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 スピリチュアル関連の新刊本を買う機会がこのところ少ないのだけど、先月に『“それ”は在る―ある御方と探求者の対話』(ヘルメス・J・シャンプ著)を購入して読みました。

 きっかけは、あまりにも評判がいいから――。
 いまここ塾の阿部敏郎さんはブログで、「読んでみると、まさにこれまで伝えてきたことがそのまま書かれていました。この本の作者はまぎれもなく『私』であり、『大いなるひとつ』です」と、ストレートに評していた。
 またamazonのレビュー欄には、翻訳家の山川紘矢さん自らが、5つ星を付けてこう書き込んでいる。「僕は多くの人に目覚めてもらいたいということで、日々仕事をしています。この本を多くの人に勧めるのも僕の役割。僕も聖ジャーメインに『皆さんにお勧めしなさい』と言われてお勧めしているような感じです」。

 あと、決してメジャーではないけれど、僕が数年前から読んでいる「アセンション通信館」というメルマガがあって、その中にもこの本の話題が出てきた。このメルマガは、ニサルガダッタ・マハラジなどの言葉を丁寧に紹介していて(もとが相当な圧巻だけに、ハッとさせられる部分をうまくピックアップして紹介してもらえるのは大変ありがたい)、発行者はさまざまな覚者の教えにとても造詣が深い方だ。
 その人もこの本について、「確かに聞いたことのある言葉が出てくるのですが、でも(単なる模倣なんかとは)響いてくる意味が異なる、波動が異なります。このメルマガに付き合ってくださっている方々には、この本は必読です、とお勧めしたいですね」という。


 ここまであちこちから勧められるのならば、と思って読んでみたら――、本当にまれに見るくらい素晴らしい一冊だ。
 決して平易な中身ではないけれど(本の帯には「これはまったく上級者向けだ」とある)、現時点ではこれ以上にないほど読みやすいと思う。
 著者は実は日本人で、年齢はまだ30代。この本の全編500ページを(余白部分が多いとはいえ)、突然のインスピレーションによって書き上げたというから、ただごとではない…。


 色んな人の感想などをネットで見てみると、「以前から言われているのと同じことしか書いてないじゃないか」といった声もある(この系統の本には付きものだけど…)。
 でも、同じ中身をこうして「新しい言葉づかい」で語られることこそが、僕はとても大事なことだと受け止めている。そもそも、文字や言葉による伝え方としては、この「同じ中身の繰り返し」しかあり得ないのではないかな。


 過去の言葉による伝達を振り返っても――、何千年も昔の経典からはじまって、近年のものでは40年前の『I AM THAT』も、20年前の『神との対話』も、5年前の『ニュー・アース』も――、根っこにあるものは全く同じであり、それを「新しい視点と文体」で語っているに過ぎない、ともいえる。

 たとえて言えば、ひとつの同じ原書を、時代ごとに色んな訳者が新訳本として出しているような感じだ。それは旧作を覆すものではもちろんなく、並列的なものとして売られている。
 往年からの『ライ麦畑でつかまえて』(野崎孝訳)と共に、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』(村上春樹訳)があっていいわけだし、その方が作品の味わいも理解も深まるし、何より人が作品に出会うチャンスが広がる。


 スピリチュアルの分野では、繰り返しの中身でありながらも「新しい言葉づかい」のメッセージが、本やブログの中に本当に急激に増えてきている。それは今や、世界に張られた網の目のように広がっている。
 あとは、「誰が、何に出会って、どのタイミングでツボにはまるか」だけともいえる。

 文字の世界の中で「それ」は、読み手の魂をしっかりつかまえようと待っている――。



 ちなみに僕が、『“それ”は在る』の本の中でいちばん引かれたのが、「ハート(聖心)を開く」ことについての記述だ。
 この本の核心部分とは違うかもしれないけど、それを読んでちょっとした認識を得たことが、今の自分の世界での変化をもたらしてくれた。
 そのへんのことも、後日にまた書きたいと思います――。


 結びのヒーリング・ミュージックは、Aeoliah & Mike Rowland「Follow Your Star」。
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 5年ほど前の話だけど、「ダライ・ラマが唱えるマントラ」といわれるCDが、人づてに出回ったことがある。
 スピリチュアル分野に関心のある人には、覚えのある人がいるのではないかな…。

 そのCDには1枚のペーパーが付いていて、こんなふうに書かれてあった。

 「マハ・ムリチュンジャヤ・マントラ」は、シヴァ神の力によって私たちを輪廻から解放し、究極の癒しをもたらすよう祈るマントラです。
 このダライ・ラマの詠唱は、特別な許可を得て弟子たちが録音したものです。ダライ・ラマはこう言い添えています。「これは決して売ってはならない。ただ贈るだけにしなさい。もしあなたが誰かとシェアしたいのなら、どうかこの書面と一緒に配布して下さい。そして彼らにも同じことを求めて下さい」

(続いてマントラの言葉が書かれてある)


 縁あって手に入れた人は、何だかとてもラッキーな感じですよね。でも要は、昔の「不幸の手紙」と同様に、人から人へと次々にコピーされて、世の中に増殖していくタイプのものだ…。
 ただ、「不幸の手紙」が差出人不明の嫌がらせであるのとは正反対に、こちらのCDはもらった人が有り難がって聴き、そして親しい人たちとのつながりを通じて手渡しで広がっていく、という点が特徴的といえる。


 僕も当時、知人が持っているのを聴いて素敵に思い、ぜひともとお願いしてコピーのCDを1枚もらった。
 何とも心地のいい深い声で、朗々とした響きが心身を安らかに静めていく。ゆったりとした音階を奏でながら、声楽のようにハートを包んでいく。厳かに詠唱するダライ・ラマの姿が、目に浮かんでくるようだ――。

 ただ、どうしてまたチベット仏教の法王が、ヒンズー教のシヴァ神のマントラを唱えるのだろうか?…


 ――後に、知られている通り、このCDは「全くのデマ」であることが判明。

 声の主はダライ・ラマでは全然なくて、オランダ人のマントラ研究者のハイン・ブラートという、ちゃんとしたCDも出している人だ。
 声質がそれっぽいから、おそらく誰かがいたずらでコピーを配ったところ、多くの人のツボにはまって次々に蔓延していったのだろう…。


 でも、そこまで多くの人が信じてしまっただけあって、(ダライ・ラマうんぬんを除いて)普通のマントラCDとして聴くぶんには、なかなか素敵な雰囲気だ。
 今も、よく部屋でBGMにかけているとか、瞑想する前に聴いているという人もいる。(たまに本物だと思い続けながら愛聴している人もいるけど…)


 僕自身も、これをすごく気に入ってしまった1人だ。
 そして、複製に次ぐ複製を繰り返した「不正コピー品」では音も悪いだろうし、オリジナルCDの作者にも申し訳ないと思い、せっかくだからとちゃんとした「正規品」を購入した。
 ただし、このオランダ人のハイン・ブラートという人は全く有名ではないため、amazonやiTunesでパッと買える代物ではなかった。調べてみたら個人サイトのようなのを見つけたので、そこで注文した(確か送料のほうが高くついた…)

 デマで流布したこのCDを手にした人はけっこういるだろうけど、実際にオリジナル品を購入するまでに至った人は、かなり奇特な存在だと思う…。


 そして、はるばる届いた「Hein Braat - Maha Mrityeonjaya Mantra」のCDを聴いたとき――、すごく不思議なことに気がついた。
 どういうわけだか新品のオリジナルよりも、何度も複製された不正コピー品のほうが、声の印象が明らかにいいのだ…。

 詳しく聴き比べてみたら、両方とも全く同じ音源であることは間違いない。だけど、オリジナルのほうは、どうも音全体が表層的な感じ。一方で不正コピーのほうは、声に奥行きがあって、まさしくエネルギーを帯びている感覚がする。
 デジタルで記録されるCDは、コピーによって音質が劣化することはないし、まして「より良い音」に変容するなんてあり得ない。こんなことが起こる理由がまるっきり分からない。


 あえて荒唐無稽に推論すると――、受け取った人が感謝して聴き、贈る相手のことを思いやってコピーし、それが次々に繰り返されていくうちに、CDの「波動」を高めたのではないだろうか?…
 ことわざの「鰯の頭も信心から」というか、ホラー小説「リング」における貞子の念写のポジティブ版というか…、この世界には本当に不思議なことがある。


 結びのヒーリング・ミュージックは、せっかくなのでそのHein Braat「Maha Mrityeonjaya Mantra」。

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 前回の記事で西洋人と東洋人の違いについて書いたら、色々とコメントを頂戴しました。せっかくですので、その続きのような話題です――。

 普通に社会で暮らしているだけでも、他人の行為に不愉快な思いをさせられることはしょっちゅうだろう。
 そして、「こんなことは人として生理的に不快!」「誰がどう考えても絶対に迷惑!」と、断定的に思えることもある。
 でも、そうだと信じ切っていることでも――東洋と西洋、あるいは日本と外国では、感じ方が全く異なる例も色々ある。


 実に些細なことなのだけど、「鼻をかむか、すするか」もそのひとつ。
 日本では「鼻をすする音」は、普通それほど周りに気にされない。それよりも、真面目な会議や静かな授業中とかにいきなり「チーン!」と鼻をかんだりすると…、「何事っ!」と驚かれたり、「場の空気を乱すヤツ」と冷たい目で見られたりする。
 鼻をかんで周りに大きな汚い音を出すよりも、とりあえず遠慮がちにすすってしのぐ方が、まだ「良し」とされる。

 一方で欧米の人々は、鼻をすする「ズズッ」という音を、下劣で不快きわまりない音として毛嫌いする(スープやパスタをすする音も、周りからにらまれますよね…)。
 そして「鼻をかむ音」のほうは、ほぼ全く気にされない。冬場に海外のセミナー会場とかに行くと、無遠慮なほど威勢よく「ブィ~ッ!」と鼻をかむ音が、あちこちから聞こえてきたりする。

 ちなみに上の写真は、選挙演説の最中に鼻をかむオバマ大統領(当時は候補)。これはさすがに会場が驚いたそうだけど、日本の政治家はまずやらないですよね(他のことで厚顔無恥な人は多くいるけど…)


 また、「電車内での携帯電話の通話禁止」も、あそこまで徹底的にというのは、日本独自のルールと言っていいだろう。

 日本の電車の中では、着信音が鳴った時点で、周りから指摘するような視線がチラッと向けられる。
 そして電話に出て、「もしもし、いま電車の中、あとで…。えっ、あー、その件はそうじゃなくて」なんて話し出したら、たとえ抑え気味な声であっても、「早く切り上げろ、うるさいぞ! 常識外れなヤツだな」と言わんばかりの視線が矢のように浴びせられる。

 もちろん、うるさ過ぎるのは言語道断だけど、でもそうした非難の視線を向ける人の「自分の方が正義だ」というふうな態度も、いかがかねぇ…。


 一方、海外の電車の中では、携帯で通話している人って普通にけっこういる。かなり大きな声を出していても、周りの人たちは他人事として全く気に留めない様子だ。

 何年も前だけど、ヨーロッパで電車に乗ったとき、車内の壁に携帯電話が描かれた黄色いシールが目立つように貼ってあった。
 「やっぱり本当は禁止なんだ」と思ってよく見たら…、それは「携帯の電波がつながります」というシールだった。
 なんと鉄道会社も「どうぞここで通話してください、便利でしょ!」と勧めているわけだ。通話禁止のアナウンスを繰り返す日本とは、ずいぶんと違うものだ。


 ところで、いつもは電車内での携帯の話し声がすごく気になってしまう日本人でも、海外に行ったときには、なぜか同じことが気にならなかったりする。
 話の中身が分からないからかも知れないけど…、でもテレビが日本語でも英語でもうるさい時にはうるさいのと同様、携帯の話し声だって何語でもうるさいはずだ。

 それなのに、海外では感覚的にそれほどうるさく感じなくなる。多少気になったとしても、「ここじゃそういうものなんだ」で済ますことができてしまう。さらには「大声で元気な外人だなぁ」と、面白がりながら受け止めたりもする。

 「ローマに入りてはローマ人のごとく振る舞え」ということわざがあるけど、実は人の順応性というのは、それ以上のものなのかもしれない。
 周りの世界が変われば、それまで固く持ち続けていた常識や価値尺度を、意外にあっさりと手放してしまえるのだ(実はこの変わり身の早さは、日本人が意外と得意なのかもしれない)。


 自分に根付いている視点や反応パターン、価値意識などを手放すのはなかなか難しい。それは人生の一大事業ともいえる。たいていは、それを為し得ることなく、人生を終えてしまう。

 でも、どれほど難しく思えても――
 そもそもこの世の中には、固守するに値する普遍的な感覚とか常識なんか、1つも存在しない。
 そして私たちは、これまでとは違う在り方で生きていくことができる「新しい世界」に、もうすでに入っているのだ――。

 新しい世界に入っているのだから、新しい世界にふさわしく振る舞う――。
 そう信じて心を決めることが、手放し難いものを手放していくための、今だからこそできるひとつのやり方かも知れないですね。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Kamal「A song for the earth - The far horizon」

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 ちょっと以前にあった心理テストみたいなものですけど…

 この絵は、3つのUFOが並んで道路の上を飛んでいるところです。では、どれが「先頭」だと思いますか?

  )奥の小さいのが先頭
  )手前の大きいのが先頭


 この回答は、東洋人と西洋人ではっきり分かれる。
 東洋人の多くは「B」と答える。つまりUFOは手前のものを先頭に、こちらへ向かって飛んで来ているように見える(僕自身もその典型で、感覚的にそのようにしか思えない…)。

 一方、西洋人は「A」の答えが多くて、つまりUFOは手前から向こう側へ飛んで行っているように見えるそうだ。


 どうしてこんな違いが出るのか?――
 それは、対象をとらえるときの「視点の違い」だと言われる。

 東洋人は、「相手の立場から自分をとらえる」視点でものごとを考える。
 西洋人はそれとは反対に、「自分の立場から相手をとらえる」視点で考える。

 よく言われることだけど、この違いが明確に表れるのが、「否定疑問文」に対する答え方だ。
 例えば、お酒を飲まない人が、「あなたはお酒を飲みませんね?」と質問されたとき――
 日本語では「はい、飲みません」と答える。
 英語では「No(いいえ)、飲みません」となる。

 この日本語の「はい」は、「相手の質問に対する肯定」である。
 一方の英語の「No」のほうは、「自分の立場からの否定」だ。


 日本語など多くの東洋言語の場合、相手の質問の仕方に応じて、答え方が変わる。「あなたはお酒を飲みますか?」と普通の疑問文で聞かれた場合には、今度は「いいえ、飲みません」となる。
 一方で英語をはじめ西洋言語では、どのように質問されても、自分が飲まないならば答えは変わらず「No」である。


 東洋人は「まず相手、そして自分」という順でものごとをとらえる。その視点の流れで対象を見ると、さっきの図は「UFOが自分のほうへ飛んで来ている」と頭の中でイメージされる。
 西洋人は「自分から相手」という順でとらえるため、その視点の通りに「UFOは向こうへ飛んで行く」ようにイメージされる、というわけだ。


 面白いなと思うのは――こうした視点の違いは決して「遺伝子レベル」のものではなくて、幼児期からの生活を通して「後付け」に習得されたものであることだ。
 よくもまあ、こんな複雑で根本的な性質を、自分でも意識することなく身に付けられたものだなと、けっこう不思議に感じますよね…。


 この世界は「関係性の世界」ともよく呼ばれる。他者との関係を経験することが、この世界が存在する第一義でもあるわけだ。
 だからこそ、自分と相手をとらえる視点というのは、意識の深い部分に強固に形作られるようになっているのだろう。


 ここで、ちょっと深読みして言えば…
 日常で私たちが自分と相手をとらえるとき、普通はもっともっと複雑な要素をあわせ持って見ている。

 中には例えば、「相手よりも自分のことが卑小に感じてしまう」とか、「目の前の人に決して悪く思われてはいけない」「周りに軽んじられたくない」といった思考パターンを持っていて、それが見方や感じ方を支配してしまっているケースも少なくない。
 そうした視点によって、周りの人や世界が自分に対してどのように動いて見えるかが決まってしまう。自分の人生全体を「生きづらい」ものにしてしまうこともある…。
 それは、UFOがどっち向けに飛んでいるかよりも、はるかに複雑だ。

 そしてさらに究極的には、この世界がばらばらに「分離」しているのか、それとも「ワンネス」であるかの違いも――、突き詰めれば内にある「視点」の違いだけかもしれませんね…。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Juliana「Bringers of Strength」。

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 魂は、人の体の中に「宿っている」と、よく表現されます。
 でも、より適切に言い表すなら――、私たちの体がいわば鏡のようになって、おおもとにある魂を「映している」のだ、というふうに言われることもある。

 ちょうど、お椀のような器に水を入れて、その水面に月を映している様子を考えてみるといいだろう。
 その器が肉体で、映っている月が私たちの魂であり、あるいは「私は在る」という感覚ともいえる。

 そんな器が世界中にたくさんあって、その1つひとつに月が明るく映し出されている。
 でも、おおもとの月は、もちろん1つしかない――。


 そして、ある1個の器の水がこぼれて無くなってしまったら…。そこにはもう、月の光は映らなくなる。これが「肉体的な死」なのだろう。
 でも決して、月そのものが無くなるわけではない。
 また、空っぽになった器は、役目を終えた抜け殻のようなものといえる。

 昔の日本では、この世に生きる身を「うつせみ」と呼んだ。
 これは「映し身」とか、蝉の抜け殻を意味する「空(うつ)蝉」のことだけど、まさにその通りに言い当ててますよね。


 私たちは、こうして3次元世界での社会生活をしていると、自分の存在がとてもちっぽけなものに思えてしまう。
 本当はそうではなくて「大いなる魂」の一部なのだ、壮大で永遠の存在なのだと言われても…、実感としてふつうピンと来ない。

 このことも、器の中に映る月を見て感じられることと、同様といえる。
 映った月を、器や周りのもと比べてみると――、その月はまるで、手の中に収まる小さなサイズのようにしか思えない。

 一方で、実際の月が地平に昇るときなんかは、すごく壮大なものに感じられる。遠景の山や建物と見比べて月を眺めることで、相対的に大きく見えるからだ。


 でもそのどちらの月も、目に見える大きさ(視角)としては、実は全く変わらない同じ大きさなのだ。器の水面に月が縮小されて映っているわけでは全然ない――。

 そして当然のことながら、本当の天体の月というのは、とてつもなく大きい。「ちっぽけな存在」というのは、まるっきりの錯覚や誤解といえる。


 さらに言えば、私たちは器として月の光を映しているけど、その月もまた、自ら光っているわけではない。
 それは、さらなる本源の光によって、こうこうと照らされている。


 話は飛ぶけど、月の光にかかわる僕自身の思い出話をひとつ――。

 以前、エジプトに行ったときのこと、アスワンというナイル川中流の街のホテルに夜遅く到着した。
 部屋の窓から暗闇の景色を眺めてみると、川岸に茂る木々の向こう側に、ぼんやりと白く光る巨大な山のようなものが見えた。

 僕はすぐにそれを「雲」だと思った。
 ただ、砂漠地帯に雲がたれ込めるのも変だなと考えながらも、他にありうるものが思い当らない…。(たぶん冬の長野とかで同じものを見たら、疑いなく「雪山」だと結論づけただろう。そんな見え方だった)


 翌朝、再び窓から眺めてみると――
 その雲だと思ったものは、そびえ立つような「砂丘」であった。
 茶色い砂丘は、夜に月明かりに照らされると、白銀色に輝くのだ。そんなこと全然知らなかった…。
 (後で吉村作治氏の本を読んだら、月夜に見るピラミッドや神殿は、全体が白く光ってものすごく壮麗な絶景だそうだ…)


 考えてみれば、月そのものにも、そういう性質がある。
 NASAが公開する月の石や砂の写真を見ると、かなり黒っぽい色をしている。
 そんな黒いはずの月が、地球から見るとまるで透き通るように白く鮮やかに輝いているのは、これもまた不思議ですよね…。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Paul Avgerinos「Love Is」。
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 この上の図、何だか知っていますか。見たことがある人は「ああ、これね」という感じだろうけど…。
 国立天文台などが企画して作った「宇宙図」というものだ。


 一見、「これのいったい何が宇宙なの?」と思うけど、この図には宇宙の空間と時間、そして私たち人間が描き表してある。

 まず縦軸が「時間」を示している。下が過去で、いちばん上が現在という具合だ。
 横軸は、宇宙の「空間の広がり」を表現している。
 そして、上に向けて広がった鉢のような形状をしたものが、「宇宙」そのものである――。


 いちばん下(つまり最も過去)に位置する白の濃い部分が、宇宙の始まりである「ビッグバン」だ。
 最初の宇宙はわずかな点であった。

 それが上にいくにつれて(つまり時間の経過とともに)、宇宙空間はどんどん膨張してきた、というわけだ。
 そして、いちばん上の大きく広がった「現在の宇宙」のところに、私たち人間がぽつんと立っている。


 で、中央に「しずく」のような形をした部分があるけど、あれは何かというと――、「私たちが見ることのできる宇宙」を示している。


 宇宙を観測して見ることができるのは、すべて「過去の姿」である。
 なぜなら、遠くの星から光が放たれて、それが地球に届くまでには時間を要するからだ。

 太陽の光が地球に届くには、8分間かかる。つまり私たちが見ているのは、8分前の「過去の太陽」ということになる。
 同様に北極星は、430年前の過去の姿を見ている。
 有名なハップル宇宙望遠鏡が撮った画像には100億光年もの遠い天体が写っているけど、あれは地球が誕生するよりも以前の、はるか太古の宇宙に存在したものだ。

 スピリチュアルの分野では、「人は過去のものごとしか見ることができない」とよく言われるけど、天体観測の世界ではそれが当たり前なわけだ…。


 そして、その過去の宇宙の中でも、私たちが見ることの可能な部分というのは、実は相当に限られた範囲でしかない。
 なぜなら、宇宙の膨張によって、天体の大部分は光よりも速いスピードで地球から遠ざかっているためだ。そうしたところから放たれた光は、永遠に地球に届くことはない。

 私たちが見ることのできる宇宙というのは、理論的には、あの宇宙図の中の「しずく形の表面の部分」だけになるそうだ――。
 本当に意外なほどに範囲が狭いですよね…。

 私たちが知り得る最大限に宇宙を見たとしても、それは全体のうちの、ごく薄っぺらな一部でしかない。
 私たちはそこまでしか見られないように、時空によって定められている、と言っていいかもしれない。

 宇宙の懐は、本当にとてつもなく深遠だ…。


 でもこの宇宙図を見ていると…、禅の円相図みたいに、「宇宙全体」のイメージを眺めることが何とも壮観で心地いい感じがしてくる。


 そして、この図の中にある「本当の私」とは――
 あの上に突っ立っている、点のような人ではないですよ。

 それは、うしろの黒い背景――。宇宙の時間・空間のすべてを内に現す、広大無辺な何もない広がり――。
 それこそが、まさに「これ!」です。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Peter Kater「Heart Chakra」。

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 私たちの人生は普通、何かを「獲得」することに費やされています。
 色んなモノやお金、役職、知識、人間関係、評価などなど…。それをより多くを得た人が、いわば「勝者」と考えられている。

 でも、私たちがこの世界に生きる上で、本当に意味あることとは――
 実は獲得とはまったく逆の、「放棄」していくことではないかな、と思うのです。
 色んなものを手放していくことによって――、魂が求めている「真の私」を知り、近づいていくことができる…。


 もちろん手放すと言っても、何でも物理的に破棄したり、手にするのを拒んだりする、ということではない。
 生活の営みは誰にも必ずあるし、お金を得たり使ったりすることはとても素敵なことだ。好きな物事に接し、人間関係に恵まれることは、生きる大きな喜びでもある。

 でも、こうしたことに対する強い執着心、自己同一化、「これがなければならない」といった条件付け――。それを、生きながら、得ながらにして「手放していく」ことが、この世界における大きな要点ではないかなと思う…。


 さらに言えば――
 色んな思いや価値観を手放していったとしても…、「幸せ」や「喜び」だけは私たちは決して手放すことができない。
 なぜなら「幸せ」や「喜び」こそが、「真の私」の本質そのものだから。

 ところが多くの場合、その本質を、「これがないと幸せになれない」「これがあるから不幸せだ」といった条件付けによって、覆い隠してしまっている…。

 「獲得」から「放棄」の人生へとシフトすることは――、幸せがスムーズに現れるようにしたり、問題と思える状況を早く去って行くようにすることだとも言える。
 生活や考え方がどんどんシンプル化するにつれ、僕自身もそのようになってきていることを感じている。


 でも、私たちはそもそも、何かを獲得したり所有することは本当は不可能なのだ。当たり前のことだけど、亡くなってゆく人は最後に何も持っていない…。
 獲得や所有というのは、ある意味でバーチャルな「幻の経験」と言える。

 だから、最終的に手にすることなどできない幻への思い込みを捨て去ることは、いちばん「自然な状態」でもある。
 私たちは人生の最初から最後まで、実際には何ひとつ身に付けていない「裸」同然なのだ。


 「裸の王様」という有名なアンデルセン童話があるけど、あの話では王様が「愚か者の目には見えない服」を着ているのだとだまされて、町の中を裸のままパレードする。

 一方、現実のこの世界というのは――、王様だけでなく、家来も街の人々も、実はみんな何も身に付けていない裸の状態でいる。
 でも人は色んなモノやお金や地位を獲得することで、「自分はそのような服を着ている」と思い込んでいる。
 そして見えない服を見せ合って自慢したり、他者のものをうらやましがったりもしている。さらには「自分はそんなにいいのを着ていないから不幸だ」なんて思ってしまったりもする…。

 みんなが互いに裸であることは(うすうす気にしながらも)、誰も決して口にしない。それは愚かでタブーなことである。


 アンデルセン童話では、率直な子供が「王様は裸だ!」と叫んで終わる。
 でも、この世界での幻の終わりの場面というのは――、たぶん王様自身がわが身を見て気付くことになるだろう。「私は実は裸ではないか! ワッハッハ」と、みんなの前であからさまに宣言してしまう。

 すると、何人かの人は気付かされる。「私たちも裸だ! 王様も私も自分たちも全く同じだ。ゲラゲラゲラ」――


 この世界とはジョークだ、神の遊びだとも言われるけど、本当にそのような性質に過ぎないのかも知れない…。
 ならば、どんどん手放して何の損もないでしょう。手放そうがどうしようが、どうせ裸なんですから。



 結びのヒーリング・ミュージックはPushkar「Simple Living」。

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 過去の記事の「雌伏のススメ」では、自分の中に女性性のエネルギーが多く取り入れられたことによって、考え方や在り方がずいぶん変わってきた、という話をしました。

 偏重した男性性から女性性へ、左脳から右脳へ、うお座からみずがめ座へ、努力から恩寵へ――と、色んなふうに言われる変化は、かなり幅広い人たちに実際に起こっているのではないかなと思う。


 その一環として、特に最近感じられる変化というのが――、スピリチュアルな教えなどに対する「知的理解」をあまり必要としなくなってきた、ということだ。

 僕自身、「これは素敵な考えだな」と思えるものは、直感的にスルッと受け入れている。
 逆に波長が合いそうもないものは、「そんな見方もあるんだな」と、あっさりとスルーしてしまっている(何か意見や議論しようなんて気持ちも浮かんでこない…)。


 以前は、新しい物事をそうすんなりとは受け入れられなかった。そして「腑に落ちる、落ちない」という言葉をよく使っていた。
 もちろんこの本来の意味は、頭で理解することとは全く違う。
 でも、自分を含め多くの人が「なるほど、腑に落ちました!」なんて言うとき――、たいていは「過去に得た知識とのつじつまがうまく合わさった」とか、「エゴ的に好都合に納得できた」とか、単にそういう状態に過ぎなかったように、振り返ってみて思う…。

 そして、腑に落ちなかった物事に対しては――、たとえ自分が「ぜひ信じたい」と切望するような素敵なメッセージであっても、理解しがたいものとして自ら壁を設けてしまっていた。
 そのようにして、「変化の可能性」を狭めていたような気がする。


 でも、今は様相が本当に変わってきた。

 色んな人たちが、かたくなな「知的理解」という採択基準を、手放していっているように思う。
 そして、あらゆる「変化の可能性」へと開かれた道の上を、運ばれて行っている――。


 数年前に何かの本で(確かバシャールだったかな…)、これから変化へ向かうレールとそうでないレールとに道が分かれ、しばらく進んで行ったらもう乗り換えができなくなる、といった説明があった。
 その時は話半分に読んでいたのだけど、でも何となく今の感覚として、その「岐路」のポイントをすでに通過したような、ちょっとそんな思いがします。



 結びのヒーリング・ミュージックは、In credo「Angels with you」。

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 私たち人間の「脳」は、記憶装置ではなく、「通信機器」みたいなものではないかと、最近いわれています。
 記憶や考えは、実は自分の頭の中ではなく外部のどこかにあって、脳がそれにアクセスしている、という図式だ。

 つまり、すべての人は「チャネリング」をしているわけですね…。


 でも本当に、世に革新をもたらした発明・発見のエピソードの中には、見えない次元からアイデアが降って湧いてきたのではないかと思えるようなケースも少なくない。

 よく知られている例では――
 アルキメデスは物質の比重についてずっと考えあぐねたすえに、風呂に入っているとき突然「アルキメデスの原理」を思い付いた。
 またノーベル化学賞受賞者の田中耕一氏も、間違えて混ぜ合わせた試料を、ふと「もったいない」と思って捨てずに測定してみたら、それが画期的な発見のきっかけとなった。


 エジソンの有名な言葉に「天才とは1%のインスピレーションと、99%の汗である」というのがあるけど、あらゆる発想の図式というのは(偉大な発明から他愛ない日常的雑念まで)、すべてそのような仕組みなのではないだろうか。

 外部から最初にやって来る「1%のインスピレーション」――。これがそもそもの「すべて」であり、それを通信機器である脳が受信する。
 そして脳が、受け取ったインスピレーションを、反応的に情報処理していく。ただし脳のスッペックというのは、インスピレーションを送り届けてくるいわゆる宇宙の英知に比べると、もう著しく低いものだ…。

 人体には、膝をたたくと脚が跳ね上がる「腱反射」というのがあるけど、あれは脳の指令による動作ではなくて、神経系の一部が起こす「何も考えてない反応」である。
 宇宙の英知全体における「人間の頭脳活動」というのは、いわばその「腱反射」くらいの、非知的反応に過ぎないのだろう。

 でも、その頼りない脳の処理機能を使って、人は「99%の汗」の部分を、えっちらほっちらとやっていかなくてはならない…。
 それが、私たちの「人生」なわけでもある。


 で、先のアルキメデスやノーベル賞学者の場合、それまで限界まで熟考を重ねたり、あるいは問いを発したからこそ、そのようなインスピレーションを受け取れたのだという考え方もあるだろう。
 だが、その熟考や問いに至る経緯をずっとさかのぼっていくと、もともとは結局、小さなインスピレーションがきっかけだったりする。


 私たちは、自分で主体的にものごとを考えているようで、実は受信したものを判断の余地なく「考えさせられている」だけともいえる。
 とすると、たとえ人類に貢献する研究でも、あるいは逆に非人道的な蛮行でも、すべてはイエスの言う「彼らは何をしているか自分で知らない」状態であることに変わりないことになる。

 どんな境遇に置かれていても、どんな考えや生き方であっても、すべての人は等しく「通信機器」なのだ。
 ただし機能だけのマシンではなく、受信した人生と世界を、全身全霊で経験しながら生きている。
 路上生活者であろうとロックフェラー家の御曹司であろうと、そこに貴賤の差はない。


 そんなふうに言うと、「人生がそこまで無力で受動的なものならば、意味がないじゃないか」と思われるかもしれない。

 でも、どんな思考も感情も周りの状況も、「本来の私」とはかかわりなく外側から送信されてきたものに過ぎないのだと大きく眺めてとらえたとき…
 そして「それはそういうものだ」として起こるがままを受容していくとき…
 その人は、宇宙最強のパワーを持つ「本来の私」の側に立っているのでしょう!



 結びのヒーリング・ミュージックはFrederic Delarue「Angels Of The Sea」。
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  一瞬ギョッとするような画像だけど↑… たいていの人は何者だか知ってますよね。
 10年前のアカデミー賞で11部門受賞を記録した、映画ロード・オブ・ザ・リングに登場する「ゴラム(スメアゴル)」だ。


 この映画は全3部構成だけど、実は僕はつい先日にその3部目を見た。1・2部はとうの昔に見ていたのだが、ふだんテレビやビデオもあまり見る習慣がないため、最後の1本だけはずっと見ずのまま忘れていた…(トールキンの原作も読んでないです)。

 で、今さら見ようと思った理由は…、ある時ふと「そういえば、あのゴラムは最後どうなったのだろう?」と気になったからだ。


 見るからに気味悪いキャラクターなのだけど、でも「どうも憎めない」「可愛いところもある」「不思議と感情移入してしまう」という人も少なくない。

 僕は、「エゴ」という言葉を聞くと、なぜか反射的にこのゴラムの姿が頭に浮かんでくる…。潜在的に思い描いているエゴ像が、このキャラクターにどことなく当てはまるからかもしれない。

 ――ゴラムは、醜くて卑しくてあわれで、もともとは弱く臆病な存在だ。ところが、精神的にねじ曲がり分裂してしまって、憎悪に満ちた狡猾で暴虐な本性をあらわにする。
 指輪の魔力によって、死ぬことなく何百年も生き長らえ、そして指輪への猛烈な執着心にずっと捕らわれ続けている…。

 こんなふうに書いていくと、まるで、人の心に宿るエゴを擬人化したようにも思えてくる。
 ゴラムのせりふや振る舞いを映画で見ながら、どことなく他人事でないように感じられたという人も、実際にけっこういるのではないかな…。


 僕はその3部目を見るとき、「ひょっとしたらゴラムが最後に華々しい役割を果たすのではないかな?」と、ちょっと期待していた。
 たとえば、身を呈して主人公を窮地から救うとか、パワーを得て変容して邪悪な敵と戦うとか――。

 ところが、そんな期待もはかなく、結局はあのような死に方だった。その異常な執着心のために自滅・消滅してしまうという、しょせんはエゴの末路である…。


 で――、私たちは通常、エゴと同一化して生きている。
 そしてスピリチュアルなものごとについて色々と知るうちに、自分はエゴにだまされていたことに気付き、そして何とかしてエゴとの縁を絶ち切ろうとする。

 ところが多くの人は、そう試みながらも、エゴがあまりに慣れ親しんだ存在であるために、どこかで「自分に必要な役に立つのでは」と考え、完全に離れきれずにいる…。
 でも、ゴラムと同様、エゴにそんな期待を持ったところで、結局最後は全く何の役にも立ってくれないのだろう。


 ただし、言うまでもなくゴラムは、物語の中で絶対に欠かすことのできない重要登場人物である。

 その理由の1つが、「ガイド」としての役割だ。
 彼の道案内がなければ、主人公は目的地に行き着くことができなかった(もっとも主人公を陥れるために導いたわけだけど…、でもそれが結末への道を開いた)。


 もう1つの理由は、結果的に最後は「すべてを打ち捨てて消滅させてくれた」という功績だ。
 ロード・オブ・ザ・リングの物語の核である魔力を持つ指輪は、「野望と執着の象徴」ともいえる。このストーリーの大きな特徴点は、いわゆる宝探しや悪の征伐ではなく、指輪を「捨てに行く」物語であるということだろう。
 でも主人公は、最後の最後で心の迷いによって翻意してしまい、自らの意思で指輪を手放すことができなかった…。

 そこに、主人公よりもさらにすさまじい執着心を持つゴラムが強引に指輪を奪い取り、欣喜雀躍したあげく火口に転落してしまう。
 人びとを動かす強大なパワーを持つ指輪がこの世界から消え失せるには、そんな偶発的で暴走的(ある意味で奇跡的)ともいえるピンポイントな道しかなかったともいえる…。


 ファンタジーには色々なスピリチュアルな意味が込められているけど、このロード・オブ・ザ・リングをあえて「執着とエゴを手放す物語」というふうに解釈してみると、けっこう面白いかもしれないなと思う。

 ――人がエゴに連れられるように道を歩み、歳月と苦労を重ねてやっとのこと目的地に到達する。
 ところがそこで、最後に手放すべきものに固執してしまい、どうしても手放すことができない…。これでは結局、もとの木阿弥になってしまう。

 しかしこのとき、究極的に決め手となるのは――
 エゴが自らの執着ゆえに、あらゆるすべてを巻き込みながら自滅・消滅していく、という道なのではないかな。


 トールキンに草葉の陰から「それはちょっと違うぞ…」なんて、ささやかれそうですけど。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Patrick Bernard「OM – The healing power of spiritual sound」。
 マントラを音楽にしたものは多いけど、低音のお経のような「OM」をここまでサウンド化するのは、なかなか面白いのでは。波動的にいいのかどうなのかは知らないけど、深遠な響きがけっこう好みです。

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 何年か前のことだけど、僕は全身に赤い発疹が出る皮膚炎にかかったことがあります――。

 最初はお腹の辺りに小さいのがポツポツ出たのだけど、仕事が忙しかったためそのままにしていたら…、日に日に胸や背中、腕、脚、首にまで広がり、やがて全身が濃い紅色の無数の斑点で覆われていった。
 痛みや熱が出るようなことはなかったのだけど、誰もがギョッとするくらい、見るからに相当やばそうな状態だった。

 週末に皮膚科に駆け込んだら、告げられた病名が「ジベル薔薇色粃糠疹(ばらいろひこうしん)」というもの。
 1860年にフランスの医師のジベルという人が初めて発見し、原因はいまだに不明で、直接的な治療法もない、と医師が説明してくれた。

 ただ――、「見た目にはびっくりするけど、そのままにしておけば数週間で自然治癒してしまうので、気にしないように。もっともあなたは、ここまでの状態になってやっと診察を受けに来るような人だから、そんなに気にする性格じゃないでしょうけどね。ワッハッハ!」……とのことだった。


 ここで僕が「へぇ、医学ってそういうものだったのか」と気付かされたことは――、これほどのけっこう派手な症状が現れる皮膚炎でも、150年以上も原因や療法が探究されないままでいる、という点だ。

 確かに、実害がなくて放っておけば勝手に治ってしまう病気なら、時間や費用を投じて本腰入れて研究する意味なんて全くないのだろう。医学には、それよりはるかに優先度の高いテーマがごまんとあるはずだ。


 同様に、かき氷とかを食べたときに頭がキーンと痛くなる症状もそうだ。
 「アイスクリーム頭痛」とか呼ばれるけど、その発生メカニズムには複数の説があるものの、いまだに詳しく特定されていない。
 誰もが経験のある頭痛だし、時には動けなくなるくらい痛いこともあるけど…、でも別にあの頭痛で倒れたり入院するようなケースは皆無なため、研究する意味なんてないのだ。

 ちょっと極端なものとしては、脳内現象としての「臨死体験」もそうだろう。
 意識が体外離脱したり、光のトンネルが見えたりとか、その幾多の事例は世界中で共通している。科学的検証を受けるにふさわしいとも思えるのだが、その原因などがもし解明されたところで、救命医療にはほとんど何のプラスにもならない…。


 そうしたことから敷延して考えてみると――
 私たち現代社会における科学、あるいは人間の「知」そのものには、「探究する意味のないものは探究しない」という宿命的な性質があるのだと思う。

 探究する意味のないもの――。これがある意味で、「人知の盲点」となってしまう。


 ここから、話がものすごく飛んでしまうけど――

 僕は、この世界というのは、「神が神自身にかけた魔法」であると考えている。
 全知全能で唯一の存在である神が、自ら「神ではない体験」というのをしてみるという目的で、この世界を創造した。
 そして、その体験を完全に味わえるようにと、自分が神であることを跡形なく忘れるようにした――、という魔法だ。

 何しろ神の魔法なのだから、そう簡単に解くことはできない。
 そして、当の神自身が、「自分が神である」ということを完璧に忘れ去ってしまっているわけだから、もはや魔法を解く手立てがない…というような状況である。


 でも、それを解く鍵は、簡単には見つけにくいところだけれども、ちゃんと探し出せるように置かれている――。

 そのひとつの言い方が、「自分に最も近い場所」だ。

 どこかへ鍵を探しに行こうとした瞬間に、それはどこにも見つからないものとなる。『ポケットの中のダイヤモンド』という本があるけど、まさにそういうことだろう。実に巧妙な隠し場所だ。
 しかも、灯台もと暗しどころか、目の前どころか、それは目の奥の側に隠されている…。


 その隠し場所について、さらに別の言い方をすると――、鍵が置かれているところとは、「誰も探究しようとしない場所」だ。
 前述のように、人は「探究する意味のないものは探究しない」という宿命的な性質がある。

 では、誰にとっても最大限に当たり前すぎて、普通は探し求める意味を全く感じられないものとは何か?――
 それは「私が在る」ということだろう。

 自分というものが確かに存在しているというのは、こればかりは一切疑いようのないことであり、わざわざ考えたり探したりしなくてもずっと同じ「ここ」にある。だから、普通は探さないし、探す意味すらない…。

 ところが、旧約聖書で神自身が「I AM WHO I AM」(私は、「私は在る」という者だ)と名乗っている通り、それがまさしく神そのものであり、真の私なのだ。


 魔法を解く鍵――、つまり神性という自らの本質を思い出すための鍵が置かれている場所とは、自分にあまりにも近くて普通は探し求めようとはしない、「人知の盲点」にある。

 前回の記事で話題にした『アルケミスト』や、よく知られている『青い鳥』の話もそうだけど、探していたものを最後の最後に自分の一番近くで見つけるという物語は、けっこう色々とある。
 また世界各地で語り継がれている神話の多くは、冒険に出た主人公は必ず、最初に旅立った地への帰還を果たす――。

 そうした物語の数々は、私たちに「魔法を解く鍵」のありかを、暗に語りかけているのだろうと思います!



 結びのヒーリング・ミュージックは、Liquid Mind「Awakening」。

  ☞ コメント:15

 


 僕は、どちらかというと読む本は多いほうだと思うし、ジャンルも色々です。ただ、心からの「好み」となると、これがものすごく限られてしまう…。

 好きな本のベスト3を挙げれば――
  『アルケミスト』パウロ・コエーリョ
  『モモ』ミヒャエル・エンデ
  『アミ 小さな宇宙人』エンリケ・バリオス


 これに次点で『星の王子さま』が入る感じかな…。要は「やや大人向けのスピリチュアルなファンタジー」といった分類だろう。

 こうした名著に並ぶような本を、色々と読みながら探しているのだけど、(好みが偏り過ぎているせいで)なかなか心にピタッと来るのが見つからないところが悩みでもある…。


 これらとはまた少し別ジャンルになるけど、日本のファンタジー作家の上橋菜穂子の作品は、とても魅力的に感じている。
 文章は圧倒的にうまく、ストーリーの中で剣が舞うように立ち回り、人びとの思惑は巧妙に暗躍する。

 そして、この人の作品がとりわけ面白いと思えるのが、「現実世界」と「目に見えない世界」との二重構造を見事に描き出している点だ。


 代表作である『精霊の守り人』では――
 私たちの目に見える普通の世のことを「サグ」と呼んでいる。そして、人には見えないもうひとつの別世界「ナユグ」が存在している、という設定で物語が展開する。
 ナユグは、いわゆる「あの世」とは違う。サグとナユグは同時に同じところにあって、互いに支え合っている。
 異能な先住民族だけが、そのナユグの存在を認識している。そして、目に見えないユナグにいる精霊の活動が、人の世界に歴史的一大事を起こす――。

 また『狐笛のかなた』という作品では、「あわい」という異界が出てくる。
 これは、私たちの人間世界と、神々の世界の境目に存在する第三世界だ。そこには霊力を持つ獣たちが住まう深い森がある。
 そして高度な呪術者だけが、この「あわい」に立ち入って獣を召喚することができる――。


 こうした「2つの世界」のモデルというのは、国内外の色んなファンタジーにも見られるだろう。
 でもそれを、リアリティーあふれる闊達な文章によって、まるで真に迫るように描写している点で、この人の作品はすごいなと思っている。


 で、この現実世界に重なるように、目に見えない別の世界が広がっているという構造は、実は私たちも普段、そこはかとなく潜在的に感じ取っているのではないだろうか…。

 妙な見方かもしれないけど、僕はサラリーマン時代に、予期せぬ大きなトラブルが降りかかってきたときなんかに、そんなふうに考えることがあった。

 こっちはいつも通り平穏に仕事をしていたのに、別世界にいる何かの意思が働いて、自分の知らない所でトラブルの種を芽吹かせたうえで、生々しい現実として目の前に表出させてきたのではないかと…。
 どんな仕事でも、本当にそういうふうにしか思えないような「あり得ないトラブル」って、ときどき起こりますよね!


 ただこのような、嫌な出来事を起こしてくる「目に見えないもうひとつの世界」のイメージというのは、自分の「恐れ」から来ているのだろう。
 もし死者の霊について信じていれば、この「もうひとつの世界」は、怨霊などがうごめく霊界の存在として感知されるのかもしれない…。
 私たちの感情や行動に影響を与える「過去からの人類の共有意識」というのも、まさに目に見えない世界のことだといえる。


 で、ここでスピリチュアルな観点から、私たちの現実世界を支える「目に見えないもうひとつの世界」の本当にあり得る姿というのを、ちょっと考えてみると…
 たぶんそれは、究極的には、「愛」の世界なのではないだろうか――。


 この世界は、根源的には愛だけが存在するということが、色んな教えの中で説かれている。
 また、エリザベス・キューブラー・ロスは、神あるいは宇宙の関心事とは、「あなたが愛をどう経験しているか」だけであると言い切る。

 どんな仕事に就いているとか、結婚相手がいるとかいないとか、健康状態がどうであるかについて、宇宙が気にかけているとは限らないのだという。
 それよりもさらに大きなところにある「愛の経験」を起こすために、宇宙はあらゆる状況に働きかけ、さらには「あなた自身にも働きかけている」と強調する。

 この、人々に働きかける「愛」の世界こそが、本物の「目に見えないもうひとつの世界」なのではないかな…。


 でも、自分の身にに起こっている出来事が果たしてどう愛に結びつくのか、その意図や仕組みは容易に分かるものではない。
 この世界の視点から見れば、そのような愛の世界とは、ある意味で強大で不可知な「闇」のようでもあり、ダーク・マターの世界ともいえる。
 それでもその力が、肉体にいる魂に作用することによって――、私たちにとっての真に新しい地平が開けていくのだろう。


 目を閉じて静かにしていると、この世界と重なるように存在しているもうひとつの愛の世界の広がりを、何となく感じ取れるのではないかな…。
 そして私たちは、その力に動かされる存在でありながらも、その世界の中心をつかさどる当事者でもある。


 「あわい」の話から、ずいぶんそれてしまったけど…、こんな見方も、私たちの生をとらえる1つの世界観だと思っています。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Enya「Fairytale」。

  ☞ コメント:23

 


プロフィル

Koudai Mitsuna

Author:Koudai Mitsuna
 
光奈 広大(みつな・こうだい)

 20年のあまりのサラリーマン生活を経て、いわゆる「ザ・マネーゲーム」を何とか卒業。今では束縛されない自由な日々を存分に味わっています!

 そうした中で心がけているのは、普通の日常的な行いを通じて、意識の進化を目指す「カルマ・ヨガ」。

 日々の喜びや学び、インスピレーションから得たスピリチュアルな気付きなどをブログで紹介しています。

 妻子と都内在住――。

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