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 冬至も過ぎた年の暮れ。これから寒さはどんどん厳しくなっていく一方です。

 でも、公園などを散歩したりジョギングしている人は気付いているかもしれないけど――
 葉がすっかり落ちたサクラの小枝をよく見てみると、もうたくさんのつぼみを付けているんですよね。

 冬のからっ風に吹きさらされる裸木は、見るからに寒々しい姿だけど…、でもそんな木々の内では、春の開花への生命力をみなぎらせている状態だ。
 つぼみもけっこう丸々していて、暖かくなったらすぐに咲けるくらい、「いつでもいらっしゃい!」といった様相である。


 有名な『神との対話』の本の中で――、失業生活のどん底で不平をぶちまける著者のウォルシュ氏に対し、「神」は語りかける。

 あなたは「今のざまを見てください」と言い、自分は救貧院行きの一歩手前だと言う。だが、私はぜんぜん別の見方をする。私の目に映るのは、豊かな家の一歩手前にいる人間だ!

 神の目には、人の逆境がそのように映るのと同様――、サクラから見た厳しい冬というのも、まさしく「春爛漫の一歩手前」にほかならないのでしょう。


 ところで、春になるといわゆる「桜前線」が、九州から北海道へとどんどん北上していく。
 ならば、暖かい沖縄が一番早く咲くのかというと、全くそうではない。

 以前も一度書いたことなのだけど――、気象協会が発表するサクラの開花予想の説明を見ると、対象は「沖縄・奄美地方を除く全国」となっている。
 沖縄には、サクラの代表品種である「ソメイヨシノ」の木は生えていない。

 調べてみたら、沖縄にも植樹されたソメイヨシノが存在するそうだ。
 ところがその木は、咲くことも葉を付けることもなく、細い枯れ木のような姿で、ずっと眠ったままの状態でいるという。
 寒い冬がない地域では、サクラは成長サイクルのスイッチが入らず、開花することも育つこともできないのだ…。


 一斉に見事に咲きほこるサクラにとって、冬は実はものすごく大事な時期といえる。
 そしてきっと、とくに大事なことは――、そんな時期にある中で、「その目に何が映っているか」なのでしょう。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Nicolas Jeandot「Nature Relaxation」。

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 僕は本を読むときたいてい、気に止まった言葉に線や付箋をどんどん付けていって、それをパソコンに書き留めるようにしています。

 そうして書いておいたファイルがけっこうあるので、最近は「蔵出し」のようにその中から短いフレーズのものを選んで、ツイッターで紹介したりもしています。


 過去に胸に響いたメッセージを改めて振り返ってみると――、身近な他者との「関係性」や「受容」に関するものがけっこう多い。
 何年か前まではそれが、自分にとって、日常と人生の最大テーマでもあった。

 ときどきブログでも書くけど、かつて妻が鬱を患っていた。
 僕が会社でくたくたになって家に帰ったら、妻からの被害妄想や理不尽な中傷の「口撃」を容赦なくどんどん浴びせられ、一体どう対処すれば良いか…と悩んでいた。

 そうした中、僕にとって内なる支えとなったのが、「ラムサ」の本に出ていた以下の一文だった。

 他人に「間違いをする余裕」を与えなさい。何てことはない、彼らは叡智を得ようとしているところなのだ。その余地を十分に与え、過ちを探してはならない。
 両親が適切に育ててくれなかったとしても、許しなさい。人を育てる方法を、本当に知っている者などいないのだから。


 これは今も、本当に大事なポイントだと思っている。
 この「余地」を与えることができるかどうかによって、自分の悩みの度合いや、そして直面する状況そのものも、驚くほど大きく変わっていくことを実感している。

 また僕自身の場合は「両親」についてはそれほど当てはまらないのだけど、幼少期からの親子関係で大きなわだかまりを残している人は少なくない。
 イエスが十字架にかけられるときに祈った通り、人は「自分が何をしているのか知らない」状態なのだ。自分に傷を残す他者に対してこそ、この「許し」はとても必要な視点だと思う。


 しかし本当に、夫婦や親子など身近な相手ほど、よその人ではあり得ないほど無遠慮に、強烈な感情をぶつけてくる…。
 「前世療法」のブライアン・L・ワイスは、こんなふうに語っている。

 その人にとって、あなたは安全な相手であり、たとえ怒らせても深刻なことは起こらないと知って、きつく当たることができているのだ。
 あなたが忍耐強くあれば、調和を取り戻すことも難しくない。

 近くにいるが目覚めていないソウル・メイトは、時にあなたに多大な苦しみを与える。目覚めていないとは、簡単に言えば「魂のことを知らない」ということだ。
 その相手が、やがて歳をとってから目覚めることもあるだろう。この人生で目覚めない場合は、別の転生でチャンスが与えられる。

 ものごとは長い目で見ることは大事だけど、こと関係性のテーマについては、場合によってはこんなにも長くとらえる必要があるんですね…。


 簡単には離れられない家族関係のほかにも――
 誰かの考え方や、あり方そのものが、自分には到底受け入れられないと感じるケースもあるだろう。
 自分が大切にする信条や感覚に反する人物が、この社会でのうのうとまかり通っていること自体「決して許せない、スルーできない」といった憤りを、色んなことろで見聞きする。

 「神との対話」で著名なニール・ドナルド・ウォルシュが、このように述べている――。

 その人の魂の旅を決めるのは、あなたではない。
 あなたがどんな存在であるかを決めるのはあなた自身だが、他の人がどんな存在かを決めるのは、あなたではなくて本人だ。

 もし嘘をついたり、騙したり、悪だくみをしたり、人や物を傷つけたり、他人を操ったり痛めつけたり、生まれてこのかたずっとそう過ごしてきた人が、そこから何かを――一生かけて学ぶにふさわしい何かを――学んで「次のレベル」に進化したとしたら、どうだろうか?

 またもし、福祉援助を受けながらただぶらぶらと人生を無駄に過ごし、70年ものあいだ寝転がって詩を書いていた人が――、最後に書き上げたひとつの詩によって、何千人もの人々の深い理解と洞察への扉を開いたとしたら、その人生は「無駄だった」と言えるだろうか?


 怒りや嫌悪や苦しみは、過ぎ去るものであること。その背後にある可能性と愛は、永遠無限であること――。この真実を体得することが、関係性のテーマにおける一つの要点なのだろうと、今ではとらえている。
 僕にとって妻の鬱は、それに気付くための大きなチャンスだったのだなと、過去に書き留めたファイルを眺めながら感じました。

 幸いにも僕の場合は、歳をとったり次の転生を待つほどの「長い目」で見る必要もなく、関係性の苦しみの状況からとりあえずは抜けることができた。
 また状況がどうであれ、こうしたメッセージを身に染みるように理解すると、ずいぶんと「生きやすく」なるのは確かです。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Niall「Calling My Angels」。

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 前回記事、からの続きです。
 スピリチュアル分野のややディープな話題だけど…、でもいつかは多くの人が気にするであろうテーマかなとも思い、ちょっとまとめてみました――。


 今年いちばん素晴らしかったスピリチュアル本『喜びから人生を生きる』の中で、著者のアニータ・ムアジャーニは、自らの臨死体験を通じ「輪廻転生を超えて進化したいという願望はなくなった」と語っている。
 これは、伝統的に説かれてきた教えとはちょっと異なる見方だな、と感じていたら…

 先日読んだティモシー・フリーク著『神秘体験』という本でも、それに近い以下の考えがきっぱりと述べられていた。

 悟りの状態において私たちは、自らに完全に気付き、永遠に目覚めることができるとされている。
 輪廻転生から自由であるため、問題だらけの人間にもう戻ることはないと言われる。そして、偉大なマスターたちはきっとこのゴールに達したはずだと考えている――。

 しかし私は、目覚めの旅をこのようにはとらえていない。究極の状態にたどり着くことを希求してはいない。自我を根絶するという考えは、私を魅了しない。


 ちなみに著者のティモシー・フリークは、12歳で意識の目覚めを体験し、哲学の学位を持つ思想家で、世界各地でセミナーやリトリートを行っている人物だ。


 スピリチュアルの教えでは、私たちは根源的には、大いなる「ワンネス」の存在だとされる。
 そして、人々が「分離」したこの世界は幻であり、そんな夢から完全に目覚めていくことが「魂の道」だと説かれる。思考するマインドは目覚めの障害であり、エゴは消し去るべき低次の自分とも言われる。

 ところがティモシー・フリークは、こうした「ワンネス」と「分離」という両局面が一体になったあり方こそが、実は私たちの本当の神秘であると語る。
 そのうちの片側を否定する発想では、真実の半分を見過ごしてしまい、生の深遠さを理解することができないと強調する。

 ちょうど光の性質が、実験の方法によっては「波」として現れることもあれば、「粒子」として現れることもあるように――、私たちの真実というのも、両局面の矛盾をはらんだ「パラドキシー」なのだと説明する。

 表面において私は、物理的肉体であるように見える。
 しかし自らの内を深く見つめるとき、本質的には物理的世界に存在していないことが分かる。
 表面で分離の世界を生きながら、奥深くではすべてとひとつである。

 また私は生きることから分離していない。「生きることと、ひとつ」なのだ――。


 そして彼は、人間性を否定したり幻想を超越するのではなく、目覚めながらもこの世界に向き合い「人として生きる奇跡」の道について語っている。

 私もかつては、十分に目覚めることができれば、情熱や感情に振り回されることのない超越した存在になれると考えていた。けれど、今はもう超人間になりたいとは思わないし、人間であることを喜んで受け入れる。
 私は、人間性を障害とするスピリチュアリティではなく、個人として生きることのまばゆい美しさを称えるスピリチュアリティを求めている。深い自己に目覚めながら、人間性を祝福する道だ――。

 私自身が目覚めについて説きはじめた当初、多くの人が分離の状態に固執していた。そのため、「ワンネス」にワンダーすることを強調してきた。
 しかし今日では、分離の状態を克服するものだという人があまりにも多いため、むしろ「分離のワンダー」について語ることが多くなった。
 分離を否定し、人間として生きることの奇跡を無意味な幻想として無視すると、深い愛の経験から遠ざかってしまう。



 この『神秘体験』の本の中でとても面白く読めたのが――、非二元論を強調する「スワミ」という友人と、著者本人「ティム」との、架空の議論を仕立てながら説明している個所だ。
 ティムは、「私たちはすべての存在のワンネスだ。けれど今、僕はこの自分としてこうやって神秘的に現れている」と、自らの考えを語る。
 友人のスワミは、それにすぐさま反論する――。

 スワミ「自分という既成概念を終わらせれば、本物のギャーニ(知のヨガ行者)になれるのに」
 ティム「それはしっくり来ないな。個性を抑圧するのではなく表現したい。僕の経験では、分離した個人として現れることは、スピリチュアルのたたりなんかではない。それに入り込むと躍動感でいっぱいなんだ」
 スワミ「モクシャ(解脱)の開放感を知りたいなら、自分の物語に執着するのはやめないといけない」
 ティム「物語から解放されたいのではない。自分の物語へと解放されたいんだ。そしてそれを、心から楽しみたい」
 スワミ「意識は受動的に世界を目撃しているだけだよ」
 ティム「そうだね、僕もそう思う。けれど、世界を受動的に目撃しながら、世界を変えているんだ」
 スワミ「君の愛らしいアプローチより、僕はアドヴァイタ(非二元)の永遠なる叡智にもとづいて物事を考えたいね」
 ティム「いいさ、君の選択を尊重するよ」
 スワミ「馬鹿だなぁ。言っているじゃないか、自由意思なんてないんだよ」
 ティム「僕はそう信じないことを選ぶよ」

 ――上記は一部だけど、こんな具合に話がほとんど相容れない。
 確かに実際にそうなるだろう。自分の物語というのは「人を固執させる無意味な幻想」と見るのがむしろ普通だし、そうした信条からすれば、「分離のワンダー」とか「矛盾をはらんだパラドキシー」なんて、もはや道を外れたような見解ともいえる…。


 では、この分離を否定しないスピリチュアリティというのは、生を通じて何を見いだし、何に目覚めていこうとするのか――。

 「私は目覚めの体験を通じ、人間としての冒険から逃げるのではなく、そこにもっとコミットしたくなるのだ」と、ティモシー・フリークは語る。
 その目覚めの先に開かれるのは、私たち本質としての「愛の発見」と、その愛にもとづいた「創造プロセス」だという。

 深く目覚めると、私たちの本質である海のような大きな愛を見つける。けれどこれは、目覚めの終着点ではない。
 この本質である愛は「表現される」ことを待ち望んでいる。愛は感情であり行動だ。それを与え、他者に手を差し伸べ、世界中によきことを作り上げる――。これは愛の内に秘められた性質だ。

 同様に、こうも語っている――

 スピリチュアリティの目的は、自分自身に気付くことであるとされる。だが、目覚めのパラドキシーには、もう一極がある。
 目覚めとは、自分を表現することでもある。世界に新しい可能性をもたらすために、目覚めの根源を土台にして生きる創造プロセスへと入っていくのだ。

 私たちは分離していながら、分離していない。それは私たちが「深い愛においてひとつになれる、ふたつ」だからだ。
 私たちにとって重要なのは、深い愛だけ――。



 そうした話の中で、こんなポップ・ミュージックの歌詞を引用している。

「美しい他」であること。
だからあなたを愛する。愛らしさに迷う。
あなたの「美しい他」であることの、愛らしさに。

 「美しい他」――
 これはなかなか核心をとらえた言い方というか、まさしく分離を伴う三次元世界だからこそ成立し得る、最大の魅力と言えるかもしれない。
 とらえようによっては、「絶対的ワンネス」にもひけを取らないくらいの素晴らしさが、「美しい他」というものにはあるかも…。


 「美しい他」といっても(もちろん当然ながら)、単にあこがれて執着したり、自分の欠落感を感じるための対象なんかではない。
 私自身もまさしく「美しい他」であり、そのような相対の世界に生きながらも、あらゆる「美しい他」が奥深くでは完全にひとつとして在る――

 こんな、既存の端的な文言では表現しきれないような、「パラドキシーな真実」に目覚めていくという切り口も、なかなか素晴らしいなと感じます。


 この切り口は全く気に入らないという人もいるだろうけれど…、その一方で、「くどくど述べるまでもなく、感覚的にすぐ分かる当たり前のことじゃないか」と思う人もけっこう多いのではないかな。

 そう思える人が最近増えているなら、これもスピリチュアルの新しい流れなのでしょう。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Paul Sills「Cloud Dancing」。

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 今年読んだ本はたぶん50冊くらいだろうけど、その中で最も面白かったのが、『喜びから人生を生きる』(アニータ・ムアジャーニ著)です。

 末期がんから臨死体験をして奇跡的に生還した彼女のメッセージは、まさに今の時代だからこそ、託されて持ち帰られたものだろうと感じる。
 このブログでも紹介したところ、今もときどき「『喜びから人生を生きる』を読みました」というコメントをいただく。あの素敵なメッセージに触れるための、何人かにとってのきっかけになったのであれば、僕自身もブログを書いていて本当に良かったなと思います!

 ちなみにアメリカのamazonを見たら、この原書の読者レビュー数が1,000件を超えていた。
 近いジャンルの本では、ブライアン・L・ワイスの『Many Lives, Many Masters』(邦題は「前世療法」)のレビュー数がそれくらいだから、本当にすごい影響力ですよね…。


 で、この本の内容で僕がとても気になったのが、「輪廻」や「進化」に関する彼女のとらえ方である。

 著者のアニータは、インド系でヒンドゥー教の家庭に生まれ育った。
 彼女は最初から「輪廻思想」を持っていた。そのうえで、臨死体験を経て思い至ったのは、以下のけっこう踏み込んだ観点である――

 臨死体験の前、私の人生の目的とは、「輪廻転生を超えて進化し、二度と肉体に戻ってこないように努力すること」でした。
 けれど臨死体験のあと、私はまったく違うように感じています。いま自分がいる場所以外のところへ行きたいという願望はなくなりました。もっと地に足を付けて、今この瞬間の素晴らしさにすべての注意を向けようと思っています。

 もし輪廻転生の概念が、多くの人が信じているものではないとしたら、私たちのゴールがこれまで考えていたものとは全く逆だとしたら――、天国とは死後世界ではなく、身体を持つ今ここに存在するものだとしたら、一体どうなるでしょうか?
 天国を体験するのに死ぬまで待つ必要はありません。私たちの真の素晴らしさは、今ここに存在しているのです。


 伝統的な教えでは――、この幻想世界の夢から覚めること、分離した自我を消し去ること、輪廻から脱することを、私たちが目指すべき究極的ゴールとして据えている。
 ところがアニータは、そうした自らのこれまでの信念に対し、やわらかな口調ではあるけれども、「そうではない」と述べているわけだ。

 また別の話ではあるけど、ここ数年間で、いわゆる「一瞥」や「目覚め」を体験してスピリチュアルなメッセージを発信している人がとても増えている。
 でもその中で、最終的な「解脱」を強調して説く人はほとんどいないように思う…。むしろ「目覚めながら、この幻想世界での生を存分に経験する」といった考えが多く語られている。
 これは見方によっては、矛盾をはらんだ過渡的な在り方のようにも受け取れてしまう。


 「目覚めにはレベルがある」という話はよくされるけど…、でも実はそれ以上に、教えや道、さらには魂が目指す在り方そのものが、今の時代になって少し変わってきているのではないかな、というふうにさえ感じる。


 そんなことを思っていたとき、『神秘体験』(ティモシー・フリーク著)という本を読んだ。

 最初は興味を引く本には思えなかったのだけど、amazonのレビュー欄に翻訳家の山川紘矢氏が、「この本をいま読めたことが僕の神秘体験。自分が感じている通りのことが書いてある」という一読者としての称賛の評を寄せていたので、それならばと思い読んでみた。

 題名からしてサイキックな体験談なのかと勝手に思っていたら、実はぜんぜん違って…、スピリチュアルな教えや真実をどうとらえるかという、まさに「がっぷり四つに組む」ような内容である(それほどスラスラとは読めない)。


 この本が徹底して説いているのが、「真実というものは、根本的に矛盾をはらんだ『パラドキシー』である」ということだ。
 そのうえで、分離とワンネスについて、次のように言い切っている――

 分離とワンネスは同時に経験されなければいけない。表面では分離した個人として現れながら、奥深くではすべてはひとつだ。

 さらに、スピリチュアルな教えや考え方について、「真実を理解するためには、あえて矛盾をはらんだ考え方をする必要がある。どちらか一方だけが正しいという思考では、真実の深みをとらえることができない」と述べる。
 そして「ある種の非二元の解釈には賛同しない」「人類の進化の障害が、今日のスピリチュアリティのあり方だ」と、やや挑発的でもある…。

 ちょっとディープな話題かも知れないけど、この本が説く「真実は矛盾をはらんだ『パラドキシー』である」という点などについて、後日の記事でちょっとまとめてみようかなと思います――。



 以前にもお伝えしましたが、このブログの過去記事の中から、評判が良かったものをリライトして、『トリニティー』というウェブ誌の中で連載しています。
 その「第4回」の記事をアップしました。以下にリンクをしておきますので、よろしければぜひご覧ください!

  (↓New)
 ・第4回「大和言葉に根付く、日本のスピリチュアリティ」
 ・第3回「家族とは『惑星』のようなもの」
 ・第2回「未来への道筋は、無数に枝分かれしている?」
 ・第1回「ワンネスへ還る旅と、モナーク蝶の大飛行」 


 結びのヒーリング・ミュージックは、Paul Machlis - Love's Story
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 自分の知人の、そのまた知人の、さらに知人の…、とたどっていけば、あらゆる人に行き着くことができる――
 というのは、理屈のうえでは分かることでしょう。

 例えば、学校や仕事上での見知らぬ人であれば、たぶん1人2人の知人を介せばつながるはずだ。
 でも、ものすごく遠い地域に住んでいる、全くのあかの他人の場合はどうかというと――、おそらく何十あるいは何百もの段階を経ないとたどり着けないのではないか、とも思える。


 世の中で人が実際どのようにつながっているかを検証したのが、社会心理学者スタンリー・ミルグラムが1960年代に行った実験だ。
 彼は、アメリカ中西部に住む数十人をランダムに抽出し、遥か東海岸の友人宅に宛てた手紙を渡した。
 そして、「心当たりのありそうな知人に手紙を次々に転送しながら、この人のところへ届けてほしい」と依頼した。

 その結果、それらの手紙は5~6段階の転送を経て、目的の友人のもとに到達したという。

 何と、あの大きなアメリカ大陸での見知らぬ人との関係が、たったその程度の人数を介しただけで、ピタッとつながってしまうのである…。
 この研究は「6次の隔たり」とか「スモールワールド現象」と呼ばれ、マーケティングなどの分野ではけっこう有名なものだ。
 日本の社会学者も、九州-北海道間で同じような実験を行い、これも6段階ほどでつながったそうだ。


 人と人の結び付きがそんなにも近いなんて、ちょっと信じ難い気もするけど、でも計算してみると決してあり得ない話ではない。

 仮に、1人が44人とつながっているとしてみると――
 その44人から先につながっている人数は、「44人×44人=1936人」である。
 次にその1936人から先につながっている人数は、その44倍で約8万5000人にもなる。
 さらに次の段階では約375万人、次が1億6500万人。そして次の6段階目には70億人を超えて、何と全世界の人口をカバーできてしまう…。


 これは決して、机上の計算とか数字のマジックではなくて、現実にそうなのだ。
 こちらもよく知られた話かもしれないけど、2011年にフェイスブック社が、7億人に上る全ユーザーの友達関係のつながり方を分析した。
 いわば、前述の「スモールワールド現象」の実験の現代版である。

 その結果は、世界のフェイスブック・ユーザー同士のすべての組み合わせのうち、99%以上は間に4人の友達を介せばつながり、さらに92%が3人を介せばつながることが分かったという。
 かつての1960年代の実験よりも、人と人の結び付きは一段と「近付いている」わけだ。


 世界中にはとてつもなく多数の人が暮らしていて、そのほとんどは全く見ず知らずの人たちばかりだ。
 でも、そう見えるのは、うわべだけの一次的な姿にすぎない。

 実際には、「たった3~4人を経由しただけで、誰とでもピタッとつながってしまうという」というのが、私たちがいるこの世界の本当の形なのである。
 何だか目が覚めるくらい、ものすごいことですよね。


 地球上の人々の結合の緊密さを、甘く見ることなんかできない。
 もし一人ひとりが、ごく身近なつながりの中に、「支え合い」や「受容」や「愛」のエネルギーを惜しむことなく流したならば――
 その波及と増幅が、世界をどれほど劇的に変えていくのか、ジョン・レノンじゃないけど「想像してごらん」…

 それは全く夢物語なんかじゃない。数字の上でも、世界の構造上でも――。
 あとはまさしく、私たちの「気持ちの問題」なのでしょう。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Katie Cadence「On the Wings of an Angel」。
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 昨日、とても天気が良かったので、都内の荒川沿いを17キロほどウォーキングしてきました。

 最近は色んな支流沿いを歩いていたので、大河川の荒川は久々だったけど、だだっ広い河川敷の見晴らしは本当に気持ちいいですね――。

 僕はなぜか、この河川敷の彼方に並ぶ建物や、遠くの高速道に点在する車列などを眺めていると、不思議ととても「なつかしい」気持ちがしてくる。全く縁もゆかりもない場所なのだけど…。


 そのウォーキングの途中、ほんのひとときの不思議な「心の中の体験」があった。


 歩きながら空を見上げたとき、遥か高い空を飛ぶ旅客機が目に入った。小さな白い機影が、雲一つない青空の中を静かに進んでいる。じっと眺めていると、まるで手を伸ばせば届きそうなくらい、とても近くに思えた。

 すると胸の中に急に、何とも言えない不思議な感覚がわき上がってきた――。
 なつかしい昔を追憶するときの感傷をさらに高めたような、とても美しく鮮烈なフィーリングだった。
 ひょっとしたら、「死」のときの感覚というのも、こういうものかも知れないと、ふと思った…。

 瞬間的に、幼いころの自分の姿が脳裏に浮かんできた。
 母親が手編みした可愛らしい毛糸帽をかぶり、今は亡くなった祖父母に手を引かれ、近くの公園に向かう小道を歩いている場面だ。周りに1960年代の田舎の風景が広がり、すべてが清らかな光に照らされていた。


 そして心の中に、あらゆる過去を惜しむ自分の声がした。

 「もっと軽やかに、人生をとらえれば良かった…。喜びを素直に求めれば良かった…。そして何より、弱々しく思える自分を、十分にいとおしんであげれば良かった…」
 それは、二度と取り戻せないものを悔やむ、痛々しい嘆きだった。

 そんな思いが胸に迫ったとき、視点を目の前に移すと、普通に荒川沿いの景色が広がっていた。
 もう取り戻せないと思えたすべてが、本当は自分のいるところにずっとあって、今も進行中であることが分かった――。


 今いる時を、遠い日をなつかしむのと同じくらい、心から味わうことができるか?
 そこに満ちている光を、余計な考えで覆うことなく、ハートを開いて感じることができるか?

 それは実際には本当に難しいことかもしれない。でも、「これこそが、今を生きる感覚なのだよ」と、伝えられたような気がした。


 そして同時に思ったのは(まだちょっと未消化だけど)、私たちは巨大な人生に翻弄される存在ではない、ということ。人生の道を歩んでいるのともまた違う。
 大きな「私」の中を、人生が通過していく――、そんなイメージが自分の中に浮かびました…。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Aeoliah「Fly into Light」。

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 過去の記事でも何度か、「最近、意識のあり方が少しずつ変わってきている」ということを書きました。
 そして実は昨日から、さらに進んだ変化といえるようなものを実感しています――。

 「私」というものが、明らかに「姿形のない純粋な意識」としての存在であり、それがこの物質世界ではない「異なる次元」に根差していることが、本当に疑いようもないほどはっきりと分かる!…

 これまでにも瞑想中などに、「気付いている意識にとどまる」とか、「ただ在ることに寛ぐ」といった状態はもちろんあった。
 ところが、それさえも「おぼろげだった」と言えるくらい、今の状態には別格のリアリティーがある。理屈ではなく、自分がそのようにしかあり得ない、本当に明確で圧倒的で自然な様相だ。
 しかも、普通に本を読んだり、家の雑事とかをしている最中なのに、である。


 ある程度時間をかけながら経過をたどったためなのか、それほど劇的な印象はない。絶頂の至福感とか、まばゆい光に包まれるわけでもない。
 でも、「あぁ、なーんだ、そうだったのか」という、奥深くに調和する大きな安堵感がある。その視座にいると、不思議と世の中のすべてがそれでいいように思える。

 この様相は本当に、言い表すのが難しい…。
 特別なものが現れたり、起こったりしわけでもない。それは最初からずっと、近すぎるここにあって、気に留めることなく常に感じてはいた。
 色んなスピリチュアル本などの説明不足な記述には、実にもどかしい思いをさせられるけど――、確かにこれは何というか、あらゆる人にとって「論じるまでもないようなこと」だと言えるのかもしれない…。


 自分にとってまだ不慣れで、少し「よろめく」ような感じはあるけど、でも数日くらいで安定するように思う。これは十分に乗りこなせる程度の揺らぎだから。

 しばらく様子を見ながら、伝えたいことを感じ取って、また何とか文章化してまとめていきたいと思っています――。


 結びのヒーリング・ミュージックは、Aetherium「Third Eye Chakra」。

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 先日、知り合いとの会話の中で、ふと「地球の人口ってすごく増えているのでしょ?」と尋ねられました。

 僕は、「すごく増えているどころではなくて、もう爆発的に増えている」と答えたのだけど――
 ただそう説明しても、相手が思い浮かべている「増え方のイメージ」が、まだまだ「ゆるすぎる」感じがした。


 ちなみに世界人口の推移は、このグラフの通りだ。
 (クリックすると、見やすく拡大されます)
 20世紀半ばからは、直角に近いほどの激甚な上昇カーブである。増加する人類が地表を埋めつくして、地球からあふれ出ていきそうな勢いだ…。

 スピリチュアルの分野では、「今、かつてない数の魂たちが、進化を求めてどんどん地上世界に転生している」とも言われる。
 しかもそれだけでなく、「あの世では、この世に生まれ出たいと願う魂の順番待ちで、あふれ返っている状態」といった話まである。

 これほどのラッシュがさらに進んでいくとなると、一体どんなことになってしまうのだろう…
 明らかに尋常でない人口の増え方を見ても、近く人類に「特別な何かが起こらざるを得ない状況」であることが、感覚的に伝わってくるのではないかな。


 では、「地球の歴史」という大きな全体的スケールの中で、私たちは今どんなところにいるのだろうか?

 「地球が誕生してから現在までを『1年間のカレンダー』で表してみれば」、という説明はけっこうよく聞く話ではあるけれど、年の瀬も近いこの時期なので改めてしてみますね――


 地球ができたのが1月1日だとして、そして現在がその年の終わりの大晦日の晩だとする。
 そうすると、「原初の微生物」が生まれたのは、2月20日ごろにあたる。
 生命そのものは早くから存在したのだけど、そこから大型の複雑な生き物に進化するまでには、ものすごく長い時間を要した。

 「魚類」が出現したのは、実に11月20日のことだ。
 「恐竜」は12月10日ごろに現れて、クリスマスに絶滅した。
 「現生人類(ホモ・サピエンス)」が地球に登場したのは――、何と、12月31日の夜11時45分になってやっとである。(ちょうどNHKの「ゆく年くる年」が始まる時刻だ…)


 記録に残されている人類の歴史というのは、最後のわずか「1分」にも満たない――。
 エジプトやメソポタミアなど「古代文明」が栄えたのが、夜11時59分26秒。
 「キリスト生誕」が同46秒。
 「産業革命」が同58秒。

 そして今の私たちの現代社会へと発展し、最後の最後のコンマ何秒という間に、科学技術が飛躍的に進歩して、人口が激増しているわけだ。


 いま、壮大な地球の歴史の中で、まさに差し迫ったような猛烈なスピードでものごとが進行している。
 この時代がいかに特別な一瞬であるのか、誰の目にもかなり明らかなのではないだろうか――。


 さらに衝撃的なのは、現在から先の、いわば「来年のカレンダー」である。

 こうして地球は、午前0時に新年を迎えるわけだけど…
 その次の瞬間とも言える0時0分40秒に、何と「人類の時代は終焉する」とも予測されている。
 環境破壊や、地球が氷河期の周期に入ることが理由だ。

 それは西暦1万年ごろのことだけど、今のペースで世界人口が増えて環境破壊や資源枯渇が進むと、もっと早いタイミングで終わりが来てしまう可能性だって十分にある。
 もし長らえられたとしても、氷河期によって食料生産が急減すれば、もはや莫大な人口は養えきれない。人類は、良くて「絶滅危惧種」といった状況だろう…。


 それから先も地球は、氷河期と温暖期を繰り返し、大陸が移動しと、過去と同じ活動を粛々と続けていく。それに適応した、新しい生命進化もあるかもしれない。
 しかし、その年の3月下旬ごろ、太陽の膨張によって地表は灼熱と化し。「地球生命の時代はすべて終わる」と見られている。


 ――どうでしょうか。
 まさにいま私たちは、宇宙の中の地球という極めて微細な一点の、さらには前後の歴史における極めて微細な一瞬に生きていることが分かるでしょう。
 それは、自然科学の偶然ではなく、神話的ファンタジーでもなくて、明らかに「このピンポイントの特別な機会を、自ら選んで生まれてきた」としか思えないような気がする。

 そして実は、私たちはこのピンポイントの特別な機会を、「自ら意図して創造した」のかも知れません。



 結びのヒーリング・ミュージックは、David Wahle「Apollo’s Lyre」

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 12月に入って、街の中はすっかりクリスマスの装飾ですね。

 ところで、イエスの誕生日は12月25日だけど、その前日24日の「クリスマス・イブ」って、どうしてあるのでしょうか?――

 もちろん「イブ」とは、イブニング(夜)のことだ。
 大きなイベントを迎える「前夜祭」のようにも思われているけど、でも「誕生日の前日だからお祝いする」というのも、考えてみれば何かちょっとおかしいでしょ?


 答えは――、昔のユダヤ社会では「日没が1日の終わり」であり、そこを区切りに次の1日が始まる、とされていたからだ。
 つまり、12月24日の太陽が沈んだ時点で、日付が変わって25日となる。
 だからイブは決して前夜ではなくて、まさしく「クリスマス当日」であるわけだ。

 「イブの日は仕事で帰りが遅くなるから、25日のクリスマスの晩に皆でケーキを食べよう」なんていう家庭があるかもしれないけど、おおもとのユダヤの暦だと、25日の晩はもう「クリスマスが終わった翌日」ということになってしまう。(どうでもいいことですけど…)


 で、現代の私たちの社会では、日付が変わる区切りは深夜の「午前0時」ということになっている。

 これは、太陽が真南に来る「正午」の、いわば反対側の時刻にあたる。
 今の時代はそうした標準時を、誤差が3000万年に1秒という原子時計で計測しており、この上なく正確だ。


 ただし、正午の太陽がぴったり真南に来るのかというと…、実は必ずしもそうではない。
 日本標準時を決める明石市でも、最大15分くらいのズレがある。

 正午の太陽を1年間にわたり撮影すると、この写真ように「8の字」の形になる。

 これは「アナレンマ」と呼ばれる現象で、地球の地軸の傾きと、太陽を周回する公転軌道が楕円であるため起こるそうだ。
 でもどうして、こんな首飾りみたいな美しい形になるのか…、地球と太陽の位置関係を色々と考えたら、頭がこんがらがってしてしまう。

 それにしても、天体の運行というは、本当に精妙で神秘的ですよね。
 太陽と地球の間には1億5000万キロメートルもの距離があり、その途方もない空間全体を使ってあの「8の字」を作っているわけだ…。これほど壮大できれいな絵を、いったい誰が描いているの?…と思えてくる。

 しかも普通に見ているだけでは分からなくて、1年間の太陽を正確に撮影して初めて目にすることができるわけだから…、何だか天空と時間軸を使った「ナスカの地上絵」みたいです。


 結びのヒーリング・ミュージックは、2002「Elysian Fields」。

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 最近、自宅でゆったりとくつろいでいるとき、微妙な意識の変化のようなものを実感することがあります。

 なかなか文章でうまく説明できないし、あまりに微妙でセンセーショナルな面白さは全くないのだけど…
 でも、似たような変化に気付いている人もいるかも知れないと思い、ちょっとまとめてみますね――。


 「意識」が、自分の身体の枠を超えて広がっていくというのは、瞑想しているときにもよく感じられることだ。
 外で鳥の鳴き声がしたとき、広がった自分の意識の中に、その鳥の声が「起こっている」といった感覚だ。

 ただ、この感覚を厳密によく調べてみると…、意識の「発信源」としての自分自身がやはり依然と存在している。
 そして、自分の意識を周りに張り巡らせるようにして、鳥の鳴き声などをとらえている、という現実的感覚もずっと残っていた。


 ところが、最近ときどき実感するのは、意識の「発信源」としての自分が、ほとんど認識できないくらい抜け落ちたような感覚だ。
 外の鳥の鳴き声なども、それは意識でとらえるものとは違って、まさに「意識そのものの一部」として現れている印象である。

 ほかにも、道路を車が通る音や、人の話し声、遠くの工事の音など色んな喧騒が、意識のダイナミックな躍動のように現れ出てくる…。


 さらには、自分の皮膚感覚、足腰に体重がかかった圧力、吸う息と吐く息、心臓の鼓動、つばを飲み込む喉の動きなども――
 自分の体というよりも、すべてが「意識の現れ」としてその場にわき上がってくる印象だ。

 中でも特にダイナミックなのが、頭の中の思考だ。
 雲が青空を流れる映像を早送りしたように、さまざまな思考内容が現れては消えていく。

 これらも、意識を当てながら思考を観察している状態とは少し違う。思考のざわめきは邪魔ではない。
 体の感覚も思考も、「意識そのものの躍動的な現れ」の一部であり、それ以外の意味(自分に帰属している実感とか)は特にない…。


 なかなかうまく説明し切れないものの、これまでの瞑想の時の状態や、意識の広がった感覚とは、精妙なところで「根本的な何か」が違う。
 もちろん、「自分が消滅して、すべてが意識の場になった」と言い切れるほど、鮮烈ではないけど…。
 でも、しかるべきことがほんの少しずつ展開していっているような実感はあります。


 過去のブログ記事で書いたように――
 少し以前から、晴れた日は外の光がハッとするほどまぶしくて美しい。
 まだ真冬の1月下旬の時期に、自然の中に漂う何とも言えない「春の香り」を感じたりする。
 くつろいでいるときは、ただ呼吸しているだけでその感覚がものすごく心地いい。

 一方で、なぜか全身がだるくて仕方ない(別に不快ではないのだけど、かつてのように強迫的な活発さは出てこない)。

 「より高いバイブレーションへ移行している最中だから」という人もいるけど、どうなのでしょうかね…。
 余計な推測をしてもたぶん無駄なので、起こる変化にゆだねています。


 こうした微細な変化は、実は多くの人に共通して起こっているのではないかなとも思う。
 ただ、その変化にほとんど気付いていなかったり、またわざわざ文章化して書き記す特異な人もあまりいない、ということなのかも知れませんけど…。

 一昨年あたりから、いわゆる「一瞥」や「目覚め」を体験する人がすごく増えていることがよく言われる。
 でもそれ以上に、この微細に漸進していく変化こそが、「いまの地球での最も大きな出来事」なのではないか、とも考えます。


 結びのヒーリング・ミュージックは、Roger St. Denis「Ease and Release」。

  ☞ コメント:18

 


 私たちの本来の姿は、永遠無限で隔たりのない「ワンネス」の
存在だと言われます。
 そこからバラバラの小さな魂に分かれて、この地上世界をわざわざ創造し、そこで幾度も転生を繰り返してきた。

 では――、もともとのワンネスの世界には存在しなくて、「この地上世界だからあるもの」というのは、いったい何でしょう?


 色々と考え付くと思うけど、その根本的な1つは、人と人との「間」だといえる。

 唯一無二のワンネスの状態では、そこに「間」というものは存在し得ない。
 バラバラに分かれてはじめて、個別の者同士の「間」ができる。
 互いに離れた「間」があるからこそ、出会いというのも可能になる。

 そして私たちは、その「間」の中に、相手に対する思いを現したり、関係性を生み出したりすることができる。
 「間」というのは、ある種の「自由な創造空間」とも呼べるだろう。


 根源的なワンネスの状態では――、宇宙にはひとつの「大いなる愛」だけが存在していると言われる。

 もちろんそれは、究極的に素晴らしいことである。ただし、「愛」そのものはあっても、そこには愛する相手というのは存在しないし、思いとか行為もない。
 言い方によっては、それは「概念的」な愛でもある…。

 一方でこの地上世界では、人と人の「間」が存在することによって、愛を与えたり、受け取ったりすることが可能となる。
 思いや行為として愛を現し、そこに私たちの本質を感じて体験することができる。


 神による天地創造の中で最大の創造物――、それは幾千万もの星々や、地上に満ちる生命よりも――、実は身近にいつもある、自分と他者との「間」なのではないかな。

 それこそが、きっと神が自ら「最も経験したい!」と熱望したものだろう。
 人と人の「間」というのは、ワンネスの状態のままでは決して実現不能なものごとが、可能となる場だ。概念の形で存在する自らの本質を、具体的な経験として現す場である。

 果てしない宇宙空間の中でも、「最上級に貴重な空間」と言っていい。


 ところが私たちは、そのせっかくの「間」を――、対立や比較、嫌悪、不足感、疎外感とかで、みっちり埋めてしまっているのではないだろうか…。

 もちろん、そこに何を生み出しても構わない。でも、「このままでは、らちがあかない」という状況が、何世にもわたってずっと続いているといえる。


 家庭や職場など、日常的な色んな人とのつながりの中で、常に目の前にある「間」――。
 その中に、共感や喜び、理解、受容、許し、救いなどを自ら現していくことが、いわゆるシフトやアセンションを進めていく上で、とても大切なのだろうと思う。

 ひょっとしたらそれは、「内なる探究」と並ぶくらい重要な要素かもしれないし、どちらも同じことなのかもしれない。


 イエスの言葉でも、このように語られている――
 「神の国は、あなたがたの間にある」



 結びのヒーリング・ミュージックは、Curtis Macdonald「Snowfall」。

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プロフィル

Koudai Mitsuna

Author:Koudai Mitsuna
 
光奈 広大(みつな・こうだい)

 20年のあまりのサラリーマン生活を経て、いわゆる「ザ・マネーゲーム」を何とか卒業。今では束縛されない自由な日々を存分に味わっています!

 そうした中で心がけているのは、普通の日常的な行いを通じて、意識の進化を目指す「カルマ・ヨガ」。

 日々の喜びや学び、インスピレーションから得たスピリチュアルな気付きなどをブログで紹介しています。

 妻子と都内在住――。

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