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 『神との対話』の著者ニール・ドナルド・ウォルシュは、スピリチュアル分野の中でも、とりわけ世界的な有名人ですよね。
 また、彼がもともとサラリーマンで、のちに失業して路上生活者となり、そして「どうして自分の人生はこんなにもうまくいかず、もがき続けなくてはならないのか。あんまりじゃないか!」と神に向けた怒りをノートに書きなぐっていたら、いきなり手が勝手に動きだして神からの答えを書きはじめた――、といったいきさつもよく知られている。

 一方、それほど触れられる機会がない話だけど…、ニール・ドナルド・ウォルシュはかつて、エリザベス・キューブラー・ロスのアシスタントをしていたことがあって、後年に出版された『神との友情』の中にそれが記されている。
 神との対話が始まる十年以上も前、ボランティアのスタッフとして、彼女の講演会の計画や資金集めをしていたそうだ。

 ニールは、「本当に彼女に会えるなんて、ましてスタッフとして働けるなんて、信じられなかった」「講演会が終わったあとにスタッフは、エリザベスと私的な会話をするという、めったにない機会に恵まれたんです」と語っているくらいだから、若き日の彼にとって本当に魅力的なあこがれの人物だったのでしょうね。
 香港映画になぞらえると、無名だったころのジャッキー・チェンが、ブルース・リーの映画に端役として出演していたのに似ている感じかな…。

 そのアシスタントをしていたときのエピソードがなかなか面白いのだけど、取り上げられる機会がほとんどないようなので、ちょっとここで紹介してみますね――。


 当時のニールは、閉塞感を抱えながら鬱々とサラリーマン生活を送っていた。
 そして、エリザベスの活動と自分を照らし合せ、「彼女は多くの人たちの人生に深く触れ合い、その仕事が、彼女自身の人生を意義あるものにしている。ところが私の仕事はそうじゃない。単に生きるため、養うために、必要だとされることをしているだけだ」――、といった悲嘆の気持ちをいだいていた。

 ある日ニールは、スタッフの一員としてエリザベスと食事をしている最中に、彼女にこんな愚痴をこぼした。
 「いやになるんです。もう会社の仕事にはまったく意欲を感じなくなりました。人生を無駄に過ごしている気がしてならないんです。だけど、きっと自分は、このまま65歳まで働いて年金をもらうんだろうな…」

 するとエリザベスは、頭がどうかしているんじゃないか、という表情でニールを見て、そして静かに言った。「そんなことをしなくてもいいのに。どうしてなの?」
 「そりゃ、もし自分だけなら、そんなことはしません。明日にでも辞めますよ。だけど、養わなくてはならない家族がいますからね」
 「それじゃ、もし明日あなたが死んだら、家族はどうなるの?」とエリザベスは聞き返した。
 「そうなったら何とかするでしょうが」とニールはぶすっと答えた。「だけど、死んじゃいないですからね。私はまだ生きていますから」

 エリザベスは、「それで生きているって言えるのかしらね」と言い返すと、別の人のほうを向いてしまった。もう言うべきことがないとばかりに……


 セミナーが終わった翌朝、スタッフたちがホテルでコーヒーを飲んでいるとき、ニールは不意にエリザベスから声をかけられた。「空港まで車で送ってちょうだい」。

 彼女はこのあと、ボストンからニューヨークまで飛んで、そこで5日間のワークショップを行うことになっていった。空港に着いて駐車場に車を停めると、ニールは荷物を持たされて中まで付いて行った。
 カウンターでエリザベスは、自分の航空券とクレジットカードを出して、係員にこう言った。「同じ飛行機に、もう一人乗りたいんだけど」。

 「座席があるかどうか確認します」と係員は答えた。「ああ、あと1つだけ空いています」。
 「そうでしょうとも」。エリザベスは何か秘密を知っているように顔を輝かせた。そして係員が「で、もう一人のお客様はどなたでしょうか?」と尋ねると、エリザベスはニールを指さした。「この人よ」。

 「なんですって!?」。ニールは仰天した。
 「あなた一緒に来るでしょ。いやなの?」。エリザベスは、もう話は済んでいると言わんばかりの口ぶりだった。
 「無理ですよ。明日は仕事があるんです」。
 「仕事なんか、あなたがいなくたって大丈夫よ」。彼女は平然と言い放つ。
 「でも車を停めてあるんですよ。ここの駐車場に放ったらかしにしておくわけにはいかないじゃないですか」とニールは抗議した。
 「別のスタッフに取りに来てもらえばいいわ」
 「でも…、着替えだって持っていません。そんな長い旅をするつもりはなかったですから」
 「向こうにお店がいくらでもあるわよ」
 「エリザベス、できませんよ! いきなり飛行機に乗って、どこかへ旅立つなんて」――。ニールの胸はどきどき高鳴っていった。まさにそれこそ、自分が本当にしたかったことなのだから。

 「運転免許証を提示してくださいだって」。エリザベスは澄まし顔でニールに言った。
 「でも、エリザベス…」
 「私が飛行機に乗り遅れてしまうじゃないの」
 ニールは係員に免許証を見せて航空券を受け取った。そしてエリザベスの後を追うようにゲートへと向かいながら、一人つぶやいた。「オフィスに電話して、休みますと連絡しないと…」

 飛行機の中では、エリザベスはほとんど話しかけてこなかった。現地に着くと、集まっていた参加者にニールのことを「新しいアシスタントです」と紹介した。
 ニールは自宅にいる妻に電話をかけ、「キューブラー・ロス博士に拉致されて、帰れるのは週末になる」と伝えた。

 そしてその日の午後、ニールは再び勤務先に電話を入れた。
 人事担当につなげてもらい、ゆっくり深呼吸しながら意を固めてこう言った。
 「あのう、電話で退職届を出すことはできますか」――


 ――という話です。
 エリザベス・キューブラー・ロスらしい、相手の本心や運命をすべて見通したような大胆な振る舞い方が、痛快なドラマのようで面白いですよね。
 ニール・ドナルド・ウォルシュは、ここで人生の急ハンドルを切ることになった。

 そうして彼女の仕事をそばで手伝う中で、人々の心にある古い傷が癒され、古い問題が解決し、古い怒りが静まり、古い思い込みが克服されていくところを、目の当たりにした。
 彼はその経験をこう述懐する。「エリザベスのアシスタントとして働いた経験は、人生で最大の贈り物でした。私はマスターを見ていたんです。私は観察し、耳を傾け、懸命に学ぼうとしました。そう、そして後に、神が語ることは真実だと理解できたんです」――。


 『神との対話』の1巻目の冒頭にある「謝辞」で、彼の両親や妻や親友などの名前が挙げられている中に、一人だけ著名な「エリザベス・キューブラー・ロス」の名前があって、なぜだろう? と思っていたら、そんな出会いがあったんですね。

 さらに「神」はニールに、エリザベスとの出会いについて、こんなふうに説明している――

 「感情を分かち合うこと、真実を語ること、怒り静めること、耳を傾けること、許そうという決意、手放そうという選択、与えようとする努力、受け取ろうという広い心――。人の心の喜びを引き出す方法は何千もある。いや、何千のさらに何千倍もある。決意さえすれば方法は分かるよ。それを教えてくれる偉大な師を、あなたに送ってあげたね」



 結びのヒーリング・ミュージックは、Bruno Sanfilippo & Mathias Grassow「Ambessence Piano & Drone 1」。
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 私たちの思考のうちかなりの部分が、将来に対する「恐れ」だとよく言われます。
 この「恐れ」の中身というのは、頭で想定しているときはとても大真面目で現実的に思えるけれど…、果たしてその統計的な信ぴょう性となると、いかほどのものなのでしょうね。


 実践したことはないのだけれど、以前から「もしやってみたら相当ためになるだろうな」と思っているのが、『不安日誌』というのを付けてみることだ。
 これは、その時々に抱えている心配事や、将来に起こったら困ると懸念していることを、日誌として書き連ねていく――。そして後日(場合によっては何カ月とか何年か後)に、それらの心配事が実際にどうなったかの結果を記録していく、というものだ。

 ただ、これをやるとなると、自分の心の中によどんでいる不安感にじっと向き合って書き出さなくてはならないし、中長期の継続性も必要だから、そう簡単にできることではないかもしれないです…。


 でも、この『不安日誌』というのをもし付け続けたと想像してみて、けっこう容易に察しがつくのは――、抱えていた幾多の心配事は「実際にはほとんど起こらない」ということだろう。

 例えば僕はサラリーマン時代に、いくつもの仕事のプロジェクトを併行して抱えていた。その一つひとつに対して、「先の段階でとん挫してしまうのではないか」「相手先に迷惑をかけてしまうではないか」「自分が非難されるのではないか」といった、色んな気掛かりなことが頭の中で渦巻いていた。
 さらには、家庭や自分自身についての悩みもあった。中には「子供が学校でけがをしてしまうのではないか」「家族旅行で事故に遭うのではないか」といった無根拠なものも少なくないけど、そうした懸念も何かあるたびについ心をよぎる。

 もしこうした心配事を書き出したら、毎日10個や20個くらいすぐに並べることができたはずだ。1年間の延べで何千個にもなる…。


 でも、それだけ多くの心配事が実際にはどうなったかを振り返ってみれば――、そのほとんどは現実には起こらなかったものばかりだ。大半は、かすりもしなかった。または起こったとしても、恐れていたほどの大事にはならずに、特に問題なくすんなり解決した。
 ざっくりと「的中率」で言うと、その時々の頭に渦巻いていた数知れぬ不安事項のうち、恐れていた通りに当たったのは「数十個に1つ」とか、あるいは「数百個に1つ」ぐらいだろう。

 だいたいの人が、そんな感じなのではないかなと思う…。
 もしその程度しか当たらない「予言者」がいたとしたら、そんな人の言うことなんか誰も信じないはずだ。
 でも「自分の内なる不安感」が主張することに限っては、過去の統計的な実績などはまったく無視されて、常にリアルに信じ込まれてしまうんですよね…。


 こうした不安の的中率を改めて考えてみることは、なかなかのグッド・ニュースでもある。
 「現実化した不安の数 ÷ 頭に色々と浮かんだ不安の数」で計算した確率でとらえる限り――、私たちは「不安があまり当たらない世界」、言い換えれば「ものごとがけっこううまくいく世界」に生きていると言えるだろう。
 「大船に乗っている」くらいに考えてもいいのかも知れない。

 たいていの場合、人生を大きく揺り動かすものとは――、心配しているかどうかにかかわらず「突然やってくる出来事」のはずだ。
 それに対しても、日ごろの「不安」というのはまったく何の役にも立たない…。


 この世界は「不安がない世界」ではもちろんない。
 でも、こうして考えてみると、実はこの世界は「不安がいらない世界」であるというふうに、断言できるのではないかと思うのです。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Kavin Hoo「Enchanted Forest」。
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 ものすごく暑い毎日が続いてますけど…、
 こんな時期にもかかわらず、僕は実は週に1~2回くらいのペースで、多摩川とか荒川の河川敷のウォーキングに行っています。

 川沿いの土手の道には、木陰とかはまずないし、郊外へ行けば自販機や水道もない。単に歩いているだけとは言え、実はけっこう危ないことなのかも知れない。
 服装については一応の熱中症対策はしていて、帽子の中に濡らした布を入れ、首筋をフードで覆い、日差しから守るため白い長そでに長ズボンと……、まるで砂漠をゆく旅人である。
 そんな格好までして、わざわざ酷暑の河川敷をウォーキングしている変わり者なんて、ほかに見かけない。


 でも、そうして外を歩いていると、かなりの炎天下でも、耐えがたい暑さだとは感じない。冷房の効きの悪い部屋の中にいるほうが、よっぽど不快な感じがする。
 もちろん、僕自身はストイックな修練として歩いているわけではなくて、純粋に楽しいからやっている。夏の盛りは、草木が鮮やかに照り輝いて、空の青さやわき立つ雲には本当に見事な勢いがある。まるで映画の美しい情景の中にいるみたいだ。

 そうして20kmほどを、ただひたすらに歩いてから家に帰ると、自分のどこかが一新されたような気持ちがする。捨て去るべき何かがぬぐい落され、浄化のエネルギーで満たされた感覚がある。


 僕にとって、何もない河川敷とかをウォーキングしている時間は、単なる体の運動を超えた、内的な充足の時間のような気がする。だからこそ、こんなに暑いさなかにも、まるで魂の滋養を求めるみたいに、おのずと足が向いていくのでしょう…。

 以前に読んでいたOSHOの本の中に、こんな一文があった――。

 「水泳は瞑想になり得るし、ランニングも瞑想になり得る。どんなことをしても、あなたが『そうしていない』ならば、瞑想になり得る」

 ここは、少々とらえにくいかもしれないけど…、何かを「している」のではなく、それを「していない」ということが最大の要点なのだろう。僕の場合は、黙々と歩いているときがいちばん「そうしていない」状態になれる感じがする。

 例えば僕が家事をしているときは、頭も体も家事をしている。ブログを書いているときも、やはりブログを書いている。
 でも歩いているときに限っては、妙な言い方だけど、僕は歩いていない。「歩いている」状況がそこに現れているだけというか、自分という存在が「歩くことそのもの」に置き換わっているというか…。
 簡単に言えば「無心になってしている」ということだけど、思考する心がないから、「それをしている自分」もいない、ということなのかも知れないです。


 同じように、趣味などに無心で打ち込み、もはや自分が「そうしていない」ような状況って、人によって色々あると思う。例えばそれがサーフィンである人もいれば、歌うことだったり、庭仕事だったり、写経だったり…。

 それらはたいてい、実生活面ではまったく非生産的なものごとだろう。
 でも「そうしていない」というくらい、いつもの自分自身が不在になることによって――、私たちは解き放たれ、内から癒され、再創造が始まるのではないかと思います。



結びのヒーリング・ミュージックは、Christopher Lloyd Clarke「The Ecstasy of Being」。
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 この連休、高校生の息子と大学の見学(オープン・キャンパスというもの)に行ってきました――。


 僕の息子については過去のブログでも何回か書いたけど、生まれたときは体重1000グラムの極小未熟児だった(妊娠中毒症のため帝王切開で生まれた)。
 また子育て中に妻が重い鬱を患い、僕自身も当時はかなり忙しいサラリーマンで「家には寝に帰るだけ」という状況だった。
 つまり息子にとって、いい幼児体験ができる環境からは程遠かったといえる…。

 でも幼いころは、子供ならではの天真爛漫さで、本当に元気で利発だった。
 ところが小学校4年生くらいから、体が小さいことからいじめに遭うようになった。中学校のころはそれがひどくなり、「学校には毎日なぐられに行くようなものだ。自分はほかの生徒とは違って、生きていて何もいいことなんかない…」とこぼしていた。
 休日に話を聞いてあげたり、学校に相談したりもしたが、ほとんど解決にはつながらなかった。不登校ではなかったものの、勉強をまったくせず、成績はほとんどビリに近くまで落ちた。一緒に遊ぶ友達もいなかった。
 そして反抗期でもあることから、家の中での言葉づかいや態度も、非常にとげとげしいものになっていった。


 スピリチュアルの分野でよく言われることだけど――
 この地上世界における私たちの人生プロセスとは、「生まれたときに開いていたハートがやがては閉じてしまい、それを再び開いていくプロセスだ」というふうにも表現される。
 その過程を避けたり省略することは、ほとんどの場合は無理らしい。
 そうは言っても、自分の子供のハートが閉ざされていくのを間近で感じるのは、本当に痛々しい経験だった。親の立場で同じことを思う人は、とても多いだろう。


 その当時に読んでいた「ホ・オポノポノ」の本の中で、親と子供との関係についてこんな記述があった。

 「『子供がマリファナを吸っては困る』という考え方を親自身が手放せば、子供は自然にマリファナを手放す。親はみな『子供がやめてくれれば』と思っているが、それを手放せば良いのだ」――




 ハワイの刑務所に勤めたことのある著者だけに、ずいぶんと極端なケースだけど…、でもこの短い一文に込められた観点は、僕にとってけっこう大きなインパクトをもたらした。

 そして僕は子供や家庭内の出来事について、たとえば勉強をしないで一日中ゲームをしていようが、どんなキツい言葉をこちらに投げかけてこようが、「これは問題だ」「これでは困る」というとらえ方を一切しないようにした。このやり方は、その後も現在までずっと一貫できている。
 ちょうど会社を思い切って早期退職したこともあって、僕自身の時間的・精神的な余裕は、以前とは比べられならないほどに増大した。

 やがて、当時中学3年だった息子の成績が、不思議なことにちょっとだけ上がった。そして何とか、都内の中堅私立高校に進むことができた。
 その高校が、本当にずいぶん「おっとり」した校風で、幸いにもいじめに遭うことはもうなくなった。
 さらには、これはぜんぜん期待もしていなかった意外なことだが、全校の「成績優良者」にまで選ばれるようになった(もっとも、全体レベルが大したところではないけれど…)

 もちろん、学校に行けばいいとか、成績さえ上がれば良いというわけではない。でも、以前は「何もいいことがない」と思っていた自己イメージが、ちょっとでも「自分も捨てたものじゃないのかな」と思えるようになったとすれば、それはそれでとても大切なことだろう。


 一方の僕自身も、「問題というのは、このようにして消えていくのだな」ということを、体験的に知ることができたと思う。

 そんなこれまでのことを、縁があるかどうか分からない大学の構内をぶらつきながら、ふと振り返ったりもしました…。


 結びのヒーリング・ミュージックは、Kenio Fuke「Magical Land」。
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 スピリチュアルの分野では、私たちが生きているこの世界のことを、「分離の世界」とか「二元性の世界」というふうによく言います。
 「自分」と「他者」が分け隔てられた世界であるがために、敵対や争いなども起こってしまうのだと…。

 ただ一方で、自他が分かれているからこそできる、素晴らしいこともある。
 例えば、「そばにいる」というのも、そのひとつでしょう。

 そばにいるという行為は、すべてが一体となった「ワンネス」の状態では特に必要ないというか、やりようがないことだ。
 バラバラの状態になってはじめて、そばにいることが可能になり、その温もりを感じることができる。


 このブログでしょっちゅう引用している、終末期医療の草分けである精神科医のエリザベス・キューブラー・ロスは、こんな言葉を残している――

 「愛において、人生において、臨終において、そばにいることはすべてである」


 彼女がそのように語るのは、「わたしの最高の師」と生涯にわたって呼び続けた、ある無名の人物との出会いがきっかけだ。
 これは、いくつかの著書に登場するエピソードだけど――

 若き日のキューブラー・ロスが、シカゴの大学病院に勤めていたとき、とても奇妙な出来事に気が付いた。
 病院には、一人の黒人女性が清掃係として働いていた。医師たちからすれば、その女性の名前さえ知らない、単に廊下で姿を見かけるだけの存在だった。

 ところが、その女性が病室の掃除を終えて出ていくたびに――、ベッドにいる瀕死の末期患者たちの表情が、明らかに変化しているのだった。
 もはや治る見込みのない状態なのに、精神的に急に元気になっている様子だった。

 清掃係の女性が、医師のいない病室の中で一体どんなことをしているのか…、キューブラー・ロスは、その秘密を知るためなら100万ドル支払ってもいいくらいに思ったそうだ。


 あるとき、廊下ですれ違いざまに、「私が担当する患者たちに、あなたは何をしているの?」と出し抜けに尋ねてみた。
 ところがその黒人女性は、「私はお掃除をしているだけです」とこわばった声で答えると、即座に立ち去ってしまった。

 50年前の当時のアメリカにおいて、黒人の清掃係が、白人の医学部教授と普通に話をすることの難しさを、スイス出身のキューブラー・ロスは理解してなかったという…。


 それから何週間か後のこと、キューブラー・ロスが一人で廊下を歩いていると、その清掃係の女性にいきなり腕をつかまれて、誰もいない小部屋に連れていかれた。
 そしてそこで、自身の身の上話を聞かされた――

 彼女はかつて、スラム街の劣悪な暮らしの中で子育てをしていたという。
 電気も水道もなく、食べ物も貧しくて粗悪で、医者にかかるなんていうのは特別なぜいたくだった。

 ある冬の夜、3歳の息子が肺炎で重体になってしまった。地元の病院に連れて行ったが、過去に10ドルの未払いがあったために診てもらえなかった。
 彼女はあきらめず、遠い公立病院まで息子を抱きかかえて歩いていった。そこならば、お金のない貧困者でも診てもらえるはずだった。

 その病院で、何時間も絶望的な気持ちになりながら、医者が来るのを待った。しかし、誰も来なかった。
 自分の腕の中で、小さな我が子が死んでいくのを、彼女はただじっと見守るほかなかった…。


 清掃係の女性は、この自らの悲痛な体験を、否定的な言葉を吐かず、人を責めず、皮肉や怒りも表さずに静かに語ったという。キューブラー・ロスは、「なぜそんな話を私にしてくれたの?」と尋ねた。
 すると彼女は、こう続けた――

 「死は私にとって、なじみ深いものなんです。死にそうな患者さんの部屋に入っていくと、すごくおびえていることがよくあります。石のように固くなっているもともあります。話してくれる相手が、誰もいないんです。
 それを見ると、私はついそばに行って、体に触れずにはいられないんです。ときには手を握って、心配することはないと言ってあげるんです。私が死をたくさん見てきたこと、死はそんなに怖いものじゃないと。
 あとはただ、そばいにいてあげるだけです。ときどき逃げ出したくなることもありますが、逃げません。その人のために、そばにいてあげようと、思ってしまうのです」


 このやり取りが、延命のみを至上目的としてきた医療のあり方に、キューブラー・ロスが一石を投じていく(というより全身で体当たりしていく)大きな契機となった。

 それから間もなくしてキューブラー・ロスは、何とこの清掃係の女性を、自分の初めての助手に採用した。
 周りの同僚たちは、あまりに常識はずれな行動に仰天してしまったという…。


 こういう話を聞いてすごいなと思うのは、何も持っていないような人でも、またアクティブな行動を取らなくても、まさしく「最大価値のものを人に与えることができる」という事実でしょう。

 もちろん、このことは「看取る」という特別な場面に限られたものではなく、キューブラー・ロスが語るとおり「愛において、人生において」、実はそれこそがすべてと言えるのかもしれない。
 またそれは、物理的にそばにいるという意味だけではなく、例えば思いを寄せてその人の幸せを願ったり、必要なときに手を差し伸べてあげることなども、「そばにいる」というつながりの現れ方なのだろうと思う。


 一方で人によっては、「あまり他人にかかわられたくない」と考えている人も少なくないはずだ(僕自身もその傾向はけっこうあります)。
 でもそれは、半生を通じた経験則として後付けされたものであって、きっと本当の心の奥深くでは、「そばにいてほしい」と誰もが願っているのではないでしょうか…。

 大胆に言い切るならば、すべては「そばにいる」あるいは「そばにいてもらう」ために、私たちはこうして分離の世界を生きているのではないか、と思うのです。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Dr. Jeffrey Thompson & Silvia Nakkach「Dedication」。
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 自分に身近なものごとで、いつも目に入っているのに、特に気に留めずに過ごしていることってありますよね。

 あるいは、「これはこういうものだ」と勝手に思い込んでいるがために、明白な「事実」を見落としていたりとか…。

 そんなものごとを「実はこうだよ」って示されたときは、誰もが本当に驚く。「えっ、そうだったの! いつも見ていながら、どうして自分は今まで気付かずにいられたのだろう」と。


 スピリチュアルな発見というのは、ほとんどがそういうものなのかも知れないです。
 でも私たちは、自分や周りのあらゆるものごとについて、「だいたいのことは既に知っていて、見れば分かるような簡単なことを、自分が見落としているはずがない」というふうに考えている…。


 では、「すごく身近なことでも、実はこんなことまで見過ごしているのだよ」という一例――。
 知っている人にはもう「使い古しのネタ」だろうけど、そういう人も初めて聞いたときには、意外な驚きを感じただろうと思います。


 それは、コンビニの「セブン・イレブン」のマーク。
 数字の「7」のまん中に、アルファベットで「ELEVEN」と書かれた、あれだ。

 都市部に住んでいる人なら、街にある目立つ看板を毎日目にしているだろう。
 僕もこれまでの何十年の間に、合計で何千回も(あるいは何万回も)見てきたと思う。あのマークを見て、何か気付くことなど全くなかった。

 ところが以前、高校生の息子から、「あのセブン・イレブンのマークの、最後の『n』だけが小文字だって、知ってた?」と聞かれた――。

 皆さんは知ってましたか…
 つまり、「ELEVEN」ではなくて「ELEVEn」と書かれている。
 記事の上にある写真がそうだけど、うそだと思ったら最寄りのセブン・イレブンに行って確かめてみてください。


 でも本当に、これまで何千回、何万回も見ていながら、どうして自分はこのことに一度も気付くことがなかったのか不思議なくらいだ。
 今回初めて知った人は、たぶん同じ気分だと思います…。
 「ぜんぶ大文字で書かれているのが当たり前」という意識で目にしていたから、知覚の接点に触れることさえなかったのでしょう。

 しょっちゅう見かけるコンビニの看板にさえ、気が付かなかった意外な事実が含まれているくらいだから、いわんや、スピリチュアルな真実については――、と言える。


 でも、本当に、昔からあの看板は「ELEVEn」だったのでしょうかね…。
 ここからはSF的な空想だけど――、私たちがいるこの宇宙には、いくつも枝分かれした「パラレル宇宙」が存在するともいわれる。
 何かの拍子で、近くのパラレル宇宙にパッと移行した場合、一見したところ従来の場所とまったく変わらないのだけど、細かな部分に何らかの差異があるそうだ。

 ひよっとしたら、自分はもともとは、「ELEVEN」とちゃんと全部大文字で書かれた宇宙に住んでした。
 ところがここに来て、アセンションに向かうパラレル宇宙へと枝分かれし、自分はその新しい宇宙のほうに移行した。
 その、「古い宇宙」と「新しい宇宙」の細かな違いというのが、実は「ELEVEn」だったとしたら、おかしいですよね…。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Denea「Sundancer for Two Wolves」。
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 俳優にとって一番難しい仕事とは、「実際の自分自身を演じる」ことなのだそうです――。

 その一番難しい仕事を、非常にうまくやってのけたのが、ダスティン・ホフマン主演の映画「クレイマー、クレイマー」でしょう。
 アカデミー賞を5部門受賞したヒット作だけど、もう35年前の作品だから、若い人はあまり知らないですよね…。

 離婚した夫婦が息子の養育権をめぐって争う、不毛な裁判をテーマにしたストーリーで、原題は「Kramer vs. Kramer」。
 「Kramer」というのは主役夫婦の姓で、つまり「原告クレイマーさん(妻) 対 被告クレイマーさん(夫)」という意味だ。


 脇道にそれる話だけど――、僕はこのカタカナのタイトルを見て、「クレイマー」とは「やたらと苦情を言う人」のことだと、ずっと勘違いしていた…。

 夫婦の言い争いというのは、互いに言いたい放題で聞く耳を持たない、まさしく「文句 vs. 文句」の不毛なやり取りでしかないわけだから、「なるほどこのタイトルは実にうまく言い得ているなぁ」と勝手に納得して感心していた。
 でも、苦情を言う人という意味の「クレーマー(Claimer)」って、まったくの和製英語だったんですよね(そもそも綴りの「r」と「l」も違うし)…。


 余談はさておき――、
 この映画は、実話というわけではなくて、小説をもとにした作品だ。映画化にあたり、監督は「主役はもうダスティン・ホフマンしかいない!」と考えて、彼に打診した。

 ところがホフマンは、いっさい乗る気がしなかった。
 何しろこのとき彼自身が、人生で最初の(そして後の人生でも唯一の)離婚のゴタゴタの渦中にあって、精神的に参っていたからだ。
 仕事の中までも、「人生と同じ深刻なトラブル」と向き合うなんて、確かに誰だって「冗談じゃない!」でしょうね…。

 で、その場できっぱり断るために、ホフマンは監督と面会した。
 ところがシナリオをざっと眺めてみると――、そこに描かれている情景というのが、自分が抱えている現実や生の感情とずいぶん違いがある点が気になってしょうがなかった。
 やがて彼は、監督と一緒にホテルにこもって、シナリオを徹底的にリアルなものに練り直し、結局は主演を引き受けることになったそうだ。

 そうしてホフマンは、自らが直面する動揺や混乱、生々しい怒りや憎しみなど、まさに「自分自身を演じる」という最高難易度の仕事をやってのけたわけだ。
 同じ年には90億円をかけたコッポラ監督の「地獄の黙示録」も公開された中で、単なる「小作」のひとつと見られていた「クレイマー、クレイマー」は、世界中で大々的にヒットして高い評価を獲得した。


 で、話は飛躍してしまうけど…

 この「実際の自分自身を演じることが一番難しい」というのを、逆説的に言い換えてみるならば――、
 「演じることが一番難しいものこそが、本当の自分である」、ともいえるだろう。

 スピリチュアル分野では、「あなたは、自分というパーソナリティーを演じている役者なのだ」、というふうにもよく語られる。
 では、演じることが一番難しい役柄って、どういったものでしょう?

 例えば「冷酷な悪役」というのがすぐ思い浮かぶだろうけど…、でも振り返ってみると、過去に誰かに冷たい態度をとってしまい、あとで自己嫌悪を覚えたことなどが、たいていの人にはあるだろう。
 不意にそう振る舞ってしまうくらいだから、もっとそのつもりになれば、悪役というのは案外演じやすいものかもしれない。

 そして、演じるのが難しくないのであれば、それは「本当の自分ではない」ということになるわけだ…。


 演じることが、もう究極的に難しい役とは――、
 それはきっと、「無条件の愛の人」という役、起こるものごとをありのままに受け入れる役、自他をそのまま許す役――、特別な言い方をするならば、「創造主」あるいは「神」としての役なのではないでしょうか。

 私たちは、そのように在りたいと願っても、決してうまくはいかない。
 それもそのはず。それこそが「自らの本当の質」であるがゆえに、思い通りに演じることが極めて難しいのでしょう。

 この一番難しい役を、地上世界というスクリーン上で演じることに、いま私たちはチャレンジしているのだろうと思います!


 ついでに、映画「クレイマー、クレイマー」にまつわる、少々面白い話。

 法廷のシーンで、裁判官の前に「速記者」の女性が座って、無表情にパタパタとタイプを打っている。厳格そうな、太った年配の婦人で、見るからに板に付いた雰囲気を漂わせている。

 実はこの人は、本物の速記者だそうだ。
 その役に適した役者がどうしても見つからなかったため、裁判所の速記者に勤務後も残ってもらい、撮影に協力してもらったのだという。

 撮影の休憩時間に、主演のダスティン・ホフマンは彼女に声をかけ、「あなたは離婚裁判が専門の速記者なのですか?」と尋ねた。
 するとその速記者の女性は、こう語ったそうだ――

 「もともとはそうでした。でも、もう辞めたんです。裁判中に話を聞いているだけで、あまりにもつらすぎるの…。
 今は殺人事件を担当しています。以前の仕事に比べれば、とても気が楽だわ」――


 このエピソードは、DVDの特典映像の一番最後に入っているのだけど、映画の本当のオチはまさにそこなんでしょうね…。

 殺人事件における、ダイレクトな憎悪や狂気や暴力というのは、案外単純なものなのかも知れません。
 一方で、離婚などでよく問題になるのは、「自分がここまで良くしてあげているのに、相手は何も報いてくれないし、そればかりか…」という、まさに「条件付きの愛」の食い違いだろう。
 それが、第三者の速記者までが「つらすぎる」と言うほどの対立と争いを生んでいく。

 この「条件付きの愛」こそ、私たちが超えていかなくてはならない、最も難しいテーマなのだろうなと感じます…。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Lifescapes「Pure Relaxation (Part Four)」。
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 「ハートが傷付く」とか「心がボロボロになる」という経験は、誰もが人生の中で幾度となくあったことでしょう。

 そうしたときには、精神的にひどくふさぎ込み、胸の真ん中にリアルな痛みの感覚も伴う。
 そのため私たちは、「ハートは非常に繊細なもので、ちょっとしたことでも簡単にダメージを受けてしまう」というふうに考えている。

 ところが一方、スピリチュアルの教えの中には、「ハートは傷付くことも壊れることも決してない」と断言しているものが少なくない。
 この点は、自らの「体感的な経験」と、かなり食い違うように思う人も多いはずだ――。


 話が脇にそれるけど、先日知り合いのコンサートに行ったら、「会場にいる皆も一緒に歌う」という場面があった(こういう雰囲気は、実はあまり得意でないです…)
 その歌詞の中に「悲しみに、傷付いて」といったフレーズがあって、その部分を口ずさんでいるときにふと、「この言葉は本当のことだろうか?」という思いが浮かんだ…。

 たとえば、典型的なケースとして――
 「こんな素敵な人は、世界にもう他にいない」というふうに思っている恋愛相手にふられてしまったとする。
 そのときは、暗闇のどん底に突き落とされ、世の中を生きていく意味がすべて失われたように感じる。まさしく「ハートが傷付いてボロボロに壊れた」状態だ。
 そのショックを長年ずっと引きずることもあるし、自ら命を絶ってしまうケースだって現実にある。それくらいハートの傷というのは、持続的で絶対的なものだ…。

 でも、想像しやすい仮定の話だけど――
 後日にもしその相手から、「よく考え直してみたんだけど、やっぱり私にはあなたしかいない。一生ずっとそばにいてほしい!」と逆告白されたり、復縁を請われたりしたならば――、
 当初に失恋したときの傷が直るためには、一体どれくらいの時間がかかるだろうか?…

 「ものすごく深い傷だったから、3年以上は癒えない」なんて考える人は、絶対にいないでしょう。
 その傷は瞬間的に癒えて消えてしまい、そして間違いなく、それまでとまったく逆の「天にも昇る気持ち」になるはずだ。


 体の傷でも、あるいは陶器や家具などのモノに付いた傷でも、それを直すためには一定の時間なり手間が必要だ。深刻な傷であればあるほど、治癒・修復の大変さは増していく。
 もし高級なお皿に傷が付いたとして、でもそれが一瞬にして完全に消せるものであるならば、もはや「傷」とは呼ばないだろう。それは「汚れ」に近いレベルのものだ。

 ハートに付いた傷というのも、実はそういう種類のものかもしれない。


 もっとも、「振られた相手に逆告白される」というのは、かなり異例のことだろう。普通はそういう劇的な状況変化が起こらないから、人はずっと傷付いて悲しみ続ける。
 でも、たとえ異例なことであっても、条件さえ整えば「すぐに癒える」のであれば――、私たちのハートには「すぐに癒える」本質がつねに宿っているのだと言えるでしょう。

 そして、その「すぐに癒える」という性質が、単に外部条件だけによるものではなくて、自ら引き出すことも可能であるとすれば――、ハートは究極的に傷付いたり壊れたりしない、ということになる。


 そうした観点を持ちながら、「ではこの、自らの内に感じる、ハートの痛みというのはいったい何なのか?」をじっと見つめてみる。その奥を、深く探ってみる――。
 これは、人生における最も価値のある「観察」のひとつだろうと思います。



 このブログの過去記事の中から、評判が良かったものをリライトして、『トリニティー』というウェブ誌の中で連載しています。
 その「第10回」の記事をアップしました。以下にリンクをしておきますので、よろしければぜひご覧ください!

 (↓New)
 ・第10回「動かざるマリオ――私を中心に、世界が過ぎ去る」
 ・第9回「世界中の誰とでもつながる、スモールワールドの現実」
 ・第8回「神話の記憶――人が“面白い”と感じる物語」
 ・第7回「桜の花は、冬があるから開花する」
 ・第6回「命の水の話――体内に宿す本源の海」
 ・第5回「高校物理で見る、私たちは『空』であること」
 ・第4回「大和言葉に根付く、日本のスピリチュアリティ」
 ・第3回「家族とは『惑星』のようなもの」
 ・第2回「未来への道筋は、無数に枝分かれしている?」
 ・第1回「ワンネスへ還る旅と、モナーク蝶の大飛行」 


 結びのヒーリング・ミュージックは、Denean「To The Children」 web拍手 by FC2
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 「どれほどつらい時にも、ものごとのいい側面を見ましょう」とうのは、アドバイスに使われる一種の決まり文句のようなものですよね。
 今回は、このことを相当に極端な状況下でやった人の話です――。

 と言っても、僕のおじ(母親の姉の夫)のことなのだけど…、そのおじは、シベリア抑留の経験者だ。

 僕の母親の実家は北海道の十勝で、おじも同郷の人である。
 戦時中、おじはまだ十代のときに軍隊に招集された。
 僕の母親は当時小学生だったけど、その出兵のときの様子をはっきり覚えているという。万歳が斉唱される中、汽車の窓からずっと「おかあさーん、おかあさーん」と泣きさけびながら手を振っていたそうで、その姿を思い出すと今でも涙が出てくると母は言う…。


 おじは大陸に派兵され、そこで終戦を迎えた。そして捕虜となって、シベリアでの強制労働に従事した。

 この世に「生き地獄」というのがあるのなら、シベリア抑留は間違いなくその一つに挙げられるだろう。
 極寒の地での苛烈な労働と飢えによって、約6万人もの日本人がその地で命果てた…。


 ただおじは、十勝のすごく貧しい農家の育ちなので(僕の母親もそうだ…)、マイナス20度以下の寒さに対する、少なからぬ慣れはあったようだ。
 そして、並外れて人懐っこく、ものおじしない性格だった。

 収容所の中でおじは、ソ連兵にことあるごとに話しかけ、そうして片言のロシア語を覚えていった。
 やがてソ連兵の雑談相手になり、食べ物を恵んでもらえることもあったという。

 そうして信頼を得たことで、収容所と近隣の村を行き来する、運搬の仕事などをあてがわれるようになった。
 村に行った際には、仕事の合間を見ては、片言のロシア語を操ってそこの人たちと親しくなり、農作物などを分けてもらった。

 村で調達したものは、さすがに収容所の正面から堂々とは持ち込めなかったので、裏手の塀の外から中へ放り込んだ。
 すると待っていた仲間たちが、「よくやったー!」と歓喜の表情で、投げ込んだ食べ物にわっと群がる。
 人だかりの端のほうから、「おーい、こっちにも投げてくれー!」と両手を挙げて請われる。(まるで、成田山新勝寺で豆まきする横綱である…)

 そのドタバタした様子が何ともおかしくて、そして「これほど人に喜ばれたことは後にも先にもにない」くらい、忘れられない光景だそうだ。


 そうした抑留生活を何年か経たのち、おじは死ぬことなく、北海道の家に「ただいま」と帰ってきた。
 迎えた家族たちは、「よくぞ生きて戻ってくれた。本当に本当に、つらい思いをしたろう」と、感激しながらねぎらった。
 そのとき、おじが口にした言葉というのが――、「あぁ、でも向こうでは、けっこう楽しいこともあった…」
 これには家族が、もうひっくり返るくらい驚いたという。

 当時、日本兵の収容所というのは何百カ所も作られていたから、場所によって環境や対応などに違いもあっただろう。おじはたまたま、「多少は運がいいところ」に送られたのかもしれない。
 それでも、悲惨な体験について語れば、いくらでも話ができるはずだ。
 なのに、「楽しいこともあった」という側面ばかりを思い出して、それについては(聞くほうもあきれるくらい)際限なく話すというから――、これもこれでまた、一つの「人類の可能性」と言えるかもしれないです…。


 後におじは、食品関連の事業でそこそこ成功し、90歳近い今も元気で暮らしている。
 ただ、そのあまりに人懐っこくて開けっぴろげな性格が災いして、住宅の改装など高額な悪質業者にしょっちゅう引っかかってしまうそうだ(当人はそれほど気にしてないらしいですけど)…。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Llewllyn「Excalibur Returned」。
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プロフィル

Koudai Mitsuna

Author:Koudai Mitsuna
 
光奈 広大(みつな・こうだい)

 20年のあまりのサラリーマン生活を経て、いわゆる「ザ・マネーゲーム」を何とか卒業。今では束縛されない自由な日々を存分に味わっています!

 そうした中で心がけているのは、普通の日常的な行いを通じて、意識の進化を目指す「カルマ・ヨガ」。

 日々の喜びや学び、インスピレーションから得たスピリチュアルな気付きなどをブログで紹介しています。

 妻子と都内在住――。





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