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 『ある愛の詩』という、1970年にヒットした恋愛映画があります。

 主人公のオリバーは、大金持ちで代々が名門ハーバード大学出身という家柄の一人息子。
 あるとき彼は図書館で、貧しい移民の音大生のジェニーと出会い、恋に落ちる。

 彼女は卒業後に奨学生としてパリに留学することになったが、オリバーは「行かないで、僕と結婚して!」と告白する。
 だが、あまりに身分の違う結婚に、オリバーの父親は猛反対。「お前には一切の援助をしない」と勘当を言い渡す。
 それでもオリバーは意思を貫き、家を飛び出してジェニーと結ばれる。

 しかし、つましくも幸せな2人の暮らしもつかの間。ジェニーは白血病を患い、わずか25歳の若さで亡くなってしまう…。


 ――というストーリーです。
 「これじゃあ、ひねりも何もない、一昔前の純愛ドラマではないか」と思われるだろうけど、それは仕方ない。まさしく「一昔前の純愛ドラマ」の代表作そのものだから…。


 で、2人の新婚生活が始まって間もないときの場面――、断絶していたオリバーの家から、「父親が60歳になったからぜひ食事に来なさい」という手紙が届く。
 父親を許すことのできないオリバーは、この招待を感情的に拒否。一方で妻のジェニーは、父と子が和解する二度とないチャンスだと考え、わざわざ電話で「残念ながら行けませんが、オリバーも彼なりに、お父様のことを愛しています」と伝える。
 ところが、はたで聞いていたオリバーがこの言葉に激昂。「余計なことをするな!」と彼女を押しのけ、電話を切ってしまう。

 悲しみのあまりジェニーは、外へ飛び出していった。自分のしたことに気がついたオリバーは、彼女を街中探し回る。
 日が暮れて辺りが冷え込んだころ、自宅の前でぽつんと座り込んでいるジェニーの姿をやっと見つける。
 オリバーは彼女のそばに寄り、「I'm sorry(ごめんなさい)」と詫びる。それに対してジェニーは、思いを込めた静かな調子で、この映画の有名な決め台詞を口にする。

 「Love means never having to say you're sorry」


 すごく簡単な単語しかないけど、これを台詞として訳すとなると、相当に難しい…。
 直訳すれば、「愛とは、『ごめんなさい』と言う必要は決してないことを意味する」、ということになる。
 会話調に意訳すれば、「愛しているから、ごめんなんて言わなくていいのよ」といった感じだろうか。

 あえて補足的な長い言葉にしてみるならば――、「人を許すために、相手に謝ってもらう必要なんかない。謝罪などなくても、愛はすべてを許すものだから」、ということなのでしょう。
 よく子供などに「ちゃんと謝ったら許してあげる」と言うけど、そうではなく、「謝らなくても許す」。つまりは、無条件の愛ですね。

 (ちなみに映画の日本語字幕では、「愛とは、決して後悔しないこと」と訳されている。ストーリー全体になぞらえた美しい言葉だけど、この台詞に含まれているメッセージとは、やや違いますね…)


 同じ台詞が、映画のラストシーンでもう一度出てくる。

 ジェニーが難病に冒されている事情を知り、絶縁していたオリバーの父親が駆けつけて来て、「助けになりたい」と言う。しかしそのとき、すでにジェニーは他界してしまっていた。
 父親は息子に、「すまなかった…」と詫びる。

 息子のオリバーはそれをさえぎるように、亡き妻ジェニーに言われたのと同じ言葉を、今度は父親に向けて告げる。
 「愛は、謝ってもらわなくても、すべてを許すものです」と――。


 で、この映画を「若い男女の悲恋の物語」と見ると、単に時代遅れの旧作にしか思えないのだけど…、
 ここであえてスピリチュアルな観点から、「オリバーとジェニーの2人が、実は1つの魂だったならば」、そして「その魂にとっての主テーマが、父と子の関係であったとすれば」という見方をしてみると、なかなか面白い展開として見えてくる。

 つまり――
 その魂にとって、「父親との確執を超えて許す」ということが、今回の生における大きなテーマだった。
 その「許し」は、多くの人類が共通して抱える「カルマの解消」の一つでもある。

 しかし、過去の人たちが踏んできた轍(てつ)や、魂の経験則から見て――、親子間の許しというのは、普通のやり方では簡単に実現し得ない、非常に難しいテーマの一つである。
 それくらい、親子関係に横たわる確執は根強く、かたくなな「条件付け」によって、その解消が生涯にわたり阻まれてしまうのが常である…。


 そこでその魂は、新しいチャレンジのやり方として、自らを2つに分け、男性と女性の2人となって転生した。つまり「ツイン・ソウル(双子の魂)」である。

 地上で互いに巡り合った魂は、男女の仲において「愛は、謝罪がなくても、すべてを許すもの」であることを経験的に伝え合った(同時にその出会いが原因で、父子の関係が断絶する)
 そうした後に、片方の魂は、若くしてこの世を去って行く。

 残された魂は、「愛は、謝罪がなくても、すべてを許すもの」という学びを、今度はそのまま父親との関係にあてはめる。
 そうすることによって、「父親との確執を超えて許す」という困難なカルマ解消が遂げられる――、といった筋書きだ。


 無理にこじつけた話のように感じるかもしれないけど――、でもツイン・ソウルの関係や、この世界での目的って、そういうものではないかなと思う。

 ツイン・ソウルの話って、「どうやって運命の相手と巡り合うか」に興味が向けられがちだけど――、でも本当に魂にとって大事なのは、「巡り合って何をするか」なのでしょう。

 互いに惹かれ合う、あるいはなぜか離れられない双子の魂だからこそ成し得る「何か」があるから、その2人という形で地上に生まれてきたに違いないと思うのです…。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Steven Halpern「Deep Theta Brainwave Entrainment」。

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 僕が住んでいる東京の杉並区に、JR阿佐ヶ谷駅から南北に伸びる「中杉通り」という道がある。
 そこのシンボルは総数270本からなるケヤキ並木で、夏場には鬱蒼と茂る「緑のトンネル」となって通りを覆う。

 で、2年ほど前、そのケヤキの大がかりな剪定が行われた。密集して植えられた街路樹は、そのままではいびつな形に生育してしまうので、樹形を美しくするために必要な作業だそうだ。
 剪定後のケヤキは、まるで寂しい枯れ木みたいな姿になったものの、春が深まるにつれ、枝が落とされたところから新しい小枝が生えて、鮮やかな芽を吹いていた。


 ところが1本だけ、新しい芽がほとんど出ず、枯れ木の姿のままのケヤキがあった。
 素人目で見た限りでは――、命脈が絶たれて死んだも同然の、もはや望みのないような状態だった。
 幹に布が巻かれるなど一応の手当てがされていたが、ひと夏が経過しても、ひょろひょろした小枝がわずかに伸びただけ。「きっと秋のうちに、このケヤキは切り倒されるだろうな」と思って眺めていた…。

 でも切り倒されることなく今年を迎え、そして春になると、このケヤキはかなりまとまった量の新しい枝葉を付けた。
 上の写真は6月ごろにその樹を撮ったものだけど、もう十分に生気を宿している感じですよね。夏の盛りの今は、見るからに「生長を謳歌している」といった雰囲気で、かつて死んだような姿だったのが信じられないほどだ。


 こうした樹の生命力って、本当にすごいなと感心してしまう。
 それと少し似たような話だけど、今年2月に東京で大雪が降り、たくさんの樹が折れたり倒れたりした。

 僕がよくウォーキングしている河川敷でも、桜の樹の大きな枝が、付け根からばっさりと折れているのを見かけた。
 ただ、枝の樹皮の部分だけがかろうじてちぎれずに残っており、文字通り「首の皮一枚」でつながって、落ちずにぶら下がっている状態になっていた。
 でも、何とかくっ付いているとはいえ、誰が見ても疑いなく、あとは寂しく枯れていくのを待つだけという感じだ…。

 ところが、3月下旬に再び目にしたその折れた大きな枝は――、何と、その首の皮一枚でぶら下がった状態のまま、あふれるほどの満開の桜を枝いっぱいに咲かせていた。
 これには、「樹の生気って、ここまですごいんだ」と、感動的に驚いた。


 植物に続いて、次は石の話――。

 僕がよくランニングしている道のかたわらに、岐阜県で産出された「さざれ石」というのが置かれている(区役所が教育目的で色んな岩石を設置している)。
 「君が代」で詠われている、あのさざれ石だ。

sazare.jpg 見たところは、工事現場によく転がっている、じゃりとコンクリートのかたまりにしか見えないけど、れっきとした自然の岩石である。
 さざれ石は、もとはバラバラの岩の破片だったのが、雨水で石灰質が溶け出し、それが粘着物となって長い時間をかけて「ひとつの岩」として固まったものだそうだ。


 岩が風化して崩れるのは分かるものの、逆にバラバラの小石が自然の力で大きな岩になるなんて信じられないようだけど…、現実にあるんですね。
 「君が代」の歌詞は、科学的に嘘ではないわけだ…。

 このさざれ石を見ると、つい靴底で思いっきり蹴りたくなる(僕は実際に蹴った)。くっ付き合っている石がボロッとばらけそうだからだ。
 でも、その程度では絶対にばらけることはない。足の裏がジーンと痛むだけだ。重いハンマーでたたいても、きっと無理だろう。
 それくらい固まり方は強力だし、もはや小石がくっ付いたものではなく、まさしくひとつの岩なのだ。

 こういうのを見て、蹴って感じると、自然の力はやはりすごいなと敬服してしまう…。
  「あなたの魔力は、時が強く切り離してしまったものを、再び一つにするだろう」という、ベートーベン交響曲第9番の有名な歌詞があるけど、何だかそんな感じですね…。


 結びのヒーリング・ミュージックは、Byron M. Davis「Mountain Serenity」。
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 京都の実家にしばらく帰省し、東京に戻ってきました…。

 今回は暇がなかったのだけど、京都に帰ったときはたいてい、ぶらぶら散歩をしている。
 よく歩くのは、のどかな田園風景が広がる北嵯峨から嵐山にかけての小道で、観光ガイドなどで「嵯峨野」と紹介されている辺りだ。

 この一帯が素敵なのは、僕がものごころ付いた幼少期に記憶している景色と、ほぼまったく変わっていないという点である。
 こういうのは京都のすごさだなと思う。自分自身にとっての「原風景」がずっと残されているのは、けっこうぜいたくなことなかもしれない(東京近郊ではまず考えられない…)

 おそらく亡き祖父母の子供時代や、さらにそれより前の世代も、変わらない同じ風景を目にしながら育ったのだろう。
 そうしたいかにも「昔ながらの景観」であることから、このあたりは時代劇のロケによく使われる。


 そしてもう一つ、帰省した際によく立ち寄るところが――、京都市街のど真ん中にある東本願寺だ。

 べつに実家が浄土真宗というわけではないのだけど、このお寺は京都駅から歩いてすぐの好立地にあるので、簡単に足を向けられるのが利点といえる。
 もちろん「駅に近い場所だからお寺が建てられた」という順ではなくて、まずこの地に東本願寺が建立され、それから300年ほどたった後に京都駅が開業した。


 またこの寺は、太っ腹なことに(という言い方は適切じゃないかな…)、拝観料を取らない。
 中心的な建物である「御影堂」は、床面積で世界最大の木造建築物だそうで、中は本当に壮観で厳かな雰囲気に満ち満ちている。
 その畳敷きの大広間にじっと座っていると、内に静謐さが染み透っていく。大都市の真ん中にいるとは思えない、歴史的な異空間である。

 京都に来た人は、東本願寺の前はたいてい通るだろうけど、タダだから中に入ってじっと座ってみるといいと思いますよ。


 そして、このお寺の大通り沿いの壁には、「今、いのちがあなたを生きている」という標語が大きく掲げられている。

 以前のブログ記事でも書いたことがあるけど――、この標語って、たくさんの公衆に向けて伝えるメッセージとしては、なかなか難易度が高いものと言えそうですよね…。
 少なくとも、「世界が平和でありますように」みたいに、誰でもパッと見ただけで「あぁ、そうですよね」と意味が通る言葉ではない。

 ふつうに考えられている人生観や世界観――つまり、個別の「自分」というものが主体として生きていて、その自分が持っている「いのち」を失ったり落としたり奪われたりする――、という観点からは、この標語は何を言いたいのか、意味のとらえようがないかもしれない。
 そもそも「いのちが生きている」とか「あなたを生きている」という言い方が、日本語としておかしいように思えるだろう。


 でも一方で、スピリチュアルなものごとを多少はかじったことのある人にとっては――、生命というものは、それぞれの人の所有物でないことは、明らかなはずだ。

 そしてこの標語が言う「いのち」とは、非個人的であり、人よりもはるかに壮大なものであり――、別の言い方だと「大いなる魂」とか「ワンネスの存在」とも呼ばれる、根源的で永遠不滅のものであると、きっととらえられるだろう。

 そうした、大いなるひとつの「いのち」が今、この自分の肉体や人格を通じて、人生というものを経験している。
 肉体人間としての自分はやがて死ぬ運命だけど、「いのち」そのものはいつまでも生き続ける――。


 さらに踏み込んで言うならば、この標語が言っている「あなた」とは、あくまでも便宜上の呼びかけであって、それは実は本当の「あなた」ではない。
 「あなた」の正体とは――、ほかならぬ、壮大なひとつの「いのち」のほうである。

 ――といった見方に帰結していくのではないかなと思う。もちろん多彩なとらえ方があるだろうけど。
 そうした本質的な問いかけをどんどん誘発していくという点で、この標語はとても力のある言葉ではないかなと感じる。


 そして、こんな言葉が大都市の目抜き通りにドーンと掲げられていること自体、何だかとてもすごいことだなと思いますね…。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Nadama「Gift of Love」。
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 いま、京都の実家に何日か帰省中です。
 この春にも一度帰っているから、年に2度も帰省したのは20年以上ぶりだと思う。80歳になる両親がずっと元気だったので、ほとんど放ったらかしにしていた…。

 ふつう実家にいるときの過ごし方といえば…、散歩したり本を読んだり、時間が来れば3食出てきて、暇をもて余しては年寄りのようにすごく早く寝る、というパターンだった。
 ところが今回はかなり状況が違って、まず母親を病院の「もの忘れ外来」に連れていった。

 母はこの2年くらいで、もの忘れがひどく目に付くようになり、自分で何かしゃべったり行動したその場で、すぐにそのことを忘れてしまう。
 今回も病院に行く前日に、「保険証と診察券はとても大事だから」と、本人がどこかに丁寧にしまったらしいのだが、どこへしまたのかすっかり忘れてしまった…。父親と一緒にいくら探しても出てこない…。
 病院での記憶機能テストの結果も、24点満点中で2点(正常は18点以上)だったから、知能の低下は明らかなレベルだ。


 病院の後は区役所に行って、介護保険サービスなどの手続きをする。
 母が紛失した保険証の再発行も申請しようとしたら、まるで隠し扉のような引き出しの奥から、たまたま無事に発見された…。

 ほかにも、まったく不慣れな分野である医療や介護のことを色々と調べたり、提出書類を書いたり、さらにはうまく動かなくなっていた実家のパソコンの再設定とか、外のペンキ塗りとか、そしてことあるごとに、母の探し物の手伝いとか(さすがに何度も続くと、感情的にいら立ってくる)…、本当に息つく暇もないくらいの忙しさである。
 (実はいま、手続きに来た京都の右京区役所の片隅で、一息入れながらこのブログを書いております)


 僕自身、「主婦業」を3年くらいやって、家事系にはかなり慣れたつもりでいたのだけど、介護の要素がほんのわずか加わるだけで、ここまで格段に大変になるとは…。
 でも世の中、親の要介護度がもっと高い人は大勢いるし、さらには併行して子供が受験の年代だったり、夫のほうは「自分は仕事が忙しくてどうしようもないから、家のことは全部お前に任せる」と言っているケースもものすごく多いはずだ。

 そういう日々を送られている人って、あらためて「本当にすごいな」と感服してしまう。
 そんな人たちがたくさん生きているという現実にちょっと思いを巡らすだけでも、この周りの世界というのもが、自分が認識していたよりも遥かに広く、深く感じられる気がする…。


 母と一緒に病院に行くために、町はずれにあるバス停につながる小道を歩いていたとき、母がぽつりと「この道は幼稚園に通うときに、二人でよう歩いたなぁ…」と口にした。
 よく考えてみれば、二人きりでここを歩くのは、本当にそのとき以来かもしれない。

 そして母は、僕の顔を見るたびに「よう帰ってきてくれた。ほんま助かるし、ありがたくて嬉しいわ」と、お礼を言ってくれる。
 そして、自分がしゃべったことをすぐに忘れてしまうものだから、さっき言ったのと同じ感謝ばかりを、何度も繰り返し口にしている…。

 感謝なんていいから、もうちょっとちゃんとしてくれよ!…、なんて、言えないですよね。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Llewellyn & Juliana「Following You」。

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 ときどき話題にすることだけど、僕はあらゆる本の中でもスピリチュアルなファンタジー物語がとても好きで、ベスト3を挙げれば――

  『アルケミスト』 (パウロ・コエーリョ)
  『モモ』 (ミヒャエル・エンデ)
  『アミ 小さな宇宙人』 (エンリケ・バリオス)


 ――となります。これに次点で『星の王子さま』が入る感じかな。

 こういう話を誰かとすると、「じゃあ、かもめのジョナサンは?」とよく尋ねられる。
 実は僕は、あの物語はそれほど好きではないんです…。


 で、先月くらいに新刊の『かもめのジョナサン 完成版』というのが出たので読んでみた。
 1970年に発表されて、世界で4000万部という超ベストセラーとなったジョナサンの物語は、全3章の構成だった。今回はそれに、本当の結末となる「4章」が加えられたという形だ。

 映画のスター・ウォーズが、当初の3部作から15年以上もたった後に「エピソード1」が作られたときには驚いたけど…、ジョナサンのほうは何と40年という合間を経ての「4章」の登場だから、すごい時間スケールですよね。


 で、僕自身はジョナサンの話があまり好きではないものの、テーマそのものは素敵だと思う――。

 世間一般のカモメたちのように「食べるため」に飛ぶのではなく、主人公のジョナサンは「飛ぶ歓び」のために飛ぶ。
 そして、烏合の衆(という表現も変だけど)みたいな群れから離れ、孤高のカモメとなって飛行技術を磨きつづけ、老師と出会い、自らの限界を突破し、物理的な飛行をも超越した無限の境地へと達する。
 やがてジョナサンは再びカモメの群れに帰り、自らの教えを弟子たちに伝えていく――。


 こうした全体像はいいのだけど、ただどうも僕は、ジョナサンの自らの道に対する「確信」(選民意識と言わないまでも…)のようなものや、また日常生活や世間の関係性と一線を画するあり方に対しては、立派であると認めながらも、自分自身をオーバー・ラップさせる共感があまり感じられない…。

 巻末に作家の五木寛之が解説を書いていたけど、そこには「この作品に対する率直な違和感」がつづられてあった。
 物語そのものの解説というより、「なぜこのような物語が、現代の人々に受け入れられるのか」という社会背景について、遠巻きに分析・解釈しているような雰囲気だ。
 そんな解説部分も含めて、「読んでいて落ち着きの悪い本だな」と、ずっと個人的に思っていた…。


 そういった経緯をへて今回、新たに「4章」が加わった完成版を読んでみたところ、実はけっこう印象が変わり――、「この展開は、なかなかいける! こういう全体ストーリーならば、本当に魅せれられる物語だ」というふうに感じた。

 ミステリー小説ではないので、ちょっとここで踏み込んだ中身まで触れてみると――

 その後、地上を去ったジョナサンが伝えたメッセージは、群れのカモメたちに広く理解され、ひとつの「黄金期」を迎えた。
 しかしやがて、ジョナサンは神格化された伝説となり、教えはどんどん形骸化し、堅苦しくて救いをもたらさない教理にカモメたちは心を閉ざしていく。
 群れの社会はむなしい閉塞感に覆われ、世の中のそんな様相に、まだ大人になっていないカモメたちが疑問を投げかけるようになった。物語ではこう語られている――

 「やがて時とともに、そのような若いカモメが増えていった。硬直化した儀礼を拒み、日常生活のむなしさや悲しみを覚えながらも、少なくとも自らに正直で、今の自分の日々が空しいという事実にまっすぐに向き合えるほどの勇気があったのだ」


 そしてある一羽の若いカモメが、深い疎外感や悲しみと向き合った結果――、鬱状態になるほど追い詰められていき、最後に自ら「死」を選ぼうとする。
 そして、高くに飛び上がり、落下死を遂げようとした瞬間、突然に現れた「それ」と出会う!


 ――といった展開だ。ちなみにこの「4章」は、後年に付け足しで執筆されたわけではなくて、前の章と一緒に最初から書き上げられていたそうだ。
 ところが作者のリチャード・バックは、自分で書いたこの結末を拒絶し、4章を丸ごと削除した形で本にした。今回の「完成版」の序文で、このように打ち明けている。

 「私はこんな物語の結末を信じられなかった。私の考えていたことは3章までで十分語り尽されていた。4章はいらない。喜びを絞殺するような不毛の空や卑しい言葉を、わざわざ印刷する必要はない。
 私はジョナサンの物語にこの結末が必要だとは信じられず、どこかへ置きっぱなしにした」と――。


 でも、今という時代にあっては、まさにこの「4章」こそがとりわけ大きな意味を持つように思えてくる。
 「完成版」にも五木寛之が解説を書いているのだけど、「リチャード・バックという作家は、この部分を書きたくて『かもめのジョナサン』を創ったのだな、と納得するところがあった」と述べている。
 そしてかつての「違和感」とは違って、自身にとっての主題でもある仏教の話をうまく織り交ぜながら、作品が伝えようとしている意味について解説している。


 確かにリチャード・バックが拒絶したように、もしも1970年代に「4章」までを含めた形で本にしていたならば、あまり受け入れられなかったのではないかなと思う…。

 たぶん当時は、人々を突き動かしたり心のすき間を埋めたりするメッセージや神秘が、直接的に求められていた時代だったのだろう。
 そんな中にあって、「メッセージの形骸化」や「神秘を崇めるむなしさ」にたどり着くストーリー展開は、ちょっと行き過ぎといえるかもしれない。


 でも長い歳月を経て、それがもはや行き過ぎではなく、まさに私たちの今に即したテーマになった。
 自分の内にある、むなしさや悲しみに(ときには喜びや至福に!)、まっすぐ向き合うべきときにあるのだと感じる。

 それにしても、40年前に書かれた最終章が、時代変化に合わせ今になって私たちの前に出てくるなんて(その間に五木寛之も仏教史を学んだうえで再び解説を書くなんて)、本当にとてつもなく大きな「はからい」のように思えますよね…。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Kavin Hoo「I.AM」。

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 スピリチュアルな意味でも、あるいは渡世術的な面でも、「世の中のことが分かった」という人がたまにいます。
 僕自身は、そういう気持ちになったことはまずなかったし、そのように語る人の話や感覚を、むしろすぐには信用しないタイプだと思う。
 この世界はいろんな意味で把握不能であり、その仕組みというのは、見たり感じたりできるレベルのものではないはずだ――。

 でも最近、目の前で起こっている世界の、さらに背後にある「成り立ち」みたいなものが、ベールをはぐようにフワッと感じ取れることがたまにあって、自分自身で「あれれっ?」と思う場面がある…。


 つい先日、妻とやり取りしたときもそうだった――。
 それまでずっとパソコンをしていた妻が、急に席から立ち上がるや、僕の目の前に仁王立ちしてこう言った。
 「こうしてあなたと一緒の場所にいることが、もう耐えられない。私はこれまでと違う人生設計を考え直すから、あなたはあなただけの道を考えて!!」

 ふつうの夫婦なら、とんでもなく剣呑な話だけど…、僕の場合は、半年に1回くらい同じ話を聞いている。
 ブログでも何度か書いたけど、妻はかつて重い鬱を患っていた。でも、自分に合った精神科医を見つけて10年近くにわたる通院治療の結果、今では鬱をほぼ克服できている。
 ただ、やはり完治することのない病であるためか、気持ちが不安定なときには、こうして過去のパターンをくり返すことも少なくない…。

 妻は今ちょうど、パートの仕事を変えようとしていて、さらに自分の夢のために勉強を続けてきたことの成果がある程度見えてくるなど、生活の色んな面が転換期にある。ところが、具体的な明るい展望が開けず、新しい仕事探しもなかなかうまく進まない。
 もともと妻は、片付けとか状況整理がかなり苦手な性格なので、ものごとを考えれば考えてゆくほど混乱して、心の中がどんどんと泥沼化していく。
 やがて、自分が苦しまなくてはならない「原因」は、夫のせいであるという考えに至って、きつい態度で僕に当たってくる…。

 それも仕方のないことだと思う。妻にとって、抱えきれないほどに膨張した苦しい感情を、遠慮なく一方的にぶつけることのできる身近な相手というのは、僕以外にいないわけだから…。


 妻は敵意に満ちた目付きで僕のことを見つめ、尽きることがないほどに語り続ける――
 幼少期のひずんだ家庭環境のこと、アルコール依存症の父親のこと、楽しめなかった学生時代のこと…、そうした経験の結果、合わない夫と結婚するに至ったこと、僕が世界の中で最も妻のことを理解していない人間であること、このままでは互いに救われない状態のまま人生を終えなくてはならなこと…

 ――といった内容を、延々と2時間くらい話し続ける。
 かつて僕が現役のサラリーマンだったときは、こんな話に5分たりとも付き合っていられなかった。ほとんど僕に対する被害妄想による言い掛かりである…。
 でも僕は会社を早期退職して3年を過ごし、これまでの色んな経験値もあって、今はひたすらじーっと聞くことができる。

 自分のことを非難する攻撃的な言葉を投げかけられている間も、こちらの感情はほとんどざわめかない。
 僕の立場から反論したいという考えが生じてきても、それに引っかかって口にしたりはしない。ただうなずいたり、あいづちを打つだけである。
 何かアドバイスをしたり、結論を急いでうまく収めようとする内なる衝動さえもやり過ごす。そういうのもまた、「その場の不快さ」や「問題ある状況」から逃れようとする、恐れの表れでしかないから…。


 そんな状態でただ妻の話を聞いているうちに、これまで目にしていたのとは違う「世界の様相」みたいなものが、急にフワッと感じ取れるように思えた。
 それは――、あれこれ言ってくる妻のすぐ奥には、目に見えない「より大きな世界」があり、その「より大きな世界」からの働きによって、妻は腹話術人形のように口を動かしているに過ぎない…、ということだ。

 で、奥にあるその「より大きな世界」というのは何なのかというと――、ほかならぬ僕自身の内面世界である。「潜在意識の世界」と言い換えられるかもしれない。
 私たちの周りには、底知れぬ深い海のような「潜在意識の世界」が広がっていて、その表面のさざ波のように、目に見える「現実世界」が立ち現れている、といったイメージだ。


 そうした壮大な「潜在意識の世界」のもっと向こうには、その全体をすっぽり包み込むほどの「さらなる大きな存在」がある。
 その「さらなる大きな存在」とは――、それが「本当の私」なのだ。

 「本当の私」は、地球上の歴史にあったあらゆる「癒されるべきもの」を内包している。そして、それらを「癒したい」という意思を持っている。
 この「癒したい」という意思を遂行するために、「癒されるべきもの」が現れてくる現実世界を、私たちの目の前にこうして映し出している…。


 ――そんな途方もなく遠大な「世界の様相」が、妻の話を聞いているうちに、自分でも驚くほどありありと感じ取れた。「あぁ、世界ってそうだったんだ…」という理解も生じた。
 そして、すべてを包み込む壮大な「本当の私」を感じながら、妻の鬱憤の奥にある「潜在意識の世界」、すなわち僕自身の内面世界を癒そうと意識を向けた。

 すると急に、妻の態度や言葉が軟化していった。
 僕が手短に一言二言を口にしたら(大した内容ではない)、突然妻は「理解してもらえて良かった。的確なことを言ってもらってとても助かった」と言うと、サッと気分を変えて買い物に出て行った…。


 何とも不思議な展開だけど、何かがうまく働いたのでしょうね。
 こうした世界観というのは、切り口や表現の仕方がさまざまだろうし、僕自身のとらえ方はかなりまだ中途半端かも知れない。
 でも、大事な真実の一端を、観念的な理解から一歩進んで「感じ取れた」という実感がする。


 ただ、ちょっとしんどいのだけど、その2日後にも妻とまた同じやり取りを2時間かけてした。鬱の傾向って、そうして繰り返すんですよね…。
 でももしかしたら、何度も繰り返されることによって、新しい世界への気付きが僕の中で開かれ、定着していくのかもしれない。

 もちろん人によりけりだろうけど、僕にとって妻との関係性のテーマに向き合うことは、滝に打たれたり「警策」でたたかれる以上に、より鋭い作用があるのかなとも思います…。



 結びのヒーリング・ミュージックは、David & Diane Arkenstone「The Angels Voice」。
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 いま、アメリカ先住民(インディアン)の知恵の言葉についての本を読んでいるのだけど、とても面白いですね。

 こうした本を読んでいて、実に不思議に思えてくるのは――、互いの接触がないはずの世界各地の民族や、伝統的な教えなどが、けっこう共通した内容を説いているということだ。


 例えば、私たちがいるこの世界の始まりについて、インドの古くからの教えでは、「オーム」という原初の音(マントラ)から始まったとされている。
 また西洋の聖書には、「はじめに言葉ありき」と記されている。
 で、同じようにアメリカ先住民の言い伝えでは、それが「太鼓」による鼓動なのだ――

 「世界の始まりに太鼓があった。太鼓が世界の鼓動をたたき出したのだ。
 海岸に打ち寄せる波は、いっときも途絶えることなくとどろいている。ゆるやかな移ろいの中で、季節が変わっていく。鳥が渡ってきては、どこかへ去っていく。熊は冬ごもりをする。理由はよくわからないが、しかしすべてが完全なタイミングで行われている。
 自分の心臓の鼓動を感じてごらん。生命の太鼓が正確なリズムを打っている」


 インドの教えも、キリスト教の聖書も、アメリカ先住民の言い伝えも、これはきっと間違いなく、全く同じことを指しているのでしょうね。
 その中でも「鼓動」というのは、自然や自分の内に今も感じられるという点で、なかなか秀逸な言い表し方だなと思います。

 またアメリカ先住民は、宇宙の営みとは「輪」であるというふうにも語っている。こうした観点は、けっこう仏教的な感じがする――

 「宇宙の力が行うことは、すべて円環(サークル)をなしている。
 天空は丸いし、地球や多くの星たちもまた、ボールのように丸い形をしているのだと聞いている。風は全力で吹くとき渦を巻く、鳥は丸い形をした巣を作る。太陽は円を描いて昇り、そして沈んでいく。月も同じだ。そしてどちらも丸い形をしている。季節でさえ変化しながら、大きな円を描いている。そして季節は必ず、元のところに戻って来る。
 私たちの生命も、子供から子供へとつながる円をなしている。こうして円環は、力の働くあらゆるものに見られるのだ」


 さらには、とても瞑想的というか、最近のスピリチュアル的というか、「内側と外側の平和」について説いた、こんな素敵な言葉もあった――

 「いちばん重要な最初の平和は、人の魂の中に生まれる。私たちが、宇宙やすべての力との間につながりや一体感を見いだせたとき、その平和が訪れる。
 宇宙の中心には『大いなる神秘』が住まい、しかもその中心は至るところにあって、それは私たち一人ひとりの内部にも存在する――、と理解したときにな。それこそが『真実の平和』なのだ。
 ほかの平和というのはすべて、この『真実の平和』の似姿にすぎない。
 二番目の平和というのは、人と人の間に生まれるものだ。そして三番目の平和が、部族間に現れる。しかし、人の魂に生まれるものこそが『真実の平和』だ。その平和をまず知っておかない限り、部族間の平和などとうてい実現せぬということを、何よりも理解しなくてはならん」


 そしてこんな、自らの足を使って地上世界の真実について理解したという、とても明快な詩にも感心しました。

俺は大地の果てまで出かけてみた。
俺は水の涸れ果てるところまで出かけてみた。
俺は空がおしまいになるところまで出かけてみた。
俺は山の尽きるところまで出かけてみた。
そして俺は、自分の友でないものなど、ひとつも見なかった――



 もう一つ、興味深く読んだポイントが、キリスト教会の布教活動に対する、彼らの率直な意見だ。
 決してディベートの達人というわけではないのに、自分が感じ取った問題点を、どうしてこんなにも鋭く突くことができるのでしょうね…。

  「兄弟よ、あなたは『神を崇拝するやり方は一つしかない』と言う。だが、一つしか宗教がないのだとしたら、どうしてあなた方白人は、それについてそんなに意見が合わないのだろう? あなた方はみな本を読めるのに、なぜ考えが一致しないのか? 兄弟よ、わしらにはその理由がさっぱり分からない。
 わしらにも宗教はあって、それは先祖にもたらされ、子孫代々伝えられてきた。その道をわしらは崇拝している。その宗教は、神の恩寵に感謝すべきことを教え、互いに愛し合い、ひとつに結び付きなさいと教えている。わしらは、宗教のことで争いなど起こさない」

 「あなたがたの神は冷酷で、決して全能なんかじゃないみたいだ。なぜなら、あなたはいつも『悪魔』のことや、人が死後に行く『地獄』の話ばかりをしているからだ。
 わしらの教えには悪魔なんてないし、死後に行く霊界には地獄などない。わしらは改宗なんかしないことにする。自分の神と自分の宗教に付いて行くことにするよ。あなたの宗教より、わしらの宗教のほうが、ずっと『幸せ』になれそうだからな」――

 こうした言葉を読むと、彼らが太古から見据えていた「在り方」というのは、近代社会が目指すものよりも、実はずっと進んでいるようにも思えてきますよね…。



 このブログの過去記事の中から、評判が良かったものをリライトして、『トリニティー』というウェブ誌の中で連載しています。
 その「第11回」の記事をアップしました。以下にリンクをしておきますので、よろしければぜひご覧ください!

 (↓New)
 ・第11回「『地球』の大きさと、『赤ちゃん』の大きさ」
 ・第10回「動かざるマリオ――私を中心に、世界が過ぎ去る」
 ・第9回「世界中の誰とでもつながる、スモールワールドの現実」
 ・第8回「神話の記憶――人が“面白い”と感じる物語」
 ・第7回「桜の花は、冬があるから開花する」
 ・第6回「命の水の話――体内に宿す本源の海」
 ・第5回「高校物理で見る、私たちは『空』であること」
 ・第4回「大和言葉に根付く、日本のスピリチュアリティ」
 ・第3回「家族とは『惑星』のようなもの」
 ・第2回「未来への道筋は、無数に枝分かれしている?」
 ・第1回「ワンネスへ還る旅と、モナーク蝶の大飛行」 


 結びのヒーリング・ミュージックは、Peter Kater & Dominic Miller「In A Dream "Hand in Hand"」。
  ☞ コメント:14

 


 僕はふだんテレビを見ないし、映画のビデオも見る機会が少ないほうだけど――、以前から見ようと思いつつ見ていなかったイタリア映画『ライフ・イズ・ビューティフル』をレンタル店で借りました。

 せっかくだから別にもう1本と思い、特にあてもなく棚を見まわした結果、近くにあった『M.A.S.H』という40年以上前のアメリカのブラック・コメディー映画も借りた(学生時代に安い2本立てで見た記憶があって、少々なつかしかったので)
 どちらも「喜劇仕立ての戦争映画」という共通点はあるものの、自分で選んでおきながら「何だか妙な取り合わせだなぁ…」と思っていた。


 で、前回のこのブログ記事でニール・ドナルド・ウォルシュ著の『神との友情』について書いたけど、その本を手に取ってパッと開いたら、「神」が人の悲しみと笑について語っている箇所が出てきた。
 そこで何とウォルシュが、「ドラマの『M.A.S.H』にもそうした笑いがありましたね、最近は『ライフ・イズ・ビューティフル』という素晴らしい映画がありました」と言っているのが目に飛び込んできた…。
 メッセージ性のあるシンクロというわけではないだろうけど、たまたまの一致に驚かされますよね。


 『ライフ・イズ・ビューティフル』は、さすが世界で高評価の作品だけあって、本当に素敵な内容でした!
 「ユダヤ人強制収容所に送られた家族」という、喜劇タッチで描くには対極に位置するようなテーマに挑み、この描き方でしか描けない面白さと美しさを生み出していると思う。

 特に、前半の底抜けにハッピーな恋愛コメディーから、突然に暗雲が立ち込めるように、陰鬱な戦争の時勢へと入っていく急転換は、見ていてとてもつらい気持ちになる。

 最近のYouTubeで、幸せだった少女の人生が戦争によって変わり果ててゆくことを描いた、わずか1分間ほどの動画が話題になったけど(以下にリンクしておきます↓)、まさに戦争とはそんなふうに忍び寄ってくるものなのでしょう…。
 http://youtu.be/RBQ-IoHfimQ


 『ライフ・イズ・ビューティフル』のいちばん大きな魅力は、逃れられない絶望さえも希望に変えていく、主人公のユーモアの力だ。
 ただ一方で、「凄惨な強制収容所の中に、ユーモアなんてあるわけないじゃないか!」というのが、この映画が最も批判されるポイントでもあるだろう。もちろんフィクションのお話しだから仕方ないけど、僕自身も「そもそも無理があるような…」というふうにも感じていた。

 ところが――、
ユダヤ人強制収容所での生々しい実体験を記したヴィクトール・E・フランクルの『夜と霧』を見ると、その中に何と「収容所のユーモア」という項目がちゃんとある。
 著者のフランクルはこう述べている――

 「収容所暮らしにユーモアがあったと言えば、とても驚かれるだろう。
 気心の知れた仲間たちと強制労働をしていたとき、私はその仲間に、義務として毎日最低ひとつは笑い話を作ろうと提案した。
 ユーモアは、自分を見失わないための魂の武器だ。ほんの数秒間でも周囲から距離をとり、状況に打ちひしがれないために、人間という存在に備わっている何かなのだ」


 痛々しい話だけど、なるほどですよね…。
 ユーモアというものは、生きる楽しみのプラス・アルファとして私たちのマインドに後付けされたものではなくて、魂の根本に最初から備わっているものであると…。

 もうひとつ、絶望の状況下のユーモアについて、アメリカ先住民族が語ったこんな言葉もあります――

 「ユーモアというものが、どこからやって来るかは知らないが、たぶんこの世で最悪の状況というのが、ユーモアのやってくる場所だろう。
 人はそこにいると、笑うことさえできなくなる。しかし、それにもかかわらず、私たちの内部にある『善いもの』は、いつでもどこでも吹き出してくるのだろう」


 このように語られている通り、「ユーモア」や「笑い」「喜び」の根源というのは、本当に私たちの内面のいちばん奥深くに存在するのでしょう。
 それは、周りが猛烈な風雨の中にあっても、絶対に消えることがないように保護されている「不滅の種火」のようなものだ。
 そしてその種火から、どんなときであっても「喜び」の炎を吹き出させることが可能ということだ――。

 これほど強靭な「喜び」の源が、自分の内側に備わっているという真実を想像するだけでも、本当に素晴らしいことだなと思えてきますよね。
 そんな、ふだん私たち自身があまり知る機会のない本質を、喜劇という表現によってクローズアップしているとすれば、『ライフ・イズ・ビューティフル』の着想と手法はすごいものだなと感じる。


 ちなみに、「ライフ・イズ・ビューティフル」という単純極まりないタイトルは、独裁者スターリンの指図で暗殺されたロシアの革命家トロツキーが残した「どんな状況下でも、人生は生きるに値するほど美しい」という言葉にちなんでいるそうだ。

 だから、映画前半の明るい恋愛物語も「ライフ・イズ・ビューティフル」。そして、悲惨な強制収容所の中にあってもなお「ライフ・イズ・ビューティフル」ということなのでしょう…。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Kavin Hoo「Foggy Days in Grindelwald」。
  ☞ コメント:28

 


プロフィル

Koudai Mitsuna

Author:Koudai Mitsuna
 
光奈 広大(みつな・こうだい)

 20年のあまりのサラリーマン生活を経て、いわゆる「ザ・マネーゲーム」を何とか卒業。今では束縛されない自由な日々を存分に味わっています!

 そうした中で心がけているのは、普通の日常的な行いを通じて、意識の進化を目指す「カルマ・ヨガ」。

 日々の喜びや学び、インスピレーションから得たスピリチュアルな気付きなどをブログで紹介しています。

 妻子と都内在住――。

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