フロントページ   »  2014年06月
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 今回の話はジョークみたいなものです。
 「真剣な探究をちゃかすのか!」とか、まじめに怒ったりしないでくださいね…。

 僕の学生時代からの友人で、とても熱心な鉄道ファン(いわゆる「鉄ちゃん」)がいる。
 彼が語るところによると――、普通ひとくくりに「鉄ちゃん」という呼び方がされるが、マニアの人にはそれぞれに、細かな「こだわりのカテゴリー」があるのだという。

 僕自身は鉄道にはほとんど興味がないのだけど、彼のそんな話を聞くと、スピリチュアルの分野というのも、鉄道などの趣味世界とかなり似た図式にあるなぁ…、と思えてくる。


 たとえば、鉄道が好きな人の中には、とりわけ「時刻表」を読みこなすことに熱心なマニアがいる。その人たちのことを「スジ鉄」と呼ぶそうだ。(スジとは、業界用語で鉄道ダイヤの構成のこと)

 今なら、電車の乗換えルートがネットで簡単に検索できるけど、ひと昔前は大変だった。細かな数字や文字がびっしり並んだ時刻表は、素人には手に負えないことも少なくない。特に臨時列車や他線の経由とかがあると、わけが分からなくなったり、自分の見方で正しいのか確信が持てなくなってしまう…。
 そんな時刻表に精通して楽しめるという人は、それはそれで、なかなかすごいことだなと思う。

 かたやスピリチュアルの分野には――、
 色んな伝統的な教義とか、近年のマスターたちの講話などを詳しく熱心に読んでは、それぞれの整合が取れた形での、筋立った理解に努めている人も多い。
 何かを尋ねると、「そのことを禅宗では○○と言って、またスーフィーでも□□□と説いている」とか、ビシッと答えてくれたりする。(半面でそうした人は、パラドックスな話がなかなか腑に落ちないという傾向もあるが…)
 そういうタイプは、「スジ鉄」ならぬ「スジスピ」ともいえるでしょうね。


 鉄道ファンには、列車の写真撮影が専門という人も多い。彼らは「撮り鉄」と呼ばれる。
 ブルー・トレインなどが引退するときには、カメラを構えたものすごい数のマニアがホームにあふれ返り、そっちのほうが報道ネタになったりもする…。
 また、雪山や辺境の海岸など、鉄道写真のベスト撮影スポットというのが全国に色々あるそうだ。彼らは、鉄道の雄姿を追って、そうした各地に赴くことをいとわない。

 スピリチュアル分野では、グルの追っかけとか、パワースポット巡りなどが、これにやや近い志向かもしれないです…。


 鉄道趣味には、まだまだ色んなジャンルがある。

 切符や、駅弁の包み紙や、古い車両で使っていた行き先表示パネルなど、鉄道にかかわるさまざまなモノのコレクションをしている人たちは、「コレ鉄」と呼ばれる。
 収集したリアルな現物を眺め、それがかもし出す鉄道ならではの趣をじっと味わったりしている。彼らにとってそうした鉄道グッズは、もはや即物性を超越した、オーラのシャワーを放つ存在なのだろう。

 ちょっと異論があるかもしれないけど…、スピリチュアル分野にも、クリスタルとか、風水グッズとか、シヴァ神の置物とか、アメリカ先住民のお守りとか、色んな品々を集めて、部屋の棚などに並べている人がけっこういますよね。
 それは、「コレ鉄」に相応した「コレスピ」と言えるかも。


 鉄道ファンの最も主流なのが、まさに鉄道に乗車して旅をする、「乗り鉄」と呼ばれるカテゴリーである。
 時刻表の熟読や切符収集とかに比べて、これは一般的にもまっとうに思えるだろう。

 ただマニアの場合、全国の路線を制覇するとか、廃止寸前のローカル線に乗りに行くとか、遠い過疎地の無人駅に降り立つとか、鉄道そのものが旅の目的となる。
 そのためたとえば、東京から関西方面に行ってから名古屋に戻り、いくつかの路線に乗ったあと、再び大阪へ向かう――、といったルートをたどることもある。
 当人からすれば「それしかない効率的なルート」ということだけど、常識的な旅程としては、まったくの無駄足としか思えない。

 スピリチュアルな歩みでも、あの道この道と、本当に次から次へと色んなルートをたどる人って、いますよね。
 その人がマニアックに詳しくて、探求熱心なゆえに、そうなってしまう場合も少なくない。あまり笑えないことですけど…。


 で、知人の鉄道ファンが言うには――
 こうした各種のジャンルがある中でも、鉄道ファンの間で最も低位に見なされているのが――、車内アナウンスなどのまねをするのが好きな、「アナ鉄」といわれる分野だそうだ。

 電車の中で小さな子供が、「次は練馬、練馬~。お出口は~」とか、丸覚えした車内アナウンスを口まねして、車掌さんになった気分を楽しんでいるけど、そういうやつだ。

 他方で――、車掌ならぬスピリチュアル・リーダーっぽい言葉を大仰に口にしては、自らその気分に浸っている「アナスピ」な人もたまにいる。そういう人と会話したらなかなか大変で、「あなたの言うことは、善悪の二元だ」とか、急に説教をし出したりもする…。
 車内アナウンスのまねと同じく、内容が間違ってはいないのだけど、周りにとっては余計なお世話でしかない。
 ま、車掌気分の子供と同じで、その人なりのプロセスを歩んでいるところだと思いますけど…。


 で、ここまで書いて何を伝えたいのかと言うと――、
 鉄道ファンが、自分の好きな趣味カテゴリーで楽しむのは、もちろんいいことだと思う。
 でも、鉄道というのはつまるところ、単純に「移動手段」だ。

 スピリチュアルもまた、それと同じであろうと思います。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Nadama「Reiki Healing Music」。

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 前回記事に続き、最近どことなく感じる「変化」についての話題です。

 数年前と比べて、自分自身についてときどき気付くことが――、何かに対する「疑問」というものがほとんど浮かばなくなったという点だ。
 社会生活についてもそうだし、特にスピリチュアルなものごとに関しては、その傾向がはっきしているように思う。

 以前はまったく違って、そうした関連本を読んでいるときには、「これは一体どういう理屈だ?」「なぜ自分の場合はそうならないのか?」といった数々の疑問で頭の中がいっぱいになっていた。

 もちろん今も、すべて分かっちゃったわけでは全然ないのだけど、でもどういうわけか疑問がわいてこない。
 共感できる内容は直感的にスッと理解できるし、一方で自分に合わないものは、あっさりと自然にスルーしてしまう。


 これはたぶん僕だけの出来事ではなくて、そこそこ多くの人が、「確かに、自分や周りも…」と感じていることではないかなと思う。

 僕自身、スピリチュアル関連のセミナーなどにそれほど多く行っているわけではないけれど、最近そうした場でも「質問」をする人がけっこう少なくなってきている印象を受ける。
 何年か前ならば、質疑応答の時間に会場から、たとえば「両親を許せないという感情を消し去るにはどうすればいいか」とか、「自分の思考をいくら変えても、望ましくない現実が起こり続ける原因は何か」とか、「ハートを開きたいのに閉じてしまう」、「空意識はなぜこの三次元世界を作り出したのか」――といった、根源的で、ごく個人的で、ややくどいような質問がいっぱいされていたように思う…。

 もちろん「問い」というのは、とても大事なものだ。
 でも――、本当はその疑問そのものから自ら一歩引いたほうが明らかにいいはずなのに、それを問うことによって堂々巡りを強化してしまっている、というケースも少なくないはずだ。

 そうした場合、疑問や質問が減るというのは、むしろ好ましい傾向なのだろうなと思います。


 で、そうした疑問が浮かぶことに代わって、僕自身が実感するのは、日常的に「あぁ」と気づく瞬間がたびたび訪れるということ。

 たとえば、気持ちがリラックスしている日常場面の中で――、自分自身を形づくる人格や思考がふと消えて、そして自分が「意識の広がり」として在ることに気づく。
 さらには、私たちの命が永遠であること、すべてがひとつであるということが、それをうかがわせる微細な感覚によって、「あぁ」と一瞬わかる――。


 それはちょうど、小さな赤ちゃんが「こうすれば腕が動くんだ」「口を動かせばこんな声が出るんだ」ということに気付いて、試しながら覚えていくのに似ているようにも思う。
 不慣れな感覚ではあるけれど、それが繰り返されることで、これまでと違った「在り方」が根付いていくのかも知れないです…。


 また、この感覚というのは、本当に理屈や説明をはさむ余地なく、「それはそうだよね」といった感じだ。
 そして実は、もとからある「当たり前の感覚」でもある。

 ところがそこに知的な「疑問」を持ち込むと――、純粋な感覚を覆い隠し、それを「ぜんぜん意味のないもの」として無視したり否定することになってしてしまう…。
 赤ちゃんが手足をパタパタさせたり声を出したりするように、その感覚そのものを純粋に楽しむことが大事なのでしょう。


 イエスが「幼子のようにならなければ、天国に入ることはできない」と語ったのは、そんな意味も含まれていたのかな、とも思います。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Kavin Hoo「Journey Across the Skies」。
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 ブログでときどき、自分自身に起こっている色んな変化みたいなものについても、話題にしています。

 たとえば――、晴れた日の外の景色が、異様なほどにまぶしく見える。自然の空気のにおいに敏感になって、真冬なのに春の息吹きのような香りを感じる。ただ呼吸をしているだけで、体の奥底からものすごく気持ちがいい、とか――。
 一方でときどき、なぜか全身がだるくて仕方ないことがあったり、言語などにかかわる左脳の機能が明らかにスピード・ダウンしている、といった変化も感じる…。


 そして、ここ数カ月で特に痛感するようになったのが――、「時間が早く過ぎる」ということだ。
 これは歳のせいもいくらかあるだろうけど、でもよく言う「1年があっという間」とはまた違って、目先の生活時間がリアルに間違いなく短くなっている感覚がする。

 最近読んだスピリチュアルの本に、「ここに来て、宇宙の時間がどんどん短くなっている。同じ1日でも、数年前の1日とは長さがかなり違う」といった記述あって、実際にそうなのかもしれないなと共感してしまう。


 僕は家で「主婦業」もやっているから、毎日の朝昼晩の料理と後片付けをしたり、掃除・洗濯・買い物もしている。
 まぁ、それだけでも時間はある程度かかってしまうのだけど、うちは妻子との3人家族だから、料理や洗濯物は決して多い量ではないし、また広くないマンション暮らしなので、掃除にもそんなに過大な労力は要しない。
 だからいつも、朝に瞑想の時間を持ったり、日課のランニングしたり、昼間は色んな所用や雑務を手掛けたり、本を読んだり、こうしてブログを書いたりしている。

 ところが最近、これまでなら難なくやり繰りできていたはずの日常の生活時間が、どういうわけだか明らかに「足りなくなっている」のだ。
 やりたいことがうまく終わらないまま、1日が過ぎてしまうケースが少なくない。別に難しい仕事をしているわけではないし、ぼんやりしているわけでもないのに。
 これは本当に不思議。いったい何がどうなっているの? という感じだ。

 同じことを実感している人って、けっこういらっしゃるのでしょうか…。


 もっとも、スピリチュアルな考え方では、「時間」というものはそもそも存在しない。実際にあるのは「今」という瞬間だけだ。

 でも私たちの思考は、時間という「架空の軸」に沿ってものごとをとらえている。
 そして、時間とは「何かを『する』ためには不可欠なものである」という、確たる価値を与えて、感じている。

 で、最近「時間が早く過ぎ去っていく」のは、すなわち、「時間の価値が失われてきている」ということではないかなと思う――。


 お金の価値が減っていくのが「インフレ」だ。
 お金の値打ちが以前よりも低くなるから、これまで100円で買えていたものが、150円とか200円出さないと買えなくなってしまう。
 そして、財布からお金がどんどん早く減っていってしまうようになる。

 さらにインフレが極限まで進むと、貨幣そのものが価値を失って崩壊してしまう。経済活動全体が、完全に立ち行かなくなってしまう…。


 同様に「時間」も、そのように価値を徐々に失い、そして時間に基づいた「する」ことの意味すらもやがて消え去っていく――、
 その兆しのようなものが、最近の「時間が早く過ぎる」という感覚として現れているのかなとも感じます。

 よく言われるように、私たちの生において真に大切なのは、「何をするか」ではなくて、「どのように在るか」だ。
 何かを「する」には時間が必要だけど、自分の「在り方」を決めるのは一瞬であり、時間は関係ない。

 私たちは今まさに、それを決めることに臨んでいるのでしょう。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Doug Hammer「Sunrise」。
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 この上のほうの写真、山にいる猿たちが毛づくろいをしたり遊んでいる様子だけど――
 でも、どこか、少しだけ違和感がありませんか?

 分かるでしょうかね…
 それは「しっぽ」だ。

 動物園の猿山や、昔話の絵本などで見覚えがあるだろうけど、国内にいる「日本猿」のしっぽはとても短い。
 下のほう写真が、その日本猿である。ピンと跳ねた短いしっぽと、真っ赤なお尻は、お猿のシンボルみたいなものだ。

 上の写真のしっぽの長い猿は、日本猿に近い品種の「台湾猿」である。
 猿はもともと、東南アジアから日本にやって来たから、しっぽが長いほうがより原種に近い。(中国の「孫悟空」にも長いしっぽがある)
 それが日本に住んでいるうちに、猿のしっぽが消えていったわけだ…。


 何らかの環境適応の結果だろうけど、こうして体にあったものが無くなっていくことは「退化」と呼ばれる。
 でも、より進化したチンパンジー、ゴリラ、オランウータンなどの類人猿にもしっぽがないから、これが退化なのか進化なのか、どうなのでしょうね…。


 ほかにも、日本でしっぽが短い動物と言えば――

 飼っている人ならすぐ分かると思うけど、そう、猫です。

 猫のしっぽは普通、スラッと長い。スポーツ用品の「PUMA」のマークのように、猫の仲間であるヒョウや虎、チーターなども、必ず長いしっぽを持っている。

 ところが日本猫は、この写真のように、短くて丸っこい「ポンポンしっぽ」が一般的だ。
 日本人の目からは何てことないけど、これは世界的にすごく珍しい特徴だそうである。


 で、そうした日本における「体の変異」というのは、何と私たち人間にもある。
 脚の短さや顔の平べったさとかではもちろんなくて…、それは「足の小指の関節」だ。

 普段はぜんぜん気が付かないけど、触って確かめてみればすぐに分かる。
 まずは足の「人差し指」か「中指」を触って、くねっと曲げられる関節がいくつあるか数えてみる。
 そうしたら、指のずっと付け根に1カ所、指の真ん中くらいに1カ所、そして爪の生え際あたりに1カ所と、計3つの関節があるだろう。

 これは、手の指とまったく同じ構造である。
 手のほうは、わざわざ触らなくても、見れば分かる。曲げられるところが、ちゃんと3カ所ありますよね。


 では次に、足の「小指」を触って関節を数えてみると――、あれれっ…。
 曲げられるところが、2カ所だけなのではないでしょうか。

 実は日本人の約90%は、足の小指の関節が1つ足りなくなっているそうだ。この写真の矢印のところで、骨がくっついて関節がなくなっている。
 一方で西洋人の場合は、大多数の人がほかの指と同じように、ちゃんと3カ所の関節があるそうだ。


 ちなみに猿には、長い足の指と、はっきりした関節がある。そうした足で木の枝を器用につかみながら、うまく樹上生活ができるわけだ。
 でも地上を二足歩行する人間は、足でものをつかんだりしないため、足の指がどんどん退化していった。

 日本人はとりわけその「退化が進んだ」民族といえる。でもどうしてなのか不思議ですよね。日本人はすり足で歩くから?
 実は僕の足は、小指だけでなく、薬指まで関節が1つ足りないんです…。


 スピリチュアル分野では、日本は世界の変容を先駆けていくというふうに語る人もいる。
 実際にどうかはもちろん分からないけど…、でも、従来あったものを無くしていく「退化」に関しては、何か「地の利」のみたいなのがあるような感じがする。

 最近の若者は覇気や競争心を失っているとよく言われるけど、あるいはそうした傾向も、世界に先駆けた「退化」なのかもしれないです…。


 結びのヒーリング・ミュージックはLifescapes「Pure Relaxation (Part 1)」。
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 登山家などが夜に使う、頭に付ける照明器具の「ヘッド・ランプ」ってありますよね。
 今回はそれを例に、この世界の見え方というものについて、ちょっと考えてみたいなと思います――。


 ヘッド・ランプは、自分の頭に付けているわけだから、それが光っている様子は自分の目からは見えない。
 また、点灯した状態で、真っ暗な夜空を見上げたとしても、そこには照らし出されるものが何もないから、ヘッド・ランプが光っているかどうか自分で分からない。

 その光で何かを照らしたとき――、たとえば暗がりの中の木々とか、足元の道とか、そばにいる人を照らしたとき――、それらさまざまな「対象物」の姿が目の前に明るく浮かび上がる。

 ヘッド・ランプの光は、周りの何かを照らし出すことによって初めて、それが「光っている」ということを自分の目で認識できるわけだ。


 そして、大事なポイントなのは――
 木や道や人の姿が明るくはっきり見えても、そうしたもの自体が「発光」しているわけではもちろんない、ということだ。
 あくまでも自分のヘッド・ランプから照射された光が、対象物に当たって反射し、そうして返ってきた光を自分の目でとらえている。
 わざわざ言うまでもなく、当然のことだけど…。

 つまりは、私たちがそこで「何を目にしているのか」を突き詰めると――、それは対象物そのものではなくて、ほかならぬ「自らの光」をその目でとらえて見ているのだと言える。


 で、この世界の見え方というも、実は同じような仕組みなのかなと思う。

 多くの宗教などでも、私たちの本質とは「光」であるとよく言われる。
 つまり光であるということは、自らが「光源」であるわけだから、ヘッド・ランプの例のように、自分が光っていることを自分で見ることは普通できない。
 自らの光が何かの対象物を照らして、反射して返ってきた光を目にして初めて、その輝きを認識できるわけだ。

 その光源としての輝きのことを、「意識の光」「魂の光」「愛の光」とも呼ぶ。周りの世界を上下左右360度にわたって照らし出す、もう神がかり的に高性能なヘッド・ランプだ。
 私たちは、自らを光源とするこの光によって、世界の姿をありありと浮かび上がらせ、その多彩な様相を見たり感じ取ったりしながら生きている。

 気持ちを静かにさせてゆっくり周りを見渡してみると――、自分から照射する「意識の光」によって、辺りの色んなものを浮かび上がらせて眺めているのだという感覚を、ほんのわずかでも感じられるかもしれない…。


 ここで改めて大事なポイントなのは――、
 この世界で見えるものは何ひとつ、それ自体が「発光」しているわけではない、ということ。

 その人が見るものすべては、その人から放たれた光を反射することによって、見ることができている。
 その目でとらえて感じ取っている世界とは、色んな対象物そのものではなく、まさしく「自らの光」にほかならない。


 そしてさらには、この宇宙で光っているのは、実はあなただけなのだ――。
 唯一の「光源」であるあなたが、自らの輝きを知ることができるように、光を反射するための宇宙一式が、こうしてここに創造されている。


 ここまでくると、そんな行き過ぎた考え方には付いていけないと思われてしまうかもしれないけど…。
 でも、よく言われる「この世界は自分を映す鏡」とか「外側の出来事は自分の内側の投影」といった見方にやや近いかもしれないです。

 ただそうした観点から、つい「望ましくない現実と、内面の浄化」といったテーマに行がちだが――、それ以上に、もっともっと周りの世界の「輝き」にほうに目をやることが大切ではないかなと思う。


 胸が痛くなるほどの異性の人のきらめき、草花の鮮やかな美しさ、壮麗に染め上がる夕暮れの空、無償の愛や冒険の物語、心を躍らせて夢見る暮らしや生き方――
 そうしたまばゆい輝きを目にしたり、心の底からの憧れを感じる瞬間は、もちろんそうしょっちゅうではないにしろあるだろう。

 その美しさや素晴らしさというのは、対象物そのものに帰属しているものではない。それは「あなたの光」をただ反射している。
 その輝きは、内にある自らの輝きだ。自分自身の本当の性質なり可能性を、そこで目にしているのだ。

 この次元で特別に素晴らしい瞬間――
 それは、世界の輝きを感じ、その輝きが自らの本質にあることを認識したときだと思います。



 結びのヒーリング・ミュージックはIndigo Seven「East of Edens Gate」。
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 「何か書くことないかな」と考えていたら…、さっき外ですごい雷が鳴っていたので(近くに落雷したらしくてマンションが振動した)、今回は雷の話題にしますね――。

 人生を大転換させるほどの衝撃を受けることを、「雷に打たれたような」とよく表現される。
 色んなところで使われる言い回しだけど、その歴史的な代表格に挙げられるのが、キリスト教の使徒パウロだろう。


 もともとユダヤ教の先鋭的なエリートであったパウロは、創設間もないキリスト教徒への過激な弾圧活動に血道をあげていた。
 その弾圧に向かう旅の途上のこと、パウロは天からのすさまじい閃光に照らされて倒れてしまう。

 そして、「なぜ私を迫害するのか」という、復活したイエスのとどろくような声を耳にする。
 この体験によってパウロはキリスト教へと回心し、今度はローマ帝国の各地への伝道旅行に赴くなど、「以後よく広まるキリスト教」の礎となった。


 ――まさしく「人生180度転換」、という言い方では軽すぎるくらい、劇的な生まれ変わりですよね。
 ただ、「雷に打たれたような」という表現はあくまでも比喩であって、実際に雷に打たれたなら、人生が変わるどころか死んでしまうはずだ、と思うだろう。

 本当に落雷事故に遭ったのが、『未来からの生還』の著者のダニオン・ブリンクリーだ。
 彼は頭部に雷の直撃を受け、搬送先の病院で死亡と診断される。そのとき彼は、信じられないような「臨死体験」をする。そして遺体安置所に運び込まれる寸前に息を吹き返す。

 奇跡的な回復をとげて退院したのち、それまで非道な荒くれ者だった彼は、過去とはまったく違う「他者を助ける人生」を歩んでいく。そして後年、何と2度目の臨死体験をする――。
 この本については、以下の過去記事でも紹介しています。
 http://mitsunakoudai.blog.fc2.com/blog-entry-247.html


 ここから、ちょとサイエンスな話ですが――
 雷というのは、空の雲から地上へと、いきなり一方向的に落ちてくるように思えるけど、実はそうではないんです。


 垂れこめた雷雲から、最初に「スッテップ・リーダー」と呼ばれる小さな放電が繰り返される。それが細い道筋のようになって、下へ向かって徐々に伸びていく。
 これが地上にある程度近づいてきたとき、今度は地上側から迎えるように、「ストリーマー」と呼ばれる放電の筋が上へと伸びてゆく。

 そして、この上からと下からの細い筋が互いに結び付き、雲と地上とをつなぐ1本の経路ができた瞬間――、そこにばく大な電気エネルギーが一気に流れ込む。
 これが落雷だ。


 だから雷も、また、それになぞらえられる劇的な「天啓」のようなものも――、「上意下達」的に一方向に落ちてくるものではなくて、互いの動きがわずかでも結び付いたタイミングで、一気に起こるものなのかなと考えます。

 禅語の「啐啄(そったく)同時」のような感じと言うと、やや違うかな…。でもそういう、天意と魂の一致した意志によるものなのでしょう。


 ところで、なぜ雷はあんなものすごい音がするのかと言うと――
 稲妻の温度は極めて高くて、周りの空気は何と2万~3万度にも熱せられる。その高温によって空気が爆発的に膨張し、ごう音をとどろかせるというわけだ。

 ちなみに太陽の表面温度は6千度だから、それをはるかに上回る高温が地球上にあるなんて、それ自体が相当に驚きですよね…。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Neil H 「Secret Garden」。
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 私たち人間の目に見えない「本質」、あるいは「魂」のことを、よく「風」になぞらえますよね。
 「千の風になって」というヒット曲があるし、ラムサというチャネリング本の中では「人間はかつて自由の風であり、偉大なる創造の神だった」と言うくだりもある。

 また一方、私たちが今こうして生きている「肉体」のことを、「魂の乗り物」と呼ぶことも多い。
 魂、すなわち「風」が乗る乗り物なわけだから――、この肉体とはつまり「風船」というふうに言い換えることもできる。
 言葉の由来はよく知らないけど、英語で言う「バルーン」のことを、日本語ではなぜか「風の船」と書くんですよね…。


 私たちの根源的な在り方とは、まさしく「風」や「空気」のようなものである。
 それには形というものがなく、限られた大きさもなく、隔たりもなく、数えることもできない。
 で、その根源的な「空気」を、乗り物である「風船」の中に入れて膨らませると――、それは一つの風船としての個体的な姿形を持つ。

 きれいな色彩の風船は、空中をふわりと漂い、風に吹き流される。(空高く上げるにはヘリウム・ガスを入れなくてはならないけど…)
 そして風船は、目に見えない風のそよぎを、リアルな動きとして体現する。

 これがいわば、私たちがこの世界に生きている姿なのでしょう。


 でも風船は、いつまでも膨らんでいるわけではない。
 やがて、しぼんでしわしわになったり、とがったものに当たって割れてしまうこともある。その寿命は、けっこうはかないものだ…。

 風船が割れたら、中に入っていた空気は、内も外も関係なく周りと一体になっていく。自由で見えない「風」へと返っていく。
 それはもはや、小さな一部分ではない。地球の全体に満ちわたる「大気」そのものなのだ――。


 私たちは、そうした根源的な性質を持ち、そして先の展開まで確実に決まっているとも言える。
 それが今こうして、一つひとつの「風船人間」として生きているわけだ。

 自分の風船の色が好きな人もいれば、気に入らない人もいるだろう。軽やかに漂うことを楽しんでいる人もいれば、翻弄されて苦しみ続けている人もいるかもしれない…。

 でも、この「風の船」に乗ることの、いちばんの意味というのは――
 自分というものが一見、周りから分け隔てられた、小さな孤立した存在のようにしか思えなくても――、風船のごく薄いゴム膜のすぐ向こうには、自分の「本質」である大気が彼方まで満ち満ちて広がっている――。
 その真実に気づき、感じることなのでしょう。


 空気が風船の中にあるのは、一時的なことでしかない。
 自分を膨らませている空気も、他のたくさんの風船の中に入っている空気も、さらにはそれらの周りの世界を覆っている空気も――、すべて同じものであり、やがてひとつに溶け合うものであり、究極的な「私」そのものである――
 この真実を体験的に目の当たりにするのが、いわゆる「悟り」であり、また「死」の際にも同じことが起こるようだ。

 でも、それ以上にもっと重要なこととは――
 たとえ決定的な証拠や体験がなくても(むしろ真実が覆い隠されたままであっても)、「これが真実である」ことを自分で信じて、それを前提に自分の在り方や、考え方や、行動を決定していく、ということだと思うのです。
 きっと、それをしてみたくて、私たちはこの「風の船」に乗ったのでしょう。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Kavin Hoo「Gala's Embrace」
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 「明けの明星」「宵の明星」と呼ばれる、金星の輝き――。
 それはまるで、空に浮かぶ別次元の点のように鮮やかに際立ち、つい見入ってしまいますよね。

 この金星の見え方は、実は月のように満ち欠けをして、また大きくなったり小さくなったりしている、ということを知ってますか?


 当然のことながら金星も、月と同じく、太陽に照らされて光っている。
 そのため、光の当たらない部分は影となって、「半月」や「三日月」みたいな姿になる。
 また、地球は太陽の周りを365日かけて1周し、金星は225日で1周している。回りながら互いの距離が近づいたり遠ざかったりしているので、見える大きさも変化していく。


 ただし月と違って、金星は「満月」の状態にはならない。

 その理由は、「金星が地球よりも内側を回っている」ためだ。
 この図のように、地球から見て金星が「満」になるのは、太陽のちょうど向こう側に位置するときである。その姿を、こちら側から見ることは不可能だ。

 そして金星は、地球に近づいて来るにつれて、「欠け」の部分がだんだんと大きくなっていく。
 地球に最も接近したときは、何も見えない「新月」の状態になる。

 これを動画で説明しているのが以下のサイトで、実に素晴らしく分かりやすいです!
 http://www.astron.pref.gunma.jp/flash/venus2.html
 (※Flash動画なので、iPad/iPhoneでは表示できないようです)


 でも、金星が「近づくほど暗くなる」って、何だか残念な気もしますよね。
 あれほど美しい輝きなのだから、できるならば近づくほどに明るくなって、満月ならぬ「満金星」の最大の輝きを目にしてみたい! と思うのだけど…。位置関係からして、それはまったく無理なことだ。


 で、この「金星の満ち欠け」に初めて着目した人物が、有名な中世イタリアの科学者、ガリレオ・ガリレイである。

 彼は、「金星の満ち欠けの様子を調べれば、惑星が太陽を中心に回っていることを確かめられる」と考えた。
 当時最新鋭である自作の望遠鏡を使って観測し、これが「地動説」を裏付ける大きな証拠の一つになった。

 すべての天体が地球を中心に動いていると、誰もが信じ込んでいた中世の時代――、「地動説」を証明するのは尋常でない難題に思えるけれども、でもこの「金星の満ち欠け」は意外に納得しやすいものだろう。


 ところがその結果、ガリレオはカトリック教会から「異端」とみなされ、宗教裁判にかけられてしまう
 その第1回裁判の判決は、以下のようなものだ――

 「太陽が中心で地球が動いているという説は、愚かで馬鹿げており、哲学的にも形式的にも異端である。
 それは、聖書の多くの章句における教義の点でも、また教父や博士たちの一般的な解釈に従った場合でも、明らかに矛盾するからである」

 何だかあんまりと言うか…、つまりは「私たちが信じる『真実』、私たちが考える『常識』とはぜんぜん違うから、その説は間違った悪いものである」と、断定的に足蹴にしているわけだ。


 ところで、このガリレオ裁判は、よく「科学と宗教の対立」の象徴のように取り上げられるのだけど――
 実際は、彼の功績を快く思わなかった「反ガリレオ派」の科学者たちが、権威であるカトリック教会をうまく焚き付けて起こしたものだとも言われる。

 ガリレオ自身は敬虔なカトリック教徒であり、もともと教会は彼の新発見を高く評価し、ローマ教皇への謁見も許した。
 そのときに教皇は、ひざまずくガリレオに「ただちに立って話すように」と命じたとされ、これは異例の厚遇であった。
 また、裁判によってガリレオの終身禁固刑が確定した後も、教会内の理解者の尽力によって、軟禁に減刑されている。

 そうした観点で見ると、ガリレオ裁判は「力を持つ宗教が、科学を否定した」という図式では必ずしもなくて――、「科学が別の科学を否定した」という側面も大きいわけだ。


 実は私たち個人も、そんな「宗教裁判」のようなことを、心の中でしているケースが少なくないだろう。

 科学が別の科学を否定するように――
 自分の常識でほかの常識を否定し、自分の信念でほかの信念を否定し、自分の帰属意識でほかの帰属意識を否定したりと…。
 そして相手の尺度を、「間違った悪いもの」と断定して裁いている。
 こうして、過去からと同じ思考体系や現実の中に生涯ずっと生き続け、ずっと裁き続けていく。


 量子論の創始者の一人で、ノーベル物理学賞を受賞したマックス・プランクは、こんな面白いことを言っている――

 「科学における新発見は、それまでの事実を支持する人々に、正しいのはどちらかを納得させればよいというものではない。
 むしろ、そういう人々がこの世を去って初めて認められる。そして新しい事実を受け入れた世代が育っていく。
 ふざけた言い方をすれば、葬式が一つ行われるごとに科学は一歩前進する、と言っても過言ではないのだ」


 かつての「天動説・地動説」もまさにそうだろうけど、なかなかすごい世の現実ですよね…。

 たぶんこれは、個人についても同じように言えることで――
 人はこの世を去るときに、固持していた信念や帰属意識などを脱ぎ捨てることによって、何がしかの「一歩前進」は起こるのだろうと思う。


 でも、とらわれたあげくに「葬式が一つ行われるごとの一歩前進」では、ずいぶんと非効率で、何だかちょっと「浮かばれない」ような気もしてしまう…。
 本当の飛躍につながるのは、「肉体の死」による前進ではなく、生きている間の「信念の死」による前進なのでしょう。

 私たちがこの地上世界に生きるのは、「霊的な進化」のためだとよく言われるけど――、別の言い方をするならばそれは「浄化」のため――、さらに表現を変えれば、私たちは「信念の死」のためにここに生きている、とも言えるのではないかなと思っています。



 結びのヒーリング・ミュージックは、2002「Dreams of Peace」。
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 冠婚葬祭会社の経営者が書いた本を読んでいたら、次のような一文が目にとまりました――

 みんな家族や隣人に迷惑をかけたくないという。
 「残された子供に迷惑をかけたくないから、葬式は通夜・告別式なしの直葬でいい」「子孫に迷惑をかけたくないから、墓は作らなくていい」「失業して生活費も尽きた、でも親に迷惑をかけたくないから親元には帰れない」「招待した人に迷惑をかけたくないから、披露宴はやらない」「好意を抱いている人に迷惑をかけたくないから、交際を申し込むのはやめよう」…
 すべては迷惑をかけたくないがために、人間関係がどんどん希薄化しているのではないか。


 僕自身、葬式も墓もまったく必要ないし、披露宴は実際にやらなかった。「人それぞれ、自分の好きなようにするのがいい」という考え方だ。同じように考える人は、最近多くなっていると思う。

 ただ、「迷惑をかけたくないがために」という指摘は、多かれ少なかれではあるけれど、言い得ているところがあるのではないかなと感じる。
 もちろん冠婚葬祭の関連だけでなく、さまざまな人間関係においても。


 前述の「迷惑をかけたくない」という気持ちを、より細かく見てみると――
 たとえば、「自分は人に面倒をかけることのない、自立した常識人でいたい」「誰かの手を煩わせるなんて、こちらの気持ちが落ち着かない」「自分なんかのために人を呼ぶのは悪い気がする」「相手を困らせたり失望させたら、自分自身がものすごく傷付く」――とか、さまざまな思いがそこにあるだろう。

 たいていの人は、自分が誰かに親切にしてあげたり、世話をすることについては、進んでやりたいという意識でいるはずだ。それは明らかに「良いこと」だから。
 一方で、自分のほうが人にお世話をしてもらうとなると、けっこう抵抗感を感じてしまうケースも少なくないのではないか。相手の善意や親切心であっても、それを受け取ることが、「良いこと」の反対側の「悪いこと」のようにさえ思えてきたりする…。
 よく、「いやいや、それは悪いよ」なんて言い方をしますものね。


 「自分は絶対に人に迷惑をかけたくない」と考えている人にとって、死ぬよりもつらい極限的な状況と言えるのが――、病気などで寝たきりになり、残りの生涯における身の回りのすべてを、誰かに世話してもらわなくてはならない、という事態だろう。

 以前にも書いたことだけど、終末期医療の草分けであるエリザベス・キューブラー・ロスの本の中に、彼女の母親がまさしくその状況になったことが書かれてている。
 母親は惜しみなく人に与え、親切で、一生を身を削りながら働いた人だったという。それだけに、人から何かしてもらうこと自体が、耐えられないことだと感じていた。
 そして、「もし自分が植物状態になったら、医師であるあなたの手で息の根を止めてほしい」と言った。もちろんエリザベスはそれをきっぱりと断った。


 それを言った3日後に、あろうことか母親は脳卒中で倒れ、本当に植物状態に陥ってしまった。
 そして、当初は数日しか持たないだろうと思われたのだが、その状態のまま何と4年も生き続けた。
 身動きもできず言葉もしゃべれない母親は、その目で絶望と苦しみと激しい怒りを、ずっと訴え続けた。でも、体を洗ってもらい、食べさせてもらい、ありとあらゆる世話をしてもらう以外に、どうしようもなかった――。

 エリザベス・キューブラー・ロスは、「なぜ母親をあんなにも苦しめたのか」と、神を激しく恨んだという。母親の死後もおさまりがつかず、ありとあらゆる言葉で神をののしり続けた。


 ところがある日――
 突然、飛び上がるような気付きが訪れた。その瞬間に、母親に起こったことのすべてが、神の御業であることが見えたという。
 そのことを次のように語っている。

 「神は母に、80年近くひたすら与え、愛し続けることを許した。でも母はそのために最後の4年間、『受け取る』ことを学ばなくてはならなかった。母は成長を続け、学ぶべきレッスンを学んでいたのだ」

 「もし母を安楽死させていたら、きっとこの世に戻ってきて、最初からやり直しながら『受け取る』ことを学ばなくてはならなかっただろう。もしかしたら、重度の障害を持って生まれ変わらなくてはならなかったかも知れない」――


 ちなみにエリザベス・キューブラー・ロス自身も、毎日17時間・週7日という突っ走るような仕事ぶりをずっと続け、晩年に脳卒中で倒れた。
 そして実に9年もの麻痺状態を通じ、彼女もまた「受け取る」というレッスンを学ぶことになった…。


 「人に迷惑をかけたくない」という意識は、本当に罠のようなものでもあると思う。
 それは一見、常識人としての「良いこと」でありながらも――、実は他者との関係性を拒む、あるいは自分自身への愛を軽んじてしまう「ハートの壁」であったりもする。

 愛は、「与える」と「受け取る」の2つの面で成り立っていて、私たちがこの世界で経験して学ぶべきなのは、まさしくその両面であることに違いない。
 献身的に「与える」ことは、もちろん崇高な行いではある。でもそれだけでは、いわば半分しか履修していない状況なのだ。


 これまでの人生や過去生で、自分が「受け取る」ことを拒んだ愛というのは、いったいどれくらいに上るのだろう…。
 場合によっては、「受け取る」ことを表面的には遠慮しながらも――、実は心の中でそれを強く欲しがったり、十分に得られないことに不満や理不尽さを感じている、なんてこともあるのではないか。
 そうした偏りやギャップは、おそらくカルマ(業)として蓄積されているのだろうと思う。

 人によっては、「受け取る」ことが最大のカルマ解消になることもあるだろう。
 「きっとこれは迷惑だろうな…」と思えることまで人にしてもらって、その好意や親切心を両手を広げて受け取ることによって、初めてバランスが取れる、くらいかも知れないです。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Kenio Fuke「Light」。
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 前回の記事からの続きです。
 僕は大きな河川敷を長距離ウォーキングするのが好きなのだけど、あるとき「真っ暗な夜に歩いてみたら、一体どんな感じがするだろう」という妙な好奇心がわいてきた。
 最初は「そんなおぞましい暗闇に実際に行くわけない」と思っていたものの…、やがて抗しきれない何かに引かれるように、本当に恐る恐る実行してみた、という話です――。


 日が暮れて暗くなってから河川敷に行ったら、尻込みしてしまうに違いないから、まだ明るい夕方のうちに行って歩きはじめた。

 辺りの景色はこれまでのウォーキングで見慣れたものだけど、日没前の時間となると、日中とは様相が明らかに異なっている。
 野鳥たちはねぐらへと帰っていくし、草木の香りなどにも「一日の盛りを終えた」という雰囲気が感じられる。暮れゆく薄青い空の下を、涼しい湿った風が吹き去っていく。
 人間たちが活動する世界とは違う、もう一つの別の世界が、そこに表出してくるみたいな予感さえする。

 辺りはだんだんと暗くなり、そしてやがて、広々とした河川敷の風景全体が、墨のような深い闇にどっぷりと覆われていった――。


 この日は新月に近く、月明かりがないため(道には街灯もない)、足元が完全に見えなくなるのではと心配していた。
 でも実際には、それは大丈夫だった。空全体に薄雲がかかっていて、街の光が雲に反射し、辺り一面をかすかにぼんやりと照らしていた。歩くのに不自由ない明るさだった。
 と言うか、その明るさがはっきり分かるくらい、本当にものすごく暗かったとうことだ…。

 8時ごろまでは、犬の散歩やジョギングをしている人もけっこういて、意外とにぎやかだったけど、さすがに10時を過ぎると、自分にほかに人影はなくなった…。


 最初のうち僕は、高い堤防の上の道を歩いていた。
 「堤防の外側」には、こうこうと輝く街の夜景が広がっている。街灯や車のライト、建物の窓の明かり、電飾看板、自販機――
 たくさんの人間のいとなみが、無数の光の一つひとつになって、夜空の下で絶え間なく活動している。

 一方の「堤防の内側」は、それとはまったく違う、まるで人を近づけない、底知れぬ闇の世界である。
 新緑の木々や水辺の茂みも、その闇の中では、真っ黒い不気味なかたまりと化して立ちはだかっている。その奥から、得体の知れぬ何かが、もそもそと今にも出てきそうな雰囲気がする。
 また川は、水の流れというよりも、夜空の一部が地上に敷かれているようにも見える。広い河川敷の風景全体が、人の理解を超えた「異界」みたいな様相を漂わせている。

 堤防の上から見渡すと、それぞれの側ではっきりと違う世界が広がっていて、まるで自分が陰陽を隔てる「境界」に立っているようにも思える――。
 そうして、僕はその境界をしばらく歩いているうちに、「これではまだ闇の度合いが足りない」という奇妙な不満感を覚えた。
 やがて、何かに心が引かれるように、堤防の内側にある闇の中へと歩いて降りていった…。


 東京の都市部で、こんなにも暗いところは、たぶん他にないだろうと思う。
 でも、堤防の上から見ていたのとはかなり違って、実際に暗闇の中にどっぷり浸かってみると、そこは恐ろしい世界では全然ないことが分かってくる。
 目が慣れてくると、周りが思いのほか明るい。光を照らすものが何もないぶん、かえって全体が均質に明るく見えるのだ。

 水辺の茂みなども、面白い見え方だった。
 日中の場合、茂みの手前は光が当たって明るいけれど、茂みの中の奥のほうは暗がりである。
 ところが夜の闇の中では、手前も中もどちらも同じように暗い状態だ。そのため、茂みのかなり奥のほうまで、不思議なくらいはっきりと見通すことができる。

 その闇の奥には、得体の知れないものなんか何も隠れていないし、自分に危害を加えようとする目論見なんかも、どこにも感じ取れない。
 そこはいわば明け透けに安全で、とても「親密な空間」に思えてくる。


 そしてもう一つ、特に驚いたのは、自分自身の感覚の変化だ。

 そんな闇の中で、いわゆる「ハートが開く」感覚が、ゆっくりとしてくる――。
 自分の奥深い部分が緩み、解放され、癒され、何ともいえず心地いいのだ。
 暗闇を恐ろしく感じていたときとは打って変わって、これは本当に不思議だった。


 以下は自分の実感からの推測だけど…
 私たちがいわゆる「ハートを閉ざしてしまう」のは、外側の世界と自分の内側とを「異質なもの」「相容れないもの」として認識しているからだろう。
 そのため、自分の内面が外から「侵害」されてしまわないように、隔たりを作り、閉ざして、防御しようとする。

 とくに日中の明るいときには、外側の世界がはっきりと目に見えて認識できるので、防御のための閉ざし方も強固だ。


 ところが真っ暗闇の中にいると――、外の世界はおぼろげな姿でしかない。心の奥が闇ならば、周りの全体も同じ闇である。
 このとき、内と外の「隔たり」は確たる根拠を失って、希薄化してしまうようにも感じる。

 そして、内側の闇をギュッと閉ざしていた力が緩み、滞っていたエネルギーが外側の広がりへと解き放たれ、溶け去ってゆくのではないかなと思う…。

 ハートを癒す「闇の力」って、不思議で面白いし、本当にすごく心地よい経験だった。
 僕は知らないけど、そうしたヒーリングのワークとかも、きっと存在するのでしょうね。


 で、最初は、暗がりの中ではたぶん5kmも歩けないだろうと思っていたのだけど――、不思議な開放感に乗って、その晩は20km以上も荒川河川敷を歩いた。
 いちど夜に歩くと、もう昼間は歩きたくなくなるくらい、魅力的な時間です。

 やがてまた、「抗しきれない何か」に引っ張らて行くのでしょうかね…。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Aeoliah - Tien Fu
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プロフィル

Koudai Mitsuna

Author:Koudai Mitsuna
 
光奈 広大(みつな・こうだい)

 20年のあまりのサラリーマン生活を経て、いわゆる「ザ・マネーゲーム」を何とか卒業。今では束縛されない自由な日々を存分に味わっています!

 そうした中で心がけているのは、普通の日常的な行いを通じて、意識の進化を目指す「カルマ・ヨガ」。

 日々の喜びや学び、インスピレーションから得たスピリチュアルな気付きなどをブログで紹介しています。

 妻子と都内在住――。

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