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 「幸運の女神は前髪しかない」って、よくビジネス訓などで言われる言葉ですよね。
 つまり、チャンスが通り過ぎてしまった後は、つかみ取ることができない。だから、それがやって来るタイミングを見逃してはならない、という趣旨だ。

 ただ、この言葉を好んでよく使うのは、主に証券会社などではないかな。「今が買いですよ」というセールス・トークの一部として…。


 もちろん、そんな「一過性のチャンス」は色々あるだろう。
 しかし、その人に「真に必要なチャンス」というのは――、実は執拗なくらい何度も何度も、長期にわたって繰り返しやって来るものではないかなと思う。


 パウロ・コエーリョの代表作『アルケミスト』の物語の中に、そんな運命の性質が語られている個所がある――。


 主人公のスペイン人の少年が、夢で見た宝物を求めて、アフリカの砂漠を越える旅に出る。
 さまざまな試練を乗り越え、途中にある大きなオアシスの街に来たとき、自分の結婚相手であるとひと目で分かるツイン・ソウルの女性と出会う。彼女も同じことに気付き、2人は親しくなる。

 さらにそこで少年は、オアシスが軍隊に襲撃されるという「前兆」を読み取る。(この物語で言う「前兆」とは、インスピレーションとしてやって来る、大いなる魂からのメッセージのこと)
 その少年の予言のお陰で、人々は危機をまぬがれ、彼は見返りしとして大金を受け取る。

 そんな中で少年は、夢で見た宝物を求める旅をもうやめて、そのオアシスにずっと住みたくなってしまう――、という場面だ。


 そして、旅のガイド役である錬金術師に問いかける。「僕にとって彼女のほうが宝物より大切です。もし僕がここにとどまったら、どうなるのですか?」
 すると錬金術師は、少年に起こる未来を読んでこのように告げる――
 (多少省略して書きますね)
 
 「どうなるか教えよう。お前はオアシスの相談役になるだろう。お金も十分に持っている。彼女と結婚して、2人とも幸せに過ごす。お前は『前兆』の読み方がどんどんうまくなっていく。

 2年目のいつのころか、お前は宝物のことを思い出す。前兆が執拗にそのことを語りかけるが、お前はそれを無視しようとする。
 お前は自分の知識を、オアシスの人々の幸せのために使う。族長はそれに感謝し、富と力が与えられる。

 3年目にも、前兆はお前の宝物や運命について語り続けるだろう。お前は夜ごとにオアシスを歩き回り、彼女はお前の探求のじゃまをしたと思い不幸になる。
 お前は砂漠の砂の上を歩きながら、もしかして自分は行けたかもしれない…と何度も考えてしまう。なぜならお前をオアシスに引き止めたのは、もう二度と帰って来られないのではないかという、自分自身の恐れだったからだ。
 その時、お前の宝物は永久に埋もれてしまったと、前兆は語るだろう。

 そして4年目のいつか、前兆はお前を見捨てるだろう。お前はもう、それに耳を傾けるのをやめてしまうからだ。
 お前はその後の人生をずっと、自分は運命を探究しなかった、もうそうするのは遅すぎると思って暮らすだろう」――


 …何だか、身につまされるような言葉ですよね。
 もちろん少年は、そこから砂漠を渡る旅を続ける。


 その人の人生の主要テーマにかかわる「幸運の女神」というのは、前髪しかない通りすがりの役では決してないはずだ。
 その人の心にずっと居座り、何年もかけて語り続ける。

 しかもそれは、「今が買いです」みたいな魅惑的な呼びかけというわけではない。
 心の中の葛藤や、わだかまる不満、感情的な揺るがし――そんな反応も引き起こしながら、運命の選択を催促してくる。


 さらに言えば、女神がもたらす幸運とは、必ずしも「手にする」ものとは限らない。
 むしろ、自分が抱える余計なものを「手放す」ことこそが、実は真の幸運であり宝物である場合が圧倒的に多い。


 そんな、幸運の女神の呼びかけに、思い当るものはないでしょうか?――
 身の回りで頻繁に起こる気に障ってならない出来事や、心の片隅に聞こえるずっと消えることのない声――。それこそが、真の幸運であり生の主要テーマでもある、「明け渡し」への導きかもしれません。



 結びのヒーリング・ミュージックは、R. Deckard「Flowing Peacefulness」。

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 僕は社会人になって以降の20年以上、毎晩必ず飲酒をするという生活習慣でした。
 大方の中年サラリーマンがそうであるように、「飲まないとやってられない」という感じだった(いわゆる、アルコール依存症予備軍ですね)…。

 でも、平日は仕事が終わった後の毎日数時間、休日は夕方から寝るまでの6時間あまりを、酔っぱらった頭でグタ~として過ごしていることが、何か大切なものを無駄に失っているように思えてならなくなった。
 また健康面でも、朝起きるときは気分も体調もどんより重く、胃腸の調子も良くないのが当たり前の状況だった…。


 そうしたこともあって、まだバリバリのサラリーマンだった3年ほど前に意を決して、断酒を始めた。
 で、今日が断酒999日目、明日でちょうど1000日になります!

 これはぜひ多くの人たち(特に依存症予備軍の人)に勧めたいのだけど――、断酒をすると本当に得るものが多くて、そして失うものは何もない。
 今の僕は、体がいつも「元気な子供」くらい快調だし、メンタル面でも「新しい自分に乗り換えた」みたいにスッキリした感覚だ。
 こうした断酒のいきさつと利点については、以下の2本の過去記事にまとめています。
  『やめて良かった!~アルコール編』
  『やめて良かった!~アルコール編のつづき』


 ちなみに、今回の記事タイトルの下にある写真は、部屋の壁に貼ってある「断酒カレンダー」。断酒を始めるときに、経過日数を毎日書き込めるように作ったもので、要は小学生の「ラジオ体操はげみ表」みたいなものだ。多少なりとも楽しげにと、1行ずつペンの色を変えて虹色にしている…。

 全部で1000日分あったのだが、明日の1マスを埋めれば、この表も晴れて「任期満了」となる――。


 実際に挑戦した人は分かると思うけど、断酒を挫折してしまいそうなきっかけは、日常シーンの中に実にたくさんあるんですよね…。

 とりわけ会社勤めだと、周りの職場の人たちはほぼ全員が毎日飲むが当たり前だし、街を歩けば飲み屋が並んでいる。テレビでは酒のCMがたくさん流れているし、スーパーには酒類売り場があるし、レストランでは当然のものとしてアルコールを供している。
 さらには忘年会、暑気払い、人事異動に伴う歓送迎会など、「飲酒とセットの催し」が定期的にやって来る。

 この環境は、「禁煙」の場合よりも過酷といえる…。


 そんな中で、ひとり断酒を決意して取り組んでいると――、何だか自分だけが「やらなくてもいい余計な苦労」をしているように思えてくる。
 さらにはやがて、普通の生き方から筋が外れた「間違った世界」を、トボトボと歩んでいるような気さえしてくる…。


 そうしたとき、僕にとってかなり強力な支えになったのが――、実は1つのブログの存在だった。

 『サファイアの楽しい断酒日記』というブログなのだけど、女性のサファイアさんという方が、自らの断酒の経験とノウハウについて紹介するとともに、学校の部活動のダンス部をもじった「断酒部」というのを立ち上げている。
 もちろんリアルな組織ではなくて、希望すれば誰でも入れる、ブログ上のやり取りだけの関係だ。

 残念ながら現在はコメント欄が休止中なのだけど――、以前はそこに例えば「断酒10日目です。昨夜コンビニに行ったとき、思わず缶ビールに手が伸びそうになったのだけど、何とか買わずに乗り切りました」と書き込むと、断酒部部長のサファイアさんから「心の誘惑に打ち勝ったのは素晴らしいですね。その調子なら絶対にうまくいきますよ♪」といったような励ましのコメントが返ってきた。


 この人はコーチングや心理を学ばれたそうなのだけど、その励まし方が本当に並外れてうまかった。もちろんテクニックだけではなくて、とても丁寧で、やさしい思いが込められていて、心に響いてくる。

 そして、そんな励ましを受け取り、共感のぬくもりに浸っているうちに――、酒を飲まないことが本来の「普通の生き方」であり、おおかたのサラリーマンがしている「飲む生活」のほうが実はイレギュラーな世界なのだ――、ということを、疑いなく確信するようになっていった。

 いわば、世界観がコロッとひっくり返ったわけだ。
 この転換があると、断酒はものすごくやりやすくなる。過去の習慣や禁断症状は力を失う。

 逆に、従来の世界観のままでいると――、つまり「酒を飲むのが普通であって、自分はそれを辛抱して耐えている」という考えのままでいると――、いつか不意に挫折してしまう可能性が大きいと思う。


 断酒もそうだけど、大勢の価値観とは違うことをするのは、最初のうちはなかなかつらいことだ。
 スピリチュアルな歩みもそうだと思う。

 このブログで最近書いてきたテーマを振り返ると、「私たちはバラバラではなく、つながっている」とか、「今のそのままで幸せなのだ」「自分は守られていることを信じる」といった、色んな本などで繰り返し述べられてもいる内容だ。
 でもいざ社会や家庭生活の中でそれを実践しようとすると――、現実的な軋轢の中で、「自分は勘違いしたものの見方をしているのではないか?」といった疑念や孤立感も出てきてしまう。
 何しろ、確証とか裏づけとなるものが、目の前にはまずないのだから…。


 でもそんなときに、「これこそが、本来の私たちの在り方なのですよ!――」というメッセージが伝えられるような、そんなブログでありたいなと考えています。

 本当の本当の真実というものは、目に見える裏づけや理屈ではなく、「共感」によって初めて伝え合えるものだと思っていますから!


 結びのヒーリング・ミュージックは、Hilary Stagg「Prelude to Love」。

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 私たちの脳は、他人の行動を見たとき、自分自身がそれをしているのと全く同じように反応する――、といった話を前回記事でしました。

 人というのは、それぞれが分離した個体のようで、実は目に見えない形でつながり合っている。
 そして、周りからの色んな影響を、否応なく受けることになる。心地よくない感情エネルギーや、集合意識の想念の中に巻き込まれてしまうこともある。

 しかし時に、大切な気づきにつながるシンクロニシティーや、魂の進化へ向けた共鳴なども、こうした「互いの影響」の形でもたらされるのだろう――。


 以前、スピリチュアル系のブログで、こんな面白い映像が紹介されていた。
 音楽に使うメトロノームをたくさん並べて、いっぺんに動かしたら、どんなことが起こるか?…
 最初は無秩序にバラバラで動いているのだけど、不思議なことにだんだん動きが合わさってきて、数分後には何と完全に同期するんですよね!




 たくさん並んだメトロノームが、一糸乱れずにリズムを刻むのは、神秘的なくらい壮観な感じだ。
 もちろんトリックがあるわけではなくて、自然にこうなる。

 ただしこの現象は、「揺れる台」の上にメトロノームを置いたときに起こるもので、がっしりとした机の上ではこのようにならない。
 つまり、下が揺らぐからこそ共鳴が起こる。揺らぎは波動であり、ひとつにつなぐネットワークであるとも言える。


 私たちが生きるこの世界も、誰もが経験的に感じているように、足もとが危うい「揺らぎの世界」だ。
 周りの状況が急変したり、大事なものを失ったり、思いがけぬ不運が起こったり、他者の態度で苦しんだり、自分の立場が崩れたり…。

 でも、このように地盤が不安定な世界だからこそ、「魂の共鳴」といったことも可能になるのだろう。
 社会常識的には、「地歩を固める」ことが大事だとされているけど、実はそれとは全く逆に、軽やかで「揺るがされやすく」あることのほうが大切なのかも知れない…。


 そこで真に重要なのが、どんなに揺らぐ状況にあっても、私たちはいつも守護のもとにあることを信じていることなのかな、と思います。


 結びのヒーリング・ミュージックは、Singh Kaur「Crimson Vol. 1」。
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 今回は脳科学の話です。
 少しだけ小難しいかもしれないけど、大事な気付きにつながるきっかけになればな、と思います。


 人間の脳や心には、一個体としてのまとまりがあって、それが「自他」というものを認識している――。
 この従来からの考え方を根底から覆したのが、「ミラー・ニューロン」と呼ばれる脳神経システムの発見だ。


 今から17年ほど前、イタリアの脳神経学者が、サルの頭に検査装置を取り付けて、筋肉運動にかかわる脳の部位を調べていた。

 そして、サルが餌を取るために腕を伸ばすたびに、一部のニューロン(脳神経細胞)が活動していることを突き止めた。
 サルが腕を伸ばすとそのニューロンは活発に動き、腕の動作を止めるとニューロンも静止する。これによって、腕の筋肉運動にどのニューロンが対応しているかが特定できたわけだ。

 ところが、研究者たちが全く予測していなかった、驚く出来事が起こった――。
 サルが腕を動かさずにじっとしているときに、突然そのニューロンだけが激しく活動したのだ。

 何が起こったのか?…
 それは、研究者が餌を動かそうとして腕を伸ばしたときに、それを見ていたサルの脳が反応したのだった。
 この偶然の発見によって、脳科学における全く新しい事実が明らかになった。
 つまり、他人の動作を見たとき、脳の中では、自分がその動作をしているときと同じ反応が起きる、ということだ――。


 また従来の考え方では、脳の内部は「運動をつかさどる部位」や「視覚をつかさどる部位」「空間認識をつかさどる部位」といった、役割ごとに分かれた構造になっている、とされていた。
 ところがこの新たな発見によって、筋肉運動を担う部位の脳神経が、何と他人の行動の感知や共感、イメージを作る働きにまでかかわっていることが分かった。

 そして、このメカニズムは「ミラー・ニューロン」と名付けられた。


 後の研究によって、人間の脳の中にはミラー・ニューロンの働きが膨大にあることが判明してきた。

 他人から何かを言葉で伝えられたり、あるいは頭の中で何かをイメージしたとき――、それを本当に見た場合と同じ反応が脳で起こるのだそうだ。意識の上で、それは現に「存在している」に等しいということだ。
 また例えば、泳ぐことをイメージしているときの脳の活動と、実際にプールで泳いでいるときの脳の活動は、ほとんど変わらないという。

 つまり脳には、「自と他」の区別なんかなければ、「想像と現実」の違いも全くない。
 私たちの本来の脳の世界とは、それくらい融通無碍で、自由な広がりがあるわけだ。ある意味で、「脳はすでに悟っている」なんてふうにも言える…。


 でも一方で私たちには、自分は周りの世界から分け隔てられた「個別的な自己」であるという、明確な感覚も持っている。
 この感覚は、実はとてつもなく複雑なプロセスによって作られているのだという。

 前述のとおり、脳の働きは、役割ごとに分かれた単純構造ではない。脳内に散らばる色んな部位が、その都度ネットワークのように結ばれて機能しながら、1つの情報を処理している。
 例えば「視覚」の場合、最低でも20以上の脳のエリアが協調して働いているという。さらに高度な「言語」や「記憶」となると、それを成立させるために、脳の中の膨大で繁雑なネットワークの働きがなくてはならない。


 このようなミラー・ニューロンの特質を踏まえ、「自己」とはどういうものかについて――、アメリカの作家のリチャード・パワーズはこう言い切っている。
 「『私は誰なのか?』という自己の感覚は、こうした雑多なプロセスの上に浮かんでいるのであって、一義的な『アイデンティティー』などはあり得ない」、と。

 そして、自己感覚を作るときの脳の状態を、こんなふうに説明する。
 「それは騒々しい議会のようなものだ。ゆるやかなつながりを持つ議員たちが、互いに情報をアップデートし合い、模倣し、修正し合う。そうした交渉を通して、自己はその都度、自らを作り上げているのだ」
 「心の中と外的現実との境界は、その時々のとりあえずの多面的な交渉から生じるものに過ぎない。境界線のどこがいつ破れてもおかしくない、何とも危うい状態にあるのだ」――


 私たちの「自己」の感覚は一見まともなようで、実はぜんぜん明確ではなく、継続的でもなく、強固なものでもないんですね…。

 その感覚が崩れるとき――、それは恐怖や喪失ではない。
 自他の分離がなく、自らを縛る現実も存在しない、本来の「無限に大きな1つの場」という観点を取り戻すときである。スピリチュアルな教えでよく言う「実体のない鳥かご」からの解放である。


 アメリカの脳科学者ジル・ボルト・テイラーが、脳卒中によって左脳機能が壊滅したときに経験した、「ララ・ランド」と呼ぶ世界――すなわち、今この瞬間にすべてのものと一つになる、平安に満ちた至福の世界――
 それこそが、脳がとらえる「この世界の実相」にほかならないのでしょう。

 今にも崩れそうな危うさの先に、それが開けている。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Juliana「Inner Love」。

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 先日、ブログのコメント欄の中で、 「『病』というものをどうとらえますか」という、とてもストレートな質問をいただきました。
 自分なりの考えを書いたものの、その後も「何とも難しい問いだな…」としばらく考えていた。

 すると昨日たまたま、日本における死生学の草分けであるアルフォンス・デーケン氏の本を読んでいたら、「う~む」と思わせる内容が目に止まったので、ちょっとまとめてみますね。


 その本の中で、同氏の師であり「20世紀のソクラテス」と呼ばれた哲学者、ガブリエル・マルセルの教えが紹介されていた。
 マルセルは、この世の中の色々な出来事を理解するためには、「問題」と「神秘」の2つを区別して考えるべきだ、と説いている。

 まず「問題」というのは、知識や技術的なハウ・ツーによって解決できる出来事のこと。
 たとえば時計が動かなくなった場合――、新しい電池を入れたり、修理に出して部品を取り換えるなど、原因を探って直せばその問題はなくなる。つまり技術的に解決が可能なわけだ。

 そして解決された「問題」は、人間の支配下に置くことができる。古来から人間はそうやって、世界のさまざまな状況をコントロールしてきた。


 一方で世の中には、私たち人間には完全に理解することのできない、「神秘」の次元というのがある。

 デーケン氏は少年時代に、4歳の妹を白血病で亡くすという悲しい経験をされている。そして「なぜ妹が死ななくてはならなかったのか」という疑問は、いかに考えようとも完全な解決などあり得ないことだと語る。
 さらに「私は何者なのか」という問いかけも、技術的なノウハウで解決することは不可能だ。
 これらはすべて「神秘」の次元に属する。

 「神秘」は、「問題」のように解決できないため、人間の支配下に置くこともできない。


 このような「神秘」の次元があることを、私たちはしっかり認識すべきだという。
 愛や自由、人の出会い、苦しみ、悪、存在、誕生、生と死などは――、単なる「問題」レベルではなく、もっと深い「神秘」のレベルにあるものだ。

 そして「神秘」に対しては、「問題」とはまったく違う態度が必要となる。
 哲学者マルセルが強調したかったのは――、神秘に近づこうとする際の望ましい態度とは、支配を試みることではなく、素直な驚き、謙遜、畏敬、そして開かれた心である、ということだ。


 …どうでしょう。とても明解な考え方ですよね。
 実は私たちの心の苦しみの多くは、この「神秘」の領域にあるものごとを無理に頭で納得しようとしたり、思いどおりにコントロールしようとすることから来ているのではないか、とも感じる。


 このマルセルの考えを、デーケン氏は医学にも当てはめて説明している。

 患者が入院してきたとき、医師はそれが何の病気でどのように治療できるかを考える。これは「問題」のレベルだ。病気が治る可能性があるならば、そのようにして問題解決に取り組んでいく。

 しかし病状がある段階に達すると、もう治らないという場合もあり得る。こうなると――、もはや「問題」ではなく「神秘」の次元になるのだという。
 そのときは、単なる「問題」のレベルでは考えられないし、そう考えてはいけないことだとデーケン氏は明言する。私たちは、大きく深い「神秘」の前では、もっと謙虚になることから始めなければならない、と。


 で、こうした「問題」と「神秘」の境目は、病気に限らず、世の中の色んなものごとにあるだろう。でも、その境界をどこに見いだすかは、けっこう難しいことかもしれない…。


 そして、最近の色んなスピリチュアルな教えで説かれているのは――、この世の中すべてが「神秘」であるということだ。

 「問題」というものはそもそも存在せず、あらゆるものごとが人の理解とコントロールを超えたところに、ただ在る。
 時計の故障も、ふつうの風邪も、不治の病も、例外なく「神秘」の一環として現れてくる――。

 そして、そうした出来事に対して私たちが行うさまざまな取り組みや努力、さらに明け渡しまでもが、「神秘」の領域から起こってくるのではないだろうか。


 私たちにできることは、それを「開かれた心」で受け止めて経験すること、だけなのかもしれません…。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Imee Ooi「Usnisa Vijaya Dharani」。
 やさしい歌声で奏でる、サンスクリット語のマントラです(歌詞の表示がカラオケ形式になっているのがすごいね…。歌ったら舌がもつれそうだけど)

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 このブログにもときどき書いているけど、1年くらい前から自分や身の周りに、「ちょっとした異様な変化」というのを感じることがあります――。


 そのひとつが、「外の景色が不思議なほどまぶしい」ということ。

 空の雲も、青々と茂る木々も、都会の建物や道路も、まるで鮮やかな光を帯びて輝いているように見える。
 本当にハッとするほど美しいときもあり、思わず足を止めて、何でもない街の景色をじっと眺めてしまったりする…。
 これは、40年以上の人生経験の中で、以前はまったく感じなかったことだ(幼少期のころはあったのかも知れないけど)。


 もうひとつが、1月の末くらいの寒い時期だったけど、家のベランダに出たとき、あたり一面の空気にはっきりとした「春の香り」を感じたこと。

 それは柔らかな土のような、若い草木のような、何とも言えぬみずみずしくて温もりあるにおいだ。春に向けて動き始めた命から放たれる香気が、地上に満ちているのをありありと感じた。
 これも、今年に経験した、まったく初めての感覚である。


 そして特に最近、「おやっ? 前はこんなふうじゃなかったぞ…」と不思議に思うのが――、呼吸がものすごく気持ちいい、ということ。

 座ったり仰向けになって、息が波のようにスーッスーッと胸を行き来するのを感じるだけで、とても深々とした心地よさに包まれる。
 べつに意識的に深呼吸をしているわけではなくて、息は自然に起こってくる。それは、見えない大きな「エネルギーのいとなみ」のような印象だ。

 その静かな動きの中に浸っていると、大きないとなみの「残響」のように、心身に満悦感が染みとおっていく――。

 エクスタシーとか至福体験といった鮮烈なものでは全然ないのだけど、でも「それだけですべてが、安らかに満たされていく」という感覚だ。

 人は、呼吸だけで幸せになれるんですね…。


 「幸せ」になるためには――、まずはそうして、「幸せな感覚」そのものを感じてみるといいのでしょうね。
 具体的な成果とか、地位とか、人間関係とか、「幸せのために必要とされるものごと」を得るための行動は、二の次なのかもしれません…。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Liquid Mind 「Zero Degrees Zero」。

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 今年の7月の酷暑は、もう尋常じゃないですよね…。
 僕は「3階建てマンションの3階」に住んでいて、同じような住環境の人なら分かるだろうけど、天井からの熱がものすごい。

 真夏の太陽エネルギーを浴びた道路は、目玉焼きができるくらいの灼熱を帯びている。マンション最上階の天井には、それと同じ高温の巨大なコンクリートのかたまりが乗っかっているわけだ。
 家庭用のエアコンで冷やそうとしても、ほとんど太刀打ちできない…。


 8月の暑さの盛りのことを思うと気が滅入るけど…、でも太陽が地上を加熱するピークというのは、実はとっくに過ぎてるんですよね。

 地上を加熱するパワーが最も強い時期とは――、それは日の出から日の入りまでの時間が最も長い「夏至」のときだ(今年は6月21日)。
 でも、夏至のころはそれほど暑くはないし、以降は少しずつ日が短くなっていく。にもかかわらず、気温のほうは8月中ごろまでぐんぐん上昇を続ける。


 これと同じことが、1日の中にもある。
 言うまでもないけど、太陽が最も高いのは正午だ。でも気温が最高に達するのは、そのしばらく後の午後2時ごろである。

 1年のうちでも、また1日の中でも、エネルギーが加わるピークと、その結果として気温が上がるピークの間には、一定の「時間差」があるわけだ。


 この「時間差」は、物理的に説明できることだ。でもあえてスピリチュアルな観点から見れば――
 それは、「時間の次元」と呼ばれるこの世界の性質の現れともいえる。


 けっこう色んなスピリチュアル本に述べられていることだけど、「あの世」では、思ったことがすぐに実現するといわれる。
 亡くなった人があの世で、「残してきた家族は今ごろどうしているだろう…」と思えば、次の瞬間にパッと家族がいる場所に行けたりする。

 また、例えばパリに行きたいと考えれば、一瞬にしてパリの街中に立っている。美しい花を見たいと思えば周りに花が咲き、海辺の家で暮らしたいと望めば、海と希望どおりの家が即座に出現したりするそうだ。
 夢のように素敵ですよね…。


 でも、いま私たちがいるこの地上世界も、原理的にはほぼ同じらしい。
 人が何かを望めば、その通りにものごとが現れる仕組みになっている。

 ただ、あの世では現実化が瞬時に起こるのに対して、この世界では、思ってからそれが現れるまでに「時間差」が存在する。


 でもなぜ、この世に「時間差」が設けられているかというと――
 それは、現実化するまでの間に「選び直し」ができるようにだと、よく説明される。

 もし、目の前の相手に腹を立てて「死んでしまえ!」なんて思ったとき、即座にその通りに死んでしまったら、ちょっとマズいことになる。「許し」や「受容」について学ぶ機会も失ってしまう…。
 さらには、「あんな図々しい国には天罰が下ればいい!」「過去に非道を犯した国は滅びるべきだ!」なんて多くの人たちが考えたら、この世界はほぼ丸ごと消えてしまう…。

 ――ということで、そのようになる前に選び直しのできる「時間差」というものが、私たちにとってやはり必要なわけだ。


 でも、その「時間差」の性質を、私たちがうまく利用できているかというと、なかなかそうは行っていない…。


 例えば、「豊かに成功したい」と願ったとしても、時間差によって当面の間は、望みとは全くかけ離れた現実が目の前に横たわっていることになる。
 そのため、しばらくすると「自分にはやっぱり無理だ、うまく行くはずがない…」なんて考えたり、確信してしまったりする。

 つまり人は、再選択が可能な時間の中で、「思わしくない現実」のほうをつい選び直してしまうのだ。
 こうして、新たな変化が訪れるのを阻止することになる…。


 私たちは、何かを望みながら、それとは全く違う現実に直面するとき――、自分がいま「時間差」の真っただ中にいるということを、信じるべきなのだ。

 この、いわば「時間差感覚」を持ちながら、日常の色んな物事と向き合ってみると――、この世界が以前よりも少し「生きやすく」感じられるはずです。



 結びのヒーリング・ミュージックは、7and5「Eulogy(Goodbye, Run On)」。

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 今回はまず、ちょっと俗世的な「株」の話からです――。

 僕は以前、株式のトレーディングにけっこう熱心に取り組んでいた。
 その当時よく読んだのが、プロ相場師の林輝太郎の本だ。知らない人は「誰それ?」だろうけれど、知っている人には「ずいぶんマニアックな…」と言われるような人物である。


 この人は色んな相場テクニックを研究して紹介しているのだけど、中核となるのはいわゆる「逆張りナンピン」――、つまり下落局面で株を買い増していく手法である。

 例えば1株700円のある銘柄を、3千株買う場合――
 株価が650円に下がったときにまず千株、そして600円になったら追加で千株、さらに550円まで落ちたときに最後の千株を、計画的に買っていくというやり方だ。

 株価というのは短中期で波打つように上下しているから、そのように買っておいて、次の上昇局面で売却して利益を出す――
 これを1つの決まった銘柄で、タイミングを見図りながら繰り返していく。


 ただ「言うは易し」で、実際にやってみると、頭では分かっていても、なかなかうまくできない。
 特に市場全体が下落していく中では、そもそも「株を買い増す」という気持ちにすらなれないものだ…。(でも株は「安いときに買って高いときに売る」ことが、当たり前すぎる基本なのだけど)
 だからこの手法は、かなりの実践的練習を必要とする。

 林氏は多くの著書の中で、こう繰り返し強調している――
 「『知っている』ことと、『できる』ということは、全く違うのだ」


 なぜ知っているのにできないのか…
 理由のひとつは「恐怖」で、株価が下がる中では自分自身も「含み損」を抱えるし、ニュースや識者のコメントなども弱気が大勢になって、心理的に尻込みしてしまう。

 もうひとつの理由が「欲望」だ。
 本の中では、これまで株で損ばかりしてきた投資家が一念発起して、林氏の手ほどきを受けながら練習する話が出ている。
 しばらくは地道にセオリー通りにやっていたのだが…、証券筋から「○○株と□□株がいま狙い目!」なんて話を耳にすると、もう練習そっちのけで、そうした銘柄につい手を出してしまう。
 そしてまた以前と同じように、損失を被ってしまう。

 つまり、せっかく「新しいやり方」に取り組み始めたのに、安易な欲にかられて「古い自分のやり方」再び舞い戻ってしまう、というパターンだ。


 で、話はここからスピリチュアルな方面に転換するけど――

 私たちの多くは、例えば「幸せなる」とか、「本当の私を見いだす」とか、「感情を手放す」といったことについて、必要な内容は色んな本などを読んで、実はすでに十分「知っている」のではないだろうか…。
 ただ、それが「できる」かどうかとなると、話は違ってくる。

 「新しいやり方」を知っているにもかかわらず、前述の損ばかりしている投資家と同じように、「古い自分のやり方」を捨て切れずに後戻りしてしまう。


 例えば、目の前の相手に対して、怒りの感情がわき上がったとき――
 「その感情をじっと見つめて、感じ切ってあげるのがいい」と知っていながらも、つい感情に巻き込まれて一体化してしまう。
 そして「怒りの言葉を口にしても、ろくな結末にならない」と分かっていながらも、口を突いて出る言葉を相手にぶつけてしまう…、ということも少なくないだろう。


 「分かっちゃいるけど、やめられない」…、という状況で、誰でも突き当たる壁みたいなものだ。

 では、この壁を抜けるには――
 それは、そもそも「古い自分のやり方」には「有効性が全くない」という事実を、もう後戻りができないくらい、強力に認識することじゃないかと思う。

 あの損ばかりしている投資家だって、自分の過去の投資履歴を見れば、従来のやり方には「有効性が全くない」ことは歴然としている。そのまま続けていけば、やがて破綻することも必至だ。
 同じように、自分の「習慣的な反応」などが、いかに「有効性が全くない」ものであるかも、実際に考えてみれば間違いなく明らかだろう。


 でも、「もちろんそこまでも分かっているのに、なおも手放せない」という場合は――

 「古い自分のやり方」に固執して手放せないまま、自分がこの生涯を終えていく時のことを、はっきりと想像してみる必要があるだろう。

 たとえば、ずっと「感情的な反応装置」でしかなかった人生…。
 自分自身を受け入れるために、あれこれと条件付けをしてしまい、結局「ありのままの自分」を認めることができないまま終わってしまう一生…。

 ――それは、「残念」という言葉では表現しきれないくらい、きっと苦しみながら後悔することだろう。
 そうして死の床でいくら悔やんでも、「あのとき思い切ってああしていれば」と振り返っても、もうその段階では取り返すことができない。

 さらに言えば、再び転生して、同じ課題をまたイチから生涯かけてやり直さなくてはならないことを考えたら…、もう誰だってうんざりで御免ですよね。


 そうならないための選択のチャンスは、この日常場面にふんだんに転がっている。
 怒りや恐れやがわき上がってきたとき、「こんな自分は認められない」と悲しく否定的に思えたとき――

 それが、人生の終わり方を変えられる「その時」です。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Deuter「Ilumination of the Heart」。

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 私たちは、本当は「ひとつ」の存在です。
 周りの世界のあらゆるものと、自分を分け隔てるものは、ありません――

 とよく言われるものの…、日常的な感覚は決してそうではない。
 人間の1人ひとりは別々に存在していて、そして思い通りにならない大きな世界の中に、ちっぽけな自分がいる。
 ――そんなふうに、普通は感じられる。


 この強い実感の根拠となっているのが、「皮膚感覚」だろう。
 私たちはいつも皮膚を境として、自分の内と外を、明確に区別して感じる。

 さらに空気が暑かったり、触れるものが痛かったり、体が濡れると不快だったりと…、外の世界が自分にとって心地よくないものとして感じることも多い。
 こうした皮膚感覚は、ある意味で「分離の象徴」ともいえる。


 でも、最近読んだある本の中に、こんな一文があってハッとさせられた――。

 「世界のすべては、私自身です。その世界のあらゆるものを十分に感じてみるために、皮膚感覚というものがあるのです」


 なるほど、そうなのか…。
 確かな感触を通じて、私たちが「ひとつ」であることの喜びを味わう――。それこそが皮膚感覚の本来の目的なのだ。
 感覚によって「分離を感じてしまう」というのは、まったく正反対の「間違った使い方」といえる。


 エリザベス・キューブラー・ロスの最晩年の著書『ライフ・レッスン』のほぼ最後のページで、彼女はこう語っている。

 あなたが最後に海を眺めたのはいつのことだろう?
 朝の空気を味わったのは?
 赤ん坊の髪の毛にさわったのは?
 おいしい料理を食べたのは?
 裸足で草の上を歩いたのは?
 青い空をながめたのは?
 ――それらはすべて、もしかしたら二度と得ることができない貴重な経験になるかもしれない。

 私たちは本当の人生に触れ、味わい、堪能しているだろうか? 平凡の中にある非凡を、感知しているだろうか?


 これは皮膚に限らず、あらゆる感覚についてのことだけど、本当にその通りだなと思う。

 赤ちゃんの柔らかな髪の毛を指先でなでるとき――、その感触を通じて私たちは、純粋な命の輝きといとおしさを感じ取る。そこに分け隔てる感覚はない。

 裸足になって草の上を歩くとき――、私たちは、靴という隔たりから解き放たれた自由を感じる。足の裏から大地とつながって、奔放に歩き回る喜びを味わう。


 それと同じように、素晴らしい何かとつながる「非凡な感覚」が、私たちの他愛ない日常の中にも満ち満ちているのだろう。
 キーボードを打つ指先にも、食器を洗う手にも、歯磨きにも、仕事のバッグの重みにも…


 結びのヒーリング・ミュージックは、Liquid Mind「Unity」。

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 僕は週に1度くらい20kmウォーキングするのを、習慣的な運動にしていました。
 最近はちょっと心変わりして、毎朝4kmをランニングしています。

 コースは家の近くの川沿いの道で、東京の住宅街の中だけど、緑が比較的多いところ。
 で、そんな場所を走っていると、このところの猛暑のせいなのか、生き物の死骸が道端に転がっているのをいくつか見かけた。
 数日前はカラス、きのうは大きなネズミ…。

 朝のランニング中にそんなものを目にすると、ギョッとして跳びのいてしまう。


 私たちは、季節の花々や、さえずる野鳥、ひらひら舞う蝶などを見て、「あぁ、自然の中には生命が満ちているな」ってよく思う。

 でも――決して変な見方や縁起の悪い話でもなく――、自然の中はその生命と同じくらい「死が満ちている」とも言えるだろう…。
 鳥や小動物だけでなく、昆虫や植物、さらに微生物まで入れると、そこには本当におびただしい数の「死」が存在する。

 そして、そうした死がないと、自然界の生態系システムは持続できない。枯れ木や死骸は朽ちて分解され、多くの生命の源となる。

 1つひとつの生き物の個体として見れば、死というものは取り返しのつかない終焉である。
 でも「生命活動の全体」の観点から見ると、それは新たな命を生き生きと展開させていくための「サイクルの一局面」だ。


 都会の緑の中にさえそんな一端が現れているわけだから、大きな森林や山とかになると、それはとてつもない規模の生命活動の総体といえる。



 さらに大きく見れば、地球全体のいとなみがひとつの生命活動である、というとらえ方もよくされる――。

 そして、その地球そのものの命も、いつか終わりが来る。惑星には寿命があるからだ。
 太陽は少しずつ活動を高めながら膨張しており、5億年後には地球上の海がすべて蒸発して生物が住めなくなる。50億年後には、膨らんだ太陽に地球が飲み込まれて消滅すると予測されている。


 地球や太陽がなくなった後も、宇宙全体のいとなみはずっと続く――。
 ビッグ・バンによって誕生した宇宙は、風船のようにどんどん大きく膨らんでいる。
 そしてピークに達したのちに、今度は一転して収縮していくのだそうだ。これは「ビッグ・クランチ」と呼ばれる。

 そうして宇宙は、膨らんだのと同じ150億年をかけてどんどん小さく収縮していき、やがて誕生前の状態に戻る。
 それは空間も時間もなく、今のこの宇宙が存在したという痕跡や事実さえ何もない、完璧な「無」だ。

 そこからどうなるかと言うと、再びビッグ・バンが起きて宇宙が誕生し、やがてその宇宙もビッグ・クランチによって収縮・消滅する――。この活動が、無限に繰り返されるという。


 そんな超壮大で永遠のサイクルが続く、1つの命としての宇宙のいとなみの中で、果たして「終わりとしての死」が存在するのだろうか…。

 「そんな現実離れした、大言壮語なんて」と思われるかもしれないけど…。
 でも、もしも亡くなった人たちの魂に尋ねてみることができたとしたら(僕はもちろんできないけど)――、きっと「私たちは死んだわけではなくて、計り知れないほどの大きな生命活動の一部にある」という答えが返ってくるんじゃないかな…。


 …と。 ランニング中は無心を心がけているのだけど、こんな色んなことが頭をよぎったりします。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Parijat「Hearts Awakening」。
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 例えば「泥棒」といったら、いかにも泥棒らしいイメージの絵ってありますよね。唐草模様の風呂敷を背負って、頬かむりをして、目をキョロキョロさせて、抜き足・差し足で歩いて…、というような。
 でも現実にはそのような格好をした泥棒って、きっと100%存在しない。

 同じように、「不審者に注意」といった住宅街の張り紙に、黒サングラスに黒服の男がよく描かれたりしてるけど、そんな一目瞭然な不審者もいないだろう。

 ほかにも、牛乳瓶の底みたいなメガネをかけて鉢巻をした受験生とか、寿司の折詰を手にぶら下げてフラフラ歩く酔っ払いとか、「ワタシ中国人アルヨ」としゃべる中国人とか、骨をくわえた犬とか(どれもちょっと古いな…)――。
 私たちの頭に刷り込まれたいろんな「類型的なイメージ」があるけれど、そのような実物は誰も見たことがない…。


 ま、そういうのは全く他愛のないものだけど。
 でも、私たちの「価値意識」というのも、実際には見たこともないイメージに基づいていたりもする…。

 例えば、子供に「食べ物の好き嫌いはいけません!」と叱るのは普通よくあることだ。
 「好き嫌いのあるまま大人になったら、偏食で不健康になってしまう」という理由で、親は子供のためを思ってそう厳しく言うわけだろうけど――

 でも、好き嫌いのある大人は実際にけっこういるものの、その大部分は普通の健康状態で生活している。
 子供のころにピーマンや魚が嫌いだったために、げんなりと青白い顔の不健康な大人になるというのは、あくまで架空のストリーといえるだろう。


 ほかにも例えば、挑戦したい夢があってサラリーマンを辞めたいと思っている人で――、「そんなことしたら食っていけなくなるし、妻子を路頭に迷わせてしまう」というのも、行きすぎた類型的イメージともいえる。
 もし夢への挑戦がとん挫してしまったとしても、現実的には家族がひどい状況になる前に、何らかの方向転換くらい十分可能なはずだ。


 「類型」というのは、話が早くて納得しやすい。でもそれが必ずしも「実際に起こり得ること」ではない。逆にほとんど実在しないケースだってある。


 私たちの心の中では、何かをしようとするたびに、色んな声が湧き上がってくる。それが果たして魂からのものなのか、それともエゴによるものなのかは、なかなか分別がつきにくいものだ。
 でも、エゴや恐れからくる声というのは、往々にして「類型的なイメージやストーリーを用いる」というのは、けっこう当てはまるんじゃないかな…。

 そんな実体なき類型なんかに、決断の主導権をゆだねたくないですよね!



 結びのヒーリング・ミュージックはChristopher Franke「Viciente」。

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 臨床心理学者の河合隼雄氏が、人の善と悪について、こんな逆説みたいなことを言っていました…。

 「人間はこれまでの歴史の中で、たくさんの人間を殺してきた。でも『悪』が殺した人数というのは、実はそれほど多くないんですよ。一方で『善』が殺した人数のほうは、ものすごく膨大です。戦争がそうですから」――


 確かに戦争は、自分たちこそが「善」であり「正義」であり「聖」であるという、圧倒的な信念をもって敵の命を奪うわけだから、まさにそういうことだろう…。

 ちなみに、国内で殺人事件によって殺された人数というのは、最近5年間でおよそ「2000人」になる。
 一方、第二次大戦による日本人の死亡者数は「310万人」だから、もう全く比較にならない違いだ。


 もちろん戦争は最大に極端な状況であって、私たちの日常では、人の命を奪うことまではまずあり得ないだろう。
 でも、河合氏が指摘するこの「善の性質」については、身の回りの色んな側面で、同じようなことが言えるのではないか――。

 私たちは、「悪いことをしてやろう」という意図で、他者を罰したり傷付けたりは普通あまりしないはずだ。
 ところが、仕事上の立場として、親の立場として、同じ仲間として、さらには社会的な常識人として、「これは善である」と信じながら他者を罰したり傷付けることは、けっこう多いのではないかな。


 さらに「善」は、他者よりもむしろ自分自身に対して、より横暴で独裁的な振る舞いをする。
 つまり人は、「これは自分にとって善である」と思いながら、自らを攻撃している――。

 多くの人には、自分はこうありたいという「善き自己イメージ」があるだろう。例えば、有能になって、社会で活躍して、経済面で豊かになって、周りから評価されて、交友関係に恵まれて、理解し合えるパートナーがいて、家庭生活が幸せで、ずっと問題なく健康で…等々。

 ところが、そのようなイメージとは違う現実を目の当たりにすると、「こんな自分は認められない」「もっと何とかしないとダメだ」と自らを否定して、ときに厳しく責めてしまう。
 エゴはそうしながら、「これは善なのだ、幸せになるために必要なのだと」と主張する。でも行き着くところ、自分自身を「傷付いた敗者」のようにしてしまうだけだ…。


 この生において、真に意味のあることとは――、「善」の立場から他者や自分をどうにかするのではなく、そのままを受容することなのでしょう。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Liewellin「Archangel Michael」。




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 僕は語学がそれほど得意というわけではないのだけど、以前にエックハルト・トールの『STILLNESS SPEAKS』を英語の原書で読みました。

 この本は『世界でいちばん古くて大切なスピリチュアルの教え』(あさりみちこ訳)という翻訳書が出ていて、それを見るとセンテンスの1つひとつがとても短くてシンプルだ。
 またエックハルト・トール本人による朗読CDもあるので、併せて聴けばヒアリングの練習にもなる。何よりじっくり読むことで、魂の進化にとって多少なりの利点もあるだろう――、ということで、勉強がてらにちょっと読んでみた。


 エックハルト・トールは、言うまでもなく日本でも相当な人気がある。
 その理由は、メッセージ内容の素晴らしさはもちろんのこと、丁寧で分かりやすく、親しみをもって語りかけてくるような「言葉づかい」によるところも大きいだろう。

 で、そうした点も念頭に原書を読んでみて気付いたのが――、訳者のあさりみちこさんの翻訳文章が、本当に舌を巻くほど見事! ということだ…。

 それは、単に語彙や文法面などに関する上手さではない。
 まず、エックハルト・トールが1つひとつの文章で何を伝えようとしているのかという「込められたもの」に、しっかり丁寧に着目されていると思う。それに加え、読者が何を知りたいのかという、私たち受け手の「思い」も親身に踏まえている。

 そうした視点から書き起こされた結果として、本当に「読みやすい日本語文章」に仕上がっている。スピリチュアルなメッセージを私たちが受け取って理解するうえで、翻訳者の存在はやはりものすごく大きなものだなと、改めて実感した。


 訳の例を挙げれば、こんな一文がある。

 ――「本当の自分」――。すべての人の深奥にあるこの感覚は、「静寂な心」と切り離すことができません。「本当の自分」こそが、名前や形を超えた、あなたの本質です。

 とても分かり良いですよね。頭を使わなくてもスッと入ってくる。
 ちなみに、その原文を直訳してみると、以下のような感じになる…

 あなたが誰であるかという、あなたの最も内にある自己意識は、静寂から切り離すことができません。これが、名前や形よりも奥深い「I AM(私は在る)」です。


 わざと直訳調にしてはいるとはいえ、読んでいて「つまづく文章」だし、意味が頭に残りにくいでしょう。

 あさりさんの訳文にある「本当の自分」という言い方は、原文には出ていない。原文は「I AM」とか「あなたが誰であるかという自己意識」なのだけど、これはそのままだと「やや上級者向けの言い方」といえる。
 見比べてみると、たったこれだけの短い一文でも、「どうすればおおもとにある真意が、分かりやすく伝わるか」という観点で、かなり丁寧に推敲されたのではないかなと思う。


 もうひとつ、ちょっと長めの引用だけど、この本の「はじめに」の書き出しの文章が以下の通り――

 あなたは、なにを探し求めていますか?
 もしもあなたの探し物が、世間一般が価値をおくような知識だとしたら、それは、真の「魂の教師」からは、決して得ることができません。新たな情報、信念、行動規範や、教養にプラスにあることを期待しても、ムダでしょう。なぜなら、それらを教えるのは、彼ら魂の教師の仕事ではないからです。
 すべての人の深奥には、輝ける「真実」が眠っています。けれども、ほとんどの人は、その前に立ちふさがる「壁」によって、真実を見ることができません。
 そこで、人びとが真実を見ることができるよう、真実をおおい隠している「壁」を取り除くのを手助けする。それが魂の教師の唯一の仕事です。

 では、これも原文を直訳すると、こんな調子になる…

 真の魂の教師は、伝統的な世の中の良識を教えることはありません。また、新たな情報や信念、行動倫理などを、あなたに与えたり付け加えたりもしません。
 そうした教師の唯一の役割とは、あなたの存在の奥深くにある「自分がすでに何者で、何を知っているか」という真実からあなたを切り離しているものを、あなた自身が取り除くのを手助けすることです。


 この直訳の後半部分は、まずい訳し方の典型かもしれない(複雑につながる長いセンテンスと、「あなた」の連発)…。

 ここで感心するのは、原文では「魂の教師とは~」というやや解説的な視点なのに、あさりさんの訳では「あなたは、なにを探し求めていますか?」という読者への直接的な問いかけにうまく置き換えている点だ。

 さらに「真実が眠っている」とか「おおい隠している壁」といった言い回しで補うことによって、とてもスムーズで親しみの持てる日本語文章に仕立て上げられている。
 この冒頭の記述に誘われるように、本全体を読み進んでいきたくなる――。


 こんな調子で、僕は原書を読みながら翻訳書と見比べ、最初から最後までずっと「感心することしきり」だった。
 どの一文を見ても、単なる字面だけの訳にとどまっていない。「エックハルト・トールの魂」と「読者の魂」とを、まさに言葉で通い合わせるような訳文だと思う。

 この「Soul to Soul」の結び付けこそが、スピリチュアル分野の翻訳で真に意味のあることだろう。読者としては、その役割をプロの翻訳者にもっともっと期待したい――。


 ただ実際は、それ以前の問題として――、スピリチュアル分野の翻訳本を色々読むと、頭がこんがらがるような訳文のものに、たまに出会いますよね。千何百円かする本なのに、「商品としての日本語文章」にほとんどなっていないものが…。


 例えばだけど、以下なんかそのひとつで、これは世界的に著名な人の本なのだけど…

 「自己」を経験している状態、または「自己志向」であることは、私たちの中の物差しが自分自身のスピリットであり、あなたの経験している対象物ではないということです。


 う~ん… 5回以上読んでも、全く何ひとつ入ってこない…。
 訳者はもちろん英語に堪能で、著者の教えに最も精通されている方なのだけど、ただ日本語の「文章修業」はあまり経験されていないのだろうと思う。

 でもまぁ、あらゆる物事は「なるべくしてそうなっている」わけだから、読めない訳文も「天の配剤」によってそのようになっているのだろう、というふうにも、思えなくもない…。


 このブログを始めたころ、スピリチュアル分野の翻訳本の「表紙」について、『美しい日本のスピ本』という記事を書きました。
 それまでブログのアクセス数が1日あたり0~3件くらいだったのが、この記事以降は少しずつ増えていったという、記念碑的とまでは言わないまでも、「雑文」としてそれなりに面白く読めるではと思います…。


 結びのヒーリング音楽は、Karl Jenkins「Adiemus」。
 この人の歌詞は架空のデタラメ言語なのだけど、未知で神妙な言葉の響きがとても好きですね!

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 「本当の私」とは、この物理的な身体ではなく、また頭の中の思考でもありません――と、スピリチュアル分野では言われる。
 そして、その目に見えない「本当の私」のことを、よく「これ」と表現する。

 「これ」は、とらえどころが全くなく、言葉にして説明することがもはや不可能。だから、限界のある言語化を捨てて、「これ」と呼ぶほかないわけだ…。


 でも、そのような完全に不可知な「これ」にも、私たちが感覚的につかむことのできる、いくつかの特質なり側面がある。
 そのひとつが、自分に現れる思考や出来事などをじっと観察する者――、すなわち「気づき」とか「観照者」「意識」と呼ばれるものだ。

 もうひとつの側面が、私というものが「ただ在る」という、ふだんは忘れているけど決して消すことのできない根源的な感覚――。これは「ビーイング(存在)」とか「空」、分かりやすく「くつろぎ」と呼ばれることもある。

 そして、さらにもうひとつ――。それが、ものごとと共鳴して、感じたり癒やしたりする「ハート」だ。


 世の中に色々ある「スピリチュアルな道」というのはいずれも、この3つの要素のどれか(あるいはいくつか)に取り組みながら、最終的に「これ」に行き着くことを目指している――。


 このうち「気づき」と「ビーイング」に関しては、瞑想などによって、ある程度エクササイズ的にアプローチしていくことが可能だ。
 ところが「ハート」に関しては、そのような伝統的・体系的なアプローチ手法というものが、ほとんど存在しない…。

 だから、たいていのワークでは、皆とダンスしたりハグしたり、ヒーリング音楽などを聴いてリラックスしたり、あるいは豊かな自然に浸りながら「ハートを感じる」というのが、オーソドックスなやり方となっている。


 女性にはそれがけっこう得意な人が多いけど、一方で男性にはなかなか合わないケースが少なくない。
 僕も実は、もともとかなり苦手なほうだった。

 「ハートを感じる」といっても、胸の中心には、どんよりとした「痛みのかたまり」みたいなものしか感じられない。そして、その痛みの原因となっている何らかの不調和が、自分の内や周りの状況にある…。
 そのあたりを「自分の課題かな」と思っている人も、けっこういるのではないだろうか。


 で、ここまでが実は前置きで、今回は「ハート」に関する話題です――。
 ちょっと長くなってしまったけど、「ハート」と言えば誰にでも一言で通じてしまうものだけど、こうした「そもそも」な内容も触れてみるのもいいかな、と思って書いてみました。


 『いま、目覚めゆくあなたへ』(マイケル・A・シンガー著)という本では、ハートは「エネルギーの中枢」であり、開くことも閉じることもできると説明する。そのハートを閉ざすと、闇に支配されて、不安を感じるか無気力になるのだという。
 そして「ハートを開いたままにしておくきわめて簡単な方法がある。ハートを閉ざさないことだ」、と言い切る。
 私たちは過去の経験をもとに、ハートを開いたり閉ざしたりするようにプログラムされていて、それは他の習慣と同じく「改めることができる」という。

 「そうシンプルに言われてもねぇ…」と思ってしまうけど、この本以外にも、「本来、ハートは開いていく性質のものなのに、それをわざわざ閉ざしてしまっている」といった説明は、色んなところで言われている。

 例えて言えば、ハートの扉というのは、建てつけの悪いドアと同じように、放っておいたらいつの間にか勝手に開いていってしまう構造なのだろう。
 ところが私たちの多くは、神経質なオバちゃんみたいに、「開けっ放しはダメじゃないの」バタン!!――と、こまめに閉め続けているわけだ。


 前回記事で紹介した『“それ”は在る』(ヘルメス・J・シャンプ著)の中でも、「ハートを開く」ことの記述が出てくる。
 その個所が以下のもので(本当はもっと丁寧な説明だけど、ちょっと簡略して引用します)、これが僕自身にちょっとした新しい認識をもたらしてくれた――。

 胸の中心に扉があるとイメージしてごらん。
 その扉を開けて、自身の内面を解放してごらん。
 感じようとせずに、ただ静かにしていることで感じるのだ。
 それだけで、自然に解放が起きる。



 さらっと読むと何も気に留まらない、よくある一文のようだけど――、僕がここで「おやっ、これは特徴的だな」と思ったのは、「感じようとせずに」と明確に指南している点だ。

 ふつう、ハートのワークでは、「感じる」ことこそが肝心といえる。
 もちろん、あらゆる意図を手放さなくてはならないのだが、そのようにしながらも実際には、「感じようとする気構え」みたいなものが、僕にも多くの人にも残っていたように思える…。
 もしかしたら、その「感じよう」とすること自体が、精妙な何かの働きを妨げていたのではないだろうか。

 「考えるな、感じろ!」というブルース・リーのよく知られたせりふがあるけど、ここではそれすらも超越して、「感じようとさえするな!」というわけだ。 しかも、ハートに関して――。


 ところがこれを実践してみると、とりわけハート系ワークが苦手な男性にとっては、「なるほど…」という感覚がするだろう。

 とにかく周りのことに対して、ハートの扉を開くイメージで、「無防備」に「開けっ広げ」な状態でいる。何かを感じようなんて、いっさい意識せずに――。

 ただそれは、とても頼りない印象だ。
 よどんだ室内を換気しようとして、風のまったく無いときに窓を開けるようなものだ。内にこもったものが出ていくわけでもなく、新鮮な空気が入ってくるわけでもなく…、何も起こらない。

 でもそんな何もない中でも、ハートの扉を開けたままのつもりでいると――、明らかに周りに対する感覚が違う。内と外を分け隔てる何か(それは微細であり圧倒的でもある何か)が、取り払われている気がする。


 そうして感じているうちに、僕自身の周りにちょっとした変化が起こった。
 人によっては、それほど大した出来事ではないと言われるかもしれないけど…、でも僕は普段からシンクロ現象がバシバシ起こるような体質ではないし、ちょと印象深く感じたので書き出してみますね。


 うちに高校1年生の息子がいる。
 もともと未熟児で生まれたため体格が小さく、小中学校でいじめに遭ったことから、あらゆることに後ろ向きな性格になってしまっている。
 勉強や学校生活にあまり意欲がなく(成績は何とかオール3)、スポーツ関連はからっきしダメで部活動もしてない。親しい友達もほとんどいない…。

 でも、そんな状況も、必要な経験だからそうなっているのだろうし、本人に合った展開がいつかきっと起ってくるだろう――と、僕は思っているのだけど。
 ただ、息子は「自分は頭が悪くて何をやっても出来ないダメな人間なんだ」とか自己否定的な言葉をよく口にしする。反抗期だから言動や態度もきついものになる。特に試験前には、そんなネガティブな傾向がエスカレートしてしまう。

 僕も話を聞きながら、色々と励ますのだけど、なかなか肯定的に受け取ろうとはしない。
 最近は僕も「高校中退の生き方だって、いくらでも道はあるのだから、何が何でも無理する必要はないよ」なんてことも言っていた…。


 先々週は、ちょうど試験前のそうした状況だった。
 僕は前述のように、ハートの扉をただ開き、何をするでもなく、感じるでもなく、ただじっと受け入れていた。
 胸の痛みもそのままにして、ただ開けっ広げにして、放っておいた――。


 すると――、テストの結果は、驚いたことに、ほとんどの科目が90点以上。とりわけ苦手なはずの物理が、学年全体(300人以上いる)の中で3位。 これまでテストといえば40~60点くらいだったのに、いったい何が起こったの…?
 本人は「たまたま分かっただけ、こういうのは今回だけだろう」と、なおも口では後ろ向きなのだけど、やはり自分でも全く予想外のことで嬉しかったようだ。

 あと(これこそ些細なことだけど)、体育の授業でハードル走のフォームが「これまで見てきた生徒の中で最もきれい」と先生にほめられ、全員の前で実演させられたそうだ。
 テストの点は「なんかの拍子」みたいなものがあるかもしれないけど、スポーツで評価されるのは、うちの子に限ってあり得ないはずだけど…。


 もちろん「成績が上がればOK」、というわけではない。
 でも、それまでいいことのなかった自己イメージに、いくらかプラスとなる経験になったのであれば、それはそれで本人にとって良かったろうと思う。


 僕自身、家族の色んな出来事を受け入れつつも、やはりいくらかの抵抗なり分離が、間違いなくあったのだと思う。
 それを完全に消し去るのはできないかもしれないけど、ハートの扉を開放しているうちに、その抵抗なり分離がより小さくなっていったのだろう。
 それによって、目の前の世界にあった不調和が、自然治癒的に解消されたのではないかな、と考えている。

 「ハートを開く」というと、自分の内側の解放と浄化というイメージだけど、ハートの作用はそれ以上に「外側の世界の解放と浄化」をもたらすものと言える。
 もっともハートには、内や外という認識は全くないだろうし…。


 以上、個人的で卑近な例を引き合いにして恐縮ですが、そんなふうに思いました――。


 もっとも、ハートのそのような作用は、ぜんぜん序の口といえる。
 『いま、目覚めゆくあなたへ』では、ハートのセンターにあるエネルギーについてこのように語っている。

 注意深く観察すれば、あなたの内部には驚異的な量のエネルギーがあることに気付くだろう。
 このエネルギーはいつでも使用可能なのだ。好きなときにあなたはそれを利用できるのだ。それはただ湧き出て、内側からあなたを満たす。
 このエネルギーに満たされると、世界全体を引き受けられるような気分になる。



 『“それ”は在る』でも、先ほどの引用の続きに次のように述べている(少し略して書き出します)。

 突然にあなた全体を包み込むように、至福がやってくるだろう。
 それは来ないことはあり得ない。
 なぜなら、それは本来のあなた自身だからだ。
 すぐには何も起こらないかもしれない。
 だが約束しよう。
 必ず起こる!
 1時間でも、2時間でも、3時間でも、
 きょう起きなければ、また明日でも、あさってでも、
 ただ信頼して明け渡しなさい。
 神を信頼しなさい。
 神は必ず答えるから。
 絶対に!



 今回はちょっと長くなってしましました(途中で分けて載せようかとも思ったけど、切らないほうがいいと思ったので)…。
 読むのも面倒だったと思いますが、ここの最後までわざわざ読んで下さった方は、本当に有難うございます!

 結びのヒーリング・ミュージックは、Julee Cruise「Mysteries of Love」

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プロフィル

Koudai Mitsuna

Author:Koudai Mitsuna
 
光奈 広大(みつな・こうだい)

 20年のあまりのサラリーマン生活を経て、いわゆる「ザ・マネーゲーム」を何とか卒業。今では束縛されない自由な日々を存分に味わっています!

 そうした中で心がけているのは、普通の日常的な行いを通じて、意識の進化を目指す「カルマ・ヨガ」。

 日々の喜びや学び、インスピレーションから得たスピリチュアルな気付きなどをブログで紹介しています。

 妻子と都内在住――。

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