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 ファンタジー作家で、オーストラリア先住民「アボリジニ」の研究者でもある上橋菜穂子氏の本を読んでいたら、出ていた話です――

 上橋氏が調査のため現地を訪れ、小学校の先生を対象に「白人の子供を教えるのと、アボリジニの子供を教えるのとでは、どんな違いを感じることがあるか」というアンケートを行ったところ…、
 「カンニングをするのはアボリジニの子が圧倒的に多い」という返答があったそうだ。


 当初はマイノリティーへの差別や偏見だろうと思ったものの、実際にアボリジニの子供に聞いてみると、あっさり「うん、よくカンニングをするよ」と笑って、こう話したという――

 「自分は答えが分かった。でも隣の子は分からなかった。だからシェアしたんだ。自分だけがいい点を取ることはそんなに大事じゃない。それよりも教えてあげて、一緒にいい点を取ったほうがうれしいでしょ」


 でもそれだと隣の子は勉強しなくなってしまうのでは、と指摘してみたところ、そのアボリジニの子供はこう言ったそうだ――

 「彼は彼で、ほかに得意なことがあるから、いいんだ」


 ……何とも驚かされるというか、私たちが教わって身に付けてきた常識とは大きく違うけど、「なるほど、そうだよな」と納得させられますよね。

 しかも、そうした「お互いにシェアする」という意識が、子供の学校のテスト中にまで自然と出てしまうなんて、すごいことだなと思う。
 きっと(たとえが良くないけど)、日本人が相手の話にすぐ同調したり、おじぎをしょっちゅうするのと同じくらい、民族として肌身に染み付いている性質なのだろう…。


 で、アボリジニの子供たちとは違って――、
 現代の社会、あるいは市場経済の基本というのは、「努力して人より勝る」ことを善しとする考え方だ。
 それこそが、自らが生き残る道であり、社会発展の原動力ともされている。

 そしてさらには、古い先住民などの考え方よりも、現在の自分たちの価値意識のほうが「より進んだ普遍性の高いもの」と考えているケースも少なくないと言えるけど…、
 でも、それはどうだろうか。


 もし仮に、文明が高度に発展して「フリー・エネルギー」などが開発されたとして、これまで人々が獲得に努めてきた色んなものが、かなりふんだんに得られるようになったならば――、
 きっと「努力して人より勝る」という生存・発展の考え方は、効力や意味すら失ってしまうだろう。
 たぶん人々は「分かち合う喜び」のほうに、新たな豊かさを見いだしていくに違いないと思う。

 一方でまったく逆に、地球が大災害に襲われるなどして、人々がやっと生き延びるほどの苦しい状況下に置かれてしまったとしたら――
 この場合も、利害を超えて分かち合うことこそが、望まれるあり方となるはずだ。もし誰もが「人より勝る」という意識で争っていたら、全体が滅びかねない。
 現実に人類は、先住民と同じ知恵によって、太古からの過酷な環境を生き抜いてきたわけだ。


 そういう点で、現在の私たちの価値意識というのは、「近代の限定的な状況のもとで作られた、ごく一時期のものにすぎない」くらいに言えるのではないかと思う。


 さまざまな先住民の知恵というのは、現代人の常識よりも何十倍、何百倍も長い歴史があるものだし、しかも世界のさまざまな地域に同じような言葉が残されているということは、それがより普遍的な真理に近いのだろう。


 1800年代、アメリカ大統領が先住民たちに「部族の土地を買い取りたい」と申し出たのに対し、先住民の酋長が返した率直な言葉はとても有名だ――

 「大地や空を、どうして売ったり買ったりできるのか? その考えは、私たちにとって非常に奇妙に思える。空気のすがすがしさや水の輝きを、そもそも誰も所有などしていないのに、なぜそれを売ったり買ったりできるのか?
 私たちはよく知っているのだ。大地が人間に属するのではなく、人間が大地に属しているということを」


 また、アイヌ民族で初の国会議員となった萱野茂氏が国会で語った言葉――

 「アイヌは自然の“利子”の一部で、食うことも住むことも、着ることも全部やってきた。ところが今の人間は、自然という“元本”に手をつけている。“元本”に手をつけたら“利子”がどんどん減ることを、これだけ経済観念が発達した日本人がなぜ分からないのか?」


 本当に、どう考えてもこれこそが「真っ当な考え」だと思えますよね…。

 こうした古くからの知が、ふたたびこれからの新しい道筋として語られていく――、そんな時代にいま私たちはいるのだろうなと感じます。


 結びのヒーリングミュージックは、Llewellyn and Juliana「Lux」。

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 スピリチュアルの分野では、意識の「目覚め」のことを、開く花や種子の発芽などによく例えられます。

 今回は、そうした「発芽」の話――


 草木が芽吹くタイミングといえば、暖かな春の時季というのが、ふつうに思い浮かぶイメージだろう。
 アフリカなどの砂漠地帯では、ごくわずかな雨期の間だけ、無数の花々が一気に萌えたって咲き乱れる平原もある。

 で、中でもかなり驚きなのが、オーストラリアに自生する「バンクシア」という植物。何とこれは、「火災のときだけ発芽する」という、とても珍しい性質を持っている。

 バンクシアの種子は、非常に硬くて厚い殻に包まれていて、普段はその状態のままひたすらじーっと、ことが起こるのを待っている。
 そして山火事が発生して炎にあぶられると、頑丈な殻が熱によってはじけ、宿している種子が外の地面に放たれる。


 ずいぶんと奇妙な植物に思えるけど、実はとてもちゃんとした理由がある――。
 山火事の後は、周りに茂っていた木々が焼き払われているから、そこに芽吹いたバングシアは、日光を存分に浴びながら育っていくことができる。
 そして山火事の後に残る灰は、植物にとっての豊富な栄養素となる(「焼き畑農業」と同じ)。

 また、多湿な気候の日本では山火事はそれほどめったに起こらないけど、高温で乾燥した大陸であるオーストラリアの場合、自然発火による山火事はけっこう頻繁に起こる。

 そうした中で「火災によって発芽する」というのは、植物が繁殖していくうえで、なかなか有効な特質なわけだ。


 で――、意識の「目覚め」についての体験談などの中には、精神的に極度に追い詰められて、何もなすすべもなくなったときに「それが起こった」という話はとても多い。

 これもまた、「本当の私」という種子を覆っていた硬い殻が、苛烈な炎にあぶられることによってはじけ――
 そして、余計な考えや自意識がぽっかり消えた「焼け野原」みたいな状況だからこそ、種子が一気に芽吹いて育った、というふうに言えるのかもしれない。


 もちろん種子によっては、暖かな春の訪れや、恵みの雨によって萌えたつものもあるだろう。
 私たち一人ひとりには、そうした色んな種子が植えられているのだと思う。

 そしてまた、自分の内にある恐れや、痛みや、空虚感などに向き合うとき――、そのさらに深奥には、まさにこれから芽吹こうとしている種子があることを、静かに感じるといいのだろうと思います。

 スティファン・ボディアンが著書の「Wake Up Now(邦題:過去にも未来にもとらわれない生き方)」で語っている言葉――。

 内面の空虚感は、非常に恐ろしく感じるが、実際は存在の核心にある「輝くような空性」を指し示している。
 厚く積み重なった信念や自己イメージの層をはがしていけば、その輝く虚空の直接体験へと導かれていく。


 結びのヒーリング・ミュージックは、2002「The Dreaming Tree」。

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 「愛」というものの本質のひとつが――、すべてのものごとを無条件で受容することだと言われます。

 いわゆる正邪・善悪などの分け隔てを無しに、あらゆる要素をあまねく内包するのが、「大いなる愛」と呼ばれる宇宙の源のあり方だ。


 で、実は私たち自身もまた――、この世界に現れるすべてをありのままに受け入れる、まさしく「愛の本質そのものにほかならないのですよ」と言われたら…、
 たいていの人はきっと、「それはかなり違う」「自分はいやな出来事を、心から受け入れずに拒絶しているし」というふうに考えるでしょう。

 でもそれは、自身の本当のあり方を低く見積もった、相当な「謙遜」だといえる。


 この世界に起こるさまざまな出来事について――、インドでは一言「タタータ」(起こることは起こり、それ以外は決して起きない)と言い表し、同じようにイスラムでも「マクトゥーブ」(すべては神の手によってすでに書かれている)と言う。

 このことはつまり、起こるものごとに対して私たちは、自分の考えや都合で「それは起こらないでもらいたい!」と拒絶することは、実際にできないのだといえる…。


 日常的なネガティブな出来事から、事故や病気、さらには自らの死まで――、心ではもちろんそれに徹底的に抵抗する。
 自らの内で激しく悲鳴を上げ、起こったことを認めず、後々まで痛ましい傷を残したりもする。

 しかし、気持ちの面ではそうであっても…、
 「到底受け入れられるものではない!」と言って、起こってくる現実を結果的に拒絶できたという人は――、たぶん人類史上ひとりもいないはずだ。


 実のところ私たちは、いやが応でも一切を「起こるがままに許す」しか道がない。
 そして最終的には、思考や感情がどう反応していようとも、あらゆる現実をその身でじかに受け止めて体験している。

 この結果的事実のみに着目してみると――、私たちの誰もが、自分に起こるすべての経験を、まぬがれることなく「100%受容しているのだ」と言っていい。


 エゴが表面的にどう抵抗しようとも、結局はあるがままに受け入れている――。
 こうした私たちのあり方とは、その本質が「大いなる愛」にほかならないということの、表れのひとつなのだろうと思う。

 もちろん、経験したことの中には、とても承服できない理不尽や、耐えられないほどの恥ずかしさや惨めな思い、深く傷付いたつらい出来事も少なくないだろう――。
 でも、それらすべてを、「愛」の本質をもって受容してきた自分そのものを、もっと誇らしく受け止めていい。


 こうした話を、エゴ意識の目線でとらえれば――
 まるで私たちは、選択権や自由意志というものが与えられず、有無を言わせず経験を強いられているようにも思える。

 ところが、まったくそうではない。
 えり好みした一部の経験だけしか受け入れることができないならば、それはある意味で、制限された「不自由なあり方」だといえる。

 一方、あらゆるものごとを分け隔てなく、ぜんぶ自分に受け入れるというのは――、まさしく「究極の自由意志」とも呼べるだろう。


 それは「大いなる愛」の壮大さであり、私たちはその本質を持ってここに生きている。

 すごいことですよね。これ以上、どんな力を望むでしょうか?――



 結びのヒーリング・ミュージックは、Gandalf「Sacred River」。

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 好きなファンタジー物語として、ミヒャエル・エンデの『モモ』を挙げる人は多いと思います。

 僕自身もこの物語には非常な思い入れがあって、それはどれくらいのものかといえば…

 僕は本を読んで印象に残った言葉などを、必ずパソコンに書き写している。実はこの本に関しては、印象的な一文にとどまらず、全350ページにわたる1冊をまるごと書き写した。
 どうしてまたそんな酔狂なことをしたのかというと――、事細かに書き写すことによって、展開される物語の基底にある何かを「大づかみ」してみたかった、という意図があった。

 毎日少しずつやって1年くらいかかり、文字数は計20万字。「写経」ならぬ「写モモ」である…。(ほかの本では、全文書き写しはしたことはない)
 では、それで実際に何かをつかめたのかと聞かれれば…
 う~ん、どうでしょうねぇ…。


 で、このブログでは、ファンタジー物語の『アルケミスト』や『アミ』については何度か取り上げたことがあるのだけど、考えてみたら『モモ』についてはまだ一度も書いていなかった。

 ということで、今回は『モモ』についての話題です――


 この作品の大筋は、本のサブタイトルにもあるとおり「時間泥棒と、盗まれた時間を人間に取り返してくれた女の子の、不思議な物語」である。

 ところで、スピリチュアルな観点からすれば、「時間」というものはあまり肯定的には語られない。
 覚者たちは「時間というものはそもそも存在しない」ときっぱり言い切っているわけだから、この物語のメイン・テーマ自体が成り立たない、ともいえるのだけど…


 でも、この物語で語られる「時間」というものには、人の「命」とか「人生」そのものとしての意味も、非常に色濃く含んでいる。
 物語に登場する、時間をつかさどる賢者のマイスター・ホラは、私たちに与えられた「時間」についてこんな説明をしている――

 時間は、本当の持ち主から切り離されると、文字通り死んでしまうのだ。
 人間というものは、一人ひとりがそれぞれの自分の時間を持っている。そしてこの時間は、本当に自分のものである間だけ、生きた時間でいられるのだよ。


 人生で与えられた時間を、「自分もの」として生かさないと、それは死んでしまうって…、本当にハッとさせられる言葉ですよね。

 有名なニール・ドナルド・ウォルシュの『神との対話』の中でも、「神」がこう強調している。
 「あなたが本当にしたいことを、どんどんしなさい! ほかのことをしてはいけない。生活のためにしたくもないことをして、人生の時間を無駄にしようなどと、どうして考えるのか? そんな人生が何だというのか? そんなのは生きているのではなく、死んでいるのだ」

 また、エリザベス・キューブラー・ロスも、こんな言葉を残している。
 「私たちの個の力は、『なりたい自分』を実現するためにある。その力は、『するべきこと』をするために与えられたのではない。するべきことをしているだけの人生は、最悪の人生である」――


 一方で主人公のモモは、自分自身が感じる「時間」というものについて、このように言い表している。

 時間って、一種の音楽なのよ――。いつでも響いているから人間がとりたてて聞きもしない音楽なのよ。でも私は、しょっちゅう聞いていたような気がするわ。とっても静かな音楽よ。


 音楽はよく「時の芸術」とも呼ばれる。音楽作品は、時間軸に沿って演奏されて初めて、その美しさが表現される。
 でも「時の芸術」と言われながらも、実際に音が鳴っているのは「今の瞬間」しかあり得ない。過去の音も未来の音も、今においては聞こえないし、それは実在していないとも言える。

 私たちもまた、この「物質と時間」の次元にあるからこそ、自らの「生」を旋律のように奏でることができるのだろう。
 ただ、モモが語るようにほとんどの人は、「今の瞬間」に響いている本質的な感覚なり精妙な静けさを、感じようとも聞こうともしない…。


 この物語の勘所は、秘密結社のような「時間泥棒」が街にこつ然と現れて、ひそかに活動を始めるところだ。

 時間泥棒たちは、多くの人が心に抱える不足感や野心などに付け込み、「もっと時間を倹約し、忙しく仕事をすることで幸せになれる」と、たくみに説き伏せる。
 そうして、一人ひとりが持っている時間を、知らず知らずのうちに着々と盗み取っていく。

 その結果、社会全体がどんどん余裕を失い、始終あわただしくギスギスしたあり方に変わっていく――。


 人目に触れず世の中に増殖する時間泥棒について、賢者のマイスター・ホラはこんなふうに説明している。

 彼らは、本当はいないはずのものだ。
 人間が、そういう者の発生を許す条件を作り出しているのだ。それに乗じて彼らは生まれてきた。そして人間は、彼らに支配させる隙まで与えている。


 本当はいないはずであり、私たちの本質を奪うもの――
 私たちは、そうしたものが「発生する条件」を自らの心に作り出していて、それに人生を支配されている…

 まるで、私たち自身にありありと起こっている事実を警告されるようで、本当に恐ろしく感じますよね。


 このように現代人のあり方の危うさを鋭く見通しながらも――、この作品には、読み手に子供のような喜びを喚起させる情景や、生き生きした美しい描写が満ちている。


 僕が特に素敵な表現だなと感じるのが、マイスター・ホラが「星の時間」というものについて語るときのせりふだ。

 宇宙には特別な瞬間というものが時々あるのだ。
 物体も生物も、遥か天空のかなたの星々に至るまで、一回きりしか起こり得ないやり方で、互いに働き合う瞬間のことだ。そういう時には、後にも先にもあり得ないような事態が起こることになるんだよ。
 だが残念ながら、人間はたいていその瞬間を利用することを知らない。だから星の時間は、気が付かれないまま過ぎ去ってしまうことが多いのだ。けれども、もし気が付く人がいれば、そういう時には世の中に大きなことが起こる。


 この「星の時間」ほどではないにせよ…
 僕がこうしてパソコンに向かってブログを書き、それが不思議ないきさつによって、あなたという他ならぬ1人とつながり、今こうして画面上でブログを読んでもらっている――

 これもまた、互いに働き合う「特別な瞬間」に違いないと感じます!


 結びのヒーリング・ミュージックは、Llewellyn「Closing Petals」。

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 いつも読んでくださっている方は、お気づきかも知れませんが…、このブログの絵柄を、今週からちょっと変えてみました!
 (ちなみにタイトル画像は「らせん階段」で、プロフィル写真は躍動的に「キャッホ~!」と跳んでいるものです)

 これまでの写真はけっこう長く使ったし、「遷宮」ではないけれど、たまには変化をさせたほうがエネルギー的にもリフレッシュされるかなと思って、差し替えてみました。


 ブログを開設してから、過去に3回ほどこうしたリニューアルをしたことがあるのだけど――
 実はそのたびにどういうわけか、アクセス数やコメント数がぱたっと減ってしまうという状況が起きた…。
 今回はどうかだろうかと思っていたら、またもやその通りになって、何とも不思議。

 ものごとをパッと一新したときって、それに前後して周りの世界までもが調子を変えたり、良く言えば「好転反応」みたいなものが現れたりもするけど、こういうのって、いったいどういうエネルギーの巡り合わせなのでしょうね…。


 一方で、僕自身についても実は最近、体がだるく感じられる日が多い。
 もちろん体調面や気分は全く問題ないし、朝のランニングもしているくらい健康体なのだけど(ただ頭の回転は鈍る)…、ときたま波のようにそんな「だるさ」がやって来る。

 以前は、ネットで太陽黒点数や宇宙線量のデータなどを見ると、体のだるさとけっこう一致していたので、そういう原因もあるのかなと思っていたのだが、半年前くらいからほとんど相関しなくなった。
 こうした状況は、流れるがままにまかせるほかないと、最近はとらえている。


 引き合いに出すには、観点がやや大げさかも知れないけど――
 会社勤めをしていたときは、仕事上で次々と起こってくる色んな動きや状況変化に対して、原因を探ったり対応したりと絶えず忙しかった。そのための頭脳も足腰もフル稼働だった。

 でも、今こうして身の周りがとてもシンプル化した中でじっと眺めていると、「どんなものごとも、自然と湧き上がっては、流れていくものだな」とつくづく感じる。


 流れていくといっても、社会や人生の巨大な潮流があって、その中にちっぽけな自分が置かれているわけではなくて――
 自分という存在の中を、人生という流れがさらさらと通過していく、といったイメージである。

 その通過していく流れの中に、手を突っ込んで何かを得ようとすると…、流れがさえぎられて、自分の胸の内に重苦しい滞りができてしまう。

 一方で、流れるものをただじっと感じていると、経験としての感覚だけを残して、そのままきれいに過ぎ去っていく。

 ――人の生というのは、きっとそういう展開なのだろうなと思っています。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Chakra Gold「Solar Plexus」。

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 魂は本当に永遠なのか? この人生が終わったあとも、私自身はずっと存在し続けるのか?――
 これは、スピリチュアルなテーマを突き詰めていくと、やがて行き当たる問いのひとつでしょう。

 しかしながらこの問いは、この世界の中では、おそらく検証不能なことだ。

 ではその、「検証不能な真実」とも言えるようなものに、果たしてどう向き合っていけば良いのか…。
 今回は、そういった感じの話題です。


 先月にレイモンド・ムーディの近著『生きる・死ぬ その境界はなかった』という本を読んだ。

 医師で心理学者のムーディは「臨死体験研究の父」と呼ばれる人物。
 死の淵から奇跡的に生還した人々の証言を数多く集め、死ぬときに体験される「身体からの離脱」「人生の回顧」「トンネルの通過」「光の存在との出会い」などが、文化・宗教にかかわらず多くの人に共通するものであることを明らかにした。
 そして1970年代に出版した著書『かいまみた死後の世界』は、世界中で実に1400万部も売れた。「臨死体験(near-death experience)」という言葉も、この人が作ったものだ。


 で、今回読んだ同氏の近著は、40年以上にわたる研究の歩みと、プライベートな半生について綴られた自伝だ。

 これだけ本が売れたのだから、きっと大金持ちの人生だろうと思いけや…
 何と、「ビジネス・パートナーに収入の大半を支払う」というとんでもない契約を交わしてしまったために、自身の家計はひどく困窮。
 妻とは離婚し、さらに若いころからの持病が年々悪化して、体調も気力も損なわれていったという。

 そしてそんな中、期待される新刊本のプロモーションのための全米行脚に赴いたところ、たまたま湾岸戦争の開戦と重なってしまい、行く先々のマスコミから「本の紹介どころではない!」と相次いで門前払いされてしまう。
 とうとう精神的に追い詰められてしまい、ムーディは大学の研究室で薬を大量服用して自殺を図る。
 発見した警備員に止められて、かろうじて一命を取りとめるのだが、その救急搬送中に自ら「臨死体験」をする…。

 ――という、何ともすごい波乱の人生である。


 で、この本の中で僕が特に面白かったのが、エリザベス・キューブラー・ロスとのやり取りの場面である。


 精神科医のキューブラー・ロスは、今では一般的になりつつあるターミナル・ケア(終末期医療)の草分けであり、そして「死後の生命の存在」についてのまさに世界的第一人者ともいえる論客である。

 ちなみにキューブラー・ロスは、ムーディよりも18歳年上。ムーディが最初の本を出したとき、すでに有名だったキューブラー・ロスが推薦文を寄せている。
 研究内容も見解も非常に近い2人なのだが、実は初めて直接会ったときに、互いの考え方が相容れずに決裂してしまう…。


 キューブラー・ロスは、「あなたは死後も生命が存在することを信じているの?」と、ムーディに問いかけた。
 冷徹な研究者であるムーディは、それにこう答える。

 「信じることではなく、証明することが私の研究のゴールです。もし死後生命を信じるなら、研究はいらないでしょう」

 一方のキューブラー・ロスは、熱意と信念に満ちあふれた性格である。ムーディが口にしたその言葉を聞くと、いらだちながら煙草をもみ消して、こう言い放った。

 「ナンセンス! あなたは自分の本に、死んで蘇生した数多くの体験者たちの証言を載せているじゃないの。みな死後生命に関して、同様のことを言っている。
 それはあたかも、かつて開拓者たちが船に乗って出て行き、新しい国を見つけたと言って帰ってきたときのようよ。帰ってきた様々な人の言うことが、互いによく一致するとき、『その国は本当に存在する』と判断していいんじゃない? その国をまだ実際に見ていなくても、信じていいはずだわ!」

 しかしその後もムーディは、自らの姿勢を変えなかった。死後の世界について、このような語り方をしている。

 「臨死体験は、死後に私たちを待ち受けている『入り口』を見せてくれたに過ぎない。たとえある人が、そこで真珠のように輝く門を見たと言っても、その向こうに『永遠の住まい』がある保障はない」――


 どちらの考えも、なるほどその通りだと思えますよね…。

 そしてこれは、「2人の研究者の意見の相違」というだけではなくて――
 私たちがスピリチュアルなものごとを理解しようとしたときに、「内に浮かぶ葛藤」でもあるだろう。
 事実以上のことは信じない方がいいのか、それとも、それ以上のことを信じることにこそ真価があるのか――

 もっとも、死後世界の真実そのものについては、実際に死んだ後に誰もが目の当たりにできるはずだ。
 でも、「生きている間にどう考えるべきか」については――、きっと信じるのも信じないのも、「どちらも正解」なのだろうなと思う…。


 ところでムーディは晩年になってから、死後生命についての個人的見解をはっきりと表明するようになった。

 それまで、自らの研究姿勢として、「信じる」ということをなかなか語ってこなかったわけだが――
 「他の人が死後生命について色々と『思い』を述べている中で、なぜ自分だけが言ってはいけないのか? 言うべきではないか、と考えるようになった」と、その理由を語っている。

 そして、ムーディが何万人もの事例を研究しながら、口にせずにいた「思い」とは、次のようなものである。

 「神は、私たちのために何かを計画しており、それは私たちが思い浮かべる死後生命をも超えるものかもしない。説明は難しいのですが、私たちが想像している以上の世界が、死後に用意されているように思えるのです」――


 神の計画、想像している以上の世界!…
 信じるのも信じないのも「どちらも正解」なのだけど――、でも信じるうえでは「相当な期待を込めて信じていい」と言えるのでしょうね。



 結びのヒーリング・ミュージックはNemeton III「Panoramic Floating」。

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 もしも「シイタケ」が、とても希少なきのこだったとしたら――

 たぶんマツタケのように1個数千円もする上等な食材として扱われ、めったに口にできないその風味に、多くの人があこがれるだろう。

 品のいい料理屋で、端正に盛られたシイタケの煮物が供されると、客は思わず「おっ!」と目を丸くする。
 褐色に照り輝くその一切れを口に含むと、なまめかしい食感とシイタケならではのふくよかなうまみがジュワッとあふれ出て、舌の上に満ちていく。
 豊潤な味わいをかみしめながら、「あぁ、やはりシイタケはきのこの王様だ!…」と感じ入るに違いない。


 でも実際は、シイタケはいつでもスーパーでけっこう安く売っているから、そんなふうに味わう人なんか誰もいない。


 もしも空の「雲」が、地球上でも限られた場所でしか見ることのできない、とても珍しい気象現象だとしたら――

 きっとオーロラと同様に、雲が現れる地には世界中からの観光客が訪れることだろう。

 真綿のように白く輝きなから、青空に浮かぶ雲――。ある時にはヒツジの群れのようになり、時にはそびえ立つ山塊のようになり、さらには精細なさざ波のようにもなりと、その姿は変幻する。
 そして朝夕には、厳かな炎の彩りに天空を染め上げる。

 雲が織り成す壮観な光景を目にした人は、「一生涯の思い出」として、自らの記憶に焼き付けるに違いない。


 でも実際は、雲はどこの空にも浮かんでいるから、そこまでの思い入れをもって雲を見つめることなんかない。


 もしも「呼吸」が、人生に一度経験するかしないかくらいの、極めてまれな生体現象だとしたら――

 呼吸というものが自分に突如起こったとたん、人はその感覚の鮮烈さに驚嘆してしまうことだろう。

 体の中心の何もない虚空から、エネルギーが見る見る上昇してくるように、「吸う息」が自然と起こってくる。
 息を吸い込むとき――、宇宙に行きわたるプラーナ(気)が体の内へと収束して集まり、ゆったりと全身にしみ通って満ちていく。

 そしてそれがピークまで達したとき、陰陽転換の合い間をへて、今度は「吐く息」が始まる。
 息を吐くとき――、エネルギーは重力にしたがって下降し、源である宇宙の果てへと帰り、内なるすべては清らかに心地よく静められる。

 その圧倒的でダイナミックな感覚は、人の意識を釘付けにしてしまう。
 呼吸をするたびに、まさしく「サムシング・グレートの息吹き」そのものを、自らの内に一体として感じ取れるに違いない。


 でも実際は、呼吸というのは、意識しようがしまいが延々と続いているものなので、日ごろそんな感覚にいちいち気を止めようとはしない……。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Nicoras Dri「Respiration Profonde」。
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 「過去の出来事」というのは、この三次元世界をリアルに経験できるように、「今の瞬間」にすべて作り出したものだ――
 という話を前回のブログ記事でしました。

 たとえば生物の進化論に関しても、「生物の進化が先にあって、その結果、今の自分がいる」のではなくて…、あくまでも「私という存在が先で、生物の進化は後付けで作り上げた」ということ。
 これは、社会常識的には、まったくとんでもない見方だろうけど…。

 今回はその続きで――
 いわゆる「過去生のカルマ」と言われるものも、実は同様にすべて「今の瞬間」に作っているという話です。


 スピリチュアルの世界では、私たちがこの地上に生まれてきたのは、「癒し」や「浄化」のためだと言われることがあるけど、まさしくその通りだと思う。

 別の切り口では、この世界は「神の遊び」であり、本源へと「帰還する旅」でもあるのだけど――、バラバラの分離からワンネスへと立ち返っていくためには、「癒し」という要素はやはり欠かせないものだと思う。


 で、私たちは、この地上世界に生まれる前に、人類が蓄積したさまざまな集合意識の中から、「自分は今回の生を通じて、これを癒そう!」というテーマを選んで生まれてきているのだと思う。

 ただし、「人類が蓄積した集合意識」といっても、それは時間軸上の過去に作られたわけではなくて、あらゆるものは時間・空間を超えて同時に存在している。
 また「生まれる前」といっても、これもまた過去の出来事ではなくて、私たちは本当は生まれてさえいない!――
 でも、そうして時間軸をすべて取り払って言葉で説明するのは全く不可能なので…、時間の要素も便宜的に織り込みながら話しますね。


 たとえば、僕自身のケースで言えば(以前にも書いたことだけど)、妻が深刻な鬱を患っていた。
 そして、妻との関係や家庭生活にどうにもならない葛藤を抱えたものの、最終的には起こっている状況をありのまま受け入れることで、「手放すこと」や「許し」「無条件の受容」にかかわるいくらかの体験的な理解が得られたと思う。

 この経験が本当に大きな気付きになり、僕にとってまさにこれこそが「生まれる前に選んだテーマ」の重要部分だったのだと、今では考えている。
 「こんなこと自分は絶対に認めることができない!」とかたくなに握りしめていた、強いわだかまりのエネルギーを浄化することができたし、そのためには「妻との出会い」がやはり必要だった。


 では、どうしてその妻と夫婦になったのかというと――
 学生時代から、特定の相手との関係が深まるという展開が、どういうわけだか本当に不思議なくらい、うまく進まなかった。

 異性との縁が少ない人や、あるいは潜在意識的な抵抗感がある人というのは、僧侶や修道女だった過去生があって、その経験が今生での「ブロック」になってしまっているといった話がよくあるけど――、僕自身もそんなシナリオがとてもしっくり来るように感じる。

 また一方で妻の側も、鬱を患った原因として、実家の家族関係での重い経験があった。そのような境遇を呼び寄せる過去生も、きっと自身の中にあったのだろう。
 さらに言えば、彼女の家族にも、複雑に込み入った経緯と過去生があったはずだ。


 普通は、そうしたさまざまな過去生のカルマの結果として、今生の自分の状況が出来上がっていると考えるものだけど――、僕自身はその「因果」をまったく逆の順でとらえている。


 つまり、最初に「今回の生では、このテーマを浄化しよう!」という自分自身の目的がまずあった。
 その浄化に取り組むためには「妻との出会い」が必要で、さらに妻と出会うためには僕の心の「ブロック」が経緯として必要だった――

 そして、ブロックを作るために、それにふさわしい自分の「過去生」をまとめて創造した。
 同時に、妻やその家族の半生および過去生までも、「今の瞬間」に一気に作り上げた。――という順の図式だ。


 もちろん、僕の浄化の目的のために、周りの人たちを強引に巻き込んでいるわけではないし、また他者の存在が単に幻というわけでも決してない。
 周りの人たちは、まさに「自分自身の一部」として、痛ましい感情や苦しみを負ったり、あえて悪役のようなことを演じたりしてくれている。

 そうすることで、僕が浄化すべきエネルギーを現実的な出来事として裏付け、リアルに際立たせ、それを「経験できるもの」に仕立て上げてくれているのだと思う。


 言葉を繰り返すけど、過去生のカルマの結果として、現在の自分の状況が出来上がっているわけではない。
 この生における浄化の目的が最初にあって、その目的を体験的に果たすために、自分や周りの人たちの半生と過去生までを「今の瞬間」にまとめて作り上げている――

 魂はそれくらい主体的なチャレンジャーであり、この世界に対するとてつもない創造性があるのだと思う。

 そしてそもそも、魂の次元には時間が存在しないわけだから…、過去生やカルマを含め「今の瞬間にすべて創出している」という真実しかあり得ないはずだろう。


 では、そうした観点で世界をとらえてみるメリットは何かというと――
 その重要なひとつが、「癒し」への取り組みについて、極限的にシンプルにとらえられる点だと思う。


 つまり、生まれる前に選んだ「癒されるべきエネルギー」が自分の内にあって、それに直接的に取り組むというだけ――

 原因となる出来事や、とらえどころのない過去生を探っていくのではなく、また周りの具体的な状況を改善するのでもなく――
 ひたすらにハートを開いて、その「癒されるべきエネルギー」に向き合って、認めて、いたわり、受け入れていくこと。

 まさしく、そのことこそが、地上に転生した魂の大きな目的なのだと思う。


 ただしこうした話は、「切り口」を変えるだけで、コロッと逆のとらえ方ができてしまう。
 「私たちは結果であって原因ではない」とか、「すべてはあるがままであり、自分では何も決めていない」とか――

 それももちろん真実であり、僕自身もそうした話をよくする。あくまでも、数ある「切り口」の一つとしてとらえてください。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Kavin Hoo「Night Stroll In Vieux Lyon」。

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 ときどきこのブログでは、地球の歴史や生命進化について書くことがあります。
 すると、「そういうはスピリチュアルな真実から外れているのでは」といった指摘のコメントをいただくこともあります。

 確かにその通りで、「時間は存在しない」とか「あらゆるものは私自身が創造している」という見地からは、進化論というのはとてもなじみが悪い…。


 とはいえ一方で、現に恐竜の化石とかが発掘されているわけだし、ダーウィンの「種の起源」や、多様な生物の進化関係を示す「樹状図」とかも実に明解なものだ。
 それを一見するだけで、「こうした長い進化プロセスの果てに、現在の私たちが存在しているのですよ」とスムーズに論証されてしまう。

 では、こうした「過去」の現実というものを、どうとらえているのかと言うと――
 以前にも一度書いたことなのだけど、「恐竜も、類人猿も、化石も、進化論も、全部まとめて今の瞬間に自分自身が創造した」のだと考えている。

 どうしてそんな遠大な過去をわざわざ作る必要があるのかといえば、「この三次元世界を完璧にリアルなものにする」という目的のためだ。


 この三次元世界というのは、全知全能で唯一絶対の神が、「分離」や「相対」やさまざまな「制約」を経験するために創造したのだと言われる。
 そうした世界の中で、神が自らを「相対的・体験的に知る」ことが、そもそもの意図だ。
 まさにインドでいう「リーラ(神の遊び)」であり、「神が神自身にかけた魔法」であり、そして実質的にはすべてが「幻想」でもある。

 しかし、この次元を体験している最中に、実は幻想にすぎないことが露呈してしまうと、世界を創造した意味が全く台無しになってしまうことになる…。
 そのため、神自身の目から見ても一切の隙がないくらい、この世界はあらゆる部分が万端に仕上がっていなくてはならない。


 で、これだけ諸科学が発展した中にあって、もし生物の起源だけがぽっかりと未知の状態のままであったとしたら――
 ひょっとしたら、そのいびつな「知の空白」から、誰かが「分離」や「相対」の幻想性をあっさり見抜いてしまうかもしれない…。

 だからそうならないために、化石やその発掘者や研究者、裏付けとなる学説までも、すべてを全部まとめて自分自身で作り上げておいたのだ。
 あるいは、数十億年にわたる無数の生物と進化プロセス、そのための地球環境を、「過去の現実」として本当に細大漏らさず作り出したのかもしれない。
 とてつもないスケール感だけど、何しろ神の創造なのだから、それくらいできてしまうのだろう。


 そうすることによって、この三次元世界を万全に「疑いの余地なく」経験することができるわけだ――。

 重要なのは、生物の進化が先にあって、その結果いまの自分がいるのではない、ということ。
 私という存在が先で、生物の進化は後付けで作られたということだ。


 で、こうした「すべての過去をいま作っている」という図式は、いわゆる「過去生のカルマ」などについてもあてはまるのではないかと考えている。

 その話を次回またしたいと思います――。


 結びのヒーリング・ミュージックはMassage Gold「At Peace」。

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プロフィル

Koudai Mitsuna

Author:Koudai Mitsuna
 
光奈 広大(みつな・こうだい)

 20年のあまりのサラリーマン生活を経て、いわゆる「ザ・マネーゲーム」を何とか卒業。今では束縛されない自由な日々を存分に味わっています!

 そうした中で心がけているのは、普通の日常的な行いを通じて、意識の進化を目指す「カルマ・ヨガ」。

 日々の喜びや学び、インスピレーションから得たスピリチュアルな気付きなどをブログで紹介しています。

 妻子と都内在住――。

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