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 前回の記事では、脳神経外科医が自らの臨死体験について記した『プルーフ・オブ・ヘヴン』(アベン・アレグザンダー著)の本について紹介しました。

 脳科学の権威が、死後世界の実在について説いたことは、「臨死体験なんて幻覚にすぎない」「あの世というのは空想の産物だ」という常識を覆すほどのインパクトをもたらした。
 この本はアメリカでベストセラーになり、有力雑誌で大きな特集が組まれ、日本でもテレビ番組で詳しく紹介された。


 アレグザンダー氏は同書の中でさらに、この地上世界や人類の役割などについても、あの世で触れた英知をもとに、踏み込んだ考え方を述べている。
 その内容は、スピリチュアル分野のマスターなどがよく語っていることと同様なのだけど――、完全に立場を異にする科学者の見解として、また誰かに教えられたわけでもない完全な「素の状態」から、このような話が出てくること自体、何ともすごいことだなと驚いてしまう。

 で、今回は、前回記事からの続きとして、そのあたりを紹介したいと思います。
 テレビ番組ではこうした部分は省略されてしまうけど、素晴らしいですよ――。


 アレグザンダー氏は、死後世界にいるときに、物質を超えた地球の姿を眺めた。それは、無限の暗闇に浮かぶ青色の点だったという。
 そして、そのときに分かったこの地球の特質とは、次のようなものだった――

 「地球とは、『善と悪』が混在している場所であり、それが地球の独自性を際立たせていた。
 悪よりも善のほうがはるかに優位を占めているものの、高次の次元では考えられない形で、地球では悪が影響力を行使することが許されていた」


 世の中はどうしてこんなひどいことが起こるのか…という嘆きを、これまで無数の人々が口にしてきた。でも実はそれこそが、地球だから可能な「特別な経験」ということができる。
 そうした仕組みが地球に設けられている目的について、このように語る――

 「地球では、ときに悪が優勢になることを、創造主が受容している。それは、われわれ人類に『自由意志』の恩恵を授けるために、そうする必要があるからなのだ。
 自由意志には重大な機能がある。いずれ人類が別次元へと入っていくことを可能にする、考えられないほど深い働きを持っているのだ」

 「宇宙や世界の中では、人間などちっぽけな存在でしかないように見える。
 しかし人間は極めて重要な存在なのだ。この世界で、神となることに向かって成長する役割を担い、その歩みは高次の存在たちにによって常に見守り続けられている」


 かなり明解な見方といえますよね。この世の中で悪が優勢になるのは、人類の自由意志が尊重されているからだと。そして、その自由意志という特別な力によって、人はやがて別次元にシフトするのだと。
 さらに私たちは「神へと成長する役割を担っている」って、そこまでのことをきっぱり言い切る人は、スピリチュアル分野でも少ないくらいかも知れない…。


 そしてアレグザンダー氏は、自らの専門である人間の「脳」に関しても、臨死体験後は次のような見解を述べている。
 こんな内容を、最先端の脳神経外科医が語るなんて、とても信じられないほどだ――

 「私たちが身体にいる間は、背後にある広大無辺な次元を『脳』が覆い隠してしまう。
 左脳にある、分別や自我の意識を抱かせる部分は、高次元の知識や体験を得るうえでの妨げになっている」

 「脳は、本来の広大な意識を、身体にいるわれわれが許容できる範囲に制限するフィルターとして働いている。
 この世界から見れば、それにははっきりした利点がある。周囲からなだれ込んでくる情報をろ過し、生存に必要なものを選り分けてくれる。
 そのお陰で、物質を超えた自らの本質を忘れた状態で、自分が今いる場所に効率的に集中することができるわけだ」


 世界の真の姿を、脳が遮断しているという見方は――、同じくエリート脳科学者で、自らが脳卒中で倒れたときの神秘体験を綴った『奇跡の脳』の著者ジル・ボルト・テイラー氏の見解とほぼ同じだ。
 さらに、そうした人類が歩むべき道筋について、アレグザンダー氏はこう私たちに伝える――。

 「人類はいま重要な局面を迎えていると、私は考えている。われわれは脳が完全に機能している状態で、この世界で生を受けているうちに、より広大な知識を取り戻す必要がある」

 「私たちを待ち受けている世界の、例えようのない素晴らしさに気づくことができれば――、たとえ邪悪や不正に直面しながらも、自由意志を通して正しい決定をしていくことが、はるかにたやすくなるだろう」


 さらに、脳科学にとっての最大の神秘でもある、私たちの「意識」というものについて、アレグザンダー氏は次のように述べている。
 これはもはや、インドの覚者などの言葉と変わらないです…。

 「『意識』とは、すべての物質的存在以上に現実のものであって、さらにはおそらく、それらすべての土台をなすものが『意識』なのだ」

 「物理的宇宙の大きさは、その全体を生み出す霊的世界、言い換えれば『意識』の領域と比較すれば、取るに足らないものである。
 広大なもう一つの宇宙は、物理的に遠い場所ではなく、周波数が異なる場所に存在している。今この場所にあるにもかかわらず、その世界が顕現する周波数帯に同期することができないために、われわれはそのことに気付かないでいる」

 「自分を解放し、そして、自らに備わっていながらも気付かずにいた『宇宙に合致するアイデンティティー』を引き出す必要があるということだ。宇宙は、そのようにできている」――



 結びのヒーリング・ミュージックは、Laura Sullivan「Hope for the Trees」。

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 このブログでよく取り上げる、臨死体験に関する本の話題です。

 やや遅ればせながらだけど、アメリカでベストセラーになった『プルーフ・オブ・ヘヴン―脳神経外科医が見た死後の世界』(エベン・アレグザンダー著)を読んだ。
 さすがの内容というか、現時点における同分野の本としては、ひとつの「決定版」と言えるだろうなと思う。


 臨死体験の本の読み応えには色んなタイプがあって――、心が洗われるようなメッセージという点では、『喜びから人生を生きる』(アニータ・ムアジャーニ著)がとりわけ素晴らしいと思う。
 また、引き込まれるような話の面白さでは、『未来からの生還』(ダニオン・ブリンクリー著)がベストだろう。

 一方で、「臨死体験って、昏睡状態で見る幻覚でしょ」「最新の脳科学でも懐疑的な見解だし」…と考えている人に対する“説得力”という点では、同書は決定的な役割を持つ一冊といえる。
 この本を読んでもなお「こういうのはやっぱり非科学的なオカルトだろう」とする人は、今後どんな本が出たとしても考えが変わることはまずないと思う。あとはもう、自分自身で目の当たりにするしかない…。


 本のサブタイトルにもある通り、著者のアレグザンダー氏は脳神経外科医で、しかも世界的にトップクラスのキャリアを持つ人物だ。
 そして本の中で自ら記している通り、神秘などは信じない徹底した唯物論者だった。
 医療の現場では、生死をさまよった重症患者から「天国を見た!」といった話を聞かされることもよくあったという。しかし、「機能不全の脳ではあらゆることが起こりうる」として、ずっと本気にはせずに聞き流していた。

 そうしたアグザンダー氏が、急性細菌性髄膜炎という極めてまれで、しかも自分の専門分野でもある病に突然冒されて倒れた。
 この病気の致死率は90%以上、重度の後遺症を残さずに回復した症例はゼロだという。
 そして7日間昏睡状態に陥った後、奇跡的な生還を果たす――。


 昏睡しているあいだアグザンダー氏は、光があふれる広大な世界にいた。そこは「物質世界より上位にあって、外から物質世界を支える、それよりはるかに豊かなところ」だったという。

 彼はそこで永遠無限の神聖な存在と出会い、言葉によらないメッセージを告げられる。それは3つの部分で構成されていて、地上の言葉で言い換えれば次のようなものだった――

 「あなたは永遠に深く愛されています」
 「恐れるようなことは何もありません」
 「あなたのすることには、ひとつも間違いはありません」



 死後世界にいるときは、体験するすべてがこの世のもの以上に明瞭で、自分の意識も、普通に生きているときよりもはっきりと覚醒していた。
 それはまるで、まぶしい昼間に映画館から外に出てきて、目の前にあるリアルな街の景色を眺めたときの感覚みたいだという。「映画は面白かったけど、こんないい天気の日に、自分は何であんな薄暗い中にいたのだろう」…というような。


 ほかにも素晴らしい体験がいくつも語られているのだけど、他の臨死体験の本ともだいたい同じなので、あえて割愛します…。


 アグザンダー氏は意識を取り戻してから、まったく前例のない驚異的な回復を遂げる。
 そして専門医である彼は、昏睡中の自分の脳のスキャニング画像や詳細な診療データをもとに、そのときの脳の状態を徹底的に分析してみた。

 すると信じられないことに、当時の自分の脳の大部分が機能を停止しており、何かの錯覚を起こすこと自体がそもそもあり得ないことが分かった。
 「あれを幻想として片付けることが、医学的観点からしても絶対的に不可能になった」という。


 この事実に、アレグザンダー氏自身が、逃れようのない大きな衝撃を受ける。
 「人間の脳、その宇宙、そして現実を構成するものについての自分の40年間の学習や研究は、昏睡中の7日間の経験とはまったく相容れないものだった。自分はこの問題と格闘を続けなくてはならなかった」――

 しかし、脳神経外科医である自分が臨死体験をするという巡り合わせによって「このテーマをもう少し納得のいく形で紹介する、またとない機会に恵まれたのだ」という思いに至り、考えれば考えるほど、その意図は強まっていった。
 そうして、「臨死体験の可能性すら受け入れようとしない医療専門家に対しても説明を試みる」という熱意から著したのが、この本というわけだ。


 とは言え、死後世界についての明解な説明というのは、やはり現実的に困難極まりない。

 その大きな障壁のひとつが「言葉の限界」だ。
 著者自身も、「あの体験は言語で表せる領域を超えており、それを言葉で表現することは、アルファベットを半分しか使わずに小説を書こうとするようなものだ」と語る。

 さらに科学的な解釈としても、「見え透いた弱点」がどうしても残ってしまうという。「以前の自分なら、間違いなくこうした点を指摘していたであろうことを、悔しい思いで認めざるを得ない」と吐露する。
 こうした限界は、スピリチュアルのさまざまな分野にも共通して言える、「決して超えられない壁」なのかもしれない。


 また、アレグザンダー氏には、疑う余地が一切ないほどの、臨死体験中のリアルな実感があった。そして幻覚でないことを裏付ける医学的データもあった。
 しかし、それが現実であることを確証させる「決定的なしるし」のいえるものは、まったく何も存在しなかった…。

 ところがやがて彼は、死後世界とこの世界とをはっきり結び付ける、本当に思いがけない事実を受け取ることになる。
 そこは、ミステリーのネタを明かすみたいになってしまうので、読んでからのお楽しみに――。


 僕自身が、この本でよくできているなと感じるのが、実は「編集面」である。
 これまでの臨死体験の本の多くは、体験者の「手記」として、その人の視点で見た出来事や思いが時系列で綴られている、というものだった。

 一方でこの『プルーフ・オブ・へヴン』は――、肉体を離れた著者の前に広がるあの世の場面と、この世での緊迫した医療現場の場面とが交互に展開していき、さらには家族の様子や過去の生い立ちなども途中でうまく織り交ぜるなど、かなり小説的な構成で仕立てられている。
 この点はきっと、プロの編集者が腕を振るったのだろうと推察する。

 こうした、読み物としての編集上の工夫がなされた本が出てくること自体、臨死体験のテーマもかなりメジャーになったのだなと感じますね!



 これまでにも何度かお伝えしていますが、このブログの過去記事の中から、評判が良かったものをリライトして、『トリニティー』というウェブ誌の中で連載しています。
 その「第7回」の記事をアップしました。以下にリンクをしておきますので、よろしければぜひご覧ください!

 (↓New)
 ・第7回「桜の花は、冬があるから開花する」
 ・第6回「命の水の話――体内に宿す本源の海」
 ・第5回「高校物理で見る、私たちは『空』であること」
 ・第4回「大和言葉に根付く、日本のスピリチュアリティ」
 ・第3回「家族とは『惑星』のようなもの」
 ・第2回「未来への道筋は、無数に枝分かれしている?」
 ・第1回「ワンネスへ還る旅と、モナーク蝶の大飛行」 


 結びのヒーリング・ミュージックは、Laura Sullivan「Jumping Fish」。

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 人が発揮する力の大きさを、ちょっと甘く見ていたな…、という話題です――。

 薬の「プラシーボ効果」って、よく知られていますよね。
 新しく開発した薬の臨床試験などを行うときに、患者を2つのグループに分けて、一方のグループにはちゃんとした薬を投与して、もう一方のグループには薬理作用のまったくない偽薬(かたくり粉などを薬の形に固めたもの)を飲んでもらう。
 偽薬を飲む患者たちには、それが「効果のない偽もの」であることは告げられない。

 どうしてそんなことをするのかと言うと――、患者が「この薬はきっと効くんだ!」と信じ込み、それによる暗示効果によって、薬の作用とは関係なく自然治癒してしまうケースがあるためだ。

 そこで、ちゃんとした薬と偽薬の2グループの臨床試験データを比較して、患者の勝手な思い込みによる「誤差」の影響を差し引いたうえで、それでもなお統計的に有意な結果があった場合に初めて、「これは薬による治療効果である」と認めることができる、というわけだ。


 で、この「プラシーボ効果」が現れる割合って、どれくらいかと言うと――
 僕はこれまで「たぶん患者全体の数パーセントあるかないかくらいだろうな」と思っていたのだけれど…
 実際は、医学界では何と「3割」!とされていることを最近知って驚いた。

 だって、全体の「3割」にも上る患者が、勝手な思い込みによって薬効と同じ働きを自らの内に引き起こすなんて、ちょっと信じられないスケールの話だ。
 鎮痛とか睡眠薬とかならあり得そうかもしれないけど、臨床試験の中には「血液中に含まれる特定成分の値が改善する」というものも多いだろうから、本来ならこういうのは人の意識のコントロール外にあることのはずだし…。


 人が「信じる力」によって、動かせるはずもないものを動かしたとしたら、それは「奇跡」といわれる。
 でも、そのような不可解な出来事が、全体の3割もの人たちに当然のように起こった場合、専門家はそれを「誤差」と見なすわけだ。

 病気の治癒というと大きなテーマであるけれども、ほかにももっと日常的な色んなところで、私たちは身近な奇跡に囲まれているのでしょう。
 でもそれらを、単に「当たり前」とか「誤差」で片付けてしまっているのかも…。


 以下は、意外にも物理学者のアインシュタインの言葉です。

私たちの人生には、たった2つの生き方があるだけだ。
奇跡など全く起こらないかのように生きるか、
すべてが奇跡であるかのように生きるか。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Aetherium「Sacral Chakra」。

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 トム・ブラウン・ジュニアの「トラッカー」という本の中で、少年時代の著者に大自然での生き方について教えていたアメリカ先住民の長老が、ふとこんなことを口にする場面があります――

 「英語というのは不便な言語だ。たとえば、『全体を一つとして感じる』ということを表す単語が見当たらない」

 きっと先住民の言語には――、天地やさまざまな生き物、私たち自身の存在、さらには目に見えない世界までのすべてを「一つとして感じる」ということを、たった一語で表せる言葉があったのだろう。
 そして彼らはきっとその言葉を、ふだんの生活の中で言い交わし、その言葉が示す「一つ」の素晴らしさをありありと感じ取っていたに違いない。

 しかし、英語をはじめ先進国で使われる言語の中には、そこまで根源的で精妙な感覚にぴったり当てはまる単語は存在しないだろう…。


 このブログでもときどき引用する、アラビア語の「マクトゥーブ」も、他言語では手短に置き換えることが難しい言葉といえる。
 「すべては神の手によって既に書かれている」という意味だけど、作家のパウロ・コエーリョは「この言葉を分かるためには、アラブ人に生まれなくてはならない」と記し、さらにこう語っている。

 「だがアラブ人は、『書かれている』というだけではうまい翻訳だとは思わないだろう。なぜなら、あらゆることの筋書きがすでに書かれていても、神は慈悲深いからだ。
 そのペンとインクは、私たちを助けることのみに使われる」――

 つまり、「すべては運命的に定められていながらも、私たちの自由意志が最も尊重されている」といった、真実のパラドックスや神と人との関係について、たった一語の中に意味として含ませているわけだ。
 何ともすごいことですよね…。


 日本語にもそうした、スピリチュアルな内容を短く言い表した言葉は色々とあるだろう。
 たとえば、よく使われる「お陰さま」なんて代表的かもしれない。

 「お陰さま」の英訳を調べてみたら、「thanks to you」とか「fortunately」とあるのだけど、きっとほとんどの日本人は、「その言い方では、肝心なところが抜け落ちてしまっているのでは」と感じるはずだ。

 「お陰さま」というのは、単に相手への感謝や、幸運な結果を喜ぶのではなくて――、自分にかかわる多くの人々との目に見えないつながりや支え、お天道さまとかご先祖さまとか八百万の神による守護、そして自らの誠実な努力とそれを見せようとはしない慎ましさなど、そういった世界観の諸要素がひとまとまりになって「お陰さま」という一言で表現されるのだと思う。
 まさに「この言葉を分かるためには、日本人に生まれなくてはならない」くらいに言えるでしょう。


 で、これから人々の意識が広がっていくにつれて――、私たちが使う「言葉」の面にも、色んな変化が出てくるのではないかなと思っている。

 とてつもなく壮大な真実をたった一つの言葉で言い表したり、あるいは言葉の持つ意味が整理されて、多くの人が精妙なニュアンスを誤差なく共有できたりと…。


 たとえば、以前の記事で、「コア・トランスフォーメーション」という自己治癒の技法について紹介した。そこでは、自分の行動を引き起こしている望みを内的に深く深く突き詰めていくと、最終的に5つのコアに行き着くということだった。
 それは――

1.ただ在ること(Being)
2.内なる安らぎ(Inner Peace)
3.愛(Love)
4.あるがままで大丈夫という感覚(OKness)
5.宇宙との一体感(Oneness)

 ――なのだけど、たいていの人はこのどれか一つにピタッと一致するよりも、「ワンネスであり愛である」とか、「ただ在って、かつ安らいで、大丈夫な感覚」といった組み合わせが一番しっくり来る、という場合が多いと思う。

 きっと5つのコアというのは、本当は「同じ一つのもの」なのだろう。それを「象をなでる」みたいに色んな側面の感触に応じて言語化すれば、この5種類に便宜的に大別できる、ということなのだと考える。
 とはいえ、その「同じ一つのもの」を一言で表せるのかと問われれば、今はまだ無理だろう。あらゆる説明を取り払って「これ!」という言い方はあるけど…。

 でもやがて近いうちに、それを意味する言葉が出てきて、広く使われるようになるに違いない。
 もはや私たちは、それを認識して表現していく道筋からは、決して外れられない段階に来ているはずだ。


 世界中で口にされているけど、その意味がまさに致命的に異なる言葉の代表格が「神」だろう。

 先日、米国トップクラスの脳神経外科医が自らの臨死体験を記したベストセラー書『プルーフ・オブ・ヘヴン』(エベン・アレグザンダー著)を読んだら、「神」についてこのような表現がされていた――

 「そこで出会った神は、この世界で呼び習わされている神という表現には収まりきらなかった。
 それは、無限・永遠を表す『オーム』という、言葉に拠らない響きとしてしか言い表せない。オームは無限の愛、慈悲、許し、受容であり、地上のすべての生命、全宇宙に満ちる意識を愛している存在だ」

 これこそが、今後の時代に人類に共有されるべき、「神」という言葉の真の意味だろうなと思う。
 ただ残念ながら、日本で「オーム」と言うと、眉をひそめられてしまうけど…。


 「神」と並んで、意味の持たせ方が人によって大きく異なり、その本質を説明するのが難しい言葉が「愛」だ。

 これはかなり以前のブログでも書いたのだけど、魂について語る名手であるエリザベス・キューブラー・ロスが「愛とは何か」について、まさに真正面からとらえて説明した一文がある――。

 「愛こそが、人生という経験の中でただ一つの真実であり、永続するただ一つのものだ。
 愛は恐れの対極にあるもの、つながりの本質、創造の核心、力の美しい部分、自己が自己であるための最も微妙な部分である。それは幸福の源泉であり、我々と我々の内部にある命とを結ぶエネルギーである」

 「愛は、知識、教育、権力とはなんのかかわりもない。愛は行動を超えるものであり、人生においてただ一つの、失われることのない天与のものである。つまるところ愛は、真に与えることのできる唯一のものなのだ。
 この虚妄の世界、夢幻の世界において、愛は真実の源泉になる」

 …さすが!と感服してしまうほど、愛の本質のさまざまな側面を切り出し、言葉の裏にある本質を示し出すようにして、こちらの魂を鼓舞するパワーで語りかけてきますよね。
 「愛」という一語にこれだけの意味を込めながら、この言葉を使っている人って、まだかなり少ないでしょう。

 でも、これもかなり近いうちに――、アラブ人の「マクトゥーブ」や日本人の「お陰さま」と同じくらい――、「愛」と言えば地球上の誰もがこれだけの意味を共通して抱く時代が訪れるに違いないでしょう。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Llewellyn「Angel Voices」。
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 前回の記事では、「過去に生きた無数の人々のネガティブなエネルギーが死後世界の領域に押し留められていて、それが最近こちら側の世界にあふれ出してきている」――という、臨死体験者が語る話を紹介しました。

 そして、それは決して破滅的な出来事ではなく、実は「計画された前向きなシナリオ」であり、その目的のひとつは、エネルギーを一気に受け入れて癒す「革新的な浄化」ではないか、という僕自身の考えを述べました。

 今回は、その目的のもうひとつである、陰陽の統合による「飛躍的な進化」についてです――


 私たちがいるこの世界は、「二元性の世界」と言われる。

 つまり、陽と陰、ポジティブとネガティブ、善と悪、自分と他者――といった「相反する二つの極」によって、世の中のさまざまなものごとが成り立っている。
 そうした二元性が人々の分離・対立を生み、心の中の葛藤や欠乏感を生じたりする…。


 「女性と男性」という二つの性も、その典型だ。
 では、そのような「二つの極」がこの世界に存在するそもそもの根本的メリットとはいったい何なのだろうか?
 それを、「女性と男性」から考えてみると――

 地球上に生息する高等な生物には必ずオス・メスがある。動物や鳥や魚はもちろん、昆虫やミジンコにもオスとメスがいる。
 二つの性がない、つまり一匹だけでも繁殖ができる生き物は、おもに単細胞生物だ。


 ではなぜ「進化した生物」はオス・メスに分かれていて、逆に「進化していない生物」にはそれがないのか?…
 考えようによっては、性による繁殖って、すごく非効率ですよね。異なる二つが結び合わさらない限り、次が生まれないわけだし。
 そんな不便さをわざわざ負う大きなメリットというのは――
 実は、オス・メスの二つの性があったほうが「進化スピードが劇的に速い」ということだ。


 もともと原初の地球生命には、オスもメスもなかった。単細胞生物が、細胞分裂によって繁殖するだけの時代が、実に20億年も続いた。
 細胞分裂というのは、いわば「自分自身のコピーを作る」ことだ。全く同一の子孫を代々ずっと生み続けるわけだから、進化もなかなか起こらなかった。

 やがて後に、「オスとメスが組み合わさって繁殖する」という、新しい生命のあり方が地球上に出現する。
 これまでのコピーとは違って、異なる二つが融合して子孫を生み出すという手法だ。

 すると、これによって、細胞分裂の場合だと何万世代も要するほどの変化が、わずかな世代で現れるようになった。
 そしてオス・メスができたことを発端に、進化した多細胞生物が一気に繁栄し、カンブリアの種の大爆発が起こり、恐竜が登場し、哺乳動物が生まれ、そして私たち人類もこうして誕生した――、というわけだ。


 オスとメスの二つの極が、生命の劇的な進化をもたらしたように――、この地球という星は、「二極の融合」によって新たなシフトが引き起こされる場なのではないかなと思う。
 光と闇、静と動、正と邪、優と劣…。それらが混じり合うことによって、驚異的な進化エネルギーが生じる。そういう仕組みのために「二極」が存在している…。

 ところが、これまでの人々の歩みというのは、陽が陽をコピーして、あるいは陰が陰をコピーして、同じものを受け継ぎながら広めていくというやり方だったといえる。
 それによって、二つの極は分離した状態のまま、相反するエネルギーがどんどん増大して蓄えられていった…。


 で、前回記事から話の続きに戻るけど――
 あの世に滞留しているという、過去の人々が蓄積してきたネガティブな想念・感情エネルギーというのは、その最も主たるものだ。

 そしてそのエネルギーは、拒絶したり除去するものではなくて、私たちが自らに受け入れ、癒し、浄化し、内に統合することによって、新たな次元へと飛躍するパワーに転化されるのだと思う。
 その流れがいま、私たちの周りで起こり始めている。


 そもそも、そんな分裂したエネルギーを作り出して、それをばく大にためこみ、さらには自らの内に受容して、飛躍的な進化のパワーをに変えるなんていう離れ技は――、たぶんこの地球でしか成し得ないことなのだろう。
 「地球は壮大な実験場」だとスピリチュアル分野で言われるけど、まさにそういうことだと思う。

 宇宙がこれまで経験したことのないほどのシフト、神にとってさえも未知な神自身の進化――
 その最前線にこの地球、そして私たち自身の内面世界が位置して、宇宙のすべてをけん引しようとしている。


 あらゆるものを受容し、癒し、ひとつに統合するというのは、まさに根源的な「愛」の性質にほかならない。

 分離と対立が渦巻いているこの次元の中にあって――
 「それでもあなたは『愛』として在るのか、それとも『愛以外』なのか?」――。結果として問われているのはそれだけ。本当にシンプルにそれだけなのだと思います。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Angelic Reiki「Guardian Angels」。
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 過去3回の記事「ブルーグレーの場所」「フォーカス23」「パートとコア・ステート」からの続きです。

 最初の「ブルーグレーの場所」では、臨死体験者を3度もしたダニオン・ブリンクリーの近著『光の秘密』について紹介しました。
 彼は体験中、この世と天界の間で、おびただしい数の魂が行き場もなくさまよっている様子を目の当りにする。その魂たちは、自らの人生の記憶に囚われ、すでに終わっている苦しみを、延々と果てることなく反復し続けていた…。


 ブリンクリー氏は、その体験をふまえた自身の考えを、「とても恐ろしいが、どうしても話しておかなければならない」として、次のように語っている――

 「あの場所にいる魂の数が増え続けたら、これから20年ほどの間に、重大な惨事が起こることになる。すでにあそこは、何百万という魂でいっぱいなのだ。やがて致命的な目詰まりを起こすだろう。
 そうするとあの魂たちが、猛烈なみじめさと恐れを携えて、この世に押し戻されてくる。率直に言えば、そのような魂が、もうこちら側の世界にあふれ出てきていると思う」――

 そしてブリンクリー氏は、カトリック聖職者による悪魔払いの儀式が近年急増したというニュースや、十代の自殺が増えていることなどを挙げながら、「陰鬱さに取り付かれたことが一因となって、そのような傾向が現れている可能性がある」とも述べている…。


 日本全体がそうだけど、以前に僕が勤めていた職場でも、鬱を患う人がこの数年で急に増えていた。
 また僕自身も、気持ちのほうは軽やかなのだけど、なぜか不思議と全身がだるくて仕方ないことが多い。
 こうしたことも、ひょっとしたら、あの世からあふれ出てきたエネルギーの影響によるものかも知れない、というふうにも思える…。


 もちろん、最近は人々の意識が進化しつつあることから、死後世界の領域で囚われてしまう人の「割合」はきっと減っているだろう。
 しかし一方で、この地上に生まれてくる魂の数は、ものすごいペースで増え続けている。そして世界の人口爆発に伴って、死亡者数のほうも爆発的に増加しているわけだから、囚われてしまう魂の「総数」は、まさに激増しているとも考えられる…。

 そうしてあふれ返ったネガティブなエネルギーが、堤防が決壊するように地上世界になだれ込んで来て、生きている私たちに取り付くとなんていうのは、まるで「この世の終わり」とも思えるような非常に気味悪い話だ。


 でも、もしそのような展開が起こっているならば、それは何かの悪意による破滅的な出来事では決してなくて――、逆に実は「計画された前向きなシナリオ」なのではないだろうかとも思う。

 その目的はたぶん2つあって、
 ひとつは、過去に蓄積されたエネルギーを一気に受け入れて癒す「革新的な浄化」。
 そしてもうひとつは、陰陽の統合による「飛躍的な進化」だと考えている。


 まず最初の浄化の話から――

 よく「この世はけがれた世界だ」などど口にされるけど、ある意味でそれは全く反対で、この世というのは「魂が浄化するための場所」とも言われる。

 雲黒斎さんの『あの世に聞いた、この世の仕組み』では、人間が転生する目的は「魂の漂白(浄化)」であるとして、次のように語られている――

 「あの世で『魂の漂白』の作業を行うのはとても大変なことなんだ。あの世にいるより、この世にいたほうが漂白の効率がいいんだよ。
 本当は一気に漂白したいところなのだが、あの世には漂白したがっている魂がたくさんいて、順番待ちが起きているんだ。この世は物質界であるがゆえに、生まれることができる魂に限りが出てしまうんだよ」


 またこちらは少し別ジャンルだけど、佐藤愛子氏の『私の遺言』でも、こんなふうに説明されている――

 「邪霊というものは、憎しみ、悔しさ、ねたみ、憤怒や恨みといった想念のかたまりである。
 生きている人なら、そんな感情にとらわれたとしても、生きていくその経験の中で、苦しんだり教えられたり考え反省したりして、自分の偏った感情や意識を修正することができる。
 しかし肉体を失った霊には、現実生活というものがない。あるのは想念の波動だけである。その想念を解き放つように教える人もいないし、解き放とうと自ら気づくこともない。死ぬ時に最後まで抱いていた恨みや悔しさだけが残って、波動となってさまようばかりなのだ」――


 なるほど、ですよね。
 肉体も生きる経験もないあの世では、「浄化」がなかなかできないがゆえに、過去の想念や感情にずっと囚われ続けるしかないわけだ。
 そして死後の領域をさまよいながら、次の転生のときが訪れるまで延々と待つ…、というのが「本来の道筋」である。

 ところが、そうして囚われる魂の数がハイペースで増え続けていくと、いつかは限度を超えてあふれ出してしまうことが「必然の図式」とも言える。
 それはまるで、始めからそう定められた仕掛けのようにさえ思える。


 で、あの世に蓄積されていたネガティブなエネルギーがこちらの地上世界のほうへ「逆流」してきたら――、従来なら世界中で精神的大混乱が起こって破滅の道をたどってしまうだろう…。

 しかし、もし今の人類の意識がある程度進化していて、逆流してくるエネルギーを自らの内に受け入れ、想念や感情を解き放ち、癒すことができたならば――
 これはたぶん、神も驚くほどの「革新的な浄化」になるのではないだろうか。

 この世で肉体を持つ私たちは、そのような素早い浄化というのが、能力的に可能なのだ。

 つまり、あの世を漂って転生するという「本来の道筋」だと全体で何百年も何千年も要するような遠大な浄化が、「逆流して受け入られる」という法外なプロセスによって、従来とは比較にならないスピードで一気に行うことができるというわけだ。


 過去の人類が蓄積したエネルギーを清算して、地球規模の浄化を進めるためには、実はこれこそが最大に効果的な方法なのではないかとも思う。
 そしてこれが、新しい地上世界のあり方へと向かっていく「地球史の壮大な転換点」になるのではないだろうか。

 でも、それがうまく起こるためには、あの世に囚われる魂の数、逆流が始まる時期、そして何より地上に生きる人々の意識の進化が、すべて一致した「最善のタイミング」で進まなくてはならない。
 きっと、それらは完璧に計られたうえで、起こっているのだろう――。


 だから、いま自分にとって不本意な苦しみや不安、悲しみ、憤り、みじめさなどを内に抱えているならば――
 それはつらい個人的な試練のように思えるけども、そうではなくて、まさに「革新的な浄化」の真っただ中にあるのだろう。
 地球全体が新しい時代へとシフトしていくための役割を、そうした人たちが進んで請け負っている。過去の人類が蓄積してきた行き場のない重苦しいエネルギーを、自らの生の中に受け入れて、清め、解き放とうとしている。

 「イエスはあらゆる人々の罪を清めるために十字架にかかった」と言われるけど、本当にそれと同じようなことを私たちは今しているのだと思う。


 ――と、こうした話には好みがはっきりあるでしょうから、「死後世界の囚われとか、エネルギーの逆流なんてとんでもない!」とういう人はファンタジーとして見てください。

 ここまででもけっこう長くなってしまったので、目的のもうひとつである「陰陽の統合による飛躍的な進化」についての話は、また次回に…。



 結びのヒーリング・ミュージックはSteven Halpern「Deep Theta」。
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 前々回記事の「ブルーグレーの場所」と、前回記事の「フォーカス23」では、すでに終わった人生の記憶に囚われ続けながら、死後世界をさまよう魂について書きました。
 そして、そうした魂に語りかけて、囚われから脱却させ、あの世の最終目的地へと到達させる「レトリーバル」という活動についても話題にしました。

 で、それらは死後世界に関する話だけど、この図式を自分自身の内面世界に当てはめてみると――、「コア・トランスフォーメーション」という心理技法に近いものがあるなと思え、今回はその話からの続きです。


 コア・トランスフォーメーションとは、ひとりで実践できる自己変革と癒しのテクニックで、自らの内にある「好ましく思えない部分」を対象に取り組むものだ。

 たいていの人には、自分の考えや行動パターンの中に、「こういうのから解放されれば、もっと気持ちが楽になるのに…」と思えるものがあるだろう。
 たとえば、何かあるとすぐ感情的になってしまうとか、人付き合いがとても苦手、悪いシナリオばかり考えてしまう、自分がどう思われているか気になって仕方がない、常に焦っていて落ち着くことがない、嫌な気分になると思わず暴食してしまうとか…。

 そうした傾向が、望ましい自分のあり方をさまたげているとして、何とか押さえ付けたり取り去ろうとするのが普通だ。


 コア・トランスフォーメーションでは、そうした自分自身の中にある「好ましく思えない部分」のことを、「パート」という呼び方をしている。
 パートには、意図を持って振る舞う「一つの生き物」のような性質と存在感がある。そしてそのパートとは、実は「あなたのことを思って行動する、あなたの味方なのだ」と、コア・トランスフォーメーションでは強調している。

 たとえ自分自身が絶対に受け入れたくないような感情や態度であっても、パートの振る舞いの背景には、間違いなく「ポジティブな目的」があるのだという。
 そして、そのパートが本当は何を求めているのかを共に深く探っていくことによって、私たち自身もまた根源的な意識状態へと到達していく――というのが、コア・トランスフォーメーションのプロセスだ。


 開発者の著書の紹介文には――
 「自分の欠点や問題を排除するのではなく、その問題そのものを利用して、天真爛漫な心の本源に人を導く画期的な心理的技法」
 「古今東西の宗教家が求めてきた愛と安らぎの境地を、信仰や苦行抜きで体験できる自己改革を伝授」、とある。

 なかなか魅力的ですよね。
 以下、かなり割愛しながらですが、プロセスの概要を紹介します。


 最初に、自分自身の「好ましく思えない部分」、すなわち「パート」を特定することから始める。
 実際に嫌なことが起こったときの気持ちになってみて、感情の高ぶりや、胸を締め付るような感覚などを意識し、パートが「ここにいるよ」というサインをじっと感じ取る。
 そうしてパートの存在が分かったならば、喜んで迎え入れてあげる。


 そして、パートにこう尋ねてみる――
 「私のために何を望んでいるのですか?」

 その返答を自分の頭で考えるのではなく、内側からの声なき声がやって来るのをじっと待つ。

 たとえば仮に、周りに対して自分の素直な主張をいつも口にできなくて、そのことを自身の「好ましく思えない部分」だと考えている人の場合――
 この「私のために何を望んでいるのですか?」という問いに、パートからこんな答えが返ってくるかもしれない。
 「人に悪く思われたくない」「変な態度をとりたくない」…

 これはつまり、パートが自分の邪魔をしようとしていたわけでは決してなくて――、「人に悪く思われないように」という、未熟だけどもポジティブな意図を持って、あえて「素直な主張を口にしない」という振る舞いをしていた、ということだ。
 ここで、パートが自分に有益なことを願ってくれていたことに対して、しっかりと「ありがとう」を伝える。


 次に、その答えに対して、パートにこう聞いてみる――
 「もし願い通りに、『人に悪く思われる』ことが全く無くなったとしたら、どんないいことがあるのですか?」

 そうして再び答えがやって来るのを待つ。その答えはこうかもしれない――
 「人に受け入れてもらえる」「尊重してもらえる」…


 その答えにもしっかり感謝して、そしてさらにこう質問する――
 「そうして『人に受け入れてもらう』ことで得られる、さらに高い目標とは何ですか?」
 それについての答えは――、例えば「自分で自分を認められる」「自分で自分を受け入れることができる」、ということかもしれない。

 答えが出てくるたびに、このように同じ問いを何度も続けていく――
 「そうして『自分で自分を認める』ことで得られる、さらに高い目標とは何ですか?」
 それに対し、パートはこう答えるかもしれない――、「安心感で満たされる」…。


 最初の問いの段階でパートが望んでいるのは、他人にこうしてもらいたいとか、状況がこう変わってほしいといった、「自分の外に対して求めること」が答えとして出てくることが多い。
 ところが、この問いを何回か続けていくうちに、やがて「自分の内面の状態」へと答えの焦点が移っていく。
 そしてある時点で、「もうこれ以上は掘り下げられない」というポイントに達する。この状態を「コア・ステート」と呼ぶ。

 このプロセスの開発者が数多くの人々のパートに取り組んだ結果、コア・ステートは以下の5種類に大別できるという。

1.ただ在ること(Being)
2.内なる安らぎ(Inner Peace)
3.(Love)
4.あるがままで大丈夫という感覚(OKness)
5.宇宙との一体感(Oneness)


 あらゆるパートは、この深くて普遍的なコア・ステートのどれかを体験することを望んでいる(もちろん複数の組み合わせもある)
 そして、私たちをそこへ連れて行こうと懸命に努力している。

 ところがパートは、とんでもない勘違いをしている。
 それは、コア・ステートに到達するためには、質問で出てきた答えのステップをぜんぶ踏んで行かなくてはらない、と思い込んでいることだ。

 その誤った認識の結果――、自分の素直な気持ちを押し殺したり、感情的に反応したり、暴食したりといった、「好ましく思えない部分」としての振る舞いパターンを繰り返している、というわけだ。
 こうしたパートの振る舞いは、幼少期における体験や思い込みを通じて形作られていることが多いという。

 さらには私たちの側も、この「好ましく思えない部分」を拒絶して、自分の一部であるパートとの「分裂」を深めてしまっている。
 そうして、どこにも行き着かない状態にずっといるわけだ…。


 パートに問いかけながらコア・ステートに到達するというプロセスによって、それまで拒絶されていたパートが受け入れられ、「統合」されていく。
 そして最終的に私たち自身が、コア・ステートである「愛」や「ワンネス」の状態そのものを、外部環境によるものではなく「自分の内に最初からあるもの」として、味わうことができる――。


 僕自身は、本を読みながら実践してみたり、簡単なセミナーに参加した程度だから、それほどの状態に達したわけではないけれど、それでも「あぁ、なるほどー」という深い実感はあります。

 特に、自分のネガティブな部分は取り除くものではなく、それこそが「最終的な望みへと到達」していくための指南であり、それを「受容して統合する」という取り組み方を徹底している点は、このプロセスのすごいところだなと思う。


 コア・トランスフォーメーションの本の中に、終戦から何十年も後にジャングルで見つかった旧日本兵の話が、たとえとして出ている。
 その兵士を無理に捕まえて日本に連れて帰り、「終わった戦争のために、いまだに何をやってるんだ」と嘲笑するのではなく、かつての上官だった人物が現地に赴き、その上官命令として武装解除と帰還を命じたという話だ。

 もしも自分自身がパートの立場ならば――、拒絶されて排除されるよりも、敬意をもって話を聞いてもらい、さらに今より素敵な場所があるのならばそこに誘ってもらうやり方のほうが、誰だっていいに決まっている。
 そういう観点から、ヘミシンクの「レトリーバル」も、コア・トランスフォーメーションも、本質的に似ているなと思う。


 さらには、「怨霊」とかの話となると僕自身もちょっと引いてしまうのだけど――
 作家の佐藤愛子が北海道でアイヌの霊に取りつかれた体験記『私の遺言』に、優れた霊能者がアイヌの霊の言いぶんを親身になって聞いてあげて、その怒りを丁寧に解き放っていく場面がある。
 そして霊能者は、「霊は祓(はら)うのではなく、浄化されなければならない」と語る。
 そういうのを読むと、これもまた全く同じ図式だなと感じる。


 一方で、コア・トランスフォーメーションが、レトリーバルや怨霊の浄化と少し異なるのは、「救う者」も「救われる者」も同一であるという点だ。
 そしてパートという自分の「一部」が癒されて統合されることで、自分の「全体」が変革していく――

 そうしたコア・トランスフォーメーションと同じことを、あの世とこの世を含めた惑星世界の全体規模でやっているのが、今のこの「地球」なのではないかなと思います。

 そんな、とりとめもなく遠大な話の続きを、また次回に――




結びのヒーリング・ミュージックは、Shastro & Nadama「Offering」。

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 前回記事では、3度も臨死体験をしたダリオン・ブリンクリーの近著『光の秘密』について書きました。

 かつて2度の臨死体験のとき彼は、肉体を離れた後にまっすぐ天界へと向かい、そこで愛の光に抱かれ、この上なく壮大な至福に満たされた。

 ところが3度目の体験では、この世と天界の間にある、薄暗い「ブルーグレーの場所」に置いて行かれた。
 そこには、数多くの魂が行き場もなくさまよい、すでに終わった自らの人生を延々と再生し続けていた…。


 ――というものでした。
 で、この「ブルーグレーの場所」が、「ヘミシンク」のロバート・モンローが語る死後世界の図式とけっこう似ているなと思い、今回の話はそこからの続きです。


 「ヘミシンク」については、スピリチュアル分野に関心のある人はだいたい知っていることでしょう。詳しく解説したホームページや、関連本も多くある。
 僕自身はそれほど語れるような立場では全然ないのだけど…、非常に大ざっぱに言ってみると――

 もともとラジオ技術者だったロバート・モンローが開発した、特殊な音響を使って人の意識状態をいわゆる「変性意識」に持っていく技法のことだ。これによって、多くの人が体外離脱や、さらには死後世界までも体験できるという。
 もちろん決して怪しいものではなく、米国のモンロー研究所では世界中から数万人がプログラムを受講し、日本でもセミナーなどが行われている(僕自身は参加したことはないです)


 ヘミシンクの関連本を読んでいてとても面白いなと感じるのは――
 モンロー自身がこの技法を使って「物質を超えた世界」をくまなく探索し、その「階層構造」を明確な地図のように描き表している点だ。
 数多くの受講者たちも、その地図に従って、未知の世界を体験している。

 彼はそれを、「フォーカス・レベル」という数字で表している。
 まず起点となる「1」が、私たちの日常的な意識状態。そこから数字が増えるにつれて、物質的世界から遠ざかっていく。

 「フォーカス10~21」が、完全にリラックスして身体感覚が希薄でありながらも、意識の方ははっきりとして拡張した、いわば深い瞑想のような状態だ。
 ここで守護霊など「高次の存在」と交信できたりもする。


 そこから先は地上世界を離れた、死後の意識レベルにあたる。ヘミシンクの被験者たちは自分の肉体から離脱し、「非物質の宇宙」へと飛び立つ――。

 まず、この世の最も近くに位置する「フォーカス23」は、人それぞれの想念が作り出す世界だ。
 「囚われの領域」とも呼ばれていて、自分がすでに死んだことを分かっていなかったり、地上世界とのつながりを断ち切れない魂が、ここで自分の想念世界の中に閉じ込められてしまっている。

 ヘミシンクの被験者がこの領域で出会うのは――
 例えば、仲間を探して戦場を走り続けている兵士。冷たい海で木片にしがみ付きながら助けを求めている、百年前の難破船の船員。死んだことに気付かず、病院のベッドでいつまでも死を待ち続ける患者などだ…。

 さらには、昔の時代の独り暮らしの農夫が、来る日も来る日も延々と畑仕事を繰り返している、といった姿もあるという。
 ひょっとしたら、死後もずっと忙しく会社に通勤して、山積する業務に追われたり、取引先を果てしなく駆け回っているサラリーマンなんかもいるのかも知れない…。

 あの世には「時間」の感覚がない。そして、自らの想念が、現実と見分けがつかないほどリアルな世界を周りに作り出すという。
 あの世に行った魂の中には、そんな終わりのない幻想ループに、ずっとはまり続けてしまっているケースもある、ということだ…。


 次に、それより先にある「フォーカス24~26」は、「信念体系の領域」と呼ばれるところだ。そこには、同じ強固な価値観を持つ人たち同士が、寄り固まっている。
 例えばキリスト教の同じ宗派の人々が、自分たちが「これが天国だ」と信じて疑わない世界をそのまま作り出し、いつまでもそこから出ることなく押し留まっている。この領域には、そのような集団が作った「疑似天国」のようなものが、たくさん点在しているという。

 さらには、人を傷付けることに喜び感じる者同士が、互いに傷付け合いを果てしなく続けている世界や、泥棒たちが相手のものを盗み合う世界、アルコールをはじめ様々な依存症の世界など――、人々が固執するあらゆる価値意識によって生み出された世界が、細分化して存在している。


 そして、これらの領域を超えた先にようやく、「輪廻の中間点」と呼ばれる「フォーカス27」がある。人はここに来てはじめて、次の生へと転生することができる。
 この領域には美しく壮大な景色が広がり、高度に進化した存在によって運営されている。
 その中に私たちの魂を受け入れ、癒し、再生し、そして次の人生について共に計画するのだという――。


 前回の記事で取り上げた、ブリンクリーの語る「ブルーグレーの場所」というのは、きっと途中に位置する「囚われ」や「信念体系」の領域のことだろう。

 しかし、数ある臨死体験談の中でも、そうした途中の領域を体験したという話は、かなり少ない例だといえる。
 だからきっと、大部分の魂はこんなところは通過して、いわゆる「天界」にあたる「フォーカス27」にそのまま向かうのだろうと考えられる。
 ただ、この世を去る人の総数はものすごく多いから(全世界の死亡者数は年間6千万人!)、囚われてしまう魂もやはり少なくはないはずだ。


 また囚われているのは「魂そのもの」でなくて、実体のない想念エネルギーなのではという考え方もある。
 確かにその通りかもと思うけど、そういうのを検証・論証するのは実際に無理でしょうね…。


 ここで、モンローが非常に踏み込んでいるところは――、ヘミシンクによってこの領域を訪れた際に、囚われてしまっている魂を救出する「レトリーバル」という活動を行う点だ。
 ヘミシンクの受講プログラムにも、その活動が組み込んである。


 この領域に留まっている魂たちは、物質界への執着が非常に強いために、あの世をガイドしてくれる高次の存在の姿がまったく見えない。
 一方で、ヘミシンクによって訪れる被験者たちの姿は、今も物質界に根差している人々なわけだから、囚われた魂たちにもちゃんと見えるのだそうだ。

 そこで被験者は、この領域で出会った魂に声をかけ、「どうされたのですか、もっといい場所に行ってみませんか」と誘ってみる。
 囚われている魂たちは、最初は「そんなところが本当にあるのか?」「自分はずっとここにいるし、ほかに行くところもない」と消極的に拒むのだが…
 そこで「私が素晴らしいところを知っていますから、さあ一緒に行きましょう!」と手を引いて、フワッと浮かび上がる。

 こうして、魂が固執するパターンからいったん抜け出すと――、あとは高次の存在たちが目的地の「フォーカス27」へとうまく導いてくれる、という手順だ。


 ヘミシンクの本や体験者のブログなどにも、このレトリーバルの話がたくさん記されている。

 もちろん、「そういうのは単に、頭の中でイメージした出来事に過ぎないのでは」という指摘も当然ある。
 でも一方で、世界中で報告されている臨死体験談とも重なる部分が多いということは、きっと何らかの事実としての側面が存在するだろうし、そこでの「救出活動」にも何らかの働きがあるのではないかなと感じる。


 で、この「リトリーバル」は死後世界の魂を救うものだけど…

 語りかけることで繰り返しのパターンから脱却し、最終地点に到達するという取り組みを、自分自身の内面世界にあてはめてみると――、「コア・トランスフォーメーション」という自己治癒の心理技法に、けっこう近いものがあるように思えます。

 こうした癒しや浄化は、取り組む世界観が違うけれども実は同質のものであり――、さらに言えば、物質界を超えて広がる世界も、逆に自分の内側の中心に向かう探究も、本当のところ全く同じなのではないかと感じられます。

 そうした続きの話をまた次回に!…



 結びのヒーリング・ミュージックは、Paul Avgerinos「Bliss」。
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 どのジャンルでもそうだろうけど、スピリチュアル分野の名著・良書といえる本の中には、すでに絶版になってしまっているものも少なくないです。
 僕にとっての「絶版本ベスト3」を挙げてみるならば――

 『タントラへの道』(チョギャム・トゥルンパ著)
 『過去にも未来にもとわられない生き方』(ステファン・ボディアン著)
 『未来からの生還』(ダニオン・ブリンクリー著)


 …という感じでしょうね。
 上2冊がいわゆる「意識の目覚め」に関するもので、一番下が「臨死体験」だ。

 興味を引く新刊本を次々に読むのももちろんいいけれど、この古い絶版本を図書館で借りて読んでみるのも、相当ためになるはずだと思う(ただ『タントラの道』はやや難易度が高いです…)


 で、先日、その著者の1人であるダニオン・ブリンクリーの近著『光の秘密―天国からのレッスン』を読んだ。

 この人は、何と3回も臨死体験をしている…。最初は落雷事故に遭い、次にその後遺症の心臓麻痺で倒れた。
 そのときの驚異的な体験を綴った本が冒頭に挙げた『未来からの生還』で、途中で読むのを止められないくらい素晴らしい記録描写だし、この1冊だけで「私たちが地上世界で生きる意味」についての大事なところがつかめるのではないか、と思えるほどの内容だ。

 ちなみにこの本については、過去の記事「すべての他者は、私につながる」で概要を紹介しています。


 ブリンクリー氏は後に困難な脳手術を受けることになり、その手術中に3度目の臨死体験が起こった。近著の『光の秘密』は、そのときの出来事や考えを記したものだ。

 これまでの2度の体験、また世界中に数多くある臨死体験談というのは――、まばゆい「光の存在」と出会い、大いなる「無条件の愛」に包まれ、壮麗な輝き中で宇宙のすべてと「ひとつ」となるといった、本当に読むだけで心を洗われる感動的な話だ。

 ところがブリンクリー氏は、この3度目の体験に関して、「話すことを大いにためらってしまうほど、これまでの栄光に満ちた豪華絢爛な旅とは程遠いものだった…」と打ち明ける。


 実際に読んでみて、臨死のこのような側面もしっかりと語られ伝えられるべきだなと感じた。
 まさにその中に、この世とあの世を超えた、私たちの世界の構造なり性質が示されているのだろうなと思う。

 その体験というのは――


 ブリンクリー氏は、脳手術中に再び生死の境目を越えた。
 自分の肉体から抜け出して宙に浮かび、そしてあの世へ向けて旅立った。彼にとっては、よく知った道のりだ。

 地上世界から天国に向かう間に、彼が「ブルーグレーの場所」と呼んでいるところが存在する。
 これまでは、ただ通り抜けるだけの何もない空間だと思っていたが…、この時はそこに自分が「置いて行かれた」ように感じたという。


 薄暗く殺伐とした「ブルーグレーの場所」にいると、不気味な脱力感に包まれていった。
 やがて自分の周りに、たくさんの魂が重苦しそうに漂っていることに気づいた。

 「ここの魂は、憂鬱と失意と絶望の悪循環に陥っている様子だった」と、ブリンクリー氏は述べる。
 「地上での最後の日々を、何度も何度も、際限なくこの場所で生き直しているらしい。悲しい空虚さの中に閉じ込められ、果てしない年月の間、自分の人生の寒々とした不幸をずっと再生し続けているのだ」――


 彼のすぐ近くには、無数の兵士の姿が見えた。さまざまな戦争の、ぼろぼろになった軍服をまとった男たちだった。すさまじい苦しみに耐え、その憤りが限界まで達しているのが感じられた。
 国の戦いのために自分がこんなにまで犠牲を払い、主義主張を守ったのだという強烈な意識がゆえに、いつか誰かが来てこの見すぼらしい状況から救い出してくれるに違いないと信じている。
 そして、自分の地上での日々がもう終わったという事実を、どうしても受け入れることができないのだ…。

 また別のところには、色んな時代の女性たちが立っていた。
 体形も年齢も衣服もばらばらの婦人たちは、「自尊心の喪失」という共通性のもとに集まっていた。
 彼女たちはみな、犠牲を強いられ、虐待され、やる気をなくした人生を送ったのだ。その悪循環を断ち切る選択肢があることを、ある程度は知りつつも、それを最後まで選ぶことはできなかった…。


 そうした大群衆を前にして、ブリンクリー氏はぼう然とした。神が介入して、彼らの苦しみを止めないのはなぜかと考えた。
 しかし、やがて気づいた――

 この場所に閉じ込められている魂たちは、意思に反して押し留められているわけではなかった。
 彼ら自身の意思によって、捕えられてしまっているのだ。そこで経験している苦痛は、いわば自分たちが作り出しているものだった。


 ブリンクリー氏はこう語る――
 「肉体を持たず、2つの世界の間をさまよっている魂にとって、人生は喜びのない戦いだ。無気力や否定性や、被害者としての失意によって、自分自身の幸福への責任を投げ出してしまっている。
 彼らは死ぬより前に、生きる情熱を捨てていた。そして逆説的だが、死に際しても、彼らは命の贈り物を拒んでしまった!…」

 「あそこにいる魂たちは、未完だと思っている自らの人生を手放したくないのだ。生きているときに被った非人道的な仕打ちを受け入れることができず、まともに許すことが不可能になっている。恩寵を得るには、その許しこそ必要なのに…。
 もし彼らが、ほんの少しの誠実さや楽観的な思いを持つことができたならば――、あの空しい苦痛みから抜け出し、光の中で真の安らぎを得ることができるはずだろう」――


 この3度目の臨死体験によって彼は、「人が地上を去っても、必ずしもまっすぐに天国の栄光にたどり着くわけではないことに気づかされた」という。

 では、この「ブルーグレーの場所」とういうのは、聞くからに恐ろしい印象だけど、いったい何のために存在するのだろうか?――

 ブリンクリー氏は、決して「罪を罰せられる場ではない」という。
 そして、「地上世界での思い違いをすべて洗い落とし、自らの究極の本質を認識できるまでとどまる場所」であると見解を述べる。
 そこは「天界の意識」の一部であり、プロセスの間はずっと安全に見守られ、支えられているのだと――。


 つまりは、この人生で取り組んでいるプロセスというのは、あの世に渡っても同じように「継続するプロセス」なのだと言える。
 生きているときに受容できなかったものごとや、手放せなかった態度は、死後のプロセスの中で終わらせる必要がある…。

 「自分の思いが態度を作り、その思いと態度が、自らが経験する『現世および来世の人生』の質を作り出すのだ」と、ブリンクリー氏は語っている。


 ――ところで、スピリチュアル分野の本を色々と読んでいる人ならば、この「ブルーグレーの場所」の話を聞いて、きっとこう思うのではないだろうか…
 これは、「ヘミニンク」のロバート・モンローが言う「レトリーバル(囚われた魂の救出)」に、とても似た話ではないかと。

 僕もそう感じます…。それについて少々思うことなどを、次回に続きで書いてみたいと思います。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Paul Avgerinos「Oneness」。
 
  ☞ コメント:39

 


 僕はサラリーマン時代は、ずっとマスコミ会社で仕事をしていました。
 そして取材の仕事で色んな場所に行っては、写真を文字通りごまんと撮った。

 大がかりな仕事はプロのカメラマンに撮影してもらうのだけど、経費などの都合からどうしても素人の僕自身が撮らざるを得ないケースも多かった。
 その場合の唯一の戦略が――、とにかく枚数をたくさん撮るということ。そうすれば、数百枚に1カットくらいは、メインとして何とか使いようがあるくらいの「会心の1枚」が、かろうじて含まれていた…。


 3日間ほど海外に行った場合、1000枚くらい撮ったと思う。
 常時カメラを手にして、何か目に付くものがあったら片っ端からシャッターを切り、これぞと思うものは何枚も連写する――。
 出張中は肉眼でものを見ているよりも、ファインダー越しに眺めている時間のほうが長いのではないか、と思えるくらいだ。

 で、そうして撮影した写真を後日に整理しながら、ハッと感じさせられることがよくあった。それは――
 その地に行ったという「生々しい感覚」が、なぜかとても希薄なのだ…。

 もちろん、現地での仕事の詳細はしっかり覚えているし、写真の1枚1枚もどういうときに何を撮ったものかも分かる。
 でも、ファインダー越しに見た光景というのが、「自分が確かにそこに在った」という、肌身に染みるような感覚を伴っては残っていない…。


 よく、印象的な光景を「心に焼き付ける」という言い方をするけど――、
 カメラのファインダーを通すと、見たものを内面に深々と焼き付ける何かが、さえぎられてしまうようにも思える。
 人の声でいう「言霊(ことだま)」が消えてしまうみたいに…。

 また別の言い方をすると――、
 熱心にカメラを覗いているときって、「いいチャンスを逃さないぞ」「うまく撮れているかな」といったことが常に頭にある。そのため十分に意識が「今」にいなかったり、その場を存分に「感じて」いないような気もする…。
 そうしたことから、見ている光景を「視覚的にはとらえていながら、心には刻まれない」ということになるのなか、とも思う。


 小さな子供の運動会などで、ずっとカメラを構えている人が少なくないけど…、もし大切な「人生の記憶」として心に残したいのであれば、そのときの自分の目でしっかり見つめたほうがいいと思う。
 それくらい、ファインダーを介して見る光景は、残らないです…。

(もちろん、写真が趣味だったり、写真やビデオを家族みんなで共有するなど、「撮影すること自体が目的」の場合は、その限りではないです。さらには、「ファインダーも肉眼の一部」くらい熟達した人もいるかもしれませんが…)


 そんなことを以前から思っていたら、有名なインドの神秘家のOSHOが、どこへ行っても写真ばかり撮っている人のことを同じように語っているのがあった――

 「ヒマラヤに行っても、ヒマラヤのことには興味がない。写真を撮ることのほうに夢中だ。終始写真のことばかり気にして、現実よりも写真のほうに興味があるのだ」


 その話の流れの中でOSHOは、講話を聞きながら「ノートを取る」ことについてもこう言及している――

 「ノートを取って、あとでおさらいして理解しようという人は、決して私の言っていることを理解できない。それはノートを取るという問題ではないからだ。それはビジョンの転移なのだ。あなたは現実において、私とここにいなければならない」


 覚者の講話に限らず――
 「今」の瞬間に起こっているものごとは、そうした「ビジョンの転移」のようなものだと思う。

 それを、過去からの条件付けや、後からの解釈といったフィルターを介さずに、そのまま生の現実として直接的に受け止めるからこそ――、「今」というものの本質を存分に感じ、味わい、内なる経験とすることができるのでしょう。

 でも、「今」は常に立ち現れていながらも…、そうした接し方ができているときって、本当になかなかないですよね。



 これまでにも何度かお伝えしましたが、このブログの過去記事の中から、評判が良かったものをリライトして、『トリニティー』というウェブ誌の中で連載しています。
 その「第6回」の記事をアップしました。以下にリンクをしておきますので、よろしければぜひご覧ください!

 (↓New)
 ・第6回「命の水の話――体内に宿す本源の海」
 ・第5回「高校物理で見る、私たちは『空』であること」
 ・第4回「大和言葉に根付く、日本のスピリチュアリティ」
 ・第3回「家族とは『惑星』のようなもの」
 ・第2回「未来への道筋は、無数に枝分かれしている?」
 ・第1回「ワンネスへ還る旅と、モナーク蝶の大飛行」 


 結びのヒーリング・ミュージックは、Jocelyn Montgomery「Viridissima - H. von Bingen」。
  ☞ コメント:25

 


プロフィル

Koudai Mitsuna

Author:Koudai Mitsuna
 
光奈 広大(みつな・こうだい)

 20年のあまりのサラリーマン生活を経て、いわゆる「ザ・マネーゲーム」を何とか卒業。今では束縛されない自由な日々を存分に味わっています!

 そうした中で心がけているのは、普通の日常的な行いを通じて、意識の進化を目指す「カルマ・ヨガ」。

 日々の喜びや学び、インスピレーションから得たスピリチュアルな気付きなどをブログで紹介しています。

 妻子と都内在住――。

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