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 前回の記事で『ピダハン―言語本能を超える文化と世界観』(ダニエル・L・エヴェレット著)という本について紹介しましたが、その続きです。

 アメリカ人の伝道師で言語学者である著者のダニエルは、南米アマゾンの奥地に住む「ピダハン」という少数民族の村を訪れた。彼の目的は、現地人たちの言語をマスターして、その言葉で聖書の教えを伝えることだった。

 「ピダハン語」は、現存する他のどの言語とも類縁関係がないという、極めて珍しい言語だ。
 「数字」や「色」を示す単語が存在せず、さらには「過去」や「未来」を言い表す言葉もない。

 そしてさらに驚くべきとこが、ピダハンたちの考えや生き方だ――
 彼らは、過去の出来事にこだわり続けたり、未来のことを心配したりすることがなく、つねに「今」だけに着目して、一日一日を本当に幸せな笑顔で生きていた。
 ダニエルは、30年以上にわたりピダハンと共に暮らす中で、彼らの生き方への敬意が年々膨れ上がっていった。そして、とうとう自らの「脱信仰」を決意する…


 ――という話でした。
 過去や未来にとらわれず「いま」に生きることの大切さは、さまざまな覚者たちが強調してきた人生の要点であり、そして私たち現代人にとって「容易にはなし得ないテーマ」でもある。
 まさしくそのことを、アマゾン奥地の少数民族たちが実践しているという事実は、かなり驚異的なことだといえるだろう。


 「いま」に生きることのほかにも、ピダハンの考え方などには、スピリチュアルな面から興味深いところがいくつもある。

 たとえば、著者のダニエルは、ピダハンのこんな特徴的な言い回しについて記している――

 「誰かが来り去ったりするたびに、ピダハンたちは『誰々が現れた』『誰々は消えた』といった発言をくり返す。
 このときピダハンの関心を引いているのは、『出現』したり『消失』したりすること自体であって、『その人物』ではないのだ。これは、英語にはぴったり当てはまる表現のない概念といえる」

 「もちろん英語でも、『ジョンは消えた』とか『ビリーはたったいま現れた』という言い方をすることはできる。だが、ここが肝心なのだが――、英語圏の話し手は、現れたり去って行ったりする“人物”の方に焦点を当てている。
 これに対しピダハンの場合は、『誰々が私の知覚の範囲に現れた』とか『そこから消えた』という“事実”そのものに着目しているのだ」――


 禅などの教えでは、私たちの「気づき」や「意識」というのは、あらゆるものに先だって存在するものだと言われる。

 つまり、たとえば窓の外から鳥の鳴き声が聞こえてくるとき――
 鳥という存在が外にいて、それとは別に自分という人もいて、その自分が鳥の鳴き声を聞いている、という図式ではなくて…、
 まず最初に、自分自身の「意識」が広大なスクリーンのように広がっていて、その意識のスクリーン上に鳥の鳴き声が現れてくる、といったとらえ方だ。

 これは社会常識的な観点としては、なかなか実感しにくいものだけど、ピダハンはそれに近い感覚で世界をとらえて言い表しているのではないか…、とも思えてくる。


 ほかにも、この少数民族のとても特徴的なところが――、世界のどの民族も持っている口承の歴史物語や神話がない、という点だ。
 ピダハンが口にする物語には、「現存する目撃者のいない出来事」は含まれてない。つまり、彼らの話には、誰が本当に見たのかという「実証」を要求する。
 (そのため、伝道師である著者が伝えようとした遥か昔のイエスの物語に、ピダハンたちはぜんぜん関心を持たなかった…)

 とは言え、彼らはもちろん唯物論者というわけではなくて、超自然的な出来事を信じている。
 本の中には、こんなエピソードがある。ある朝に、何人もの村人たちが外に出て川辺をじっと見つめ、「あそこに精霊が立っている!」と指をさして言っているのに、著者のダニエルとその家族にはまったく何も見えなかったそうだ。

 ふつう私たちにとっては、空想や宗教の領域でしかない精霊の存在や信仰について、彼らは目に見える「直接体験」として扱うことができるわけだ…。
 こうした神秘的な感覚についてダニエルは肯定的で、「超自然との接触は世界中で報告されている。霊魂などは存在しないと信じる人間にとっては、それが見えると言うのはばかげているが、それもひとつの見方にすぎないのだ」と述べている。


 さらには――、これは社会道徳的なことだけど、ピダハンの社会ではどんな場合も「暴力」が容認されることはないのだという。

 その姿勢は徹底していて、子育てにも「体罰」などはいっさい介在しない。
 一方で、西洋社会の厳格な子育て観を持っていたダニエルは、「むちを惜しむと子供をだめにする」という考えで、あるとき自分の小さな娘にしつけのためのお仕置きをしようとした。
 すると、ダニエルが声を荒げて子供が泣き叫ぶのを村人たちが聞き付けて集まってきて、「一体全体、お前は何をしようとするのか」と、信じられないものを見る眼差しで尋ねられたという。
 ダニエルは答える言葉もなく、「自分よりもピダハンの姿勢のほうがはるかに健全だと確信するようになった」という。


 また、奥深いジャングルの少数民族であるピダハンは、人々の結び付きや集団意識がいたって強い。
 にもかかわらず、興味深いことに――、村人に対して「集団としての強制力」が働くことはまずないという。

 他者に対して何かを命じるのは、親子間であってもまれだ。
 ときには指図がましいことをする者はいるものの、周りで見ている村人は、言葉やしぐさや表情で、「感心しない」ことを態度として示すのだそうだ。


 ピダハンたちは、もの静かな聖人のように振る舞っているわけでは決してない。若者たちは、騒ぎながら悪ふざけもする。
 ところがダニエルは、そうした若者たちの心の中にも、私たちの現代社会との大きな違いを見いだす――

 「10代の破天荒さは万国共通のようだ。だが、ピダハンの若者からは、青春の苦悩も憂鬱も不安もうかがえない。彼らは答えを探しているようには見えない。答えはもうあるのだ。新たな疑問が投げかけられることもほとんどない」


 文明社会に暮らす私たちからすれば、ピダハンはまさに「未開の人々」と呼べる存在だけど…、私たちと彼らと、果たしてどちらの文化が進んでいるといえるだろうか。
 ピダハンの生き方に触れて人生が覆ったダニエルは、一つの問いを投げかける――

 「こんな見方もできる。西洋人であるわれわれが抱えている『不安』こそ、実は文化を原始的にしているとは言えないだろうか。そういう不安のない文化こそ、洗練の極みにあるとは言えないなだろうか。
 もしその見方が正しいとすれば、ピダハンこそ洗練された人々だ。こじつけがましく聞こえるかもしれないが、どうか考えてみてほしい」――


 ニール・ドナルド・ウォルシュの『神との対話』の本の3巻目に、地球から遥か遠い星に生きる「高度に発達した存在(HEB)」の話が出ている。
 そのHEBたちには「心配」という概念がなく、また他者と比べた「嫉妬」や、外部から押し付けられる「恥」や「罪悪感」を抱くこともない。
 さらに彼らの暮らしには「所有する」という文化がなく、自他のすべてが一体であり、そして自分たちの本質が永遠であることを知っている。

 本の中で「神」は私たちに対して、「後退と進歩を取り違えているのは、原始的な社会の特徴だ」と、手厳しく指摘している――。


 もちろん、ピダハンの文化のほうが私たちよりも進化したものだと言い切るつもりはないけれど…
 でも、過去や未来にとらわれず「いま」だけに着目する彼らの生き方とか、周りの世界を見るときのとらえ方とか、自らの価値意識を相手に押し付けない姿勢とか――
 「人は、それを当たり前として生きることが、現に可能なのだ」ということを私たちに示す、実在する証であることは、十分に言えると思います!


 結びのヒーリング・ミュージックは、Medwyn Goodall「Rose Quartz」。

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 へぇー、広い世界にはこんな不思議な先住民族が実在して、その地を訪れて人生がこれほど劇的に変わった人がいるのだな…、と感心させられる本を読みました。

 『ピダハン――言語本能を超える文化と世界観』という本で、著者はアメリカ人の伝道師で言語学者であるダニエル・L・エヴェレットという人だ。

 彼の使命は、南米アマゾンの奥地に住む「ピダハン」と呼ばれる少数民族の村に赴き、彼らの言語をいちからマスターし、そして彼らの言葉で聖書の教えを伝えることだった。
 ダニエルは、30年以上にわたって現地を行き来しながら、アメリカ人の妻と3人の子供と一緒にピダハンの村で暮らした。


 未開のジャングルでの暮らしは、もちろん困難を極めるものだ。
 ピダハンたちは、何千年前からほぼ変わらない狩猟採取生活をいとなんでいる。近くに医師もいないため、西洋医学で治せるような病気で死んでしまうことも少なくない。
 電気をはじめ、文明的な物資とはまったく無縁だ。森にはどう猛なジャガーや、毒ヘビ、タランチュラ、川には巨大なワニやピラニアなど危険な生き物が多く生息している。
 著者ダニエルの妻と幼い子供がマラリアに感染し、命の危機に瀕する事態もあった。

 そうした困難の中でもダニエルは、持ち前の語学力と熱意で「ピダハン語」を着実に身に付けていき、生き生きとしたやり取りをしながら村の暮らしに溶け込んでいく――。


 で、その「ピダハン語」というのは、現存するどの言語とも類縁関係がない、世界できわめて特異な言葉なのだという。

 まず「数字」というものがない。
 ジャングルの自然にあるものを狩猟採取する彼らの生活には、いちいち正確に数えたり計算する必要がないからだ。
 また「色」を示す単語もない。色について表現するときは、赤いものは「それは血」とか、緑のものは「いまは未熟」といった句によって言い表す(何だかソムリエみたいですよね…)。


 そして、とりわけ驚異的なのが――、なんと彼らの言語には「現在形」しか存在せず、過去や未来を表す言葉がないのだ…。

 英語にも日本語にも、世界中のほぼあらゆる言語には、過去形や未来形がある。私たちのほとんどは、過去や未来のことに(現在よりも)高い関心を持ち、それを時制にのっとった言葉で互いに伝え合っている。
 ところがピダハンたちは、そもそも過去や未来について言及することが、まずないのだという。

 ダニエルは、ピダハンの暮らしや考え方に触れているうちに、彼らの人生観・世界観そのものが、この言語的な特徴として現れていることが分かってきたという。ダニエルはこう説明する――

 「ピダハンは未来を描くよりも、一日一日をあるがままに楽しむ傾向にある。
 彼らは食料を保存しない。その日より先の計画は立てない。遠い将来や昔のことは話さない。いつも『いま』に着目して、直接的な体験だけに集中しているのだ」


 過去や未来ではなく「いま」だけに着目する生き方は、私たちにとても身近なある単語の存在を不要なものとした。
 ナポレオンの辞書には「不可能」の文字がないけれど、ピダハンの言語には何と「心配」という言葉が存在しないのだ…。

 そして彼らは、どの顔も笑みに彩られ、ふくれ面やふさぎ込んでいる表情をしている者は一人もいないのだという。そんな人々の様子を、ダニエルはこう語っている――

 「私はピダハンが『心配だ』というのを聞いたことがない。ピダハン語には『心配する』に対応する語彙がない。
 村に来たマサチューセッツ工科大学の脳科学研究グループは、『ピダハンはこれまで出会った中で、いちばん幸せそうな人々だ』と評していた。さらに、『もしピダハンが笑っている平均時間と、アメリカなど他の社会の人々が笑っている平均時間を比較したならば、ピダハンが圧勝だろう』とも述べていた」

 「私自身も、過去30年あまりでアマゾンに居住する20以上の集団を調査したが、これほど幸せそうな様子を示していたのはピダハンだけだった。ほかの多くの集団は、むっつりとして、引きこもりがちだった。
 そして、自分たちの自立した文化を守りたいのと同時に、外の世界の便利な品物を手にしたいという欲望に引き裂かれていた。ところがピダハンにはそうした葛藤がない」


 こう言うと、ピダハンたちの村はまるでユートピアのみたいな雰囲気だけど…、前述のとおり、ジャングルの暮らしはまさしく「死と隣り合わせ」といっても過言ではない。ダニエルは、彼らとの触れ合いを通じて、こんなふうにも説明する――

 「彼らは死に無頓着というわけではない。家族が病気で死にかけている人の顔に刻まれた苦悩と心痛は、ほかの何ものにも劣らず深いものだった」

 「確かにピダハンは、請求書の支払い期日を気にする必要はない。子供の進学の悩みとも無縁だ。
 だが彼らには、命を脅かす疾病の不安がある。性愛の関係もある。家族のために、毎日食料を調達しなければならない。乳幼児の死亡率は高い。あたりでは危険な生き物に頻繁に遭遇する。彼らの土地を冒そうとする侵入者の暴力にもさらされている。
 しかし、私と彼らとの違いは――、私は慌てふためくが、彼らは決して慌てふためかないということだ」


 こうした過酷な苦しみと、日々笑顔で共存できているのは、まさに「いま」に着目しているからだとダニエルは言う――

 「ピダハンは心配ごとにとらわれず生きている。なぜなら一度に一日ずつ生きることの大切さを独自に発見しているからだ。
 ピダハンの生き方は、単純に『目を凝らす範囲をごく直近に絞った』というだけだ。だが、そのほんのわずかなことで、不安や恐れや絶望といった、西洋社会を席巻している災厄のほとんどを取り除いてしまっているのだ」――


 ダニエルの使命は、キリスト教の伝道にあった。

 地上の隅々の人たちにまで聖書を届け、無意味な生き方をやめて目的ある生き方を選ぶことを、絶望と恐怖ではなく喜びと信仰に満ちた人生を選ぶことを、地獄ではなく天国を選ぶことを伝えることが、彼の人生を貫く目的だった。

 そのためにダニエルは神学校を首席で卒業し、数々の地での説話や救済活動に取り組み、無神論者や不可知論者を論破してきた。
 そうして伝道師として卓抜の能力と、並みならぬ使命感をもって、アマゾンの奥地までやって来た。


 ところが――、ピダハンたちは何ひとつ迷っていなかった。救いを求める必要も感じていなかった。
 「いま」に生き、幸せで満ち足りた人々に、「あなた方は迷える子羊であり、救いもたらすイエスを必要としている」と得心させることは不可能だった。

 同時にダニエルの中では、ピダハンに対する敬意が年々膨れ上がっていった。彼らの考えや文化に、目を見張ることが数えきれないほどあった。
 そしてダニエルは、信仰というものの本質を真剣に問い続けた結果、とうとう「脱信仰」を決断した。敬虔なクリスチャンである妻子は彼のもとを去ってしまい、家族は崩壊することになった…。


 ダニエルは、自らの心に響き続けた言葉として、殉教者のジム・エリオットのこんな一文を本の最後に記している。
 「失うことができないものを得るために、自分が持ちきれないものを差し出す者は、愚かではない」――

 もちろんジム・エリオットがここで伝えたいのは、「持ち続けられない『この世界のもの』をすべて差し出すことは、失われることのない『天国に住まうこと』に比べれば、ささやかな代償にすぎないという、信仰者としての信念だ。


 だが、この言葉をもとに何とダニエルは、持ちきれなくなった「自分の信仰」のほうを手放した。最も大切な「失うことのできないもの」を得るために…。

 その、彼が得た「失うことのできないもの」というのは――、自らの真の精神的な自由――、すなわち、自分の内なる理性でなく、外の常識や権威に従うことからの「自由」であると、ダニエルは語っている。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Llewellyn「Silver Stream」。

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 スコットランドの独立は成立しなかったけど――、でもイギリスほどの大国からの分離が、あのたった1回の住民投票だけで「即決」できてしまうという事実に、すごく意外な驚きを感じさせられましたよね。
 国に対する地域の帰属というのは、実に希薄なものであることに気付かされたというか…。このテーマは、これからの世界の中で、どんどん濃厚な問題となっていくに違いないでしょう。

 将来、もし「ひとつの世界」というのが実現していくならば――、まず既存の枠組みの中から抜け落ちていく部分が出てきたり、あるいは新しいあり方を志向するところが疎外されて孤立化してしまうといった状況も、プロセスとして起こるだろうと思う。


 ところで――
 地球人類の意識の変容や、新しい世の中のあり方というのが、実は日本から始まっていくのではないか、という見方をする人が、国内だけでなく海外にもいます。

 この地が特別なエネルギー・スポットだからとか、日本列島のそれぞれの島の形が「世界の縮図」を意味しているからといった説はどうだか分からないけれど…
 でも、日本人の気質や社会が、世界に先んじて変化していくことに「向いている」というのは、確かにあるのではないかなと思う。


 その理由のひとつが――、日本人は「一挙に大移動できる」という特質を持っている点だ。

 よく、日本人は保守的で変化への行動力が鈍いとも指摘されるけど、必ずしもそうではない。
 日本人の動き方は、「バファロー型」とも表現される。普段は、いつも同じ場所でのんびりと草をはむバファローの群れのように、素早く動きそうな気配がほとんどない。
 ところが、新しい餌場を求めて動くべきときになると、ものすごい勢いで一斉に群れごとドドーっと大移動する。

 大きな例では、明治維新や終戦を境にした価値転換はまさにそうだと言える。
 日常的にはこの特質が「横並び主義」として現れてしまうけど、過去からのあり方を根底から覆すほどの変化にあたっては、むしろプラスに作用するに違いない。

 もともと「あきらめがいい」性格であることも、大転換に向いた国民性といえる。


 もう一つ、日本には意外に「多様性」を好んで受け入れる文化が根付いている。
 日本人が横並び主義なのは、島国で単一民族だからだと言われるけど、最近のDNA分析によると、日本人の遺伝子は世界でも珍しいほど多様性に富むそうだ。
 というのも、日本はアジアの端っこに位置しているため、南北のルートから色んな異なる民族が渡来してきて、遺伝子がごちゃ混ぜになっていったという経緯がある。

 そうした、遺伝情報の多彩さが根っこにあるためか…、
 たとえば「苗字」の種類の多さは、日本は何と29万と世界一である(アメリカなど移民国は除いて)。次いで多いフィンランドが3万だから、もうダントツだ。
 またポケモンやウルトラマンの怪獣など、日本のアニメ作品などはキャラクターの数がやたらと多い。ちなみにギネスブックが認定する「世界で最もキャラクターが多いアニメ」はアンパンマンで、その数は1800種類に上る。

 そして最も極め付けなことでは、「神様」についても、日本は「八百万(やおよろず)の神」の国である…。


 日本の社会は、身近なところでは人と違うことを嫌い、「出る杭は打たれる」という側面が確かに強いけれど――、一方で相当に大きなテーマ、たとえば「政治信条」とか「宗教観」、そして「神仏の存在」については、ほとんどこだわりないくらい、雑多な考え方を認める。
 無宗教・無神論は日本ではごく普通だけど、海外の人たちから見れば理解しがたいほど特異なことである。

 だから、「神」や「魂」「生命」など根幹的なテーマについてのまったく新しい考え方についても(西洋や中東の社会では迫害されてしまうような内容でも)――、日本では特に問題なく「たくさんある中の一つ」として気に入ったものがチョイスされ、それが広まっていくことも十分にあり得るだろう…。


 十数年前にベストセラーになった、政治学者サミュエル・P・ハティントン著の『文明の衝突』という本の中で、日本は「一国のみで一文明を担う、唯一の国」であり、将来的には世界の中で孤立化していくだろうということが予測されていた。

 でもその半面で、「孤立化できるほど変わっている」からこそ、これまでにない観点を先んじて受け入れて、実際に変化を遂げていくことが可能なのかなとも思う。


 そして一時的には、世界の中で浮いた「ローカル文明における変化」であったとしても――、1億人という人口を擁する経済規模3位の大国の変化は、世界が見過ごせるものではないだろう。
 そんな、日本でまず始まった変容が、やがて世界へと広まっていくという図式は、これから十分に考えられることではないでしょうか…。



 結びのヒーリング・ミュージックは、The Echelon Effect 「Tracking Aeroplanes」。


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 私たち脳では、自分自身でも気付かないものすごい機能が、日常的に使われています――

 たとえば、下の文章を読んでみてください。
 数年前にネットで広まったものなので、知っている人も多いだろうけど、あまり凝視せずに、ササッと流し読みするのがポイントです。



 ――けっこうスルスルと読めてしまったのではないでしょうか。
 でも実は、書かれている内容の通りで、文字の並びがめちゃくちゃなのだ…。

 たいていの人は「ああ、読んでいて気づいたよ。何カ所か書き方が変だったよね」と言うだろうけど、その程度ではない。
 文中には、4文字以上の語句が全部で26個あるのだけど、それらのどれ一つとして正しく書かれていない。
 つまり、じっくり一文字ずつ追って考えていたら、まともに意味が通らないくらい、でたらめなのだ。


 にもかかわらず、私たちの脳では、字を読み込む一瞬のうちに「補正プログラム」が作動して、ちゃんと書かれた語句の形で認識できてしまう。
 考え方によっては、「人は目に見える事実ではなく、脳のフィルターを通して、勝手に曲解しながらものごとを認識している」というふうにも言えるだろうけれど…、でも、なかなかものすごい高機能ですよね。


 ただし、この機能がとても厄介になるときがある。それは、ほかならぬ、文字の「校正」をしているときだ。
 誤字などがあっても、脳がそれを補正しながら問題なく読めてしまうものだから、書き間違いになかなか気付けない…。

 ならば、根を詰めて一文字ずつ集中して校正すればよいのだけど――、それを何度繰り返しても、たいていは見落としが残ってしまう。

 僕は実はかつてマスコミ会社に勤務していたため、校正は日常茶飯な業務の一つだった。
 最終段階の校正では、どんな忙しいときにもなるべくリラックスした頭の状態を作り、そうして全体を眺めるように遠巻きな感じで読んだりしていた。
 そうすると、それまでさんざん注意して見ていたときには気付けなかったミスを、発見することがあった。


 社内には「校正の神様」とも呼ばれる、年配の社員もいた。
 夜遅くの仕事になると、晩ご飯を食べてビールを飲んで、それから校正の続きをする。(銀行とかでそんな勤務態度だったらたぶんクビだろうけど…、それは業種の違いといえる)

 その年配社員はさらに、周りにいる人たちと雑談もしながら校正するのだけど――、突然に「おやっ、ここは何かおかしいんじゃないか!?… ちょっとこの担当を呼んできてくれ!」と大声で指示をする。
 しばらくすると、その担当者がすっ飛んできて、「その通りでした。調べてみたら確かに間違いでした。よく気付いていただけました!」とお礼を述べることがたびたびあった。

 しかもその「校正の神様」が発見する間違いというのは、誤字とか前後関係から気付けるようなうっかりミスではなく――、詳しい専門家でも見落とすくらいの難易度で、かつ致命的なものなのである…。

 どうしてそんな難しい間違いに、直感的に気付けるのか?――
 その年配社員が言うには、「自分でも不思議なのだけど、記述がおかしな部分が、何ともいえない違和感をもって、まるでそこだけが全体から浮かび上がって見える」のだそうだ…。
 これはマジで神がかっているというか、真実を見通す「第三の目」で見ているのではないかと思えるほどである。


 実は僕自身も、同じような経験が、多くはないけど何度かある。
 たとえば、何人もの社長名が並んだ原稿をチェックしているとき、どういうわけかその中の一人の名前に異様な違和感を覚えた。本来そこにあるべき何かが抜け落ちてしまっている、放っておけない小さな空虚のようなものを感じた。
 そう思って念のため調べてみたところ、名前が「晃一」とあるべきところが、「晃」だけになっていまっているというミスだった(それまでのゲラの段階ではちゃんと書いてあったのに、最後の製版段階で抜け落ちるという事故だった…)

 僕はその名前をもともと知らなかったし、本来なら気付けるはずがない。なのになぜか、ずいぶんはっきりと「これは違うぞ」と分かった。
 特別な言い方をするならば、こういう感覚のときに自分は、「ゾーン」に入っていたのかもしれない。


 でも、どんな仕事でも、あるいは家庭生活の中でも――、もはや普通じゃない鋭敏な感覚を発揮する「ゾーン」の経験って、ごくたまにありますよね…。
 その感覚は、集中とリラックスの間というか、両者を超えたところに位置する、私たちの「真の本領」なのだろう。

 とはいえ、それは「自分はこれからゾーンに入ろう」と思って入れるものではなくて――、何かに取り組んでいるときにそこに引き込まれていき、あとで振り返ってみたら「ゾーンに入っていたのかな」というものなのでしょう…。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Lifescapes 「The Dawning Pt.2」。

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 2年ほど前に、「スライヴ(Thrive)」というビデオが有名になりましたよね。
 世界を操る影の支配システムを暴露して人類を解放するために、米大手企業プロクター&ギャンブル社の創業家の御曹司が、私財を費やして製作したというビデオだ。

 その中にはいくつかのテーマが盛り込まれていたけど、永久に動き続けて誰もがタダで使うことのできる「フリー・エネルギー」は、問題解決の重要な鍵として取り上げられている。
 確かに、無料のエネルギーが世界中にふんだんに供給されれば、各地域の人々が一様に発展することができ、貧困や紛争がなくなる可能性は十分にあるだろう。


 また、地球人類を救済するために、未知のフリー・エネルギー技術が宇宙人によってもたらされるという説もある(「スライヴ」でも、そんなニュアンスを伝えている)
 それはそれで、もちろんこの上なく有難い話に違いない。

 でも、果たしてそれは、私たちの「魂」が本当に望む、納得のシナリオなのだろうか?… なんていうことを、ちょっと思ったりもします。

 と言うのも、この世界が魂の学びや進化のために創造されたのであれば――、
 これまでに不足とか争いをさんざん経験してきたうえで、無料のエネルギーがポッと与えられることによって問題がきれいに解決されるという形では――、何だか「とりわけ大切なこと」を学ばずに過ごしてしまうのではないかな、という気がする…。
 (もちろん、クリーン・エネルギーの開発は、持続可能な発展のために不可欠なものですが)


 未来学者のリチャード・バックミンスター・フラーによると、人類は1970年代の時点ですでに、「誰もが健康で快適な生活ができる十分以上のレベル」の経済力を手にしているのだという。

 また以前の記事でも触れたことだけど、日本をはじめ先進国が世界の「貧困救済」のために払った金額は、年間で600億ドルだそうだ。
 一方で先進国が「防衛費」として使ったお金は、その15倍の実に9000億ドルに上る。
 この防衛費の金額は、地球上の貧困問題をすぐにでも解決できる規模だという。


 つまり私たち人類は、世界中の人々を救うのに十分なお金を、もうすでに手にしているわけだ。
 新しく革命的なフリー・エネルギーの登場を待つまでもなく、今あるものを単に「分かち合う」ことによって、「繁栄」が実現できる――
 これが実は、私たちの魂が本当に学んでみたいプロセスなのではないかな、というふうにも感じます。


 ではどうやって?…、ということだけど、それについても実は相当にシンプルなのではないだろうか。

 マザー・テレサの有名な言葉だけど、「世界平和のためにできることは?」という質問に対して、「家に帰って家族を大切にしてあげてください」と端的に言い切っている。

 またアメリカ先住民の教えでも、同じようにこう語られている――
 「もしもすべての人が、ほかの人のために何かをしてあげるようになったら、この世に困っている人など、いなくなってしまうだろう。ただ身近な誰かを助けてあげれば、それで十分なのだ」


 そうは言っても、小さな村ではあるまいし、70億人も生きているグローバルな世界を、「分かち合う」とか「身近な人を助ける」とかの小さな関係性を通じて救えるなんて、到底思えないかもしれない。

 これもまた過去の記事で触れたことがあるけど――
 フェイスブック社が3年前に7億人に上る全ユーザーの友達関係を解析した。
 その結果、世界中のフェイスブック・ユーザーのあらゆる組み合わせのうち92%が、間に3人の友達を介すだけでつながり、さらに間に4人を介せば、99%以上がつながることが分かった。


 「友達の友達は、みな友達だ」と言うけれども、遥か遠い外国の見知らぬ人につながるには、何十人とか何百人も経由しないと行き着かないように、ふつうイメージされるだろう。
 でもそれは「誤った世界観」であり、実際はたった3~4人の知人を間にはさむだけで、世界中のほぼ誰とでもピタッと結び付いてしまうわけだ。
 これが、驚くほど狭くて身近な、世界の実像である。

 そんなシンプルで隣近所のような結び付きの中に、「分かち合い」や「思いやり」を流すだけで、世界にどれほどのことが起こるだろうか…
 マザー・テレサやアメリカ先住民が語る通り、平和や豊かさが、全体にくまなく強固に満ちていくというのは、相当に明らかなことだろう。


 聖書にあるイエスの奇跡物語のひとつに、弟子が持っていた「5つのパンと2匹の魚」を増やして、5千人の群衆を満腹にさせたという出来事がある。
 この奇跡を起こす前にイエスはまず弟子に、「あなたがたが人々に食べ物を与えなさい」と告げている。

 そのように、私たちがまず「与える」ことによって、世界の誰もが豊かに養われる――
 まるで奇跡のようなその現実を、私たちの魂は、きっと体験してみたいのじゃないかな…。今の世界には、それを実行可能な仕組みが、もうすでにでき上がっている。

 そしてこれが、フリー・エネルギーを発明したり宇宙人から授けられるよりも、もっとワクワクする挑戦的な一歩であり、人類史上の特別に素晴らしい転換なのではないかなと思います。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Deuter「Living Light」。
 
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 マレーシア航空といえば、3月に239人を乗せた旅客機が消息不明となり、また7月にはウクライナ上空で撃墜されて298人が犠牲となった事件が、記憶に新しいことでしょう…。

 そのマレーシア航空が今月はじめ、「私の究極の、生前の望みリスト」と銘打ったキャンペーン活動を始めたそうだ。
 これは、自分が死ぬ前にしておきたいことと、その理由を書いて応募すれば、優勝者に航空券など豪華賞品がプレゼントされるというもの。

 ところがこの同社のキャンペーンには多くの批判が集まり(そりゃそうだ…)、普通に「やりたいことリスト」に変更されたという。
 もとのキャンペーン趣旨は、このタイミングで実に勇気ある問題提起というか、あまりに無頓着すぎるというか…。でも銀行とか住宅メーカーとかがするよりも、はるかに「迫真性のあるリスト」を作れそうな気がしますけど。


 でも、そうした「死ぬまでにしておきたいこと」や、逆に「人生を振り返って心残りなこと」をまとめたリストって、色々ありますよね。
 たとえば、終末期医療の専門医が書いた『死ぬときに後悔すること25』(大津秀一著)の本では、次のようなことが上位に挙げられている。

1.健康を大切にしなかったこと
2.たばこを止めなかったこと
3.生前の意思を示さなかったこと
4.治療の意味を見失ってしまったこと
5.自分のやりたいことをやらなかったこと
6.夢をかなえられなかったこと
7.悪事に手を染めたこと
8.感情に振り回された一生を過ごしたこと
9.他人に優しくなかったこと
10.自分が一番と信じて疑わなかったこと


 回答者が末期患者であるため、健康に関するものが多いけど、ほかに「仕事ばかりで趣味に時間をさかなかったこと」「会いたい人に会っておかなかったこと」「記憶に残る恋愛をしなかったこと」「生と死の問題を乗り越えられなかったこと」「愛する人に、ありがとうと伝えなかったこと」――といったことも挙げられている。
 リストを見て、身につまされる思いもしてきますよね…。

 そしてこの中に、現役バリバリの人たちが全力で目指していること――、例えば、たくさんお金を稼ぐとか、周りに評価されるとか、立派な家に住むとか、子供をいい学校に進学させるとか――、そういったことが何ひとつ入ってないところが、実に象徴的ともいえる。
 ちなみに、僕がこの本を読んだときは25年来の喫煙者だったけど、今では禁煙5年になる。後悔リストの上位の一つを消去できたことは、まぁ、喜ばしいことです。


 次に、これに似ているけど、死ぬ前ではなくて「死後」の話――
 スピリチュアル本の『自分の心を守りましょう』(伊勢白山道著)には、多くの魂から聞いた「人間が死後に思う10の内容」というのがまとめられていた。
 もとは各項目がより詳しく記述してあったのだけど、手短な文言にすると――

1.死んでみて、誰も悪くなかったことが分かった
2.人生で、あんなくよくよ悩まなければよかった
3.他人が自分のことをどう思うかなんて、気にしなければよかった
4.もっと他人に親切にして、励ますだけでもすればよかった
5.生きている時に、あんなに心配しなければよかった
6.他人の言葉より、もっと自分の思いを信じればよかった
7.一瞬一瞬をもっと大切に生きればよかった
8.他人と言い争いなどしなければよかった
9.もっと他人のために、何でも尽くせばよかった
10.もっと自分自身を大切に扱えばよかった


 これらは、よく言われるような内容でありながらも、非常にハードルが高いというか…、「自分はもう完全にクリアできている」と胸を張って言える項目はほとんどない。
 きっとあの世に着いたのち、誰かに強制されるまでもなく、「また再チャレンジしに地上に行かないと」と痛感するのが目に見えるような気がしてくる…。

 もっともこうしたリストは、先々への警句というわけではないだろう。
 ここに挙げられている思い込みとか前提を手放せば、もっと心置きなく楽しく、真の喜びとともに生きることができる、といった真実を伝えるためのものであり――、それをまさに、この世にいる今から実践するためのリストなのだと思います。


 さらにもう一つ、10年ほど前の映画で『死ぬまでにしたい10のこと』というカナダ・スペイン合作映画がある(僕自身は見たことがないのだけど、YouTubeで予告編が見られます)――

 物語の主人公は、23歳の主婦で清掃員のアン。
 彼女はまだ17歳のときに妊娠して出産し、2人の娘と失業中の夫と共に暮らしていた。アンの父親はずっと刑務所にいて、母親の方はもはや人生を楽しむことをあきらめてしまっている。
 あるときアンは癌を告知され、余命2カ月という宣告を受ける。彼女はこの事実を誰にも伝えないことを心に決め、そして「死ぬまでにしたい10のこと」をノートにこっそり書き出し、一つずつ実行していくという話だ
 そのリストが――

1.娘たちに毎日愛していると言う
2.娘たちの気に入る新しいママを見つける
3.娘たちが18歳になるまで毎年贈る誕生日のメッセージを録音する
4.家族とビーチに行く
5.好きなだけお酒とたばこを楽しむ
6.思っていることを話す
7.夫以外の男の人と付き合ってみる
8.誰かが私と恋に落ちるよう誘惑する
9.ほおの感触と好きな曲だけしか覚えていない刑務所のパパに会いに行く
10.爪とヘアスタイルを変える


 この中で5や、特に7と8については、「それは良くないことでしょ!」と反発を覚える人もいるだろう。
 でも、そうしたストレートな本音を含めて、きっぱりと書き出していることころに、素直さと気持ちよさを感じたりもします…。

 この映画の原タイトルは、邦題とぜんぜん違って、「My Life Without Me」。
 つまり「私のいない、私の人生」で、主人公は本当に自分というものをかえりみたり表現する余裕がまったくないほど、ずっと忙しくて、抑圧されて、変化のない日々を送ってきたのでしょう(リストの最後が「ヘアスタイルを変える」ですし…)。

 で、このタイトルの言葉が、何かとちょっと雰囲気が似ているなと考えてみたら…
 臨死体験のベストセラー本であるアニータ・ムアジャーニさんの「喜びから人生を生きる」の原題が、「Dying to Be Me」でしたね。直訳すると、「私になるための死」。


 自分の人生や生活(My Life)というのは、そこに「私」がいない空虚な抜け殻のようになってしまうケースが、実は少なくないのだろう…。

 そしてむしろ逆に、死(Dying)のほうを意識することによって、「私」を見いだすことができるというのは――、何だか皮肉なようだけれど、とても大切なポイントなのだろうなと思います。



 結びのヒーリング音楽は、Kavin Hoo「Still, Still, Still」。

  ☞ コメント:43

 


 ここ数年の映画における新しい変化を挙げるとすれば――
 色々あるという人もいるだろうし、特に無いという人もいるかもしれないけど…、あえてスピリチュアルなポイントからいうならば、「輪廻転生」をテーマにした作品が出てきた、ということがあるでしょう。

 転生を含んだストーリーというのは、これまでにも色々とあったろうけど、「転生そのものが主題」というのは、最近の新しい傾向ではないかなと思う――。


 最も圧巻なのが、マトリックスの監督が100億円かけて製作した『クラウド アトラス』で、19世紀から未来までの6回の転生を描いた超大作だ。
 ただ、話がとても複雑というか…、転生するたびに配役や舞台設定がガラッと変わっていくストーリー展開に、見る側が不慣れなこともあって、興行的にはあまり振るわなかった。

 でも、「いくつもの転生を眺める」という疑似体験はこうした映画でしかできないし、やはりハリウッドの技術とこの監督の力量は圧倒的にすごい。僕個人としては、ここ数年のイチ押しである。
 この映画の紹介や、混乱せずに見るための工夫などを、以下の過去記事で書いています。
 http://mitsunakoudai.blog.fc2.com/blog-entry-238.html


 日本の映画では、『スープ~生まれ変わりの物語』が挙げられる。不思議研究所の森田健著「生まれ変わりの村」をもとに描かれたドラマ作品だ。
 人は転生するときに、あの世でスープを飲まされる。そのスープには「前世の記憶を消す」という作用があって、もしもスープを飲まなければ、前世の記憶を持ったまま生まれ変わることができる――、という話である。

 本はとても良かったけど、きっと映画のほうはあんまり見応えないだろうな…と、「期待値ゼロ」でレンタルDVDを見てみたら、なかなか面白い作品だった。
 「前世のことを覚えていることが幸せかどうか」は考えさせられるテーマだし、また糖尿病を悪化させて亡くなった中年男性が、転生して若さはじける女子高生になっているシーンとかを見ると、「長生きするかどうかは、あまり問題ではない」という気持ちになってくる。


 輪廻転生、そして映画ときて、忘れてはならないのが「インド」である――。
 昨日、インド映画の『恋する輪廻 オーム・シャンティ・オーム』というのを見た。そのキャッチ・コピーは「何度生まれ変わっても、また君に恋をする」。

 たしか昨年に、この映画を上映しながら客席で皆が踊るという、インド人でもまずやらないようなイベントが都内であって、知人から誘われたのだけど、気後れしそうなのでパスした…。
 でも映画はいつか見たいなと思っていて、それを昨日にレンタルで見たといういきさつだ。

 まさにこれぞインド映画という、歌って踊って3時間!という大作…。
 ちなみに、サブタイトルにある「オーム・シャンティ・オーム」というのが、この映画のもとの原タイトルだ。
 主人公の名がオームで、ヒロインの名がシャンティ――。つまりは、「オームさんと、シャンティさんと、(転生した)オームさん」の物語というわけで、「千と千尋」や「クレイマー vs クレイマー」みたいな感じの題ですね。

 ストーリーの緻密さとかは期待し過ぎてはいけないけど、底抜けに楽しい映画であることは間違いないです!


 こうした「転生もの」の映画を見ると――、この人生というのは、前後にたくさん続く中の1回のステージに過ぎないのだな、ということを認識させられる。

 映画『クラウド アトラス』では、「死はただの扉に過ぎない。閉じたとき、次の扉が開く」と語っている。
 また「前世療法」の著書で有名なブライアン・L・ワイスは、「私たちは、『死』に対してではなく、『不死』に対して準備すべきなのだ」ということを強調している。


 本当にその通りだろうと思う。
 また、たとえ「不死」について意識したとしても、この1回のステージがおろそかになってしまうわけでは決してない。むしろ逆と言える。

 日ごろ心を占拠している「恐れ」が、いかに勘違いなものであるかが分かってくる。自分という存在のより好ましい部分、本質的な部分に、もっと着目していくようになる。
 そして、人生の中で固執しても無駄なものや、真に大切にすべきものが、おのずと明らかになっていく――。


 私たち自らの「永遠性」が真実にほかならないからこそ、こうした気付きが喚起されるのだろうと感じますね。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Deuter「Loving Touch」。

  ☞ コメント:23

 


 自分に起こってくる出来事に抵抗せず、そのままに「受け入れる」ことは、私たちの生における大きなテーマの一つでしょう――。

 色んなスピリチュアルな教えでは、「すべてをイエスと言って受容しなさい」「あるがままに現れるのを許しましょう」といったことが語られている。


 でも、日常で経験する色んな「嫌な出来事」を、イエスと言って受容するなんて、誰にとってもとんでもなく難しいことだ…。
 ふつうは、他人の態度や言葉に深く傷つき、不測の事態に絶望し、思い通りにいかない現実に心底うんざりしてしまう。
 そして「こんなのは耐えられない、到底受け入れられるものではない!」と徹底的に拒絶して抵抗する。

 ときには非常にショッキングな事故や病気、離別、喪失に直面するケースもあるし、やがていつかは、自分の死と向き合うことにもなる。
 それらすべてを肯定的に受け入れることが「愛の本質」であるならば――、私たちにとってそんな在り方は、実践不能なあまりにもハードルが高すぎるテーマにしか思えない…。


 でも、気持ちの上では色々と力づくで抵抗しているようでも――、本当は私たちは、すでにあらゆる出来事を、起こるがままに許して受け入れているのではないだろうか?

 というのも、「こんな現実は受け入れられない!」と言って、現実が起こってくることを拒絶できた人は、たぶん人類史上一人もいないはずだ。
 私たちは、思考や感情レベルでは、あたふたと苦しみながら反応していても――、結果的には例外なく、起こる出来事をすべてこの身で受け止めて、まぬがれることなく経験している。 と言うか、現実を経験するしか道がない。そうですよね…。

 こうして、「絶対に起こってもらいたくない」「耐え難い」と思えるようなことも含め、起こってくるあらゆるものごとを現に経験しているって、ものすごいことだなと感じる。

 そのように、すべてをそのまま受け入れることが、私たちの偽らざる本質であって、ほかの在り方の選択肢なんて、そもそもあり得ないのだろう。


 といったことを、僕自身がスピリチュアルなテーマに関心を持ち始めたころからずっと思っていて、過去のブログでもそんなことを書いたことがある。
 ただ、色んな本に、人はすべてを受け入れる包容力なり可能性を持っているといったことはよく述べられているのだけど、結果的事実として「すでにすべてを受け入れている」と言い切っているものに出会ったことがなかった…。

 で、先日、非二元(アドヴァイタ)の教えを伝えるルパート・スパイラの「プレゼンス」という本を読でいたら、まさしくそのような記述があった――

 「何かがそこに現れているということは、真のあなたが、それに対してすでに『イエス』と言ったということだ。
 今ここにあるものは、すでに完全に受け入れられたからこそ、ここにある。もし受け入れられていなければ、それは現れていない」

 「真のあなたである現存(プレゼンス)が、それを引き受けるのを許そう。実際、それは単に受け入れられているだけではない。それは愛されている」


 そのうえで、私たちがそこで抱く感情に対して、こういうふうに述べられている――

 「私たちは、悲しみは避けなければならないと考えている。実際はその逆で、悲しみにとって耐えがたいのは、抱きしめられることだ。
 物質的な活動へ逃避したり、精神的な象牙の塔に逃げ込んだりしても、悲しみが終わることはない。その状況を親しく抱きしめ、抵抗する余地がまったくなくなることで、悲しみは終わるのだ」


 起こってくる「嫌な出来事」に対して、スピリチュアルな教えに従って「抵抗せずに受け入れよう」と努めることは、プロセスとしては必要なことだと思う。
 でもそれを経た上で、「実はすべてがすでに受け入れられているものだ」と知ることは、これまでにないほど素晴らしく開放的な視点転換だろう。

 さらに、出来事に反応して私たちの内に生じる悲しみなどの感情についても――、決して避けたり、打ち消したりする必要はなく、それもそのまま抱きしめてあげる…
 そこには一切の拒絶や抵抗はない。この全体像こそが、生のテーマとしての「受け入れ」の図式なのだろうと思います。



結びのヒーリング・ミュージックは、Oöphoi & Louisa John-Krol「A Vessel for Michael」。

  ☞ コメント:25

 


プロフィル

Koudai Mitsuna

Author:Koudai Mitsuna
 
光奈 広大(みつな・こうだい)

 20年のあまりのサラリーマン生活を経て、いわゆる「ザ・マネーゲーム」を何とか卒業。今では束縛されない自由な日々を存分に味わっています!

 そうした中で心がけているのは、普通の日常的な行いを通じて、意識の進化を目指す「カルマ・ヨガ」。

 日々の喜びや学び、インスピレーションから得たスピリチュアルな気付きなどをブログで紹介しています。

 妻子と都内在住――。

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