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 前回の記事で、人が人生を終えたときに問われるのは、「どれだけ人々を愛したか」「常に良心的な言動をしたか」だけであり、収入や地位は関係ない、といった話を書きました。


 それはとても素晴らしいことだけど、ただちょっと心に引っかかるのは――
 「愛」とか「良心」というのは、人によって考え方や基準がかなりまちまちなのではないか、ということだ。
 例えば、自分は愛に生きているのだと勝手に「うぬぼれて」いる人だっているだろうし、逆に、多くの人の役に立ちながらも必要以上に「自己卑下」してしまう人も少なくない。

 さらに言えば、愛や良心という理由のもとに、人間同士が奪ったり争い合う例は、歴史上にたくさんある…。


 でも、昔からよく「お天道様が見ている」とか、「胸に手を当ててよく考えてみなさい」とか言われるように――、
 きっと人の心のいちばん奥底には、いわば「良心の原形」のようなものが存在しているのでしょう。それは、立場による差異も偽りもない、あらゆる人が同じく共有するものだろうと思う。


 またも臨死体験の話になってしまうけど――、飯田史彦氏の『ツイソウル』の本の中で、著者が脳出血で倒れたときに「光の存在」と出会い、こんなやり取りをする場面がある。

 死後世界の入り口で、人生での行いを回想して自己評価する際に、「人によって評価が主観的になってしまい、これでは不平等ではないか」と、飯田氏は疑問を投げかける。
 すると、「光の存在」はこう答える――。

 「無用な心配だ。人生を終えてこちらに戻ってくるときには、誰もが同じく、完璧に謙虚になるからだ。
 つまり、人間として生きてきたときに、どんな性格の人であったとしても、死んだあとにはみな、『同じ基準』で厳しく自己評価することになる。
 なぜなら、みな、宇宙の子だからだ」


 で、もしこれから「地球意識の春」が訪れ、人々のエゴ意識がゆるやかに氷解していくとすれば――
 そこに現れる大きな変化のひとつが、この死後に持つ「同じ基準」を、生きながらにしてあらゆる人々が自然に共有していくことではないかと思う。

 もっとも、今も心の奥底ではすでに共有しているのだけど、それをエゴ意識の分厚い層が覆い隠している。
 その層が解けて薄くなることで、奥底にある「同じ基準」が徐々に表出してくるのだろうと思う。


 スピリチュアル分野の本の中には、地球よりもはるかに文明が発達した星の人々の様子を描いているものがある。

 『神との対話』の3巻目では、「HEB(高度に進化した存在)」と呼ばれる人々について記されている。
 彼らの基本原則は、「私たちすべてが一体で、関連し合っている」ということだ。そのため、個人の所有という概念や不足感もなく、現在の私たち人類とはかなり異なる社会と文化を形作っている。

 ファンタジー物語『アミ 小さな宇宙人』に出てくる「オフィル星」も同様だ。
 そこでは、宇宙の基本法は「愛」であるとし、人々が互いに必要なものを与え合い、対立や強制もなく、皆が毎日を自由に精一杯楽しみながら生きている。本当に素晴らしい世界だ。

 また、僕はまだ読んでないのだけど、バシャールの故郷「エササニ星」もそんな感じなのかな…。


 こうした進んだ星の社会・文化のベースになっているのは、人々が「同じ基準」を持っていることだろう。
 そこがちぐはぐだと、「一体」であるという認識や、「分かち合い」のシステムはうまくできないはずだ。

 そして、私たちの心の奥にも、この「同じ基準」があらかじめ備わっているということは――
 これから、HEBやオフィル星のような高度な在り方への可能性が開かれている、あるいは「計画されている」と言ってもいいのではないかと思える。


 スピリチュアルな将来については、本当に色んな見方があるだろうけど、僕自身は十分に「期待していい!」と考えています。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Llewellyn「The Crystal Castle」。

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 前々回と前回の記事では――、スピリチュアルなものごとへの理解が「後戻りできないレベル」にまで定着している人が最近増えてきているのではないか、それは「地球意識の春」ともいえる変わり目で、人々とエゴ意識との強烈な結合がゆるやかに氷解していくのではないか…、という話をしました。

 今回は、さらにその続きです。


 では、エゴ意識がゆるやかに氷解していくことによって、私たち自身に今後どんな変化が起こり得るのかというと――
 この三次元世界に生きる「そもそもの目的」がより明瞭になって、その目的に即した「在り方」や「行動」を選ぶようになっていくのではないかと思う。

 もちろん、この世界に生きる目的というのは、一人ひとり千差万別といえる。でも、根本的な共通項は、はっきりと存在する。
 それは、世界中に数多くある「臨死体験談」の中でも語られている――


 生を終えて肉体を離れた魂は、あの世の入り口で「光の存在」に出迎えられる。そこで自らの人生のすべてを回顧した上で、「光の存在」から質問を受ける。
 その質問は、誰に対しても一様で、驚くほどシンプルなものだ。

 生まれ変わりの研究についてまとめた飯田史彦の『生きがいの創造』では、このように書かれている。

 ここで問われるのは、「どれだけ人々を愛したか」「常に良心的な言動をしたか」のみである。この世で儲けたお金や、得た地位などはいっさい評価されない。

 終末期医療の先駆者であるエリザベス・キューブラー・ロスは、次のように語っている。

 私が面接した何万という臨死体験者たちは、こう尋ねられていた。「どれだけ人に愛を与え、また受け取ってきたか」「どれほど奉仕をして、助けるために何をしたか」。
 そのとき答えればいいと思っていたら、手遅れになる。


 私たちは一見、すさまじく複雑な社会構造や、とらえようのないほど難解な関係性の中を生きているように思える――
 でも実は、この世界でやり遂げたい目的というのは、ひと言ふた言の問いで済むくらいの、本当に明快きわまりないものだといえる…(もちろん、容易にできることでは決してないけど)


 私たちはこれまでに、何百回も転生してきているといわれる。きっと死ぬたびに、この同じ質問を何百回も尋ねられてきたのだろう。
 ところが次に生まれ変わるときには、この問いのことや生の目的が、エゴ意識の分厚い層によってすっぽりと覆い隠されてしまうわけだ…。

 これからの「地球意識の春」は、この分厚い層を溶かして薄くしていき、死後に問われる生の目的が、生きながらにして「透けて見える」ようになるのではないかなと感じる。


 もちろん「愛」や「奉仕」といっても、誰もがマザー・テレサのように貧困救済の活動に心身を投じる、というわけではない。
 ありのままの自分自身を愛することや、自らの内にある痛ましい感情を癒やすこと、そして他者から与えられる愛をハートを開いて受け取ることなども、欠くことのできない愛のいとなみである。

 もし私たちの多くが、この「透けて見える」目的にもとづいて生きるならば――、世界の様相は根底から様変わりするに違いないでしょう。
 そうした意識の進化には「人的努力の成果」や「選択の結果」という側面もあるだろうけど、でもやはり大きくは、人間のスケールを遥かに超えた「春の訪れ」として起こってくるものだと思う。


 少し話が変わるけど、「旧約聖書」の世界と、イエスが誕生して以降の「新約聖書」の世界との大きな違いとは――

 まず旧約聖書においては、神は怒って人々を罰する存在であるのに対し、新約聖書では「愛の神」として説かれている。
 また旧約聖書では、神が人々に語りかけるのに対し、新約聖書の神は沈黙している。

 で、これからの「地球史的な変わり目」というのを、大胆に表現してみるならば――、それは「愛の神」でありながら、神が人々に語りかけるという時代になるのではないかと思っている。
 なんとも素晴らしいですよね!
 言葉による語りかけだけではなく、前述のような「生の目的が透けて見える」というのも、まさに神の意思の伝達であり、語りかけである。


 そしてもちろん、最近のスピリチュアルな教えで強調されるように、「神」とは「私自身」の本質にほかならない。

 つまりは、誰もが「私自身」の本質に気付き、その本質の声を聞き、そこからのインスピレーションにもとづいて生きていく――。この言い方だととても身近に感じられるだろうけど、それがまさに「ニュー・アース」の姿なのでしょう。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Healing Waters of Chalice Well「Lady of the Lake」。

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 「人の本質は姿形のない意識の広がりである」とか、「私たちは大いなるひとつの存在だ」といったスピリチュアルな真実についての理解が、もはや後戻りできないレベルにまで定着している人が、最近けっこう多くなっているのではないか――、という話を前回記事で書きました。
 今回は、その続きのような内容です。


 目に見える世界の変化はそれほど劇的でないにせよ…、こうした人々のスピリチュアル面の変化というのは、実は「氷河期の終わり」くらい地球史的な変わり目なのではないかなと思う。

 では、この「後戻りのきかない理解」が、どんな新たな変化をもたらしていくのかと言うと――
 きっと、自我(エゴ)との強烈な結合が、比較的ゆるやかに氷解していくことになるのではないかなと感じている。(あくまでも「比較的」ということですけど…)


 エゴを断ち切るということが、人的努力を超えてすさまじく困難であることは、色んなところで説かれている。

 実際に、エゴを捨て去って目覚めを体験したという証言の中には――、最悪の絶望状態に追い詰められて、自分自身を殺したいくらい徹底的に嫌うことによって、結果としてエゴを断ち切ることができた、というケースが少なくない。


 例えば、世界的に著名なエックハルト・トールは、精神的に病んでいた20代のある日――
 「不幸でみじめな自分の人生に、何の意味があるのか? こんな自分自身と生きていくなんて、まっぴらごめんだ!」という耐えきれない精神状態に陥ったときに、頭の中の思考が突然ピタリと静止して、「愛の光」に吸い込まれていったと語る。そこで「にせの自分」は、空気を抜かれてぺしゃんこになったという。

 また、かつてベンチャー・ビジネスの旗手として注目された津留晃一も、会社経営が行き詰って倒産し――、「苦しさから逃れようと、あらゆる可能性に手を伸ばし、万策がついえたとき、エゴは悲鳴をあげ絶望のふちへと落ちていった。深い深い沼の底でエゴは身動きしなくなり、そしてそこが、三次元ゲームからの出口だった」、と語っている。

 ブログの過去記事でも紹介したことのある臨死体験者のベバリー・ブロドスキーは、交通事故で無残な容姿になった自分に絶望し、そして自殺を図ろうとしたその瞬間に――、思いがけぬ「愛の光」に包まれて真理を目の当たりにし、世界観・人生観が一変して生まれ変わった。


 いずれも「陰極まって陽となる」というか…
 まさに「愛」の正反対とも言えるくらいの、自己嫌悪・自己否定の極限点を突き抜けることで、「大いなる愛」に至ったという印象だ。

 本当にあまりにも大変そうだし、「できればそんな過酷な感情は味わいたくない」というのが、誰にとっても本音だろう…。


 ブログのコメント欄ではたまに引用しているけど、エックハルト・トールは、そのような自らの目覚めのプロセスを「十字架の道」と呼ぶ。
 そして、「十字架の道」は旧式の方法であり、つい最近まではそれが唯一の方法だったが、人々の意識レベルが高まっていく今後は、苦しみを要とする「十字架の道」だけが唯一の方法ではない、と述べている。


 自らの本質についての「後戻りのきかない理解」というのは、まさにこの意識レベルの変化の一端なのではないかと思う。

 つまり、これまでのように、自分というものを徹底的に忌み嫌って根絶させるという道ではなくて、「自己愛」で満たされた方向から「大いなる愛」へと至っていくことができる――
 そんな道筋がはっきりと開いて、これからの本流になっていくのではと感じている。


 とはいえ、今はまだ「過渡期の始まり」のような段階だから、イエスの言う「心の貧しい」状態を経験するケースもやはり少なくないだろう。

 でも、そこからどん底を味わって「陰を極める」というプロセスはもはや必要なくて――
 「心の貧しい」状況のときに、自他への「愛」を選ぶことで「陽となる」という道筋が、可能な時代になったのではないかと思います。

 春の雪解けによって新しい経路が現れていく、という感じなのでしょうか――。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Kavin Hoo - Star Gazing
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 スピリチュアル分野でよく引用される、旧約聖書の中の有名な話――

 「神」が預言者モーセに語りかけたとき、神は自らのことをこう名乗りました。
 「私は、『私は在る』という者だ」
 (英語では「I AM WHO I AM」で、このヘブライ語の頭文字を並べて、神の名を「ヤハウエ」とか「エホバ」と呼ぶ)

 つまりここで神自身が、神とはすなわち「私は在る」という意識そのものであることを、明言しているわけだ。
 この「私は在る」という感覚は、誰の内にも疑いようもなく常に存在している。それが私たち自身の本質であり、「神とは私そのものである」ということになる…。


 そして、後に神がモーセに授けた「十戒」の1行目には、こう記されている。
 「『私』のほかに、神があってはならない」

 ここで言う「私」というのも、遠い天上界にいるような神が自らについて語っているわけではなくて――、まさに「私たちそのもの」のことを指してそう呼びかけている、という受け取り方もできる。

 つまり、「あなたがた一人ひとりの『私自身』こそが、神なのですよ。そのほかのものを、神として崇めても無意味ですよ」と。
 もちろんこんなとらえ方は、ユダヤ教やキリスト教からは、「冒涜的な曲解」としてはね除けられるに違いないけど…。


 さらには(これもよく言われることだけど)、イエスが語った「私が道であり、真理であり、命である」「私と父とはひとつ」といった言葉も――
 イエスが「自分こそが特別な神の存在である」と宣言したわけではなくて、これもまさに「私たちそのもの」の本質を指して説いたのではないだろうか。

 つまり、「あなたがた一人ひとりの内にある『私自身』こそが、真理に結ばれた道であり、命の神秘そのものなのですよ」、「すべての人々の『私自身』とは、大いなるひとつなのですよ」と。


 僕自身、スピリチュアル分野に関心を持って色んな本を読んだり、瞑想したり、またそれほど頻繁ではないけどセミナーやリトリートなどにも参加して、あれこれ6年くらいになるのかな…。

 そして今は、私たちの本質とは、姿形のない「意識の広がり」であること――、別の呼び方をすれば「大いなるひとつ」「I AM」「神」「愛」「命」「空」「それ」であると理解している。

 別に徹底して学んで頭にたたき込んだ結果ではなくて、何か普通でない体験を経たわけでもなくて、だんだんと静かに自然に「起こってきた理解」だと感じる。
 そしてこの理解は、今後も決して覆りようがないと確信している――。


 もしも、自分や家族がひどい災難に巻き込まれたとしても、「人は運命に翻弄される小さなバラバラの存在である」という解釈には至らないだろうと思う。
 また仮に、神が姿をとって目の前に現れ、これまでとまったく違う真理を説いたとしても、たぶんそちらに「改宗」したりはしない。

 もちろんこれは、自分の考えに固執しているわけではなくて…
 色んな知識や条件付けなどをどんどん落して、さらに落していって――、その上で自らに感じられるものが、姿形のない「空」の意識であるのが、やはり疑いようのない真実であるということだ。

 もしほかの真理を受け入れるとすれば、別のものを付け足さねばならない。でも付け足した後でそれを落とせば、やっぱり「空」の意識だけしか残らない…。
 たぶん、別の人生を一から生き直したとしても、まったく同じ結論に到達していくだろうと思う。

 こうした覆ることのない理解は、一種の「ポイント・オブ・ノー・リターン(後戻りがきかない地点)」を超えたような状況ともいえる。


 実は同じような状況の人って、世の中にけっこう多いのではないかなと思っている。
 特に自覚はなくても、「そう言われて考えてみれば、自分も確かにそんな感じかも」というケースだってあるだろう。

 こうした理解は、中身そのものが真新しいわけではないし、体験的な面白さなんかもほとんどない。だから、本などでわざわざ述べる人なんかいないし、ブログなどに書き記す人もまれなのだろう。

 けれどいま、この「ポイント・オブ・ノー・リターン」を超えていく人が、どんどん増えているに違いないと推察しています!



 以前もお伝えしましたが、このブログの過去記事の中から、評判が良かったものをリライトして、『トリニティー』というウェブ誌の中で連載しています。
 その「第5回」の記事をアップしました。以下にリンクをしておきますので、よろしければぜひご覧ください!

  (↓New)
 ・第5回「高校物理で見る、私たちは『空』であること」
 ・第4回「大和言葉に根付く、日本のスピリチュアリティ」
 ・第3回「家族とは『惑星』のようなもの」
 ・第2回「未来への道筋は、無数に枝分かれしている?」
 ・第1回「ワンネスへ還る旅と、モナーク蝶の大飛行」 


 結びのヒーリング・ミュージックは、Jon Mark「Infantas」。

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 大阪大学工学部で行われている「人間型ロボット」の研究実験で、スピリチュアルな観点からもなかなか面白いなと思える話がありました――


 まず被験者の人の体にセンサーを取り付け、その人の動きに合わせて、ロボットが同じように動作するようにする。

 その人が右腕を上げれば、ロボットも右腕を上げる。
 その人が首を傾ければ、ロボットも首を傾ける。
 その人がしゃべれば、ロボットも口をパクパク動かし、口元のスピーカーからその人がしゃべっている声が流れる。

 ――という、まあ電子的・機械的に高度に連動させた「猿まね」ですね…。


 被験者の人は、最初は「変な感じ」とか言いながらも、しばらくするとだんだん慣れてきて、ロボットを人間っぽく自然に動かせるようになっていく。

 で、そこで別の人が現れて、ロボットと面と向かって会話をする。
 被験者は、その様子を横で見ながら、ロボットをうなずかせたり、身振りを加えたりしながら、その相手と会話をしていく。


 すると、実に奇妙なことが起こる――
 被験者はいつの間にか、自分が動かしてしゃべらせているそのロボットが、まるで「自分そのもの」みたいな感覚になっていくという。
 見た目の容姿も、立っている位置さえも、自分とは明らかに違うにもかかわらず…。


 さらに面白いことに――
 ロボットと会話している相手が、突然ロボットの腕につかみかかる。
 するとロボットを動かしていた被験者は、「わっ、何するの!」といった感じで、とっさにのけぞったり、相手の腕を振り払おうとするそうだ。

 中には「自分の体がさわられたような感触がした」という人までいる。もちろんそんな仕組みは備わってないから、明らかにその人の錯覚である。

 自分の意思に同調するロボットを見て動かしているうちに、それが「守るべき自分自身」のように本能的に思えてくる、というわけだ…。


 この実験の目的は、リアルな人間型ロボットの開発にあるのだけど――、スピリチュアルな観点からすごく驚きなのは、「人って、そんなに簡単に自己同一化してしまうの!?」ということだろう。


 「本当の私」とは、肉体ボディーを超えたものだと言われる。
 姿形あるこの体も、それに伴う役割も、色んな人間関係や所有物も、「本当の私」とは一切かかわりがない。

 しかしながら、私たちの現実的感覚としては、まったくそうには思えない。
 世の中で一定の立場を持つこの人物こそが、私そのものだと信じて疑わない。それくらい、自分と呼ぶ人物と完全に「自己同一化」してしまっている。

 ――この現実的感覚は、スピリチュアルなものごとを理解していく上で、最大の障壁のひとつといえる。
 そして、小さな自己との同一化は、生きる苦しみの主たる原因でもある。


 でも、この強力な「自己同一化」のメカニズムというのは、ロボットの実験から推察するに、それほど複雑精緻なものではなさそうだ。
 いわば私たちは最初から、「単純にすぐ自己同一化してしまうように作られている」とも言える。

 ロボットが自分と同じ動作をするというだけで、それが自分自身のように思えるくらいだから…、さらにすべての五感と思考と感情までもがリアルに同調する仕組みになっているならば、もう誰もがイチコロに巻き込まれてしまって当然であろう。


 もちろん、エゴ意識に没入してしまうことはとても厄介だけど――、でもこうした仕組みそのものは、人をだます「わな」では決してないと思う。
 それを打ち壊す戦いが、魂の目的なんかではないはずだ。

 物理的世界を超越した次元に根差す「本当の私」がいて、その上にこの仕組みがあって、そして、他者や出来事や世の中がこうしてここに現れている――。
 そんな遠大な構図の中にあって、果たして自分は「どう在る」のか?
 それが、ここに生きることを通じて、私たちに問われていることなのだろうと思う。


 ときどき引用する、『夜と霧』の著者である心理学者ヴィクトール・E・フランクルの言葉――

 「私たちが生きることから何を期待するか」ではなく、むしろひたすら、「生きることが私たちから何を期待しているか」が問題なのだ。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Aetherium「Base Chakra」。

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 「私たちは誰もが、違いのない同じ存在だ」ということが、昔から多くの教えの中で繰り返し語られています。

 「うん、素晴らしい、その通りだ!」と共感しつつも…
 心の中のどこかで、「とは言っても、目の前の現実を考えれば、そういうのはやっぱり理想論的なお話だよね」と思えるところは、どうしてもあるだろう。


 しかしそれは、「現実を考えている」のでは決してなくて、単なる表層的な主観をあてに、そう思えてしまっているに過ぎない。

 本当の事実だけを見すえれば、私たちは文字通り「同じ存在」であり、それどころか、分け隔てる境界すらないことが言える。

 ――ということを、ちょっと考えてみたいと思います。


 ではまず、最も基本的な「物質」レベルで見てみると――

 私たち人間の体を構成している物質は、最も多いのが酸素で全体の65%。次いで炭素が18%、水素10%、窒素3%で、これらの4種類で全体の96%を占めている。

 あとは比率がぐっと少なくなり、カルシウムが1.5%、リン1.0%、カリウム0.4%、硫黄0.3%、塩素0.2%、ナトリウム0.2%、マグネシウム0.1%…
 さらに鉄、亜鉛、銅、マンガン、ヨウ素、モリブデン、セレン、クロム、コバルト…等々と、色んな微量の元素が含まれている。

 私たちのこの体は、こうした約30種類の元素を精妙に組み合わせることによって出来上がっている。
 どれかの物質が欠けたり、比率がわずかでも違ってしまったら、「人間」というものを形作って機能させることができなくなる。
 この物質面の現実において、私たち一人ひとりの明瞭な「違い」というのはそもそも存在し得ないわけだ。

 それくらい、生き物を作っている「サムシング・グレート」の品質管理というのは、完璧に徹底していると言える。


 ちなみに、もともとの元素は、宇宙のビッグバンや超新星爆発によって生成・放出されたものだ。
 私たちの体は、まさに「星くず」を集めるようにして作られている。そして、ごく一時的にこの姿をとった後は、ふたたび広い世界へと解き放たれ還元されていく。

 「個別の自分」というのは、もともと自分のものではないし、自分の力で作ったわけでもない。そもそも「個別」という言い方自体が全くそぐわないほど、壮大で共有化されたいとなみの中の一部なのだ。 


 次に、生命体としての「遺伝子」のレベルでは、私たちの間にどれくらいの違いがあるのだろうか――
 原材料が同じであっても、遺伝子という「設計図」に違いがあるならば、異なる完成品が作られることになる。

 よく言われる話だけど、人間とチンパンジーの遺伝情報を比べてみると、その99%同じだという。
 では人間同士の遺伝情報にはどれくらいの違いがあるかというと――、全体の99.9%が共通しており、「個人差」というのはわずか0.1%程度だそうだ。


 世界にはさまざまな人種・民族がいるし、さらに個人個人の体格や容貌、能力や性質などはまさしく千差万別だ。
 その「違い」というのは確かに存在するが、ただし「0.1%」の違いに過ぎない。
 それは「ドングリの背比べ」よりも僅差で、「重箱の隅」よりも細かすぎることだとも言える。


 でも、当たり前にある「99.9%の共通部分」に目を向けることには、ふつう人はあまり価値を見いださない。
 それよりも、「0.1%の差異」のほうに着目し、それを極大化してとらえることにずっと執心する。

 そして、それをもとに、他者をさげすんだり、逆にうらやんだり、認めなかったり、対立したり、争ったりと――
 でもそんな行為に、果たしてどんな意味があるのだろうか、とも思えてくる。


 さらに言えば、こうした遺伝情報そのものも、固定的な性質では全くない。
 両親からの遺伝情報を混ぜ合う形で、世代から世代へと、果てしない変化を続けていく。
 人間ひとりの存在というのは、全体に混ぜるための「もと」の1つであり、「百代の過客」の瞬間的な断片でしかない。


 それではさらに、物質や生物を超えた「霊的」なレベルでは、私たちは同じといえるだろうか――
 こうなると科学ではなく、哲学やスピリチュアルな領域になる。

 肉体とは異なる存在のことを、「魂」とか「霊」として語ることもできるけど――、
 自分自身がこうして現に生きている状態で把握しやすいのは、私たちの本質というのは「意識」である、という見方だろう。

 あらゆるものごとを知覚して、「私が在る」ということを感じている意識。
 それが私たちの、姿形のない純粋な「存在そのもの」だと言われる。


 覚醒体験を持つ哲学者のティモシー・フリークは、私たちの「意識」における自他の違いについて、こんなふうに語っている――。

 「意識」というあなたの本質は、「意識」という私の本質と別ものでしょうか? そうではないですね。
 意識としては、あなたはすべてを見つめている存在です。私も、意識としては同じです。
 意識としては、あなたは時間と空間に存在しているわけではなく、私も同じです。

 意識という存在で考えると、私たちは見分けが付かないのです。私たちは表面的に違うように見えますが、本質は同じです。
 意識としての私たちは、みな「ひとつ」なのです。


 ものごとや思考や感情をただ見つめる「意識」には、個体差となる要素は何も備わっていない。
 「これはAさんの意識、これはBさんの意識」と、特徴づけて区別することが全く不可能なのだ。

 ただし人は、自分自身の考えや感情しか知覚することができない。他人の内側のことまでは、もちろん直接的に分からない。
 でもこれは、自分のポイントから知覚できる範囲が制限されているということであって――、「自分の意識」と「他人の意識」とが別々のものとして分離して存在している、というわけではない。

 もし「意識」というものが、自分の頭の内側だけではなく、身体の周りの空間にまでずっと広がっているとすれば(目を閉じて静かにじっとしていれば、それを感じられる)――、意識には境界が引けないことが分かるだろう。
 意識とは、地球の「大地」のようなものであり、人々の都合で引く「国境線」は実在しない。

 こうした事実は、長年の探求や超常体験を経るまでもなく、けっこう「手身近に分かる」ことだと思う。
 それくらい、一歩引いて考えてみれば、当たり前の真実なのだと言える。


 「言わんとすることは、だいたいは分かるけど…、でもやっぱりそうではなくて、一人ひとりが別々の異なる存在であることが現実じゃないの」、という習慣的な感覚や信条――
 それによって「個別の自分」を現そうとする、根強い意図――

 それが、「エゴ」と呼ばれている、そのものです!



 結びのヒーリング・ミュージックは、Parijat「The Unwinding」。

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 「心の貧しい人は幸いである、天国はその人たちのものである」というのは、イエスの教えの中でも、特に知られているひとつです。
 一方で、「どうも引っかかる」という人が多い言葉でもある…。

 だって普通なら、「暮らしは貧しくても、心は豊かであることが大切」とよく言われる。他人に薄情な人のことを「心の貧しい人」と呼んだりもする。
 さらには、「この聖書の訳し方がまずくて、本来は謙虚さのことを言っているのだ」と指摘する人もいる。


 僕自身はクリスチャンではないけど、この言葉は額面通りに、「心の貧しい人は幸いである」と受け取っていいのだと思う。

 世の中には、社会的な地位や財産、他人と比べた優位性などによって、「心が満たされている人」がいる。
 その半面で、自己の拠り所や誇りが得られず、「心が満たされてない人」も少なくない。

 この後者のほうが、既成の価値観を超えた「本当の私」としての在り方へ、意識が向きやすいはずだ。
 そうした「心の貧しい人」こそが、まさしく天国の近い人たちなのだろうと考えている。


 そして、この言葉についてのもうひとつの視点――

 イエスは、この「心の貧しい人は幸いである」の後にさらに、「悲しむ人は幸いである」「柔和な人は幸いである」「義に飢え渇く人は幸いである」…と続ける。

 これは、「こういう人こそが幸せなのですよ」と限定的に定義したわけではなくて――
 むしろ、常識的な「幸せ」から外れてしまっているように思える人たちでも、天の視点からは「幸せ」と断言できるのだということを、教えの一面として説いたのだろうと思う。


 たとえば、ものすごく不遜なことだけど、今風に色々当てはめて言うならば…

 職を失う人は幸いである、その人たちは豊かな家の手前にいる。
 引きこもる人は幸いである、その人たちは「本当の私」を掘り起こしている。
 家族との確執のある人は幸いである、その人たちは無条件の愛と許しを知ろうとしている。
 心の傷を持つ人は幸いである、その人たちは自他を癒す者である。

 …といった見方も、成り立ち得るだろう。


 たぶん今後の時代変化の中で、これまで自己を満たしていた状況が失われてしまい、「心の貧しい人」になるケースが増えていくのではないかと思う。
 でもそれは、決して否定すべき災厄ではなく、まさに「天国はその人たちのものである」と言われるほどの、大きな導きなのだろう。


 「幸せ」からは、もはや最大限にかけ離れた話だけど…

 ナチスによるユダヤ人強制収容所を体験した心理学者のヴィクトール・E・フランクルは、有名な著書である『夜と霧』の最後のほうで、こう記している。

 私たちは、おそらくこれまでの時代の誰も知らなかった「人間」を知った。
 では、この人間とは何者か――。人間とは、「人間とは何か」をつねに決定する存在だ。
 人間とは、ガス室を発明した存在だ。しかし同時に、ガス室に入っても毅然として祈りの言葉を口にする存在でもあるのだ。


 ガス室で残忍に殺されていく最期においても、自らが加護と祝福のもとにあるという「在り方」を選び続けた人々が、現に存在する。
 フランクルは「それがたった1人であったとしても、人間の内面は外的な運命よりも強靭なのだということを証明してあまりある」と述べる。


 私たちの誰もが、「自分とは何であるか」を宣言することに関しては、100%完全な自由を与えられている。
 強大な運命が支配し、制約だらけのようにも見える次元の中で、この自由はまさに「法外」ともいえるほどのものだ。

 そしてこの自由は、外的な状況はどうであれ、本当の私としての「幸せ」を選ぶための力なのでしょう。



 結びのヒーリング・ミュージックはAetherium「Beacon of Light」。

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 寄付というのは、自分から口にしたりはせずに、「陰徳」としてするのがいいのでしょうけど――
 でもちょっと「ブログのネタ」として、自分のことを書きますね。


 僕は10年前から、月々5千円だけど、エルサルバドルに住む男の子の生活支援をしている。
 エルサルバドルは、中米のなかでも貧しくて治安が悪い国だ。

 僕がしている支援というのは、もちろん個人で行っているのではなくて、国際NGO(非政府組織)に寄付金を振り込み、そのお金が子供の住む地域の教育・医療などの支援活動に役立てられる、という形だ。
 そして子供からの近況の手紙や、成長記録などが定期的に送られてくる。


 先月にその男の子からの写真付きの手紙が届いたのだけど、成長期ということもあって、本当に大きく育っているのに驚いた。

 この写真の上のほうが支援を始めた当初で、下が先月のものだけど、実に元気そうで立派なアニキになっていて嬉しく思いますよね!
 自分の実の息子にかけている学費・養育費に比べれば、この寄付金なんて大した額といえないだろうけど…、そこから受け取る喜びは「対等」くらいかもしれない。

 正直に言うと、会社を早期退職する際に、年間6万円の寄付を打ち切ろうかどうかけっこう悩んだのだが…、続けていて良かったなと思う。途上国の子供はこちら以上に、経済的な支えを必要としているわけだから。
 (もちろんこういうのは、その人その人の考えで行うものなので、価値観を押し付けるつもりは全くないです…)


 話は飛躍的に大きくなるけど――

 日本をはじめ先進国が、世界の「貧困救済」などに支払った金額は、年間で600億ドルになるそうだ。
 一方で、先進国が「防衛費」として使ったお金は、その15倍の年間9000億ドルに上る。

 この防衛費の金額は、世界の貧困問題をすぐにでも解決できる規模だといわれる。


 つまり私たちは、「世界中の人々を救うのに十分な経済的能力」を、もうすでに手にしているわけだ。
 あとはお金が向かう方向を変えるだけで、ゆうにそれを実現できてしまう。

 だが私たちは、まだその道を選んでいない…。


 小さな人間関係から、大きな国際問題まで、この世の中のあらゆる問題を作り出している根っこにあるものとは――、人々の意識に横たわる「私たちはバラバラだ」「必要なものは不足している」という2つの考えだと言われる。

 この実に単純な考えから派生して、現在の経済社会や国の構造が作り出されているわけだ。
 そして、「貧困救済」の15倍もの「防衛費」という、ものすごく偏ったお金の配分ができ上がってしまっている。


 どれほど深刻で複雑で大規模な世界の問題であっても、その解決について突き詰めていくと――
 「私たちはひとつの存在である」「必要なものは与えられて生かされている」というスピリチュアルな真実を、皆が受け入れていくかどうかにかかっていると言えるだろう。

 これを受け入れれば、人類がすでに持っている力の向かう先は、おのずと変わっていく。

 前回記事でも触れたファンタジー物語『アミ 小さな宇宙人』で語られている通り、まさに私たち地球人が、「愛」のレベルを上げるかどうか、ということなのでしょうね。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Massage Gold「At Peace」。

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 スピリチュアルなメッセージが込められたファンタジー物語『アミ 小さな宇宙人』がとても好きという人は、年代にかかわりなく多いでしょう。

 高度に文明が進化したオフィル星からやって来たアミは、宇宙の基本法とは「愛」であると語る。
 地球はまだ未開の星であり、人々をつなぐ「愛」のレベルをもっと高めないと、自滅の道は避けられないという。

 そしてアミは、地球人の少年を円盤に乗せて、オフィル星での暮らしぶりや本当の文明社会のあり方を見せる。
 そこでは、人々が互いに必要なものを与え合い、対立や強制もなく、皆が毎日を自由に精一杯楽しみながら生きている。
 まさに、誰もが夢見る「理想郷」そのものだ。


 で、僕がこの本の中でものすごく魅力的に感じた部分が――、実はアミの乗る円盤の内部である。

 このようなイラストで描かれているのだけど、何て極端に簡素!
 旅に必要な装備品はどこに置くのか、トイレはどうするのだろうとも思えるけど…
 そんな常識的な優先度なんか関係なく、見るからにリラックスできそうな「瞑想ルーム」があるところが実に素敵だ。

 地上のあらゆる束縛から離れた宇宙空間を旅しながら、こんな心地いい一室でじっと瞑想したら――、宇宙全体の深遠な「空」の中へ溶け去って、すべてと一体となって満たされていくような感じがする…。

 僕は自分の部屋で瞑想をするとき、最初によくこの「瞑想ルーム」にいる様子をイメージしたりもします。


 話の角度がちょっと変わるけど…

 昨年のヒット映画でもあるように、実際の宇宙空間というのは、生命が決して存続できない苛烈な暗闇である。
 もしもそんな、どうすることもできない闇の中にたった一人で放り出されてしまったとしたら――、すべてに見離された極限の孤独と恐怖を味わうだろう。

 でも、それほどの終末的状況に置かれたときさえも、私たちは決して失うことのないものがある。
 それは、「守護」の存在だ――。


 最近同じ人の引用が続いてしまうが、エリザベス・キューブラー・ロスの講演録の中に、こんなふうに語っているところがある。

 私たちは死ぬとき、「独りではない」ことを知ります。自分を助け、導いてくれる存在が、自分の周りにいることに気付くのです。
 これは、人里から何百キロも離れた砂漠の真ん中でひっそり息絶える人にも、軌道から外れて宇宙を漂いながら酸欠で死亡する宇宙飛行士にも当てはまります。

 キリスト教ではその存在を守護天使と呼んでいます。私たちは、それを生まれたときから実はずっと知っているのです。
 はじめて呼吸をしたときから、肉体を離れてあちら側へ移行するときまで、「守護」の存在は私たちのそばにいて手を貸してくれています。


 お遍路さんの「同行二人」も、たぶんこれに近い意味なのでしょう。

 地の果てにいても、さらには宇宙にいようとも、
 またどんな孤独や苦難の真っただ中にあっても、
 そしてもちろん、今のこのときにおいても――、
 私たちは絶対に離れることなく、大きな「守護」のもとにいるんですよね。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Neil H「The Remembering」。

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 年の初め、仕事の新しい目標を立ててやる気に満ちている人はもちろんいるだろうけど――
 一方でサラリーマンの中には、「辞められるものなら、会社を辞めたい」という思いが胸の中で高まっている人も、きっと少なくないと思います。(何しろ僕自身が、毎年そうでしたから…)


 先日、ニール・ドナルド・ウォルシュの近著『人類との対話』を読んでいたら、「早期退職」について、こうきっぱり言い切っている個所があった。

 「いま働いている人の半数に早期退職を受け入れるように求めればいい。それができるだけの金銭と生活の質を保障すればいい。そうすれば、18歳以上のすべての人が職に就ける。
 退職者の多くは25年以上勤めた人だが、中にはまだ十分働けるうちに辞める人もいるだろう。彼らは自分たちの情熱や独創性や技術を使って、地域や世界のために貢献すればよい」――


 「半数」というのは何とも大胆だけど、でも本当に喜びながらサラリーマンの仕事を続けている人は、実のところそれくらいなのではないかな。
 また、そんな大勢の退職者の生活保障をしたら、間違いなく経済全体が破綻してしまうと思うのだけど…、ウォルシュ氏は決して「絵空事」ではないことを力説している。

 若い人たちが希望する第一線で活躍し、そして40代以上の多くが独立して、自分が好きなところで役立ちながら生きる――
 これを「実現不能な甘い見方」として一蹴するのは、人間の可能性をものすごく低く見積もってしまっているのではないかと、僕も思う。


 自分のかつての勤務地だった東京・大手町を地下鉄で通るときに、乗り降りしてくるサラリーマンを見ていると、けっこう驚いてしまう。
 何しろ(自分を棚上げにして言うのは何だけど)、そこにいるほとんどが、40代・50代のおっさんばかりだからだ…。

 自分がまさにその一員として働いているときは気にもしなかったけど、ビジネスの中心地には若い人の割合が本当にがく然とするほど少ない。
 もしこれから新しい時代が起こってくるとするならば、それは決して「この場所からではない」とさえ感じる…。


 僕自身、早期退職に踏み切るまでは、「そんなことをしたら取り返しのつかない事態になってしまい、人生をものすごく後悔するに違いない…」と考えながらずっと逡巡していた。

 でも、退職して2年以上経ったいま、色んなプロセスの途上にあって実感しているのは――、「意を決して縛りから飛び出し、起こることに身をゆだねる生き方というのは、何て心地よくて素晴らしいものだろう!」、ということだ。


 終末期医療の草分けで、何千人もの臨終に立ち会ったエリザベス・キューブラー・ロスは、「死ぬ前に、自らの仕事について誇りを持って語る人はいるが、もっと働いて年収○○万ドル稼ぎたかったと振り返る人はひとりもいない」と語る。
 そして、人生での「やりたいこと」や「夢」について、以下のように述べている。

 私たちの個の力は、「なりたい自分」を実現するためにある。その力は、「するべきこと」をするためだけに与えられたのではない。
 するべきことをしているだけの人生は、最悪の人生である。

 誰にも、人生の冒険の「夢」がある。ところが私たちは、「自分の夢を実現してはならない」というさまざまな理由にしがみ付いている。
 その理由は一見もっともらしく、身の安全を保障してくれるように見えるが――、実はそれこそが私たちの自由を束縛するものなのだ。


 もちろん、誰もがやりたいことをするために会社を辞めればいいというわけではない。
 ウォルシュ氏もざっくり言っている通り、たぶん「半数」の人は、今の仕事が本当に向いているし、きっとそれが魂のシナリオなのだろう。

 でも、もし自分がそれ以外の半数の方であって、この年の初めに強く思うところがあるのであれば――
 その思いを胸に、自分の新しいあり方を信じていることによって、しかるべき前兆がきっと現れてくるはずだと思います。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Frederic Delarue「Rays of Light」。

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プロフィル

Koudai Mitsuna

Author:Koudai Mitsuna
 
光奈 広大(みつな・こうだい)

 20年のあまりのサラリーマン生活を経て、いわゆる「ザ・マネーゲーム」を何とか卒業。今では束縛されない自由な日々を存分に味わっています!

 そうした中で心がけているのは、普通の日常的な行いを通じて、意識の進化を目指す「カルマ・ヨガ」。

 日々の喜びや学び、インスピレーションから得たスピリチュアルな気付きなどをブログで紹介しています。

 妻子と都内在住――。

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