フロントページ   »  2014年10月
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
web拍手 by FC2
 


 前々回の記事で、NHKスペシャル「臨死体験~立花隆 思索ドキュメント」についての、遅ればせながらの感想などを書きましたが、それに続くような内容です――。

 電車に乗ったときに中吊りを見たら、週刊文春で立花隆のインタビュー記事「死は怖くない~臨死研究、がん闘病を経て到達した究極の死生観」というがあるのが目にとまったので、こちらも興味を持って読んでみました。


 あの番組の放送以降、立花氏は、通りがかりに会ったお年寄りなどから「ありがとうございました」と、番組のお礼をよく言われるのだそうだ。
 長年、さまざまなドキュメンタリー制作に携わってきた経験の中で、そのように見知らぬ人たちから直接お礼を言われるのは初めてだという。
 今の時代に、本当に大勢の人が、「死」や「魂」について理解したいという思いを持っていることの現れなのだろう。


 でもそうした中でも立花氏は、事実を科学的に検証するというアプローチを決して崩すことはない。見えない何かを直感的に信じる姿勢とは、完全に一線を画している。
 インタビュー記事の中でも、「東京大病院救急部・集中治療部長の矢作直樹氏は、『死後世界は存在する、だから怖くないんだ』と科学的根拠もなく声高に語って評判を得ている」と、名指しで容赦なく切り捨てている。

 ちなみに僕自身も矢作氏の本はとても面白く読んでいるけど、ただその対談相手のほうの発言内容は、個人的にちょっと共感しにくいものも少なくないですね…。


 で、立花氏のインタビュー記事を読んでいて思えてきたのは――、
 「死」や「魂」について語ったり、あるいは死と向き合ってその恐怖を取り除くために、本当に「科学的根拠」が決定的に不可欠なのだとろうか、ということだ…。


 あのNHKスペシャルの中核部分は、臨死状態の人たちが至福の光に包まれたり、崇高な存在に出会うといった神秘体験を、「脳内物質の分泌などによる幻覚である」として、脳科学者たちがそのメカニズムを解明していくところだ。

 しかしながら――、番組を見たお年寄りなどが立花氏にお礼を言うのは、「死ぬときに脳内現象によって素晴らしい感覚が得られる」というメカニズムを知ったからでは全くないだろう。

 そうではなくて、むしろ臨死体験した数々の当事者たちが「死というものありません」「私たちは永遠の存在なのです」と、科学的根拠にかかわりなく圧倒的確信をもって断言していて――、
 さらにはがんを患う立花氏も、「僕も死は怖くありません」ときっぱり言い切っていることに――、
 見る人たちが共感して励まされ、そこに自身にとっての「救い」のようなものを感じられたからこそ、「テレビでそれを伝えてもらえるなんて、ありがとうございます」と、感謝を口にせずにいられなかったのだろうと思う。


 ちなみに立花氏はインタビュー記事の中で、自身が死を恐れない気持ちになった理由について、こんなふうに語っている。
 「この年齢になり、周りで親しい人たちが亡くなっていくのを見ていて、死というものが自分にとって身近なものとして感じるようになった」――

 ちょっと身もふたもない突っ込みだけれど…、当の立花氏が「死を怖くない」と思うに至ったのは、科学的根拠でも知的アプローチでもなくて、まさしく「個人的な実感」によってだと言えますよね。


 こうした、「死は身近なもので、怖くはない」という話を聞いて思い出すのは――

 エリザベス・キューブラー・ロスが、大学病院に勤めていたときに、終末期医療というものの「原点でありすべて」を見いだすことになったエピソードだ。
 これは少し以前の記事「『そばにいる』というすべて」で紹介した内容だけど…、死に瀕した末期患者たちが、一人の黒人女性の清掃員が病室に出入りしたときだけ、なぜか急に精神的に元気になっているという不思議な出来事があった。

 キューブラー・ロスがその秘密を探ってみると――、黒人女性の清掃員は、もう治る見込みもなくおびえている末期患者のそばに行って手を握り、「心配することはない、死はそんなに怖いものではないのですよ。あなたは一人ではありません」と語ってあげていた。
 いわばたったそれだけの、当時の医師がしようともしなかったことが、死に直面する人々が「真に求めているすべて」だった。


 立花氏が今回テレビでしていることも、実は結果的に、それに近いことなのではないかなとも思える。

 スタイルとしては徹底した知的アプローチでありながらも――、番組を見る多くの人は、ドキュメンタリーの科学的根拠以上に、そのさらに奥にある「死は怖いものではない、あなたは一人ではない」という精神的メッセージを受け取っているのではないかなと思う。

 立花氏が個人的実感から語る「死は怖くない」という明確な真意が、番組を見る人の心に届くことによって――、
 死に対する「やみくもな恐れを取り去っている」というのが、このドキュメンタリー番組の最も大きな効用なのではないでしょうかね…。


 そして思うのは、死の恐怖に限らず、「恐れを取り除くのに、科学的・論理的な根拠なんかいらない」ということだ。
 たとえ間接的な形であっても、一緒に「そばにいる」ということ。それこそが真に大事なすべてなのだと感じます。



 結びのヒーリング・ミュージックは、David Ison「Sleep」。
スポンサーサイト
web拍手 by FC2
  ☞ コメント:20

 


 スピリチュアル分野で、最もよくある問いの一つに、「人の運命は決まっているのか、それとも自由意思によって変えることができるのか?」――というのがあります。

 これに対し、「人生のあらゆるものごとが定められている」という答えもあれば、「どんな生き方も自由に選ぶことができる」という答えもある。
 ややこしいのは、その両方の答えを同じ人が説いていたりもするし、さらには「どちらも真実」という見方もある。

 この分野の多くの問いがそうであるように、単純に「一方が正しい」という形で結論づけられる問題ではなくて――、双方の答えを含んだ精妙なパラドックスの中に、真実があるのだろうなと思う。


 そうした中でも、禅問答のようにどちらとも付かないけれど、「なるほどな」と感じさせる切り口の答えが、僕はけっこう好きです。

 いまここ塾の阿部敏郎さんは、「終わってしまったことはぜんぶ運命だったのだから仕方ない。でもこれから先のことは、自分次第でどのようにもつくり出していける」――というふうに、両者の考え方を都合よく使い分けて生きていると説明していて、これはなかなか素敵な解釈だなと思う。


 もう一つ、前にも触れたことがあるけど、米国の起業家で「ザ・シークレット」の本にも登場するマイク・ドゥーリー氏は、次のように語っている。

 「今ある状況というのは、自分自身がそのように考えてきたから、そうなっているのです。『そうなるように決まっていた』からではありません。あなたには選択する自由と、創造する力があります。
 でも、もしあなたが自分の人生の『あるべき姿』を見ることができたなら、気絶するほどびっくりするでしょう。――と言うのも、それはあなたの『今ある姿』とまったく変わらないからです。そうしてあなたは、自分がまさに今いるべきところにいることを発見するのです」



 最初に「自由意志で選択できる」と断言しているのに…、後の「あるべき姿と、今ある姿は同じ」という説明のほうは、かなり運命論に近いようにも受け取れる。

 でも、この「あるべき姿」というのが、あらかじめ定められたものではなくて、自分がその都度、自由意志にもとづいて一番ふさわしい選択をしてきたのだとすれば――、
 私たちは人生で常に「おのずと最善のものを選びながら今に至っている」と考えられるわけで、これはとても素晴らしい見方だなと感じます。


 で、僕はブログを書くときには、いつも胸の内に「意味のかたまり」みたいなものがフワッと浮かび上がってきて、それを文章に書き起こしている。

 その「意味のかたまり」というのは、何らかのメッセージ性はあるものの、ほとんど言葉の形にはなっていない。そのままでは「つかみどころのない」ような感じだ…。
 それを文章化する作業というのは、ずいぶん手間のかかる非効率な肉体労働のように思えてしまう。


 ところがこの前、いつもと違って、「意味のかたまり」がかなり言葉に近い形でふと現れ出てきた。
 それは運命と自由意志に関するもので、切り口の一つとしてなかなか面白く思える、こんな内容だった――

  「いま」だけに着目して、考えてみるといい。

  いま「外側」にある出来事や状況についての選択権というのは、あなた自身にはないだろう。
  でも、いまの「内側」のあり方への選択は、自らにゆだねられている。


 考えてみれば確かにそうで…、
 すでにいま起こっているものごとに対して、「それとは別のいま」を選ぶなんてことは、誰にとっても不可能だ。

 好む好まざるにかかわらず、自分にとってのいまは、現に目の前にある通りのいま以外にあり得ない。ほかに変えようがない。
 つまり、いまの状況に対する自由意志を、私たちは持っていないと言える。


 一方で、自分の「内側」のあり方に関しては――、これはある程度の選択権がこちら側にある。
 もちろん、「ものすごく悲痛な苦しみの最中で喜びを感じる」というのは無理だとしても…、少なくとも内側の感情や考え方というのは、絶対的なものではない。

 別のものを選んだり、度合いを変えたりする自由な余地は、たいていの場合はあるはずだ。
 特に――、その出来事がいまは起ってないのに、それにまつわる感情や思いを抱え込んでいる場合などは。


 さらに言えば、人が外側の状況に望むものはやがて移ろいゆくけれど…、内側に望むものは、誰もがずっと不変なものである。
 それは「幸せ」や「喜び」「平安」などだろう。

 以前の記事で「死ぬとき人が後悔すること」について書いたけど、おそらく多くの人々が本当に最も後悔することが――、
 自分の「内側」に対する自由意志を持ちながらも、それを「行使しなかった」ということではないかなと感じます…。


 OSHOの言葉にも、こんなのがあります。

 いまの瞬間、そのままでハッピーになれる。もしいまハッピーになれないとすれば、あなたは永久にハッピーになれない。
 幸せは未来とは何の関係もない。幸せは「明日」のことなど知らない。なぜなら幸せというのは、他の何にも依存しないからだ。それはひとつの態度である。



結びのヒーリング・ミュージックは、Kavin Hoo「Waltzing Leaves」。

web拍手 by FC2
  ☞ コメント:36

 


 先月に、NHKスペシャルの「臨死体験~立花隆 思索ドキュメント」という番組が放送されて、色んなスピリチュアル系のブログでも話題になりました。
 僕はふだんテレビを全然見ないのだけど、さすがにこれは興味を持って見たので、とても遅ればせながら今回はその感想です…。

 ブログなどで書かれている意見はかなり低評価だけど…、僕自身は「いや~、これは本当に素晴らしく面白いことだな」とけっこう感心した。
 と言うのは、番組内容そのものよりも、「20年前と比べた変化」に関してである。


 今回の番組は、1991年に放送されたNHKスペシャル「立花隆リポート~臨死体験」の続編にあたるものだ。
 当時、20代のビジネスマンだった僕は、たまたまそのときの番組を見た。従来は宗教やオカルト分野の話題だった「死後世界」について、まさに「事実的テーマ」として切り込んでいくドキュメンタリーに、価値観を揺るがされるようなインパクトを受けたのをよく覚えている。

 そのころはまだ「臨死体験」という言葉が一般に知られておらず、関連の本などもほとんどなかったし、番組に登場した専門家たちも「傍流の研究者」というイメージだった。
 立花氏は、ジャーナリストの立場から、まさにそうした「未知の秘境」へと踏み込んでいったわけだ。


 そして、あれから20年以上たった現在――、脳科学の第一線の学者や医師が、臨死体験の研究に取り組んでいる状況にある。

 その多くは、死に瀕する人たちが体験する不思議な現象(体外離脱したり、至福の光に包まれたり、崇高な存在と対面したりなど)を、脳内物質の分泌などから明らかにしようとする、いわゆる「脳内現象説」である。近年の脳科学の進歩によって、かなりの部分が医学的に説明可能になった。
 今回の番組にも登場した、『死と神秘と夢のボーダーライン』の著者であるケンタッキー大学教授ケビン・ネルソンは、徹底してこの脳内現象説を貫く。

 この一方で、世界トップクラスの脳神経外科医で、ベストセラー書『プルーフ・オブ・ヘブン』の著者のエベン・アレグザンダーは、脳内現象説を真っ向から否定する。
 同氏は自ら、致死率90%の難病から奇跡的に生還を果たし、その体験の中で「物質世界よりもはるかに豊かな死後世界が存在する」という事実を目の当たりにした。
 そして番組の中で、昏睡に陥ったときの自分の脳の診療データを示しながら、「機能停止した脳が幻を見ることは不可能」と、専門医の見地から力説する。


 そして今回のドキュメンタリーで最も象徴的なのが、臨死体験研究の長年の第一人者である心理学者レイモンド・ムーディと立花隆との対談だ。
 何しろムーディ氏は、20年前の番組でも同じように立花氏と対談し、そこで「死後世界が存在する証拠はない!」ときっぱり言い切った人物だ。
 著書でも、「死後の生命を信じることではなく、証明することが私の研究のゴール。もし信じるなら、研究はいらない」とまで強調していた。

 ところがそれ以降に、自ら臨死体験をして(何と自殺未遂によって!)、今では「死後世界はある」「人生の終わりにあの世が続いている」という、まさに180度転じた見解を語るようになっている。


 こういうのを見ると、20年以上ものインターバルを置いた続編というのは、非常に面白いなと思う。
 それだけの時を経たいま――、立花氏自身はがんを患い、自分の死というものをリアルに意識せざるを得なくなった…。救命医療技術の進歩によって臨死体験の事例が増え、脳科学の専門家までもが「死後世界」について説いている…。
 また臨死体験とは違うけれど、いわゆる意識の目覚めや「一瞥」の体験によって、魂の永遠性を垣間見る人が世界的に増えている。そうした人が伝えるメッセージや、あの世や魂をテーマにした本もたくさん出版されている…。

 そうして、かつて「証拠はない」と言い張っていた第一人者が、今や「信じる人」となっている――。


 これは、単に世の移り変わりというのではなく、ひとつの「真実」に向かって、私たち全体が20年という時間をかけながら着実に移行してきている、ということではないかなと思います。
 まるで「ゆるやかな分水嶺」を越えていくように。


 で、今回の番組でもう一つ、ある意味すごいなと感じたのが、「立花氏が自分の見地をまったく変えようとしない」という点である…。

 これについては、スピリチュアル分野のブログでけっこう批判的に指摘されているのだけど――、立花氏は自らの仮説である「心は脳で生まれる」「死んだら心は消える」という前提を持ったうえで、数々の取材を通じて検証を試みている。
 このような見地も知的アプローチも、20年前の番組とほぼまったく変わってない。

 でも、番組の立脚点がそのように「ぶれていない」からこそ――、この20年の間に起った「周りの世界のシフト」がより鮮明に見えてくるように思える。
 そして、そのシフトの度合いが意外に大きいという事実にも、改めて気づかされる。


 ただこれはあくまでも、20年前と今回の両方の番組を見たからこそ、そのように受け取れるのであって…、
 今回の番組のほうだけを見た大方の人にとっては、立花氏の姿勢が、何とももどかしくて頑固にしか思えないだろう。

 まさにその通りで――、自分が抱えている前提や検証にこだわり続けている人を抜き去るようにして、周りの世界のあり方のほうが、どんどん先に進んで行っていると言えるかもしれない。
 かつては未知の秘境へと踏み込んでいく力となったその「知」が、逆に今度は単なる「重い腰」みたいになってしまっているわけだ…。


 対談の中でムーディ氏は、「なぜあなたはそこまで見解が変わったのか」という質問にこう答えている――。

 「私は自分の心を見つめるようになったのです。いま『人生の終わりにあの世が続いている』とはっきり言える自分に矛盾を感じている。なぜそうなったかは自分でも分からない。
 でも、そもそも人生は、死ぬまで理解できないものなのです。私たちが死ぬとき何があるのか、私たちの理論や思考が不十分なため、なかなか分からないものだと思う。あなたと私の考えが違っても、『死に臨む者』としては同じなのではないでしょうか」


 これは以前の記事でも紹介したものだけど、ムーディ氏は近著の中で、自身の今の考えをこんなふうにも語っている――。

 「神は、私たちのために何かを計画しており、それは私たちが思い浮かべる死後生命をも超えるものかもしない。
 説明は難しいのですが、私たちが想像している以上の世界が、死後に用意されているように思えるのです」


 私たちのための神の計画、想像している以上の世界…
 本当に「信じるには素晴らしすぎる」といえるくらいの見方ですよね。

 立花氏にはぜひ長生きしていただいて、さらなる番組の続編を期待したいです。
 たぶん何年か先には、立花氏の見地も、番組を見る多くの人たちの受け入れ方も、驚くほど変わっているのではないでしょうかね…。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Kamal「Good Night」。

web拍手 by FC2
  ☞ コメント:20

 


 最近、何気ない日常の時間の中で、自分自身の様子が以前とちょっと違ってきていることに「おやっ?」と感じることがあります。

 それは、「意図しないでいると、思考がほぼまったく出てこない」ということ…。
 頭の中が、まるで「休日出勤したときのオフィス」みたいに、いつもあるはずの音も動きもなく、ただひたすらシーンと静まり返っている。

 瞑想中ならともかく、普段の状況で静寂がずーっと継続しているということに、僕自身かなり新鮮に感じるというか、まだ不慣れだ。
 だからそれに気づくたびに「!」っと驚いてしまうのだけど、驚きに続く言語的な考えがわいてこない…。


 以前なら、そういうときに何気に本を開いたりして、つい「空白性」を埋めてしまったりもしていた。
 でも最近はそんな気もいっさい起きないまま、何もないシーンとした状態の中で自然にじっとしていられる。

 それにしても、ここまで思考活動が「不活性」なのは、本当に初めて経験するくらいだ。
 こうしてブログやメールを書いたり、人と会って打ち合わせをするときとかは普通に思考を使えるから(以前ほどスピーディーではなくなったものの)、脳機能の問題とかではたぶんないでしょう…。


 そうした中で思うのは――、自分がだんだんと「分水嶺」を越えてきているのかな、ということだ。

 従来からの自分のあり方は、どちらかと言うと、何かを「する」ことや、「活躍」といった方向に流れていく感じだった。
 それが分水嶺を越えてからは、自分にかかわるあらゆることが、ただ「在る」ということや、「静寂」へと向かうようになってきている気がする…。


 でも「分水嶺」と言っても、峻険な山並みがそそり立っているようなものでは全然ない。

 たとえば東京の場合、広大な平野部を大きくは「多摩川流域」と「荒川流域」とに分けることができる。
 多摩川流域のほうの土地に雨が降ると、地面や溝や小さな川を流れ伝っていき、ゆくゆくは多摩川へと注ぐ。
 荒川流域のほうに降った雨は、同じようにやがて荒川へと流入する。

 この2つの流域は、武蔵野丘陵の尾根によって分け隔てられているわけだけど――、その斜面はあまりにもなだらかであるために、どこが分水嶺になっているのか、その場に行ってみてもはっきり分からない。
 でも、そんなはっきりしない場所なのに、そこを「境」に水の流れゆく方面がまるで違ってくるわけだ…。


 スピリチュアル分野の色んな本やブログにも、意識が突然シフトしたという話はよく出てくるし、そういう起こり方がいわば「標準的」にも思えてくる。
 でも、突然の大きな変容ではなくて、はっきりと分からない「ゆるやかな分水嶺」をだんだん越えるように進行していくケースも、決して少なくないのではないかなとも思う。

 ただ、その場合には「劇的な要素」が何もないため、わざわざブログなどで文章化して公表する人が、ほとんどいないということかも…。


 もう一つ、僕自身の変化についてだけど――
 マインドの不活性化と同時に、このところ体のほうもどういうわけか「もうヘロヘロ…」という感じです。

 決して体調不良とか不快なわけではないものの、全身がだるくて仕方ない。
 筋肉が鈍らないように朝のランニングもしているのだけど、自分でも不思議なほど、体が前へ進んでいこうとしない。
 夜は10時にはベッドで横になって、そのままくたーっと寝てしまう。

 以前に、「太陽フレアと関係がある」という話を聞いて調べてみたら、確かにフレアが発生したときに体がだるくなる傾向はあるようだったけど、最近はそれとは関係なくいわば「自律的にヘロヘロ」という感じだ。


 この心身とも不活性な状況って、何なのだろう――。もしかしたら「さなぎ」になっていく感じだろうか、なんてふうにも思ったりする。
 そうしたプロセスであるのならいいけど、希望的観測でしょうかね…。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Juliana「where the angel tourch」。

web拍手 by FC2
  ☞ コメント:23

 


 少し前の「究極のリスト」という記事で、死を間近にした人が挙げる「死ぬまでにやっておきたいこと」や「人生を振り返って後悔すること」のリストについて話題にしましたが――、
 それにとても近い内容のハリウッド映画『最高の人生の見つけ方』を、先日レンタルで見ました。

 映画の原タイトルは「The Bucket List」で、Bucket(バケツ)とは棺桶のこと。
 この「棺桶リスト」とは、俗語表現で「死ぬまでにやっておきたいことの一覧」という、そのものずばりの意味だ。


 物語の主人公は、病室でたまたま隣り合わせになった2人の60代男性。
 剛腕実業家と勤勉実直な自動車修理工という、性格も立場もまるで異なる2人だったが、「余命半年」であることが共通点だった。

 あるとき自動車修理工の男が、気晴らしに自分が思う「棺桶リスト」をメモ用紙に書いた。

 若いころの彼は「100万ドル稼ぐ」とか「黒人初の大統領になる」といった野望を思い描いていたが、こうして自分が近いうちに死ぬとなったときに望むこととは――
 「荘厳な景色を見る」「見ず知らずの人の助けになる」「涙が出るほど大笑いする」…といったものだ。


 ところがそのリストを目にした剛腕実業家の男は、「批判する気はないが、ちょっとめめしいな」と言って、そこに「スカイ・ダイビングをする」「刺青を入れる」「世界一の美人にキスをする」といったことを書き足してしまう。

 そうして好き勝手なことを書いているうちに――、残された短い人生に楽しみを見いだせるはずだと思った2人は、合作したリストを実行するため、病院を抜け出して旅に出る。

 …といったストーリーです。


 まじめなヒューマン・ドラマというよりややコメディー調の作品だけど、そうしたタッチだからこそできる描き方で、人生の終わりというテーマにうまく踏み込んでいるなと感じる。
 この映画の中で僕が気に入ったのは、こんなセリフだ――

 死んだあと魂は、天国の門で神に2つの質問をされ、その答えによって扉の中に入れるか決まる。
 その質問は、「自分の人生に喜びを見いだせたか? 他者の人生に喜びをもたらしたか?」


 こうした「死後に受ける質問」については、実際に色んなところで述べられている。
 このブログでしょっちゅう引用しているエリザベス・キューブラー・ロスも、次のように語っている。

 私が面会した多数の臨死体験者たちは、あの世の入り口で一様にこうたずねられた。「どれだけの愛を与え、また受け取ってきたか? どれだけの奉仕をしてきたか?」――
 そのとき答えればいいと思っていたら、手遅れになる。


 「生きがいの創造」の著書で知られる、元福島大学教授で自ら臨死体験者でもある飯田史彦氏も、同じようにこう述べている。

 誰もが人生を再現するビジョンを見せられ、終えてきた人生について問われる。
 そこで問題とされるのは、「どれだけ人々を愛したのか? つねに良心的な言動をとったか?」ということのみだ。この世で得た地位やお金などは、いっさい評価されない。


 この複雑難解な人生を通じて、私たちに求められているものとは、実は驚くほどシンプルなとこだといえる。もちろん、容易なテーマではないけれど。
 そしてこの映画の台詞にある「喜び」というのは、「愛」や「奉仕」「良心」と同じことを指しながらも、とても素敵な言い方だなと思う。


 ところで、この質問で非常に重要なポイントなのが――、キューブラー・ロスの言葉にも含まれているように、他者に愛を「与える」ことと共に、他者から愛を「受け取る」ことの両方が必要ということだ。

 「他者を愛する」だけでなく、「自分自身を愛する」。
 「他者の人生に喜びをもたらす」だけでなく、「自分の人生にも喜びをもたらす」――
 その両方について、あの世の入り口では、まさにセットで問われるのだろう。片方だけに「イエス」と答えるだけでは、ある意味で、人生を半分しか生きていないということかもしれない…。


 でも実際には、「自分を愛する」ことや「他者から愛を受け取る」ことがなかなか難しいのと同様に――、「自分に喜びを与える」のが苦手という人は少なくないはずだ…。

 僕自身も、他人に貢献したり役立つことについては、どちらかと言うと進んでやるほうだと思うけど…、一方で「自分が楽しむ」ことについては、習慣的に後回しに考えることが多い。
 でも、そうして常に後回しにしていることを、のちにまとめて実行できるなんていう時間は、人生にはほとんどないのだろう。


 これは決して極端な言い方ではなく――、私たちはいま「自分を喜ばせるために生きている」くらいにとらえても、決して間違いではないと思う。
 肉体と人格を備えたこの「自分という存在」に喜びを与えてあげるために――、「魂」としての私は、こうしてわざわざ地上世界にいるわけだ…。


 この映画の「棺桶リスト」でユニークな点が、項目の半分があまり意味のなさそうな単なる「遊び」ということだ。
 でもこの「遊び」というのは、私たち「社会人としてのまっとうな大人」が考えているよりも格段に、人生価値があるものなのかもしれない。

 キューブラー・ロスは、自身が週7日・毎日17時間も働いたという「遊び」とは特に無縁の人だったが、晩年の著書でこのように強調している。

 死の床ある人が自分の人生を振り返って最も後悔するのが、「あんなに真面目に生きることはなかった!」ということだ。
 誇りをもって仕事の成果を語る人はいるが、そんな人でも人生の最後には、仕事の成果に匹敵するほど充実した私生活がなければ空しい人生になるということを発見する。

 人生をきまじめに考え過ぎたとき、人は遊ぶことを忘れる。ひたすら純粋に遊んだ時代のことを思い出すべきである。ハートが全開し、遊びに夢中になり、遊んだあとに罪悪感など覚えなかったあの時代を取り返す必要がある。
 だが、遊ぶために生きるという思想は白眼視される。
 我々は「まじめになれ、まともなことをしろ、まともな人間になれ!」と言われて育ってきた。そして「ただのサーファー」を軽蔑し、こいつらもっともっとまともな生き方ができないのか、などと思う大人になっている。


 僕自身もサラリーマン時代に、都心の地下鉄などでちゃらんぽらんな格好をした同世代の大人を目にすると、まさしく「まともな生き方ができないのか」とよく思っていただけに、これはなかなか痛い指摘だなと感じる。
 さらにキューブラー・ロスは、ここまで言い切る。

 自分に遊びの時間を与えることができない人は、実は他人に与えるものが何もない。


 非常に厳しい言葉に聞こえるけど…、でもこれを「厳しい」というふうに思えてしまうこと自体が、「あなたはもっと遊びを大切にしなさい」というシグナルなのでしょう。

 インドの神話では、そもそも神がこの世界を作った目的が「遊び(リーラ)」のためであると言われているくらいですから。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Bliss「Silence」。

web拍手 by FC2
  ☞ コメント:27

 


 話題としてはちょっと遅いかもしれないけど…、先日の「皆既月食」はとてもきれいでした。

 台風が過ぎたあとの夜空は、大気の透明度がぜんぜん違いますよね! まるで東京とは思えないくらい。


 僕は自宅マンションのベランダから見ていたのだけど、神秘的な月とともに、遠景に並ぶビル群(池袋・新宿あたり)もいつになく澄んだ姿に映った。

 実は僕は、都会の夜景の中でも、高いビルなどの上で点滅する「赤い光」に、なぜか妙に引かれるものを感じてしまう…。
 普通の街の灯だけでももちろん美しいけど、そこにあのほのかに輝いたり消えたりする「赤い光」が加わると――、単なる視覚的なきれいさを超えた、心の奥底の琴線に触れるような「いとおしさ」が胸にわいてくる。

 それはまるで、遠い幼少期の記憶と、手に届かぬ憧れとを足し合わせた感傷のようだし…、あるいは蛍の光にも似た、「静かな生命感」が伝わってくるようにも思える…。

 ちなみにあの赤い光は、正式には「航空障害灯」といって、夜間に飛ぶ飛行機に「ここに高い建物がありますよ!」と注意を促すためのものだ。
 単なる飾りの明かりではない。


 で、先日、「あの赤い光を見てそんな感覚を抱く人って、ほかにもいるのだろうか?」と思ってネットで調べてみたら――、意外に多くいることが分かった。

 中には、赤い光だけがきれいに見えるようにと、「ビルの窓の明かりがほとんど消えた明け方にわざわざ夜景を見に行く」というマニアもいるようだ。
 さらには、「航空障害灯が好き過ぎて生きるのがつらい」とまで言う投稿があったり、とうとう我慢できずに現物の航空障害灯を一基、個人で購入したという人もいた。(間近で見てどうするのとも思うけれど、「高嶺の花」を自宅に生けているような感覚かもしれない…)


 でもそうした人たちも、「どうしてあの光に引かれるのか?」については、大方が「なぜかよく分からないけど」という感じだ。
 不思議なものですよね…。でも、「自分だけではない」ということが分かったのは、僕としては多少の発見だった。


 もう一つ、皆既月食の晩にあったエピソード。

 月を眺めているとき、南側の空の一部が、うっすらと光っているのに気が付いた。
 おやっ? と思ってしばらく見てみると――、どうやら遠くの地上に何か強烈な光源があって、その上空が照らされている様子だ。
 光は数秒の間隔で周期的に明滅し、雲だか煙だかが立ち昇っている。
 こんなのがベランダから見えるのは初めてだ…。

 その方角の5kmほど先に大きな公園があるから、強い照明をたいて屋外イベントでもしているのだろうか…、あるいはそこは消防のヘリの発着場にもなっているので、夜間の災害救助訓練をしているのだろうか…、とか、色々と推察してみたのだけど、どれも当てはまらない気がする。
 変な話、「巨大UFOが着陸している」と言われたら信じてしまうくらいの奇妙な光り方だった。


 すると高校生の息子のが、ネットで調べて答えを見つけた。
 なんと、その光の正体を突き止めるためにわざわざタクシーに乗って、Twitterでリアルタイムにリポートを書き込んでいる人がいたのだ…。

 その光の源は――、うちから30kmも離れた川崎市の石油コンビナートだった。
 不要なガスを煙突から燃焼させながら排出する「フレア・スタック」と呼ばれるもので、すごく豪快な炎を吹き上げるため、火災事故と見間違えられることがよくあるらしい。

 ちなみにその書き込みでは、近隣に住む人も「ここまで明るいフレア・スタックは初めて」と話していたそうだ。
 たぶん、空の空気が非常に澄んでいたからでしょうね…。


 で、その月食の晩に実感したことは――
 何か自分が心を引かれたり、強く関心を持つものがあるとき、同じように思っているのは決して一人だけではない…、ということ。

 きっと、ごく個人的ではっきりとしないものごとでも、同じように感じる人たちが語り合って分かち合うことによって、確かな何かが見出されていくのだろうな…、なんてふうにも思いました。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Steven Halpern「Om Zone 2.0Ⅱ」。

web拍手 by FC2
  ☞ コメント:10

 


 スピリチュアルの教師や、さらには名だたる覚者でさえも、たいていどこかで「伝えることはとても難しい」とか「正確に伝えることはそもそも不可能だ」といった言葉を口にしています。

 宇宙の真理を見通すパワーと英知があったとしても、それを人々に「伝える」となると…、もはや「英知を超えるほど困難なテーマ」と言っていいのかもしれないですね。


 「伝える」ことの難しさというのは、何もスピリチュアル分野に限ったことではなく、サイエンスにおいても実は最高難易度の課題である。

 人類は、宇宙開発やエネルギー、生命工学などのあらゆる分野において、急速な技術的進歩を遂げてきた。
 ところが「伝える」ことに関しては、ほかの分野とは極端に不釣り合いなくらい、未発達なままの状況なのだ…。

 もちろん情報通信技術を使って、地球の隅々にまで情報を瞬時に届けることはできる。
 でもそうした情報を「正確に長きにわたって伝え続ける」となると、もはや現時点の人間の知識レベルでは完全にお手上げになってしまうのだ。不思議なことだけど…。
 今回は、そういう話題です――


 これまでに人類が作ってきた建造物の中で、いちばん先の未来にまで残るものは何でしょうか?――

 大都市の高層ビル? 巨大ダム? それともピラミッド? あるいは実際に未来になってみないと分からない?…
 答えはすでに確定していて、フィンランドにある「オンカロ」と呼ばれる施設だ。

 オンカロは、原子力発電所から排出される高レベル放射性廃棄物を埋めておく最終処理施設で、硬い岩盤を掘削した地下500メートルに作られている。
 2020年から運用を開始し、2100年には1万トンもの核のゴミを収容して満杯になる計画だ。

 そしてオンカロは、危険な放射性廃棄物を「埋葬」した状態で、永久的に封印される。
 放射能が安全なレベルに下がるまでには、10万年もの歳月を要する。オンカロが建造された場所は「過去18億年間動いてない」という岩盤層で、10万年の先ならばそのまま問題なく持ちこたえるはずだ。
 (現存する建造物で、10万年先まで想定されているものは他に存在しない。コンクリートの耐用年数はわずか60年にすぎない。石を積み上げたピラミッドも、まだ5千年程度しか経っていない…。遠い未来においてオンカロは、現在の私たちの文明が残した唯一の遺物となる)


 ところがこのオンカロには、ひとつの重大なリスクがある。
 それは――、未来の人々が施設の危険性を理解せずに「掘り返してしまう」のではないか、ということだ。

 これは北欧のドキュメンタリー映画『100,000年後の安全』に描かれているのだけど、この施設建造にあたっての最大の未解決テーマが――、
 「どうすれば10万年後の人々に、警告を確実に伝えられることができるか?」なのだ。

 ちなみに「10万年」がどれくらいの時間スケールなのかと言えば……、
 10万年前の過去にさかのぼったヨーロッパは、ネアンデルタール人が石器を使ってマンモス狩りをしていた時代である。
 それと同じだけの途方もない時間が経過した未来において、人類が果たしてどういう状況になっているのか、誰にも予測がつかない。
 超高度な文明を築いているかもしれないし、逆に文明が崩壊して原始人レベルに後退しているかもしれない。

 そんな中で最も困るのが――、未来の人々が「穴を掘る技術はあっても、放射能に関する知識を持たない」という段階にある場合だ。
 そうした人々がオンカロの跡地を発見して、「いったい古代人たちはこんなものを作って、何を埋めたのだろう?」と、探究心にかられて発掘してしまう可能性は十分にある。
 現在の私たちが、用途の分からないピラミッドの謎に引かれるのと同じように…。


 そんな事態を防ぐための手立てとして考えられているのが――、「警告」を刻んだ石碑をそこに建てるという案だ。

 地下には石室を設け、いくつもの言語で「この場所にはあなた方の役に立つものは何もない。ここから先は非常に危険だから、決して掘ってはならない。すぐに立ち去りなさい!」といったことが書かれるそうだ。

 でも、こんな見るからに意味深長そうな遺物があったら、かえって何があるか知りたくなるのが人情ですよね…。しかも放射能廃棄物は、銅製のカプセルに厳重に封入してあるそうだから、それがあたかも「秘蔵されたお宝」のように見えても無理はない。
 10万年後にインディ・ジョーンズ博士みたいな考古学者がいたなら、どんな危険もかえりみずに掘り進んで、カプセルの中を開けてみるに違いないと思う…。


 警告を伝えるうえで非常に難点なのが、「現在のどの言葉もまったく通じないだろう」ということだ。
 何しろ、ネアンデルタール人と現代人くらい時代が離れているわけだから、彼らがどんな文化を持っているか、何に関心があるかさえも分からない。体の形質が少し変化している可能性だってある。

 そこでオンカロでは、まったくの「異文化」とコミュニケーションを取るために、文字ではなく絵によって警告を伝えるというアイデアも盛り込まれる。

 見るからに危ないと分かるような標識を設置したり、ムンクの「叫び」の絵を掲げておくという大まじめな案もある。

 でも、そういうのを設置したところで――、未来の人々に危険性が正しく伝わって近づかなくなるとは、誰も確信できないだろう。
 目下のところ、決定的な方法というのは何ひとつない。この場所が危険であることを「語り継いでいく」ことしか、未来にメッセージを伝えていく有効な手立てがないそうだ…。


 それにしても…、是非はともかく原子力エネルギー技術や、大深度地下の掘削工事技術、放射性物質の保管処理技術とかが一定レベルあるにもかかわらず――、
 その危険性を「伝えていく」ことに関して、人類がこれほど未発達であるという点にすごく驚かされてしまう。


 冒頭の話に戻りますけど――、
 この「伝える」という能力や可能性が、まるでそこだけがスポッと欠落してしまっているような状態って、とてもアンバランスで不思議な感じだし――、
 まるで私たちが「あえてそのような構造」に作られているのではないかとも思えてくる。

 スピリチュアルなテーマを学びはじめると、いちばん肝心なところが「うまく伝わらない、分からない」という壁に必ずぶつかる。
 「真実の本質」が、もしそのまま語り手からストレートに伝わってきて、自分がスッと理解することができれば、すごく楽なのだけど…、残念ながらそういうふうには普通なかなかうまくいかない。


 こうしたことから思えるのは――
 私たちは、本当のことがうまく「伝わらない」ように、それを「自分自身で探し求める」ように、意図的に仕組まれているのではないかな…。

 それこそが生の目的であり、楽しみであり、避けることのできない道なのだ――、というふうに考えています。
 きっと10万年前に埋められた「とんでもないもの」が出てくるかもしれないです。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Hilary Stagg「Reflections of Love」。

web拍手 by FC2
  ☞ コメント:41

 


 この地球という星は、スピリチュアルな意味で、特別な性質を備えた場だということがよく語られます。

 たとえば――、私たちはバラバラであるという「分離の感覚」が、ほかの星では経験できないほど強烈であるとか…、
闇が世の中を席巻するなど、ネガティブなエネルギーに関しても「100%の自由」が許されているとか…。

 こうした特質は、広大無辺な宇宙の中でも、地球ならではのものなのだと言う人もいる。
 ただそう聞くと、異様なほどに過酷な場所だし、結果的にろくでもない低劣なあり方に陥っていきそうな気もするけど…。


 一方で、地球というのは、魂にとって「飛躍的な進化」が可能な唯一の場であるというふうにも説かれる。
 宇宙は(あるいは大いなる魂とか神は)、その飛躍的な進化を実現する目的のために、この地球を創造した――、というわけだ。

 で、この「地球ならではの特質」と「飛躍的な進化」とを考え合わせると…、
 あくまで一つのイメージ的な切り口なのだけど、宇宙はこんなふうな計画的意図をもって、地球と人類をつくり出したのではないかなと、僕自身はよく思う――


 まず、魂の「飛躍的な進化」をなし遂げるには、膨大な量のエネルギーが必要になるはずだ。
 私たちの内的なエネルギーには、「ポジティブ」なものと「ネガティブ」なものがある。

 「喜び」などポジティブなエネルギーというのは、わき上がったその場で、すぐに放たれて流れていく性質がある。
 もちろん、今を味わうという点でそれはとても素晴らしいことだけど――、こうしたエネルギーはそもそも「ため込む」ことができない。

 たぶん宇宙のどこかには、ポジティブなエネルギーだけがサラサラと流れている星があるのかもしれない。そこにいる魂たちは、いつも喜びと幸福感に包まれながら、互いにつながり合ってくつろいでいるに違いない。
 ただし、さらなる「進化」という点においては、そうした星はきっとかなり緩慢なのだろうと思う…。爆発的な変容を生じるほどのエネルギー量が、ため込まれることがないからだ。


 一方で、怒りや憎しみ、悲しみ、みじめさ、弱さ、罪悪感、自己否定感といったネガティブなエネルギーは…、地球にいる誰もがうんざりしながら実感している通り、生きている間にどんどんため込まれていく性質がある。

 そのようなエネルギーのわき出る根源的な仕組みが、私たちはバラバラであるという、地球ならではの「分離の感覚」だ。
 バラバラに対立しているから、相手のことが腹立たしくねたましいし、一人で取り残されて離れているから、自分にことがみじめで淋しく感じられる…。


 つまり、分離感覚にもとづいた他者との関係性によって、ネガティブなエネルギーがこの世界にの中にどんどん生産されていく。
 さらに、そのネガティブなエネルギーが「ため込まれる」という性質をうまく活用することで、ばく大な量のエネルギーが地球上に積み重ねられていく。

 そうして最後に、この鬱積したエネルギーを使って、ほかの星では実現し得ないほどの「劇的な変容」のパワーへと転換する――、
 といったことが、ほかならぬ地球に託された機能なのではないかなと思う。


 この点で私たち人類は、有史以来、本当に「もくろみ通りうまくやってきた」と言える。
 破滅に至りかねないぎりぎりのシナリオを歩み、なんとか最悪の結末を避けながら、人類全体で十分なエネルギーがたくわえられてきている。


 ただしもちろん、ネガティブなエネルギーをずっと最後まで内に抱え続けていても、単にストレスとして鬱積した形で終わってしまう。
 あるいは怒りを周りにぶつけたとしても、相手の中で怒りや恐怖が増幅されてしまうだけだ。同時に、怒りに任せて振る舞った当人も、それをカルマとして後に持ち越すことになる…。


 私たち人類に備わる、最高の神秘――
 それは、自らの内にある「鬱々としたエネルギー」を、輝かしい「進化のエネルギー」に転化することができる点ではないかなと思う。

 自分の内にある、忌み嫌っていたエネルギーを、ただそのまま抱きしめてあげたとき――、そうした変容が起こりはじめる。
 この働きは、私たちの本質である「愛」の原理にほかならない。
 実は私たちの誰もが、ある種のアルケミスト(錬金術師)であり、高度なエネルギー使いなのだ。

 その働きを助けるテクニックやツールなどは色々あるだろけど――、根幹はやはり、自らを全面的に抱きしめられるかどうか、さまざまなネガティビティーを含む自分自身をそのまま許して受け入れられるかどうかという、ものすごくシンプルなテーマに尽きるだろう。
 技法よりも、「決意」とか「信じる」ことにかかわるのだと思う。


 私たち一人ひとりが、自らに備えられたその力を使って、世界に膨大に鬱積しているエネルギーに点火をしたとき――、地球は新しいあり方の星になる。

 ネガティブなエネルギーに覆われていたのに、それを人類自らの選択で惑星ごと変容させたという、宇宙の歴史にかつてない「革新的な真実」が加わる。
 それによって宇宙全体が、新しい次元へとシフトを加速させていく――

 そんな、内的で宇宙的な物語が進んでいることを想像しています…。



結びのヒーリング・ミュージックは、Juliana「Guardian Angel」。

web拍手 by FC2
  ☞ コメント:30

 


 息子が通う高校のPTAをしていることもあって、先月は文化祭とか体育祭の準備やらで、ばたばたとあわただしい日が多かった。
 ま、とても平和なあわただしさではありますけど…。

 もうひとつ、先月は大きな区切りがあって、大学院生だった妻が、なんとか無事に修士課程を「修了」することができた。(通常は3年程度のところを、期限ぎりぎりの実に6年かかって…。でも全員が修了できるものではないから、良くやったと思う)

 過去のブログ記事で何度か書いたことがあるけど、妻はアルコール依存症の父親がいる家庭育ち、かつて重い鬱を患っていた。結婚後に十数年にわたる通院治療の結果、今ではほ鬱をぼ克服できている。(鬱の妻との暮らしは、僕にとって本当に大変な経験だった…)

 そうした中で彼女は、自分自身の病気についてもっと詳しく知り、できれば今度は自らが人を支える立場になれればという希望もあって――、40歳を過ぎてから臨床心理の大学院で学ぶようになった。


 長くかかった治療費も、大学院の学費のほうもけっこうな金額だったけど…、以前は僕がそこそこ稼ぎのいいサラリーマンだったため幸いにも支払い能力はあったし、最近は会社を早期退職して家事全般を引き受けているから、妻にとって「タイミングのいい助け」にはなっていたのではないかな思う。
 ある意味で、運命的に織り込まれたタペストリーの糸のような関係性なのかもしれない。

 とはいえ、互いに親しく理解し合えるような夫婦関係ではぜんぜんないし、妻は僕に面と向かって「いつか経済的に自立して離婚するのが夢」なのだと言う。
 まぁ、そうなるときが訪れたら、「この関係性におけるレッスンは、無事に卒業ですよ!」という天からのお知らせだろうなと考えている。


 ただ現実的には――、大学院を出たからといって、すぐに専門職としての仕事に就けるというわけではない。妻も当面は、普通の主婦のパートタイマーの仕事を探していく感じだ。
 つまりは、「もうしばらくはこの関係性に取り組み続けなさい」という天意だろうなとも思う…。
 でも、そんな相変わらずの現状であっても――、妻の大学院修了は僕自身にとっても、ひとつの大きな節目だなと感じる。


 で、こんなたぐいの話題は過去に一度も書いたことがないのだけど…、きょうの明け方にちょっと印象的な夢を見た――

 夢の中で僕は、広々とした荒れ地の平原にいた。
 そこは大きな岩があちこちにあって、平原全体が緩やかな下り斜面になっていた。

 そして自分が立っている近くの地面に、暗い穴がぽっかり口を開けていた。人が体を横たえながら入れる程度の大きさで、そこが地下の洞窟への入り口になっている。
 僕は穴の中に体を潜り込ませていった。別に探検のためではなく、そこが「何らかの目的地につながる経路」のような感じだった。

 洞窟の空間はあまり広くはない。足元に地下水が流れ、ところどころに水が池のようにたまっている。
 暗い中をしばらく進んでいき、やがて地上への出口に近づいたそのとき――
 すぐ先のところに、驚くほど大きな蛇が、とぐろを巻いていた。「こんな生き物が世の中に実在したんだ」と、誰もが圧倒されてひるんでしまう巨大さだ。
 胴は、神殿の石柱のように太くて重々しく、湿って光沢のある表皮には、アナコンダのような大柄の「蛇紋」が付いている。

 そこが蛇の「ねぐら」だったのかもしれないし、ひょっとしたら獲物が通るのをじっと待ち伏せしていたのかもしれない。
 僕がいることに気付いたのか、蛇の体の一部がゆっくりとくねった。

 こんな大蛇が飛びかかってきて、かみついて巻き付かれたら、もう絶対にひとたまりもない。
 「出口まで思いっきり突っ走ったら、何とか逃げられるだろうか…。でも、ここでこんな生き物に出会って、もしも食われてしまったとしても、それはそれで自分の定められた運命かもしれない…」
 ――なんてことを、怖がりながら考えていたら、気持ちが高ぶったためかハッと目が覚めた。


 ふだんは夢なんて気にしないのだけど(はちゃめちゃな内容の夢しか見ないので…)、今回は妙に生々しくて象徴的だったので、ネットの夢診断のサイトをちょっと見てみたところ――
 大蛇の夢はというのは、「すごい大吉」から「人生の破滅」まで、ずいぶんと極端な両面性があるようだ。

 ま、どうかは分からないけれど、実生活面でも夢の世界でも、何らかの変わり目にあるのでしょうかね…。



 結びのヒーリング・ミュージックは、久石譲「銀河鉄道の夜」。

web拍手 by FC2
  ☞ コメント:28

 


プロフィル

Koudai Mitsuna

Author:Koudai Mitsuna
 
光奈 広大(みつな・こうだい)

 20年のあまりのサラリーマン生活を経て、いわゆる「ザ・マネーゲーム」を何とか卒業。今では束縛されない自由な日々を存分に味わっています!

 そうした中で心がけているのは、普通の日常的な行いを通じて、意識の進化を目指す「カルマ・ヨガ」。

 日々の喜びや学び、インスピレーションから得たスピリチュアルな気付きなどをブログで紹介しています。

 妻子と都内在住――。





http://facebook.com/koudaimitsuna

最近の記事
ツイッター
アクセス

CALENDaR 12345678910111213141516171819202122232425262728293031
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。