすことのできる、とても重要なグッド・ニュースではないかと思う。


 マザーテレサは、自身について、こんなふうにも表現している。

 私は、神の手の中にある小さな鉛筆にすぎません。
 本当に、ただそれだけなんです。神が考え、神がお書きになります。
 私という鉛筆は、それに対して、何もすることはありません。

 イスラムの教えの「マクトゥーブ(すべては神の手によって書かれている)」にも似た、とても素敵な考え方ですよね。

 ここから先は、ジョークのような解釈だけど…
 彼女は「鉛筆」だったのだ! それならば、内に闇しかないという話はよく分かる。だって鉛筆の中は、真っ黒な「芯」だから。

 神はその芯で、地上に愛の光景を描き出していたのかも…



 結びのヒーリング・ミュージックは、Christopher Lloyd Clarke「Earth's Embrace」。

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 「これまでの人生の中で、自分が最も楽しく感じたのはどんな時か」と問われれば、人によって答えはさまざまでしょう。

 誰からも「それは素晴らしい」と言われるような栄光の瞬間を挙げる人もいれば、他愛はないけれどもなぜか心に強く響いた、ごく個人的な経験を持つ人もいるだろう。

 僕の場合は、完全に後者のケースで、しかも比較的最近のことだ――。


 2年ほど前、スピリチュアル系の体を動かすワークに参加した。
 場所は、東京から離れた相当な田舎で、周りは本当に山と川と草むらしかないようなところだ。
 耳を澄ませば、渓流のザーッという音が響き渡っていて、風のそよぎや野鳥の声がそれに重なる。


 土日の泊りがけだったので、夜になって20人ほどの参加者と食事をした。
 外の庭に材木のようなテーブルを置き、クロスを敷いて、菜食メニューを並べる。自然の中で、ロウソクと月の明かりが照らす食卓は、何ともいえぬ深々とした趣がある。

 食事が終わると、誰かが薪木を持ってきて、たき火を始めた――。
 そこに、椅子をいくつか置いて火を囲む。
 メラメラと燃える炎は、瞬間瞬間に表情を変え、いつまでも見飽きることがない。

 雑談をしたり、黙って炎を眺めたりしながら、ぼんやりとした空間を皆で共有していた。


 参加者の1人にパーカッショニストがいて、わざわざ持ってきたアフリカの太鼓を、たき火の前で演奏した。
 トントコトントコと、軽妙な打音が一定リズムで延々と鳴り続ける。その音が、夜空のもとにこだまして、人の魂を鼓舞していく。

 やがて1人が自然と踊り出した。
 しばらくすると、何人もつられてダンスを始めた。体の動くがままに任せる、生命の自由なダンス。
 その姿を、たき火が薄赤く照らし出す。


 そんな光景が目の前に展開されるのを眺めていていると、僕の内側で、心底から「楽しい」という感覚が解き放たれていった――。

 それは、長年ずっと、無意識のうちに封じ込んでいた感覚。
 「この先にやるべき仕事が待っているから」「うかうかせずに心を引き締めてなくちゃいけないから」「自分にはまだ色んな課題を抱えているから」などといった考えによって、存分には感じることなく遠ざけていたもの…。

 奥から湧き出てくるその感覚は、満潮のようにどっぷりと僕の心を癒し、そしてみなぎるように躍動させた。


 夜の野山と星空、たき火、太鼓、踊り――。要するにこれは、原始人の暮らしである…。
 でも、そんな原初的な人のいとなみの中に、魂の深奥に直結して働きかける、大きな力があるものなんだなと実感した。
 原始人たちはこうして、満たされた楽しい時間を経験していたのでしょうね!


 エリザベス・キューブラー・ロスの『人生は廻る輪のように』の中にも、こんなきれいな一節がある。米シカゴの病院で忙しく働く彼女が、故郷のスイスに帰省して母親と過ごしたときの描写だ。

 「ふたりとも陶然と月を見上げていた。月がマッターホルンの上を漂流しているように見えた。私たちはいつまでも黙ったまま、それぞれの思いにふけっていた。これ以上の幸福はない、と私は思っていた。これほどの素晴らしい景色を見ようとしない世界中の都市の住人たち、テレビを見て、アルコールを飲むことで時間をつぶしている人たちのことを考えずにいられなかった。母もこのひとときに、自分の人生に、満足しきっている様子だった」――


 また、ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』の3巻目にも、こんな記述がある。「アメリカ先住民の文化は高いレベルにある」と神が言ったのに対し、ウォルシュ氏は自分たち白人の立場について自虐的にこう主張する。

 「彼らの文化を奪って、消してしまわなければ、こっちが影響を受けていたでしょう! テレビを見るかわりに、あいかわらずたき火を囲み、古代の知恵を教える言葉に耳を傾けていたかも知れませんよ。そうしたら、ぜんぜん進歩しないじゃないですか!」――


 私たちは、文明的生活の代償として、とてつもなく大事なひとときを失ってしまったようだ…。
 でもそれは、シンプルに取り戻せるものだと思う。



結びのヒーリング・ミュージックは、Bruno Sanfilippo & Mathias Grassow「Ambient music」。

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 自分が「こういうふうになりたい」という目標を持ったり、何か新しいことを始めようとしているとき――
 心の奥底に、「そのために何かを差し出さなくては」という気持ちが浮かんでいることに、ふと気付かされたりします。

 成功を得るためには、自ら努力を払う必要があるとか、
 うまく上達するには、地道な修練が欠かせないとか、
 楽しむためには、その前に苦労をしておかねばならないとか――。


 こうした、「受け取るために差し出そう」というのは、取引や契約の考え方といえる。
 自分から何かを捧げることによって、受け取るに値する条件・資格を満たそうとしているわけだ。

 幼少期からのしつけや学校教育、さらには会社組織での仕事でも、この考え方をいわば潜在的なベースとして教えられている。
 だから、私たちの習慣的な思考パターンとして、それはとても根深く身に付いてしまっている…。


 元をたどれば、それは旧約聖書の時代の世界観といえるかもしれない。

 旧約聖書の神は、裁いて罰する存在として表されている。神は人々と契約し、生け贄を求める。
 神から何かを受け取るには、相応の対価が必要だったのだ。


 しかし、イエスが登場した新約聖書の時代には、神の存在は「無条件の愛」となる――。
 そしてイエスの教えには、「何かを差し出したら受け取れる」という契約や報酬の考え方を、真っ向から否定するような話が多い。

 有名な「放蕩息子」のたとえ話では、家を出て散財の限りを尽くした子が、家に戻ると親の寵愛を受ける。

 「ぶどう園の労働者」の話では、わずかな時間しか働いてない者が、丸一日働いたのと同じ報酬をもらう。

 「不正な管理人」の話は、主人の貸した金を勝手に棒引きしたにもかかわらず、その行為が主人にほめられる…。

 厳格な契約の観点からすると、無茶苦茶なほど常識外れだ。


 ではイエスが、どういう人が「受け取る人」だと説いたかと言えば――、それは単に「求める人」であり、「忘れることなく待ち続ける人」だった。
 条件となる何かを「差し出す」必要は、全くない。


 契約とか資格・条件なんかは、もうありません!
 求める人、待つ人が、受け取れます!

 ――これは、過去からの世界観を根底からひっくり返すグッド・ニュース(福音)だった。 「新しい約束」とも呼ばれた。


 ところが、この2000年前のニュースはあまりにも革新的すぎて、現在もなお、人々に本当には受け入れられていない。

 私たちはいまだに、心のどこかで「そんなうまい話なんてないんじゃないの」とか、「世の中はギブ・アンド・テイクだ」「タダほど高いものはない」なんて思っている。

 そして、何かを差し出そうとしたり、自分が受け取るに値する何者かになろうと努めているわけだから――
 もう世話ないですよね…。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Llewellyn「Alluring Undines & Mermaids」

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 米ケンタッキー大学教授の脳神経学者ケヴィン・ネルソンが書いた『死と神秘と夢のボーダーランド――死ぬとき、脳はなにを感じるのか』という本をいま読んでます。

 原タイトルはちょっと違って、直訳すると「脳内のスピリチュアルな扉――脳科学による霊的体験に関する探究」となる。臨死および超常体験のメカニズムを、脳の生理現象として解明する本だ。


 よく知られている通り、臨死体験には世界中の数多くの事例に共通するパターンがある――。
 死に瀕したとき、対外離脱して宙に浮いた状態で自分の姿を眺め、そして人生の過去の場面が走馬灯のように蘇り、トンネルの中を抜けてまばゆい光に包まれ、故人や神秘的存在と出会い、さらに宇宙との調和や一体感を感じて、この世ならぬ至福に包まれる… といったものだ。
 この強烈な体験を経て、人生観や世界観が一変してしまった人は多い。


 こうした不思議な現象に関する見解は、スピリチュアルな「死後の生」説と、科学的な「脳内現象」説とに大きく二分される。

 今回読んだこの本は、徹頭徹尾、「脳内現象」説を貫くものだ。
 脳への血流や酸素濃度、セロトニンやエンドロフィンなどの脳内物質の作用、覚醒意識とレム睡眠の混在など――、最新の脳神経学が持っている手法と知見を総動員して、その体験が起こる仕組みを踏み込んで検証している。


 とても硬派な学術的考察なので、スルスルと読めてスッキリ分かるというタイプの本ではない。
 でも、素人知識でも、脳科学の進化によって「今やここまで説明できるんだ!…」というのは率直な驚きだった。

 この調子だと、「悟り」や「ワンネス」の体験が起こるメカニズムを100%説明できるようになる日も、けっこう近いかもしれない――。


 そして、さらに「命」や「魂」そのものも、身体における生理現象として完璧に証明されるかも――。

 とはいえ、もしそうなったとしても、僕自身は「魂が転生しながら進化していく」という考えを持ち続けると思う。たとえそんな信念がファンタジーだったとしても…。
 なぜなら、その方が「生きる物語」として圧倒的に面白いからだ。


 ハリウッド映画の中でも、主人公が真実や実体を捨てて、信念としての価値を持つ「虚構」のほうを選び取るという物語は、けっこうある。

 例えば、シュワルツネッガーの昔のヒット作「トータル・リコール」は、レジスタンスの味方になっていた主人公が、自分の記憶は実はすべて偽ものだったことを知る。そして本当は、支配者側の諜報員だったことが分かる。
 でも彼は惑うことなく、偽ものの自分ほうを選択して、支配者と戦う。

 「アバター」も、元海兵隊員の人間としての自分を捨てて、異星の原始的種族・ナヴィとして生きていくことを選んだ。


 私たちの現実の人生も、科学研究の「被験者」として生きているわけではない。
 でも、物語の「主人公」として生きているのだと言えば――、それは誰もがしっくりと納得できるのではないだろうか。

 それならば、自分が一番面白いと思う「虚構」を選び取って生きていくほうが、絶対に素敵だ。
 物語性というのは、科学や真実よりも強く、時には「真実を超えた真実」にもなる。


 とはいえ、覚醒や至福体験そのものを生きる目的にしたり、悟ったらこれをするという前提条件にしてしまうと、話が妙になってしまうのではないかな?…とも思う。

 そうした「探求」については、僕自身は生理現象としての見方でとらえる。
 おしっこと同じで、すべきときには自然にできるだろうし、そうでないときは、いくら気張ってもムリ…。


 そんな観点で日々を生きながら、「待ちの姿勢」で瞑想なりをしているのが、僕にとってはちょうどいい案配なか、なんてふうに思ってます。



 結びのヒーリングミュージックは、Peter Kater「Essence」。

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 周りの世界に「自分が望んでいる物事」を現す力というのは、どこにあるのか? という話を、前回記事でしました。

 その力は、自分の内にある望みと、目の前の現実との間にあるギャップ(ズレや隔たり)から出てきているのではないのか、と――。


 自分が望むものとは反対の出来事が起こったとき、私たちはつい抵抗や拒絶といった反応をしてしまう。
 そして、その抵抗や拒絶が、望んでいる物事が現われ出るのを妨げてしまうこともある。


 でも、そんな思わしくない出来事に直面したとき、「新しい状況が現れてくるためのギャップが生じているのだ」――と考えて、じっと向き合うことが要点ではないかなと思う。


 これによる、決定的ともいえる効用が、起こってくる物事を「受容する姿勢」がかなり取りやすくなる、という点だ。

 嫌な態度を取る相手なり、気が重くなる出来事に直面したとき、目の前の「人」や「出来事」をそのままに受け入れるのは、なかなか容易ではない。

 でも、具体的な人や出来事ではなく、あくまでも過渡的な現象としてのギャップであるととらえて、そのギャップそのものに向き合うスタンスになると――
 抵抗することなくじっくり向き合うことが、けっこうスムースにできたりする。


 とりわけ家庭内の人間関係には有効で、拒絶的な態度に出てしまうのと、じっと向き合って受け入れるのとでは、明らかに雲泥の差がある。
 そうして受け入れることで、結果的に、望み通りの平穏な状況がもたらされたりもする。

 それは、相手を受け入れたからそうなったという以上に、望みと現実とのギャップを受け入れたことによって、そのギャップに宿っていたエネルギーが働いて新しい状況が創出された―― というふうに、僕自身の感覚では思えてならない。


 お金や仕事への望み、パートナーとの出会いとかについても、結局は同じように、やはりこうした「受容」がポイントなのではないかな。
 望んでいる状況が訪れない、あるいは反対の出来事が起こってしまうことを、抵抗・拒絶せずに受け入れるかどうか――。

 たとえ承服しがたい状況にあって、それを新しい物事が現れ出るためのギャップとして見ることで、「結果を待つ創造者」としてのスタンスが保たれる。

 そうしているうちに、望みと現実とのギャップの中にずっと温存されていたエネルギーが、創造へと動き出すのではないだろうか。


 一方で、もしも生まれる前からの魂の意図として、今回の生においては満たされない経済状況がどうしても必要だとか、パートナーがいない状況が必要だとした場合――
 マインドがいくら望んだとしても、魂の意図を覆すことはできない。

 でもその場合、ギャップを受け入れることによる創造エネルギーは、マインドの望みや執着をきれいに手放すという方向へと働くだろう。

 ギャップの受け入れが、私たちの在り方を「中道」へと導く。



 ……と、今回のテーマは、記述が難しくなりすぎただろうか。
 以前にも、直感的に浮かび上がった小難しいメッセージを何とかブログ記事にしてみたら、「ちょっと分かりにくい」というコメントをいただいた一方で、「まさに自分も同じことを考えていた」というコメントもありました。
 今回も、どうかなと思いながらも、まとめてみました。

 もし、わずかでも共感いただけるものがあれば幸いです!



 結びのヒーリング・ミュージックは、Bernward Koch「Flowing Blue」。

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 いま私たちが経験しているこの世界というのは、自分自身が創造したものであると、スピリチュアルな観点からはよく言われます。

 今回はその「現実の創造」について、最近思っていることを書いてみます――。


 周りの世界に、「新しい状況」なり「自分が望んでいる物事」を生み出すエネルギーというのは、果たしてどこにあるのか?

 普通に見た目には、周りの世界の状況そのものが、自動的に次の状況を生じているようにも思える。
 そうではなく、自分の思考が創造のエネルギーになっているという見方も一般的だ…。


 でも、状況には状況を生む力はない。
 状況というのはあくまでも、作り出された結果であり、投影されたものに過ぎない。

 一方の思考そのものにも、創造のエネルギーはないと考えている。
 思考には、エネルギーを動かす「信号」のような役割はあるだろう。でも、思考の内容が全部そのまま現実化されているわけはない。
 また現実の創造に結び付くほどの、真の「望み」とか「喜び」というのは、実は思考活動とはかなり違うもののはずだ。


 じゃあ、創造のエネルギーは、一体どこから出ているのかというと――、それは周りの現実と自分の望みとの「ギャップ」からではないか、と考えている。


 私たちが何かを望むとき、その望んでいる状況なり物事というのは、まだそこにはない。
 望みと現実の間には、必ずギャップ(ズレとか隔たり)が存在している。

 自分の望み通りにたまたまうまく行った体験を観察してみると(それほど大した経験はないけれど)、どうもそのギャップそのものに、何らかの力が宿されているのではないかな…、と思っている。
 ギャップこそが、創造のエネルギーが噴出してくる裂け目みたいなものではないかな、と。


 ちょうど、地層そのものには地震を引き起こす働きはないけれど、そのズレである「断層」が地震のエネルギーを生じるように――

 最大限に極端な例だけど、旧約聖書の天地創造も、そういうふうな解釈が可能だと思う。


 天地創造の物語では、初めは混沌とした暗闇しかなかった。そこで神が「光あれ」と言ったら、光が生まれた――。
 この光は、暗闇をもとに作り出されたわけではない。また、神の言葉の中から、直接的に光が現れたというのも違うだろう。

 そこに存在していたのは、「光あれ」という神の意思と、光のない状況――。つまりは「両者のギャップ」というのが存在した。
 そのギャップがあったからこそ、そこから光が創出された、と考えることができるのではないか。何しろ、ほかに創造をもたらすものは、その時点では宇宙にまだ何一つ存在していないのだから…。


 私たちにとっての、現実を生み出す図式も、同じようなものだといえる。

 自分の内にある望みと、目の前の現実とのギャップ――。
 そのギャップを、意識して感じ取ってみると、かなり大きな「存在感」があることが分かる。

 それは決して心地よくないものかも知れない。ときには腹の底にある悲観や絶望感、不甲斐なさ、反発や怒りとしても感じられるだろう…。
 でもそれは、創造の原資がこの現象世界ににじみ出ようとしている状況でもあるのだ。

 そのズレや隔たりの中から、「光」は生まれてくる。


 ただしここで、最大の注意点といえるのが――
 周りの状況には、新しい状況を創造する力はないけれど、でも「ギャップを埋めようとする作用」は通常ある、ということ。

 要するに、望みとは反対の出来事や、過去と同じ問題が繰り返し目の前に起こってくる…。


 それを「試練」ととらえることもできる。また、自分が望んでいる状況を選び取るか、あるいは過去の繰り返しかを取るかの、「選択の本番」ともいえる。

 バシャールはこのことを、「エコー」(古い波動のなごり)と呼び、そんな幻影にだまされてはいけないと強調する。
 過去の記事でも紹介したことがあるけど、「望むリアリティを創り出すマントラ」というセミナー映像がそれをスパッと説明していて分かりやすい。 (↑前後半の2本あるうち、該当する後半をリンクしておきます)


 でもたいていの場合、状況がギャップを埋めようとする過程で(つまりは過去の問題が繰り返し目の前に起こってくる中で)、心がなえてしまう。
 そして当初の望みも、だんだん心の中から消えてしまう。

 そうすることで、現実化が起こらないまま、ギャップがきれいに解消されていく…、というパターンをたどる。


 新しい状況を生み出すための肝要な点は、どういうふうに物事を望むかや、どんなアファメーションを唱えるか、どんな意識状態をキープするかよりも――、「ギャップとどう向き合うか」ではないかなと考えている。

 で、このギャップとの向き合い方は、「生きやすい心持ち」という側面でもかなり大きな効用をもたらしてくれる。
 その続きはまた次回に――



 結びのヒーリングミュージックは、Llewellyn「The Healing Pool」。

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 連載しているショートショート物語の4回目で、これが最終です! お話の1回目は「こちら」から。


◇        ◇

(前回から続く)

 チョガルに意識が戻ると、平原の地平がぼんやりと目に入ってきた。

 周りには何人もの兵が倒れていたが、とうに息絶えて、その皮膚は黒ずんで乾いていた。
 チョガルは、自分がずいぶん長く昏睡していたことが分かった。草がそよぐほかは、物音や人の声もなかった。戦は終わったみたいだ。

 そして自分はここに打ち捨てられ、もはや立ち上がる力もない。
 あとは、生気が完全に消え去るのを待つだけ。それで終わりだ…。


 間もなく、チョガルはひどい喉の渇きを感じた。
 腰の水筒に手をやると、ほんのわずかな水が残っている様子だ。それと兵糧の団子も、かじりかけの最後の1個が残っていた。

 これを口にすれば、もう少しの間だけは生きていられるかもしれない――。そうチョガルは思った。



 すると、すぐ近くで、かすかなうめき声がするのに気が付いた。

 チョガルは、倒れた格好のまま頭を向けてみた。そこには、1人の敵兵が、仰向けに横たわっていた。
 敵兵といっても、チョガルと同じようなみすぼらしい雑兵で、自分の親ほどの年代の男だ。彼も息絶え絶えで、体を起こす力さえ残ってそうもなかった。

 その目はこちらを見つめ、哀れみを乞うように光っていた。
 そして唇をわずかにパクパクと動かしていた――。彼は、食べ物が欲しいようだ。


 チョガルは、おぼろげな意識の中で考えた。
 いま持っている、ごくわずかの水と食べ物――。自分が食べようが、彼が食べようが、いずれにせよこの状況では、どちらも死んでしまうに違いない…。
 その結果を選ぶことはできない。

 でも自分が、「与えずに」死んでいくのか、それとも「与えてから」死んでいくのか――
 チョガルにとって、その間には途方もない違いがあるように感じられた。
 そして、そのどちらにするかは、自分で選べることも分かった。



 チョガルは、自分の体を何とか転がすようにして、その倒れた敵兵の男に近づいていった。

 そして水筒を男の口元に当て、残っていたわずかな水を滴のように流し込んだ。
 団子もちぎって、口に入れてやった。

 男はそれを力なく噛み、命を受け取るようにゆっくりと飲み込んだ。
 横たわった男の目から、涙が幾筋もこぼれ出た。


 「自分が持っている最後のものは、与えるためのもの」――
 チョガルの心の中に、母親がよく口にしていた言葉が、まるで母親がそばにいるように聞こえてきた。その声が彼をねぎらい、癒すように包み込んだ。

 そしてチョガルは、平原の空に向けて、こう語りかけた。

 「私は、自分が何者であるかを、最後に選ぶことができました。
 私が選んだのは、『与える者』になること!」――

 その言葉は、小さな雑兵のものとは違う、魂からの高らかな宣言だった。



 重い足音が近づいてくるのが聞こえた。
 振り向くと、鎧姿の敵方の武士がそそり立っていた。そしてチョガルを見るや、大きな太刀を両手で振り上げて構えた。

 食べ物を与えてもらった男は、その武士を制止するように、声にならない声を上げた。
 しかし、太刀は一気に振り下ろされた。

 次の瞬間、チョガルは、自分の首が地に転がるのを見た――


◇        ◇

 結びのヒーリングミュージックは、Peter Kater & Snatam Kaur「Carry Me」。

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 前々回の記事から連載している、ショートショート物語の3回目です。

◇        ◇

(前回から続く)

 チョガルたち農民兵の一隊は、何日も歩き続け、国の最果てである戦の地に着いた。

 そこは、人の住めないような不毛の平原だ…。
 隣国との間に位置するという理由だけで、この何の役にも立たない一帯を、国同士が血を流して奪い合っているのだ。


 戦はずっと膠着していた。敵軍勢と距離を置いて向き合い、長くにらみ合いが続いていたため、双方とも極度の緊張で疲労していた。
 チョガルたちが到着するや、有無を言わせず戦列の前方に立たされた。

 すると間もなく、敵側から開戦を告げる嚆矢(かぶらや)の音が響いた!
 雄たけびと砂ぼこりを巻き上げながら、何百、何千もの軍勢がこちらに向けて突進してきた――。


 敵味方の兵がぶつかり合い、ぐちゃぐちゃに入り乱れた。
 金属が当たる音や鈍器で殴る音、すさまじい怒号と悲鳴に包まれ、鮮血が散り、人が次々に倒れていった。

 チョガルは、槍を半分構えるような格好で、ただおろおろしながら周りを見渡していた。
 自分がどこにいて、何をやっているかも分からない状況だ。錯乱した世界の真っただ中に、ぽつんと放り込まれたみたいな感覚だった。


 死はあちこちに転がっていた。
 その中を、武器を手に勢いよく立ち回る者がいたかと思えば、次の瞬間にばったり倒れて息絶えた。生と死の境に、一切の距離というものがなかった。

 戦の地では、生と生とが激しく打ち当たり、残されていくのは莫大な数の死だけ――。
 そして、その1人ひとりの死の中に、特徴的な意味のようなものはまるで見当たらなかった。

 どの兵にも、自分ならではの生い立ちがあり、家族もいたはずだ。それぞれに違った暮らし方、食べ物の好み、やっていて楽しいことや、こうなりたいという望みもあっただろう。
 でも戦では、そんな真実は全く何一つ見えない。無名で非人格的な死が、打ち捨てられるようにあるだけだ…。


 チョガルは突然、背中から全身を貫く激しい衝撃を感じた。
 背後から槍で突かれたのだ――。そのまま横倒しに転がったところに、今度は側頭部をガツッと硬いもので殴られる鈍い音がした。

 そしてそのまま、目の前が闇の中に消えていった――
(次回へ続く)

◇        ◇

 結びのヒーリングミュージックは、Aeoliah「The Light of Tao」。

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 前回記事からの続きで、ショートショート物語の2回目です。

◇        ◇

(前回から続く)

 戦に向かうチョガルたちは、まず都の外れにある大きな教練所に集められた――。

 その場所には、領内の各地から徴集された数千人もの農民兵たちがいた。
 チョガルと同じ年ごろの少年から、親の年代くらいの中年までさまざまだが、いずれも貧しそうな身なりの者ばかりだ。

 そこで数日間、武器となる槍の手ほどきを受けた。
 もちろん、そのくらいでまともな戦力になるはずもない。でも、チョガルたちのような雑兵に求められているのは、「数の兵力」の1人になることだけだ。それに付け足し程度の武力があれば十分なのだ。


 季節は、農作物の収穫が終わった秋。
 教練所の広場の周りには、枯れかけた野草の茂みが広がり、冷えた風に吹かれてサワサワと音を立てていた。
 そのところどころに、バッタが飛び跳ねていた。この虫たちも、間もなく寒くなるころには命尽きてしまう――。

 チョガルはその姿を眺めて、自分の運命に重ね合わせた。


 農民兵たちが集められ、教官が一同に大声で語った。

 「これから我々は、戦の地へと向かう。多くの敵を討ち取って、功を上げるのだ!
 功が大きければ、国の大領主様より褒美が与えられる。農民兵から武士(もののふ)となって、多くの兵を率いる役に就いた者もいる。

 虫は、生まれながらに虫でしかない。獣も、その獣以外の何者にもなれない。
 でも、人は違う。人は、自分が何者になるかを、自ら選ぶのだ。
 さあ、功を上げよ!!」


 人は、自分が何者になるかを、自ら選ぶのだ――
 チョガルはこの言葉を、頭の中で繰り返した。でも、武士(もののふ)になるのは、自分の選びたいことではないとも思った。


 戦の装備が配られた。
 槍に、薄い鉄板の陣笠と胴鎧、そして携帯する兵糧の団子に水筒――、などである。
 でも体が小さいチョガルにとって、槍は不釣合いに長く、胴鎧もぶかぶかで、多くの兵の中でもとりわけ弱々しく見えた…。

 そうして、戦の地に向けた行軍が始まった――
(次回へ続く)

◇        ◇

 結びのヒーリングミュージックは、Laura Sullivan「Sunrise On Cloud Palace」。

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プロフィル

Koudai Mitsuna

Author:Koudai Mitsuna
 
光奈 広大(みつな・こうだい)

 20年のあまりのサラリーマン生活を経て、いわゆる「ザ・マネーゲーム」を何とか卒業。今では束縛されない自由な日々を存分に味わっています!

 そうした中で心がけているのは、普通の日常的な行いを通じて、意識の進化を目指す「カルマ・ヨガ」。

 日々の喜びや学び、インスピレーションから得たスピリチュアルな気付きなどをブログで紹介しています。

 妻子と都内在住――。

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