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 ゴールデン・ウィークの谷間なので、旅の話題を。

 前々回のブログ記事で、学生のときに東京から実家がある京都まで、自転車で帰ったという体験談を書きました。
 同じく学生時代の昔話だけど、さらにスケール感のある旅をしたことがあって――、友人たちと一緒に、アメリカ西海岸のロサンゼルスから東海岸のニューヨークまで、鉄道の「アムトラック」と長距離バスの「グレイ・ハウンド」を乗り継ぎながら、陸路で北米大陸横断をしたことがある。
 これは本当に、言葉にできない感覚や体験が、骨身に染み入るような旅だった…。


 今も、アメリカ人や、現地に住んでいた人と雑談する機会があったときに、「実は以前、ロスからニューヨークまで、鉄道とバスで横断したことがあるんですよ」と話すのだけど、すると一様に「へぇぇー、そんなすごいことをしたのですか…」と驚かれる。
 でも、その驚き方には微妙なニュアンスがあって、壮大なチャレンジをたたえるとか、自分もしてみたいという憧れとは違い――、「よくもまぁ、そんな無意味で迂遠な旅をしましたね」といった、理解不能な行動に対する「あきれた」反応が含まれていることが、目の表情から読み取れる。

 アメリカに住んでいる人でも、普通のまっとうな考え方を持つ人は、「大陸横断してみよう!」という発想など、そもそも思い浮かぶものではないようだ。
 大陸という地では、都市から都市へ航空機でシュッと移動するのが、当然の常識的なあり方なのだろう…。


 で、旅は南側のルートをたどり、色んな都市を通った。ロサンゼルスからラスベガス、ヒューストン、ニューオリンズ、アトランタ、ワシントン、ニューヨーク。
 ユニバーサル・スタジオのスリリングなアトラクションに興奮し(大阪のUSJはまだなかった)、雄大なグランド・キャニオンを眺め、若造の分際でプリザベーション・ホールのジャズを聴き、ホワイトハウスを見物し、摩天楼のツインタワーを「すげぇー」と見上げ…など、多くの観光客が行くところにも色々と行った。

 しかし、陸路で横断旅行をしてみてありありと実感することは、そうした都市というのは、あの大陸の中のものすごく小さな一部分でしかない、ということだ。
 大陸のほとんどは、本当に果てしなく広がる砂漠や平原である。

 最初のうちは、地平線まで道路が伸びる景色に感激するのだけど、どこまで走っていっても延々とまっすぐなので、そのうちあらゆる感興や好奇心は消え去っていく。
 たくさんの牛がいる牧場を眺め、見飽きたのでしばらく寝て、起きてまた窓の外を見ると、寝る前と何ひとつ違わない牧場の景色がまだ続いている…。


 本当に、大陸の途方もない広さというのは、人間の想像力や忍耐力をも遥かに超えるものだ。
 そうした移動を何日も続けていると、「地球を旅している」という実感が身に染みてくる。
 ふつうの観光の楽しみとはかなり違うけど、底知れぬほど遠大な、地球の本質的な側面に触れているような感じがしてくる。


 そうしてアメリカを端から端まで行ってみた中で、最も印象深かった場所はと言うと、一緒に行った友人たちもほぼ同意見で、それは「アリゾナ州」だ。

 砂の大地に、岩山に、サボテン、そして広大な青空と、まさに映画の西部劇でおなじみの光景なのだけど――、北米大陸ならではの本領というか、さっき言った「地球の本質的側面」が、そこに泉みたいにほとばしり出ているような印象があった。
 旅を終えて帰ってからもずっと、「旅行で訪れた」という以上の、深い懐かしささえ覚える。

 当時は知らなかったけど、スピリチュアルなスポットとして有名な「セドナ」もアリゾナ州ですよね。
 ぜひいつか行ってみたいなと夢見ています。もちろんそのときは、陸路で横断まではしないけど…。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Roger Eno「Through The Blue」。
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 この宇宙は、「3次元+時間」で構成されていると言われます。

 そしてスピリチュアル分野では、この「次元」というものに、特別に大切な意味を与えている。
 次元のシフトによって、私たち人類の意識が目覚めるとか、半霊半物質の存在になるなど…


 一方で科学においては、「次元」についての考え方というのは、実はそれほど複雑なものではない。
 多元宇宙論を分かりやすく解説したベストセラー書で知られる物理学者のリサ・ランドール氏によると――

 たとえば私たちは家を買うときに、色んな要素を計算に入れながら検討する。家の広さや間取り、構造、地域、駅からの距離、近くにある学校や店、周りの騒音、等々…。
 次元とは、「空間の中の一点を特定するために必要な数」のことであり、こうした家を決めるための各要素もまた「次元」といえるのだそうだ。


 そうした次元を、「人」にあてはめることもできる――。
 例えばサムという人物がいて、かりに彼が「家でスポーツ番組を見る」以外に何もやらない人であったとする。
 その場合、サムをたった1つの情報で描写することができる。そしてその情報を、1本軸だけのグラフ上の点として、この図のように表すことができるわけだ。


 この考え方をもう少し広げると――。
 アイクという、もうちょっと複雑な人物がいたとする。彼は21歳で、かっこいい高速車を乗り回し、近くにあるワンダーランドという街で散財するという生き方をしていたとする。
 するとこのアイクのことは、図のような3本の軸からなる「3次元グラフ」の中の一点で示すことができる。

 しか大半の人を描写する場合には、さらに多くの特徴が必要になるだろう。
 たとえばアシーナは11歳で、読書が好きで週に3冊の本を読み、数学のテストはいつも100点、時事問題にも敏感で新聞を毎日45分読み、そしてペットの鳥を4羽飼っているとする。
 彼女は5本の座標軸によって表されるわけだけど、そのためには「5次元空間」にグラフを描かなくてはならない。それは現実的に極めて難しい…。

 でも抽象的には、5次元空間は存在する。
 ここで、さっきの5つの要素と「11、3、100、45、4」という数字を挙げることで、アシーナを描写することが可能だ。アシーナのことを知る人ならば、この5つの数字が示す空間上の一点から、彼女を特定することできる、というわけだ。


 以上がランドール氏の本にある説明で、本当にあっけないほど簡単な考え方ですよね。
 私たちの生における次元というのも、決して特殊なものではなくて、これと同じくらいシンプルなものなのではないかなと思うのです――。


 実際の人を示す軸というのは、まさしく無数に存在する。
 人生を左右する大きな要素も当然あれば、さらには「ふだん朝何時に起きる」とか、「風呂で体のどこから洗う」「レジの行列でどの程度イライラするか」とかも、れっきとした次元であろう。

 また前回の記事で、僕が東京から京都まで自転車で走った際に、「新しい自分を見いだすような変化は全然なかった」と書いたけど――、これも、それだけの距離を走り通すという「次元」をシンプルに経験したのだといえる。


 そんな有象無象な軸を含めた「多次元の中の一点」が、まさにその人の生なのだろう。
 そしてそれは、同じ位置にはほかの誰も存在しない「無二の一点」である。

 きっと魂は、幾度も転生しながら、そして無数の魂の総体として、多次元の中の「あらゆる点」を体験しているのだろうなと思う。
 それはそれで、途方もなくものすごいことだ。


 さらには――
 「高学歴・高収入・高身長」なんて言い方があるけど、軸上の「高いほうが良くて、低いほうが悪い」という単純なものでもない。

 またも個人的な例になってしまうけど、過去のブログ記事で何度か書いたことがある通り、僕の妻はずっと重い鬱を患っていた。
 パートナーの善しあしを、いわゆる「良妻賢母」であることや、「お互いに理解し合える」といった軸で見た場合、僕はかなり低い位置(ひょっとしたらマイナス側?)にいるかもしれない。

 でも、僕にとって妻にかかわる経験は、単純に「悪い」とか「低い」とかでは表せないくらい、本当にかけがえのないものだった。
 自転車で東京-京都間を何度走り通しても得られないくらいの、「新しい自分のあり方」を見いだせたと思う。
 きっとすべては、魂がそのような次元を体験したくて、望んだ通りにそうしているのだろうな、とも感じる。


 よく引用するエリザベス・キューブラー・ロスの本の中に――、最愛の息子を病気で亡くした親が、「最初からあの子がいなかった人生よりも、短いけれども一緒に過ごすことのできた人生であったことを、誇りに思う」と語る場面がある。
 これは本当に、痛ましくも貴い「一点」の経験だと思う。

 私たちは、とてつもない多次元の中の一点を生きている。
 その主要な要素は動かしにくいものであり、そして自分にとって思わしくないものかもしれない。

 でも一つだけ、完全に自由意思によって選択できる次元がある。
 それは、いま自分自身がこの一点に位置していて、問題と思えることも色々あるのだけど、それでも「これでいいのだ」ととらえるかどうか――という次元。

 きっと、そこの「これでいい」を選ぶために、ほかのあらゆる次元が存在しているのだろなと思っています。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Llewellyn「The Angel Garden」。

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 東京と関西の間を、新幹線でこれまでに数え切れないほど行き来している人はけっこう多いでしょう。
 そしてその中には(かなり少ない割合かも知れないけど)、ビュンビュン飛び去っていく車窓の景色を眺めながら、ふとこんな思いを抱いたことのある人もいるのではないでしょうか――

 「昔の人みたいに、東海道をこの足で踏破したら、どんな気分だろうか? ひょっとしたら、自分にとって得がたい経験ができるかもしれない…」


 都市から都市の間にある、訪れたこともない小さな町。穏やかな田園の中に伸びる細い道。
 よく見ると近くに学校があり、生徒たちが生き生きとランニングしている。路肩に軽トラックを止めて、農作業している人たちの姿もある。
 遠い空の下に家々が立ち並び、屋根が陽光を反射してきらりと輝く――。

 あぁ、こんな合理性を極めた新幹線の座席の上ではなく、窓の向こうの世界へ降り立ってみたい。
 あそこの知らない道を歩き、草や水の香りを吸い込み、すれ違っていく人たちの声を聞きたい。そうしながら、遥か先の目的地まで、ゆっくりとこの足で旅していきたい。
 最後に着いたときには、これまでとは何かが違う「自分自身」に、出会えそうな気がする…。


 実は僕は、一度それをしたことがある。
 徒歩ではなくて自転車だけど――、学生時代に、東京から実家がある京都までの500kmを、自転車をこいで帰った。

 無謀なことに、当時まともなサイクリングの経験はなくて、しかも学校の寮に捨ててあった安物のロード・サイクルを修理して使った…。
 早朝に東京を出発し、「国道1号線」をひらたすら西に向かった。
 箱根の上り坂はほとんど手で押し、1泊目は静岡で野宿。翌日は富士山の雄姿や広々とした浜名湖を眺めながら走り、夜は岐阜駅のベンチで寝た。
 そして関ヶ原を越え、琵琶湖のほとりを通り、夕方に何とか無事に京都にたどり着いた――。


 ただ、現代の東海道を行く大規模な国道は、たくさんのトラックなどがごう音を立てながら走行する大動脈なので、心の琴線に触れる「旅情」のようなものは、ほぼなかった。特に夜遅くは、大型車両が容赦のない猛スピードで横すれすれを通り過ぎて行くため、まさに「危険と隣り合わせ」だった。

 また、脚の筋肉とかは特に問題なかったけど、一番こたえたのは実は「お尻」だった…。硬くて小さなサドルの上に、ずっと同じ部分が乗っかっているわけだから、3日間でそこの皮膚が濃く腫れ上がってしまった。


 で、この自転車旅行を経て、当初に期待したような「これまでとは違う自分自身」に出会えたかというと――、そんなことは実際には何もなかった…。
 あえて得たものを言うならば、それは「東京から京都まで自転車で走った」という“純粋な事実”が自分の中に加わった、のみである。

 その自分の中に加わったものは、学生時代に数学で習った「線形代数」と同じくらい、それ以降の僕の半生で役立つ機会は全くない…。


 でも変な話、もしも人生を最初からやり直したとしても、僕は同じように東海道を(あるいは別の場所を)自転車で走るだろうと思う。
 それを経験せずには済まない何かが、自分の内にあるような気がする。最初からやり直した人生においても、きっと車窓を眺めているうちに、いつか外の風景に呼び出されるに違いない。
 その理由は僕自身には全く分からない。「線形代数」くらい分からない…。

 こうした自転車旅行や、取るに足らない瑣末な出来事、さらにはめったに起こらないような劇的な経験まで、無数の“純粋な事実”の集積が、人の生というものなのだろう。

 そして魂は、その全部を抜かりなく、ただ体験したいのでしょうね!



 このブログの過去記事の中から、評判が良かったものをリライトして、『トリニティー』というウェブ誌の中で連載しています。
 その「第8回」の記事をアップしました。以下にリンクをしておきますので、よろしければぜひご覧ください!

 (↓New)
 ・第8回「神話の記憶――人が「面白い」と感じる物語」
 ・第7回「桜の花は、冬があるから開花する」
 ・第6回「命の水の話――体内に宿す本源の海」
 ・第5回「高校物理で見る、私たちは『空』であること」
 ・第4回「大和言葉に根付く、日本のスピリチュアリティ」
 ・第3回「家族とは『惑星』のようなもの」
 ・第2回「未来への道筋は、無数に枝分かれしている?」
 ・第1回「ワンネスへ還る旅と、モナーク蝶の大飛行」 


 結びのヒーリング・ミュージックは、Laura Sullivan Coral Castle
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 『人は死なない』の著書で知られる東京大学病院救急部・集中治療部長の矢作直樹氏は、最近つぎつぎと本を出されていますね。
 ネット書店で数えてみたら、共著を含め昨年が7冊で、今年はすでに2冊…。売れっ子経済評論家とかでも、なかなかできないペースだと思う。


 アメリカでは、医療関係者がスピリチュアル分野の良書・名著を記すケースがとても多い。
 ベストセラーになった『プルーフ・オブ・ヘブン』のエベン・アレグザンダーや、『奇跡の脳』のジル・ボルト・テイラー、『前世療法』のブライアン・L・ワイス、さらには大家ともいえる『かいま見た死後の世界』のレイモンド・ムーディ、『死ぬ瞬間』のエリザベス・キューブラー・ロス――

 いずれも、「神」や「魂」というテーマと「科学」との間にある垣根を切り崩し、目に見えない領域の真実を世界中の人々に示したといえる。
 もちろん、「立派な学者先生や医師が言うことだから信じる」わけでは決してなくて――、こうした著者の本では、自らの思い入れや断定的な見方をなるべく排除しながら、研究者の立場としての「検証」に努めるというアプローチが、内容の説得力や面白さを非常に高めていると思う。

 さらに言えば、医師や学者などの場合――、スピリチュアルのテーマに(一般的には怪しいオカルト分野に)足を踏み入れることによって、これまで築いてきた仕事上の地位や信頼を失ってしまう恐れがある。
 それほどのリスクを冒してもなお「伝えずにいられない」わけだから、チャネラーとか作家の場合以上に、抗しきれない強力なエネルギーが働きかけているのかも知れない…。


 英文学者で、家族を大韓航空機撃墜事件で亡くされた武本晶三氏は、著書『天国からの手紙』の中で――、「学者である自分が話すことによって、霊的世界とその働きが存在することを、多くの人たちが信じられるようになる」、「すべては『宇宙の摂理』によって、それが必要だから、そうなったのだ」と語っている。

 逆説的で、とても失礼な見方ではあるけれど…
 こうした人たちは、現代社会におけるメッセンジャーとしての役割を天命として託され、そしてその役割を「効果的」に果たせるように、あえて医師や学者になるという人生が与えられた――、ともとらえられる。


 本来的には、肩書きや経歴などかかわりなしに、人々が必要なメッセージを受け取るのがもちろん理想だろう。
 でも、いわゆる「スピリチュアルの師」などが伝える言葉に最初から呼応する人は、ごく限られた存在に過ぎない。

 私たちにとっての「普遍的なテーマ」に、より幅広い大勢が関心を向けていくという現段階のプロセスにおいては、やはり「しかるべき立場」の人物が語ることによる有効性はとても大きいと思う。


 話題は少し変わるけど…、先日その矢作氏の本を読んでいたら、こんな一文があった。

 「『死ぬときはがんで死にたい』と、取材や講演で公言する医師が最近増えた。がんには準備期間がある。良いか悪いかは別として先が読みやすいので、きれいに坂を下っていけると考えられるのだろう」――


 がんは「最もかかりたくない病気」に挙げられるはずだけど、ずいぶん考え方が変わってきたのだなと思う。
 もちろん、まだ若い現役世代のうちにがんになるのは、誰もが絶対に避けたいことだ。
 でも歳をとった後であっても、体の中でがんがじわじわと進行していくよりは、ピンピン生きてコロッと急死した方が、当人としての心的負担が小さくて済むし、ある意味で「望ましい」ように思えるのだが…。

 医療や闘病の現実のことはあまり知らないけど、推察するに――
 がんなどの患者が、自らに起こった現実を受け入れて、家族のことや自分の気持ちなど色んな準備をしてから、最期のときを迎えていく。そんな亡くなり方をする人が、実際に増えているのではないかなと思う。
 そうした人と、突然死するケースを、医師の立場からいくつも見てきた結果、自分自身も「死ぬときはがんで死にたい」と考えるようになったのではないだろうか…。


 現在90歳になる作家の佐藤愛子氏は、『私の遺言』の本の中で、自らの死についてこんな望みを語っている。

 「人に迷惑をかけたくないために、コロッと逝きたいと願う人が多いが、病床で苦しみ、死について考え、生への執着を捨てて死を受け入れる準備期間があった方がいい。いくらかでも自分を浄化して死んだ方が、あの世に行ってからが楽だと考えるようになった」――


 こうした死生観というのは本当に人それぞれだと思うし、僕自身は踏み込んで言及できる立場では全然ない。
 でも、もし死を「忌避するもの」としてではなく、いわば「生の一環にあるもの」と考える人が増えているならば――
 さらには、そうした死生を超えた自らの「本当の存在」に、もしも多くの人たちが意識を向けようとし始めているとすれば――

 まさしく「用意ができたときに師が現れる」という状況に、今の社会全体がなりつつあるのかな、というふうにも感じます。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Anugama「The Empty Sky」。

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 以前の記事で、意識の目覚めを体験した普通の人たちのインタビュー集『わかっちゃった人たち』(サリー・ボンジャース著)を紹介しました。
 この本の中で、ある一人が「瞑想」に関してこんなふうに語っていたのが印象に残っている。

 「瞑想というのは、準備だと考えている。本当の私という『空間』に慣れ親しんでいくのための準備なのです」――


 確かに、静かにじっと瞑想していることが、この次元を生きる目的ではもちろんないはずだし、瞑想そのもの、あるいは瞑想中に得られる体験そのものがゴールというわけではないのだろう。
 その点をきっぱり「準備」と言い切っているところが、なかなか気持ちの良いとらえ方だなと思う。


 話は少しそれるけど――
 僕は、朝に妻子を送り出したあと(まさに主夫生活ですね)、ときどき家の中でOSHOの「ダイナミック瞑想」をしている。
 知っている人は分かると思うけど、人口密度の高い都会のマンションで行うにはかなり問題があるので、声や音を出さない自己流・簡易版にしています…。

 「ダイナミック瞑想」で特徴的に思えるのは――、浄化のための激しい動きをして、ピタッと静止して瞑想をしたあとに、最後にダンスをすることだ。
 「お祝いのダンス」とも呼ばれるけど、以前はどうしてこれがあるのか、よく分からなかった。
 踊っていてもそれほど嬉しい気分にならないし、そもそも最後は静かな瞑想で締める方がふさわしいのではないかと…。


 また女性にはダンスするのが好きな人は比較的多いだろうけど、男性の場合(とりわけ日本の中年サラリーマンの場合)、けっこう根強い抵抗感があると思う。

 僕は何年か前、スピリチュアルな学びの一環として、周りのほぼ全員が女性のワークに参加したのだけど――、皆と手をつないで輪になって踊る時間がけっこうあって、「これは非常に場ちがいな、恥ずかしいところに来てしまった!」とドン引きした…。
 でも途中退席する度胸もなく、引きつった笑顔で一緒にダンスしているうちに、自分の中でかたくなに固持していた何かが吹っ切れたような気がした。

 そうした修練も経て、今では抵抗感なく、人前でもホイホイと楽しくダンスすることができる…。


 で、そんな心持ちになってから、家で一人でダイナミック瞑想のダンスをしているときに、「あぁ、これは『統合』なのだな」と思えてきた。

 つまり、その直前の静止した瞑想は、あの本にあるように「本当の私という空間」を見いだして慣れ親しむための準備であり、その段階で終わりというわけにはいかない。
 この「本当の私という空間」の中に、再び肉体を持ち込んで躍動的にダンスをする。それによって、「空間」と「ボディー」とが統合されてゆく。
 そして、肉体を持ちながらも、本当の私としてこの世界で活動していくことができる…。

 それは、「肉体ボディーと同一化」した状態とはもちろん全く違う。
 意識の広がりがまずあって、その中に躍動する肉体ボディーも含まれているという状態――。周りに広がるあらゆる全体が、魂としてダンスする在り方――。
 このへんはどうしても不足な説明しかできないのだけど…、そうした在り方の基盤を作るために(あるいは本当は最初からそうであることに気づくために)、ダイナミック瞑想では浄化したり静止したりしてから、最後にダンスで仕上げる必要があるのかなと感じます。


 そしてその状態では、この世界での「すべての行いはダンスである」とも言える。
 肉体ボディーに同一化した自己の物語ではなく、まさに「魂のダンス」としてのこの生――。
 きっと時代的な変化として、そのような感覚が一人ひとりの中で、どことなく高まってきているのかなとも思う。

 ステファン・ボディアンという人の、「もう物語は終わりです。ダンスが始まったのです!」という端的な言葉が最近とても好きですね。


 余談だけど、実は今朝もそのダイナミック瞑想をしていて、第2ステージの「爆発」のとき、腹の底から色んなものが出てきて吐きそうになった。
 するといきなり、家全体がガタガタと音を立てて揺れだした!

 たまたまのタイミングで地震が来たのだけど、こういうのはびっくりしますよね…。


 結びのヒーリング・ミュージックは、2002「Realms of Splendor」。
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 前回に続き、「川」の話題にしたいと思います――。

 僕はどういうわけか、川のほとりを歩くのがとても好きで、日課のジョギングは近所の小さな川沿いの遊歩道。そして週に1度は電車に乗って大きな河川敷へ行き、延々と続く自転車・歩行者専用道を20kmほどガシガシとウォーキングしている。

 ふつう歩くのが好きな人は、低山のトレッキングなどを趣味にするケースが多いと思う。
 僕の場合、なぜか山にはあまり興味がなくて、一方で川に関しては「どうしても行かなくては!」というくらいの抗しきれない吸引力さえ感じる。
 そして、川沿いをウォーキングしているうちに、自分の内にずっと山積していたエネルギーが、着々と浄化されていっているような感覚もある。
 かなり個人的な傾向なのかもしれないけど、いったい何なのでしょうね…。


 河川敷を本腰でウォーキングしている人は少数派だろうけど、起伏がほとんどない道なので、ランナーや自転車にとってはとても一般的なコースだ。
 世界のマラソン大会にも出場する「走る作家」の村上春樹は、自分が日ごろ川のほとりを走ることについて、エッセーの中でこんなふうに語っている――

 「たくさんの水を日常的に目にするのは、人間にとって大事な意味を持つ行為なのかもしれない。まあ『人間にとって』というのはいささかオーバーかもしれないが、でも僕にとってはとりあえず大事なことであるような気がする。
 しばらくのあいだ水を見ないでいると、自分が何かを少しずつ失い続けているような気持ちになる。それは音楽を大好きな人が、何かの事情で長期間音楽から遠ざけられているときの気持ちと、多少似ているかもしれない」

 「水面は日々微妙に変化し、色や、波の形や、流れの速さを変えていく。色んなサイズの色んな形の雲がどこからともなく現れては去っていき、川は太陽の光を受けて、その白い像の去来をあるときは鮮明に、あるときは曖昧に水面に映し出す。
 そんな流れの中で、僕は自分という存在が、自然の巨大なモザイクの中の微小なピースの1つにすぎないのだと認識する。川の水と同じように、橋の下を海に向けて通り過ぎていく、交換可能な自然現象の一部にすぎないのだと」――


 とてもスピリチュアルな趣のある一文ですよね。
 こんな、川の流れから受ける「魂の感興」のようなものが、確かにあるなと僕自身も思う…。


 「山岳」を信仰する文化は国内外の各地にあるけど、一方で「河川」をそう位置付けている例は聞いたことがない。
 でも、山のそびえ立つ威容とはまた違う、「エネルギー的に特別な存在感」というのが、大きな川には強烈にあるように思う。

 その場所では、大地の「静」と水流の「動」という陰陽が接している。中国の「五行」でいう、水と土の相克エネルギーが対峙している。
 また日本では「三途の川」が、この世とあの世を分ける結界にあたる。同様に古代エジプトでも、ナイル川の東側が生きる人々の世界であり、川の西側には死者の世界があるとされている(古代の都のルクソールは東岸に、墓群のある「王家の谷」は西岸に作られている)。


 大きな河川敷を歩きながら、自分の感覚をじっと見つめてみると――、
 そうした「片側の世界の果て」にいるみたいな微妙な思いが、胸の奥に何となくある。そして周りでは、計り知れないエネルギー同士が拮抗あるいは結合しているような、五感でとらえるのとは違う不思議な印象を、どこかで感じる。

 そんな途方もないような地に、自分が「ぽつんと立っている」感覚――、それが僕にとって、河川敷にいるときの特別で魅惑的なフィーリングなのかなと思う。


 ひそかに一度してみたいと思いながら、まだやったことがないのが――、大きな河川敷の道を「夜中に歩いてみる」ことだ…。

 道端には街灯なんかないし、郊外に行けば、周りは田畑が広がるだけの真っ暗闇だろう。
 田植えの時期なら、水が張られた田んぼに、月の光が照り返っているかもしれない。そのずっと先の地平には、遠い街の灯が無数に連なっている。
 日中でも人にほとんど会わないくらいだから、夜に不審者が出てくる危険性もたぶんないはずだ。


 そんな深々とした闇の世界を一晩かけてくぐり抜けると、自分の内の何かが大きく揺さぶられ、ふだんは手放すことのできない何かがむき取られてゆくのではないか…、というような感じがする。

 でもさすがに、実際にチャレンジする勇気は出ないです…。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Daniel Otsuka「Reiki Healing Touch」。
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 息子が通う高校のPTAの会合が今日あって、電車で6駅の距離なのだけど、天気が良かったのでテクテク歩いて行ってきました。

 家の近くの川沿いの遊歩道をずーっと行けば、ちょうどその高校に行き着くことができる。
 暇なときにぶらぶらと散歩するぶんには何てことないのだけど、予定の時刻に間に合うようにと思いながら歩くと、「けっこうかかるな…」という感じだった。

 それもそのはず、川沿いの道はぐねぐね曲がっていて、直線ルートよりもずっと長い距離があるためだ。


 話は少し飛躍するけど――、川というものはそもそも本質的に「曲がりくねる」ものなのだ。
 上の記事タイトルにある写真は、ツンドラ地帯を流れる川の空撮写真で、何か生命組織のように能動的に蛇行している感じですよね。

 傾いた地面にジャーッと水を流すと、水は自然に曲がりながら流れていく。
 この「曲がる」ことが、水のエネルギーの「意思」であるとも言われる。


 大都市を流れる川も、普段そんな印象はあまりないかも知れないけど、実は全く同じだ。

 典型的といえるのが、この写真にある葛飾区の中川。こうして見ると、東京とは思えないような光景…。ビルなどが密集する中を、思うがままに大胆に曲がりくねるその姿は、ツンドラ地帯の川と何ら変わらない。

 表面上は人工構造物に覆われた都会でも――、実はそれより遥かに巨大な自然のエネルギーの上に、私たちは生きていることを思い知られされる。


 さらに川は、曲がりくねりながら「位置や形をどんどん変えていく」という性質もある。

 その証拠は、東京でも見ることができる。
 例えば多摩川では、川をまたいだ神奈川県側と東京都側の両岸に、同じ地名が付いている場所がいくつかある(等々力、二子、瀬田、野毛、丸子など)。
 これは、もともと1つのつながった村だったのが、多摩川の流路が変わって村の真ん中を横切る格好となり、村が2つに分断されてしまったためだ。


 この写真は、シベリアの川。長年の川筋の移動の跡が、湖や削られた地形として残っているのが、はっきりと分かる。
 まるで、膨大な水の流れによる、躍動的なダンスのようですよね。


 よく、この世界に生きることは、「ボートで川を下るようなものだ」とも例えられる。

 川の水は常に流れ続けている。
 一方で、川そのものの位置や形は不動であるかのように思えるけど、実はそうではなくて――、
 大きな川全体が思いのままに曲がりくねり、躍動しながら次々に姿を変化させている。

 そんな、ダンスのようなエネルギーの流れの上を、私たちは下って行っているのでしょう!



 結びのヒーリング・ミュージックは、Paul Avgerinos「Seven Deep Breaths」。
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 近年、いわゆる「意識の目覚め」を体験する人が世界中で増えているわけだから、そうした人たちのインタビュー集なんかがあってもいいのでは…、
 と思っていたら、ちゃんとそうした本が出てくるものなんですね。

 『わかっちゃった人たち―悟りについて普通の7人が語ったこと』(サリー・ボンジャース著)は、意識の目覚めを経験しながらも普段どおりに暮らしている人々の、まさしく「生の声」を集めたものだ。
 本の原タイトルは「Everyday Enlightenment(ありふれた悟り)」で、もはや「超常」ではなくて「日常」というわけですね。


 この本を読んでみて、とても新鮮に感じる点が――
 従来の「悟り」系の本にあるような、覚者から生徒に伝える「教え」といったニュアンスが本当に一切ないことだ。

 社会のどこにでもいそうな人たちが、自分自身に「こんなことが起こった」「こんなふうに感じる」といった率直な実感や出来事を、親しい友人に話すような飾らぬ口ぶりで述べている。
 それだけに、教義的な説明とはまた違う「身近な納得感」があって、より生き生きした感触が伝わってくる印象も受ける。


 そんな、これまでの理解や感覚やイメージをちょっと進めてくれるような、市井に生きる覚者たちの「生の声」をこの本の中からピックアップしてみたいと思います――。
 ※言い回しなどは、読みやすいように適宜変えています


 まず、意識の目覚めが「どう起こったか」について、何人かはこんな表現で語っている――

 「覚醒は起こるけど、それは誰かに起こるわけじゃない。それはただ単に起こることなんだ」

 「自分に起こったことではなく、何かがただ起こった」

 「目覚めが起こったとき、それが私を見つけたんです。私のほうは何もしていなかったし、何も望んでいたかった。それがただ、私を見つけたのです」

 確かにこう聞くと、よく指摘されることだけど、「悟る」とか「覚醒する」という言いかた自体が、まとを外した言葉なのだなと改めて感じる。
 つまり、「“あの人”は悟っている」とか「“私”が覚醒する」といった“主語”は、そこには付けようがないわけだ。それは、人に起こるものではなくて、そこにある全体の存在において起こる。
 そのとき、小さな自分の意向なんか完全に「かやの外」というか…、そもそも最初から自分なんていう「枠」はなかったという真実を、不意に目の当たりにしてしまう感じなのでしょうね。


 さらに、それが起こった前後の「実感」については、次のように言い表されている――

 「背景だったものが前面に出てきて、あらゆるものが広がるという感覚だった」

 「何かが前へ出てきて、別の何かが後ろに下がったという感じ。一度も去ったことのない同じ場所にずっといたわけだけど、どこかを探して見つかるものではないのです」

 「自分とは空間の中の点でしたが、シフトの後は、その点を含む空間になりました。でも、点であるのをやめたわけではなく、同時に点の周りの空間でもあります」

 これも、なるほどという感じですよね。
 もっとも、「背景」とか「空間」という表現は、よく使われるものだ。でも、スピリチュアルの教師の説明だとつい「とらえどころのない別世界のような話」に思えてしまうものだけど…、こうして「普通の人の素直な実感」として聞くと、不思議と身近で理解しやすいリアリティーがある。


 では、目覚めが起こった後に「世界はどのように見えるのか」についても、本の中にこのような言及がある――

 「すべてが意識であることは明白です。人は、その意識の中に現れるイメージに、それぞれのラベルを貼り付けています。そしてあるものを『机』と呼び、あるものを『自分』と呼んでいるのです」

 「以前なら『あの樹はきれい』と感じていたでしょうけど、今は樹を見たら『私が樹』なのです。そういう一体性がただあります」

 「存在しているのは私だけなのに、まるで複数のものが存在しているみたいに現れてきます」

 「ひとつのものが、それ自体を、色々な形に分けているだけなんだ。色んな形を取って現れる、それだけ」

 「『私の皮膚は柵ではなく、大通りのようなものになった』と言った人がいますが、まさにそれはいい表現です」

 本当に、精妙で難しいことを、当たり前のようにさらりと言ってのけている感じですよね。自分までもつい「あぁ、そういうことね」と、気軽に同調できてしまいそうなほどだ…。
 さらには、こんなふうにも語られている――

 「よく木漏れ日や、水面の反射など見入って、釘付けになることがあります。永久に眺めていられる気がする。ただ美に気づいているのです」

 「何かを見つめているだけでも、それはまったく驚くべきものだと感じます。非常に絶妙で、どうしようもなく美しい。実にうっとりしてしまいます」

 「意識がこうして実際にあるなんて、信じられないくらい素晴らしい。意識が存在していなくて、空っぽの無だけという可能性もあったわけでしょう。見たり、聞いたり、ものに触れたりできるというのは、実に驚くべきことなんです」

 これらは、仏教でいう「色即是空」の「色」について語っているのだとも解釈できるけど、何とも魅力的な感受性ですよね。
 こんなふうに、この世界の本質的な素晴らしさを日々受け取ることができたなら、生きるという経験がまさに掛け替えのないほど素敵なものになるに違いない。


 ただ、確かにそれは素晴らしそうだけど、「そんな意識状態になったら、生活や仕事の現実面がまともにこなせなくなってしまうのでは…」という懸念を持つ人もいるかもしれない。
 それについては、実際は「まったくの正反対」であることが述べられている。本に登場している人の中には、医療分野で責任ある仕事をしたり、コンサルティングのビジネスを手掛けている人もいる。その人たちが語るには――

 「時計がなかったら、私は時間にまったく気付かないでしょう。でも幸いなことに、気が付く必要があることには、ちょうどいいときに気が付きます。いつもそれが自然に起こるのです」

 「準備を十分していない状態で打ち合わせに行くこともよくあるのですが、それについて心配することはなくなりました。自分は本当は誰なのかを、信頼しているからです。自らの本質が最適な選択を生むことを、ただ信頼しています。すると実際に良い選択が生まれてくるのですから、これは驚くしかありません」

 「自分ではほとんど何もしなくなりました。じたばたしたり、必死に頑張る必要もない。間違えるんじゃないかとか、失敗したらどうしようという恐れを捨てることができたら、はるかに大きなプロセスが動き出して、すべてがただ流れます。そこに触れるのです。うまくいかなかったことはありません。25年間それを続けていますが、ただの一度も期待外れに終わったことはないのです」


 まさしく「すべてをゆだねる」というか、「『I AM』の導き」というか、それこそが本来のこの世界の生き方なのでしょうね…。

 最後に――
 本で語っているある一人は、スピリチュアルな会合で同じ質問ばかり繰り返す女性を見ているときに、ふとこう気付いたそうです。

 「彼女と目覚めを分け隔てている唯一のものは、『自分は人間だ』という思考なのだと分かりました。それだけの、ただ薄いもの、すごく見抜きやすいこと。そこに彼女はまだいて、見ている。ただそれだけのことなのです」――


 本当に、並外れた特別なことでは決してなくて、誰にとってもすぐここにあるものなんですね。

 『わかっちゃった人たち』という日本語タイトルも遊び心があってうまいと思うし、語り手の伝えたいことと読み手の受け取り方に細かく気を配りながら、本全体がとても丁寧に訳されている感触がする。
 こうした、好感の持てる作りのスピリチュアル本が、これから多く出てきたら嬉しいですね!


 結びのヒーリング・ミュージックは、Hilary Stagg「New Terrain」
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 「ただぼんやりした不安」というのは、芥川龍之介の遺書に残された、よく知られた一文ですよね。

 そんな「不安感」、あるいは「闇の感覚」とか「ハートの痛み」というのは、大なり小なりたいていの人にあるでしょう。
 もちろん中には、内面が一点の曇りもなくスカッと晴れ渡っているような人や、以前はあったけど今はなくすことができた、という人もいるに違いない。
 でも僕自身の場合も、サラリーマンをしていた当時より格段に気持ちが軽くなったとはいえ――、どんよりと重い芯のようなものが、完全には消えずにどこか残っている。

 こうしたエネルギーは、生きている上である程度は必然的なものとして、また、これから私たちが変容していくために必要なものとして、今こうして内側に備わっているのかも知れないな、と考えている。


 ここから先は、ファンタジー的な話になるけど――
 その、胸中に渦巻く「暗雲」のようなエネルギーは、やがて信じられないような反応を起こして点火し、私たちの内で「永遠の光」を放つ存在になる…

 そんなイメージを、かなり以前に『2010年』という映画を見て以来、思い描いてます。


 『2010年』という作品は、超有名なSF大作『2001年宇宙の旅』の続編だ(原作も同じく、SF界の巨星アーサー・C・クラーク)。
 ただ、映画史上に輝く前作とどうしても比べて評価されるため、さんざんたる酷評しか受けていない。
 でも僕は、学生時代に映画館で見たとき、何とも素晴らしいメッセージ性が込められたストーリーだなと感じ入った…。


 この映画の物語の舞台は、前作に続いて木星探査への旅だ。
 ところが木星に近づいたとき、宇宙船に乗る研究者が「数日内に木星から離れるように」という高次からのメッセージを受け取る。
 その理由は「素晴らしい何か」が起こるからだ、とだけ伝えられる。

 やがて木星に突然「黒点」のようなものが現れる。そしてそれが、目に見えて急速に大きくなっていることが分かる。
 宇宙船では皆が異常に気付き、観測をしながら地球への帰還を急ぐ。

 その黒点の正体は、多数の「モノリス」だった。
 モノリスとは――、黒い石板の形をした「超高度な知的生命体」で、宇宙に進化をもたらす存在だ。
 前作『2001年宇宙の旅』では、一体のモノリスが太古の地球に現れた。そして、弱々しい類人猿に道具を使う知能を授け、それによって宇宙船をも操る人類へと一気に進化させた。

 そうした進化をつかさどるモノリスが、今度は木星に、しかも大群なして現れ、その数は幾何級数的に増大していったのだ。
 やがてそれが木星全体を覆い尽くすや――、木星は爆発的な閃光を放ち、そして何と新しい「太陽」となって輝き始める。

 ちなみに木星は、膨大な冷たいガスのかたまりでできていて、その成分は太陽とほぼ同じ。「太陽になれなかった惑星」とも呼ばれる。
 その木星が、宇宙の叡智の働きによって、太陽へと変容したわけだ。

 そして、2つの太陽に照らされる地球は、「闇のない星」となる――。


 ――という物語です。
 スピリチュアルなメタファーとしても素晴らしい、壮大なストーリーだと思うのだけど、この映画をそう評する人はあまりいないですね…。

 でもきっと、私たちの胸の中にある「冷たく重苦しいエネルギー」というのは――、この映画で描かれている、巨大なガス惑星の「木星」のようなものなのではないかなと思う。
 やがてある時、それが高次の働きによって一気に点火し、内に輝く太陽のような光のエネルギーに変容する。
 そして私たち自身が「闇のない存在」となる――。

 そんなイメージこそが、決して映画の「曲解」ではなく、むしろ秘められた真意なのだろうと、勝手に考えています…。


 あと、前作で混乱・暴走したコンピューター「HAL9000」は、続編のこの映画では、最後に人間の指令に従って自らが「遺棄される」という役割を担う。
 これも、「マインド」の行く末を象徴しているように思えるのだけど…、どうでしょうね。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Elisabet Just「Kwan Yin」。
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 きのうは天気が良かったので、荒川水系の入間川沿いを20kmほどウォーキングしてきました。

 上の写真はそのときに撮った、延々と続く川の土手を、一面の黄色に覆う菜の花。
 ひと昔前にはやった画家の葉祥明の世界って感じですよね。
 足元を見ると小さなツクシが顔を出していて、上空には美しくさえずるヒバリが舞い、そしてあちこちで桜の樹が満開に咲き誇っている――

 この上ないほど気持ちいい春の日で、こういうのこそ本当にぜいたくな「恵み」だなと実感する。
 数年前まで、こんな素敵な日にも、騒々しい都心のオフィスにいて、根を詰めて果てることのない仕事と格闘したり、混んだ地下鉄に乗って取引先を回ったりしていたわけだから…
 その当時と比べると、こうして「恵み」を受け取ることができる立場にいるのが、実にありがたいなと心から思える。


 そんな静かな暮らしをしていると、「意識の明晰さ」というのが、少しずつでも深まっているのが分かる。
 「いま自分の中に、こんな思考が出てきている」とか「こんな感情が湧き上がっている」といったことを、無自覚に見過ごしてしまわずに、逐次、自然に取捨することができる。
 これは、「生きやすさ」の面において、相当なメリットがあると思う。

 ただその半面で、一般に言う「頭脳の明晰さ」のほうは、あきらかに後退していることを痛感する。
 たとえば、言葉がすぐに出てこないとか、ものごとを連想するスピードがずいぶん遅くなったとか…、いわゆる「左脳」系の機能ですね。
 もちろん「歳のせい」もいくらかあるだろうけど、でも現役のサラリーマンなら、ますます重要な交渉や意思決定をすべき年代なわけだから――、その機能がこのペースで損なわれていったら、文字通り「勤まらなくなってしまう」に違いない…。

 以前は僕自身、左脳的な俊敏性をけっこう得意としていた。仕事などで「なるほど鋭いことを言うね」とか「これは面白いアイデアだね」と評されることを誇らしく思っていたし、僕なりの存在価値を発揮できる個性でもあった。
 今そうした、自分にとっての「主たる要素」が着々と削られていっているわけだから、少なからず残念な気もしてしまう。

 でも、この変化も間違いなく、自分にとって必要だから起こっていることだろう。
 だから、失われていく自分の従来のアイデンティティーについても未練なく、「さようなら、わたし!」という姿勢で見送りたいなと思う。

 ま、とは言え――、どれほど大きく変化しようとも、自分自身が別人になるわけではないし、周りの現実問題が何か変わるわけでもないでしょうから…。


 前に、「外の景色がこれまでになく輝いて見える」「呼吸がものすごく気持ちいい」「真冬なのに春の香りがする」といった個人的な変化についてブログで書いたら、自分も同じように感じているというコメントをいくつかいただきました。
 今回の「頭脳の働きが後退する」という感覚も、きっと同様の方がいらっしゃるのかもしれません。


 以下、そんな状況とやや関係のある、OSHOの言葉がありました――。

 もし言葉の代わりに静寂がやって来るようになったら、人はハッピーになっていい。祝福されたと感じていい。
 前に来ていたのに来なくなった言葉を心配することはない。何か別の途方もなく価値のあるものが、あなたにやって来ているのだ。
 あなたは、まだそれを認識していない。




 結びのヒーリング・ミュージックは、Deuter「Blessing」。

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プロフィル

Koudai Mitsuna

Author:Koudai Mitsuna
 
光奈 広大(みつな・こうだい)

 20年のあまりのサラリーマン生活を経て、いわゆる「ザ・マネーゲーム」を何とか卒業。今では束縛されない自由な日々を存分に味わっています!

 そうした中で心がけているのは、普通の日常的な行いを通じて、意識の進化を目指す「カルマ・ヨガ」。

 日々の喜びや学び、インスピレーションから得たスピリチュアルな気付きなどをブログで紹介しています。

 妻子と都内在住――。

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