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 少し以前のこのブログ記事で、世界の多くの宗教において同じように説かれている「黄金律」について話題にしました。

 で、ふつうは「共通する教え」として挙げられることは決してないのだけど、さまざまな宗教の最も深奥に秘められた「究極の黄金律」ともいえるもの――
 それが実は、「私自身が神である」ということではないかな、と考えています。


 旧約聖書では、唯一神のヤハウェが自らのことを「私は『私は在る』という者だ(I am who I am)」と明言している。
 ヒンドゥー教などの「梵我一如」も、本当の私たちとは全宇宙を支配する原理と同一であることを指している。
 「禅」は、まさにそれを探究する道ともいえる。

 そして「私自身が神である」ことは、最近のスピリチュアルな教えでは、よく言われることでもある。さまざまな覚者や、高次の意識を体験した人たちも、ほぼ共通してそのことを強調する。


 一方で伝統的宗教の開祖たちも――、人々に伝えるべき真理を目の当たりにしながら、この「最重要事項」について触れなかったというのは、かなり考えにくいことではないだろうか…。

 しかしながら、「私自身が神である」とういことを第一義的に説く宗教組織というのは、実際には相当に少ない。
 信者がみんな「神」となると、組織サイドとしてはとても不都合だし、「民衆の理解度に合わせる」という目的で教義を編集し直す必要も、歴史的経緯の中であったかも知れない…。


 これからの時代、この「私自身が神である」という観点は、私たちの在り方や物事との向き合い方の基本軸になっていくのではないかなと思う。


 昔から多くの人たちが問うてきた、根本的な疑問のひとつが――
 「神が存在するなら、なぜ世界をこんなひどい状況のまま放っておくのか?」ということだ。

 全知全能の創造主であり、人びとへの慈愛に満ちた神が、どうして悲惨な戦争や貧困や差別があるのに何もしようとしないのか?…と。


 ただし、この疑問は「神が自分の外側にいて、天国かどこかからこの世界をじっと眺めている」ような状況を前提とした問い、ということになるだろう。

 一方でもし、「私自身が神である」ならば――。つまり、神がこの私の目を通じて世界を見ていて、神が私のハートを通じてそれをリアルに感じたり経験していて、そして神が私の身体を通じて行動をするならば――
 「なぜ神は何もしないのか?」という外側に向けた疑問は、うまく成り立たなくなってしまう。
 そうした問いかけはすべて、自分自身の内へと向きなおることになる。


 つまり、「私がこの世界の問題をどう感じ、どうしたいのか?」――ということだ。


 とは言え、世界の問題をどうにかするために、紛争地域に行って平和を訴えたり、飢餓難民の救済に奉仕すべし、というわけではないと思う。

 われわれの世界の問題は、種類を挙げたらきりがないほど、本当にごまんとある。脱原発、熱帯雨林の伐採、海洋汚染、領土問題、麻薬、虐待やいじめ、堕胎、毛皮製品、肉食、トランス脂肪酸……等々。
 そして人によって、問題意識はぜんぜん違う。「海洋汚染に関して個人的意見は特にないけど、肉食については絶対に看過できない」と考えているベジタリアンもいるし、それと逆の立場の人だってたくさんいる。
 すべての問題に関心を持ったり、解決に自ら取り組むのは、そもそも不可能事だ。


 「私がこの世界の問題をどう感じ、どうしたいのか?」と自らに問うたとき――、その答えとして、特定の問題に対する行動へと突き動かされるケースもあるだろう。
 一方で、行動ではなく、たとえば苦しむ人たちへの「共感」や「祈り」、あるいは「信じてゆだねる」ことであっても、それは紛いもない神の愛の現れだと思う。

 また「世界の問題よりも、家族の問題のほうがもっと重要だ」と思う人(そう思わざるを得ない状況に直面している人)は、それももちろん神としての意思だろう。

 さらに、世界の色んな問題とか家族のことをないがしろにしてでも、自分の内にある「心の闇」に向き合わなくてはならないという人だって、それも神が自ら望んだ経験に違いない。


 神はあらゆる「私」を通じて、世界の問題と向き合っている。
 神が臨むそれぞれのテーマや経験に、賢愚や貴賤の差なんか全くないのでしょう。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Llewellyn「At The Golden Gates」。

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 スピリチュアル分野のブログでも、ときどき話題にされるけど――、映画「マトリックス」の監督の最新作『クラウド・アトラス』を先日レンタルビデオで見ました。

 この作品のテーマはずばり「輪廻転生」で、製作費は実に100億円! ただ、「複雑でまったく面白くない」と酷評する人も少なくなくて、興行面では振るわなかった作品である…。

 でも、ハリウッドが輪廻転生を真正面から描き出したのは、たぶん初めてのことだろう。監督や主演トム・ハンクスの実力もさすがで、見ていて「あぁ、輪廻転生とはこんなふうなものなのだな…」という内的な感覚みたいなものが喚起される気がする。
 その点では、ほかにない「何かを揺さぶる作品」といえると思う――。


 この映画は、19世紀から文明崩壊後の未来を舞台にした、全部で6つの人生物語を描いている。

 その6つの物語の登場人物たちが、時代を超えて生まれ変わり、それぞれの物語の中で何度も巡り会う――、という構成だ。
 転生について書かれた本などではよく、「私たちは、何人かの同じグループで一緒に転生を続けている」と言われるけど、そのような死生観にのっとったものだ。

 そして映画では実際に、同じ俳優が、別の時代の物語ではまったく違う役柄を演じている。
 悪人が後の生まれ変わりで善人になったり、主役が今度は人を支える脇役になり、縁者同士があかの他人にと、まさに縦横無尽に配役が入れ替わる…。
 さらには、メーキャップがすごく凝っていて、どの役者が別の物語で誰になっているのかが、判別しにくいほどだ。男優が女性になったり、女優が男性になったりもして、年齢層や人種までが特殊メークによって変えられている…。


 終わりのエンディング・クレジットが流れるところで、誰がどれとどれの役をしていたかというタネ明かしがあるのだけど、「へぇ、この人が、ここではこう生まれ変わっていたの!」といったような意外な驚きがある。

 実際に『前世療法』(ブライアン・L・ワイス著)の本とかには、死後に過去生での人間関係が分かって仰天する、といった例が出ていますよね。たとえば現生の夫が、前世では自分の祖母で、さらに昔は仕事の部下だったとか…。
 (ただしこの映画の場合は、1人の俳優が同じ魂の生まれ変わりを演じているわけでは必ずしもないです)


 そして、この映画の最も凝っている真骨頂といえるのが――
 別々の時代の「6つの転生の物語」が、時間軸に沿って順に進行していくわけではない、という点だ。

 つまり、1つの話が終わってから次の話に移るのではなくて、6本の人生物語が入れ代わり立ち代り、重奏しながら同時に展開していく。


 それぞれの話は、生きる時代も、場所も、状況も全く異なる。配役もぜんぜん違うし、コミカルな人生もあればシリアスな人生もある。
 ところが、それら1つひとつの話の中身が何となく似ていて、さらにどこかで「つながっている」のだ…。

 主人公が惑う場面になると、ほかの人生でも何かに迷っている。人を救う場面では、別の時代において誰かに助けられる。大事な決意する場面の次には、生まれ変わった自分が大事なことに気付いたりする――。


 つまり、何度も転生して多種多様な立場を経験しながらも、実は繰り返し同じ人と巡り会い、同じような過ちを犯したりしながら、同じような人生を送っている……
 そして、それらたくさんの人生は、過去から未来へと時系列に続いているわけではなくて、今の瞬間にすべてが同時に起こりながら互いに影響し合っている……

 そんな、ふだんの実生活からはとらえにくい不思議な実感を呼び起こさせることが、この映画の最大の面白みだと思う。


 以下、ちょっと結末的なことにも触れた感想を言うと――

 映画の冒頭は、「この世は支配する者とされる者とに分かれた、弱肉強食の世界である」という世界観で始まる。6つの物語とも、それが何らかの形でベースになっている。

 そしてそれぞれの人生で、旧来の世界観を突き崩していく経験をして、「人は他者とつながっている」「命は自分のものではない」というメッセージを受け取っていく。
 最後に、そのメッセージを拒む自らの「心の闇」に打ち勝ったのち、新しい世界へと移って生きていく――という展開だ。


 ラストシーンでの主人公の台詞は、「訪れた最大の奇跡、それは『出会い』かもしれない」…

 なかなか素敵ですよね。何度も何度も転生したすえに、新しい世界にシフトしていく時に振り返って思えるのは、きっとそういうことかもしれないです――。


 また、この映画にある1本1本の物語を個別に取り上げてみても、別にすごく見ごたえがあるわけではない。いわば、30分程度の「ちょっとした短編ドラマ」である。

 でもそれらが運命としてつながり、同時進行で重奏することによって、「転生の壮大なストーリー」としての意味が出てくる。


 ただし、映画を見る立場としては、これほどややこしいことはない。場面が時代を超えてランダムに入れ替わるから、そのうちに誰がどこでどうなっているのか把握しきれなくなってしまう。
 外国人の顔と名前を一致させるのに慣れていて、短期記憶が得意な人ならば、普通に面白く鑑賞できるだろう。
 でも、ドメスティックな半生を送り、記憶機能にも衰えが見えはじめた中年世代にとっては、なかなかキツいかもしれない。


 僕は出だしの5分弱で「これは手に負えない!」と勘付いて、ネットから各ストーリーのあらすじと配役の一覧をプリントして(Wikipediaが役立った)、それを手元で参照しながら何とか話に付いていけた…。
 そういうことができない劇場で見ていたら、きっとお手上げして、「複雑で面白くない映画」と酷評していたに違いない…。


 で、実際の私たちの転生というのは、映画なんか比べものにならないほど、もっともっと複雑だ。ほとんどの人はこれまでに、実に数百回にのぼる転生を繰り返してきたと言われる。
 そして、魂の次元には「時間」は存在しないから、その数百回もの生涯がこの一瞬に同時に起こっていることになる…。

 そんなすごい状況を、人の頭で把握できるわけがない。
 だから、こうして「1本だけの人生物語が時間軸に沿って徐々に進行していく見え方」というのは、とても有り難いことなんだな…、なんていう身も蓋もないことも感じました。

 その「1本の人生物語」というのは、決して特別な内容ではない、ささやかな短編ドラマなんですけどね…。

 でも、この「転生の全体」を演じて経験している本当の私たちって、やはり想像を絶してすごいですよ!



 結びのヒーリング・ミュージックは、Parijat「Offering」。

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 「他人にしてもらいたいことを、他人にしてあげなさい」――
 これは、世界の多くの宗教・道徳・哲学に共通して見いだせる教えで、「黄金律」とも呼ばれます。

 キリスト教にも、ユダヤ教にも、イスラム教にも、ヒンズー教にも、仏教にも、儒教にも、まるで申し合わせたかのように、この全く同じシンプルな教えが記されている。

 この考え方に異論を唱える人はまずいないだろうし、ここまで文化や時代を超えて全世界で説かれているからには、人類にとっての「真理」の重要な一面を表しているに違いないだろう。


 黄金律のほかにも、「この教えは全く別のところで聞いたことがあるぞ…」と思うような言葉と出会うことがたまにある。

 先日、カトリック関係の人の話を聞いていたときに、「環境の奴隷でなく、環境の主人になりなさい」という言葉が出てきた。
 ひどい状況の中にあっても、それを周りのせいしにして悩み続けないで、自らが能動的に変わって状況も変えていきましょう――、といった意味である。


 似た教えを確かどこかで聞いたはずだな、と考えて思い出したのが――、禅語の「随処に主となれば、立つところみな真なり」だ。
 これも、どんな場所にあっても主体性をもって真の自分として在れば、その場所には真実が現れ出てくる――、というような言葉である。


 さらには最近のスピリチュアルな教えでも、バシャールが同じように、「周りの状況は問題ではない。自分の在り方が問題なのだ(Circumstances don't matter. Only state of being matters.)」と語っている。
 原文は、「問題」とともに「物質」の意味がある「matter」という単語を使って、「周りの状況が物質化を起こしているわけではなくて、あなたの在り方が物質化しているのだよ」といった意味も含ませている。

 過去のブログ記事でも紹介したことがあるけど、それについて語っている講演の動画を以下にリンクします(前後半の2つに分かれている)。とても分かりやすくて素敵な内容ですよ。
 バシャール「望むリアリティを創り出すマントラ」(1)
 バシャール「望むリアリティを創り出すマントラ」(2)


 こうして書いている途中で思い出したのだけど、イスラムの教えが随所に盛り込まれたパウロ・コエーリョの『アルケミスト』の物語の中にも、それに近い一文があった。
 夢を信じて旅に出た少年が、いきなり異国で泥棒に遭い、無一文になってしまい茫然自失したときの描写だ。

 「やがて彼は、自分のことを泥棒に遭ったあわれな犠牲者と考えるか、宝物を探し求める冒険家と考えるか、そのどちらかを選ばなくてはならいことに気がついた。『僕は宝物を探している冒険家なんだ』と少年は自分に言った」――


 ほかにも同じような内容のメッセージは、色々とあるはずだ。私たちは「宇宙の王」である、という言い方もされる。
 これだけ多くの形で黄金律のように伝えられてきているからには、私たちは単に周りの状況に翻弄されるだけの存在ではなく、「現実を作っている主体である」ということを、真実ととらえていいだろうと思う――。


 とはいえ、「他人にしてもらいたいことを他人にしてあげた」にもかかわらず、いわゆる正直者がバカを見る結果だって現実的にあり得る。
 同じように、自分が「環境の主人」としてずっと振る舞ったのに、思わしい変化や報いのないまま生涯を終える、という展開だって起こり得るかもしれない…。「もしそうなったらどうするの?」というのも、よく問われることだろう。

 しかし、「それでも結構。信じながら死ねたら本望!」くらい割り切って、信じ続けることがやはり肝心なのではないかな。
 前出の『アルケミスト』の中に、賢者のこんな台詞もある――

 「そのときは、お前は夢を実現する途中で死ぬのだ。それでも、自分の運命が何かも知らない何百万人よりかは、ずっと良い死に方なのだよ。しかし心配することはない。普通、死の脅威は、自分の人生について多くのことを気づかせてくれるものだ」


 …もちろん「死の脅威」までは直面したくないけれど、要はそれくらいの割り切りとか信念が、何かを引き起こす原動力なのでしょう。
 真理には「盲信」するしかない側面もある――、というふうに思います。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Steven Halpern「Relaxation Suite (part I)」。

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 先の週末、20年ぶりに学生時代の同窓会がありました――。

 僕の母校は、1学年1クラス(男子のみ)の一貫教育という、ほかにあまりない実に個性的な私立校だ。
 そうした同窓生たちと40代後半になってひさびさに会うと、各人の立場の多様さに、あらためて目を見張ってしまう。

 メガバンクの支店長や、大手企業の部課長など「順当な道」を着実に歩む人がいる一方で、不本意にもリストラに遭って再就職に苦心している人もいる。プロのミュージシャンやデザイナーなど、まさに腕一本で食べている人もいる。
 さらには(僕自身もそうだけど)、サラリーマン生活に自ら終止符を打って「これから自由に生きていく!」という人もいて、そのつややかな笑顔がとても印象的だった。


 よく昔から、「同窓会では出世した人が胸を張っている」なんて言われるけど、そうした雰囲気は全く微塵もなかった。
 それよりも、「誰もがいつどんな立場になるか分からない」「それぞれがいるところで輝いていこう」といった、互いの「共感や励まし合い」が場の空気のようにあったと思う――。

 スピリチュアルなものごとに関心のないサラリーマンでも、会社や肩書きに「自己同一化」するのが無意味なことは、もう十分すぎるほど分かり切っている。
 世の中は変幻自在であり、その中で自分が「被害者」みたいな立場に陥ってしまう可能性があることも知っている。
 そして、そうした世界に生きる私たち1人ひとりが、互いに分かち合うべき「絆」によって結ばれていることも、かなりの人が既にうすうす気付いている――。


 社会全体がそうとまでは言えないけれど、この20年で日本は「成長」の力を失い、その半面で「共感」の力を増やしたのであれば――、それは得がたいほど貴重な変化だと思う。
 同窓会の歓談の間にも、そんな「新しい時代へのシフト」みたいなものを垣間見た気がする。


 今回、本当にひさびさの同窓会を催すということで、ふだんは音信不通になっている同窓にも、幹事たちが何カ月も前から何とか連絡を取って案内した。中には海外からわざわざ来た人までいて、そうして大部分が集まれた。
 しかし、「都合が付かないから…」といって欠席する人も数人いた。


 会の最中、その欠席した同窓のことも話題に上った。そのとき、彼と親しかった1人がこんなことを言った。
 「数年前にたまたま会って飲んだのだけど、『学校生活や皆との仲も合わなかったし、自分はあの学校に行くべきではなかった』なんて口にしていた。今回も誘いの電話をかけてみたけど、不機嫌でふさいでいる印象だった」と…。

 にぎやかだった場が、気まずそうに静まって、ちょっと間が空いた。
 そのとき、「会えないけど、元気にやっていてほしいな」という、言葉にはしない皆の祈りのような気持が、そこに満ちているのを感じた――。

 ワイワイ騒いでいた宴会の中で、いちばん美しく輝いた瞬間だったかもしれない。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Llewellyn「Dusk」。

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 大金持ちと貧者の「立場」が急に逆転したり、男の人と女の人の「身体」が入れ替わってしまう物語や映画って、色々ありますよね。

 そんなふうにもし他人と入れ替わって、その立場や体を体験できたとしら、当然とても面白いことになるだろう。

 でもそれ以上に、すごいことになるだろうなと思えるのが、他人の「意識」を体験してみることだ。


 とくに極端な例だけど、もし自分がイエス・キリストや覚者のラマナ・マハルシの意識を体験してみたとすれば――。
 もちろん想像の及ぶことではないのだけど、きっと果てしなく広がって、穏やかで心地よくて、ある意味でものすごく「楽ちん」なのかもしれない。

 「イエスの苦悩」とか言われるけれど、実はふだんの自分のほうがよっぽど四六時中苦悩に覆われていることを実感するのではないか…、なんてふうにも推察する。


 また一方でたとえば、社会生活に違和感があって引きこもっている人の意識の中身を体験してみたとしたら――。
 心の中が余裕なく混乱し、味わいたくもない嫌な考えや恐れや感情が次々にわき出てくる。自分でも何とかしたいと願っても、それに抗することも、前向きな行動を取ろうとすることもできない…。

 これは誰にとっても、あまりにつらすぎることだ。
 もしそうした内的世界をリアルに実体験したならば、それだけの重い苦難を抱えながら懸命に生きている人たちに、敬服の念を覚えるだろうと思う。


 さらに行き過ぎた空想だけど…
 そうやって誰かの意識を体験できたとしたら――、その結果は単なる「他者理解」だけにとどまらないのではと思う。

 たぶん、イエスやマハルシの意識を体験したあとに、もとの自分自身に戻ってみると――、彼らとまったく同じ意識が最初からそこにあることに気付いて、仰天してしまうのではないか。「あれれっ、これではいか!」…と。
 そうなると、答えを見てしまった「だまし絵」のように、もうその通りにしか見えない。


 また、どんな他人の意識を体験したとしても、たぶん同じ結果につながっていくだろう。
 他人の意識の中を眺めると――、そこには、自分には関係のない記憶や、脈略のない連想や、自動反応的な感情とかがどんどんわき出てくる。
 それらを他人のものとして見ている限り、即座にそれと「自己同一化」してしまうことはないはずだ。それらをじっと見て、感じるだけ…。

 そのような体験をしたのちに、再びもとの自分自身に戻ってみると――、そこでも同じように、色んな記憶や連想や感情とかがわき出てくる。
 そして、それらをじっと見ている、何者でもない意識そのものが存在していることに気付くことになる。「んんっ? これは!」…と。


 もちろん、そんなふうに他人の意識を体験してみることは、現実的に全く不可能だ。
 でも、わざわざ他人を体験してみなくても、自分の中だけで「それ」を見いだすことが可能――、というのが、そもそもの大きなポイントなのでしょう。

 気付きのヒントならぬ「答えそのもの」が、私たちに向けて常に全面的に提示されている――。

 それは、とてもすごいことでもあり、こうして文章で書き表すことが最大に難しい内容ですね…。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Kavin Hoo「Waltzing Leaves」。

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 人によっては「十年に1本の映画」とまで絶賛するのだけど、「もう絶対に二度と見たくない」という人もいる――。そんな、評価が相当はっきり分かれるファンタジー作品『パンズ・ラビリンス』を先日見ました。
 (6年前の作品なので、結末のネタまで書きますね…)


 スピリチュアルな意味が込められたような映画って、ここ数年けっこう色々あるけど、この作品もまさにそのひとつと言える。
 映画の冒頭は、こんなおとぎ話で始まる――。

 はるか昔、地底には、苦しみのない平和な王国があった。
 その国には、美しい姫がいた。ある日、姫はお城をこっそり抜け出して、あこがれていた地上の世界へと行ってみた。
 ところが日の光を浴びたとたん、彼女は自分が誰なのか、どこから来たのかを完全に忘れてしまった。そして寒さや痛みや苦しみを感じるようになり、ついには孤独のうちに死んでしまった…。

 姫を亡くした王様はなげき悲しんだ。しかし王様は、彼女がいずれ別の身体に生まれ変わり、王国に戻ってくることを信じていた。その日を、いつまでも、いつまでも待ち続けていた――。


 長い時が流れて――、1940年代の苛烈な内戦下のスペイン。
 少女のオフェリアは、冷酷な義父に虐げられていた。
 あるとき彼女は、妖精に導かれ森の奥にある迷宮を訪れる。そこで、自分が王国の姫の生まれ変わりであることを告げられる。
 ただし、もう既にただの人間に成り果ててしまっているかも知れないので、姫であることの証を立てるための3つの試練が与えられる…。


 ――という筋立て。
 まさしく、源を離れた魂が本当の自分を忘れてしまい、地上で人間として転生し、いつか再び源へと還っていく――、そうしたスピリチュアル分野でよく語られる図式と同じですよね。


 この映画のDVDパッケージに描かれているのは、宮殿に立つあどけない少女と小さな妖精。
 それを見て、「アリスとかオズみたいな話かな? パンズ・ラビンスっていうタイトルも、何となくメリー・ポピンズっぽい雰囲気だし。小さい娘と一緒に見てみよう!」とか思って、レンタル店で借りて見たとしたら、とんでもないことになる…。

 この映画は年齢制限の「PG-12(12歳未満の鑑賞には不適切)」に分類されていて、暴力・残酷の描写が容赦なくキツいのだ。
 戦争映画やホラー映画に慣れている大人でさえも、ファンタジーだからと油断して見ていると、不意を突かれて相当に心を揺さぶられてしまう。
 子供だましならぬ「大人だまし」の作品である…。

 出てくる人物は見ていていやになるほど非情・残忍で、内戦下の日々は泥沼のように暗い。負傷兵や拷問シーンは痛そうで背筋がうずくし、ファシズム政権に抵抗する市民のスパイ活動とかにもハラハラさせられる。
 さらには、現実を離れたファンタジーの場面までが、恐ろしい悪夢の世界である…。


 ――主人公の少女オフェリアは、生後間もない弟を守ろうとしたために、与えられた最後の試練を果たせずに終わる。そして、冷酷な義父によって、無残にも殺されてしまう。
 悲しみばかりの短い人生、打ち捨てられるような非業の死…。

 えっ、このままエンディングなの?… と思っていたら、最後のたった数分間で究極の大転換があった。
 死によって肉体を離れた彼女の魂は、あふれる光と祝福とともに、王国へと迎えられる!――


 与えられた最後の試練はいわば「引っかけ問題」で、失敗してしまったように見えて、実は彼女は正しい選択をしていたのだ。

 芥川龍之介の『杜子春』の物語でも、仙人になることをめざして過酷な試練に挑んだ主人公が、最後の最後で母親への愛情ゆえに思わず口にした一言によって、すべてを台無しにしてしまう。
 ところがそれこそが、真に選ぶべき道であった。――というのと同じだ。


 この「パンズ・ラビリンス」のラストシーンで特に印象深いのが――、血を流して息絶えてゆく少女の「肉体」側のアングルでは、幸せの要素など全く微塵も見いだせない、ということだ。
 見ていて心底げんなりしてしまうくらい、そこには救いようのない悲惨さと不幸だけしかない…。

 ところがもう一方の「魂」側のアングルでは、最愛の両親である王と王妃に迎えられ、大勢の民に拍手で祝福され、この上ない永遠の歓喜と至福に包まれる――。


 その、「肉体」側と「魂」側のアングル対比が、ものすごく鮮烈だ。
 この世では悲しみでしかないような死でも、きっとそこには、こちら側のアングルからは全くうかがい知ることのできない壮大な真相があるのだろうな、ということを感じさせる。

 もちろん結末としての死だけでなく、私たちの生涯の途中で起こるあらゆる出来事にも、きっと「最善」のものとしての価値が、見えないところにあるのでしょう――。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Kip Mazuy「Sweet Stillness」。
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 人の運命はすべて決まっているのか、それとも自由意思によって変えることができるのか?――
 これは、スピリチュアル分野で本当によく問われる内容です。

 でもその回答としては――、「どちらも真実」だと言われる。


 魂の観点からすれば、そもそも「時間」は存在しないし、ものごとの「善い悪い」や「実体」すらもないわけだから…、そこに立脚しながらさらに「過去は定められていた」とか「未来は選べる」といったことを議論すること自体、けっこう無理があることになる。
 この類の問題にとにかく白黒付けようとすると、おかしな迷路にはまり込んで行ってしまう。

 だから、「清濁あわせ飲む」ではないけれど、矛盾する両面を飲みこんだ上で、「自分なりに都合よく解釈する」ことが、こうしたものごとをとらえるための実は勘どころなのだろう。
 そして、そんなとらえ方は、あながち真実を外してはいないようにも思う――。


 運命と自由意思について、いまここ塾の阿部敏郎さんは、「終わってしまったことは全部運命だったのだから仕方ない。でもこれから先のことは、自分次第でどのようにもつくり出していける」というふうに、2つを使い分けて生きていると説明しているけど、とても好都合で素敵な解釈ですよね。


 最近読んだ『宇宙からの手紙』(マイク・ドゥーリー著)の本の中にも、こんな一文があった。

 今のあなたの境遇、一緒に住んでいる人、あなたの仕事、手に入れたものと手に入れていないもの――。それらを眺めて、あなたは次のように思いたいでしょう。
 「これらは、なるべくして、こうなっているのだ」と。

 その考えは、ある程度は正しいかもしれません。しかし、あなたの今ある状況というのは、あなたがそのように考えてきたから、そうなっているのです。
 人生はこのように働く、ということを学ぶためなのです。「そうなるようになっていた」からではありません。

 明日のことは、人でも仕事でも遊びでも、まだ完全に白紙です。何事も、そうなるようになっていたから、そうなるわけではありません。あなたには選択する自由と創造する力があります。


 面白いですよね。
 こちらは、過去においても未来においても、すべては自由意思によって決めることができる、という観点である。
 でも私たちは、その自由意思がどう働くのかを学ぶために、「こうなるより仕方ない」という思いを浮かべては、まさにその通りの状況をつくり続けている――、というわけだ。


 もしそうならば、これまでの自分は生き方をしくじっていたのか?―― というふうにも思えてきそうだけど、同じ本の中にこんな一文もある。

 もしあなたが、人生のあるべき姿を見ることができたら、気絶するほどびっくりするでしょう。
 と言うのは、今ある姿と、まったく変わらないからです。そしてあなたは、まさに今いる「べき」ところにいることを発見するのです。


 ハッとさせられるような見方ですね。
 ただ、さっきは「なるべくしてそうなったのではない」と言っていたのに、今度は「今いるべきところにいる」って、まったくの矛盾じゃない? と、突っかかりたくもなるけど…。

 でも、こうしたことが矛盾しないようになる見方もある。
 そのひとつが、たとえば――、「意識して選択しようがしまいが、数ある選択肢の中から、常に最善のことが起こってきている」、といったとらえ方。
 そのように見ると、図式としては一定の筋が通ることにはなる。
 つまり、もし自分にとっての最善が「学ぶこと」であるならば、まさにそれが今あるべき状況として起こっている、というわけである。

 ただ、「今の状況が最善だとはとても思えない!」と騒ぎ立てるマインドだけは、うまく整合しないのだけど…。


 で、そのように「最善のはずがない!」とマインドが強く主張してくるときに、僕は自らによくこう言い聞かせている
 「こういうのもまた、自分らしい」と。


 厄介で心地よくない状況であっても(仮にそれが強制的な運命だとしても)――、それを受け入れ、先行きの展開をゆだね、そうして何とか乗り切っていく自分というのを思い浮かべてみると――、
 「こういうのもまた、自分らしい」と、少しずつでも納得しながら思えてくる。

 「自分らしい」というのは、自由意思や選択ではないものの、ややそれに近い、「自分を利する」ものではある。

 これも、運命なのかどうかに対する解答には全くならないのだけれど――、でも、気持ちの上でのひとつの「落としどころ」だろうなと思っています。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Tron Syversen「Blue Dawn」。

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 僕はサラリーマンをしていたとき、20年以上のあいだ毎日毎日、通勤ラッシュの電車で1時間くらいかけて会社に行っていました。

 そして、色んな人間関係や利害関係がからむ中で本当に多くの仕事を進め、「サラリーマンというのは大変な仕事だな…」と心底から実感した。もうたくさんと言うくらい、存分に経験できたと思う。

 そんなバリバリのサラリーマンをしているときに、主婦の人の日常生活について話を聞くことがあると――、「まったく気楽なもんだな」としか思えなかった。
 だって、上司や取引先もいないし、業務目標とか人事評価もないんだから…、と。


 で、僕はいま、会社を早期退職した後、うちの家事をぜんぶ担当している。(妻のほうは、40代にして臨床心理の大学院生で、昼間は関連施設でボランティアやパートの仕事をしている…)

 そうして日々の家事をこなしながら心底から思い知ったのが――、「主婦業というのは、本当に大変な役割だな」ということだ。
 僕は料理も掃除もけっこう得意なほうなので、最初の1年間くらいは、「あぁ、こうして家事をする毎日が新鮮で楽しいな!」と思いながら取り組んでいた。

 ところが来る日も来る日も、起きたら朝食を用意して息子の弁当を作り、それから洗濯して掃除して、献立を考えて自転車で買い物に行って、そして夕飯をこしらえて食器を洗って片付けて――という、果てることのないルーティンを延々と繰り返しているうちに、「これは実際にけっこうキツいぞ…」と痛感するようになった。


 と言っても、うちは僕と妻子の3人家族だから、仕事量としてはぜんぜん甘ちゃんなほうだ…。
 もし育ち盛りの子供が何人かいて、さらには舅(しゅうと)や姑(しゅうとめ)まで同居していたとしたら…、とても僕では勤まりきらずにギブアップしちゃうだろうと思う。

 でも世の中には、そうした家族構成での主婦業を20年くらい続けている人は、当たり前のようにいる。そのうえでフルタイムの共働きや、シングルマザーのケースだって少なくないわけだから――、「これは本当に並大抵のことではない」と心から敬服してしまう。


 主婦に対する、僕のサラリーマン時代の想像力というのは、まったく及んでいなかった。
 もしかつての僕のような考えのサラリーマンの人がいれば、「想像力を限界まで働かせてそれを倍にした」くらいの目で、日々頑張っている主婦の人を見てあげるのがいいと思う。
 逆に主婦の側からも、それと同じスケールで、サラリーマンの苦労とらえてあげるべきだろう。

 とは言え、そもそもこういうのは、「その立場になってみて、はじめて本当に分かるもの」かもしれない…。


 人は、他者の立場を理解することがかなり苦手だ。
 そのために対立や争いをよく引き起こしてしまうし、「それによって世界の歴史が作られてきた」と言っても過言ではないだろう。


 では、人には「理解する力」が完全に欠落しているのかというと――、それはまったく違うと思う。
 何しろ私たちは、「当事者」にさえなれば、その立場のことを例外なく100%理解できてしまうのだから。

 たとえば、自分が深刻な病を患いながら「病気の人の苦しみが理解できないし、健康のありがたさも分からない」という人は、ひとりもいないはずだ。
 これは当たり前すぎることに思えるけど、でも「自ら経験さえすれば、その立場のことが心底から必ず理解できる」というのは、ある意味でなかなかすごい能力なり法則だろう。人間にプログラムされている基本機能と言えるかもしれない。


 よく輪廻の仕組みとかの説明で、「次に転生したときには逆の立場に生まれ変わる」と言われる。
 たとえば権力者だった人は、権力の下に敷かれる人として生まれ変わる。同様に、虐待した人は虐待される側に、他者のあやまちを許さなかった人は許されない側に、相手の心を傷付けた人は傷つけられる側になる――。

 そうしたことを、あらゆる要素について、繰り返し転生しながら私たちは経験してきているらしい。これは信賞必罰とか因果応報ではなくて、そのようにして魂がこの次元のすべてを経験して理解するためだとも言われる。


 それではもしも、自分が「経験していない立場」の相手のことを、心から理解してあげたとしたら、どういうことになるだろうか?
 たとえば、絶対に許すことのできない相手を許すことができたならば――、また、自分とはかかわりないことで苦しんでいる人たちに、生きる力となる癒やしを与えることができたならば――

 たぶんそれは「1回の転生」にも並ぶくらいの、つまりはその立場に生まれ変わる必要がなくなるくらいの、大いなる経験なのではないかなと思う。
 別の言い方をすれば、「愛によって転生に代える」ような行いだろう。


 サラリーマンが主婦の大変さを理解したり、身近にいる誰かの立場を理解してあげることも――、転生を超えるほどの崇高さにまでにはもちろん及ばないだろうけど、でも少しでもそれを補うような大切な経験にはなるのではないかな、と思います。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Deuter「The Source」。

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 芸術分野で活躍する人たちは、スピリチュアルな真実を見事に見通した言葉を語ることがよくあります。

 僕は村上春樹のエッセーやインタビュー集がけっこう好きで、本人は「輪廻とかそういうものは特に信じない」とはっきり言い切っている人なのだけど、でもそっち方面のものごとをうまく言い表しているようにしか思えない発言もある。


 過去の記事で触れたこともあるが、国内外の多くのマラソン大会にも参加する村上氏は、走っている最中の自分の意識についてこんなふうに記している――。

 「僕は原則的には空白の中を走っている。逆の言い方をすれば、空白を獲得するために走っている、ということかもしれない。
 走っている時に頭に浮かぶ考えは、空の雲に似ている。いろんなかたちの、いろんな大きさの雲。それらはやってきて、過ぎ去っていく。でも空はあくまで空のままだ。雲はただの過客(ゲスト)に過ぎない。それは通り過ぎて消えていくものだ。
 そして空だけが残る。空とは、存在すると同時に存在しないものだ。実体であると同時に実体でないものだ。僕らはそのような茫漠とした入れ物の存在する様子を、ただあるがままに受け入れ、呑み込んでいくしかない」


 ――ふだん瞑想とかをしている人ならば感心してしまうくらい、マインドの現れや、背景にある「空」について、見事にとらえていますよね。
 特に、来ては去る思考のことを「ただの過客(ゲスト)」と表現するところなんか、実にうまく言うなと思う。


 で、村上氏は、私たちが物語を読む意味とは何かについて――、「本当の意味は、その物語をくぐり抜けるという行為自体の中にある」と語っている。
 つまり、ストーリーやシーンや台詞などの意味を読み取っていくのが目的ではなくて、その全体の中を「くぐり抜ける」ことこそが大事なのだと。

 このことは、読書だけではなくて、私たちの身に起こることの意味や、さらに「人生をくぐり抜ける」ということに関しても、同じように当てはめることのできる見方なのではないかと思う…。


 ちなみに村上氏は、小説を書くときに最初からストーリーを設定せずに、「書きながら考えていく」というスタイルだそうだ。
 それはまるで、「夢を見ながら書き写す」ような行為だとも言う。

 そうして描かれた世界は、不思議な要素に満ちている。ファンの読者はその謎に向き合うのが好きで、込められているであろう意味を何とか解明しようとする。人気に便乗した解説書までよく出版される。
 しかし、当の村上氏は次のように、謎の部分を「完全に分かる必要はない」と強調する――

 「読み返せば読み返すほど、ある種の謎というか、分からない部分は狭まっていく。でも、あるところまでしか狭まらないと思う。それは僕自身が、書いていて、そうだから。
 初稿から何度も何度も書き直していますよ。ちょうど読者が読み直すのと同じようにね。そして書き直すたびに、僕自身の中でも謎の幅は少しずつ狭まっていくんです。焦点が絞られてくる。でも、あるところまでいくと、これ以上は絞れないというポイントがあるんです」

 「何度読み返したところで、わからないところ、説明のつなかいところって必ず残ると思うんです。物語というのは、もともとがそういうもの。だって、何もかも筋が通って、説明がつくのなら、そんなのわざわざ物語にする必要なんてないんです。ステートメントとして書いておけばいい。物語というのは、物語のかたちをとってしか語ることのできないものを語るための、代替のきかないヴィークルなのです」


 では、そうした分からない部分が随所に残ったままの状況で、私たちは物語の世界にどう向き合えばいいのか――

 「僕の本の主人公はたいていの場合、その人にとっての重要な何かを探しています。そして奇妙な状況をくぐり抜けながら、冒険の途中で変化が起こり、欲していたものを見つけることで終わります。しかしそのあいだに、探していたものが意味を失ってしまい、目的に到達することがたいして重要ではなくなってしまう。
 物語は、しかしネガティブなわけではありません。物語の真の意味は、探そうとするプロセス、つまり探究運動のうちにあるんですから。主人公も、はじめとは別人になっています。重要なことはそこなんです」

 「全力を振り絞って臨めば、堅い壁を通り抜け、再び光のもとに帰れるということです。物語が力を備えさえすれば、主人公と書き手と読者は共に『ここではない世界』へと到達することができる。そこはもとの世界でありながら、旧来とは何かが違う世界です」――



 「到達するところは、もとの世界でありながら違う世界」――。まるで、スピリチュアルなマスターが語ることと、同じような言葉ですよね。山は山、川は川のまま在る、みたいな…。

 そして、ものごとの意味をとにかく分かろうとするのではなく、その中を全力でくぐり抜ける――。
 これがきっと、私たち自身の「生の物語」を楽しく読み通すための、ポイントでもあるのでしょう!



 結びのヒーリング・ミュージックは、Anugama「Golden Gate」。
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 前回記事からの続きで、「浄化」の話題です――。

 過去に負った心の傷や、卑小な自己イメージ、余計な感情を生む反応パターンなど――、私たちは多かれ少なかれ、何かしらの内的な機能不全を抱えている。
 そして、それを浄化することが「人生のそもそもの目的である」ともよく言われる。そのための技法なども、色々と存在する(人によって向き不向きはあるけれども)。


 そうした浄化について、僕自身が以前から感じているのが――
 自分の中に「個人的な弱み」や「人生の汚点」みたいなものがあって、その原因を浄化で取り除くといった観点で取り組むと、ポイントを外してしまう――、ということだ。

 浄化をそうした「私的な問題」としてとらえると、ついどうしても内向きに「縮こまりながらする」という姿勢になりがちだろう。
 でも、浄化のはたらきを主体的に現すために重要なのは、「広がりながらする」という姿勢だといえる。


 自分が「傷ついてしまうツボ」にはまる出来事があったとき、胸を締め上げるような痛々しい感覚がわき上がる。その感覚をもたらすエネルギーのことを、よく「インナーチャイルド」とも呼ぶ。

 で、ひとつ忘れずに認識しておくべきポイントが――、そのインナーチャイルドというのは、決して「自分個人」の幼児体験や心の傷ではない、ということだ。

 ちなみに、ホ・オポノポノの本の中にも、次のように明言してある――
 「インナーチャイルドとは、自分の子供のころの記憶のことではない。この世が創造されから現在まで、あらゆるものが経験した記憶を蓄えている潜在意識のことだ。子供のような振る舞いをするのでチャイルドと呼んでいる」――


 つまり、心の苦痛や反応パターンなどは一見、自分が抱える属人的な問題のように思えるけれども…、実はそれは、過去に生きた全人類が蓄積してきた「記憶や感情の断片」というわけだ。

 ただし、その膨大に蓄積されたデータベースの中から、私たちはランダムに断片を拾い上げて感じ取っているのではない。
 この世に生まれてくる前に、魂は「この生での目的」を定めている。その目的のひとつとして、「今回の人生を通じて、これを浄化したい」というテーマを、きっちりと選んで決めている。

 たとえば、相手を絶対に許せないという「憎悪」や、本来の自分の尊さを忘れた「無価値感」、周りから見離されたような「疎外感」、心からの望みをあきらめてしまう「無力さ」とか――、こうしたものを浄化のテーマとして特定したうえで、ここに生まれてきている。


 さらには――、その浄化すべきものが、過去の人類が蓄積した感情といういわば「他人ごと」の形のままでは、浄化の取り組みに深くコミットしていくことができない。
 そのため魂は、浄化すべきテーマを「自分のもの」としてリアルに感じられるようにするための体験――、つまり、そのことで深く傷ついてしまう体験を、幼少期や思春期に課すわけだ…。

 これによって、もはやその痛みからは逃れられなくなり、人生のテーマとして浄化に真剣に取り組まざるを得ない状況ができあがる。
 これって、なかなかの手口だと思いませんか?――


 現世の目から見れば、そうした体験は「苦難」や「不幸」と言えるかもしれない。
 しかし、魂の観点からは、まさにそれは一人ひとりが自ら請け負った、崇高な「十字架」のようなものだ。

 イエスは、すべての人々の罪を清めるために十字架にかかった。
 それと同様に私たち自身も――、過去の全人類が蓄積した苦しみの一部を、こうして自らの内に背負いながら、それを浄化するためにこの人生に臨んでいる。


 だから、自分の内に湧いてくる感情に苦しまされるとき――、それは個人的な問題では決してなくて、「人類が共有する苦しみの中から、自分が代表して清めるために受け取ったものだ」と、きちっと認識すべきだろう。
 それはとても重責な使命ではある――。でも内にある苦しみが「自分自身に何か良くない原因があって起こっているわけではない」というのは、とらえ方によってはかなりの「救い」でもありますよね。


 私たちが浄化すべきもの――、それが「過去の全人類が経験した記憶と感情」であるならば――、それを個人の問題として抱えて「縮こまり」ながら浄化に取り組んでも、うまくいかないはずだろう…。

 私たちが清めるものは、このちっぽけな肉体人間の内側ではない。あらゆる人々、地上世界のすべて、時空のすべてを浄化するのだと言っていい。
 そのためには、自分の肉体的・精神的な枠組みを超えた「広がった」姿勢で取り組むことが、とても大切になる。
 それが、私たちの「浄化装置」としての、あるいは「救世主」としての仕事である――。


 卑近な言い換えだけど、私たちに備わる浄化の機能というのは、エアコンの「フィルターお掃除機能」のような、内側の狭い中身をきれいにするだけのものではない。
 アニメの宇宙戦艦ヤマトに、全地球を覆う放射能汚染を取り払って人類を救済する「放射能除去装置」というのが出てきたけど、浄化というのはそれくらいのスケール感がある行いだと言える――。


 浄化のための瞑想法のひとつに、「アティーシャのハート瞑想」という技法がある。
 これは、まず自分自身の苦しみや惨めさをハートのセンターに吸い込み、浄化して祝福とともに吐き出す。次に周りにいる何人かの苦しみや惨めさを吸い込み、浄化して吐き出す。
 続いて同様に町の人々や、より広い地域の人々、さらに県や国、世界、そして最後には全地球や宇宙にまで浄化を広げ祝福を与えていく、という瞑想だ。

 私たちはそのように「意識を広げる」ことで、本当に浄化すべきものを浄化することができる。内にいる小さな自分に取り組みながら、すべての時空に取り組むことができる――。


 前回記事で書いたように、自分が傷ついてしまう出来事が起こって、インナーチャイルドが泣き叫びながら助けを求めてきたときには――
 その思いをしっかりと抱き止めて、「わざわざ教えに来てくれて、ありがとう」とお礼を言ってあげよう。
 「今までちゃんと気付いてあげられなくて、ごめんね」と、謝ってあげよう。
 「私たちは、どんなことが起こっても、本当は全く大丈夫なんだよ!」と、真実を伝えてあげよう。

 そうして、アティーシャの瞑想のようにハートを広げ、海よりも果てしない「本当の私」の広がりを見せてあげよう。その広がりの中に受容し、抱擁し、溶け込ませてあげる…。
 それによってインナーチャイルド、すなわち「過去からの人類の意識」は、真実に気づくことができるはずだ。

 「あぁ、こんなに広い『私』ならば、何があっても本当に全く大丈夫なんだ」と――。


 前述のとおり私たちは、浄化するテーマを決めて生まれてきている。そのテーマが何であるか、これまでの半生や感情パターンなどをかんがみれば、たぶん自明なものだろう。
 でも、この生における時間は、当然のことながらいつまでも無制限にあるわけではない…。

 決して長くはない残り時間の中で、それに取り組んで浄化するか――、それともまた次の生に持ち越して、再び同じテーマを抱えるか――。
 その自覚ひとつで、あまりに多くのものごとが変わっていくことになります…。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Lex Van Someren「Born Forever」。

  ☞ コメント:10

 


 今回は「浄化」について書こうと思います――。

 胸の内にうずく痛み、いつも同じようなことに怒ったり傷ついてしまう反応パターン、根深くある「自分は卑小で恥ずかしい」という自己イメージ…。
 こうしたものはあくまでも「内面に秘められた問題」である。

 でもそれが、その人の感覚や世界観、人間関係、行動の選択などを大きく左右してしまう。ある意味でそれが、その人の人生全般を支配している、と言ってもいいくらいだろう。


 ただ人間の心には、多かれ少なかれ、ネガティブな側面はどうしても付き物だといえる。
 あのマザー・テレサでさえ「私の心にあるのは闇と苦痛だけ」と告白しているし、エリザベス・キューブラー・ロスも最晩年に「いまだに自分を愛することができない」と吐露している。

 とは言え、闇と苦痛だけを抱えながら世界中に愛を振りまくというのは、決して常人のなせるわざではない…。
 だから、やはり私たちの場合、自らの内にあるものに向き合って着実に浄化していくことが、生き方の本筋だろうと思う。
 見方によっては、「それを浄化するために、ここにこうして生きている」とまで言えるかもしれない。


 前置きが少々長くなったけど…
 浄化に最も適したタイミングというのは――、自分が「傷ついてしまうツボ」にはまる出来事があって、自己否定的なエネルギーが内に充満しているときだと思う。

 その充満するエネルギーが、ホ・オポノポノでいう「インナーチャイルド」であり、エックハルト・トールが「ペインボディー」と呼んでいるものだろう。
 コア・トランスフォーメーションの「パート」も、それに近いかもしれない(定義の違いは色々あるだろうけど…)。

 そうした、普段は心を深く探らないと見いだせないものが、表層にはっきりと現れ出てきたわけだから、これは千載一遇のチャンスである。
 と言うより――、そのエネルギーは浄化してもらう目的のために、その人が傷ついてしまう出来事をわざわざ外側の世界に引き起こしてまでして、心の表層に現れ出てきたのだと言える。


 そしてそのエネルギーは、心のあちこちをかき回しながら、「お願いだから、浄化してー!!」と、悲痛の叫び声を上げる。
 これが、胸を締め付ける痛みや、鬱々とした気分の落ち込みとして感じ取れるわけだ。

 ではそのとき、どう対応していけばいいか?――


 たいてい人は、苦しみを抱えながら、行動で何とか解決しようとする。
 たとえば誰かから傷付く言葉を告げられた場合、しかもそう言われる原因が自分にもあると思える場合――。自らの態度や行動によって名誉挽回して、その人に認められることで、自分の痛んだ心を回復しようとする。

 そうした対応は、社会的にはそれなりの意味があるかもしれない。でも内面の世界において、それは全く何の「浄化」にもなっていない。
 だから、1つの事態が終わったらまた、内なるエネルギーは同じような出来事を目の前に再び引き起こし、浄化してもらうために現れ出てくる。それが人生の中で、次々に繰り返されることになる…。


 ジョセフ・マーフィーの成功法則の本に載っていたやり方で、苦しみを引き起こしている「小さな自分」に対して、威厳を持って「出て行け!」と言い放つというやり方もある。
 ただ、これには向き不向きがあるのか、僕もかつて何度も試みてみたことがあるけど、何一つ進展はなかった。

 浄化を求める内なるエネルギー、つまりインナーチャイルドが本当に求めていることとは――、厳しい父性によって追い払われることでは決してなくて、むしろおおらかな海のような母性の中に受け入れてもらって、安心することではないかなと思う。


 同じような出来事に対して、心がいつも痛々しく反応してしまうのは、過去に何らかのいきさつがあったからだろう。たいていの場合、実は些細な出来事とか、単なる思い違いが原因だったりもする。
 しかしそれは、癒やされないまま、心の奥に置き去りにされてしまった――。

 インナーチャイルドは、過去に受けた痛みやどしようもない不安、そのとき抱いたナイーブな認識を、今もずっとそのまま持ち続けている。

 そしてこれまでの半生の中で、何度も同じパターンの出来事を引き起こしては、心の表層に現れ出てきた。
 特に、ひどく傷つくような出来事の後には、数分に1回くらいもの頻度で、繰り返し繰り返し同じことを訴えかけてくる。
 「このままじゃ大変なことになっちゃうよ! 自分ではどうすることもできない、この苦しみから救って!」と――


 ところが、インナーチャイルド(いわば小さな子供)がそうして懸命に泣き付いてきていのるに、浄化してあげるべき当人(いわば母親)までが、「苦しいからどこかへ消えて!」と同時にもがいてしまっている。
 ――これが、人の心の苦しみの図式であろう。


 もし心を傷付けられる出来事があって、内側にいつもの締め付けるようなエネルギーが湧き上がり、「このままじゃ大変なことになっちゃうよ!」という思いがよぎったら――

 胸に手を当てて、その思いをしっかりと抱き止め、優しくお礼を言ってあげよう。
 「わざわざ教えに来てくれて、ありがとう」と。

 そして、これまでのことを謝ってあげよう。
 「今までちゃんと気付いてあげられなくて、ごめんね」と。

 最後に、真実を伝えてあげよう。
 「私たちは、どんなことが起こっても、本当は全く大丈夫なんだよ!」と――。


 もちろん、すぐには分かってくれない。小さな子供のように、何度も何度も同じ泣きごとを言ってくる。
 それでも、数分に1回出てくるときにも、そのたびにお礼を言って、謝って、真実を伝えてあげる。聞き分けの良くない子供を、優しくさとしていくように。
 自分が何か忙しい用事をしている最中でも、それが出てきたときには手を止めて、お礼を言って、謝って、真実を伝えてあげる。それ以上の優先事項は、この世界にはない。何しろ「それをするために私たちは、ここにこうして生きている」のだから…。


 やがて、激しく泣き叫ぶ子供がだんだん落ち着いていくみたいに、胸を締め付ける感覚が少しずつ緩んでくる。
 そして、かなりの時間を要する場合もあるけど、インナーチャイルドに「本当は全く大丈夫なんだ」という真実が伝わったとき――、それは浄化される。
 これまで繰り返されてきたパターンは、ようやく終焉する。


 傷ついたときに私たちがいつもしていたこと――、つまり気を取り直すために、他者に許してもらったり認めてもらうことは――、インナーチャイルドにとっては全く望んでもいないことだった。
 「私自身」の内にあるものは、ほかならぬ「私自身」に許してもらいたかったのだ。
 いわば「私自身に対する無条件の愛」によって、抱きかかえて受け入れてもらいたかった。それを私たちは、してこなかった…。

 このことが分かれば、傷つく出来事が起こったとき、待ってました! とばかりにワクワクしながら浄化に取り組める…、と極端にはいかないまでも、少なくとも向き合い方は大きく変わってくるだろう。


 ただし――「自分の中に過去からの『個人的な問題』があって、その原因を取り除く」という観点で取り組むと、大きくポイントを外してしまう。

 ちょっと長くなってしまったので、続きはまた次回に!――



 結びのヒーリング・ミュージックは、Chuck Wild「Society of Dreams」。

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プロフィル

Koudai Mitsuna

Author:Koudai Mitsuna
 
光奈 広大(みつな・こうだい)

 20年のあまりのサラリーマン生活を経て、いわゆる「ザ・マネーゲーム」を何とか卒業。今では束縛されない自由な日々を存分に味わっています!

 そうした中で心がけているのは、普通の日常的な行いを通じて、意識の進化を目指す「カルマ・ヨガ」。

 日々の喜びや学び、インスピレーションから得たスピリチュアルな気付きなどをブログで紹介しています。

 妻子と都内在住――。

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