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 世界全体で1年間に亡くなる人の数は、実に「6000万人」になります。
 これはどれくらいのペースなのかと言うと――、およそ「0.5秒に1人」が他界していることになる。

 変なたとえ方だけど、水道の蛇口からポタポタと水滴が落ちるようなテンポで、今も地上世界から1人また1人と、あの世へと旅立っているわけだ…。

 これをすごく多いと思う人もいるだろうし、世界人口が70億人もいるわりには、意外に感覚的に捕捉できるペースだなと感じる人もいるだろう。


 一方で地球上に生まれてくる人数のほうは、それよりももっと多くて、「0.25秒に1人」という計算になる。
 つまり、この世からこぼれ落ちていく滴の2倍のテンポで、新しい命の滴が注ぎ込まれている、というわけだ(そのため世界人口は急激に増え続けている)。


 こうした一定のペースで、地球上から「出ていく命の滴」「入ってくる命の滴」というふうに全体をイメージしてみると――
 人々の生死が、まるで壮大なひとつの「いとなみ」として、繰り広げられているようにも思えてくる…。

 もちろん人の死は非常に大きな悲しみであり、深刻なテーマだ。
 でもある意味で、そのすべては「0.5秒に1人」の出来事として起こっている「常態の一部分」とも言える…。

 そして、過去に生きた全人類も、いま現に生きている私たちも、いっさいの例外なく――、地上に注がれたひと滴は、必ず地上から去っていくひと滴となる。


 小さな滴の中には、周りの景色が映っている。

 そこに映るのは、ひと滴ひと滴の場所によって異なる「完全にユニークな世界」だと言える。

 この地上から去る命の滴は、自らの中に投影された光景を持ち帰っていくのだろう。
 そうして、あらゆる滴に映された景色を合わせて、ひとつの壮大で精妙な「曼荼羅」を完成させること――
 それが、「大きな私のいとなみ」なのかも知れないですよね!



 このブログの過去記事の中から、評判が良かったものをリライトして、『トリニティー』というウェブ誌の中で連載しています。
 先月から始めて、今のところ3回目です。以下にリンクをしておきますので、こちらもよろしければぜひご覧ください!

 ・第3回「家族とは『惑星』のようなもの」 
 ・第2回
「未来への道筋は、無数に枝分かれしている?」 
 ・第1回
「ワンネスへ還る旅と、モナーク蝶の大飛行」 


 結びのヒーリング・ミュージックは、Chakra Gold「Third Eye Chakra」。

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 「ルビコン川を渡る」、という言葉がありますよね。

 シーザー(カエサル)が、「さいは投げられた!」と叫んで進んで行った場所で、「後戻りできない覚悟で行動に踏み出す」といった意味だ。


 シーザーがそこまで命運を賭けて渡河したくらいなのだから、「ルビコン川」というのは、きっと日本でいえば大井川くらいの「越すに越されぬ」天下の難所なのだろうと、かなりの人が思い込んでいるだろうけど…
 上の写真のまん中にある、何でもない田舎の細々とした小川―― 実はこれが、かのルビコン川である。

 あまりのしょぼさに「え~っ、これが?」という感じでしょう。こんなの、泳げない猫だって渡れそう…
 たぶん、「世界的知名度 ÷ 川幅」で計算したら(無意味な計算だけど)、名だたる大河を押しのけて、ダントツのトップ・スコアになるはずだ。


 なぜこんな小さな川を越えるのに、重大な決断が必要だったのかと言うと――

 当時シーザーは、ローマの北にある属州に左遷されていた。その「州境」にあたるのが、この小さなルビコン川だ。
 そしてローマの元老院から、「軍隊と共にこの川を越えて来たら、反逆者として処罰する」と命じられていた。
 シーザーは禁を破って大軍を率いて川を渡り、内戦を経て、ローマ国を支配する。

 つまり、ルビコン川はいわば「他者から課せられた束縛」であって、川そのものに「越えがたい実体」があるというわけでは全くない――。


 で、私たちは常に、色々な束縛とともに生きているといえる。

 自分の可能性や在り方、さらにスピリチュアルな意味での「私とは何者か」に関しても、徹底的に制限された見方を当てはめてしまっている。

 そしてこうした束縛には、「超えることが不可能な実体」があるわけではない。多くの場合、幼少期からの体験や知識をもとに、自分自身で課し続けた架空的な制限といえる。
 ところがなぜか、その一線を超えた先には、計り知れないほどの危険が潜んでいるようにさえ思える…。


 色んな分野でよくされる話だけど――
 象を調教するとき、幼い子象のころから鎖で杭につないでおく。すると、やがて怪力の巨象になっても、細い鎖につながれているだけで全く逃げようとしない、と言われる。

 また禅の講話にも――、鳥かごの中にずっといた小鳥が大空を夢見ていて、あるとき扉が開きっぱなしになっていることに気付いたのに、鳥かごの中の世界への執着から飛んで出ていこうとしない、といった話もある。


 多くの人が自分に課している制限というのも、そのようなものだろう。しかし、まるで呪縛にかかったように、その一線を越えていくリスクをなかなか冒すことができない。
 その実体のない境界の先には、象にとっての自由が、小鳥にとっての大空が、シーザーにとって君主としての栄光が、広がっているにもかかわらず――。

 私たちにとって本当に最も恐れるべきこと、それは、ルビコン川を越えることなく、この生涯を終えていってしまうことなのでしょう。


 僕が好きな、作家のパウロ・コエーリョの言葉――
 「船は港にいるとき最も安全であるが、それは船が作られた目的ではない」



 結びのヒーリング・ミュージックは、Llewellyn and Juliana「Opening Hearts」。

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 「心の貧しい人たちは幸いである。天国は彼らのものである。悲しんでいる人たちは幸いである。彼らは慰められるであろう」
 「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」――

 これは、新約聖書の中でもとりわけ有名な、「山上の垂訓」と呼ばれる教えの一部です。

 クリスチャンにとっては、いつ聞いても新しい生きた言葉だろうし、さらにはイエスがこれを語ったときの情景――、山の岩の上に腰掛け、多くの群衆に権威ある語り口で説き、そして今までに聞いたことのない教えに人々が感嘆する様子――までもが、聖書に記述されている通りにありありと浮かんでくるかも知れない。


 ところで、イエスが活動した西暦20年代というのは、日本でいえば実に「弥生時代中期」にあたる。

 私たちの遥か先祖が、稲作を始めて集落を作り、土器を焼いていた古代――、それと同じ時代の1人の人物についての行動記録がここまで詳細に伝えられているって、改めて考えてみると、あり得ないくらいすごいですよね…。

 イエスが語った言葉や行い、その場所と周囲の状況、弟子や群衆の態度、支配階級者の取った対応、さらにはその当時の日雇い労働者の賃金とか、小麦の価格といった付帯情報までもが、こと細かに残されている。
 その厳格な几帳面さは、さすがユダヤ社会のなせるわざである。のちに世界金融を牛耳るだけのことはある。


 もしイエスが同じ時代の日本に生まれていたとしたら――
 おそらく何ひとつ記録は残らなかったんじゃないかな(その200年後の女王・卑弥呼でさえ、国内の記録がないくらいだから…)

 それに日本では、イエスが処刑される事態にもならなかっただろう。
 きっと、「村人たちに慕われながら、幸せに長生きしましたとさ。めでたし、めでたし」、といった感じに終わっていたに違いない…。


 神といえば、怒って人々を裁く「恐るべき神」であった当時の世界において、まったく前代未聞な「愛の神」という教えを地上に伝えていくためには――、イエスはどうしても、戒律と法が厳しく支配するユダヤ社会に生まれなくてはならなかった。

 そこで言動が克明に記録され、人々に徹底的に追跡され、そして無残に処刑されて、その衝撃とともに教えが世界に広められていく必要があった――。

 こうした展開は、ユダヤ社会だからこそ可能だったといえる。
 弥生時代の日本では、絶対に無理なはずだ。


 話は大きく変わるけど、前回の記事で『未来からの生還』(ダニオン・ブリンクリー著)の本を紹介しました。

 著者は1975年に臨死体験をし、そのとき世界の未来に起こる重大事件についてビジョンを与えられる。
 それはかなり破滅的なシナリオだったが、「生き方を変えることで、違う未来を選ぶことができる」ということを、高次の存在から伝えられる。

 実際に、「ソ連崩壊」や「湾岸戦争」くらいまでは見事に的中しているのだけど、以降は時代が新しくなるほどどんどん予言が外れていく。
 外れたものの中には、たとえばソ連でチェルノブイリ後も大規模な原発事故が起こってヨーロッパが汚染され、国々が激しく対立するというのがあった。
 また大地震などの天災も世界を襲い、そうしたことが引き金となって、破滅的シナリオが進行していく、といった展開だ――。

 しかし現実には、そうはならなかった。
 これは「予言が外れた」というよりも(途中までは当たっていたわけだから)、まさしく「違う未来が選択されていった」「大難が小難になった」と見ていいのではないかなと思う。


 ところで、その未来予想に出ていた「大地震」と「原発事故」は、年代と場所を変えて、日本の東北地方で同時に起こった…。

 これらは、世界の「破滅的シナリオを引き起こす要因」でもあったわけだけれど、日本においてはそのような方向へはいっさい進まなかった。
 もちろん、ひどく甚大なダメージを受けながらも(原発事故はなお未解決ながら)、震災の危機の真っただ中にあったときも、人々は対立するどころか、助け合いの「絆」を失わなかった。
 そこでは日本人の美徳や強さ、さらに言えば「人間は互いに無償に支え合う存在である」という本質までもが、世界中に示されたのではないだろうか。

 ここまで、「壊滅的シナリオ」とは全く逆の展開へと変えられたのは、たぶん日本だからこそ成し得られたことではないかな、とも思える…。


 ここからさらに、「脱原子力」が可能となるシステムや、「新エネルギー(フリーエネルギー)」への技術革新までをも発信することができたなら――、相当の時代を経た後世の人々にも「この地の、この人々の、この社会だからこそ可能だったのだ」と、振り返られることだろう。
 あのときの震災は、地上世界に革新的なものごとを広げていくための、日本の「パッション(受難)」だったのだと――。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Lifescapes「Pure Relaxation Part5」。

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 このブログでときどき取り上げる、臨死体験の本などについての話題です。

 少し前のブログ記事で『永遠の別世界をかいま見る』(レイモンド・ムーディ著)について書いたとき、そのコメント欄で、ムーディー氏が解説を書いている『未来からの生還』(ダニオン・ブリンクリー著)がとても面白いという紹介をいただいた。


 すでに絶版本なので図書館で借りてみたら――、本当に途中で読むのが止められないほど、引き付けられる内容でした。
 よくもまあ、ここまですごい(というか非道な)半生を歩んで、しかもけっこう筆の立つ人間が臨死体験をして、うまく記録描写してくれたものだと感心してしまう。

 この1冊だけで、「私たちがこの地上世界で人生を送る意味」についての大事なところがつかめるのではないか、と思えるほどの内容だ…。


 著者のブリンクリー氏は、25歳のときに頭から雷に打たれ、いったんこの世を去る。
 皮膚は焼け焦げ、蘇生措置のかいもなく心肺は停止。死亡と診断され、病院地下の遺体安置所に運ばれて行った…。

 そのときブリンクリー氏に、思いがけない体験が起こる。
 気が付くと彼は、身体から浮かび上がって、自分自身の亡骸を眺めていた。すると突如、空中にトンネルが現れて、その中に吸い込まれていく。長いトンネルを猛スピードで抜けた先には、まばゆい愛の輝きに満たされた世界が広がり、そこで崇高な光の存在と出会う――。
 こうした内容は、今や世界中で数多く報告されている臨死体験者の証言と同じものである。


 ブリンクリー氏は光に包み込まれると、これまでの自分の全人生の回想が始まった。そのときの様子をこんなふうに語っている――
 「私の身に起こったことすべてを目にし、感じたのだ。まるでダムが崩壊し、脳裏にしまい込まれていた記憶全部があふれ出したような感じだった。この人生の回想は楽しいものとは言えなかった。初めから終わりまで、胸の悪くなるような現実を目の前に付き突けられることになった。私は実にいやな人間だったのだ…」

 この本の人生回顧の部分は、色んな臨死体験関連の本の中でも、内容や描写力がずば抜けていると思う。


 ブリンクリー氏は、荒れた少年期を過ごした。他の子の持ち物を盗んだり、身体障害を持つクラスメートをひどくいじめた。
 学生時代は、殴り合いのけんかを少なくとも6000回以上はしたという不良だった。それも校内の「番長」とかではなくて、感情のはけ口として理由もなく人にパンチを浴びせたり、自分より強そうな相手には、油断しているすきに背後から襲い掛かって血祭りに挙げるという、卑怯で醜悪な荒くれ者だった。

 死後に人生をかえりみるとき、私たちは自分が他者に対して行ったあらゆることを、「相手の立場になって追体験する」と言われる――。
 ブリンクリー氏もまさに、いじめや暴力の被害者となった人たちの悔しさや苦しみを、その時の「相手の心」になりきって、いや応なくすべて自分のものとして感じ取って体験したという。


 高校を出たブリンクリー氏は、兵役としてベトナム戦争に赴いた。そこで彼は、暴虐な性格に適した特殊任務を与えられる。敵側の政治家や軍部の人間の「暗殺」だ――。
 敵軍の大佐の頭を高性能ライフルで狙撃して吹き飛ばしたり、政府役人が滞在するホテルを建物ごと爆破して抹殺した。爆破によって50人もの他の宿泊客が巻き添えで亡くなったが、当時ブリンクリー氏は「一緒にいたのだから、当然の報いだ」と笑い飛ばしたという…。

 そして臨死体験中、これらの行いも再び繰り返して目にすることになった――。
 犠牲者たちが突然殺されて身体を離れたときの混乱や、もう二度と家に帰れないのだという悲しみを、強烈に味わった。
 さらには、「彼らの家族が、愛する人を失ったと知ったときの悲痛も伝わってきた。彼らが消え去ったがために未来の世代が被った損失を感じることさえあった」と、ブリンクリー氏は語る。


 兵役を終えてアメリカに戻った後は、政府の極秘任務として、友好国に兵器を輸送する仕事に就いた。輸送を完了すると、彼は飛行機に戻り、さっさと帰国するだけだった。 ところが――

 「人生の回想の中では、そう簡単に立ち去れなかった。私は武器とともに現地に残り、それが部隊に分配されるところを見守った。それから、その銃を使って人々が殺される現場も目撃した。自分の役割が生み出した結果を見るのは、とにかく恐ろしいことだった。自らが成した仕事の結果として、世界中で殺人や破壊が行われていたという事実を、いやでも目にしなければならなかった」…、と振り返る。


 これを読むと、死後の人生回顧は本当に徹底しているなと考えさせられる。
 「自分の行い」というのは、自身が直接的に手をかけたことや、その目で見て知っている個人的な範囲だけにとどまらないのだ。

 多くの人々が関係してつながり合う「輪」の中で、自分の働きかけがどのように波及していき、他者の心に何を与えたか――。
 その大きな全体像こそが「自分の行い」であり、そしてその全体像の中に含まれる「あらゆる他者の気持ち」そのものが「自分の人生」と呼べるわけだ。


 こうした痛烈な回顧の後にブリンクリー氏は、落雷で焼け焦げた自らの身体に再び戻り、遺体安置所に運び入れられる手前で息を吹き返す。
 そして奇跡的な回復によって社会復帰も果たした。

 しかし事故の影響から、ずっと心臓に不調を抱えていた。
 そして39歳のとき、彼は心臓麻痺で倒れ、なんと2度目の臨死体験をする――。

 そこで光に包まれて、またも人生の回想が行われた。
 「最初の25年間は、前回の臨死体験のときに見たものと同じだった。その出来事を再び目にするのはつらかった。それは否定できない。しかし、そのあとの14年間は、生まれ変わった男の人生なのだ。その日々の行いがよみがえってきた」――


 彼は高齢者施設でボランティア活動もしていた。
 ある日、ベッドのシーツ交換のために、何年も寝たきりになっていた老女を抱え上げた。そして、少し違った風景を楽しんでもらおうと、老女を抱えたまま建物の中を歩き回ってあげたそうだ。
 彼女は涙を流しながら、何度もお礼を言ってくれたという。

 このささやかな一件をブリンクリー氏が臨死体験中に回想したとき、抱きかかえられた彼女のあふれるほどの喜びと感謝の気持ちが、ありありとわき上がってきたという。


 ほかにも、路地でゴミをあさるホームレスを見てふびんに思い、小さな中華レストランに連れて行ってごちそうしてあげたこと。また、精神障害で入院中のクリスチャンを外の教会に連れて行ったとき、十年間も全く言葉を発しなかったその患者が、皆と一緒に讃美歌を歌ったこと――。
 そうしたさまざまな出来事が、その時の彼らの生き生きとした気持ちとともによみがえってきた。

 「この回想は素晴らしいものだった」と、ブリンクリー氏は振り返る。「人生でかかわった人たちの感情や気持ちが散りばめられた各場面が、華々しい花火のように目の前で炸裂したような印象だった」――


 私たちは幸いにも、今はまだ「人生の回想」の場には立っていない。この人生を、リアルに過ごしている真っ最中である。

 でも、だからこそ――、自分の行いが人々に喜びを与えているか、あるいは直接的・間接的に何らかの苦しみを生じていないかという観点は、「いま生きているからこそ持つに値する」のではないだろうか。ほかのあらゆる価値意識よりも最優先のものとして…。

 結局私たちは、他者を一方的に傷付けたり、軽蔑したり、無視したりなんていうことはできない。後になって必ず全部を、「自分が受けた経験」として味わうことになる。
 それは、つながった「輪」であるということだ――。


 ちなみに、『未来からの生還』というタイトルの通り、ブリンクリー氏は臨死体験の中で、世界の未来に起こる重大事件についてビジョンを与えられる。さらに「他人の心を読む」という特殊能力が身に付く。
 本の中ではその内容にもかなり紙幅を割いているのだけど、でもそれ以上に、私たちにとって本当に恒久的なメッセージといえるのが――、与える者も、受け取る者も「ひとつ」である、ということかなと感じます。


 結びのヒーリング・ミュージックは、Mahanta Das「Infinity」。

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 「すべての水は海へと流れる運命にある」、なんていう言葉があります。
 これは装飾的な表現とかでは決してなくて、地球を循環する水の「自然界における現実」である。


 富士山麓などの湧き水は、山に降り注いだ水が何十年もかけて地層の中を流れて湧き出ている、とも言われる。
 そんな長い歳月を地中で過ごしたら、きっと水だって「自分は海とは無関係な存在だ」なんて思い込んでいるかもしれない。
 それでも湧き出た水は、川を流れ下り、必ず海へと還っていく。

 海の水は、やがて海面から蒸発していく。そして雨となって降り注ぎ、ふたたび大地を流れる――
 このプロセスが、遠大な時間をかけて延々と繰り返されるわけだ。


 ここまで読んで、スピリチュアル関連の本やブログに慣れている人なら――、「つまり海が『あの世』で、地上を流れる水を『この世に生きる魂』と言いたいのだな」と思われただろう。

 ご明察の通りである…。


 でも、いくら水が地球を循環していると言っても――、実はその水が「淡水として地上に在る」のは、けっこう並々ならぬことなのである。

 地球上には、1兆4000億リットルの水がある。
 そのうち海水が占める割合というのは、97%にも上る。淡水は残りのたった3%に過ぎない。

 しかもその淡水のうち、大部分は北極や南極の氷となっていて、河川や地下水など私たちが利用できる形の水というのはわずか0.8%だけなのだ。

 よく「海洋に包まれたこの星は、地球でなく『水球』だ」とも言われる。
 しかしながら、地球にそれほどふんだんに水がある中でも、私たちにとっての「命の水」と呼べるものは、本当に驚くほど貴重な存在であることが分かる。


 で、スピリチュアルの分野では、「あの世では今、この世に生まれ出たいと願う多くの魂たちの順番待ちで、渋滞している状況だ」なんてふうに言われることもある。
 それくらい、この地上世界での人生というのは、魂にとって滅多にない貴重な経験なのだろう。

 なぞらえて言うならば――、もし海の水が「早く淡水になって地上を流れたい!」というふうに願っていたとしても、それを叶えられているのは全体の1%に満たない――、というのと同じくらいの希少性なのかもしれない。


 ちなみにだけど、米国の人口調査局(Population Reference Bureau)が「地球上にこれまで存在した人類の延べ人数」というのを推計していて、その数はなんと1080億人にも上る。

 現在の地球上には70億人が生きている。人口爆発と呼ばれるほど急増しているのだけど、それでも過去から存在した人類の総数に比べたら、その全体のうちのわずか6%程度に過ぎない。
 あとの94%は、既にもう終えられてしまった人生なわけだ。

 「人は生きているだけで尊い」と言われるけど、いま現にこうして過ごしている人生というのは、数の上でもやはり希少なものなのだなと思える…。


 で、ふたたび水の話に戻るけど…

 地球上でとても貴重な淡水、いつか海に還る運命にある水――、そのうちのごく一部分を、私たちはこの体の中に保有ている。
 「神の分け御霊」のような感じに、「命の水」を自らの内に常に宿しているわけだ。

 人間の体の水分量は、胎児だと体重の約90%、子供で70%、成人の場合は60%といわれる。
 大人になるに従って、あたかも精霊的な性質が失われていくみたいに、水分も減っていくというのは面白いですよね。


 さらに言えば――
 私たちは淡水を飲んで摂取しているけど、それを淡水の状態のまま体内で保有しているわけではない。
 私たちの血液というのは、なめると少ししょっぱいように、実は「海水の成分」を体の中で再現しているのだ。

 ただしそれは、今の地球にある海とは違う。現在の海水の塩分濃度は、血液の3倍も濃い。

 私たちの血の液体成分というのは――、驚くことに、生命が誕生した40億年前の海の成分と同じなのだそうだ。
 私たちは、「太古の海」をずっと変えることなく、体の中に受け継いでいる。


 いつかは必ず海へと還る水――。
 私たちは、その本源である海を、いつも内に持ち続けているというわけです。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Erik Wollo「Into the Dream」。

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 中国などの民芸品の、いわゆる「チャイニーズ・ボックス(入れ子の箱)」ってありますよね。

 小箱を開けると、その中にひと回り小さい箱が入っていて、その箱を開けると、また小さな箱があって、それを開けるとさらに…、という構造の入れ物だ。


 このブログでときどき引用する村上春樹の談話に出てくる話だけど――、私たちは「この世界というものの構造を、ごく本能的に、チャイニーズ・ボックスのようなものとしてとらえていると思う」、と同氏は語っている。

 「僕らが今とらえている世界のひとつ外には、あるいはひとつ内側には、もうひとつの別の箱があるんじゃないかと、ぼくらは潜在的に理解しているんじゃないか。そのような理解が、我々の世界に影響を与え、深みを与えている」――と。


 これはまた、なかなかの洞察ですよね…。
 特にスピリチュアルなものごとに関心のある人にとっては、とても納得しやすい考え方だと思う。

 何か大事な教えが腑に落ちたとき、それまでの疑問が解け、目の前が晴れわたったように広がる。
 でも、やがてその先で、これまでの自分の理解ではとらえ難いような、一段と深いテーマに行き当る。
 そして、さらにそれを超えた先にはまた――。といった経験を、多くの人が経てきているだろう。

 ある意味で「探求」というのは、そうした多重構造の中を進んでいくようなものだとも言える…。


 また別の観点だけど、この世界は「フラクタル図形」のように、大きい方へも、小さい方へも、果てのない構造が連なっているという言い方もよくされる。

 もっとも、そこまでスピリチュアル方面に深入りしなくても、「この世の中は色んな側面とか内実があって、ひとくくりにとらえられるものではない」というのは、誰でも日常的に分かっていることだろう。


 そうした世界のあり様に対して、一定の決まりきった見方を当てはめた時点で、真相を外してしまうことになる…。


 で、前述の一文は、村上氏がオウム真理教信者へのインタビューを行ってまとめた『約束された場所で』の本の中で述べられているものだ。
 そのときの信者との語り合いについて、「話をしていても、宗教的な話になると、彼らの言葉には広がりというものがないんですね」――、と振り返る。

 その、広がりがなくて、話の展開がかみ合わない、何とも言いようのないもどかしさの理由について、村上氏は次のように説明している。
 「オウムの人たちは、口では『別の世界』を希求しているにもかかわらず、彼らにとっての実際の世界の成立の仕方は、奇妙に単一で平板なんです。あるところで広がりが止まってしまっている。『箱ひとつ分』でしか世界を見ていないところがあります」――。


 ふつうの社会生活をいとなみながらスピリチュアルに関心を持つ人の場合、カルト教徒のような極端に閉鎖的な見方にまでは、もちろん陥らないだろう。

 でも、チャイニーズ・ボックス的な構造にある世界を、「箱ひとつ分」でしか見ない状況というのは、けっこう誰もが行き当る可能性のある「罠」のようにも思える…。


 たとえば、自分が思い入れのある教えとか技法を、「より良いもの(あるいは正しい道)」として他者に押し付けるように主張する人もときどきいるけど――
 それも、「箱ひとつ分の世界」で見方が止まってしまっていると言えるのではないだろうか。

 また、いわば自分個人の「課題克服のツール」としてスピリチュアルなものごとに取り組んで、その結果の成否によってあれこれ評価している人も――、「箱ひとつ分の世界」の見方なのかもしれない。


 スピリチュアルな「罠」については、色んな本などに書かれている。
 大きなものでは、禅で言う「魔境」がそうだろう。そこまで進んだ段階の体験でなくても、スピリチュアルな歩みによって逆にエゴを満たしてしまうことは、初期の状況からよくあることだ…。

 それらのいわば中間的なものとして、「箱ひとつ分の世界」にとどまった見方というのも、誰もがけっこう注意しなくてはならない「落とし穴」だろうなと思う。


 でも、村上氏が言うように、私たちはこの世界が多層的で、次々に深みが現れてくる構造であることを、まさに「本能的」に知っているのだと思う――。日常社会のとらえ方としても、またスピリチュアルな世界観としても。

 その本能はきっと、意識の中に埋められている「ヒント」のようなものであり、また私たちに差しのべられた「救いの手」とも言えるかもしれないですよね。



 結びのヒーリング・ミュージックは、The Echelon Effect「Tracking Aeroplanes」。

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 日本新聞協会が毎年行っている「新聞広告クリエーティブコンテスト」というのがあって、その今年の最優秀賞作品がなかなか衝撃的で面白いです。

 「ボクのおとうさんは、桃太郎というやつに殺されました」という、乱れた書き文字と、泣く子鬼の姿…。


 「絶対的な正しさなどない」「従来の社会常識を手放そう」といった観点はスピリチュアル分野ではよくあるメッセージだけど、そうしたようなことが新聞という社会的な表舞台でドーンとうたわれること自体、けっこうすごいことじゃないかなと思う。

 たぶん20年前なら、いや10年前でも、国民的英雄伝説である桃太郎を「加害者」に見立てるなんて(しかも公器の新聞紙面上でというのは)、決して大勢に支持されなかっただろう。

 時代はけっこう変わったなと思う…。


 人それぞれの立場や正しさを、多面的に描き出した名作のひとつが、「レ・ミゼラブル」だろう。

 脱獄者である主人公のジャン・バルジャンは、生きるため、受けた愛に応えるため、他者を救うために必死である。
 一方、彼を執拗に追い詰めていく警部のシャベールも、社会秩序を守るという職務の遂行に懸命だ。
 どちら側も、その立場では決して「悪」なんかではない。

 そして同様に、作品に登場するどの境遇の人々についても――、困窮する娼婦も、虐げられた少女も、パリの貧しい民衆も、革命に立ち上がる若者も、欲深い宿屋の夫婦さえも――、その人がそうする必然性や気持ちが十分によく分かる。
 どこにも根源的な「悪」はない。でも、立場の異なる人々や社会情勢に根付く強力な「隔たり」が、非情と苦難を生みだし続けている。


 そしてこの「レ・ミゼラブル」では、善悪や自らの立場を踏み越えた行動(盗みを許す修道士、警部の命を救う脱獄者)が、相手の心を決定的に揺さぶって、物語を動かす――。


 桃太郎の鬼征伐も、「レ・ミゼラブル」の人々のどうしようもない境遇も、歴史の中で現実的に繰り返されてきた物語といえる。
 私たちはきっと過去生で、こうしたありとあらゆる立場を経験してきたはずだと思う。
 過去の物語は、そう展開していくしかなかった。その結末の中で死んでいくしかなかった。

 そしてこの時代に生きるいま――、「ではその上でどうするのか?」を問われているのが、私たちの「今の物語」なのかなと思う。


 前述の桃太郎の「鬼の子の視点」が出てきたことも、「今の物語」が進んで行く方向性の現れのひとつかな、なんてふうに感じます。


 結びのヒーリング・ミュージックは、Kevin Kendle「Skylark」。

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 「人は死ぬことを恐れるべきではない。自分の人生を生きていない、ということを恐れるべきなのだ」――。
 これはローマ皇帝・アウレリウスの言葉です。

 では、この世界で「自分の人生を生きる」本当の意味は何なのかという、根源的なことを問うと…。それは、モノを所有したり、何らかの成果を獲得したりというわけではなく、ただありのままを「感じる」ことにあるのではないかな、と最近思う。


 最近、アメリカ先住民の長老の生き方を記した『グランドファーザーとつり人』という本を読んだ。
 著者のトム・ブラウン・ジュニアは少年時代に、グランドファーザーと呼ばれる83歳のその長老と出会い、それから10年もの歳月を共に大自然の中で過ごした。

 あるとき著者のトムは、「グランドファーザーは、なぜあんなに幸せそうなのだろう」と考えた。そして彼の振る舞いを、注意深く観察した――。

 長老は、大きな杉の木の前に立つと、まるで神に出会ったように、目に涙を浮かべながらその姿を見上げた。
 また小川の前に来ると、水面を静かに手でなで、顔を近づけて水の香りをかいだ。そして水をすくって飲むときには、興奮で体が打ち震えていた。
 それから、これ以上の喜びはないという様子で、大地に横たわった…。

 筆者は、「これほど人が心から『歓喜』する姿を見たことがない」と語る。
 「グランドファーザーという人は、その生涯において、本当の喜びというものを理解するまで、すべての感覚を最大限に使って感じ取ろうとした。普通なら通り過ぎてしまうごくありふれたものに対しても、じっくり観察するのだ」と――。


 中世イタリアの聖人「アッシジのフランチェスコ」は、鳥や蝶や花などと触れ合いながら、神の愛を悟ったと言われる。
 このアメリカ先住民の長老も、まさにそれと同じ意識だったのだろうと思う。


 またエックハルト・トールも、覚醒体験をした朝の様子をこんなふうに記している――

 「私の目には涙があふれていました。寝床から飛び起き、部屋の中を歩き回りました。ふだん見慣れているはずの部屋なのに、それまで、その本当の姿を見ていなかったことに気づきました。目に映るすべてのものが新鮮で、生まれたばかりのようでした。手当たり次第に、そこら中のものを拾い上げてみました。鉛筆、空っぽのビンなど、あらゆるものに息づく生命と、その美しさに、ただただ驚くばかりなのです」――


 前述の「グランドファーザー」の話を読んで考えたとき、すぐに頭に浮かんだのが、チベット仏教のマスターのチョギャム・トゥルンパの『タントラへの道』という本だ。
 その中に、この世に在るものの根源的状態とは、「色(しき)」であると説明している。般若心経にある「色即是空」の「色」のことだ。

 目の前のものを勝手に意味付けしながら見るのではなく、ありのままの「色」として接したときの体験の鮮烈さについて、トゥルンパはこのように説明している――

 「花を見るとき、その色彩は、ただ花を認識することを遥かに超えた、壮大なメッセージを運んでくる。『色』に含まれる深い意味が、私たちを今にも飲み込みそうな力強い勢いで、伝わってくるのだ」

 「例えば、石ころを手に取るときも、その硬さを感じるばかりではなく、それが含む精神的な意味に気付きはじめる。その中に、大地の堅固さと威厳の表現を、現実として『経験』するのだ。私たちは実際に『エベレストを手にしている』と言うこともできる。
 さらに物理的な意味だけでなく、平和やエネルギーの強固さ、つまり滅びることのない力についても語ってくる。石が真に石であることの本質、水が真に水であることの本質を、じかに知ることができるのだ」――

 このトゥルンパの話については、過去のブログ記事「タントラへの道」をかいつまんで(5)――「色」を感じるために、ここにいるで詳しく紹介している。
 で、この数日、なぜかこの古い連載記事に対するコメントをいくつかいただいた(古い記事へのコメントは、けっこう珍しいことなので不思議)
 「感じることが大事だよ」という、メッセージなのでしょうか…。


 私たちの目の前に展開している世界が、まさに打ち震えて歓喜するほどに素晴らしいものならば、それを感じようともせずに「いったい何をしに生きているの?」ということだろう。

 そして人生の価値が、「何を所有したか」や「どんな成果を得たか」ではなく、「どれだけ感じたか」によって決まるとすれば――、明日からの生きる目的はコロッと転換してしまうでしょうね!



 結びのヒーリング・ミュージックは、Llewellyn「A Glimpse of Paradise」。

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 僕はこれまで日記を付けたことがないのだけど、一時期「スピリチュアル日誌」みたいなものを書いていたことがあります。

 それも紙のノートとかではなくて、パソコンの表計算ソフトで。
 縦一列に毎日の日付を並べて、その横に当日のことをメモ的に書き込んでいくという、とても簡素なものだ。

 記入する内容は、たとえば「自分のフィーリングと闘わない」といったその時々の気付きや思い、「多様なる現象の本性は不二である」なんていう本などからの言葉、さらには「玄関に鳥の羽根」といったシンクロ現象や見た夢の記録とかである…。

 まったくランダムな内容を列記したようなものだけど、振り返ってみると、自分自身にとってけっこう役立ったなと思う。
 日々印象に残ったものごとを「書き記す」ことによって、それを自分の内によりはっきりと刻み込むことができたし、「確か前にもその言葉を聞いて大事だと思ったけど、すっかり忘れてしまっていた」なんてこともなくなる。


 書き始めは2006年からで、2010年で終わっている。
 これは挫折したわけではなくて、最初にこの表計算ソフトのファイルを作成したときに、そこまでの日付をあらかじめ決めて打っておいた。つまり計画的な終了のタイミングである。
 そして、「この時期くらいまでに色んなことを理解して、自分に何らかの変化が起こればいいな」と考えていた――。

 そして、2010年に最後の一行を記入したとき、自分の周りの状況を見渡して、「結局はほとんど何も変わらなかった…」と、すごくがっかりしたのを覚えている。


 ところが翌2011年早々から、自分がいる職場で色んな出来事が起こり、さらに大震災もあった。
 そしてその年の半ばに、僕は早期退職に踏み切り、人生の状況はまさしく一変した。

 振り返ってみると、あのように日誌の「終了のタイミング」を決めておいたことに、何かしらの意味があったのではないかとも思う(もっと早いタイミングに設定しておけば良かったのかも知れないけど…)


 さらに日誌をざっと見返してみると、その時々で本当に色んなテーマに関心を持っていたことが分かる。

 「願望実現」や「引き寄せ法則」のことばかり書いていたときもあれば、「ホ・オポノポノ」が中心になっている時期もある。「神との対話」「I AM THAT」などの本から色々転記していたり、「気付き」の意識の修練に傾注したり、アドバイタ(不二一元論)の教えを熱心に調べたりもしている。ヘミシンクとか、易経の関連まである…。


 で、たいていは毎日みっちり書いてあるのだけど、ぽっかりと半年間ほど全く記述のない空白がある。

 その直前を見ると、こんな言葉が書かれている――

 「出来事や経験に『悪』というレッテルを貼るのをやめ、かわりに『イエス』といって受け入れるとき、そして物事をありのままに放っておくとき、どんな変化が起こるか観察してみてください」

 「あなたは宇宙にぽつんと取り残された『かけら』ではありません。保護し、防衛し、養わなければならない自分自身は存在しません」


 ――これは、エックハルト・トールの言葉だ。
 どうしてそれから半年間も日誌が停止したのか、まったく覚えていないのだけど、本を読んで強烈に揺さぶられるものがあったのだろう。

 たぶん、それまで「精神世界的な概念」として持っていた色んな知識が、一気に「自分にとってのリアルなもの」と化し、日常領域にどっと押し寄せてきて混沌を引き起こしたのかな、とも思う。


 この「空白期間」こそが、実は「内的な変化の時期」だったのでしょうね。
 僕の場合はその間も、表面的にはいつも通りのサラリーマン生活に忙殺されていたけど、中には失業したり療養をしながら、徹底した「空白」を強いられる人もいる…。

 でも、それこそが変化の時期、蝶がさなぎから羽化へと向かうときなのでしょう!



 結びのヒーリング・ミュージックは、Frederic Delarue 「Welcome」。

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 スピリチュアルな真実を本などで知って、それまで持っていた世界観や人生観の大きな部分が覆される経験って…、十何年に一度くらいかもしれないけど、ありますよね。(そうしょうっちゅうあったら大変だ)

 僕の場合は、いちばん衝撃的で、内容的に面白くて、さらに自分自身のテーマとしても身近に感じられるのが――、「臨死体験」の分野の本かなと思う。


 事故や病気によっていったん死の状態に陥り、そして奇跡的に生き返った人たちが語るとても不思議な証言の数々は、宗教や文化・民族・地域を超えて共通している。

 それは、人がまさに息を引き取ったとき――、身体から離脱して自分自身を上方から眺め、人生のさまざまなシーンを瞬時に回顧する。そして、この世のものとは思えないまばゆい光が差し、時空を超えるトンネルをくぐり抜け、亡くなった親族に再開したり崇高な存在と出会い、さらに壮大な天界の光景を目にしたり、大いなる愛に包まれる――、といった体験だ。

 この分野は、医師や脳科学者などによる研究報告や著書も多く、蘇生医療の進歩によって体験事例のほうも増え続けている。
 そうした点が、たとえば心霊とかUFO、超古代文明などの分野とは少々異なるポイントかなとも思う…。


 数多くの人の臨死体験の内容が明らかに「共通している」こと自体、そこに重大な「未知の事実」が秘められていることをうかがわせる。
 さらには、体験者が「私たちは肉体を超えた永遠の存在である」ことを知り、以後の生き方が大きく変容した話などを読むと、それが「魂の真実」として信じるに値するものに思える…。


 で、そうした臨死体験に関する驚異の「第2波」ともいえるのが、最近知った「臨死共有体験」という現象だ。

 『永遠の別世界をかいま見る 臨死共有体験』(レイモンド・ムーディ著)という本を読んだのだけど、そこに記されているのは――、死にゆく人の最期を看取る人までが、臨死のときに起こる神秘現象を一緒に体験することがある! という、信じられないような事例である。

 言うまでもなく「死」は、その当事者だけの個人的な体験のはずである。なのにそれを、そばにいる他者と「共有」するなんて、絶対にあり得ないと思うのだけど…。


 この本の著者のムーディ氏は、「臨死体験研究の父」と呼ばれる医学博士で、1970年代に体験者の証言を集めてその諸要素を明らかにした『ライフ・アフター・ライフ』(邦題は「かいまみた死後の世界」)を著した人物である。
 この本はこれまで世界中で何と1400万部!も売れた。「臨死体験(near-death experience)」という言葉も、実はこの人が作ったものだ。

 世界的ベストセラーで著名になったことによって、ムーディ氏のもとには毎日多数の体験談が寄せられるようになった。
 そしてさまざまな事例を調べているうちに、その中の一部に、臨死体験が身近な家族や友人などと「共有」されるという、一般にほとんど知られていない事実があることを発見した。
 それから実に数十年もの研究を経て、最近になって新たに著されたのが、この『臨死共有体験』の本というわけだ。


 臨死体験がどんな人の場合でもほぼ共通しているのと同様、臨死の「共有体験」のほうも、その内容はどれもすごく似通っている――。

 死にゆく人の最期を看取ったとき、その人の姿をした(あるいは煙のような)魂が肉体から抜け出るのを目撃する。このとき、そばで看取る人までが、自分自身が体から離脱していることに気付くこともあるという。
 そして、死にゆく人の人生が走馬灯のように映し出されるのを一緒に眺める。もちろんその中には、本人以外が知らないような場面も含まれている。

 やがて部屋の空間がゆがみ、空間の裂け目からまばゆい光が差し込んでくる。亡くなった人はその光の中へと吸い込まれて行く。看取る人も途中まで付いて行って、引き返すこともあるという。
 そこでは、形容しがたいほどの幸福感に包まれる。そして死にゆく人から、「私は大丈夫だから、もう心配しないで」といった言葉をかけられたりもするそうだ。

 そうした事例が、本の中に次から次に出てくる。
 驚くべきことに、たとえば親の死を何人かの子が看取ったとき、複数がそれを同時に体験することもあるという…。


 通常の臨死体験もただならぬことだけど、それにも増してこの「共有体験」のすごいところは、いわゆる「脳内現象説」をひっくり返してしまうという点だ。
 臨死体験の神秘現象について、医学的な見解としてよく「機能が停止しかかった脳の錯乱によるものだ」とも説明される。最近の脳神経科学の進歩によって、この説もさまざまな裏付けを固めつつある。

 ところがこの「共有体験」について言えば、看取る人のほうは死に瀕していないし、病気でもない。しかもその場にいる複数の人が同時に体験するとなると、もはや「脳内現象説」はまったく成立しなくなってしまう…。


 もう1つ、とても面白いのが、「記憶」に関することだ。
 スピリチュアルの分野では、人間の脳は「記憶装置」ではなく「通信機器」のようなものだ、という言い方もされる。
 つまり、最近のクラウド・コンピューティングの図式のように、外側のどこかわからない所に、私たちの記憶データが蓄積されているということだ。

 で、臨死の「共有体験」の際に、亡くなる人の人生回顧を他者も一緒に眺めるということは――、それらの記憶がまさに「脳の外側の宇宙構造」の中に存在していることの現れだと言えるだろう。


 そしてさらに興味深いのは、臨死体験の場合と同様に、「共有体験」をした人も世界観や人生観が一変してしまうことだ。
 本の中には、「共有体験者」のこんな言葉も記されている――

 「以来私は思うのです。私たちがいるこの地上世界は、私たちの想像の産物、虚構に過ぎないのではないかと」
 「私たちが地上で持っている肉体はある種の住まいに過ぎず、いずれ去るべきもので、その中にある魂こそが永遠なのです」

 また体験によって、喪失の悲しみを癒やされた人もいる――
 「それまで私は、夫の死の際に自分はどれほど悲嘆するだろうと暗い思いを持っていた。でもいま感じることは、奇妙にも喜びと幸福だけなのです。なぜなら夫の魂は、肉体の死を超えて生き続けることを知っているからです」


 私たちが日常的に「他者と共有する」というとき、それは何か形あるものか、あるいは内なる「思い」や「感情」のことだろう。
 それももちろん素晴らしいことだけど、さらには「死の体験」や「人生の記憶」、そしていわば「魂の永遠性」までをもリアルに共有できるというのは――、本当に私たちの潜在能力なり本当の在り方というのは、想像を超えてすごいものだなと思わずにいられない。

 話はずれるけど、覚者の中には本などを書いたりはせずに、一対一のセッションだけを中心に行っている人もいる。
 これも、永遠性なり至福の状態を「共有」できるからこそ(あるいは共有するしか伝えようがないからこそ)、そのようにしているのかな、なんてことも思いました…。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Aeoliah「Awakening」。
  ☞ コメント:31

 


 元プロの格闘家で、スピリチュアルな著書も多い須藤元気さんの本を読んでいたら、「自分の転生のテーマを知る方法」ということについて、こんな一文が書かれていました――

 前世は1つでなく、誰にでも無数にある。
 だが、今生であなたが深くかかわりがある前世を知りたければ、ひとつ方法がある。それは、あなたの周囲にいる人々だ。
 両親であったり、姉妹であったり、友人であったり、上司であったり、あなたが何らかの避けがたい関係があり、なおかつ多くの場合はあなたが快く思えない人たち。その人々の不快な言動や態度、人生観こそが、あなたが前世から引き継いでいる「転生のテーマ」を映し出しているのだ。


 「ソウルメイト」とかいうと、見えない絆で結ばれた、目が合うだけで互いに理解し合える間柄のようによく思われる。
 でも逆に、ここで言われる「避けがたい関係にある、快く思えない人たち」こそが、実は魂として深い結び付きがある相手なのだろうと、僕自身もずっと感じている…。

 で、僕の場合その相手というのは、紛れもなく「妻」である――。
 過去のブログ記事でも2回ほど書いたことがあるけど、僕の妻は鬱を患っていた。家事がほとんどできず家の中は散らかり放題で、被害妄想もひどかった。幼い息子には虐待まがいのことをしてしまうし、そして僕に対してやたらと攻撃的なきつい非難の言葉ばかり口にしていた…。

 一方の僕も、仕事に忙殺されるサラリーマンだったため、心の余裕なんて全くなかった。妻の話をじっくり聞いてあげたり、ありのままを受け入れることもできなかった…。


 でもやがて、「ひょっとしたらこれは、僕にとってのこの人生の課題なのではないか? 妻はわざと(顕在意識では知らずにいるけど)、僕のためにこんな役柄を演じているのではないか?」――、という思いに至った。というか、まさに気付いた。

 そのあたりの思いとか経緯とかは、このブログの初期のころの記事『反面ツインソウル』に書いています。当時、けっこう長く自分と向き合いつつ書き起した内容といえるかな…。


 そのように気付き、妻のあらゆることをそのまま認めて、無条件に受容するようになったら――、自分の意識も、身の回りの状況も、在り方も、本当に「シフト」と言ってもいいくらい、短期間のうちに様変わりしていった。
 これまでの人生、あるいは過去生から蓄積してきたような多くの「余計な観念」を、ごそっと捨てることができた。
 それから色んな理解も得ながら、こうしてこんなブログを書いたりもしている。

 それは僕にとって、まるで殻から抜け出たような、間違いなく「最も貴重な人生経験」だったといえる。

 妻との関係は、今もまだ互いに理解し合える仲とは程遠いのだけど…、でもまさしく僕自身の「転生のテーマ」として、こうして共にいるのだなと確信しています。


 話は少々ずれるけど――

 前にこのブログで輪廻転生について話題にしたとき、コメント欄の中で「いわゆる『ループもの』の物語についてどう思うか?」という質問をいただきました。
 ループものとは、例えば小説や映画でよく知られる「時をかける少女」のように、過去にタイムトラベルして未来に起こる出来事を変えようとする物語の一形式だ。

 ただ、スピリチュアルな世界観では、過去も未来も存在しなくて「今の瞬間」しかないわけだし、あらゆるものごとが「最善」として起こっているのだから、そうしたタイムトラベルの物語構造は全く相容れないものだと言える。
 でも、「もしも可能だとしたら自分はどうするか」という空想をちょっと巡らせてみるのは、けっこう面白いと思う…。


 もしも過去に戻って、未来を変えられるとすれば――、僕は今の妻を選ばないだろう。
 もっと優しくて、明るい性格で、家事・育児の能力もしっかりあって、話題が共通して、互いに慕い合える、そんなパートナーのほうが絶対いいに決まっている。
 そして、過去へと戻った僕は、「思いを寄せながらも縁がなかった素敵な相手」との関係構築に、あの手この手で奔走するに違いない。

 そして、その願いが晴れて成就したなら――、それはとてもハッピーな人生だ。これまでの経験からは想像できないくらい、穏やかで幸せな家庭生活を送れるかもしれない。


 でも、一方で、今の妻と一緒にいたからこそ手放すことができた「余計な観念」は、そのまま積み残しになってしまう。
 今生の僕にとっての「転生のテーマ」は、次回の宿題として先送りされる…。
 もちろん気持ちとしては幸せだろうけど、言うならば「カルマ」に手を付けることなく、土の中に埋めたようにしたまま、一生涯を終えることになるわけだ。

 「それは本望ではない! せっかく転生のテーマをやり遂げるためのシナリオを万端に整えてこの世界に生まれてきたのに、こともあろうか、それ自ら変えてしまったなんて!」――と、きっと死ぬ前に気付くはずだと思う。
 そして僕は、再び過去にタイムトラベルして、今の妻と結ばれるようにやり直すことになるだろう…。


 何だか気が重くなるような「ループ」である。結局は、輪廻をもっと効率悪くしたような事態になってしまう…。

 でもそうした無意味な徒労などをせずに、ふつうに生きていれば「転生のテーマ」が自然に現れてくるというのは――、まさしくここで「最善」のことが起こっている、と言えますよね。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Merlins Magic「Healing Hands」。

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プロフィル

Koudai Mitsuna

Author:Koudai Mitsuna
 
光奈 広大(みつな・こうだい)

 20年のあまりのサラリーマン生活を経て、いわゆる「ザ・マネーゲーム」を何とか卒業。今では束縛されない自由な日々を存分に味わっています!

 そうした中で心がけているのは、普通の日常的な行いを通じて、意識の進化を目指す「カルマ・ヨガ」。

 日々の喜びや学び、インスピレーションから得たスピリチュアルな気付きなどをブログで紹介しています。

 妻子と都内在住――。

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