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 今回は他愛のない話題で、ブログの画面を少しリニューアルしてみました。

 と言っても、リニューアルしたのはこのメイン・ページではなくて、各記事の下に「拍手」のボタンが付いているけど、そこを押すと「拍手を有難うございます!」というお礼の画面が出てくる。
 今回、手を加えたのは、そのページです――。

 色んな人のブログを見ていると、その「お礼ページ」に、自分で描いたイラストを載せている人がときどきいる。
 しかもクリックするたびに違う絵が出て来て、「こういうの素敵だなー!」と前から思っていた。


 で、僕も一念発起して、その「お礼ページ」に自筆の「野の花の絵」を入れてみた。
(デジタルなパソコン画面に、思いっきりアナログな水彩画が出てくるのが、実は個人的に好みなのです…)

 僕は学生時代は絵が趣味だったのだけど、実はサラリーマンになってから20年以上も絵筆を手にしていなかった。
 そして先日、絵具と筆とスケッチブックを買ってきて、いきなりひさびさに描いてみた。とても「本調子」とは言えないものの、とりあえず「拙速を尊ぶ」気持ちでアップしてみました…。

 ちなみに、現時点では絵がまだ3種類しかないけど、これから20種類くらいまでガシガシ描き足していきます(そうしているうちに、腕前もアップしていくでしょう…)

 「拍手」ボタンを押すたびに違う絵が出てくるのは、ちょっとくらいは楽しいと思いませんか?… いかがでしょう。


 ただ、こうしたオリジナルの「拍手ページ」を作るには、実は少なからぬ決意が必要となる。

 このFC2ブログの仕組みに詳しい人はご存じかもしれないけど――、そのためには従来の「ブログ拍手」から、「FC2拍手」という別サービスに切り換えなくてはならない。
 もちろん無料なのだけど、その切り換えによって、過去の拍手数は移行されずに、何と一気にすべての記事が「拍手数ゼロ」に戻ってしまう…。

 これまでたくさん拍手数をいただいたことは、書き手としての誇りでもあるし、それをゼロに戻すのは、拍手を下さった方々にも本当に申し訳なく思える…。
 でも、これも「新しい楽しみ」のためのリセットだと考えて、思い切って踏み切ることにしました。


 また、野の花の絵にしたのは、聖書の「野の花を見よ」という言葉に一応ちなんでいます…。

 イエスが「野の花を見よ」と語ったのは、そこに神の美を見いだしなさいとか、純粋な生命を感じなさい、といった趣旨とはまた違う。

 イエスは「野の花がどのように育っているかを考えてみなさい」と言い、こんなふうに続ける――。それは働いてもいないのに、きれいに着飾っている。野草でさえ、天はそのように養ってくださるのだ。まして、あなたたちに、それ以上のことをしてくれないはずはないだろう。だから、この先の食べることや着るもののことなんかで、思い煩うのはやめなさい――。


 「自分は食べていくためにどうしよう」というのは、イエスの時代から人びとの第一義的な悩みだった。
 それから2000年を経た現在の先進国でも、相当豊かになったとはいえ、人の心の状況はそう変わってはいない。

 「働かざるもの食うべからず」なのか、それともイエスの言う「野の花を見よ」なのか――。それは、いま生きている私たちにゆだねられている、リアルな選択なのだと思います。



 結びのヒーリング・ミュージックはMarc Enfroy「Empire bluff」。

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 スピリチュアルな教えをストレートに語った本というのは、関心を持つ人が最近増えてきたとはいえ、それを手にする人はどうしても限られてしまうものです。
 (都会の大手書店でも、「精神世界」のコーナーは最も閑散とした一角だし…)

 でも、そうした教えを「何か別のもの」に託して語れば――たとえば魅力的な「物語」の形にして語れば――、それはより幅広い人たちに向けたメッセージとなる。

 代表作『アミ 小さな宇宙人』で世界的に著名なエンリケ・バリオスは、そんな語り方で大切なメッセージを伝える名手だ。


 先日、同氏の(それほど有名でない作品の)『マラビージャ』という物語を読んだ。
 話の流れとしては「ツイン・ソウルとの出会い」を描いたものだけど、でもその物語を通じて説いている大きなテーマというのが――

 宇宙は1つではなく、この瞬間にもたくさんの現実が並行して存在している。そして私たちは、自分自身で作り出した宇宙の中に住んでいる――、ということだ。


 こうした世界観は、過去から色んなマスターなどが語ってきたし、最近のスピリチュアルな教えでもよく強調される。
 でも、この『マラビージャ』の発刊が20年以上も前だから、その時点で大衆向けの小説としてこんなメッセージを語るというのは、やはりこの人は特別な書き手だなと思う。


 この作品で特徴的なのが、作者のエンリケ・バリオス当人が「主人公」として物語の中に登場していることだ。
 そのため、話の中での問いかけや、その答えへの驚きなどが、作者自らの率直な視点で述べられている。

 主人公のエンリケは、天使となって現れたツイン・ソウルの女性に出会い、異空間へと旅をする。
 その旅で彼は、宇宙の本当の姿に気付いて驚く。そして、ガイドをする天使の女性と、こんなやり取りをする――


 「もしかして、宇宙は1つだけではなく、たくさん存在し、僕はいくつもの宇宙で生きられるってこと?」。

 「やった!」と彼女は歓声を上げた。「そう、それよ。私は最初からそのことを言っているのよ。人はみな、一人ひとりが自分の想像しうる世界の中に住んでいるって」。

 「そうなら…、真実とか、真の宇宙、真の神とはいったい何なの?」。

 「まだそんなことを言っているの! たった1つの真実、たった1つの宇宙、たった1つの神なんて存在しないのよ」。

 「ああ、それはだめだ! 多神教なんてだめだ…。たった1つの神が存在しないというのかい?」。

 「もちろん存在しないわ」。
――


 おそらく、ほとんどの日本人が、この「多神教」の個所を読んだときにこう思うだろう。「ええっ…、そんなところで引っかかっちゃうの!?」。
 しかも、エンリケ・バリオスともあろう人が…(ちなみに彼の母国チリは、カトリックの国だ)

 もちろん誰もが、宇宙が1つでないとか、自分自身で作った宇宙の中に住んでいるという認識に至るまでには、多くの常識的な抵抗感があるだろう。
 でもその枢要な一部である、「神」について強固な観念がないという点は、私たち日本人の多少なりのアドバンテージかもしれないですね…。

 本当に、この新しい認識を持つことが、「新しい時代へ入る鍵」になると思っています!



 結びのヒーリング・ミュージックは、Neil H「Secrets of faeries」。

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 私たちがいるこの世界は、「二元性の世界」とよく言われます。

 つまり、自分と他者、善と悪、光と闇、豊かさと貧しさ、幸せと不幸せ――といった、世の中のさまざまなものごとが「相反する2つの極」によって成り立っている。
 この図式が、人々の分離・対立を生み、心の中の葛藤や欠乏感を生じたりする…。

 一見、この2つに区分する見方は、世の中の常識であり、明確で絶対的なもののようにも思えてしまう。
 でも、じっくり改めて考えてみれば、実は現実的な根拠なんて何もないことに気付く。


 例えば「豊かさ」について――
 人の収入や資産額は、ゼロからまさに青天井の人までいる。それは連続的にグラデーション状に分布している。
 では、そのどこからが「豊か」で、どこからが「貧しい」と区分できるか?

 「日本なら、だいたい年収1000万円以上なら豊かでは」と言う人もいるかもしれない。でもその区分は、人生の本質からすれば違っていると思う。


 世の中には、事業の失敗によって数十億円の財産を1億円に減らしてしまい、ピストル自殺する資産家もいる。その人から見れば、年収1000万円なんて「生きるにも値しない所得額」といえる。
 一方で、爪に火をともすようにして借金を何とか完済し、「プラス・マイナス・ゼロ」になったことをこの世の春のように大喜びして、将来の希望に満ちている人もいる。

 さらに確かなことを言えば――、最期の死の床で、「自分は年収○○○万円以上だったから、豊かで素晴らしい人生だった」なんて振り返る人は、誰一人としていないだろう。
 きっとその時点では、金額などかかわりなく「感謝できることがたくさんある人が豊か」なんてふうに思っているのかもしれない…。


 私たちの人生を取り巻く要素というのは、1つの尺度によって単純に二分できる性質のものとは違う。
 でも人は、色んなものごとに絶えず「白黒」を付けて二分し、さらにそこに自分や他者を当てはめて、「自分はこっち側だから不幸せだ」とか「あの人はあっち側だから卑怯で憎らしい」といった見方をしてしまったりもする…。


 もうひとつ別の例で、「パートナーに恵まれる」ことに関してはどうか?
 これは、相手が「いる」か「いない」かだから、何となく二分できそうな感じもする。でも、やはり人の出会いや相性というのも、そんなに単純なものとは違う。

 例えば、「自分の日常には異性と出会う機会がぜんぜんない」と悩んでいる人もいる。また「仕事で多くの人に会うけど、忙しすぎて個人的な会話なんかできない」というケースもある…。
 ほかに、「これまでに何人かと付き合ってきたけど、思わしい相手が1人もいなかった」とか、さらには「パートナーと結婚しているけど、理解し合えるツイン・ソウルとは違う」と嘆く人だって少なくない。
 果たして、こうしたケースのどんなレベルから、「パートナーに恵まれている・いない」を区分できるだろうか…。


 私たちが生きるこの世界とは、境目のない色んなグラデーションが入り交じった「混沌の世界」とも言い表せる。
 ところが多くの人は習慣的に、その混沌の一部分だけに着目し、それに「善・悪」といった価値判断を加えながら、周りの世界をとらえてしまう。

 ものごとを歪曲して見ることを、よく「色メガネをかけて見る」という言い方をする。
 でも実はその「色メガネ」以上に、二元的に白黒付けながらものごとを見てしまう、いわば「白黒メガネ」を私たちはかけているともいえる…。


 この「白黒メガネ」による大きな弊害の1つは、自分の周りの世界を硬直化させてしまうことだと思う――。

 例えば前述のとおり、収入ゼロから大金持ちまでは、「連続的なひとつにつながり」として在る。地球の大地にそもそも国境線がないように、そこには区分線なんかない。

 たとえ現時点では所得が少ない人でも、それはまさに「豊かさへの途上」なのであって、本来は柔軟に移動が可能なはずなのだ。
 現実に、もともと生活保護を受けていた人が、著名な資産家になったというケースは、世界中に少なくない例として実在している。

 ところがそうした世界に対して、「この収入額では貧しい」とか、「お金が少ないのは悪いことだ」「自分は豊かではない」といった白黒を付けてしまうと――、連続したつながりは分断され、そこには越えがたい硬直的な壁を作ってしまう…。
 色んなスピリチュアルな教えが説くように、「私はこのような者である」という思いや感覚は、周りの世界にとてつもない創造力を発揮する。


 私たちに本当に大切なこと――
 それは二元の「白黒メガネ」をはずして、世界に展開する境目のない色彩を見ることでしょう!

 かのマイケル・ジャクソンのたまわく、「ブラックかホワイトかなんて、どうでもいいことさ!」なのです。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Mike Rowland「Magic moment」。

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 前々回前回記事から続く、『喜びから人生を生きる』(アニータ・ムアジャーニ著)の本の紹介です。


 臨死体験をして、そして末期がんが自然治癒したアニータは、多くの人に「プラス思考のお陰で治ったのか」と尋ねられるそうだ。
 しかし彼女は、「プラス思考という考え方には賛成できない」という。また「ネガティブな考えが人生にネガティブなものを引き寄せるという大雑把な説も、必ずしも真実ではない」と言い切る。

 そのような説のせいで、「すでに苦しみを経験している人たちが、一層ひどい思いをしている。つらい時期を過ごしている人たちが、自らその出来事を引き寄せたと思ってしまう。それは全くの偽りだ」と語る。


 人生の状況をもたらすのは、「思考」が原因ではなくて、自分が自分自身について「どう感じているか」に関係していると彼女は説く。
 そして「自分自身に正直でいること」が、ポジティブでいることよりもずっと重要であると強調する――。

 「ある感情をネガティブなものだと判断し、それを否定しようとすれば、本当の自分の一部を抑圧することになります。そうして自分の中に障害を生み出し、自分の素晴らしさを十分に表現できなくなります。
 すべての感情を表現する必要はありませんが、でも、すべてを自分の一部だと受け入れなければいけないのです


 「ネガティブな考え方が忍び込んできたときは、それを批判せずに受け入れ、ただ通り過ぎるのを待てばいいのです。
 感情は、抑圧したり追い出そうとしたりすればするほど、押し返してくるのです。そうではなく、何の判断もせずにただ自分の中を流れるのを許していれば、思考や感情は通り過ぎてきます。
 その結果、正しい道が自然に目の前に開かれ、真の自分でいられるようになるでしょう


 「そのように何の判断もせずに、自分の感情の全波長を受け入れることでのみ、私たちは『無条件の愛』という自分の純粋な本質とつながるのです


 さらに彼女は、スピリチュアルな成長の邪魔者とされる「エゴ」に関しても、単に追い払うのではなく受容することを主張する。

 「もしエゴを否定すれば、それは強く押し返してきます。拒絶すればするほど、生き延びるためにもっと反撃してくるでしょう。
 でも、無条件に自分のエゴを愛し、この人生で自分を表現するための一部だと受け入れることができれば、もはやエゴは問題ではなくなるのです


 「私たちは皆、エゴを持って生まれてきています。それは、この世では本当に自分の一部なのです。死んだときに私たちはエゴから解放されますが、生きている間はエゴと闘うほど、自己批判に苦しむでしょう。
 私たちが自分のエゴを無条件に愛したとき、はじめて他人のエゴも受け入れられるのです。そうすればエゴはもはや問題ではなくなり、あなたの素晴らしさが輝くようになるでしょう



 アニータは、ヒンズー教徒の両親のもとに生まれ、香港で暮らしてブリティッシュ・スクールに入学した。こうした生い立ちから、文化や宗教観についてとても幅広い観点を持っている。

 そして、あの世での自らの体験をふまえた上で、輪廻の概念や、宗教との向き合い方についても本の中で言及している。それは他の臨死体験談にはあまりない、踏み込んだ新しい見方といえる。


 東洋思想のもとに生まれ育った彼女は、まずこう語る――

 「臨死体験の前、私の人生の目的は、至福の境地に達すること、すなわち輪廻転生を超えて進化し、二度と肉体に戻ってこないように努力することでした。また、もしも私が欧米の文化圏で育っていたら、天国へ行けるように努力していたでしょう

 「けれど、臨死体験のあと、私はまったく違うように感じています。この人生が終わった後も生き続けると知っているので、肉体的な死を恐れておらず、そして自分が今いる場所以外のところへ行きたいという願望もなくなりました。死後のことよりも、今この瞬間の素晴らしさにすべての注意を向けようと思っています


 至福の境地、輪廻を超えた進化――。それは東洋の伝統的な宗教でも、最近のスピリチュアルな教えにおいても、私たちの魂が目指すところとされる。
 ところが、そのような魅力的な境地や概念には目もくれず、「今この瞬間の素晴らしさにすべての注意を向けよう」ときっぱり言い切るのは、なかなか新鮮なとらえ方だと思う。

 いわば、この物理的世界のゲームを「あがる」とか別次元に行くのではなくて、ここにいて「楽しむ」ことを目的とするわけだ…。


 アニータはさらに強調する――

 「もし輪廻転生などの概念が、多くの人が信じているようなものでないとしたら。私たちのゴールが、これまで考えていたものとは全く逆だとしたら。つまり天国や極楽とは、死後の世界ではなく、身体を持つ今ここに存在するものだとしたら――、一体どうなるでしょうか?
 天国を体験するのに、死ぬまで待つ必要はありません。私たちの真の素晴らしさは、今ここに存在しているのです


 「私たちの『本当の家』というのは、場所ではなく、ひとつの『在り方』に過ぎないと思うのです。
 今この瞬間、私は我が家にいると感じています。ほかの場所に行きたいという気持ちはありません。ここにいようが、向こう側の世界にいようが、私にとってはまったく違いがないからです。
 それはすべて、無限である素晴らしい自分の異なる側面でしかありません。私たちの『本当の家』は、一人ひとりの内側にあり、私たちが行くところへどこにでも付いて来るのです



 そして、宗教やスピリチュアルの教師について、次のような注意点を挙げている。
 穏やかな言い方でありながらも、これは教える側・学ぶ側の両者に対する実に痛烈な指摘だし、そして何とも明快で気持ちのいい見解だ。

 「もしある宗教において、『神より自分は劣っている』と思うのなら、あなたは誤解をしているか、その宗教が真実をうまく教えていないということです。
 もしグルや教師やマスターが、『あなたはまだ悟っておらず、そこに到達するために学び、解放し、手放す必要がある』と思わせているのなら、彼らはあなたの本当の姿をうまく教えていないか、あるいはあなたが彼らを誤解しているのです
」――


 「あなたのそばにいるすべての人に、ありのままの自分でいることを思い出させてください。そしてその人たちに、ありのままを愛していると言ってあげてください。彼らは完璧であり、あなた自身も完璧なのです。
 ほとんどの苦しみは『劣っている』と感じることから生じています。あなたが学ぶべき唯一のことは、自分が到達したいと思っているものに既になっているということです


 「恐れずに、自分の素晴らしさを思うままに表現してください。それが、あなたがこの世にいる理由です」――



 結びのヒーリング・ミュージックは、Lifescapes「Sailboat in the sky」。
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 前回記事からの続きで、『喜びから人生を生きる』(アニータ・ムアジャーニ著)の本の紹介です。

 末期がんによって死線をさまよい、臨死体験を経てふたたび生き返った主婦のアニータ――。
 彼女はその体験の中で、私たちの本質の信じられないほどの素晴らしさや、生の目的などについて明晰な理解を得る。


 「理解は刻印を押されたようにやって来た」という。それを彼女は本の中で、自分の言葉で説いている。
 メッセージの内容そのものは、色んなスピリチュアル本で述べられているものと、大きな違いはないかもしれない。

 でも、偉大な覚者や、スピリチュアルの世界的リーダー、さらにはチャネリングの本などは、真理を語っているとしても、それらはある意味で「概念的な教え」ともいえる。

 一方でこのアニータのメッセージというのは――、実際に苦悩しながら生きて、いったんはこの世を去り、自らの在り方を悔やみ、真実を理解して、そして例外的に生き直すことになった人物による「生の声」である。


 つまり、私たちにとって――
 すでに「概念的な教え」はたくさん伝えられてきた。それに加えてこの本で、「実体験から見いだされた真実」もこの通りであると示された…
 ではその上で、「あなた自身はどうするのか?」――と、まるで最後通牒を突き付けられているような感じもしてくる。

 その点が、この本ならではの読みごたえではないかなと思う。
 

 前置きが少々長くなってしまったけど、中身の紹介を…。

 アニータは臨死体験によって、私たちの本質は純粋な「愛」であることを知る。人生の中で「ありのままの自分」でいることを恐れる必要など全くなかったことに気付く。
 そして、「自分はまと外れな思い込みのせいで、人生を自ら困難に満ちたつらいものにしてきた」と、痛切に悔やむ。

 彼女の「生きる苦しみ」の根本にあったのは――、幼少期からの経験を通じて、自分を「劣っている」と感じていたことだった。
 そのために、他人の期待通りの自分になれるように懸命に努め、何かあるたびに自分自身を非難し、周りの問題を深刻に受け止め過ぎて、がんじがらめになってしまった。
 そうして、生きる目的や、本当の自分としての在り方を見失ってしまった…。


 アニータは、このようなシンプルすぎる真実を悟る――

 「人生は苦しい闘いなんかじゃなかったんだ。それどころか、思いっきり楽しめば良かったんだ。この世にやって来たのは、人生の素晴らしさを感じ、自分を表現して楽しむためだった。それが分かっていれば、どんなに良かったことか!


 その理解を得た彼女は、瀕死状態にある末期がんの肉体へと再び戻り、医学の常識を超えた「復活」を果たす。

 この本の原タイトルは「Dying to be me」で、内容から意訳すれば、「死の経験によって、本当の自分の在り方になれた」という感じだろうか。
 彼女が経験的に悟ったこと――、それは自分の在り方、つまり自分が自分自身のことを「どう感じているか」が、外側の宇宙全体に影響を及ぼしているということだ。

 アニータは語る――
 「もし私が幸せなら、宇宙も幸せです。私が自分を愛していれば、他の皆も私を愛するでしょう。私が平和なら、すべての創造物が平和なのです


 そして、外側の現実世界に対して何か努力しなくてはならないという見方は、全くの誤りだという。
 それによって、「外側の出来事に、自分の気分も、思考も、行いも支配されて、人生の創造者でなくて被害者になってしまう」と指摘する。

 「状況が困難に思えたら、それを物理的に変えようとするのではなく、自分の内側を調べるようになりました。ストレスや不安、みじめさを感じたら、内側に入ってその感情と向き合うのです。
 気持ちが落ち着き、自分の中心を感じられるまで、ひとりで座ったり、自然の中を歩いたり、音楽を聴いたりする。そうすると外側の世界も変わり始めて、何もしなくても障害が消えていくことに気付きました



 外側に起こっているように見えるあらゆることは、「真の自分を思い出すため」に起こっているのだとアニータは語る。
 そしてその答えは、自分自身の中に存在しているものなのだ。

 しかし私たちはいつも、答えを得るために本を読んだり、他者の教えを求めたりしてしまう…。
 「それは、真実がどこか別の所に、とらえどころのない形で存在すると思ってしまっているからです。そのためにますます道に迷い、本当の自分から離れていくことになります


 さらには、人生の中で自分がすべきことを探す必要もなく、何事も自然の展開に任せていれば良いということにも気付いたという。

 「実現するために何かをしなければならないとか、追い求める必要があるとは思わなくなりました。恐れることなく、ただ自分でありさえすればいい。
 そうしていれば、愛の道具となり、自分自身や世界に最善のことができると分かったのです
」――


 さらにアニータは、輪廻や宗教についても言及している。これは臨死体験談の中でも、踏み込んだ新しい見方と言えるだろう。
 その内容は、また次回に――。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Juliana「Indigo eyes」。

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 スピリチュアル関連本は色々と読むけど、「これはなかなかすごいぞっ!」と思わされるものは、年に1~2冊あるかないか…、くらいでしょう。

 今年の場合、その1つが『“それ”は在る』(ヘルメス・J・シャンブ著)で、あまりに良い評判ばかり目にするので買ってみたら、本当に見事な内容だった。

 そして最近もう1つ――、こちらは特に何も知らずに手にしたのだけど、『喜びから人生を生きる』(アニータ・ムアジャーニ著)が、際立つほどの素晴らしいメッセージを擁した1冊だった。


 内容はいわゆる「臨死体験」で、著者のアニータは、インド系の香港暮らしの主婦。
 彼女は若くして末期のがんを患った。4年にわたる治療・闘病のかいなく全身ががんでむしばまれ、とうとう臓器が機能停止して昏睡状態に陥った――。そしてこのとき、超常的な臨死体験をする。

 体験そのものは、世界中で多く報告されている臨死体験の事例とほぼ同様である。
 自分の肉体から離脱し、至福の光に包まれ、向こう側の世界で故人と再会し、宇宙の叡智や無条件の愛とひとつになって満たされ――、というものだ。


 このときアニータは、自らの本質のあまりの素晴らしさに感嘆する。同時に、自分がこの真実に気づくことなく、ずっと卑小な生き方をしてきたことを、心から悔いる…。

 本の前半に自身の生い立ちがまとめてあるのだが、そこには父親との確執や、幼少期に負った心の傷、取り返すことのできない人生の判断ミス、自己に対する否定・非難など――、多くの人にも共通する痛みや苦悩が凝縮されている。

 生きているときの自分の「在り方」について、彼女は臨死体験中にこんな言葉で振り返っている。

 「どうして自分にあんなに厳しかったのだろうか? どうして自分を責めてばかりいたんだろう? なぜ自分を見捨ててしまったの? どうして立ち上がって自分の魂の美しさを皆に示そうとしなかったのだろう?
 どうしていつも他人を喜ばせるために、自分の知性や創造性を抑圧ばかりしていたんだろう? 本当はノーと言いたいのにイエスと言って、自分を裏切ってばかりいた。どうしてありのままの自分でいる許可を、いつも他人に求めていたのだろう? なぜ自分の美しい心に従って、自分の真実を語ろうとしなかったのだろうか?」――


 何だか身に詰まされますよね。
 きっと僕も、そして多くの人も、死んだときにこれと同じことを痛切に後悔するに違いない…。


 彼女は、そのまま死の境界線を越えて行くかどうかを迷った。
 しかし、あらゆる「恐れ」が消え去った意識の中で、再び末期がんの体の中に戻るという決心をする。

 すると、奇跡的な治癒が起こった――
 臓器が機能を取り戻し、アニータは30時間の昏睡から目覚めた。
 そして数日後、何とがんが1つも残らず消えてしまった!
 瀕死状態で病院に運ばれてから、わずか5週間後に彼女は退院する。


 こんな治り方は異例中の異例だったため、香港の主治医による詳細な検査に加え、アメリカのがん専門医による調査レポートもまとめられた。

 そのレポートも本に載っていて、以下のように結ばれている――。
 「彼女の劇的な回復は、抗がん剤治療によるものとは考えられない。非物質的な何かが、がん細胞の遺伝子が現れるスイッチを切ったと推測される。正確なメカニズムは私たちには未知のままである」と…。
 医師が、検証のさじを投げてしまったわけだ。


 さらにもう1つ、それ以上ともいえる大きな奇跡がある――。

 多くの臨死体験では、魂の次元の崇高さや、ワンネスで満たされた感覚の素晴らしさなどは色々と描写している。
 しかし、そこで得られた「理解」については、ほとんど言葉の形で持ち帰られていない…。

 たぶんその理由は、臨死体験の中ではあらゆる真実を「直感」によって知ることができてしまうからだろう。
 私たちの生の意味や、宇宙のメカニズムなどについて、多くの体験者は「あの時はすべてが分かった」と語っている。
 でもそれを、この世の言語で再現して説明することは、ほぼ不可能なのだ…。


 ところがアニータは、臨死体験の中で得られた明晰な理解を持ち帰り、それを本の中で記しているのだ。
 その内容は(色んなスピリチュアルな教えの繰り返しではあるが)、私たちにとって本当に「癒しのメッセージ」となる。

 そのメッセージについては、また後日のブログ記事でまとめてみたいと思います!


 で、この本は相当なものだぞ…と思ってamazonを見たら、高評価であるものの、カスタマーレビューの件数はわずか5件だった。

 一方でアメリカのamazonで原書の評価を見てみたところ、何と800以上ものレビューが寄せられている。
 近い本でいうと、ブライアン・L・ワイス『前世療法』や、ジル・ボルト・テイラー『奇跡の脳』の原書のレビュー数がいずれも700台だから、それを上回るインパクトといえる。

 やっぱり、並みの本じゃない…。


 結びのヒーリングミュージックは、Parijat「Golden Light」。
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 宇宙船「地球号」という言い方って、よくしますよね。

 この地球を、70億人が乗って宇宙を航行する船に見立てて、「限りある自然環境や平和を大切にしなくてはならない」――、といった考え方だ。

 もちろんこれは、大切な観点のひとつである。
 ただ、スピリチュアルな視座からあえて言うと――、宇宙を旅する「わたし」とは、巨大な船の大勢の乗客の中にいる、ちっぽけな1人ではないということだ。


 誰にとっても「わたし」というのは、決して他に取って代わることのできない、一人称の絶対的な「主体」である。
 いてもいなくても分からないような存在の自分が、たまたま乗客として旅をしているのとは違う。

 私たちの旅とは――、1人ひとりが「わたし」という船に乗って、物理的次元の宇宙なり人生の中を航行している、といえる。
 だから、そうした観点でとらえれば――、宇宙船「わたし号」と呼ぶほうがふさわしいかもしれない。


 ただその見方でも、まだうまくとらえ切れていない…。
 なぜなら、壮大な宇宙の中に含まれる小さな一部分として、「わたし」が存在しているわけではないからだ。

 こう言うと常識的には荒唐無稽な話になってしまうかもしれないけど――、さまざまな覚者が説く究極的な真実とは、「この宇宙全体が『わたし』である」ということだ。

 自分の内面から、遙遠たる宇宙の果てまで、その時空のすべてが実は「わたし」そのもの、というわけだ――。
 つまり私たちは、「わたし」という自らの宇宙の中を旅している。
 そんな、どんな英知でもとらえら切れないような不条理なことを、私たちはあえてしている…。

 何のために?
 その目的は、「わたし」を知るためだ。


 ただし、宇宙を旅して遠い銀河のガス惑星などを探索したとしても、「わたし」の本質をうまく見いだせるわけではない。
 広大無辺な宇宙の中で、「わたし」の本質に出会えるピンポイントな最適地とは――。
 それが、まさにいま自分がいる所。肉体ボディーをまとって、さまざまな関係性や状況に取り囲まれた、「ここ」である。


 では、物理的な乗り物の本体であるこの「肉体ボディー」はどういうものかといえば――。それは、いわば「レンタカー」だ。

 物理的な体はもちろん、その中に装備されている人格も、知識も、思考も、感情も、自分の所有物ではない。
 社会的な役割も、人生の境遇も、過去の経験も、心の苦しみも、病気やハンディなども、いっさい自分のものとは違う。
 それらはすべて、一時的な「借り物」に過ぎない。

 旅先のレンタカー営業所で最適な車種やオプションを選ぶように、「わたし」を知る目的にいちばん適した体や性格や境遇などを選んだうえで、私たちは自らの宇宙をこうして旅している。
 そして、ひとつの旅が終わったら、乗っていたレンタカーは営業所に返すことになる――。


 借り物の宇宙船に乗って、あなたはどんな「わたし」を感じていますか?…

 私たちは生涯の中で、自分や他の人々について本当に多様なことを感じ取ってている。
 その中で、果たして何が「わたし」の本質であるのか? どんな在り方を自ら選ぶのか?――

 それが、途方もないスケールの時空を使って「わたし」がしている、宇宙の旅といえます。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Hilary Stagg「Reflections of love」。

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 お盆の時期なので、亡くなった祖父母の話をしますね――。

 僕の祖父母は、父方・母方ともに、90歳以上まで元気に生きた。祖父母の4人がそろってそこまで長生きしたケースって、けっこう珍しいほうだと思う。


 もちろん長寿であるのは有り難いことだけど、その半面というか…、実家で同居していた父方の祖母は「認知症(当時の言い方で痴呆)」がひどかった。
 もともとはとても静かな性格だったのに(そうしたケースは多いらしいけど)、80代後半になって、どういうわけか怒りや憎しみに取り付かれたように、大声で叫び続けるようになった。

 それも、「オォォーーーッ!!」とか「ワァァーーーッ!!」とか、言葉にならないわめき声を、昼夜を問わず力の限りに張り上げる。
 老いた小さな体のどこに、こんなエネルギーが潜在しているのかと驚くほどだ。それは直視したくないほど、ひどくおぞましい状況だった…。

 ほとんどの人が、「自分はボケるくらいなら、とっとと死にたい」とよく言うけど、身近で見た立場からもその考えはすごく納得できる。


 当時、家から変な声がするだけでも非常に近所迷惑だった。でも家族としては「もう先は長くないから、最期は何とか家の畳の上で…」と考えて、その状態のまま実に3年くらい一緒に暮らしていた。
 しかし、お隣の玄関先で祖母が排便をしてしまい(ものすごく苦情を言われた)、結局は介護施設に入れることになった。
 そしてその翌年、まさに天寿をまっとうして他界した。

 今も、「あの時のおばあちゃんはホント大変だったね」と家族同士で笑って軽く話せないくらい、なかなか重い経験だった。
 ただ最近になって、僕が祖母のことを振り返って思うのは、「あれは『浄化』だったのではないか」――ということだ。


 ややマニアックな話になるけど、インドの神秘家のOSHOが考案した「ダイナミック瞑想」という技法がある。
 これはまず、自分の中に普段から鬱積しているエネルギーを爆発させ、思いっきり叫んだり全身で暴れたりする。そうした後に、ピタッと静止して瞑想する、というものだ。

 爆発させることで、瞑想の妨げとなる感情や想念がきれいに浄化され、澄みきった「空」の状態へと入っていける――。
 祖母が認知症になってやっていたのは、実はそういうことだったのではないかな…。


 祖母が大声で叫びながら浄化したものとは――、もちろん自分自身の人生の中で蓄積した怒りなどもあるだろう。でも実はそれ以上に、個人には直接かかわりのない、いわゆる「人類の共有意識」だったのではないかな、と思う。

 その「人類の共有意識」とは、過去の人々が生み出して残していった感情エネルギーなどで、この世界のあちこちをフワフワと漂っている。
 そして生きてる人に、幽霊のように憑依する――。

 取り付かれた人は、なぜか不安になったり、怒りっぽくなったりする。
 でも多くの人はそれを抱えながらも、色々な日常活動の中で対処しながら、何とか取りつくろって生きていく。

 ところが、取りつくろってしまうことで感情エネルギーは浄化されず、むしろ抑圧によって増幅されてしまうこともある。
 そして、その人が亡くなるとき――、感情エネルギーは誰のものでもない「人類の共有意識」としてこの世に残され、再び地上をさまよい続ける。
 やがて、そうした過去の痛々しいエネルギーが世の中に満ちあふれ、それが世界を動かすようになってしまう…、というものだ。


 一方で認知症の高齢者の場合、取り付かれて湧き上がった感情を、行動によって取りつくろうことなんかできない。
 だから片っ端から叫び声をあげて、浄化していくしかない。
 それが、あの祖母の状態だったのだろうと、いま考えている。

 そうだとすれば――
 はた目にはおぞましいし、家族はたまったものじゃないけど、人類全体にとってはまさに崇高な役目だったのではないだろうか。
 イエスは人々の罪を清めるために十字架にかかったといわれるが、それに近い図式ともいえる。

 たぶん、玄関先で排便をされたお隣の奥さん(すでに亡くなっている)ともあの世で手を取り合い、「本当にきれいに浄化されましたね!」と一緒に喜んでいるかもしれない…。


 これから先、僕も両親の介護が必要になるかも知れないし、また自分自身も将来どうなるか分からない。
 でも、無意味で不毛のようにも思えてしまうその状態に、世界や魂にとっての価値があるのならば、向き合い方も少しは変わってくるのではとも思う――。


 で、気を取り直す意味で、今度は祖父の話を。

 祖父の方は、90歳を超えても体も頭もしっかりしていた。
 毎朝、風呂場で体をきれいにふいてから、新聞を読むのが長年の日課だった。

 ある朝、そうして体をふいた後、「今日は何かしんどいから、またちょっと横になるわ」(関西弁)と言って再び布団に入り、そのまま静かに息を引き取った――。


 これって、かなり「理想的な死に方」とも呼べますよね。
 両親も、そして僕自身も、できればそのような最期を迎えたいと思っている。
 ただ、誰もが当たり前のように望むけど、元気に長生きしてコロッと逝ける人って、現実には数%にも満たないらしいです…。


 結びのヒーリング・ミュージックは、John Serrie「It came upon a midnight clear」。

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 先々週、江戸川の花火大会に行ってきました。
 花火の見事さもさることながら、ものすごいのはその人出で、実に100万人以上に上る…。

 有名な「隅田川」の花火大会は、ビルなどが建ち並ぶ街中から眺める感じだ。一方でこの「江戸川」のほうは、広大な河川敷が会場なので、その100万人もの人出を一望することができる。


 「100万人」って口では軽く言えるけど、実際に目にしてみると、それはおおよそ現実離れした光景だ。
 夕闇の空の下に、大地を埋め尽くす無数の人の波が、はるか地平の彼方までずーっと続いている…。

 観客であふれ返る満員の甲子園球場が5万人だから、それを20個並べたような状況だ。
 これほどの人数をいっぺんに見渡せる場って、たぶん世界的にもなかなかないんじゃないかなと思う。


 で、きょう8月15日は終戦記念日だ。
 第二次世界大戦による日本の死亡者数は、実に300万人以上にのぼる。

 あの、地平まで続く100万人の人出の何と3倍!…
 それだけの命が、人と人との争いによって奪われたという事実は、本当に想像を絶する。

 比べるのは不適切かもしれないけど、東日本大震災の犠牲者数は約2万人だ。あの地獄絵のような大津波さえもけた違いに超えてしまうなんて、戦争の破壊力というのは信じられなほど巨大である…。


 ちなみに、ドイツの戦死者数は、日本より多い500万人。
 国別で最も多いのがソ連で、2000万人が戦死した。次いで中国が1000万人に上る。
 それだけの数の人がもし集まったとしたら、どんなふうに見えるものなのか、イメージしようとしても、思考が止まってしまう…。

 人間の力というのは、人間が想像できる範囲をはるかに超えてしまうほどの大きさといえる。
 正の方向へも負の方向へも、それほどの途方もないパワーと可能性を、私たちには今も見えない形で持っている。


 花火大会の話に戻るけど、さらにすごいなと感じたのは、その帰り道。何しろ100万人もの人数が、最寄りの2~3しかない駅に一気に集中する。

 ところが、すさまじく混み合うものの、特に大混乱もなく電車は運行し、人々はそれぞれの家路に就いていく。
 これはこれで、かなり驚異的なことじゃないかな――。

 旧約聖書の中で、預言者モーセは60万人のイスラエルの民を率いて、エジプトを脱して紅海を渡った。それに近いとまでは言わないけど、「多少それに類する」くらいのことはあるのではないかなと思う…。


 もっと言えば、東京圏では毎日1000万人が電車などで通勤・通学している。
 あの、大地を埋め尽くすような100万人の人出の、実に10倍もの人々が、毎日毎日ほぼ問題なく大移動しているわけだ。

 そんなのは日常の当たり前と言われるかもしれないけど、考えようによっては、想像を超えたスケールの奇跡みたいにも思えてくる…


 結びのヒーリング・ミュージックは、Medwyn Goodall「Future Written」。

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 そう言われてみると納得かもしれないけど、日本は世界一「姓の種類が多い国」だそうです(アメリカなど移民国は除いて)

 その数は29万種類。次いで多いとされるフィンランドが3万だから、もうダントツの多さだ。
 また中国は3000種類、韓国が300だから、これは近隣国の中でも日本だけの特異性といえる。


 姓が多様だから、名のほうもまた多様だ。
 日本人の場合、ひと世代違うだけで、名前がコロッと変わってしまう。現在の母親の世代なら、「子」が付く名前が一般的だけど、若い女の子の名前にはもう滅多にない。

 男の子の名前も同様で、祖父と父親と子の世代とでは、名前のタイプがまるで違ってくる(自分と同世代に多い「マサル」「ツヨシ」「タケシ」といった男の子の名もほとんど聞かなくなった…)。先代からの名を受け継いでいく西洋文化では、これだけの変わりようは考えられないことかもしれない。
 首相も苦言を呈する近ごろのキラキラ・ネームは僕もどうかと思うけど、変化傾向そのものはこの先も止まらないだろう…。

  
 さらに大きなことを言えば、神様についても、日本はものすごく多様な「八百万(やおよろず)の神」だ。
 それが基盤にあるためなのか、現代のポケモンなどのアニメや、特撮ヒーローものの怪獣・怪人などは、登場キャラクターがやたらと多い。
 ちなみに、ギネスブックが認定する「世界で最もキャラクターが多いアニメ」はアンパンマンで、その数は何と1800!!


 日本の社会って、職場内の意見とかではあまり多様性を受け入れないし、出る杭は打たれる。
 一方で、もっとより大きなこと――、例えば「宗教観」とか「政治的信条」とかになると、なぜかほとんどこだわりがない。世界に類がないくらい、多様な在り方を認める…。

 さらに言えば日本の社会は、古い村社会のように、旧来のしきたりや仕組みを変えることには抵抗感が根強い。
 だけど、いざ天地が引っくり返るような大変革に際しては――、これも世界に類がないくらい、皆が横並びで過去を捨てて変化してしまう。明治維新もそうだし、終戦後もそうだ。


 こうした、大きなものごとでの多様性を認めることや、劇的な変化にも適応できる国民性って、スピリチュアルなシフトにすごく向いた性質とも言える…。

 日本が世界の先導役になるかどうかなんてことは、もちろん分からない。
 でも私たち自身にとって、「魂の道」に関心を持ちながら、この時代のこの日本に生きていることには、それなりの意味はあるだろうな…、というふうに感じます。


 結びのヒーリング・ミュージックは、Kavin Hoo「Angels in our midst」。

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 「生か、死か、それが問題だ」――。これは、シェークスピアの復讐劇「ハムレット」にあるとても有名なせりふです。

 もとの英語は「To be or not to be, that is the question」で、訳や解釈には色んなバリエーションがある。
 「世に在るか、在らぬべきか、それが問題だ」とか、「(復讐)すべきか、しないか、それが問題だ」とか…。

 幸いにも私たちにとっては、自分の生死や存在まで問わなければならない状況というのは、そんな滅多にない。
 でも、何らかの行動を「すべきか、しないか」という問題には、人生の要所要所でしょっちゅう直面する――。


 日本では全般的に、20年前くらいまでは、明らかに「行動すべき」というモードにあった。壁に突き当たったら、とにかく努力して行動することで道を切り開け!…、みたいな。

 でも、経済成長が低調になり、社会的にも鬱を患うサラリーマンや若者の引きこもりなども増える中で、今では完全にモードが切り替わったように思う。
 こう言うと何だけど、国の象徴である天皇家でもそうした問題を抱えているわけだから、「日本はそのような時代にある」と見ていいんじゃないかな…。


 もちろん、外に出て行動して活躍することだけが、進化の道ではない。
 起こるものごとを受容することや、自分の内にある余計なものを手放すこと、明け渡すこと、信じてゆだねること――。こうした道は、行動よりもむしろ「しない」ことによって開かれていくものだといえる。

 あえて言えば、今の日本はこれまでと違う「新しい進化の道筋」にいるのだと思う。きっと、世界に先駆けて…。


 だから、あくせく行動するよりも、むしろ「じっとしている」という選択が、これからもっともっと大事になっていくのではないかと思う。社会的には、あまり推奨されることではないかも知れないけど…。

 でも、人を行動にかき立てる動機は、身の回りにあふれている。
 中には唐突な災難や、感情を揺さぶるトラブルもある。また逆に、目ぼしい展開が何も起こらなくて、このままで良いのかと不安に包まれることもある。
 そうした状況もすべて、抵抗・否定することなく受け入れていくしかないのだろうと、僕自身は考えている。

 もし対応するための何か行動が必要な場合は、それがおのずと現れてくるはずだ。そうでない場合、あえて行動しないで「受け入れること」「明け渡すこと」が、与えられた道になるのだろうと思う――。


 僕自身が最も大きな影響を受けたスピリチュアル本を1つ挙げるとすれば、それは『恩寵の扉が開くまで』(フーマン・エマミ/天野清貴著)だ。著者の天野氏が、10年ほど前にハワイに住む覚者のフーマンに受けた個人セッションの記録で、全部で3部作になっている。
 「ハート」や「恩寵」といった、これまでの自分自身に縁遠かった意識に目覚めさせてくれたのが、この本だ。
 
 その中で印象深いメッセージが、「自分の中にあるやり手の部分を手放して、ただリラックスして漂いなさい」ということ。
 フーマンは、このリラックスして明け渡す意識を持つことについて、次のように語っている。

 「それは何世代にもわたった探究のすえに、ようやく与えられた贈り物だ。この贈り物を、あなたの中の神聖な場所にキープし続ける必要がある。(中略)
 ただ手放しなさい。ただすべてを明け渡しなさい。
 今は、神へ、真実のあなたへ、命そのものへ、存在へ、完全に明け渡すときだ。
 何に対しても、抵抗したり無理強いしてはいけない。ものごとを無理に起こそうとしないことだ」――


 リラックスして明け渡すという在り方――、その感覚が確かなものになりつつある人は、最近増えていると思う。
 しかもそれが「何世代にもわたったすえに与えられた贈り物」だとすれば、本当にとてつもなく重要なものですよね!
 それほどの贈り物を、焦って動くことで、台無しにしてしまいたくはない…。


 この「じっとして受け入れる」ことの意味を、全く逆説的に強調したものもある。

 「ヒトラー最期の12日間」という映画を見たとき、こんな台詞が印象に残った――。
 ベルリン陥落がいよいよ間近に迫る中、ヒトラーは怒りと妄想にかられ、無茶苦茶な指令を次々に打ち出す。
 それに戸惑う軍幹部たちに対し、ヒトラーは大声でどなり付ける。

 「私に、マニ車を回すチベット僧のようにじっとしていろと言うのかっ!!」

 マニ車というのは、チベットの仏教徒が手に持ってクルクル回す、まるで赤ん坊のおもちゃみたいな円筒形の仏具のことだ。


 このヒトラーの台詞は、あらゆる人の内にも共通する、窮地に立ったときのエゴの叫びではないだろうか。
 それは大きな声で強く主張してくる。「状況を打開するために、無理にでも行動しなくては!」と…。

 でも、いいんです! マニ車を回すチベット僧のようにしていれば――
 自分の内側に、陥落を目前にしたヒトラーの声が聞こえてきたら、きっぱりそう言い返してやりましょうね。



 今回の結びのヒーリング・ミュージックは、Merlins Magic「Celestial Harmony」。

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 僕はもともとウォーキングを日常的な運動にしていて、週に1回まとめて20~30kmをガシガシ歩いていました。
 でも半年前からちょっと方針転換して、毎朝4kmほどランニングをしている。

 ところが最近、ランニングならではの弊害として、膝が痛むようになってきた…。
 どうやら調べてみたところ、一般に「ランナーズ・ニー」と呼ばれる「腸脛靭帯摩擦症候群」というものらしい。

 これは、走るときに脚を曲げ伸ばしするたびに、ももの靭帯が骨のでっぱりにこすれて炎症を起こす、というものだ。

 ふつうに走っているだけなのに、そうしたいわば「構造上の不具合」から痛みを引き起こすなんて、実に困ったものだ。人間だからまだいいものの、もしチーターとかインパラとかだったら命にかかわる欠陥といえる。
 工業製品ならばメーカーに電話して、苦情のひとことでも伝えたいくらいくらいだ。


 人間の体にはこうした、「二足歩行」のために生じた弊害って、色々ある。「腰痛」もそうだし、「立ちくらみ」もそうだ。

 中でも最大級のものは、出産に伴う「生みの苦しみ」だろう。
 安産祈願で有名な東京・水天宮には犬の像が置かれているように、四足歩行の動物の場合は、人間に比べ格段にお産が軽い。

 生まれて来る赤ちゃんの方もすごく大変で、狭い産道の中を、大きな脳が入った頭で通り抜けなくてはならない。
 そのため赤ちゃんは、頭蓋骨が接合されてない状態で、頭部をグニャグニャ変形させながら生まれ出てくる…。すごいことですよね。


 熱帯雨林や深海などには、ものすごく奇妙キテレツな姿をした生き物がいる。長い棒の先に目が付いたような昆虫や、体の半分が口という魚とか…。
 「そんな変な形だと暮らしにくいだろう」と思えるけど、でも彼らは非常に活発に動いたり、飛んだり、捕食したりしている。
 実はそうした生き物よりも、われわれ人間の体のほうが色々と不都合が多いのかも知れない…。

 かなりオカルト的な説で、人間の体は、地球上の「霊長類」と「爬虫類型宇宙人」との掛け合わせによって作られた、なんていう話もある。
 でも本当にそうした無理やりな合成で、多少のアラは無視しながら作ったという考え方も、あながち否定できないような気もしてくる…。

 そんな、いくらかの不都合も伴うボディーに乗って、魂はこの地球でどんな経験をしたいのでしょうね?



 結びのヒーリング・ミュージックは、2002「Sea of Dreams」。


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 世の中には色んなスマートフォン向けアプリがあるもので、夏のこの時期に、「蚊よけ」のアプリをダウンロードしてみました。
 これは、人には聞こえない「高周波音(モスキート音)」を鳴らすもので、蚊はこの音が嫌いなため近寄って来ないという。(アプリの効果は気休め程度らしいが…)

 それを家の中で使っていたら、高校生の息子が、「何なのこの変な音! うわぁー、やめてー!!」と苦悶するように耳を押さえた。
 そうだった…。高周波音というのは、若者の聴覚なら聞き取れてしまうのだ。40代の僕には全く何も聞こえないのだけど。
 公園などで深夜、たむろして騒ぐ若者を退散させるために、この音をスピーカーで流しているところもあるそうだ。


 こうした生理的な違いを目の当たりにすると、自分の「脳機能」が加齢とともに着実に衰えつつあることを、今さらながら実感させられる…。
 日常的にも、頭の回転や記憶へのアクセスが、若いころのスピーディーさを明らかに失ってきているのが分かる。たいして不自由を感じるほどではないにせよ、人の名前くらいはもっと瞬間的に出て来てほしいものだ。

 要は、「寄る年波には勝てない」ということですね。


 でも、もし神が現れて、「お前が若かったころに戻してやろうか」と問われたとしたら――、僕は「いや、結構です。今のままがいいです」と、ためらうことなく答えるだろう。

 若い時は若い時で、苦労や不安がもっと色々あったと思う。
 思春期のホルモンの関係なのか、感情や精神面は今ほど安定的ではなかった。より有利な将来をめざして、若い頭とエネルギーを駆使しながら、何かと絶え間ない努力が求められた。

 もちろんプロセスとしてはそれで良かったが、そうした若いうちの苦労は「もう十分です…」という感じだ。またイチから学校に通って、就職して、新入社員をやり直すなんて考えると、本当に気が遠くなってしまう。
 ストレスからタバコを吸って、20年後につらい思いをしながら禁煙する経験も、もう金輪際ごめんだ。


 最近、「寄る年波」というのは、そんなに悪いものではないな、なんてふうに感じている。
 頭の回転が以前ほどスピーディーでなくなったことで、周りの出来事に強迫的な自助努力で対応しようという姿勢は、本当になくなってきた。

 自分が聞きたくないような話は、まるでモスキート音にように、わざわざ耳をふさがなくてもなぜか聞こえてこなくなった。
 それが耳に入ったところで、我慢できないほどの不快感もわいてこない。

 同様に、わざわざ目を覆わなくても、特に見たくもないものは目に飛び込んではこない。口を押えなくても、言いたくない言葉が口を突いて出てくることもない。
 日光東照宮にある「見ざる聞かざる言わざる」を、ハンズ・フリーで自然にやっているみたいな感じだ――。


 「それは単に鈍くなっただけじゃないの」なんて言われそうだけど、でもとても快適で「生きやすい」状況であることは確かである。
 「寄る年波」もまた、大いなる宇宙を運行する力がもたらすものなのでしょうね。



 結びのヒーリング・ミュージックはBliss 「Silence」。

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 以前のブログ記事でパウロ・コエーリョ作『アルケミスト』の物語について触れたけど、それから少し気になって、コエーリョのインタビューをまとめた『巡礼者の告白』という本を読んでみました。

 インタビューの冒頭の質問は、当然のことながら「前兆」についてである。
 前兆というのは、彼の作品の中で最も象徴的な言葉で、いわば「運命を展開させるためのインスピレーション」のこと。人によって例えば「天使からのメッセージ」とか「虫の知らせ」といった呼び方もするだろう。

 そうした前兆の現実的な生かし方について、コエーリョはインタビューで以下のように答えている。
 (適宜省略して書きますね)


 ――前兆をいかに読み取り、自らの人生に生かしていくかは、あなたの著書に繰り返し出てくるテーマです。どんな時にそれが本当の前兆だと考えられますか? すべての出来事を前兆だと決めつけるのも何だと思いますが…。

 コエーリョ 確かにあなたの言うとおりだ。何でもかんでも前兆と見なしていたら、しまいには妄想症になりかねない。ギャラクシーという名前のタバコを見たら、銀河について考えなければ、なんてことになってしまうだろう。そんなことはないんだ。
 前兆というのは、ある種の「言語」だ。宇宙の魂とか神、あるいは自分の呼びたいように呼べばいいけど、そういった大いなる存在と対話するために展開されるアルファベットだと、私は考えている。それはアルファベットと同様に1個1個ばらばらで、間違えながら覚えていくものだ。

 
 ――自分に都合の良い前兆だけ見たり、本来進むべき道から外れてしまったりする危険があると思いませんか?

 コエーリョ いや、その危険はないよ。
 最初のうちはほとんどどれも前兆だとは考えられないのだが、次第に本当にそうだろうかと自分を疑うようになる。その後、すべてが前兆のように感じられる時期を経て、最終的には探さなくても何度も前兆が現れるようになる。…その時、現実のはるか彼方にある「言語」の前に、自分がいることに気がつくんだ。


 ――でももし判断を誤って、間違った前兆の痕跡を追っていたら、どうなってしまうのでしょうか? それが自分を害することはないのでしょうか?

 コエーリョ  ある前兆に従って、それが最終的に違っていたことが分かって道を誤っても、危険だとは思わない。私が、スピリチュアルな探究において最大の危険だと考えているのは、グルや偽りの師、原理主義といったものだ。
 例えば誰かが他の人々のところに行って、「神というものはこれこれこういうもので、私の神の方があなたの神よりもずっと偉大だ」なんて言うから戦争が始まる。
 そのような争いを避ける唯一の方法は、精神性の探究とは個々の責任であり、他人任せにはできないことを認識することだ。他人に運命を決められるよりは、自分を導いてくれていると信じた前兆に従って間違える方がはるかにいい。


 ちなみにコエーリョ自身はカトリックの信者だ。それでも、「教義や他者が示すものよりも、自分のインスピレーションを信じなさい」といった主張は、ものすごくはっきりしていますよね。

 さらには、自身の著書のメッセージについても、同じ観点で述べている。

 ――素晴らしい話とは思いますが、そのようなあなたのメッセージに従って失敗した人もいると考えたことはありませんか?

 コエーリョ あるよ。何しろ私自身がそうだったから。

 ――冗談でしょ。

 コエーリョ いや、冗談ではないんだ。実際、私は誰にもメッセージを送っていない。作品の中では、自分の人生で起こったことだけを語るにとどめている。それは私の身に起こったことであって、あなたも私と同じようにしなさいとは付け加えていない。
 私の悲惨な経験や過ち、そしてどうやってそれらの苦境から脱したかは書いているけど、それが万人の解決策になるとは言っていない。だって、それぞれの人生は異なる個々のものだ。誰一人として同じではない。

 
 最近のスピリチャルな教えでも、私たちは同じ現実を共有しながらも、実は「1人ひとりが異なる宇宙に生きている」なんてふうにもよく言われる。
 ある人の宇宙で正解だったことが、自分の宇宙でも同じことが正解であるとは限らない…。

 コエーリョも述べているこうしたポイントは、かなり大事じゃないかな。


 スピリチュアル分野の本には、幸せに成功するための法則や、未来への予言などが色々と書かれている。
 でも、そうした本の中に「これは私の宇宙の中での法則であって、あなたの宇宙でも同じかどうかは分かりません」とか、「私の宇宙の未来はそのように予言できるけど、あなたの宇宙では違うでしょう」なんて記述はまずない(そんな曖昧な内容の本は誰も買わないだろうし…)

 読み手が本当に心得るべき「大前提」とは、そういうことではないだろうか。
 つまり、私たちは究極的にはワンネスだし、互いに共感したりシェアすることはとても大切だけれども――、しかし、それぞれの人生や宇宙、進化に至る道、そして導きはあくまでも「個別的なものである」ということだ。

 その前提の上で、1人ひとりのために訪れてくる前兆を受け取り、生かしていく――。
 これが前兆と向き合う、大切な姿勢なのだろうなと思います。



 結びのヒーリング・ミュージックはLifescapes「Pure Relaxation Part3」。

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 いきなりですが、「神様クイズ」です。

 あなたが神であるとします――。
 永遠不滅で広大無辺な、大いなるひとつの存在です。
 ただし、あなたがいるのは天地を創造する以前の状態で、あなたのほかには全く何も存在していないとします。宇宙も時間も、一切ない。

 神であるあなたは、万能のパワーと、あらゆる叡智を持っています。
 一方、「経験」というものはゼロです(何しろ経験が可能な世界がなく、他者もいないわけですから)。
 つまりあなた自身は輝くような「愛そのもの」であるのに、愛する相手がいなければ、愛したり愛されたりする経験もない…。

 こうした中で、神であるあなたはどうしますか?――

 1) そのままでいる
 2) 経験できる世界を創造する


 ほとんどの人は「2」を選ぶだろう。
 また「1」だという人でも、時間のない永遠の中にずーっといたとしたら――、「ちょっとは経験というものをしてみようかな…」という考えが浮かぶ可能性は、否定できないだろう。

 そうした、ごく自然な気持ちこそが、いま私たちがこの世界にいる真意なのだろうと思う。
 ときどき、「なぜ神(あるいは真の私)がこの三次元世界を創造したのか、その理由が腑に落ちない…」なんて根源的なことをいう人もいるけど、実はそれほど難解で深遠なものではないんじゃないかな。

 自分の単純な気持ちに問うて出てくる回答は、ことの本質からあながち外れていないと思う。


 そのようにして神は、リアルな出来事が起こるこの世界や、他者を作り出した――。

 しかし、それだけではまだ不完全といえる。真にものごとを経験をするために、神がやるべきことは残っている。
 その1つが、「自分が神である」という事実を忘れ去ること。そして全知全能な自らの性質に、ある種の制限をかけるということだ。

 仮に、自分が神であることを自覚したままこの世界を生きて、自分の望みがたちどころに現実化できたならば――。たぶん、大して面白くもないビデオ・ゲームをする程度の経験にしかならないだろう。
 それは、「人が空想するレベルの経験」であって、「神が創造するレベルの経験」ではない。


 ちなみに前述の「ある種の制限」というのは――、たとえば、望むものごとが現実化するまでに時間がかかるとか、叡智は予期せぬインスピレーションなどを通じてやって来るとか、そういうことだ。
 人は決して神としてのパワーを喪失しているわけではない。でもそのくらいの制限があるだけで、自分が神であることを、すっかり忘却できてしまうわけだ…。

 そしてこの世界では、自分や人々の心の内に、欲望や恐れがわき上がってくる。あちこちに色んな手に負えない問題が山積している。
 争いがあり、嘘があり、憎悪や隔たりが満ちている。でもそんな世界の中にも――、報いを望まずに他者を助ける「無償の愛」が、少なからぬ輝かしい事実として現れている。

 それが、いま私たちが生きている世界、神が望んで創造した世界の姿といえる。


 では、ここで次の質問。
 そうした世界の中で、神であるあなたは、どうありたいでしょうか?――

 1) 神であることを、ずっと忘れたままでいる
 2) 豊かに成功した現実を創造し、崇高な霊的体験も深める
 3) たとえそう思えない状況の中でも、自分が神であることを宣言し、そう信じて生きる


 ま、「1」は避けたいところだろう。
 「2」という人は多いだろうし、スピリチュアルな教えの中にはこれを目的とするものも少なくない。でも、どうなのかな…と思う。

 と言うのは、人が豊かさを通じて本当に得たいものとは、実は「自分はこれでOKだ、安心なんだ」という感覚そのものではないだろうか。
 それは、この世界を創造する前からあった、神にとって当たり前すぎる在り方ともいえる。霊的体験についても同じことで、それは神にとっては、宇宙を創造までして経験してみるほどの、とりたてて特別なことではないはずだ。


 一方、神がこの世界を創造しない限りは決して分からないこと、それが「3」ではないかな。

 おおもとの「大いなるひとつの存在」であったとき、当然のことながら神は神として在った。
 しかし、もし神が神であることを完全に忘れ、分離と不足の世の中に生きたとき――、果たして神は神として在ることができるのだろうか? 無償の愛について感じたとき、それが自らの本質であるという真理を見いだすことができるのか?
 この世界の中には何の証拠もないのに、それでも自分は神であると宣言し、そう信じて生きられるのか?――

 これは全知全能の神にとってさえも、「実際に経験してみないことには全く分からない」唯一のテーマであり、遊んでみる価値が十分あるゲームだったのではないだろうか。


 自分が神だとはとても思えないような状況にあっても、神が神として在ることができたならば――
 それは「神のバージョンアップ」「神にとって未知なる次元へのシフト」、なんてふうにも言えるかもしれない…。

 
 私たちは、まさに神(あるいは真の私)の望みどおりに、この世界を生きている。周りの現実が、神から程遠いありさまならば、なおさらかもしれない。

 そして、その状況でもなお、自分が神であることを信じて、宣言できるか?――
 これが、神であるあなたが、神であるあなた自身に今まさに問うている「神様クイズ」。
  
 解答できた人には(といっても宣言するのは100%自由なのだけど)、超豪華賞品として「神」が与えられます!…



 今回の結びのヒーリング・ミュージックは、Llewellyn & Juliana「Marble Halls」。

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プロフィル

Koudai Mitsuna

Author:Koudai Mitsuna
 
光奈 広大(みつな・こうだい)

 20年のあまりのサラリーマン生活を経て、いわゆる「ザ・マネーゲーム」を何とか卒業。今では束縛されない自由な日々を存分に味わっています!

 そうした中で心がけているのは、普通の日常的な行いを通じて、意識の進化を目指す「カルマ・ヨガ」。

 日々の喜びや学び、インスピレーションから得たスピリチュアルな気付きなどをブログで紹介しています。

 妻子と都内在住――。

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