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 僕はスピリチュアルなワークなどをそれほど多く経験している方ではないのだけど、でもその中で、自分にとって大きな転機をもたらしたと思えるのが、「モーニング・ページ」というワークです。

 これは、胸中に渦巻く色んな思いや感情を、朝一番にノートに書き付けていくというもので、過去記事の「怒りブログ、嘆きブログ、悲しみブログ」の中で一度紹介した。
 たまたまのタイミングだったのかどうかは分からないけど、これを実践して以降、自分の内面や周りの出来事が、まるで急ハンドルを切るように転換しはじめた…。


 そしてもう1つ、自分にとってけっこう強烈な転換点となったのが――、参加者のほとんどが女性の、「ハート系」のセミナーだ。

 僕はもともと、大部分が男性という瞑想会には熱心に参加していた。
 そして、この分野への興味が広がったところに、知り合いからの呼びかけもあって、米国人の女性チャネラーを招いたそのセミナーに参加してみた。
 たまたま会場が自宅の近で、土日の2日間の催しだったから、特に何も考えずに物見遊山の気持ちで足を運んだ。


 で、そこで繰り広げられたのが――
 皆で手をつないで輪になって、笑顔でダンスして、ハグ…という、女性中心のスピリチュアルなワークにありがちな、それである。

 僕は始まったとたん、「げっ、これは場違いな恥ずかしいところに来てしまった」と後ずさりしたのだけど、途中退席する勇気もないため、表面的にはとてもにこやかに、輪になって皆と踊ったり、見つめ合ってハグしたりした…。

 でも振り返ってみれば、このときが図らずしも、大きな転機のきっかけになったように思う。旧来の価値意識――男子たるものとして頑なに固守していた余計な何かが、本当にガラガラと音を立てて崩されていくみたいな感覚だった。


 「ダンスもハグも余裕でOKよ」という人ならば、全くどうってことないだろう。でも、大方の中年男性は、けっこう強い抵抗感を覚えるのではないだろうか?

 僕なんかもともと、「愛」とか「ハート」という言葉を聞いたり読んだりしただけで、背筋がむずがゆくなるくらいだった。
 それに当時僕は、それなりの肩書きを持つサラリーマンだった。もし何か犯罪をしたら、会社名入りで報道されるくらいのところの、曲がりなりにも管理職の立場である。
 終末にスピリチュアルなワークに参加して、踊ったりハグしたり、ハートフルな温もりの中で涙腺をゆるませたりするような側の人間では、決してなかったのである…。


 さらに、それと前後して、これも人との出会いがきっかけで、僕はヨガを習うようになった。もちろん周りは女性ばかりだ。

 そのうちだんだんそうした場が慣れっこになっていって、知らず知らずのうちに、自分の中に「女性性」のエネルギーがどんどん取り入れられていったようにも思える。


 そうした「仕込み」の期間を経て、数年後に起こったのが――
 自分が会社組織の中に身を置き続けることに対する、抗しきれないほどの違和感と息苦しさだった。

 しばらくは、自分をだましだましでもやってこられたのだけど、もはやごまかし続けることができなくなった。そして、意を決して踏み出したら得られるであろう輝きに、目を向けずにはいられなくなった。
 で、結局僕は、46歳で思い切って会社を早期退職した――。


 今はフリーの立場になって、主夫業もするし、子供の学校のPTAの役割も引き受けている(これも女性ばかりだ…)。
 生産的な仕事としては、ほとんど活躍していない。いわば「雌伏期間」と考えてもいいかな。

 こうして、起こってくる物事を受け入れながら日々生きて、もし何か「自分の新しい仕事」として起こってくることがあれば、それに取り組みたいな――というような感じに考えている。
 信じて待って、調和して受容する姿勢でいることが、これからの女性性の時代、みずがめ座の時代、恩寵の時代にふさわしい進み方といえるのではないかな…。少なくとも自分は、とても自然に感じている。


 以前の僕自身のような、バリバリのビジネスマンに伝えたいのが――、「女性性のエネルギーをどんどん浴びましょう!」ということです。

 職場の女性社員を誘って飲みに行くくらいではダメで(会社も飲み屋も主に男性性の土俵だ)、女性性が無遠慮なほど解放されて躍動しているような場に、身一つで飛び込んでいく――、くらいの試みをしてみるといいかな、と思う。
 きっと、内にあって抵抗している何かが、揺り動かされるはずだ。


 そしてもう1つ。もしも可能ならば――、これまでの活躍を一切合財ぜんぶ手放してしまって、「男子たるもの雌伏してみましょう!」ということ。

 僕もそうだったけど、とにかく「活躍し続ける」ことに最大価値を置いた「継続的な問題解決・目標達成型」の生き方や、「社会的評価尺度」に従って自分自身を自ら評価する見方――、それは一見とても生気に満ち満ちて、終始一貫して華々しく、そして価値の高い有用感があるように、その最中には思えるだろう。

 でもそれは、これからの時代、本当に「持続不能」な在り方になっていくのではないかと見ている。たぶん、どんどん気持が満たされにくくなり、現実面でも報われにくくなり、エゴ的な勘違いすらしにくくなっていくのではないだろうか…。

 もちろん、会社での活躍を本当に生き生きと楽しんでいる人は多いし、それはとても素晴らしいことだ。
 でももし、心の奥底で、「自分にとってそれは違うよ」と訴えかけてくる痛みや違和感があるならば、その内なるメッセージに耳を傾けてみることも、より大事になっていくんじゃないかな。


 最後の最後に死の床で、「人生で静かに見つめ直す時期を持ったほうが良かった」「自分の本心に従ってみるべきだった」なんて後悔しそうな可能性を少なからず感じるのであれば――、人生の真っただ中にあるうちに実際に踏み切ってみる価値は決して小さくないと思う。
 僕自身は、社会の一線からいったん身を引くことで、本当に日々蘇っているような感じがする。駄洒落ではないけど、雌伏は至福ですよ!



 結びのヒーリング・ミュージックはChris Spheeris「Desires Of The Heart」。

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 前回記事の「ブログ1周年」では、この世界で最も学んでみる価値のあるとこの1つが、実は「見ないで信じる」ことではないか、という話をしました。
 今回はちょっと、それに続くような内容です。


 イエスは「見ずして信じる人こそ幸いである」と説き、親鸞も「証拠を求めるなら信じているのではない」と言い切る。
 ところが私たちはいつも、信じる根拠となるあかしを乞い求めてしまう。

 その最たるもが――(こう言うとすごく異論はあるだろうけど)、真理の世界を直接この目で見てみようという、「悟り」や「覚醒」の探求ではないかな、とも思う。

 もちろん、そうしたスピリチュアルな探求を「良くない」と言いたいのでは決してない。僕自身もふだん瞑想をして、その分野の本は好んで読んでるし、できれば覚醒を体験してみたいな、と望んでいる。
 でも、それはあくまでも、「趣味の領域」程度にすぎない。というか、人間の力では、どうしても「趣味の領域」以上のものには、できないのではないだろうか…。

 覚醒体験というのは、いわば「死」と同じようなもので、「起こるべきときに起こって来る」のであって、望んで起こせるものではないと考えている。
 そして、もしそれが起こるときには、決して避けることもできない。


 とはいえ、覚醒を体験した人というのは世界中に多くいる。
 このブログで紹介することもよくあるように、僕自身、そうした人の話を聞くことは本当に好きである。


 ――ここからかなり変な言い方になってしまうけど、覚醒体験者というのは、証券市場における「インサイダー」のようなものではないか、と僕はとらえている。
 インサイダーとは、株価に影響する未公表の「重要情報」を知る立場の人だ。

 以前、有名だった「村上ファンド」のインサイダー事件で、村上社長は、自分はたまたま重要情報を「聞いちゃった」だけなのだと記者会見で申し開きしたけれど、でもインサイダー取引としてきっちり裁かれた。


 で、覚醒体験というのは――、創造主がこの世界から見えないようにしている、いわば人々には未公表の「真理」を、チラッと見ちゃった人だといえる。
 村上ファンドの「聞いちゃった」のと、似たような状況である。

 もちろん、「重要情報」や「真理」を見聞きすること自体がまずい行為というわけでは全くない。
 ただ、インサイダーである以上は該当する証券取引ができないのと同様に――、真理を一瞥した以上は、「見ないで信じる」ということが、もはやできなくなってしまう…。


 僕が思うのは、「真理を一瞥する」という経験そのものは、実は魂にとっては、それほど値打ちのあることではないのではないか?――と考えている。

 だって、真理の経験というのは、魂にとっては根源的な「日常茶飯事」のはずだ。
 それに、単に「それを見たから信じる」というのは当たり前すぎて、そんなことができたところで、奇跡にも進化にもならない…。


 魂が本当に望んでいる経験――、それは、真理が完璧に見えない状態になっても、「本当の私」であることを選び取れるかどうか(あるいは思い出せるかどうか)、ということではないか。

 例えば――自分が神や創造主とは到底思えないような状況でも、自らがそれであるという真の本質を忘れない。また、人々が複雑に対立する関係性の中にあっても、私たちは「1つ」であることを信頼し続ける。愛が枯渇したような世界においてもなお、「無条件の愛」を与える者となる――
 こうしたことは、根源的なワンネスの状態のままでは、絶対に経験し得ないことだ。

 もしもこの世界の中で、真理を「見ないで信じる」ことができたならば――、そして「本当の私」であることを選び取って、自らをそれであると宣言できたならば――
 これは魂にとって、全く経験したことのない奇跡であり、まさしく未知の次元への進化なのだと思う。


 とはいえ私たちは、何らかの手掛かりとなる情報くらいないと、何を「見ずに信じればいい」かが、なかなか分からない…。

 ということで、古今東西、特に最近はより多くの人が覚醒を体験して、「宇宙の真相とはこのようなものだ」と、魂を鼓舞するように伝えてくれている。
 しかも同じような内容を、入れ替わり立ち代り、丁寧に繰り返して――。


 こうした覚醒体験者は、自分自身が「見ないで信じる」という進化のチャンスを、今生においてはあえて放下しているわけだ。
 そして、宇宙の真理をインサイダーのように「見ちゃった」うえで、私たちにそれを伝えて、魂の進化を後押ししてくれている。


 そうした体験者の話を聞いて、「自分も同じようになりたい!」と、体験そのものを目指そうとしてしまうのは――、あえて言えば「筋違い」なのかもしれない。

 私たちがすべきこと――、それは、覚者たちが語る真理を「見ないで信じ」て、その信じる在り方でこの世界を普通に生きていく――、そういうことだ思います。



 結びの音楽は、いつものヒーリング・ミュージックとは違って、今回は普通のポピュラー音楽です。Connie Talbot「Let it be」。

 有名なオーディション番組で数年前に注目された少女だけど、なかなか聴かせる歌唱力ですね!
 12歳くらいだからまだ声量はないし、「プロっぽい歌い方」という域を出ていないとは思うのだけど…。でもその飾り気のない天真さが、なぜかこちらの奥にある「琴線」に指をひっかけてくるような感じで、歌いかけてくる。

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 このブログを開設したのが、ちょうど1年前の2012年5月です。

 所沢市にある航空公園というところを散歩して、新緑に包まれた池を何とはなしに眺めているときに、脈略もなく「ブログを始めてみようかな」という考えが頭をよぎったのがきっかけだ。


 当初は、自分の生活周りの雑記にするつもりだったのだけど…、書いていくうちにバリバリのスピリチュアル方面に傾注していくことになった。
 また最初のうちは、自分でも「すぐにネタ切れだろう」と思っていたし、アクセス数も1日あたり0~5件という状況が数カ月続いた。


 ところが、インスピレーションというと大げさなのだけど、「書きたいこと」が2~3日に1本くらいの頻度で、どこからともなくフワッと浮かび上がってくる。とてもコンスタントだ。
 そして最近は、ずいぶん多くの方々に読んでいただけるようになって、熱心なコメントなども頂戴し、本当に嬉しく楽しくブログを続けております!


 ブログを書いていて僕個人にとって特段に大きかったことが――、当初は自分の頭にはなかった「考え方、生き方、在り方」というのが、ブログのネタという形で内に浮かび上がってきては、それがやがて、自分にとっての「根本的な認識」として定着していった、ということだ。
 これはすごく貴重な出来事だな、と考えている。

 そのようにして定着した「根本的な認識」のうち、今やいちばん中核的なものが、「見ないで信じる」ということ。

 色んなスピリチュアル系のメッセージの中でも、このことを特に強調したものはあまりないと思うのだけど、人によってはかなりの「キモ」ではないかなと感じている。


 過去の記事のちょっと繰り返しになってしまうけど…
 私たちは誰もが「信じたい」と思っている。他者や自分自身のことを信頼したいし、守護の存在や真理について確信したい――。

 そして私たちは、信じることができるようにと、信じる根拠となるあかしを求めてきた。
 「成果が出せたら自分のことを信じる」とか、「報いてくれたら相手を信じる」とか、「望みがかなえられたら神を信じる」とか…。

 ところが、このような願いや探求は、もはや「信じる」ことではなく、単なる「条件付きの取引」になってしまう。


 イエスは、奇跡を求めてくる群衆に対して、悲しみの言葉を残している。
 「あなたがたは、徴(しるし)と奇跡を見ない限り決して信じない。見ずして信じる人こそ、幸いなのに」――

 また、親鸞を描いた戯曲「出家とその弟子」にも、同じような表現がある。
 僧の1人が「念仏して浄土に生まれるというのは何か証拠でもあるのですか」と問うたのに対して、親鸞はこう言い切る。
 「信心に証拠はありません。証拠を求めるなら信じているのではありません」――


 私たちがこの世界で、最も学んでみる価値があることの1つが、この「見ないで信じる」ことではないかなと思う。
 そのために、神なりワンネスの魂は、この「真理が見えない世界」というものをわざわざ創造した上で、その中をこうして生きているわけだから。

 ここで私たちにとって大事なのは、周りや自分の現状がどうであっても、「自分が信じたい真実」というものを、見ないで信じてみることだと思う。
 そして、それを真実として信じた上で、「それならば自分はどう在るか」を自ら決めて、そのように生きていく――

 これが、この世界の、実は要点なのではないかな…。



 で、1年前にこのブログ名に「ノート」という言葉を付けたのは、今でもちょっと気に入っている。
 ここにあるのは、「教え」ではない。あくまでも僕が取った「ノート」だ。学生時代に友達にノートを見せたり見せてもらったりしたような感覚で、このブログを見てもらえたらいいなと、考えています!


 結びのヒーリング・ミュージックはLlewellyn「Root or Base Chakra」。

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 登山家が、エベレストの山頂に立ったときの感覚というのは、どのようなものでしょう――。 きっと意識の中には、「今」しかないのでしょうね!

 これ以上は上がない頂に足を置き、「あぁ、ここか、ついに…」と辺りを眺め渡し、そして、その到達点にまさに立っている自分自身というものを自ら感じ取る――。

 登頂の瞬間に浮かぶ感慨はたぶん、躍動的な歓喜というよりも、神妙な「空」の感覚に近いのだろうな、と推察する。
 これからどうやって下山して帰国するなどといった、先のことなんて絶対に考えてないだろう。
 あるいはさらに、自分がどういう人物で、どうやって登ってきたかという過程すらも、この時の意識の中にはないのかもしれない。

 ただ、喜びとともに、山頂に立つ「私」が在る――。


 目の前が見事な眺望でも、逆にひどい悪天候でも、その大きな感慨は変わらないはずだ。


 人の生における到達点というと――、たいていは、先々に実現したい目標のようなことを考えるだろう。でも実は、そのような到達点といえるものは、未来には存在しない。

 あらゆる人にとっての本当の到達点、つまりエベレスト山頂にあたるのは――、あえて言えば、目の前にある「今」こそが、それなのである。


 エベレストの頂にまさに立ったようなつもりになって、今いる周りを見渡してみたら、どんな感じだろう?――

 そこには、何でもないようなものしか目に入らないかもしれない。
 また、気に入らないものごとがあったり、気に入らない人物がいるかもしれない。
 さらには、気に入らない「自分自身」がそこに存在しているかもしれない…。

 でも、それこそが唯一の到達点。あとも先もない、そして、ある意味で選択や変更のしようもない「究極のゴール」なのである。


 「こんなのがゴールなわけがない!」という思いが反射的に浮かんできたとしたら、それがエゴの声だ。

 エゴは、エベレスト山頂である「今」を、取るに足らない単なる「通過点」のようにしてしまい、延々とやり過ごし続ける。
 そして、意識を絶え間なく「あと先のものごと」に置くようにすることによって、その意識を「今」へと向ける猶予をいっさい与えない…。


 でも、その「気に入らない!」「ゴールじゃない!」と主張する穏やかでない自分までをも、全体の景色の一部として眺め、感じている者――。

 それが、「今」というエベレストの頂に立つ、「本当の私」だ。



結びのヒーリングミュージックは、Bruno Sanfilippo「Piano Textures IV」。

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 最近読んで面白かった本の1つが、心理学者のダニエル・キイス著の小説『アルジャーノンに花束を』です。

 もともと1950年代に書かれたもので、色々な文学賞を受賞して映画化もされているほどの名作だから、「今さら」と言われそうだけど…。
 でも、心理学者だからこそ描ける話の巧妙さは、とても見事だ。

 この作品は分類としては「SF」になるのだけど、宇宙も未来も出てこない。
 人間の「知能と精神」だけをテーマにした科学的フィクションという、かなり独自ジャンルの物語である。


 主人公は、知的障害のある青年チャーリー。32歳だが、知能は幼児並みという精神遅滞者だ。

 彼は、開発されたばかりの革新的な脳手術を、臨床試験の第1号として受ける。
 手術は成功し、知能指数は急激に上昇。並み外れた「超知能」を持つ天才となった。
 チャーリーはその後、何カ月も図書館に通い詰め、あらゆる分野の知識を次々に吸収していく――。


 ところが、知能を獲得したことで、激しい葛藤がチャーリーの内に巻き起こる。

 知的障害者である彼には、肉親に見捨てられたり、仲間にひどくいじめられたりという、過去の体験があった。それまでは、そうした記憶の数々は、自分自身には何一つ分からない「意味のない出来事」でしかなかった。
 ところが知能を得たことで、過去のものごとが突然「意味を持つ出来事」と化し、チャーリーの心をひどく苦しめるようになったのだ…。

 さらに、急速に高まったチャーリーの知能は、彼の臨床試験を行っている脳神経科医や心理学者のレベルをもはるかに上回ってしまう。
 すると、それまで頼りにしていた医師たちの専門知識がものすごく浅薄に見えて、周囲に対する不信感がどんどん強まっていく――。


 この小説の圧倒的にすごいところは、物語の全部を、主人公の視点からの「一人称」で描き出している点だ。

 つまり、チャーリーが幼児並みの知能である前半は、こんな文体。
 「きょーわけんさがあった。ぼくはしぱいしたとおもうので、きっとぼくを使ってくれないだろー」
 ――と、こんな記述がしばらく続いていく。

 これが、チャーリーの知能指数が上がるにつれ、どんどん明瞭な文章になっていく。
 そして、医師や学者たちの知識レベルを見下すようになったときは、こんな調子になる。
 「物理学――場の量子論の域を出ない。地質学――地形学も層位学も岩石学さえも知らない。ミクロ経済論もマクロ経済論も知らない。変分法の初歩以上の数学についてはほとんどだめで、バナッハの代数も、リーマン多面体についても全くの無知」
 「詐欺師だ。彼らは天才のふりをしていたのだ。手探りで仕事をしている凡人にすぎないくせに、闇に光をもたらすことができるようなふりをしていたのだ!」――


 ところが、この手術に大きな欠陥があった。ピークに達した知能は、やがて失われる性質のものであることが、明らかになったのだ。
 知能の退行を止めることはできず、チャーリーは抵抗するものの、ついにはもとの幼児並みの知能に戻っていく――、というストーリーです。


 作品内でも何カ所か出てくるけど、この小説は、聖書の失楽園物語(アダムとイブが「知識の木」の実を食べて楽園を追放される神話)や、あるいは人間の「成長と衰退」そのものをテーマにしているわけだ。


 色んな読み方ができる作品だけど、僕が特に感じることは――
 人は最終的には、自らの「退行」というのを受け入れていくしかないな、ということ。


 スピリチュアルな意識の進化においても、一見「退行」に見える変化を受け入れたり、あるいはそれまで蓄積したものを明け渡していくことが、とても大切になると思う。
 変化の過程で、一時的にせよ健康を大きく損なったり、あるいは精神の安定性を手放さなくてはならなかった人もいる。

 また、この本のテーマでもある「知能」や「知識」についても、そうした明け渡しの対象になり得るだろう。


 僕自身、サラリーマン時代は、頭が可能な限り常にフル回転状態だった。
 人と話すときは、面白いネタとか鋭い意見とかを、矢継ぎ早にポンポンと口にした。誰からも「すごいね!」と評価してもらえる頭の敏捷性が、エゴ的な自分の「売り」でもあった。
 大きなミスは決してしないし、仕事上の関係各所にアンテナを張り巡らせて、微細な動きも抜け目なく感知して対応した。(でも振り返ってみれば、すべては「恐れ」から、そうしていたわけですけど…)

 ところが最近は、そういう能力が目に見えて衰退してきている。
 人と会話していても言葉がすぐに出てこないし、物をなくしたり予定を忘れたりするし、色んな物事に抜け目だらけになってきた…。「こんなに鈍っちゃって大丈夫?」と、自分でもちょっと心配になるくらいだ。
 でもまぁ、これも変化の一部であるならば、仕方ないことだなと思うけど(単に歳のせいだけじゃないと思う…)。


 イエスは「幼な子のようにならなければ、天国に入ることはできない」と説く。覚者のニサルガダッタ・マハラジも「私は何も知らない」と語る。
 もちろん、幼な子並みの知能までいかなくとも――、その知能を「自分のアイデンティティー」と見なさなくなる程度までは、余分なものを捨て切らなくてはいけないのかも知れない…。


 知識でも、お金でも、仕事の地位でも、それが「自分を守ってくれる」と思えるものは、本当の「進化や自由」をもたらしてくれるものではない。
 それは見た目には、自分の安全を保障してくれているようで、実は自分の「牢獄」となっているのだ…。


 とはいえ、意識の進化に伴う「退行」というのは、単純に逆戻りしてしまうわけではないだろう――。

 一見、最初と同じところに戻っているような場合でも、以前とはまた違った地平へと向かっている。
 そこは、もとの世界でありながらも、旧来とは決定的に違う「新しい世界」なのだ。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Frederic Delarue「A Message of Love」。

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 いつもとちょっと違う、ずいぶんと個人的な話なのですけど…

 2日ほど前から、どういうわけだか体がクタ~とだるくて、頭もポワ~ンとしてしまって、自分でも「一体どうしちゃったの?」という感じになっている。
 決して不快なわけではないのだけど、何をやるにも調子が上がらない。普段は毎朝4キロのランニングをしているけど、さすがにこの数日はお休みした。体が前にポンポンと進んで行きそうもないのだ。

 そして静かに読書とかをしていると、いつの間にかものすごく深く寝入ってしまう。
 パッと目が覚めると、時間の感覚が完全に飛んでしまっている。でも時計を見てみると、10分も経っていない…。


 外に出て空の雲や木々の緑を目にすると、息をのむほど鮮やかに輝いている。「あれっ! 近所の景色って、こんなにもきれいだったっけ?」と不思議に思えるほどだ。
 ところが、頭と体の方はまったくの「腑抜け」状態。まるで周りの世界の変化の中で、肉体ボディーだけが置いてきぼりにされているみたいな感じさえする。

 どうしてだか、よく分からない…。


 ほかに調子がおかしいという人はいるのかな、と思って色々なブログなどを見てみると――、ちらほらといらっしゃるようですね。
 中には、太陽表面の大型爆発である「太陽フレア」の影響だという説もあった…。


 僕はもともと、星とかエネルギーとかには、かなり鈍感なタイプだ。新月とか大潮とか皆既月食とかも、身体や意識で何かを感じることは一切ないし、太陽風も「どこ吹く風」である。
 でも、人生の半ばを越えて、体質が変わってしまったのでしょうかね…。


 ただ以前に一度、今回よりも格段にひどく、体の調子が唐突に崩れた経験がある。

 2011年の正月、福島市に旅行に行ったときのことだった(福島を訪れたのはこのときが初めて)。前日の大晦日に宿に着いたら、もう立っていられないほどに体がクタ~となって、完全にダウンしてまった。
 そしてせっかくの正月旅行なのに、宿のおせちも一口も食べられず、3日間ずっとベッドで横になっていた。「おかしい、どうしてだろう?」と思いながら…。

 その2カ月後に大震災が起こったわけだけど、それと関係あるかどうかは全然わからないものの、僕にとってはすごく印象的な経験だった。


 こうした不思議な倦怠感が起こるのは――、天文的な何か、地学的な何か、生体的な何か、魂的な何かが、本当に変位しているからかもしれない…。

 もしもそうだとすれば、ここで自分が強く思うことは――
 「あー、いまサラリーマンでなくて良かった!」ということ。


 頭も体もこの調子だと、とても会社の仕事をまともにこなせる状態ではない。けれども会社では、当然そんな甘ったれたことを言っているわけにはいかない…。
 なので、こんな心身の変調など何とか無視して忘れ去るようにして、仕事にいやが応でも邁進する――ということになる。

 そのようにして、何か精妙で大事な転換点を見すごしてしまう、ということもあり得るのかも知れない…。

 いま自分がこうして、変化を感じながら、それに全面的に身を任せていられるって、とても嬉しいことだなぁ、と思います!



 結びのヒーリング・ミュージックは、Chuck Wild「Journey to Peace」。

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 英語の慣用句で、「red herring(赤いニシン)」という言い回しがあります。

 意味は「おとり」とか「偽装」に近いのだけど、そのニュアンスをより詳しく言うと――
 「本来の目的から注意をそらすために仕掛けられた、興味を引くけれども中身がないどうでもいいもの」という感じになる。

 例えば推理小説で、真犯人とは違う人物に疑いがかかるように読者を誘導したり、あるいは政府が、不都合な問題への関心が高まらないよう、全く別の問題をでっち上げたりするとき、それを「赤いニシン」と呼ぶわけだ。


 どうしてまた、「赤いニシン」がそんな意味なのかというと――
 猟犬の訓練をするとき、キツネなどの獲物が通った道の脇に、においが強い赤茶色の燻製ニシンをわざと置いて、犬の嗅覚や注意力を鍛えた、ということに由来しているそうだ。

 犬は最初のうち、獲物のにおいをたどっている途中で、つい惑わされて「赤ニシン」の方へ行ってしまう…。
 でも飼い主の猟師に、繰り返したたき込まれていくうちに、一心不乱に獲物を追う猟犬になるわけだ。


 ひるがえって考えてみると、私たちの身の回りや内面にも、このような「赤ニシン」があちこちにあるように思う。

 で、それが魅力的なものならばまだましなのだけど…、私たちをいつも惑わしているのは、実は「不幸」という赤ニシンである。

 スピリチュアル分野ではよく、「多くの人はマゾだ」と言われる。
 実際に、不幸な状況に直面したときに、その人は「嫌だ、やめて、助けて!」と嘆きながらも、ずっとそこから離れることなく、いわば嗜癖してしまう…。


 私たちは本当は、喜びや幸せへとまっしぐらに向かうべき存在なのだ。鍛え抜かれた猟犬が、余計なことには目もくれず山野を駆けるように。

 ところが多くの場合、道の途中で「不幸」という赤ニシンに出くわすと…、
 もうそれに拘泥してしまって、本当の目的のこともすっかり忘れて、そこからまったく離れられなくなってしまう。


 でも、自分の心をとりこにしているその不幸というのは、本当は「真っ赤なニセモノ」なのである――。


 なんて言うと、「現に自分がこうして苦しめられている出来事が、ニセモノであるわけないだろう!」と言い返されそうだけど…。

 前回記事の「永遠の私は知っている」で紹介した米国人女性べバリーは――、精神疾患、父親の死、家族との断絶、交通事故による顔面の損傷という自身に降りかかった悲運な現実の「幻想性」を知って、そして最終的に、真に実在する「喜びと幸せ」だけを選び取った。

 そんな見方、生き方が本当に可能なのだ。というより、それこそが私たちのそもそものあり方といえる。
 あれほどの数奇な人生でさえ180度変わってしまうのだから、たいていの状況は十分に逆転できるはずだろう。

 それは「逆転する」というほど大仕事でもない。
 いま自分が心を奪われている目の前のものとは、中身のない「赤ニシン」であることに、ただ気付けばいい。


 何か自分を揺るがす出来事に直面して、胸の内に「不幸せ感」がわき上がってきたとき、自分の心にこう言ってあげよう――
 「これはただの赤ニシンだ!」

 状況は当面同じでも、それが不幸であるという認識や感情エネルギーは、じわじわとしぼんでいく。
 猟犬が、本来の標的のかすなかなにおいをかぎ分けたのだ。



 結びのヒーリング・ミュージックはKamal「Travellers of the Seas」

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 今回は臨死体験の話です。
 心理学者でコネチカット大学教授のケネス・リングがレポートの中で取り上げているもので、ベバリー・ブロドスキーという米国人女性の体験談です。

 数多い臨死体験談の中でも、これほど美しく、そして人生を生きるうえで励まされるものはないのでは…とも思うのですが、紹介される機会がとても少ないようなので、まとめて載せてみますね。

◇        ◇

「べバリー・ブロドスキーの体験」
(「Journal of Near-Death Studies」1991年10月号、コネチカット大学ケネス・リングのレポートより)


 ▼悲運な生い立ち――大虐殺を許した神なんか信じない!

 べバリー・ブロドスキーは、米東部フィラデルフィアの保守的なユダヤ人家庭に生まれ育った。読書好きで、内気で、きまじめな性格だった彼女は、十代のころはずっと神を信じていなかった――。
 「私は8歳のときホロコースト(ナチスによるユダヤ人大量虐殺)について学んでから、神が存在するのならば、どうしてそのような非道な出来事を許したのかと、反逆の怒りを向けるようになったのです」

 高校生のとき、彼女は抑うつ状態に陥った。ところが両親が、精神疾患を恥ずべきことのように考えていたため、治療を受けに行くことができなかった。
 そして高校を卒業するころには、精神状態は深刻なものとなる。成績は良かったにもかかわらず大学進学はもはや困難で、将来のことに向き合うのも苦しくなった。
 そして最悪なことに――、彼女にとってかけがえのない支えであった父親が、心臓発作のため急死したのだ。

 父の死をきっかけに、母親も心身をひどく病んでしまった。
 「そんな不幸な境遇に私は耐えられなくなり、19歳で家を飛び出してカルフォルニアへ移りました。そこで人々の明るい気風に触れ、瞑想を習い、もう一度やり直せそうな希望もわいてきたのです」


 ところが、さらなる災厄がべバリーを襲う――
 バイクでハイウェーを走行中、飲酒運転のトラックに追突されたのだ。そこはヘルメットの着用義務のない道路だった。彼女は頭から路面にたたき付けられ、頭蓋骨を骨折し、顔面にひどい損傷を負った。

 数週間の入院で、骨折箇所は接合された。鎮痛のためモルヒネが投与された。しかし、痛みは耐えがたいほど激しく、顔の皮膚の半分が引きちぎられてしまっていた。ここまで無残な姿の自分を受け入れることは、もはやできなかった。
 そして退院のときべバリーは、「今夜を自分の人生の終わりにしよう」という固い決意を持って、自分のアパートへと帰った。

 そしてベッドに横たわり、それを実行しようとした。このときばかりは、彼女は熱心に神に祈った――。
 「どうか私を連れ去ってください。私はもう1日たりとも生きていくことができません。苦痛はとても耐えきれず、私のことを愛してくれる人なんて誰一人いないでしょう。もはや私には、生き続ける理由なんてないのです」…


 ▼臨死体験とガイド――驚異的な「魂の旅」へ

 するとどういうわけか、予期せぬ平安が彼女に降り注いできた!
 そして、天井に浮かび上がった視点から、ベッドに横たわる意識のない自分の体を見おろしていた。それは、「私が私でありながら、自分の体にはいない」という、何とも不思議で厳かな状況だった。

 このとき彼女のそばに、白い光を帯びた、まばゆい何者かが一緒にいた。
 「その存在のほうを向いたとき、敬虔な畏怖の念がわき上がりました。それは天使とも聖霊とも違って、私に何かを伝えるために遣わされたようでした。そして、そこから発せられる愛と優しさから、私はメシア(救世主)と共にいるのだと感じたのです。私の内に安らぎが深まり、歓喜が呼び覚まされました」


 そこからべバリーは、驚異的な「魂の旅」へと向かう――。
 その輝く存在は彼女の手を取り、飛びながら窓の外へと抜けて出た。眼下には壮大な太平洋が広がっていた。そして上空を見ると、そこには大きな「入り口」がぽっかりと開いていた。
 入り口の向こうには、らせん状に上昇していく通路があった。それはものすごく奥深くへと続いている様子だったが、通路の遥か先から、見たこともないほどのまぶしい光が、こちら側に向けて差していた。

 彼女はガイドに連れられ、その通路を昇っていった――。長い距離を、相当な速さで進む感覚だったが、「その領域全体が時間の外にあるようだった」という。
 そしてついに、通路の向こう側に出た。着いたときには、それまで一緒にいたガイドはもういなくなっていた。


 ▼神との対面――起こる物事にはすべて意味がある!

 その場所で、べバリーの目の前には、「生きた光」がいた――。
 光の中には、知と真実、慈しみ、愛が満ち満ちていた。さらにそれは、ありとあらゆるすべてのものを包容していた。ちょうど白い光が、虹の全部の色を含んでいるように。
 その完全な存在には、姿かたちや性別もなかった。

 直感的に彼女は、心の奥深くで、「いま自分は神と対面しているのだ」という驚くべき認識に至った。


 「私はそこで、地上世界で見てきたあらゆる非道な出来事についての疑問と、厳しい批判を神に向けてぶつけました。すると神は、私の考えていることを即座に知り、テレパシーで答えてくれたのです。
 私の心は丸裸になり、そして実際に私自身が、純粋な精神そのものになっていました」

 「その対話の内容を、正確に思い出すことはできません。あの世界にいたときは、真実への洞察が極めてはっきりと得られたのに、それを地上に持ち帰ることはできなかったのです。
 でも、これだけは確かに覚えています――。私は、子供のころから悩み続けていた、ユダヤ人が受けた苦しみについて神に問いただしました。神の答えはこうです。『物理的な領域ではどれほど恐ろしく見えることでも、起こる物事にはすべて意味がある』――。
 そして、この答えを受け取ったとき、私は心の奥でこう返事をしたのです。『もちろん、私はそのことをすでに知っています。忘れてしまうはずもありません』と――。
 すべての出来事は目的を持って起こっており、永遠の私はその目的をすでに知っている! 本当にそうだと分かったのです」


 やがて疑問は止み、彼女は限りない「知」で満たされていった。それはまるで、無数の花々が一気に咲き誇るようだった。神の知でいっぱいになったとき、神と1つになっていることを感じた――。


 ▼宇宙で見たもの――織り上げられた1つの壮大な作品

 その信じられないような体験は、まだ発見の旅の始まりだった。
 次にべバリーは、宇宙の特別な旅に招かれた。そして星々が誕生する中心へ行った。そこでは超新星が爆発し、何と呼ぶのかも分からない荘厳な天上界の現象が、数多く繰り広げられていた。

 「そこで私が得た印象は――、宇宙は同じ生地から織り上げられた、1つの壮大な作品であるということです。空間と時間は、私たちをこの次元にとどめておくための幻想にすぎません。本当は、あらゆる物事が同時に存在しているのです。
 私は、聖なる宇宙船の乗客だったのです。その中で創造主が、あらゆる創造の完全性と美しさを、私に見せてくれたのです」


 ここでさらにべバリーは、言葉に尽くせぬほど素晴らしい、光の存在との霊的な交わりを経験する。そして今度は「知」だけではなく、「愛」によっても満たされていった。それはまるで愛の光が押し寄せ、流れ込んでくるようだった。

 「私は、神の愛の対象です。その愛から、想像できないほどの命と至福がもたらされたのです。
 私のあり方は変容しました。私の誤った信念や罪は、一切を問われることなく許されて浄化されました。私は愛そのものであり、根源的な存在であり、そして無上の喜びとなったのです。
 私は、ある意味でそこに永遠にとどまり続けています。この合一したあり方が破られることは、決してあり得ません。過去からも常にそうであり、そして現在もこれから先も、ずっとそうあり続けるのです」


 ▼生まれ変わったような人生――死は存在しない、愛は終わらない

 これらの体験をした後、何がどうなったのか分からないまま、突然べバリーは自分の傷ついた体に戻った。
 ところが奇跡的なことに、愛と喜びも一緒に持ち帰っていたのだ。彼女は、どんな途方もない夢も超えるほどの、深いエクスタシーに包まれていた。さらには、肉体的苦痛もすべて消えていた。それから2カ月の間、痛みを忘れた状態が続いた。
 「私は自分が新たに作り変えられたように感じました。そして、あらゆるところで驚くべき真実を見いだしました。すべてのものは生きていて、エネルギーと知性が満ちていたのです!」


 以前は痛ましいほど内気な性格で、自分は愛されるに値しないと信じ切っていたべバリー。しかしこの体験の後、人生は劇的に変わっていった――。

 「私は、まるでホラー映画に出てくるミイラみたいに、頭を包帯でぐるぐる巻きのまま街へ出ました。そして1週間で仕事を見つけ、たくさんの友人を作り、初めての真剣な恋に熱中しました。故郷の母を訪れて和解し、23歳で大学生になりました」
 さらに彼女は、全米優等学生に選抜されて大学を卒業。結婚して、母親となり、仕事のキャリアを積みと――、人生の恵みを存分に受け取りながら生きている。それは、以前の闇に覆われた日々には、決して信じられなかったような人生だ。


 べバリーがこの体験談を記したのは、それが起こってからかなり後になってのことである――。
 「あの素晴らしい旅から20年以上が経ちますが、忘れたことは一度もありません。また、人に嘲笑されたり不信感を持たれたときにも、私自身はその真実性を疑ったことは全くないのです。
 あれほど強烈で、人の人生を変えてしまうものが、夢や幻覚であるはずがありません。むしろ反対に、この残りの人生のほうが、つかの間のファンタジーであり、はかない夢のように思います。それは終わるのです。私たちが、命と至福をもたらす永遠の存在の中で、再び目覚めるときに」

 「悲しんでいる人たち、恐れている人たちに、私はこう請け負います。死は存在しません。愛に終わりはありません。
 そして、私たちは完璧な全体の一部であるということを、どうか忘れないでください。それは神の一部であり、お互いの一部なのです。
 これを読んでいるあなたとは、いつの日か、光と愛と至福の中で一緒になることでしょう!」


◇        ◇

 いかがでしたか? 人生の中で、ぜひ読んでおいたほうがいい一文だなと思います…。
 結びに、恒例のヒーリング・ミュージック。今回は、Jonn Serrie「Amazing Grace」。

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 知っている人には当たり前すぎるかもしれないけど、この上の絵は誰の作品でしょうか?――

 手塚治虫「火の鳥」へのオマージュとして、現代アーティストの村上隆が描いたもの?(尾羽の目玉模様が、ちょっとそれっぽいかな)…


 答えは、今から180年前の、葛飾北斎の晩年作「鳳凰図屏風」(ボストン美術館所蔵)だ。
 全体が幅2.5メートルという大作で、76歳のときに描いたというのに、衰えを知らぬエネルギーが鬼気迫るように躍動していますよね(ちなみに北斎は90歳まで生きた)。


 当時、北斎は自らを「画狂老人」と称していた。実際にその暮らしぶりというのは、本当に狂っていたも同然だったそうだ…。
 家じゅうがゴミで埋め尽くされ、食べ残しが腐敗してカビが生え、虫の糞や死骸が転がり、布団や着物にはシラミがわき…という、すさまじく不衛生で荒れ放題の状態。
 まるでインドのスラムの様相である…。

 そんな中で、老齢の北斎は、喜々として絵筆をとっていたという。
 もう絵のほかの世界には何の興味もなくて、周りの様子など目にも入らなかっただろうし、本人はそれで「最高にハッピー」だったに違いない。


 そして、家の中が汚すぎてもうどうしようもなくなったら、北斎はパッと引っ越しをした。その回数、生涯で何と100回!!
 家まるごとを100回だから、ある意味で「断捨離」の累積量として、古今東西で右に出る者はいないかも。


 でも本当に、あの神がかったように鮮麗な鳳凰図が、手の施しようもないほど荒れた汚部屋の中で描かれていたなんて…、とても信じられないですよね。


 北斎は、物理的に汚れた部屋の中で、とてつもない芸術的価値のある作品を生み出していった。
 でもあえて言えば、それは、この世という「閉じた世界」における創作だ。

 で、実は私たちは今、それと似たような、もっとすごいことをしている――。


 私たちは、人生で恵まれた境遇にあっても、そして逆にひどくすさんだ状況に置かれていたとしても――、目に見えない広大無辺な「魂の世界」において、価値の計り知れない壮大な作品を描いているのではないかな、と思う。

 身の周りの状況だけを見ても、自分がそんな創作に携わっている実感など到底しない。
 でも、ゴミ屋敷にいる北斎の手が鳳凰を描き出したように――、問題だらけのこの世界において、その作品は私たちの手によって今まさに描かれている。

 そして私たちの本質は、周りがどうあろうとも、それを描けているというだけで常に「最高にハッピー」なのだ。


 ――次回、その「作品」を見てきたという人の、感激するような話を紹介したいと思います。と言っても、臨死体験談なのだけど…。
 でも数ある臨死体験談中でも、これほど美しくて素晴らしいものはないのではと思えるほど、生きていくうえで根底から勇気づけられる話です。



結びのヒーリング・ミュージックは、Lifescapes「Window's Reflection」

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 「一瞬で幸せになる方法」というタイトルの本があるけど、それとは逆の「一瞬で不幸せになる方法」というのも、これまたシンプルで簡単・即席といえます。

 「不幸せ」になるのに、わざわざ職や財産を失ったり、親しい人と決別したり、健康を損なう必要はない…。

 エリザベス・キューブラー・ロスは「不幸への最短経路は、ものごとを比較することである」と端的に述べているけど、まさに「比較」こそが、この〝逆テクニック〟の要諦といえる。


 仮に、「自分が幸せになるためのチェックリスト」というものを作ってみたとしよう。
 そして、幸せになるために必要な「他人が持っていて自分に無いもの」というのを、項目として挙げてみる。

 たとえば――、
 十分に高い収入、老後の心配がいらないくらいの資産、理解し合えて包容力のあるパートナー、成績優秀で聞き分けの良い子供、自分の真価が発揮できる職場、頼れる上司と有能な部下、自分を取り囲んでくれる友人たち、高身長・適正体重・魅力的な容貌、問題のない健康体、立派な家や高級車、恵まれた才能と運やチャンス、自由な立場、幼少期の幸せな経験、当意即妙なインスピレーション、等々……

 きりがないですね。
 実際にそれを持っている知人などの姿を思い浮かべ、それと比べた自らの状況を顧みてみると…。
 本当に時を要さず、「自分はこんなにみじめで良いのか?」と思えるくらい、何だか不幸せな気分になってくる。


 実は多くの人が、このような「チェックリスト」を無意識のうちに作り上げ、常に携えながら生きているのではないだろうか。

 つまり、他人との「比較」や、他人からの価値基準に従って、幸せになるための「条件」を設定している。

 そして、その条件に対する自分の「幸せ度(の低さ)」を確認して、その結果として「不幸せ感」を抱く…、という経緯を大抵たどってしまっている。


 また特に厄介なことが、こうした相対的な比較によって形作られた「不幸せ」が、まるで「絶対的」なもののように確証できしてしまうことだ。


 で、この「比較」に基づいた「幸せの探求」というのは、本当にうまくいくことがない…。

 頑張って色んな要件を次々に満たしていっても、どういうわけか「幸せ」だけは満たされることがない(サラリーマン時代の僕自身も、まさにそうだった…)


 それがなぜうまく行かないのか、という理由は――
 話がものすごく飛躍するけど、つまりは「この宇宙がそのように作られているから」なのではないかなと思う。

 この世界は、もともと「絶対的なワンネスの存在」であった魂が、自分の本質を経験的に知るために創り出した世界だ。
 そしてここは、ワンネスの状態では経験することができない、「関係性」の世界――。あらゆる価値観は相対的で、愛は条件付きで、すべての物事は常に変化し続ける場だ。

 この相対的な世界で、「絶対的」なものを見いだす。
 条件付きの世界で、「無条件」のものを見いだす。
 変化し続ける世界で、「不変」のものを見いだす。
 ――それが、この世界そのものの根源的な目的だ。本当の究極的な「幸せの探求」とも言い換えられる。


 この世界の中にあふれる相対的なものや、条件付きのもの、変化するものというのは、最終目的を際立たせるための舞台道具といえる。それらは、ある意味で「幻」であり「架空の想像物」だ。

 そんな幻や架空のものと「比較」しながら、絶対的で不変の「幸せ」を見いだそうと試みても、決してうまくいくはずがないわけだ…。


 で、人がこの世界に生きる目的を忘れて、「相対」や「比較」の価値意識の中にどっぷりと浸かってしまったとき――
 宇宙から、「そうではないよ!」というお知らせが来る。

 そのお知らせの形が、「不幸せ感」だ。

 人生の「幸せ」探しで、違う道へと迷ったとき、そのお知らせが「不幸せ感」…。実にそのまんまで、分かりやすい。

 胸に巣食う嫌な感覚は、罰でも業(ごう)でも因果応報でもなくて、単なるシグナルである。そのシグナルによって、人は揺さぶられ、時に絶対的な何かへと突き動かされていく。


 前述の「自分が幸せになるためのチェックリスト」だけど、あるべき項目というのは、シンプルに次の1項目だけだろう。

 「私は幸せか?」――

 周りと比較してどんな状況であっても「はい」という人が、「絶対的に幸せ」になれる人ですよね。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Denean「Angels Calling Me」。

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 ことわざの「仏ほっとけ、神かまうな」というのは、ふつうは無宗教や無神論者の考え方とされていますよね。

 でも、「神仏」とか「大いなる何か」に対して、本当に敬虔な人のあり方というのも、実はこの「ほっとけ、かまうな」の姿勢ではないかな…と思うのです。


 イエスが語ったさまざまな講話の中には、「神の国とはこのようなものである」から始まるたとえ話などがいくつかある。
 中でもよく知られているフレーズが、これだろう――

 「神の国は、あなたがたの内にある


 この「神の国」が何であるかについて、色んな解釈を加えることもできる。
 もちろん一神教の世界観でとらえるのが本道だけど、スピリチュアルな観点から、それを「本当の私」とか「真の幸せ」、あるいは「悟り」だととらえても、この言葉はピシッと当てはまる。

 その「最上級に大切」といえる何かは、自分から離れた外側のどこかに存在しているのではない。それをあちこち探し回ったり、得るための条件なり状況を整える必要もない。
 それはシンプルに、自分の「内にある」ものなのだ。


 では、その内にあるという「神の国」は、どうすれば現れたり経験することができるのか?――

 それに関しても、イエスの明確な言葉がある。

 「神の国は、ある人が地に種をまくようなものである。
 夜昼、寝て起きている間に、種は芽を出して育っていく。
 どうしてそうなるのか、その人は知らない



 つまり、それは自然に起こってくるものだということを、きっぱりと言い切っているわけだ。私たちができることというのは、ただ「寝て起きている」だけしかない…。
 ほかに私たちが為せる物事や、それに直接的に働きかけられるワークなどは、実際には何一つないのだ。

 そして、どうしてそうなるのかを知らなくても良いのであって、理解を要することや、腑に落とすべきこともない。


 「神の国」を来たらすという魂の大事業においても、私たちの側としては、単に「寝て起きている」しかやることがないわけだ。
 ひょっとしたら――、「それは神の仕事であって、人の力では何の役にも立たないから、構わず放っておきなさい」という趣旨なのかもしれない。そこまで言われれば、「完全に信じ切って任せる」以外に取る道はない…。


 とはいえ、本当に「寝て起きている」だけというのは、ちょっと張りがない。
 じゃあ、せっかくだから、何か一番面白そうなことでもするならば… そうだ、これをしてみよう!

 ――と考えて浮かぶことが、ほかならぬ「この生の目的」なのかもしれないですね。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Patrick Bernard「Hands of Sacred Light」。

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 前回記事では、人間というのは「パペット(手踊り人形)」みたいなものだ、という話しをしました。
 そのパペットの中に、「生命」という手が挿入されることによって、人として考えて、しゃべり、行動して、人生を送るようになる。

 今回は、そこからさらに極大的な視点へと、話を広げてみたいと思います。
 (この記事は、過去3回の記事の「バーさんと カーさん」「人類の共有部品としての悲しみ」「千手パペット」からの続きになります。各記事のタイトルはハチャメチャだけど、つながった一連の話になっています)


 まずは、ちょっと前回のおさらいみたいになるけど…
 私たち人間に宿る「生命」というものは、たくさんの数が個別的に存在しているわけではない。

 「生命」は、根源的にはたった「ひとつ」だけ。大いなるワンネスの生命があるだけだ。
 つまり私たちは、本質において、すべてとつながった同じものなのである。

 その状態をたとえれば――
 たくさんの手がある「千手観音」が、その手の1つひとつにパペットを付けて操っているイメージだといえる。
 地球上には70億人の人間が生きているけど、いわば「70億本の手を持つ千手観音」が、この世界を動かしているような感じだ。
 …ここまでが、前回の話の概略。


 この「70億本の手を持つ千手観音」――、これが私たちの究極的本質であり、「神」あるいは「宇宙の総体」ともいえる。

 で、その千手観音というのは、実は「お1人さま専用」のものなのだ!


 このことを、前回も例に挙げたタレントの「パペット・マペット」のキャラクターで説明すると――

 まず、パペットの「カエルくん」がいる。
 カエルくんの目の前には、もう1つのパペットである「ウシくん」が他者として存在している。そのほかにもさらに70億人もの他者が、その世界にはいる。
 それらのパペット全部を、1体の千手観音がたくさんの手で動かしている…。

 この、1体の千手観音(つまり宇宙の総体)が、「カエルくん専用」なのである。


 その宇宙において、カエルくんだけが唯一無二の主役だ。
 ウシくんほか大勢のパペットたちは、カエルくんにとっての世界をリアルに現すための、脇役やエキストラに過ぎない。
 それらは幻と言ってもいい。

 つまり、カエルくんの生を経験するというだけの目的のために、「70億本の手を持つ千手観音」まるごと1体が、わざわざ存在しているわけだ。


 その千手観音の横には、もう1体の別の千手観音がいる。
 それは、ウシくんのための千手観音だ。

 ウシくんのための千手観音も、70億本の手があって、同じようにたくさんのパペットを動かしている。
 その宇宙では、今度はウシくんだけが主役である。カエルくんほか70億のパペットたちが脇役やエキストラになって、ウシくんが経験する世界を現している。


 ――で、そのような千手観音(つまり宇宙)が、あらゆる人の数だけ、すなわち70億体も「並列的」に存在している。

 その1体1体が、すべて「お1人さま専用」だ。
 1つの宇宙に1人の主役がいて、主役以外の人物はぜんぶ幻なのである。

 70億本の手を持つ千手観音が、70億体――
 これは、よく言われる「パラレル宇宙」の姿に近い。


 話はまだ先がある。
 この千手観音は、神といえば神だし、宇宙の総体といえばその通りなのだけど…

 実は、この千手観音もまた、パペットなのだ!!


 ニール・ドナルド・ウォルシュの『神との対話』の本の中でも、神自身が、こんな仰天するようなことを語っている。
 「もっと大きな真実がある。あなたは私の身体であるが、私もまた、ある者の身体なのだ」と。

 さらに、その「ある者の身体」という関係は、より大きな方向へも、またより小さな方向へも、「無限」に続いていると説明している。
 そして、「私はアルファでありオメガである」と――。


 これまでの話を整理すると(まともに整理できないけど)…

 1) 人はパペットのような存在である。
 2) 世界に存在するパペットのすべてを、「70億本の手がある千手観音」が動かしている。
 3) その千手観音は、人の数だけ、すなわち70億体も並列的に存在している。



 これに、『神との対話』が説明している構図を加えると…

 4) それら70億体の千手観音もまた、すべてパペットである。
 5) その千手観音のパペットを動かしているのは、「より大きな千手観音」である(その手も70億本ある)
 6) この関係が、大きい方向にも、小さい方向にも、「無限」に続いている。



 ――と、いうことになる。

 途中までの構図は、1本の大きな「樹」のようだといえる。
 たくさんの葉を付けた枝は、より大きな枝の一部である。さらにその枝も、もっと太い枝から分かれている。最終的には、すべてが幹へとつながっている。

 ところがこれが「無限」に続いていくとなると…、もう人間の頭脳では把握しきれない。そういうものが存在する真意を理解することなんて、もはや不可能だろう。


 でも、1つだけ、これだけは言えるのではないかな…

 これほど壮大な仕組みを用いて、結論として導き出されているものが――、いま1人ひとりの目の前に現れている「日常」そのものである、ということ。

 これこそが(問題だらけで味気ないような生活場面こそが)、私たちが宇宙の総体の中で見出すことができる、本当に唯一のものなのだ。


 このブログで何度か言っていることだけど――、いま現れているこの日常とは別に、何か特別に神聖な場所とか使命がどこかにあると考えるのは、全くの見当違いではないだろうか。

 宇宙全体が「これ!」といって眼前に差し出しているのに、エゴがそれとは違うものを見出そうとしても、本当に何にもならないですよね…。



 結びに、また映像の紹介です。今回は、よく知られている、無限に続く「フラクタル図形」。
 どれほど細部を拡大していっても(逆にズームアウトしてより大きな全体を見渡しても)――、そこに見出せるのは、最初のものと同じ図形…。

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 古代エジプトでは、「魂」を2つの形態に分けてとらえられていました。

 ひとつが、死後にあの世へと飛び立って戻って来ない「バー」というもの。もうひとつが、その人の人格を備え、あの世とこの世を行き来する「カー」というもの。


 その考え方にちょっと倣って、魂というものを純粋な「生命」と、人格を持つ「精神(霊)」とに区別して考えてみると――、人が生まれ変わる「転生の仕組み」が分かりやすくなるのではないかな、と考えています。

 で、今回は、純粋で非個人的な「生命」から見た転生について、考えてみます。
 (この記事は、前々回記事の「バーさんと カーさん」と、前回の「人類の共有部品としての悲しみ」からの続きになります)


 人は、「肉体」と「精神」と「生命」の3つから構成されている。
 そして人が死ぬと、その3つは分離する。

 そのうち「生命」というものは、死後に一体どうなるかというと――、それは「ワンネス」へと還っていくのだと思う。


 ワンネスへと還ると、それは純粋に「ひとつ」となる。その中のどの一部分が誰であったのかという区分けはもうできなくなり、もとの人間に戻ることもない。
 それを、この世の側から見ると、古代エジプトで言われた通り、「あの世へと飛び立って戻って来ない」ものとして映る。


 根源的な「生命」というのは、まさに唯一無二の「ひとつ」なのだ。人や生き物の数だけのたくさんの生命が、個別的にバラバラに存在しているわけではない。

 その大いなる「ひとつの生命」が、1本の細い触手を伸ばすようにして、1人の人間の体の中に「命」として宿る。
 人が死ぬと、その触手は「ひとつの生命」の中へと引っ込められていく。

 でもやがて、大いなる「ひとつの生命」の別の部分から、新たな触手が伸びてくる。そしてその手が、新しい1人の体の中に命を吹き込む。
 その人が死ぬと、再び手が引っ込められ、そして後にまた新しい触手が伸びて…と。

 この延々とつづく繰り返しが、純粋な「生命」から見た転生といえる。


 かんじんの「生命」がないと、人は「肉体」を活動させることはできないし、「精神」を働かせたり認識をする意識もない。――この、生命がないと何にもならない状態というのは、手をつっ込んでいない「パペット(手踊り人形)」のようなものだ。

 肉体と精神からなる「人間型パペット」の中に、「生命」がその手を入れることによって、人として動いたり話したりして、この世界における人生を歩むことが可能になる。


 最近はあまり見かけないようだけど…、両手にウシとカエルのパペットを付けて、黒子の格好をした「パペット・マペット」という芸人がいる。
 このタレントを例にすると、手に付けている「ウシくん」「カエルくん」が、この世界にいる一人ひとりの人間にあたる。そして黒子の芸人が、大いなる「ひとつの生命」である。


 本来、パペットは「主体」ではない。
 あくまでも、パペットを操る人の意思があって、パペットはそれによって「動かされる」存在である。

 ところが、大いなる「ひとつの生命」の手というのは奇跡的に高性能で、パペットに入れた手そのものが、あたかも1つの「主体」のように感じられてしまうのだ。それが自分で考えてしゃべり、自分で動いているかのように…。

 「カエルくん」は自分のことを、1人の独立した主体的な「カエルくん」であると、疑いの余地なく認識してしまう。
 その目には、別の生としての「ウシくん」が見える。ウシくんは明らかに、個別的な他者として存在しているように映る。時には、互いに「食うか食われるか」の対立する相手としてやり取りする。


 そして、両者を動かしている黒子の芸人の姿は、全く見えない。自分たちが本当は芸人の「手」であるということも、すっかり忘却してしまう。

 ――これが「同一化」と呼ばれる現象だ。つまり、私たちが普通に生きている状態である。


 覚醒体験というのは、自分たちパペットを動かしている黒子の芸人の存在に、突如気づくことだといえる。

 すなわち、大いなる「ひとつの生命」こそが私自身の正体であり、他者だと思っていたすべてが実は自らの一部であるという真実を、体験的に見通すことだ。

 しかも、その黒子の芸人の手というのは、2本ではない。いわば、たくさんの手を持つ「千手観音」が、カエルくんウシくんほか大勢のパペットを付けているような感じといえる。
 その手の数は、地球上の人間だけで「70億本」もあって、さらにほかの生き物も加えると… これはもう想像も及ばないほど、文字通りの「神わざ」だ。

 その神わざを私自身のものとして一瞥する体験というのは――、とても筆舌に尽くせぬ超絶的なものだろう。


 とはいえ、大多数の人には、覚醒体験というのは起きていない。こうした真相を、体験的にうかがい知る機会は、世界中の人々の中でもずいぶんまれにしかない…。

 それでも、「私の本質はこのパペットではなくて、その奥にある目に見えないワンネスである」という前提を持ちながら、信じて生きていくことは可能だろう。
 まさにそれが、イエスの語った「見ないで信じる者は幸いである」という生き方だと思う。


 「これが自分だ」と思い込んでいる自分とは単なるパペットであり、他者として見える相手もただのパペットだ。では、そのパペットの実体というのは、どういうものかというと――
 前回記事で書いた通り、それは過去の人類から受け継いだ想念・感情の組み合わせであり、いわば「中古パーツ」の寄せ集めなのだ。

 そのひとかたまりのものに、いちいち固有名称を付けて呼ぶ意味すら無いくらい、そこには「個別的な実体」や「各パーツの帰属性」なんていうのも無いのである。


 目の前の相手が、どれほど腹立たしいことを口にしようとも、自分を悲しませたり傷付けようとも、その相手は「何者でもないパペット」なのだ。
 しかも、その相手の奥にある正体というは、「私」自身である。本当の私が、そこに手を入れて動かしている。


 ではどうして、自分と他者というパペットを付けて、わずらわしい関係性の世界をわざわざ生きているのだろうか――


 大いなる「ひとつの生命」は、永遠不変なワンネスの状態としては、「あるがままに在る」ことができる。
 そして「私は何者であるか」も、もとからすでに「分かり切っている」ことだ。

 では、ワンネスとは全く違った状態――すなわち、常に変化する世界、制約された世界、複雑な関係性の世界の中にあって、果たして「私」はどうするのか?
 また、たとえ真実が目に見えなくても、世界のすべてと「私」がワンネスであるというのであれば、そこで私はどう行動してどう在るのか? 私は何者になるのか? 何者であると表明できるのか?

 ――もとから完全に分かり切っていたはずの「私は何者であるか」について、全く別の次元で体験的に具体的に知ってみること。
 これをするために、私たちは今ここにいるのだといえる。


 で、今回の記事はここまでですが、話はもうちょっと続きます…。
 「70億本の腕を持つ千手観音」という例えでも相当に超絶的なのだけど、次回はさらに幾何級数的に話が壮大になります。



 結びに、前回記事で紹介した「太陽系の本当の動き」の映像の新バージョン。
 太陽系は銀河の中を公転しているわけだけど、「その動きは螺旋運動である」というモデルを映像化したものです。
 まさに、躍動的な生命感あふれる、宇宙のダンスのように見えます。

 ふと思ったのだけど、この太陽系の動きのように、螺旋運動の始点と終点をつなげて「ドーナツ状の環」にすると――
 フリーエネルギーについて説いた有名な映画「スライヴ」に出てくる、「トーラス」の循環システムになりますよね!

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プロフィル

Koudai Mitsuna

Author:Koudai Mitsuna
 
光奈 広大(みつな・こうだい)

 20年のあまりのサラリーマン生活を経て、いわゆる「ザ・マネーゲーム」を何とか卒業。今では束縛されない自由な日々を存分に味わっています!

 そうした中で心がけているのは、普通の日常的な行いを通じて、意識の進化を目指す「カルマ・ヨガ」。

 日々の喜びや学び、インスピレーションから得たスピリチュアルな気付きなどをブログで紹介しています。

 妻子と都内在住――。





http://facebook.com/koudaimitsuna

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