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 前回記事では、絶体絶命の転落事故から奇跡的に生還した登山家たちの証言を集めた、『死の地帯』(ランホルト・メスナー著)という本について紹介しました。

 その中では、人が死に直面するときには「苦痛や恐怖の感覚が一切ない」という、驚くべき事実が語られている。
 今回は、その続きです――


 生存不能なほどの全身打撲であっても、痛くもないし怖くもないという体験談は、「死の恐怖」を少なからず抱えて生きる私たちにとって、大きな救いともいえる。
 ただし…、この本の中では、「なぜそうなのか?」という仮説などにも触れている。それは、登山のエキスパートならではの特殊事情ともいえるもので、次のように説明している――

 「自分の全人格をもって山にへばりついている登山家は、どういう危険があるかを当然知っている。事故への心構えは、無意識のうちにできている。
 だから登山家は転落に際して、一般の人の事故の場合とはかなり異なった反応をすることになる。そのため、例えば交通事故とは違う体験をしたり、精神の諸相が明らかになったりするのだろうと思う」

 さらに、こんな記述もある――
 「岩壁から墜落するとき、当人はまったく手の施しようがない。ここまで『自分の力で運命から逃れようとしても無駄』という状況は、他にないだろう。
 たとえば、溺れた者はわらをもつかむし、火に囲まれた者は逃げようとする。砲火にさらされた兵士は身を伏せる。猛獣に襲われた者は抵抗する――。誰もが最後の最後まで、自分の命を守る。
 ところが墜落する者は、最初の瞬間からただひとつのこと、すなわち『これでおしまいだ』ということしか知らない。自分の努力で何かを救い出せるなどという考えは、ひらめくより先に消えてしまう」――


 つまり登山家たちは、最悪の可能性を十分に知っていて、それが起こったときには完全なる「降参(サレンダー)」の状態にならざるを得ないわけだ…。
 そのような、まさしく「究極の手放し」をしたら、人はどうなるのか。この本では次のように語られている――

 「死が不可避ならば、墜落する者は『自分を観察する者』となる。もはや反応には支配されず、冷静になり、最後には時間と空間の感覚がなくなる」
 「死に対する恐怖は遠のいていく。ただしそれには『不可避な結末と完全に折り合う』ことが必要である。いったん折り合ってしまえば、不安や迷いはもうない。あるのは、いま自分のものとなった死の現実だけである」


 そして、こんな説明もある――
 「意識下からあふれ出るものが、出来事の新しい意味を見いださせる。そして外界と内界を生き生きと結び付け、自分がいま宇宙と一体となっていることを素直に納得させる。これは、合理を排除してはじめて起こり得るものと思われる。
 もはや死は、恐るべき結末ではない。確かに死は死であるが、別の意味を持つ死なのである」

 ――ここまでくると、最近のスピリチュアル本で語られる内容とほとんど同じですよね…。
 でもこの『死の地帯』は、20年以上も前に書かれた、れっきとした「登山・アウトドア」分野の本である。


 すべてを「手放す」ことで、いっさいの苦痛と恐怖は消える。そして、出来事の新しい意味を見いだす――。
 このことは「死」という極限の体験だけでなく、私たちの日常にある、あらゆる種類の「苦しみ」や「恐れ」についても当てはまる真実でしょう。


 色んなスピリチュアル本に「抵抗するから苦しいのだ」「放棄することが解決」といったことが書いてある。
 でも実際に手放そうと試みても、なかなかうまく変化してくれない。苦しみや胸の痛みは、本格的でリアルなものとしてずっと残っている。
 やがて「本に書いてあることは本当なのか? もっと効果的な手法はないの?」と思えてくる…。

 でも、極限状態の「死の恐怖」でさえも、手放すことによって消えてしまうことが数々の証言で明らかなのであれば――、ほかの苦しみや恐れに関しても明白だろう。
 私たちはいわば、切れたザイルを握りしめながら、日常の中で苦しみもがいているのかもしれない。

 本の中にはこんな説明もある――
 「死の認識はただちに、意思や思考活動を放棄させる。しかし、死の認識がなかったために放棄しなかった転落者の場合は別である。彼はすべての感覚をもって現実にしっかりつなぎ止められており、加えられたすべての刺激を何とか処理せざるを得ない」…


 ところで、著者のメスナーは、自らの登山観についてこう語っている――
 「征服すべきは山ではなくて人間である。私はエベレストを征服したくて登ったのではない。この自然の最高所で、私自身を体験したかった」

 なるほど…、ですよね。
 そして私たちもまさしく、「私自身を体験」するために、ここにこうして生きているのだと言える。サラリーマンをしたり主婦をしたり、うまく成功したり惨めになったり、喜びに満ちたり絶望したり――。
 その山積された経験の上に立ち、「私とはどういうものか?」を見いだしたのだ。


 エックハルト・トールは、登山家が極限の体験を求めるのは、それを通じて「本当の私」や「今」という瞬間に出会うためだと述べている。
 そして「私たちは、『今』と出会うために、わざわざアイガー北壁まで行く必要はない」と語っている。

 命をかけて絶壁を登る登山家も、こうして日常を生きている私たちも、その本質にあるものは何一つ変わらないのだろうな――、と思っています!



 結びのヒーリング・ミュージックはGeorge Skaroulis「Calling」。
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 スピリチュアルなものごとをある程度ふまえている人ならば、「自分が死ぬことに対して、あまり抵抗感はない」という人は少なくないと思います。
 とはいえ、そんな死生観を持つ人でも、「すごく痛かったり、苦しみながら死ぬのはやっぱり嫌だよね…」といった考えもよく聞く――。

 僕自身も同意見で、テーブルの脚にすねをぶつけただけでもあんなに痛いのに、命を失うほどの打撲なんて想像を絶する。
 同様に、指の切り傷でさえ、小さなやけどでさえ、風邪の熱でさえ、息を数十秒止めるのでさえ、あれほどつらいのに、ましてや…、である。

 でも、実際に死に瀕するときには「苦しみがない」という話にも接することがある。今回はそういう話題です――。


 登山家のランホルト・メスナーが書いた『死の地帯』という本を読んだ。
 これは、絶体絶命の転落事故に遭いながらも奇跡的に命拾いした登山家たちの証言をいくつも集め、「極限状態において人間はどう反応して何を体験するのか」についてまとめた本だ。

 ちなみに著者のメスナーは、エベレストをはじめすべての8000メートル峰(全部で14ある)への無酸素登頂を人類で初めて成し遂げた、登山史に名を刻む巨星である。
 彼自身も幾度も命を落としかけ、弟を山で亡くし、自らのことを「たまたま特別休暇をもらえて帰ってきた死者」とまで呼んでいる…。


 で、あの世の領域にいったん入って戻ってくるのが「臨死体験」だけど、この本で紹介されている登山家の証言は、いずれもそこまでは至っていない。つまり「臨死体験の手前」ともいえる段階だろう。
 そして非常に面白いことに、どの体験談も驚くほどによく似ているのだ――。

 岩壁から落下したり、斜面を滑落して「死は必至」という状況に陥った登山家たちは、意識が通常あり得ないほど鋭敏になる。数秒という瞬間の中で、自分に起こっていることを冷静に観察するという。
 そして直観的に、死をもはや不可避なものとして「ありのままに受け入れる」のだという。


 ここで特徴的な共通点といえるのが、すさまじく重大な事故にもかかわらず、「体に痛みを全く感じない」ということである。

 たとえば次のような証言がある――
 「滑落がはじまるとすぐ、私は岩への激突を予想した。雪面に突き立てた指先からたちまち血が吹き出したが、痛くはなかった。そして頭や背中が岩角にぶつかる音を、一つひとつはっきり聞いた。岩壁の下に落下したときの鈍い衝撃音も耳にした。しかし痛みを感じたのは、やっと1時間も経ってからであった」

 またほかにも――
 「事故のときに痛みは全く感じない。せいぜい体がたたきつけられる衝撃音が、自分の耳に聞こえるだけだ。五感のうち聴覚がいちばん最後まで残っているらしい」

 さらには――
 「もう救いの手立てがないと分かると、私はいっさいを放棄した。体は虚空へ放り出された。飛ばされながら、五感は明瞭だった。安全な席からサーカスを眺める観客のように、自分に起こった出来事の全体を、好奇の目で見守っていた。
 私に言わせれば、あれは美しい死だった。何の痛みもないのだ。あれに比べれば注射のほうがまだ痛い!」


 そして驚いたことに、痛みだけではなく、恐怖や不安さえもいっさい感じないのだという――
 「転落者がとめどなく落下していくとき、それはきっと恐ろしい瞬間であろうと、たいていの人は思っている。しかし現実には、いったん死を不可避の必然と認識すると、その死が素晴らしいものとなり得るのである」

 さらに、こんな証言も――
 「絶壁からの墜落は、人がふつう考えるような不安感をぜんぜん伴わなかった。それどころか、私は空中を浮遊しながらいとも快適に下へ運ばれていく感じだった。落下中も意識は完全にはっきりしていた。苦痛も不安もなく、自分の状態と家族の将来を、通常ではあり得ない速さで展望していた」


 ――どうでしょう? 人が死に瀕したとき、とてつもない恐怖や苦しみを味わうようなイメージがあるけど、実際の体験者の話はまるで違いますよね…。

 著者のメスナーは「死に近ければ近いほど、死に対する恐怖は遠のいていく」と言い、そして数々の事例をもとに、次のような結論を出している。
 「精神的ショックの大きさは、事故の重さに反比例するのである。死の可能性が大きければ大きいほど、精神的外傷は軽い」――。

 この考え方は、現代の精神医学における「心的外傷後ストレス障害(PTSD)理論」とは全く逆といえる…。
 しかし、まさに絶命寸前から生還した登山家たちの体験は、医学の理論を超えた、「さらに先の真実」に触れているのかもしれない。


 こうした、一般にイメージされているのとは全く違う「死の感覚」は、私たちにとってある意味で大きな安心であり、慰めともいえる。
 メスナーはこんなことも語っている――

 「遭難は遺族にとって過酷なものである。しかし、私がかつて2人の立派な息子を山で亡くした母親に、このような私の確信と所見をお話ししたところ、それは母親にとってひとつの慰めとなった。
 彼女は、息子の死が素晴らしい死であったことを知ったのだ。息子がこの世に別れを告げ、いわば天に向かって落ちて行ったときの気持ちが、この上なく安らかなものであったのだと」――



 結びのヒーリング・ミュージックは、Aeoliah「Illumination & Universal consciousness」。

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 日本では「八百万(やおよろず)の神」といわれるが、インドの場合は何と3億3000万!もの神々が存在するといわれます…。

 インドの人口から計算すると、国民4人当たりにひとりの神様がいる、という割合になる。
 よく、「人口何人当たりの医師数」といった国際比較があるけど、その「神様版」を比較してみれば、インドはもうケタ違いの充足度を誇る。何しろキリスト教圏やイスラム教圏の場合、人口数十億人当たりにひとりの神様しか存在しないわけだから…。


 余談はさておき――、そのインドで民衆から人気が高い神のひとつに、「クリシュナ」という神がいる。
 最高神ヴィシュヌの化身で、人間の赤ちゃんの姿で生まれ、そして牛飼いの夫婦のもとに送られた。夫婦は何も知らず、クリシュナを我が子と思って愛情深く育てていた。

 ある日、その子が誤って泥を食べてしまった。母親はあわてて吐き出させようとして、口の中をのぞいたら――、何と驚いたことに、その口の中には宇宙が広がっていた!! 山や川や海、あらゆる生き物、太陽や月や天界まで、そこには全宇宙の森羅万象が含まれていた。
 それを目にした母親は、子供が神の化身であることを知った。


 この神話は、昨年のヒット映画「ライフ・オブ・パイ」の中でも紹介されているから、知っている人も多いのではないかな。
 口の中に宇宙が広がっているなんて、本当に奇想天外で、ものすごいスケール感ですよね。さすがは神様!――


 一方で、私たち人間もなかなかすごいところがあって、神が「口の中」に宇宙が広がっているのに対し、私たちの場合は「口の外」に宇宙が広がっている――。
 「中と外では、えらい違いではないか」と思われるかもしれないけど、でもこれは単に表裏が引っくり返っているだけで、実は同じことなんじゃないだろうか…。

 もともと全宇宙は神の内側にあった。
 あるとき神は、それをクルン!とひっくり返してみた――。すると、それまで内にあった宇宙が、外側である目の前に広がるようになった。
 そしてすごいことに、そうして宇宙を外側に展開させたことによって、その宇宙の中を自らが「経験」できるようになった!
 この経験は、宇宙が「口の中」にある状態のままでは、絶対に不可能なことだ――。


 それが、いわゆる「天地創造」なのではないかな。
 単に、「口の中」から「口の外」へとひっくり返しただけ。創造エネルギーなんかゼロである…。


 スピリチュアル分野の本などではよく、「外の世界に現れるものごとは、すべて自分の内面の反映である」と言われる。
 ところがこの「ひっくり返し」の見方でとらえれば、外に広がる世界というのは「反映」どころか、それこそが「もともとの自分の内側そのもの」、ということになる。


 僕は遊歩道などを歩きながら瞑想するのが好きなのだけど(まったくの自己流)、「外側が自分」という観点で周りを感じながら歩いていると、何とも奇妙な感覚になってくる…。
 だんだん、内側と外側という分け隔てが、意味をなさなくなっていく。自分という存在のとらえどころがなくなる。
 そうして行き着くところ、自分とは「周りの世界を見る1つの視点」、あるいは「周りの世界が展開する場」のようなものである、ということが感じられるようになる。

 不慣れな感覚ではあるけど、「あぁ、こういうことね…」という自然な納得感を伴う感覚でもある。
 こうしたことを「経験的に理解」するのは、それほど難しいことではない。「それは違うぞ!」と言ってくる思考を、ただ受け入れなければいいだけである――。


 前回のブログ記事は、自分のハートの中に「本当の私」が眠っているという話だったけど、今回の記事はそれとはまるで逆の観点になってしまいました。
 そういう「内も外も見境なく」というのが、最終的に大切なとらえ方なのだろうな…、と思います。


 結びのヒーリング・ミュージックは、Llewellyn「Our healing flowers(Roses)」。

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 何年か前、実家がある京都の街を歩いていたとき、東本願寺の正面の大きな壁にこんな標語が掲げられているのを見かけました。
 「今、いのちがあなたを生きている」――。

 お寺の掲示板によくある、たとえば「ご先祖様に感謝しましょう」とか「人との巡り会いを大切に」とかに比べると、この一文は人それぞれに色んな受け取り方ができる言葉だ。
 たくさんの公衆に向けて伝えるメッセージとしては、けっこう「難易度が高いもの」といえるのではないかな…。


 この短い言葉を常識的にとらえれば、そもそも「いのちが生きている」とか「あなたを生きている」という表現自体が何だか妙だし、うまく意味をなさないだろう。
 一方で、仏教や東洋思想にある程度親しんだ人ならば――、そうした「大いなる何か」が自分の内に宿って、今こうして人生を送っているとは、「生きる」ことは本当に尊いことだ!… と思えるかもしれない。

 また、最近のスピリチュアルな観点からとらえれば――、「いのちがあなたを生きている」と語られる中の、「いのち」こそが本当の「私」である、といった解釈になるだろう。
 そして、ここで言う「あなた」とは、本当の私そのものではない。

 では何のために「いのち」は、「あなた」という者の中に宿って、こうして生きているのか?――
 それは、この次元で「生きる」ということを経験するため。そしてその経験を通じて、本当の「私」を見いだすためである。


 アジズ・クリストフという覚者が、以下のようなユニークな見方の比喩を語っている。
 東本願寺の「いのちがあなたを生きている」に対して、こちらは「あなたは、本当の私(魂)を身ごもっている」という観点だ――。

 今の段階で、あなたはただのマインドであり、マインドは本当の「私」ではない。そこには魂が現れていないのだ。魂は、現れるために、生まれなければならない。

 あなたが母親から生まれたとき、生まれたのはただ身体とマインドだけである。
 そして、あなたがこの次元に生まれたとき、あなたは魂を妊娠したのだ。魂を誕生させなければならないのはあなただ!

 しかしほとんどの人が、魂を誕生させることなく、妊娠したままで死んでいく…。


 そう、「私」という存在は、この自分の内側に、へその緒で結ばれた胎児のように静かに眠っている――。それはたぶん、ハートの奥深くにいる。
 ふだん考えたり行動しているこの自分ではなくて、その見えない胎児のほうこそが、実は本当の「私」そのものなのだ。

 また、多くの胎教などで言われているように、おなかにいる赤ちゃんは、母親の感情や気持ちを感じとっている。
 それと同様に、ハートの中心にいる「魂の胎児」も、その人物にわき上がる怒りや悲しみや喜びなどのエネルギーを、じっと感じているはずだ。


 そして、深い愛や喜びの感覚に「魂の胎児」が呼応したとき、それは生まれ出ようとする――。(ときに真逆である絶望の感覚に呼応することもある)
 孵化する鳥のひなが、卵の内側から殻をつつくときに、親鳥も外側からつつくことを「卒啄(そったく)の機」と言う。ハートの奥が強く呼応する瞬間というのは、まさにそうしたチャンスなのだろう。

 私たちの内にいる「魂の胎児」――すなわち本当の「私」は――、今のこの人生の中で、身ごもっている「あなた」の中から、いよいよ生まれ出ようとしているのです!



 結びのヒーリング・ミュージックはKamal「Spreading out the energy」。

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 知っている人には、今さらと言われそうだけど…。

 先日、「インビテーション(招待)」というタイトルのかなり有名な詩をはじめて知って、何とも素敵な一文だなと感激しました。


 作者のオーリア・マウンテン・ドリーマーは、アメリカ先住民の文化に詳しいカナダ人女性。
 10年以上前のことだけど、もともと少人数にコピーで配られていたその詩が、ネットを通じて世界中に広まった。そして家庭や職場、病院などに掲示され、結婚式や葬儀でも読み上げられるようになった――、というものだ。

 さらに詩が書籍化されて、翻訳本も出ている(僕は読んでいない…)。でも、amazonの読者レビュー数を見るとわずか2件だったので、詩をまだ知らない人もけっこういるのだろうなと思い、以下に紹介しますね――。


「インビテーション」
オーリア・マウンテン・ドリーマー作


 あなたの職業が何であるかは、私には興味がありません。
 私が知りたいのは――、あなたがどんなことを心から望んでいて、その願いが叶うことを夢見ているかどうかです。

 あなたの年齢がいくつなのか、私には興味がありません。
 私が知りたいのは――、あなたが愛や夢、そして人生の冒険のために、危険をかえりみずに身を投げ出すことができるかどうかです。


 あなたの運命がどのように定められているかも、私には興味がありません。
 私が知りたいのは――、あなたが悲しみの奥底に触れた経験があるのか、心を開いて裏切りを許したことがあるのか、それとも傷つくのを恐れて心を閉ざしてしまっているのか、ということです。

 あなたが、自分や他者の痛みと、じっと向き合うことができるのかも知りたい。逃げ隠れせず、消し去ろうとか取りつくろうともしないで。

 そしてあなたが、喜びを存分に味わうことができるかも知りたいのです。すべてを解き放って思いっきりダンスし、周りを気にせず、現実のものごとや人としての制約なんかも忘れて、快感が手足の先にまで満ちていくにまかせられるかどうかを。


 あなたの語っていることが事実であるかどうか、私には興味がありません。
 私が知りたいのは――、あなたは自分に正直であるために、他人をがっかりさせることができるか。たとえ背信者だと責められても、自らの魂に嘘をつくことがないか。世の道理に反することによって、自分自身を真に信頼される者にできるか、ということです。

 あなたが、あまり素敵とはいえない毎日の中に、美を見いだしているかどうかも知りたいです。ただそのままの存在の中から、自らの人生を生み出す力を、受け取ることができているのかを。

 さらにあなたが、自分や他者のあやまちを背負って生きているのかも知りたい。そしてそれでも、湖のほとりにじっと立ち、月の輝きに向かって、人生に「イエス!」と声高く宣言できるかどうかを。


 あなたの住む場所や、収入がどうかも、私には興味がありません。
 私が知りたいのは――、絶望に泣き果てた翌朝にも、あなたは起き上がってこれるかです。ひどく打ちのめされ、気力も尽きていながらも、しなくてはいけない子供の朝食の用意ができるかどうかを。

 あなたが誰と知り合い、どうやってここに来たのかも、私には興味がありません。
 私が知りたいのは――、あなたが私と一緒に、ひるむことなく、炎が燃えさかる真っただ中に立ってくれるかどうかです。

 あなたがどこで誰と何を学んできたのか、私には興味がありません。
 私が知りたいのは――、周りのすべてが崩れ落ちたときに、あなたを内側から支えるものが何であるかです。

 そして、あなたが1人きりで何もしない時間を、内なる自分と共に過ごすことが、とても好きか知りたいです。



 いかがでしょうか――。

 私たちが普通、「自分がどういう者であるか」を伝えるときに語る内容というのは――、まさにこの詩で「わたしには興味がありません」と、あっさり切り捨てられている事柄ですよね…。

 そして私たちは、自分自身にさらに意味付けや価値付けをしようと、その「わたしには興味がありません」と言われるようなものを、人生を通じてせっせと頑張って積み上げてきている。


 『生きがいの創造』の著書で知られる経営心理学者で元福島大学教授の飯田史彦氏は、退行催眠の被験者や臨死体験者の証言などを多数調べてみた結果、「死後の世界で問われるのは、結局のところ、『どれだけ人々を愛したか』『つねに良心的な言動をとったか』ということのみである」と語っている。

 そして、「この世でもうけたお金や、得た地位がいっさい評価されないことは、きわめて重要だ」と指摘する。


 いま、この詩を繰り返し読んでみて気付くのは――

 詩の中で「私が知りたい」と述べている真に大切なこと――すなわち、夢見ることや、心を開いて許すこと、痛みと向き合うこと、思いっきり喜ぶこと、自分に正直であることなどは――、いずれも「長年の努力のすえに成し遂げるようなもの」とは違うということだ。

 それらはすべて、誰にとっても、「その気さえあれば、今すぐにでも選択が可能なもの」といえる。

 どうしてそうなのか?――
 つまりは、それこそが「私たちの真の本質」にほかならないからでしょう!!



 結びのヒーリング・ミュージックは、Denean「Grand Mothers Heart」。
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 「自分の命のことで、何を食べようか何を飲もうかと思い悩むな」
 「空の鳥をよく見なさい。種もまかず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか」

 ――これは、イエスが語ったとても有名な教えのひとつです。


 ところが、2000年を経た今もなお、この教えは「現実面で全く人の心に定着していない考え方」と言えるかもしれない…。
 「食べていくためには、いやが応でも働かなくてはいけない。当たり前じゃないか、そうするしかないだろう!」と、多くの人が口々に語る。

 そして、もし思い悩むのをやめて好きなことをしたいのならば、最初のうちに苦労して十分お金を稼いだ後に――、という筋立てで生きていくのが、まっとうな常識でもある。
 中国の格言のいわゆる「先憂後楽」であり、のび太のお母さんがいう「遊ぶのは宿題が終わってからにしなさい!!」である。


 でも果たして本当に、イエスが説く「空の鳥」みたいな生き方が、この実社会で通用するものなのか? それともやはり、中国の格言や、のび太のお母さんが口うるさく言う「常識」の通りなのか?――
 少し以前のものだけど、このことを現実的に検証したともいえる研究がある。

 元ハーバード・ビジネス・スクール教授で、著名なコンサルタントであるマーク・アルビオン氏は、1960年から80年までの20年間にわたり、MBA(経営学修士)を修了したばかりの1500人を対象に追跡調査を行った。

 対象者は最初に、その人の考え方に応じて、次の2つのグループに分けられた――

グループA: 「まずしっかり稼いでから、やりたいことを始めるべきだ」という考えの持ち主

グループB: 「自分の興味を追求していけば、それが日々の糧を得ることにつながるはずだ」という考えの持ち主


 で、当然のことながら、この2つのグループに分けた時点で、人数のバランスは片方に大きく偏ってしまう。

 調査対象者の実に83%に上る1245人が「グループA」、つまり、「お金を稼いだ後でやりたいことをする」という考え方だった。
 残りの17%の255人が「グループB」で、「興味あることをすれば食べていけるはずだ」という考え方である。


 そして20年後――
 調査対象者の中から計101人の億万長者が誕生した。
 その内訳は何と、「グループA」からは1人、そして「グループB」からは100人、という結果だった――。


 本当に驚いてしまうほど、歴然とした数字ですよね!
 もちろん、億万長者になれれば人生がOKなわけでは決してない。また調査対象者の全員がMBA修了者なわけだから、「自分の興味を追求する」といっても、一般の人とは戦略レベルが違う…。

 と、細かな解釈は色々と付け加えられるかもしれないけど、私たちが受け取るべきメッセージの要点は、とてもはっきりしているはずだ。

 やりたいことを先延ばしする必要なんかない!――


 そして何より大事なものとは、食べていくための「お金」そのものではなくて、糧は得られると「信じる」ことなのだろう。

 つまり、「信じる者は食べていける」――。それどころか、この調査での両グループにおける億万長者の出現率の違いからすれば、「信じる者は与えられて、いよいよ豊かになる」くらいに言えるのかもしれない…。

 自分は、大いなる存在によって、常に養われている。
 この考えは「信じてみる価値がある」ものであり、「それを前提に、人生を生きてみるに値する」ものに違いないでしょう!



 結びのヒーリング・ミュージックは、Llewellyn「Archangel Gabriel」。

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 脳は私たちの「知」を担っています。それは賢く、理性的な働きをしている、といわれます。
 ところが脳には、実はだまされやすくて身勝手な、「最も頭の悪い臓器」と呼べるような側面もある――


 かつて僕は25年来の喫煙者だった。そしてタバコを吸っていたとき、僕はタバコを「おいしい」と思っていた。
 比喩とか風情とかではなくて、その香りや味わいが、もう止められないくらい本当に「おいしい」ものだと感じていた…。

 しかし、大方の喫煙者が日ごろから気付いている通り――、タバコの味というのは、実際はひどく劣悪なものである(外でつばを吐き出しながら吸ってる人もいるし)。

 ところがタバコの煙を吸い込むと、それに含まれるニコチンに脳が反応して、快楽物質の「ドーパミン」を脳内で放出する。
 そのドーパミンによって、スーッと満たされる「快」の感覚がわき上がり、これが頭の中に「おいしい」という錯覚を抱かせるわけだ。


 それ自体は決して悪いことではないけど、ただタバコに含まれる物質は、人間の体が摂取するにふさわしいものではない…。
 だから肺は「これは有害だ、すぐに吐き出せ!」と、ゲホゲホむせ返るし、胃もタバコの刺激を拒絶してギューッと痛くなる。

 そのように、ほかの臓器は体全体のリスクを感知して正しく反応しているのにもかかわらず――、脳だけは快に浸りながら、「これはおいしいものだ、それなりに必要なものなんだ!」なんて主張する。


 さらには自身に対してだけでなく、周りの人たちに向けても、「タバコにはいかに見返りがあるか」とか、「自分は自らの選択で吸っている」とかいった手前勝手な信念をいちいち語ったりもする。(ま、僕自身がそうだったわけですが…)

 エックハルト・トールも(これはアルコールに関してだけど)、「そんな主張をしているのは誰かと自問してみると、依存症そのものだと分かるはずだ」と語っている。
 つまり、その人の本心が主張しているわけではなく、依存症の脳が勝手に言い張っているだけ、というわけだ…。


 もっともここで僕が言いたいのは、「禁煙のススメ」とかでは全然なくて、あくまでも「脳にはそのような性質がある」ということです――。


 ちなみに「お酒」の味についても、メカニズムは全く同じである。

 お酒を口にしたとき「あぁ、おいしー!」と、その味わいが体の芯まで染み透るように感じる。多くの大人にとってお酒の味は、誰が何と言おうと明らかに間違いなく、「おいしい」と思えるものだ。
 ところがそれもまた、脳がドーパミンを放出しているのを、「おいしい」という味覚と取り違えているに過ぎない。

 未成年のときに大人ぶって、初めてビールや水割りを口にしたとき――、たいていの人は「こんなひどいもの、とても飲めたものじゃない」と思っただろう。それこそが実は、本来の味である。
 そう言うと、「あれはまだ若くて舌が肥えてないからであって、お酒は実際においしいものだ!」と、ふつう反論したくなる。


 でも、もしウイスキーや日本酒からアルコール分を全部抜いたら、ひどく味気ない変な飲みものになってしまうのは分かるだろう。きっと、古臭い苦みや、水っぽい甘みだけが強調された、口にしたくもない味のはずだ。
 お酒が好きな人でも「これはまずい!」と、ベッと吐き出すかもしれない(ビール好きの中には、ノンアルコール・ビールを「こんなまずいのはビールじゃない!」という人もいるし…)。

 でも、アルコールというのは、そもそも「無味」である。味が全くゼロの物質なのである。
 それなのになぜ、「おいしいもの」から無味なものを引き去ったら、「まずいもの」に180度変わってしまうのか?――

 それは、お酒を飲むときの「おいしい!」という感覚が、現実的な味覚とはほとんど関係がないからだ。
 つまりお酒を口に含んだ瞬間に――、アルコール特有のにおいや刺激を脳が検知して、さらに飲酒がもたらす陶酔感なども連想して、脳内に快楽物質のドーパミンを放出する。
 そして、タバコの煙を吸い込んだときと同様に、その「快」が頭の中に「あぁ、おいしい!」という感覚を抱かせる、という仕組みだ。


 いわば、あの「おいしさ」というのは、アルコールを欲しがる脳による「嘘の演技」なのである。
 でも、味覚そのものは「おいしくない」はずなのに、頭の中では「おいしい」と実感してしまうのは、当人にとっても不自然でつじつまが合わない。
 そこで、「このお酒がどういうふうにおいしいものであるか」を、色んな言葉を駆使して理知的に説明する、「ソムリエ」という専門家が必要にもなるわけだ…。


 ところが、そう言ってもなお、「そんなはずがない、おいしいものはおいしいんだ!」と突っぱねたくなる。
 さらには、「お酒は百薬の長であり、人類の文化である。それを軽蔑するなんてもってのほか!」という議論まで持ち出してくる人もいる。その気持ちも、僕自身にはよーく分かる。

 脳が実感をもって信じ込んでいる(あるいは自らをだましながら作っている)世界観を覆すのは、本当に難しいことなのだ…。


 また繰り返すけど、ここで嫌煙や反アルコールを唱えるつもりは全くない。
 伝えたいのは、脳は勝手に「味付けをする」というシンプルな事実です。


 話の分野も角度も少し違うけど――
 人の頭は、自らの内にわき起こる「感情」に対しても、勝手に「味付け」をしている。

 アメリカの元弁護士でスピリチュアル分野の作家であるアーノルド・パテントによると、「体の生理反応を測定すると、恐怖を抱いているときも、エキサイティングな気持ちを抱いているときも、実は全く同じ反応をしている」そうだ。
 その全く同じものに対して、頭の中の思考が「いま自分は恐怖を感じている」とか「これは素晴らしくエキサイティングだ」と、主観的に判断しているのだという。


 同様の説明は、ほかの色んな本にもある。
 悲しさも嬉しさも、怒りも喜びも、憎しみも愛おしさも、実は根源的に同じエネルギーであると――。それを私たちの頭が、「これは悪い感覚だ」「これは好ましい感覚だ」と勝手に仕分けしながら感じているのだと…。

 「そんなことはあり得ない!」と思える。
 「不愉快な怒りと、ワクワクする喜びとが、同じわけがないじゃないか! 実際に感じてみても、明らかに全く違うものだぞ!」と、さっきの「お酒の味」のように猛然と反発したくなる。

 でもそう主張するには――、私たちの頭での実感というのは「あまりにもいい加減」すぎて、議論のよりどころにならないのだ…。


 さらにもっと飛躍した話になってしまうけど――

 10年ほど前に、イエス・キリストが捕えられて処刑されるまでを描いた『パッション』という映画があった。人気俳優メル・ギブソンが監督し、すさまじく痛そうな拷問シーンで大ヒットとなった作品だ。

 ところで「パッション」って、どうしてまた「情熱」なんていう意味のタイトルが付いているのだろう? と不思議に思っていたら…、「パッション」には「キリストの受難」という意味もあることを、調べてみて知った。
 同音異義語ではなく、1つの同じ単語である。

 これはひょっとしたら単なる言葉上の一致ではなくて、好きなことをする「情熱」も、苦しみの極みとも呼べる「受難」も、もともとは同質のものなのかも知れないな、というふうに思えてくる…。
 もちろん、ひどい苦難の渦中にある当事者が「これは愛や喜びと同じものなんだ!」と有り難く受け取れるはずはない。あのイエスでさえ、絶対にワクワクしながら十字架にかかったわけがない…。


 でも、もしイエスがつかまらずに、うまく難を逃がれられていたとしたら――。
 イエスの処刑という一大衝撃が歴史上に起こらず、その教えもほとんど伝わらなかったに違いない。
 そして今の世界の人々が、イエスが説いた「無償の愛」について、あまり認識を持たない状況にもなっていただろう。

 そんな世界は魂にとって、殺伐としたものだ…。

 だから、私たち人類の根源にある魂は、イエスの処刑を、この上ない「情熱」とともに見つめていたはずだと思う。
 その衝撃から、新たな教えや人びとの生きる道筋が展開していくわけだから――。


 私たちは、日常的な「悲しみ」や「憎しみ」などを感じるとき――、ひょっとしたら真意としての「情熱」に、ほんの少しだけでも気付くことが可能なのかもしれない。
 それに気付くきっかけは、スピリチュアルな「ソムリエ」の、たくみな言葉を通じてではないはずだ。

 自分の感情を、静かに口に含むように受け入れ、じっと味わってみることによって、その本当の意味を見抜いていけるのだろうと思う――。



 今回はタバコの話題から、いつの間にかとんでもなく大きなテーマにまで行き着いてしまいました…。

 結びのヒーリング・ミュージックは、Silvia Nakkach「Inside Memories, Saudades」。

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 少し前のブログ記事で、エンリケ・バリオス著の『マラビージャ』という物語について少し紹介しました。
 エンリケ・バリオスは、代表作『アミ 小さな宇宙人』で知られる世界的に著名なファンタジー作家だ。

 で、その『マラビージャ』の中で、主人公をガイドする天使が「真の教え」というものについて、こんなふうに語っていたのがとても印象的だった――。


 「私たちに何かを教えてくれるものは、未知のものよ。
 未知であるから、それについて質問も何もまったくできない。でも未知のことだけが本当に私たちに教えてくれる。
 なぜなら、それは常に私たちを驚かせるから。それが思いがけぬひらめき、啓示なのよ。あとは無益な繰り返しだわ」

 ――この天使の言葉を聞いて、主人公は「やれやれ、そんなものが真の教えとは…」とがっかりしてしまう。


 確かに私たちは、「未知のもの」をあまり快く思っていない。ましてやそんなものに、人生や運命をゆだねることを善しとはしていない。

 未知が心地よくないから、私たちは生きながら、色んなことを「知ろう、分かろう」としている。
 身に起こった出来事について「どうしてこうなったのか」とか、「自分はどうすべきか」とか。
 そして、それを巻き起こした運命に対して、「神さまは何を考えているのか」「理由やメカニズムは何か」「この状況から抜け出す手法は何が良いのか」とか――。色々と問いかけたり、考えたり、本などを読んだり、ここぞと思える場に足を運んだりもする。


 私たちが発した問いの根本的な答えは、実際に返ってきている。そして、たいていの真実は、すでに教えられている――
 私たちはひとつであること、その本質は無条件の愛であること。そしてそれは、自らを経験的に知るために、世界を創造して生きていること、など…。

 そうした教えを何らかの形で受け取った瞬間、私たちは驚き、魂が呼応し、目からウロコがはがれたり腑に落ちたりする。

 ところがやがて、多くの人はそうした教えを、半ば疑いながら信じる程度にすぎなくなる…。そうなる理由は、教えを突き詰めていくと、結局は何も分からない「未知のもの」に行き着いてしまうからだ。
 そしてその後も、なお色んな教えを探しながら、「無益な繰り返し」を続けていくことになる。


 そんな繰り返しを打ち切るには――
 自分のすぐ目の前で起こっている「未知」や、自分の内にある「未知」と、親密になることじゃないかな…。
 「未知」に対して、もうお手上げして、打ち解けて、「未知」に完全にゆだねて、共に生きて行く、ということだろう――。

 でも、実のところ、私たちはその生き方しかできない。ほかに生き方の選択肢なんてそもそも存在しないし、これまでもずっとそのように生きてきた。
 ところが、そんな否応ない状況にあるにもかかわらず、自分の人生や日常から「未知」を何とかして取り去ることで、「安心を得よう」と努めてきた。そういうことが可能だと考えていた。
 ――これが、そもそもの行き違いであり、この世界に生きる不安や不快さの根源なのではないかな、とも思う。

 そのように意識して、見方を切り替えてみると――、「未知」の中で生きることって、実はとても身軽で居心地のいいことが分かります!


 この先は、スピリチュアル分野のかなりマニアックな考察になるけど――

 いわゆる「悟り」とか「覚醒」の最終段階に至ったとき、ほとんどの探求者がその一線を超えることができずに引き返してしまう、といった話もある(もちろん僕は経験ないですよ…)。
 このこともまた、ある意味で「未知なるもの」を未知としないために起こることではないかな…、というふうにも思える。

 最終段階で直面するものとは、それはもう途方もなく巨大で究極的な、まさに底なしの「未知」なのだろう。
 それについて、わずかでも知ることなんかできない。それを超えた先では、「知る主体」としての自分自身や、「既知のもの」としての自己すらも、もはや一切が存続不能になってしまう。
 そこは例外なく完璧な、永遠無限の「未知」なのだ。


 でも人は、それが「未知」のままでは、どうしても一歩が踏み出せないという。なぜならその先は、自己を明け渡すには、あまりに恐ろしいほど未知すぎるためだ。
 何しろ、自己を完全に消去してしまうなんて、自己にとってそれ以上に恐ろしくて未知なものはない。自ら進んでできるはずもない。

 かくして、希求し続けた千載一遇のチャンスに臨みながら、ほとんどの人が引き返してくるしかないわけだ…。


 でも、そのとてつもない「未知」こそが――、私たちの日常や自分の内にある「未知」の本性であり、そして私たちそのものの本源でもあるのだろう。
 揺りかごから墓場まで、そして輪廻の始まりから終わりまで、私たちは「未知なるもの」と親密に、この世界をこうして生きているというわけでしょうね。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Maneesh De Moor「Compassion」。

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 イソップの『アリとキリギリス』は、とてもよく知られた童話です。
 「しっかり働かないと、あとで大変な目に遭いますよ」という、社会教育面からも好ましい訓話であることから、色んなところで語られるのでしょう。

 一方、それとは正反対ともいえるメッセージを伝えているのが――、オランダ生まれの絵本作家レオ・レオニが描いた『フレデリック ちょっとかわったねずみのはなし』だ。
 こちらも世界的名作に数えられる1冊だから(初版は40年以上も前)、この物語に親しんで育った人もいるだろう。


 それは以下のようなお話だ――。

 田舎の農家の石垣の中に、5匹の野ネズミが家を作って一緒に住んでいた。
 しかしその農家はすでに引っ越していて、納屋の中は空っぽ。ネズミたちにとって、冬ごもりのための十分な食べ物が確保できるか心配な状況だった…。

 ネズミたちは昼も夜もせっせと協力して働いて、トウモロコシや木の実などを集めては、家の中に運んだ。
 ところが、フレデリックという1匹だけは、一緒に働かずに違うことをしていた。

 「フレデリック、どうして君は働かないの?」と4匹は聞いた。
 「こう見えたって働いているよ。寒くて暗い冬の日のために、ぼくはお日さまの光を集めているんだ」とフレデリックは答える。

 また彼はじっと畑を眺めていたり、ときには半分眠っているような様子だった。働いている仲間たちは腹立たしそうに「今度は何をしているんだい、夢でもみているのかい?」と尋ねた。
 するとフレデリックは、「色を集めているのさ。冬は灰色だからね」とか、「言葉を集めているんだ。冬は長いから、話のタネも尽きてしまうもの」――といった調子だった。


 やがて冬が訪れ、雪が降りだした。
 石垣の中の家にこもったネズミたちは、食べ物がある間は、いっぱい食べたり皆でおしゃべりをしたりして、ぬくぬくと幸せだった。
 ところが、食べ物が減って、寒さも厳しさを増してくると、誰もが口数少なく不機嫌になっていった…。

 そんなとき、4匹はフレデリックの言っていたことを思い出した。
 「きみが集めたものは、いったいどうなったんだい!?」


 フレデリックは、4匹に目をつむるように言った。そして、太陽の金色の光について、語りはじめた――。
 すると心の中に、明るい太陽のイメージが浮かび上がってきた。皆は声を上げた。「おや、だんだん暖かくなってきたぞ!」

 次にフレデリックは、青い朝顔や、黄色の麦、真っ赤なケシの花、野イチゴの緑の葉のことなどを語って聴かせる。
 すると皆は、心の中をぬり絵でもしたように、たくさんの楽しい色で満たされていった。

 最後に彼は、美しい春の訪れや、巡る四季の素晴らしさを高らかにうたい上げる。
 聞き終えた4匹はすっかり喜びに包まれ、拍手喝采でフレデリックに言う。「驚いたなぁ、きみは詩人じゃないか!」


 とても素敵な物語なのだけど、全く気に入らないという人もいる。
 「ろくに働かない者が空虚な言葉を語り、それで周りから賞賛されるなんて価値観がおかしい!」…といった意見だ。


 でも、そう反発を覚える人も、この話を自分自身のリアルな「心の中」を表したものとして捉えると――、たぶん誰ひとり異論を唱えないだろうと思う。
 つまり心の中が、働き者の4匹のネズミや、あるいはイソップ童話の勤勉なアリの声だけになったとしたら…、それは自分にとってすごく「生きづらい」状況ではないだろうか。

 それでも、ふだん効率的に仕事をこなしたり、もうひと踏ん張りするような場面では、その心の声は役に立つかもしれない。
 しかし、本当にどうしようもないほどの苦難に陥ったとき――、それを乗り越えていく力というのは、単に「努力」とか「勤勉さ」ではないだろう。深刻な苦しみが続く時期に、自分の中にいる「働き者」の声だけを聞いていたら、やがて心が破綻してしまうかもしれない…。


 心を支配する闇から脱していくための力とは――、それは見えない太陽の光をイメージする力、暗い灰色の中でも豊かな色彩で自分を満たしていく力、いつか春が巡って来ることを信じさせる力――、つまり1匹のフレデリックが持つ力だろう。

 人の心の中には、そんな1匹の存在が、どうしても必要なのだ。それは喜びや幸せを受け取る感性であり、そして最後の最後まで人を生かす真のエネルギーでもある。
 ――にもかかわらず、私たちの多くは、その大事な1匹を自分の中から追い出して生きてしまっているのではないかとも思う…。


 さらにちょっとスピリチュアル的な見方で言えば――、最期の死の淵をさまようときに、「素晴らしいことの多い人生だった」と自らに語りかけ、色とりどりの喜びや感謝で満たし、そして新たな生への輝かしい旅立ちを告げるのも――自らの中にいるその小さな1匹なのでしょう。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Rudy Adrian「Under Orion」。

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 ブログのコメント欄などでもときどき触れることだけど、僕の妻は鬱を患っていました。

 10年以上の通院治療を経て、現在はほぼ克服している。
 そして妻はいま大学院で臨床心理を学び、かつての自分と同じ苦しみを持つ人を助ける役割になることを目指している――。
 それは本当に素晴らしいことだと思う。


 ただ、やはりまだ「混乱した心」を引きずっていて、日常生活での整理整頓や片付けなどがうまくできない。
 妻の部屋は、服や本や色んなモノが床全面に積み重なるように散らかっていて、足の踏み場すらない。
 ベッドの上も同じで、体を横たえるスペースが全くないものだから、妻は夜になったらわざわざ布団をリビングに持ってきて寝ている。そんなに不自由をしているに、片付けることがどうしてもできない…。


 妻がそのような状態なのに対して、僕のほうは、実は掃除・片付けをきっちりせずにはいられない性格である…。

 僕は中学から大学まで、一貫校で寮生活をしていた。
 そこでは、早朝に一斉に起床してまず掃除をするという、まるで禅寺や自衛隊の宿舎みたいな規律正しい生活だった…。
 散らかった部屋をそのまま放置しておくなんて、常識として「あるまじきこと」だった。


 そのため、結婚して最初のうちは、家の中をすぐに散らかしてしまう妻に文句を言ったり、整理整頓の方法を教えたりしていた。
 ところがそれは、何の効果もなかった…。

 何しろ相手は「心の病」を患っている状況だ。
 風邪をひいた人に向かって、「体温を平熱に戻しなさい! 咳はしないように!」なんていくら指示したところで、うまくいかないのとたぶん同じことだろう。

 後に僕が、妻の部屋を片付けてあげるようした。
 しかしそれは完全な逆効果だった…。妻はまるで、巣をつつかれたハチのように逆上した。
 もちろん、本人だって部屋が汚く散らかっているのは嫌なはずだ。でもそこは、自分の混乱した心の中がそのまま反映された場であり、他人に決して「触れられたくないところ」なのだろう…。


 こうした部屋の散乱のほかにも、妻の「混乱した心」は、例えば人間関係における「被害妄想」などの形で、日常の色んなところに表れ出た。
 僕はそのたびに、常識的な観点から、彼女の見方や考え方の「誤り」を指摘したり、自分なりのアドバイスを熱心にしながら、何とか状況を変えてあげようとしていた。

 そうしているうちに、妻にとって僕は、「世界で最も自分のことを理解してくれない人物」に位置付けられるようになっていった…。


 やがて僕ができることは、そんな状況をもう「ありのままに受け入れる」しか道がなくなった――。
 妻に対して、「こうあるべきだ」と条件付けをしたり、「こうしてほしい」と期待することは、すべてが余計なことだと悟った。


 ところが、そうして無理にでも受け入れていくうちに、やがて僕はとても大きな事実に気付くようになった。

 それは――、相手の「混乱した心」を無条件に受け入れていると、こちらの心の中がなぜか自然ときれいに片付いて、どんどん広がっていく、ということだ。

 これは不思議な感覚で、それまで抵抗したり条件付けすることによって狭く制約されていたハートが、本来の広がりや可能性を取り戻していくようにも思えた。
 理屈はうまく分からないけど、ハートというのは自ずとそうなる仕組みにできているのではないかと考えている…。


 そうして10年以上が経ち、妻の状態のほうも、前述のように本当にずいぶんと良くなった。
 ただ、いまだに妻の部屋は片付いてないし、互いに理解し合える夫婦関係からは程遠いのだけど、でも僕自身がそれをほとんど気にしていない。

 そして何より僕は、妻の「混乱した心」を受け入れることをきっかけに、自分の周りや世の中のたいていのことを受容する在り方へと変わることができた。
 これは、僕自身にとってまさに「望外の変化」といえる。


 いま振り返って思うのは――、妻はあえて「混乱した心」を持つことで、僕の人生における「受け入れるべき対象」となり、ハートを広げる鍵となってくれたのではないか、ということだ。

 もちろん本人は、そんなことを自覚なんかしていない。だけど、互いの魂はきっとそうした意図を持って生まれてきたのだろうと思っています!…



 結びのヒーリング・ミュージックは、2002「Icarus」。

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 「この世の中に、なぜ男性と女性がいるのか?」――というのは、色んな観点から出てくる問いですよね。
 身近な人生論として、詩的なとらえ方として、そしてスピリチュアルな意味合いからも…。


 ちなみに生物学的に見れば、「2つの性別」が存在することには多大な利点がある。それは「進化が格段に速い」ということだ――。

 もともと地球上の原初の生命(単細胞生物)には、オスもメスもなかった。
 そうした生き物は細胞分裂によって繁殖する(これを「無性生殖」という)。それはつまり「自分自身のコピー」を作ることであり、全く同じ遺伝情報を持つ子孫が代々生み出されていくことになる。

 この場合、進化が起こるには、「突然変異」を待つしかない…。

 一方、オスとメスが出会って繁殖する方法を「有性生殖」という。この方法では、2者が持っている遺伝情報をごちゃまぜにする形で、両親とは少し異なる子孫が残っていく。
 これによって、細胞分裂の場合だと何万世代も要するほどの変化が、わずかな世代で現れることになる。


 地球上の生命の歴史において、実は「無性生殖」の時代の方がかなり長い。生命が誕生してから実に20億年もの間、ずっと単細胞生物が細胞分裂をしながら繁殖してきた。

 やがて生物がオスとメスとに分かれて、「有性生殖」が登場する――。そこから10億年の間で、多細胞生物が繁栄し、カンブリアの種の大爆発が起こり、恐竜が出現し、哺乳動物が生まれ、そして私たち人類も誕生した。

 オスとメスに分かれたことをきっかけに、従来とは全く比べものにならないスピードで、実にカラフルな進化が可能になったわけだ――。


 で、実はスピリチュアルな意味でも、世の中に男性と女性が存在する理由というのは、そのような「進化」のためではないかなとも思う。


 ふだん私たちは社会の中で、自分の内面にある色んなものを器用に隠し立てしながら、他者との関係性を無難に保っている。
 ところが、夫婦として何年も四六時中いっしょに暮らすとなると――、そう律儀に隠したままではいられないだろう。

 これまでの半生の中で蓄積した記憶や思考や感情、さらには過去生のカルマ的なものまで、それは不意に現れ出てくる。時には、相手に向けた剣先のようにもなる――。
 そうした、精神的な中身が丸出しになりやすいことが、パートナーという関係性の特別な点といえる。


 そこで魂が望んでいることとは――、互いの過去を自然に「棚卸し」したうえで、それと向き合って、相手のものを受け入れていくことではないかなと思う。
 2者の遺伝情報をからみ合わせることが生命の進化を招くように、「相手の内奥にあるものをこちらに受容すること」が、魂としての大切な進化のチャンスになるのではないか…。


 例えば神聖なマスターの教えに学んで、その生き写しのような弟子になるようなことは、ひょっとしたら魂が望んでいる進化の形とは違うのかもしれない…。
 ぎくしゃくして、時には痛々しいパートナーとの関係――。そこにこそ、まさに大切な気付きへの扉があるのかも。


 ま、色々と難しく考えなくても、何か相手に腹立たし思いがしたときも、「これも天の配剤であり、進化への恩寵なのだ」と考えれば、それなりに広い見方で受容ができますよね!



 結びのヒーリング・ミュージックは、Midori「My Valentine」。

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プロフィル

Koudai Mitsuna

Author:Koudai Mitsuna
 
光奈 広大(みつな・こうだい)

 20年のあまりのサラリーマン生活を経て、いわゆる「ザ・マネーゲーム」を何とか卒業。今では束縛されない自由な日々を存分に味わっています!

 そうした中で心がけているのは、普通の日常的な行いを通じて、意識の進化を目指す「カルマ・ヨガ」。

 日々の喜びや学び、インスピレーションから得たスピリチュアルな気付きなどをブログで紹介しています。

 妻子と都内在住――。

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