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 前回記事で、イスラム教の開祖ムハンマドの生涯を描いた「ザ・メッセージ」という映画について触れました。

 この映画で、ちょっと興味深く思いながら見たのが、メッカにある「カーバ神殿」の初期の姿が再現されているところだ。
 上にある写真がそうだけど、殺風景な砂漠の街に置かれた、巨大な四角い箱ですよね…。


  現在のカーバ神殿がこれで、今と昔とではまるで映画スター・ウォーズでの「違う星の景色」くらい、本当にすごい変容ぶりである。

 そういえば、イスラム教のことを漢字で「回教」と書く。実は僕はずっと、この神殿の周りを大勢の教徒が取り囲んでぐるぐる回っているから、そのように呼ぶのだと思い込んでいたのだけど、そういう由来じゃないんですね…


 メッカといえば、「中心地」や「あこがれの地」の代名詞であり、世界から年間200万人ものイスラム教徒がこのカーバ神殿へ巡礼に訪れる。

 ではいったい、この四角い神殿の中には、何がまつられているのでしょうか?――

 なんと、中身は「からっぽ」なのである…。
 通常は立ち入りができないそうだけど、関係者が内部をこっそり撮影した映像が、動画サイトにあった。


 壁にレリーフのようなものと柱があるだけで、あとはまるで未入居のマンションみたいに、本当にがらんどうですよね。
 (土台に「聖石」が埋めこまれている話はよく知られているけど、それはイスラムの教義というより、どちらかというと民間信仰に近いものだろう)


 で、どうして中に何もないのかというと――
 もともとここは、360体もの神々の像をまつる「多神教の神殿」だった。
 イスラム教を開いたムハンマドは、故郷のメッカに戻った際に、そうした偶像は唯一神の教えに反するものだとして、外に放り出してことごとく打ち砕いた。

 以来イスラム教では、中に何もまつられていない「からっぽの神殿」に向かって拝んでいる、というわけだ。


 いわば「空」を求めて巡礼して、「空」を中心にぐるぐる回るって…、何だか象徴的ですよね。

 私たちの魂の旅路というのも、実はそういうものかも知れない。
 でも最終的には――、それは遠い地ではなくて自らの内にあること、そして中心の「空」こそが私自身の本質であると見いだすことが、最近のスピリチュアルの教えと言えるでしょう。


 ちなみにイスラムの中にも、人の「空性」について説く、スーフィーという一派がある。
 その著名なマスターであるルーミーの詩は、古いインドの教えや禅などにも通じるものがあって、素晴らしいなと感じる。

 その、たくさんある詩の中から、僕が好きな4つです――


私はどこからやって来たのだろう? 何のためにやって来たのだろう?
私の魂が、どこかからやって来たのは確かだ。
それなら、やがてどこかに帰っていくことも確かなはずだ。


私はこの世のものでも、あの世のものでもない。
私は独自の物語を生きるものではない。
私は居場所を定めないし、跡を残すこともない。
始めも終わりもなく、外側も内側もなく、ただ一つにつながり――、人間に息を吹き込んでいる。


「在る」とは、見えている姿ではない。
「無い」もまた、見えていないことではない。
世界の実存は、世界の中にはない。


癒されるために祈ってはならない。
もう一つの世界の証拠集めなどやめなさい。
あなたが魂なのだから。あなたが魂を癒す者なのだから。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Kevin Kendle & Llewellyn「Mermaids of Atlantis」。

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 イエスの生涯や受難をテーマにした映画作品はいくつもあるけれど、一方でイスラム教の開祖であるムハンマドを描いたものは――、40年ほど前の『ザ・メッセージ』という映画のたぶん1本しかないでしょう。

 この映画のすごくユニークな点が、主人公のムハンマドの姿がいっさい出てこないことである。
 何しろイスラム教では、ムハンマドを絵や彫像で表すことを厳しく禁じているから、スクリーン上の映像についても当然その例外ではない。


 じゃあ、映画ではどうしているのかというと――、
 ムハンマドが登場する場面では、カメラ・アングルそのものが「ムハンマドの目線」として描かれている。

 つまり、弟子がムハンマドに向かって話すシーンでは、見ているこちらに向かって(要はカメラに向かって)話しかけている。
 また、ムハンマドがラクダにまたがって街を行く場面も、当人の目線で描かれている。目の前にはラクダの後頭部と、手にしている杖が映り、そして周りの人々や風景が後ろへ通り過ぎていく――。


 そのようなシーンをじーっと見ていると、自分がその主人公の立場になったような気がしてくる。
 と言うより…、画面はムハンマドの視界であり、その画面のさらにこちら側から眺めている自分というのは――、ムハンマドの目の奥から見ている「主体的な何か」という感じもしてくる。

 もちろん、主人公の目線で撮影されたシーンというのは、多くの映画やテレビ・ドラマにもごまんとある。
 でも、このようないわば「特殊な主人公」の場合だと、そんな気持ちになりやすいのかも知れないです…。


 そうした、目の奥から見ている「主体的な何か」をうまくとらえたのが――、物理学者で哲学者のエルンスト・マッハが描いた自画像だ。(音速を示す単位の「マッハ」は、この人の名にちなんでいる)

 スピリチュアル関連ではけっこう知られた絵だろうけど、初めて見る人には、何を意味する絵だかあまりよく分からないかもしれない。
 これは、ごく日常的に目にしている自分の姿と周りの景色を、まさに「見える通り」に忠実に描いたものだ。

 ソファに座って伸ばした両足。ペンを持った右手。腹のあたりに置いた左手。それらの向こうには、室内の風景が続いている。
 で、右側にある奇妙に湾曲した形は何かというと、これは自分の鼻である(片目で見てみると、誰でも同じように目に入る)
 さらに下にはひげの端が見えていて、上にはまつ毛があり、そしてまぶたの裏側が影のように少し覆っている。


 実は私たちの目には、いつもこのような感じで周りの世界が見えているわけだ。
 でも、まるで「窓」のような目から世界を眺めていることを、意識する機会はまずないだろう。

 このマッハの絵の観点で見てみると(不慣れな見方ではあるけれど)、自分の手や足も、何だか外の世界の一部みたいに思えてくる。
 そして、その目の奥から眺めている「主体的な何か」――、それこそが、ありありとした「私」の本質であると感じられる。

 それは常に頭の中心にあって、自分はずっとそこから周りの世界を見ながら生きてきたにもかかわらず、「私の本質とはこれである」と認識することは普段ない。


 こうした話は、ダグラス・ハーディングという人が著書などで色んな角度から述べているけど――、
 自分の中心を丹念に探っていくと、そこには本当に「何もない」ことにハッと気づかされるんですよね。

 たとえば、いまこのブログを読んでいる人は、パソコンやスマホの画面を見ているところでしょう。

 では、この画面を見つめている、そもそもの根源のところ――、つまり自分の頭の中の、目のさらに奥にある、意識の中核部分――、
 そこを振り返って眺めるようにして(実際に視線は向けられないけど、あたかもそうするつもりで)、慎重に、静かに、じっと感じてみると――

 そこに、いったい何があるでしょうか?


 マインドはきっと、ここには脳が詰まっているとか、視神経や血流があると説明するだろうけど――、
 でも実際のところ、そういう生々しい肉体的な感覚というのは、頭の内側にはあまりリアルに感じないはずだ。

 そんな思考による後付けの解釈をしないで、「そこに本当にあるもの」の率直な実感だけをとらえながら、集中して振り返るように探っていくと、どうだろうか――

 視線は目の前のこの画面や、周りに見えるものを全体的に広くとらえながら――、
 その視線を発している「頭の内側の源」のほうに、意識の向きを逆転させて焦点を合わせてみると――、

 そのうち、自分の頭の部分が、フッと消えたみたいな感じになるのではないでしょうか…。


 そして、頭があったその場所には――、限りなく透明で、かつ開けた「広がり」みたいな感覚だけが残っているだろう…。

 それは、姿かたちがいっさい何もない、からっぽの「空」ともいえる。
 にもかかわらず、そこには「私」という主体としての、他にはあり得ない親密さが、はっきりとしてある…。


 それが、自分の本質――。
 般若心経で「目もなく、耳もなく、鼻もなく、舌もなく、身体もない」と語られている、「空」としての特性といえる。

 その「私」は、誰かに触れられたり、傷付けられることなど絶対に不可能だ。


 ――こうした内容はもはや、ブログの文面で伝えられる限度を超えたものかも知れない(そもそも今回、こんな話に進展していくつもりはなかったのだけど…)
 でも、「何となくちょっと気付くものがある」という人がもしもいれば、本当にすごく嬉しいですね!



 結びのヒーリング・ミュージックは、Kip Mazuy「Silk」。
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 前回記事で、私たちの誰もが持っている「思考パターン」は、案外シンプルな基本要素からできている、という話をしました。

 その要素のひとつが、自分には重要なものが「欠落」しているという認識。
 そしてもうひとつが、自分と他者との「差異」ばかりに着目しようとする見方だ。


 まず「欠落」については――、
 人はたいてい自分自身に関して、「今あるもの」よりも、「失ったもの」とか「持っていないもの」のほうへ、つい重点的に意識を置いてしまう。
 そしてその欠落部分が、自分のアイデンティティーのようになってしまったり、あるいはそれを埋め合わせる目的のために、人生のエネルギーの大方を費やしてしまう…
 ――というのが、前回の話でした。

 今回は、その続きの「差異」についてで、これもかなり近い話です。


 差異についての最も象徴的な例といえるのが、「宗教」だろう。

 ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は、聖地が同じエルサレムである。
 また、それぞれが違う神を崇拝しているから対立しているわけではなくて、「神も同一」なのである。

 旧約聖書で「ヤハウェ」と名乗っているまさにその唯一神のことを、イスラム教では「アッラー」と呼んでいる。
 (ちなみに、ヤハウェはヘブライ語で「私は在る者」という意味で、アッラーはアラビア語で「神」を指す普通名詞)

 さらにイスラムにおいては、聖書物語で有名なノアも、モーゼも、そしてイエスも、神の言葉を伝える「預言者」として位置づけている。
 それと同じ神が、預言者のムハンマドを通じて伝えたのが、イスラム教というわけだ。


 聖地が同じで、神も同じで、教義についても共有する部分が大きいのだから、「私たちはまさしく同胞である!」――なんていう親密な関係にはならない…。
 現実には、歴史やニュースで見る通り、互いの「差異」の部分だけが圧倒的に強調され、激しい対立を生み、世界的な紛争の火種になってしまう。


 それと同じように――、日常場面で自分が批判したくなる相手や、受け入れられない相手というのも、実は根幹となる大部分は「互いに同じ」というケースは少なくないだろう。

 ところが、その「同じ」である全体像は、ほとんど目に入らない。部分的な「差異」のほうこそがすべてであるように、そこだけがクローズアップされた形で心に映ってしまう。
 そして「相手のことが絶対に容認できない、許せない!」という、怒りや憎しみの感覚が引き出されていく。


 人と人はどこまで同じかと考えていくと――、たぶんどこまでも同じなのだろうと思う。

 「いやいや、自分がもし相手の立場だったならば、あんな振る舞いや言動は絶対にしない。自分と相手とは、根本的に違うんだ」という人もいるかもしれないけど…、それはやや想像力が及んでいないと思う。
 もしも、自分自身が相手と完全に同じ立場になったならば――、つまり、その人と同じ生い立ちで、同じ教育や出会いや経験を積み、同じアクシデントにも遭い、同じ心の傷や未解決の問題を抱え、それらを通じた考え方を持っていたならば――、きっとどんな人だって、その相手とほぼ同じ振る舞いや言動をするに違いないはずだ。

 その意味では――、残虐なテロリストも、我欲におぼれる権力者も、道端で息絶える最貧困層の子供も、置かれた境遇や立場は相当に違うけれども、実は本質的なところで自分とまったく違わない存在といえるだろう。


 さらにまた別の、突き詰めた見方をすれば――

 私たちを遺伝子レベルで見ると、人間の遺伝情報は99.9%が共通しており、個体差というのはわずか0.1%しかない。
 世界には多様な人種・民族がいるし、個人個人の体格や容貌、能力や性質などはまさしく千差万別だ。
 そうした違いは確かに存在するけれど、それは実は「0.1%」の違いに過ぎない。

 また物質レベルで見ると、私たちの身体は、酸素や炭素、水素、窒素をはじめとする約30種類の元素の、きわめて精妙な組み合わせによって形作られている。
 その比率がわずかでも違ったら、「人間」というものを構成して機能させることができなくなる。
 この物質的現実において、私たち一人ひとりの違いというのは、そもそも存在し得ないのだ。
 (この話は、過去記事の「私たちはどこまで同じか?」でやや詳しく書いています)


 私たちは、互いの違いを見いだすことのほうが困難といえるレベルまで、実際に「同じ」なのである。
 なのに、きわめて微小なはずの「差異」ばかりに着目して、それを「大きくて根本的な違い」ととらえてしまうのは、マインドの屈曲した極大化の作用といえるだろう…。


 もちろんこのことは、「考えの異なる相手にも意見するな」とか、「相手がしてくるどんな行為をも拒絶してはならない」と言いたいわけではない。
 そうしたやり取りを通じてもたらされる、互いの学びや進歩というのも、当然あるはずだ。

 でももし、これまでの反応的な思考パターンとは異なる道を取るならば――、
 つまり、自分に「ないもの」でなく「今あるもの」のほうをとらえ、他者との「違い」ではなく「同じ」であることのほうに着目したうえで、自らの考えや態度やあり方を選ぶならば――、
 自分や周りの世界の問題というのは、相当に変わってくるはずだ。そこから得られる学びや進歩も、従来とは格段に違ってくるだろう。

 それが、現実的に今から私たちが取れる「次のステージへのステップ」であるとも思います。


 で、この「欠落」と「差異」の話を書きながら、確かどこかに近いことが書かれていたな、と思っていたら…、
 『神との対話』の3巻目に、まさしくこんな一文がありました。

 『足りない』という人間の意識、それが、すべての不安、プレッシャー、競争、嫉妬、怒り、葛藤、そして殺し合いの根本原因だ。

 それと、すべてはひとつではなく『ばらばらだ』という信念、それがあなたの人生をみじめにし、人類の歴史を悲しいものにしている原因の90%を占めている。

 この2つの意識を変えれば、すべては変化するだろう。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Pushkar「Simple Living」。

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 私たちの誰もが持っている「思考パターン」というのは、たいていどこか屈曲して、複雑で、手前勝手なものだともいえるでしょう…。
 そしてその「ひずみ」が、自分自身の心の苦しみや、外部のあらゆる問題を作り出している根源であるというのも、よく指摘されることです。


 で、そうした思考パターンは、あくまでその人その人の個人的な生い立ちに根差すものであり、とらえどころがないくらい入り組んだ構造のようにも思える。

 ところが、パターンの基本要素というのを考えてみると、案外あっけないほど単純だったりする。
 その基本要素のひとつが、自分には重要なものが「欠落」しているという認識。
 そしてもうひとつが、自分と他者との「差異」ばかりに着目しようとする見方だといえる。

 今回、私たちの思考パターンの「気付くべきポイント」について、ちょっと考えてみたいと思います――。


 まず「欠落」については、投資の話がけっこう分かりやすいだろう。

 たとえば500万円の資金で投資を始めたが、失敗して資金が300万円まで減ってしまったとする――。
 するとその人は、自分自身のことを、手元に残っている通りに「資金300万円の投資家」とは普通あまり考えない。
 自分は「200万円の損失を抱えた投資家」であるというふうに考えてしまう。

 つまり、現に存在する資金のほうではなくて、すでに消えて無くなった損失のほうを、まるで自らのアイデンティティーのように念頭に置しまうわけだ…。


 「大事なお金を失ったのだから、気になってしまうのが当たり前だろうし、これから何とか巻き返していけばいいじゃないか」と思うかもしれないけれど、実はそれはとても危ない考え方なのである。

 マーケットの成功者たちの投資手法は、実に千差万別である。「これこそが正しい」という万能の法則は存在しない。
 ところが逆に、投資に失敗して破綻してしまうケースというのは――、米国の心理学者の研究によると、何とたった一つのパターンしかないそうだ。

 それは、「損失を取り返す」ことだけを考えて、行動してしまうということ。

 このことは一般の個人投資家だけでなく、経済史に残るような金融会社の大破綻についても、まったく同じことが当てはまってしまう。(この話は、けっこう以前の記事「損失という幻の重荷」でやや詳しめに書いています)


 「損失を取り返そう」とする気持ち――、すなわち、たった一つの破綻パターンにいつの間にか陥ってしまうという図式は、投資に限った話ではない。

 人はたいてい自分自身に関して、「今あるもの」よりも、「失ったもの」とか「持っていないもの」のほうへ、つい重点的に意識を置いてしまう。
 そしてそれを獲得したり、埋め合わせる目的のために、人生のエネルギーの大方を費やしてしいく。

 もちろんその獲得が「建設的な目標」となる場合もあるだろうけれど…、実際は、もはや何ともしようのない「不毛な葛藤」であるケースのほうが、はるかに多いだろう。


 いま現に「あるもの」ではなく、損失や不足といった「ないもの」ばかりが目に入り、こともあろうかその「ないもの」が、自分の考えや行動、生き方の全般までを主導してしまう…
 これは、人間の本当に皮肉な性癖ですよね。


 でもここで、自分が「ないもの」に着目しながらものごとを考えているということをはっきり認識したとき――、
 過去からの思考パターンの根幹部分に、くさびを打ち込むことができる。

 「ないもの」を見つめ続けると、やがて自分がぜんぜん何も持っていない者のようにさえ思えてくる。
 でも「あるもの」のほうに目を転じていくと、自分は実はけっこう「持っている者」であることが分かってくる。

 イエスが語った有名な言葉、「持っている者はさらに与えられて、ますます豊かになる。持たない者は、その持っているものまで取り上げられる」というのは――、こうした私たちの気持ちのあり方にも、かなり当てはまることだと言えます。


 もう一つの基本パターンである「差異」については、また次回に――。


 結びのヒーリング・ミュージックは、Neil H「Wedding Song」。

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 先日に京都へ帰省した際に、「東本願寺」を訪れました。

 ここは、京都の大寺院としては珍しく「拝観料がタダ」で、京都駅からすぐの至便な立地にあり、そして床面積で世界最大の木造建築物である「御影堂」の中は、都市の真ん中とは思えないほど静謐で厳かな雰囲気が漂っている。
 僕自身は浄土真宗というわけではないのだけど、京都に帰った機会にたいてい立ち寄って、大広間の中でただじーっと座っているのが好きだ。


 今回はけっこう暇があったので、寺の中をぶらぶらと見て回ったら、親鸞や同宗の高僧の言葉を記した「標語」がいくつも通路に掲げられてた。
 それらの標語には、英語など外国語訳も併記されている。

 仏教用語というのは、一つの言葉にも長い解説が必要なほど深長な意味が込められているものだけど――、そうした用語の英訳を見てみると、「なるほど、平たく言えばそういうことね」というのがスッと分かるのがなかなかいい。


 たとえば「他力」という言葉は――、浄土宗の根本の教義である一方、世間的にはぜんぜん違う意味にとらえられていて、とくに会社などではよく「他力本願ではダメだ」なんて言い方もされたりする…。

 で、そこに掲げられていた標語の中に「他力」という言葉があったから、この難解そうな仏教用語にはいったいどんな英訳が付けられているのかなと思って見てみると――

  「The Power-Beyond-Self


 これは分かりやすい! 単純すぎるほど当たり前のことだけど、「他力」というのは要するに「自己を超えたパワー」にほかならないわけですよね。
 ややさっぱりと言い切りすぎのようにも思えるけど、これが「総本山」による訳なわけだから、最も適訳なのでしょう。


 ほかにも、「一切は、縁において生まれ、縁においてあり、縁において去っていく」という標語もあったから、この「縁」とはどんな英訳になるのか気になった。

 「縁」という言葉には、実に色んなニュアンスが含まれている。関係性とか、出会いとか、運命や相性とか…。
 ところが、この場合の「縁」の英語はズバリ――

  「Karmic Conditions


 つまり「カルマによる条件」。
 すべてその作用によって、私たちの周りの世界の出来事が生まれ、存在し、やがて消えていく、ということです…。

 ふつうに「縁において」と言われると、何となく「まぁ、そういうことだろうな」と軽く納得してしまうけれども――、
 「一切は、カルマによって条件付けられているのだ」と断言されると、この世の成り立ちの真相をビシッと見通されたみたいな感じがしてくる…。


 もちろん、言葉をとにかくシンプル化すれば良いというわけではなくて、平易に言い換えることによって重要な何かが抜け落ちてしまうことは避けられないだろう。
 その何かとは、具体的な意味だったり、言い含められた精妙なニュアンスだったり、言葉の響きが持つ趣だったりもする…。

 実際に、「他力」という言葉と、「自己を超えたパワー」という言葉とでは、指し示す意味のポイントや範囲に、いくらかの違いがあるはずだ。
 そしてその違いを解消するためには、正確で詳しい説明がどうしても必要だろう。


 でもここに来て――、言葉を受け取る人たちの内的状態のほうが、急速に変わってきているのではないかなと感じる。

 「自己を超えたパワー」とか「カルマによる条件」といった、ものすごくシンプル極まりない真実の言葉に対して、その人の「内なる知」のようなものが敏感に呼応する…
 そしてその呼応によって、導かれていく…
 そんなふうに、ある程度の人たちがなっているのではないかと思う。

 そしてそうした変化もまた、「自己を超えたパワー」がもたらしているのでしょう…。
 ということを、標語を見ながらちょっと感じました。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Jon Mark「Dream of Arthur」。

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 ブログでよく書いているけど、僕は大きな川沿いの長距離ウォーキングが、趣味的にとても好きです。

 ふだんは東京の荒川や江戸川、多摩川などを歩いているけど――、関西の実家に帰省しているせっかくの折なので、きのう初めて淀川の河川敷をウォーキングしてきました。
 コースは大阪中心部の「十三駅」から、京都との境にある「大山崎駅」までで、歩行距離はちょうど30km。


 ウォーキングする立場にとって、「東京の川」と「大阪の川」の一番の違いはどんな点かと言うと…

 東京の大きな川は、いくつもの鉄道路線が川を渡る形で交差していて、川の付近にはだいたい数キロ間隔で駅がある。
 そのため、基本的にどのあたりからでもスタート可能で、そしてどのあたりでも挫折可能である。

 一方で大阪の淀川の場合、中心部から離れていくと、川と交差する鉄道路線がない。
 なので、コース取りの自由度があまりなくて、途中でやめて電車に乗って帰れる「挫折に適した場所」も限られてしまう。


 僕自身も今回、「30kmも歩くほどのやる気はないな…」と思ったのものの、ほかに適当なコースが見当たらなかったため、やむなく不退転の決意をもってウォーキングに臨むことになった(と言うのは大げさだけど)。


 でも、天気は素晴らしく良かったし、秋の雲は空高く、淀川の河川敷はひたすらにだだっ広く、川沿いの歩行者道は彼方まで延々と伸びていて――、本当に心地のいい理想的なウォーキングでした!


 いつも川沿いを歩きながら、自分自身でも不思議な感覚だなと思えるのだけれど…、川の「こちら側」の街は、特にぱっとしない、即物的なごく普通の市街地にしか見えない。
 ところが川をはさんだ「向こう側」の街のほうは――、現実的な表面世界とはどことなく違う層が、目に映っているような感じがしてくる…。

 遠くに並ぶ建物の、小さな窓の一つひとつの中に「人々のいとなみ」があることを思うと――、何とも言えないいとおしい気持ちが心の奥底からわいてくる。
 もし可能なら、そこにいる見知らぬ人がどんな暮らしを送っているのか、実際に近くに飛んで行って見届けてみたいなんていう、とても理不尽な衝動にかられる。

 そしてその人が、たとえどんな状況で、どんな気持ちで生きていたとしても、それをすべて肯定してあげて心から祝福してあげたい――、そんな思いに包まれていく。


 さらには…、川の向こうの遠い街並みのもっと遠い先、建物が細かな点々にしか見えない青白くかすんだ遥か向こうに――、幼児向け絵本にある「ゆめのまち」みたいな、ワクワクする歓びに満ちた幻想的な世界が広がっている――
 そんな現実離れした心象風景が、内的にはとてもリアルな感覚をもって、浮かび上がってくる…。


 ずいぶんと大人げないイマジネーションかもしれないけれど――、でも、川は「この現実世界を隔てるきわ」であるという見方は昔から存在している。
 日本には有名な「三途の川」の話がある。古代エジプトでも、ナイル川の東岸は人々が生きる世界として都市を建設し、川向うの西岸は死者の世界であるとして「王家の谷」の墓群が作られた。

 大きな川沿いを何時間も歩いていくと、そうした川にまつわる「霊的記憶」のようなものが呼び起こされるのかもしれない…。


 そして、そんな自分自身でも不可解な感覚がよみがえったとき――、その感覚を封じていた、内にわだかまる余計なエネルギーが、明らかに浄化されているのが分かる。

 僕はその浄化のために、まるで何かに引かれていくように、河川敷のウォーキングへと足が向かうのかもしれないです…。



 結びのヒーリング・ミュージックは、2002「Ocean sky」。

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 2人で暮らしている両親の様子を見に、京都の実家に帰省しております。

 父母とも、ほぼ80歳になった今も元気なのだけど、認知症の傾向が出はじめているため、以前のように「何年も帰らずに放ったらかし」なんていうわけにはいかなくなってきた…。
 まぁ、往復2万数千円の新幹線代を払うだけで、こうして現に達者に生きている親と会って話しができるわけだから、それは非常に有難いことだなと思う。


 で、毎回帰るたびに、メモに書き留められた「やってもらいたいこと」のリストが用意されている。
 日常的な身の回りのことは両親だけで問題なくできるのだけど、区役所・金融機関への問い合わせやパソコンの設定などの「頭脳労働」と、そして大がかりな庭仕事とか家の修繕といった「肉体労働」が、「やってもらいたいことリスト」の主な内容だ。


 今回の一番の大仕事は――、家のすぐ脇に生えている桃の木の伐採である…。
 かなり古い木で、幹の中にシロアリがわいてどんどん増殖してしまい、そのシロアリが家のほうまで迫ってきそうな勢いだ。

 桃の木は「魔除け」とも言われるから、切り倒してしまうのは相当に気が引けるのだけど…、でもそのまま放置しておいたら、やがて「軒を貸して母屋を取られる」みたいな事態にもなりかねないから、現実的対応としてどうしても仕方ないだろう。


 木を切るには、まずやはり「お清め」が大事だろうということで、親子3人で自己流で行った。
 父は、植木屋の人がしていることの見よう見まねで、清酒と塩などを木の根元にお供えして黙祷。クリスチャンの母は「ずっとここで見守ってくださって有難うございました、アーメン」とお祈りを捧げる。
 僕は、ホ・オポノポノを「許してください、愛しています」と心で唱えた。

 ただ、おごそかな感じなのはそこまでで――、いざ切る作業となると、まさに体を張った格闘である…。
 古い桃の木というのは、朽ちかけたような見た目ながら、本当に驚くほど硬い。
 のこぎりを延々と引き続けて、「もう腕がぴくりとも動かない」というくらい疲れ果てても、直径20センチほどある幹のまだ2割も切れていない。

 チェーン・ソーを使えば一瞬だろうけれど、家にそんな文明の利器はないから、80代の父とほぼ50代の僕の心もとない両腕で何とかするしかない…。


 でも、そうやってのこぎりを引いているうちに、この桃の木のことを色々と思い出してきた。
 もともと玄関のまっすぐ先に植わっていたのだけど、そこに公道が通ることになり、亡き祖父が庭の隅のこの場所に移し替えたのだった。

 当時はそれほど大きな木ではなく、僕も確か小学校3年生くらいだった。穴を掘って木の根元を埋めて、そこへ水をドボドボに注いだのを記憶している。
 泥水に浸った木を眺めながら「こんなので育つのかな?」と思ったけど――、それから何十年も経て今の見事な大きさまでになったわけだ。


 で、そうして2時間ほど手こずりながら木を切り続けて、最後にバリバリッと倒れたときは、何とも言えない感慨だった。
 もう当分、木を切る作業はごめんである…。

 家に入って見てみると――、それまではずっと木の陰になって昼でも薄暗かった奥の部屋が、まぶしい日差しに照らされている。
 同じ実家なのに、とても新鮮な雰囲気だ。
 風水的なことはぜんぜん詳しくないけれど、これまでと違う気の流れが入ってきたような感じがする。


 作業が終わって一段落すると、父が「そこにこれを植えようと思う」と言って、小さな木の鉢植えを持ってきた。
 何それ?と尋ねると――、あの桃の木の「子」だという。

 さすが、何でも取っておく戦前世代…。地面に落ちた種から発芽した若木を、鉢植えで育てていたのだ。
 桃の木にしても、あのシロアリに食われて朽ちかけた姿よりも、この若木として植わって育っていくほうが、きっと良いのではなかろうか。


 しかしながら、桃の木をまたそこに植えると――、50年くらい先に、さっきと同じ伐採作業をしなくてはならなくなるかも知れない…。
 もちろんそのときには、父はもういないし、僕もたぶんいないだろう。そして今の実家の建物も存在してないはずだ。

 そう考えると――、切った木には本当に申し訳なく思えたけど、でも実は木のほうがずっと持続的なんですよね…。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Juliana「The Healing Mist」。

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 前々回の記事で、「いま」というものは選べるかどうかについて書きました。

 そこで言ったのは――
 いま「外側」にある出来事や自分の状況などに関しては、私たちに選択権がない。もうすでに起こっているのとは違う「別のいま」を選ぶことは、誰にもできない。
 でも一方で、いまの自分の「内側」のあり方についての選択は、自らにゆだねられている、と…。


 じゃあ、外側に起こることは自分ではどうしようもないから、それが不本意でもずっと我慢し続けるしかないのかというと…、そういうわけではない。

 「いま」すでに起こっているものごとに対して、私たちに自由意志や選択権はない。
 でもそれは、必ず変わっていく――


 「いま」というのは、フリーズして動かない静止画のようなものではなくて――、まさに有為転変して諸行無常であることが、この世界における「いま」というものの本質といえる。

 そのように「『いま』が変化していく様相」のことを、私たちはふだん「時間」と呼んでいる。


 スピリチュアル分野では「いまの瞬間があるだけで、過去も未来もない」「そもそも時間というものは存在しない」とよく言われる。
 このことは、常識的な認識からは、特に理解しにくいポイントの一つだろう。


 そうした「時間」について、僕なりに少し言及してみると(やや小難しい抽象論になりますけど)…、
 時間というのは、それ自体が自立して存在するわけではなく、また規則的に「経過」していくものでもない、ということだ。
 もし永遠無限に一切の「変化」がない次元にいたとすれば、そこに「時間」というものは存在し得ない。

 「時間」の推移というのがベースにあって、それに沿ってものごとが変わっていくわけではなくて――、この世界に「変化」があるからこそ、そこに「時間」という概念なり尺度を当てはめながらとらえることができる、という形だ。
 最初からあるのは「時間」のほうではなくて、この世の特質である諸行無常な「変化」のほうである。

 私たちが生きるこの世界のことを、「時間の次元」という言い方をすることがあるけど、それをより根本的に言い換えるならば、ここは「変化の次元」であるわけだ。


 では、そうした諸行無常な「変化」がどうして起こるのかと言うと――、それは、「この世界がそのようにできているから」としか言いようがないだろう。

 根源的な「いま」が存在して、それは自立的にどんどん「変化」していく…。
 これはまさに「神秘」であり、それ以上にさかのぼって理由や意味を究明することは、たぶんできないと思う…。


 たまに「でも大きな岩とかはずっと変化していないぞ」なんて言う人もいるけど…、
 人間の目からは不動の岩だって、その中では電子が目にも止まらないスピードで動き回っている。岩を乗せた地球も、マッハの速度で自転し、太陽の周りの途方もない距離を公転移動している。
 ミクロでもマクロのレベルでも、その岩は一瞬たりとも同じ状態や場所にはいないわけだ。

 原子を動かし、惑星を動かしている、その根源的な「変化」の力が――、季節の移ろいや、生命の営みや、さらには人々の巡り合いなどもつかさどっている。


 そして、そうした神秘による「変化」は、ときに私たちの理屈や想定範囲を超えた、劇的な形で現れることもある。
 それは「奇跡」と呼ばれる。

 最新の医療さえも見放した重病が完全に治癒したり、生活保護受給者が世界的なベストセラー作家として成功したりといった実話は、誰でもいくつかは知っているだろう。
 私たちはまさに「奇跡の世界」に生きているとも言える。

 もちろん、望み通りの奇跡が自分の身に起こるかどうかは知るべくもないけれど――、
 でも少なくとも、「奇跡的なものごとも起こり得る『変化の世界』に、自分が身を置いている」ことは間違いないであろう。

 そうしたこの世界の特質、あるいは「いま」の本質というのは――、それを念頭にして生きるに値するものだと思う。
 だから、「いま」の状態は選べないけれど、必ずそれは神秘として、奇跡として「変わっていく」ということだ。


 「時間」や「物質」の本質に迫った、20世紀を代表する物理学者のアインシュタインは、こんな言葉を残しています。

 「生きるには2つの方法がある――。何ひとつ奇跡でないとして生きるか、すべては奇跡であるとして生きるか」



 結びのヒーリング・ミュージックは、Ken Davis「The Vision」。

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プロフィル

Koudai Mitsuna

Author:Koudai Mitsuna
 
光奈 広大(みつな・こうだい)

 20年のあまりのサラリーマン生活を経て、いわゆる「ザ・マネーゲーム」を何とか卒業。今では束縛されない自由な日々を存分に味わっています!

 そうした中で心がけているのは、普通の日常的な行いを通じて、意識の進化を目指す「カルマ・ヨガ」。

 日々の喜びや学び、インスピレーションから得たスピリチュアルな気付きなどをブログで紹介しています。

 妻子と都内在住――。

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