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 昨年の今ごろのブログで、2013年のスピリチュアル関連本の中で最も素晴らしかったものとして、『喜びから人生を生きる』(アニータ・ムアジャーニ著)を選びました。

 で、2014年は――、一頭地を抜く1冊というのは難しいけれど、僕が読んで面白かったものを3冊挙げるなら、

『プレゼンス』(ルパート・スパイラ著)
『わかっちゃった人たち』(サリー・ボンジャース著)
『ある瞑想家の冒険』(ボブ・フィックス著)


 という感じでしょうかね。
 読みたいと思いながら読めていない本もまだいくつかあるから、上位が変わってしまう可能性もあるけれど…。

 で、このうち2冊は以前にブログで触れたことがあるのだが、『ある瞑想家の冒険』に関しては書いたことがなかったので、今回はその紹介。


 著者のボブ・フィックスは、TM瞑想の創始者マハリシ・マヘーシュ・ヨーギーのもとで学び、20代のときに悟りを得たという人。さらにタイ仏教のもとで研鑽を積み、40年以上にわたって世界各地でスピリチュアルな教えを説いている。
 日本でもよくセミナーなどを行っていて、著書もあるのだけど、僕自身はこれまで読んだことがなかった。

 この本は同氏の半生を綴った自伝で、斬新なメッセージがいくつも詰め込まれているというわけでは必ずしもない。
 でも、自らの歩みを通じて語られる、「過去生からのカルマ」や「感情の解放」、「見えない導きの存在」などについての説明は、「ああ、やっぱりそういうことなんだな!」と、とても共感させられるものがあった。
 そのあたりを、いくつかピック・アップしてみたいと思います。


 まずカルマについて――、
 私たちは、過去に生きたおびただしい人々の「記憶」を内に抱えている。
 そして、身に起こった出来事に感情的に反応するとき――、実は自分個人の記憶ではなく、むしろ「過去に生きた人々の記憶」にもとづいて反応してしまっているというわけだ。
 その点を、この本では次のように説明してある――。

 カルマは山になって積もっている。
 私たちは、先祖やあらゆる過去生の記憶を持っている。それは膨大な記憶だ――。
 そうしたカルマの記憶は、知覚をひずめる。
 何かが起こると、その印象を受け止めて、カルマの記憶が刺激される。つまり、人生の出来事はほぼすべて、「実際の体験」と「過去の記憶」とが混ざり合ってできているということだ。

 人が強烈な感情で反応するとき、「現在に由来する感情」はそのうち10%だけだ。あとの90%は「過去に由来する反応」なのだ。
 さらに付け加えなければならないのは、その90%は個人的記憶ではないかもしれないということだ――。
 どうりで私たちは、ときどき頭がおかしくなったように感じるわけだ。それだけたくさんの先祖代々の記憶が浮上してくるのだから、無理もない。


 そんな「過去の記憶」の影響を、私たちはどうすればいいのか。その量はあまりに膨大すぎて、もはやどうしようもないのだろうか…。
 それについて、ボブ・フィックスの師であるマハリシ・マヘーシュ・ヨーギーはこのように語っているのだという。

 皆、カルマの山を持っている。人間なら誰でもそうだ。
 だが、一回の人生で持ってくるのは、ほんのバケツ一杯程度だ。そのバケツを空っぽにできれば、その人生は成功だし、悟りを得ることができる。山ごと取り除く必要はないのだ。


 僕自身もよく感じるのは――、
 人は生まれてくる前に、過去の人類が蓄積してきた途方もない量のカルマの中から、「自分は今回の生でこれを浄化しよう」というテーマをいくつか選んでくるのだと考えている。
 その、自ら選んだテーマの浄化こそが、ある意味で、私たちがこの地上世界に生きている目的なのだといえる。
 そして、浄化に取り組む機会として、ネガティブな感情反応を表出させる出来事が、人生の中で幾度も起こってくる…。

 これもブログでときどき書いていることだけど――、キリスト教では「イエスはすべての人々の罪を清めるために十字架にかかった」と語られている。実は私たち自身も、その小型版のようなことをしているともいえる。
 つまり、すべての人々の罪の一部である「バケツ一杯のカルマ」を清算することが、この生における私たちの崇高な使命なのだ。


 もう一つ、この本でとても印象的だったのは――、
 意識の目覚めなどの「霊的体験」をすることで、恐れや感情パターンなどの「人間としての問題」と無縁になれるわけではない、ということだ。

 ボブ・フィックスの場合、十代後半のときから異性にはまったく関心がなく、ずっと経典を読んで瞑想について研究し、テレビも映画も見ず、食生活も菜食主義だったという。まさに筋金入りの修道者である。
 瞑想のワークなどでは毎日20時間も瞑想したそうで、その深い意識状態の中ですべてが消え去り、宇宙と一体になっていった。

 ところが後に、恋人ができて、一方で仕事につまずいてしまうという、人生の大きな転機が訪れる。
 彼自身、当時のことを、「私は霊的な道については学んでいたが、人間らしい道においては無残にも失敗していた」と振り返る。

 そして、未処理の感情に取り組むワークショップに参加してみるのだが――、相当な瞑想経験があって、高い霊性も持ちながら、「隠れた感情を処理するのは、私にはとても難しいことだった」と打ち明ける。
 このとき、あらゆる感情を掘り起こすという地獄を体験し、自分自身に見せまいとしていた多くのものを、奥深くで発見するこになったという…。


 スピリチュアルの道を進んでいくうえで、人間としての経験や感情をないがしろにできるわけでは決してない。
 彼はこう強調している――。

 人間としてする経験はすべて、自分の限界に打ち勝ち、より意識の高みに昇るためにやって来る。自分の最も暗い恐れや感情に向き合うことも、悟りへの道の一部なのだと気付かざるを得なかった。
 真のマスターはすべての試練に向き合う。それが霊的でないからといって、立ち去ることはない。真のマスターであるということは、本物の人間になるということだ。


 そして、人間にとって不可避のテーマであるカルマ解消のプロセスについて、このように語っている。

 どんなカルマも贈り物を携えている。
 カルマはふつう、嫌な試練として姿を現す。まっすぐ見据えてそれに向き合えば、その背後に隠れた贈り物を発見できる。

 最後に解放されることになるカルマは、必ず最も向き合いにくいものだ。私たちは、最悪の記憶と絶対に向き合わずに済むように、自らの奥深くにしまい込んでいる。
 ひとたびそれと向き合えるくらい自分自身が澄みきれば、その隠れたカルマも姿を現す。そして、私たちはそれを体験し、最後の変容を始めて「悟り」へと至るのだ。


 さらに、私たちの歩みを助けてくれている、見えない導き手についての言及も興味深かった。
 その存在のことを、アセンションを果たした指導者「アセンデッド・マスター」と呼んでいる。

 師のマハリシ・マヘーシュ・ヨーギーも、「アセンデッド・マスターは実在する」と述べていたそうだ。そして、マハリシ自身や他の教師たちのすることもすべて「人類を悟りの時代に導こうとするアセンデッド・マスターの計画の一部である」と、個人的に教えてくれたのだという。

 しかしその導き手は、姿を現さない。
 そして人々が間違いを犯すときも、直接的に介入して指図することはない…。それでも、私たちは常に導かれているのだと語る。

 アセンデッド・マスターの目標とは、私たちが自らの力に気付いて、監督のいらないマスターになることだ。真のマスターは必ず、弟子には自分で考えてもらいたいと望むものだ。
 どんなマスターも、あなたを悟らせることはできない。そのための道具は与えてはくれるが、私たちはそれを使って意識を拡大し、自らの努力を通じて悟らなければならない。ブッダも幾度となくこう言っていた。「私が言ったからといって、信じてはならない。自分で真実を確かめなさい」と――

 真理を自分で確かめることは、すべての人間にとっての目標だ。
 アセンデッド・マスターは導いてくれるが、めったに自分の姿を明かさない。そんなことをしたら、私たちは自らの選択すべてが、自分自身ではなく、もっと偉い誰かのしたものだと思ってしまう。自分で選んだり、自分を信じたりすることができなくなる。
 決められたことに従うだけでは、真実が見えなくなってしまうのだ。

 人間の文明の方向性は、遥か昔から導かれてきた。歴史を振り返れば、人間は数えきれないほどの間違いを犯したように見える。
 しかし、シェークスピアも「狂気の中にも道筋はある」と言っている。私たちは、学ぶために間違う。自分で選んで間違ったときしか、それに向き合って向上しようとはしないのだから。


 ――さて、2015年はどんな素敵な本に巡り合えるのか、本当にとても楽しみです!


 結びのヒーリング・ミュージックは、Steven Halpern「Relaxation Suite Part1」。

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 普段こういうのはブログの話題にしないのだけど、ちょっと気分がいいことなので書きますね。

 きのう文具店で買い物をしたら、金額が「444円」だった。
 次にその足でクリスマス・メニューの食材などをスーパーで買ったら、その金額は「4,444円」。
 こうした数字は気にしだしたらきりがないから(自動車のナンバーとか、時計の時刻とか…)、これは、これだけの話。


 で、きょうのクリスマスの日――

 朝の明るくなりはじめた時間に、ベランダから東の空を眺めてみたら、見慣れない不思議な光景が…。

 昇ってくる太陽から、真上に向かって、1本の「光の柱」がまっすぐ伸びている。

 そのときの写真がこれで、「太陽柱」という現象らしい。
 日の光が筋状に見える光芒(こうぼう)の一種で、光芒は英語でエンジェルズ・ラダー(天使のはしご)。

 横にモミの木みたいなのもあって、何となく象徴的ですよね。ただ、東京の住宅街なので、電線とかがじゃまだけど…。

 冬の朝日は、ちょうど朝食の支度などが終わった7時くらいの時間だから、晴れた日はいつもベランダから眺めている。
 太陽柱は珍しい現象ではないらしいけど、でもこうして見たのは初めてだ…。


 そして日の出から数分後、空がかなり明るくなったとき――

 光の筋はすごく長く伸びていって、空を渡る一直線のようになった。
 この写真は広角で撮ったもので、写真の上端が空のてっぺんあたり。

 雲の切れ間から放射状に漏れる光芒はよく見るけど、ここまで見事に長く伸びたものは、本当に初めてだ…。


 それからまたしばらく経つと――

 太陽が驚くほど白く、清らかで、神聖な輝きを放っているように見えてきた。

 これほど美しい太陽の姿を、これまで目にしたことがない…。
 薄いベールのような雲がかかっているので、その光を薄目で直視できるくらいのまぶしさだ。

 でも、これもカメラで撮ってみたものの、写真ではぜんぜん再現不能ですね…。ありふれた、ややきれいな輝きにしか映らない。

 やがて息子が「いったいどうしたの?」と様子を見にきたから、しばらくずっと放心しているように見入っていたのだろう…。

 何か素敵な前兆だったら嬉しいですね!



 結びのヒーリング・ミュージックは、John Serrie「Once in Royal Davids City」。

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 前回記事で、ホ・オポノポノの「ヒューレン博士のインナー・チャイルド瞑想」のセミナー録画を紹介しましたけど、今回もその関連で、動画サイトで目にとまった映像を――

 いわゆる「一瞥(いちべつ)」の瞬間をとらえたもので、再生回数も多いから、けっこうこれは有名なものなのかな…。

 私たちは自らの本質に気付いたとき、それが当たり前すぎることにあ然としてしまい、もうあまりにおかしくて、そして素晴らしい気分になって「大笑いと涙が止まらない」というのは、昔からよく聞く話だ。
 その場面が撮影されてあるのはなかなか珍しいし、見ているこちらまで気持ちいいですね。




 とくに脈略なく動画サイトで見つけたのだけど、前に座っているマスターは、ラマナ・マハルシの直弟子のプンジャジでしょうね。
 「動くのをやめなさい、思考も止めなさい」といった単純極まりない言葉と、「いまに在る」エネルギーによるストレートな導きは、何ともすごいものだな…と感嘆してしまう。

 このとても短いやり取りでも分かるとおり――、「私は何者か」という答えは、教義やテクニックを尋ねて探し歩くのではなくて、動くのをやめて「止まる」ことによって、やっと見えてくるものなのだろう。

 にもかかわらず私たちは、思考活動を含めて、とにかくひたすらに動き続けてしまう…。


 以下、ちょっとそれた見方かもしれないけれど――

 新約聖書には、イエスが「天の国とはこのようなものである」と語った「たとえ話」がいくつもある。
 そうした比喩によって、天の国へのいわばアプローチ姿勢や、この世の価値観では測れない特質などを伝えているとも言える。
 「天の国はあなたがたの中にある」とか、「後にいる者が先になる」くらい気前がいいところであるとか――。


 で、この「天の国とは」を、「魂の目覚めとは」に言い換えることもできるかなと思う。
 イエスが語る「天の国」のことを、最近のスピリチュアルで言う「魂の目覚め」ととらえても、それほど大きく的を外してはいないだろうと感じる。(もちろん、キリスト教会では受け入れられない見方だろうけど…)
 また、たいていのたとえ話は、そう言い換えた場合もきれいに話が通じる。

 その観点から見て、ひとつ気付くのは――、
 イエスのたとえ話には、神話の定番である、ひとつの目的をめざす「探求の旅」の話がない、ということだ。(僕自身、全部のたとえ話を熟知しているわけではないけど、少なくとも有名なものにはないはず…)


 旅に出る物語として、よく知られた「放蕩息子」の話があるが、これはいわゆるヒーローズ・ジャーニーとはぜんぜん違うありさまである。
 財産をもらって勝手に家を出て行き、遠い国ですべてを失い、豚の餌で飢えをしのぎながら、あわれな姿で家へ帰ってくる。
 そうして戻ってきた息子を、父親は最高の喜びと愛情をもって迎え入れる――、という話だ。

 この話での「旅」は、いわば「帰るため」のものであり、どこかに行って何かを手にするわけではない。
 旅のプロセスそのものは、無駄足ではないだろうけど、まさに「苦」の経験でしかないといえる…。


 探求の旅に出るのとは逆に、イエスのたとえ話で強調されているのが、用意してその場で「待つ」ことの大切さだろう。


 その代表的なのが、「十人の乙女」の話――。

 10人の乙女が、夜に花婿を出迎えるために、それぞれランプの明かりを手にして待っていた。
 そのうち5人はランプだけを持ち、あとの5人はランプとともに油の壺も用意していた。

 やがて待っているうちに、ランプの油が切れて火が消えそうになった。
 油を持ってこなかった5人は困り、買いに出かけて行ったのだが…、その間に花婿が現れた。
 そうして、油を用意していた5人だけが、花婿に出会うことができた――、といった話だ。

 まさしく油断をしないでじっと待つ人が、恩寵が訪れる瞬間をとらえられる、ということなのでしょう。
 余計に動くことによって、肝心のときを留守にしてしまうこともあり得るわけだ…。


 もう一つ、「タラントのたとえ話」も、ある意味で「待つ」物語だといえる。

 大富豪の主人が長い旅に出ることになり、3人のしもべに財産を預けておくことにした。
 それぞれのしもべの能力に応じて、ひとりには5タラント、もうひとりには2タラント、最後のひとりには1タラントを渡して旅に出た。(タラントというのは、現在の億単位の金額にあたる)

 5タラントと2タラントを預かった者は、それを使って商売を行い、2人ともお金を倍に増やした。
 一方で1タラントを預かった者は、お金を失わないようにと、穴を掘って埋めておいた。

 そうして、長い旅から主人が戻ってきた――。
 お金を増やした2人のしもべを、主人は喜んでほめて、さらに多くの財産を彼らに預けた。
 一方で、お金をそのまま埋めておいたしもべに対しては、預けた財産をすべて取り上げ、そして家から追放してしまった…。


 ここでも物語の中心は、主人の帰りを「待つ」しもべだ。
 ただし、単にぼけっと待つだけで、与えられたものを放ったらかしにしておいてはいけませんよ、ということでしょうね。
 このあたりは、きちんと油を用意していた乙女と、話のポイントが似ているなと思う。

 「動く」ことも「止まる」ことも、「旅」することも「待つ」ことも、それぞれがやはり両極のように必要なのだろう。
 でもたぶんこれから先――、もっともっと「待つ」ことの大切さが、強調されていくのではないかなと感じます!



 結びのヒーリング・ミュージックは、Llewellyn「Indigo Eyes」。

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 動画サイトをちょっと眺めていたら、「ヒューレン博士によるインナー・チャイルド瞑想」というセミナーの録画をたまたま見つけて、興味深く見ました。

 説明のいらない人がほとんどだろうけど、精神医学者であるイハレアカラ・ヒューレン氏は、ハワイに伝わる癒しの技法「ホ・オポノポノ」の伝道師的な人物だ。

 セミナーの話は、「本に書いてある通り」とも言えるものの――、
 インナー・チャイルドとの関係性の大切さを説きながら、ホ・オポノポノで唱える「ありがとう、ごめんなさい、許してください、愛しています」という言葉の真意といえるものを、分かりやすく伝えていると思う。




 映像を見ればそれで十分だけど、ちょっとここで補足的にまとめてみますね(と言っても、僕自身は専門的に詳しいわけではないのですが…)

 一般に「インナー・チャイルド」といえば、幼児期に受けた心の傷などの潜在記憶や、癒されないまま放置された感情エネルギーのことを指す。
 それは、あくまでも「個人的な過去」に根差したものだ。

 一方で、ホ・オポノポノでいうインナー・チャイルドとは、ものすごくスケールが大きい。
 この世界が創造されて以来、過去の人類が経験してきた悲しみ、怒り、苦しみなどの膨大な記憶――、それをインナー・チャイルドは自らの内にため込んでいる。


 そして、その重荷を抱えているつらさを、インナー・チャイルドは私たちにいつも伝えてきている。
 まるで腕を引っ張って揺さぶるようにして、「この心の痛みの原因を何とかしなくちゃいけない!」と、繰り返しこちらに訴えかけている。

 これが、私たちの「感情的な乱れ」として、さらにはその感情的な乱れを引き起こす「出来事」としても現れる。(そうした振る舞い方が、あたかも子供のようであるから、「チャイルド」というイメージが当てはめられている)


 ところが私たちは――、自分の内に起こるそうしたインナー・チャイルドの振る舞いを、不本意でとても不快な「あってはならないもの」として考えている。
 そして感情的に振り回されながらも、そうした心の動きを無視しようとしたり、何とかして追い払おうと苦闘を続けている。


 しかし、インナー・チャイルドが「子供」になぞらえられるように――、実は私たちのほうには、「親」としての役割がある。

 つまり、自分の内にいる子供の声に気付き、その苦しみを分かってあげること――、
 そして子供を優しくケアして、その苦しみの原因を一緒になって解消していくという「責任」が、親としての私たちにはあるというわけだ。

 こうした見方に立ってはじめて、「インナー・チャイルド瞑想」の背後にある図式のようなものが分かってくるだろう。


 多くの場合、自分自身とインナー・チャイルドとの「親子関係」というのは、ずっとすさんだものになってしまっている…。

 何しろ子供のほうが、ひどく傷ついて苦しみながら、親に振り向いてもらおうと必死に叫び続けているのに対して――、
 親である私たちのほうは、「黙れっ!」「あっち行きなさい」「自分にはもっと大事な、やらなきゃならないことがある」と、冷たく突き放してきたのだから。

 それでもインナー・チャイルドは、ほかにどこも行けるところがない。
 そして、心の痛みの原因を何としてでも手放してもらうために――、外界にネガティブな出来事を何度も引き起こしては、自らの内側に向き合ってもらうようにと、猛烈にアピールし続ける。

 やがてその振る舞いは、乱暴なまでにどんどんエスカレートしていく。
 内なる親子関係が、まるで昔のベストセラーの「積木くずし」のように荒れ果てた様相になっていくケースだってあり得る…。


 で、この映像にある「インナー・チャイルド瞑想」は――、まさに良好な親子関係を取り戻すことが目的だ。
 まずは、その内なる子供の存在に気付いて、認めてあげることから始まる。


 そして子供に対し、これまでずっと無視して、ちゃんと面倒をみてこなかったことを、素直に「ごめんなさい」とあやまる。

 重荷を抱え続け、苦しみを味あわせてしまったのは、親としての自分の責任であることをしっかり受け止めて、「許してください」とわびる。

 そのうえで、インナー・チャイルドをそっと優しく抱きしめながら、「愛しています」と伝える。

 その子が、自分の一部として内に存在してくれていることに、「ありがとう」と感謝してあげる。

 ――というものだ。


 ホ・オポノポノでは、自分の身に起こる病気や、人間関係やお金の問題などもすべて、「過去の人類の記憶」が再生されているのだとしている。
 その「過去の人類の記憶」を抱えながら苦しんでいるインナー・チャイルドの存在を認め、わびて感謝することによって――、
 問題の原因である「過去の人類の記憶」の浄化を、インナー・チャイルドが手伝ってくれるのだという。


 このホ・オポノポノの観点は、たとえ「方便」だとしても、非常にうまいなと僕は思う。
 そのポイントの一つが、「問題の原因がどんな記憶であるかを、探って特定しなくてもいい」ということだ。

 自分自身の幼児期の潜在記憶を、具体的に思い出すというヒーリング技法もある。
 一方でホ・オポノポノの場合は、何しろこの世界が創造されて以来の「過去の人類の記憶」が対象というわけだから――、こんなのはとても思い出しようがない。
 だから、何かはぜんぜん分からないけど、とにかく自分の責任であることを認めて、わびて感謝するしかない。

 この、原因特定ではなく「無条件」であることが、大きな要点だろうなと思う。


 もう一つのポイントが、「自分の内側と向き合うしか道がない」ということだ。

 さまざまな問題を引き起こしている「過去の人類の記憶」を浄化できるのは、高次に位置する「超意識」や「神聖なる存在」のなせるわざであると、ホ・オポノポノでは考えられている。

 ただし、自分の顕在意識からは、その超意識に直接アクセスすることができない。

 自分の内にあるインナー・チャイルドを介することによって初めて――、超意識に「問題の原因となっている記憶を浄化してください」と頼むことができる。
 それだけが、たった一つのルートという仕組みなのだ。

 だから、インナー・チャイルドと向き合って、良好な関係を築くことこそがすべてであり――、
 そこをないがしろにしたまま、外側の問題解決だけに奮闘したり、高次の存在にはたらきかけて何とか浄化してもらおうと願っても、徒労に終わってしまうのだといえる…。


 こうした浄化の技法は、好みや相性が本当に人それぞれにあるから、何が良いという言い方はできないけれど…、
 でも、無条件に「自分の内側に向き合う道」に進んでいくしかないという点において、こうしたホ・オポノポノの世界観は面白いなと、よく思います。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Juliana「Bringers of Strength」。

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 前回記事では、壮大な旅をする「蝶」の話をしました。
 いくつもの世代交代を繰り返しながら、遥か彼方の目的地へとたどり着き、さらにそこから自分たちがやってきた出発地へ再び帰るという蝶の旅――。

 この旅の図式は、スピリチュアル分野でよく語られる私たちの「魂の旅」にも通じるところがあるだろう。
 そして、蝶が本能によって正しく目的地に向かっていくのと同じように――、私たちもまた、目に見えないガイドや守護の存在によって、常に導かれて見守られているのだろうと思う。


 そうしたガイドや守護に関して、信じ方は本当に人それぞれと言える。

 精霊やエンジェルとしてとらえている人もいれば、先祖などの守護霊という人もいる。ほかにも、姿形のない高次の存在や、竜などの守り神、進化して愛に満ちた異星人…。
 さらに究極的な「空」や「非二元」の観点からすれば、そういうものは存在しない、ということにもなるだろう。

 で、僕自身の考えはどうなのかと言うと――、実はどちらかといえば、スピリチュアルにどっぷりなタイプよりも、即物的な見方をするサラリーマンとかに近いほうかなと思う。

 たとえば、白い鳥の羽根を拾って「これは天使の羽根だ」とか、細長い雲を見上げて「あれは竜が現れている」と言う人もときどきいる。
 僕はそういう人に、にこやかに「へぇー、そうなんだ」と受けごたえはするものの――、でも心の率直な部分では、「普通の鳩の羽根じゃないの」「単に気流の関係でそういう雲になっているのでは」というふうに思っている…。


 もちろん、それ以上に深い真実は示しようがないだろうし、またその人なりの解釈で本当にハッピーな気分になっているのなら、それだけでとても素晴らしいことだ。
 だから、「どれが正しいか」という議論は、あまり役に立たないだろう。


 でも、僕みたいな「やや即物寄り」なものの見方をする人にとっても、「守護の存在がいることを前提に、人生を生きなくてはならないな」と非常に強く感じさせられるのが――、臨死体験者の証言である。

 今や世界中で文字通りごまんと報告されている臨死体験談の中には、肉体を離れたときに「自分のそばに守護の存在がいるのを目の当たりにした」と語る人がけっこう多い。

 臨死体験談には、色々な素晴らしい話が含まれているけれど、特にこの守護の存在に関しては――、「あちら側の世界の話」というよりも、むしろ「今いるこちら側の世界を、どうとらえながら生きるか」に直結する話だろうと思う。


 守護の存在に出会う体験について、終末期医療の先駆者として数千人もの最期を看取った精神科医のエリザベス・キューブラー・ロスは、このように述べている

 「末期患者たちは体外離脱体験の最中に、自分を助けて導いてくれる存在が自分の周りにいることに気付きます。それは守護天使とか守護霊とも呼ばれています。
 私たちが生まれて初めて呼吸をしたときから、肉体的存在が終わってあちら側に移行するまでずっと、守護天使は私たちのそばにいます。そして死後の生へと移行するときには、私たちに手を貸してくれるのです」


 それを実際に目にした人の証言というのは、どのれもかなり似通った内容だ。
 たとえば、臨死体験者のアメリカ人女性べバリー・ブロドスキーは、こんなふうに説明している――

 「私はベッドの上の天井あたりに浮かび、意識のない自分の体を見下ろしていました。私は私でありながら、自分の体の中にいないという、とても不思議で厳かな状況でした。
 そして私のそばには、白い光を帯びたまばゆい存在がいることに気付きました。その存在のほうを向いたとき、敬虔な畏怖の念がわき上がりました。そこから発せられる愛と優しさから、私はメシア(救世主)と一緒にいるのだと感じたのです。私の内に安らぎが深まり、歓喜が呼び覚まされました」


 そうした存在は、もちろん死後だけではなく、生きている間もずっと私たちと一緒にいて導いてくれている。
 世界的な脳神経外科医で、「自分は神秘など信じない徹底した唯物論者だった」というエベン・アレグザンダーも、自ら臨死体験を経てこう語っている――

 「誰にも、高次の世界の家族がいる。そうした存在に見守られ、支えられている。われわれは一時的に忘れてしまっているだけなのだ。それらに対して心を開けば、この地上での歩みに手を差し伸べてもらえる」


 しかし残念ながら、守護の存在は、普段の私たちの目には見えない。
 そして、そうした存在に「常に見守られて助けられている」という事実を認識することなく、不安や恐れや不信感を抱きながらこの世界を生きているのが、多くの場合の実情だろう…。

 でも、ずっとそう思いながら心を閉ざして生きてきて、そして死の瞬間に真実を目の当たりにしたときに――、ものすごい後悔の念を抱くこともあるはずだ。
 こちらは臨死体験ではなく、退行催眠で有名なブライアン・L・ワイス著『前世療法』に出てくる話なのだけど、死んだ直後に「どうして自分は生きているとき、守護の存在を信じなかったのか」と嘆く人の、悲痛な声が記されている――(ここでは「マスター」という呼び方をしています)

 「人生をどうにかしたかったのに、自分ではどうすることもできなかった。マスターたちをもっと信じなければならなかった。ずっと私を導いてくれていたのに、私は信じなかった。自分は生まれたときから不幸が運命づけられていると感じていた。物事を明るく見たことがなかった。
 人は信じる心を持たなくてはならない。それでも私たちは疑ってしまい、信じるよりも疑うことを選んでしまうのだ…」


 「信じる」ことは、私たちの生における、本当に大きなテーマの一つだと思う。

 前回の記事で書いた、壮大な旅をする蝶の目にも、ガイダンスや守護の存在はもちろん見えていないだろう。
 しかし蝶たちの意識には、「疑う」ということがない。自らの状況や将来の行く先に、疑いや不安感を微塵も抱くことなく、ただ本能のままに飛んで行く。


 一方で私たちの場合は、なかなかそう容易にはいかない…。
 でも、さまざまな疑念や心配が心中に渦巻く中でも、「信じる」というあり方を選ぶことは可能だ。
 外側の体験だけではなく、そうしたいわば「内側の道」を自ら決めていくという点が、「人の魂の旅」ならではの深みであり、そして課題でもあるのでしょう。

 私たちは今も、守られ導かれながら旅をしている――。
 そして最近私たちは、その真実を信じやすい意識になりつつあることも、また確かなのかなと感じます。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Planetary Heart「Fifth Density」。
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 前回記事で「惑星の運行の不思議」について書きました。今回はその延長のような感じで、生き物の不思議について。

 ただ生命のいとなみは、あまりに多様で複雑で神秘的すぎるので、その一つの例として「蝶」の話です。
 このブログの初期のころ(2年以上前)に一度書いた内容だけど、今も「魂の旅とは、こういうものなのだな」とよく思うので、画像などを交えた形で改めてまとめてみますね――。


 北米に、「モナーク蝶」という種類の蝶が生息している(和名はオオカバマダラ)

 この記事の上にある絵は、カナダ、アメリカ、メキシコの切手に描かれているモナーク蝶で、各国の切手になるほど象徴的な存在だといえる。


 メキシコの高地には、1本の木に何百万匹ものモナーク蝶がとまって、大集団で冬ごもりする森がある。蝶の重みで枝がしなり、折れてしまうこともあるそうだ。
 ここは世界自然遺産に登録され、「蝶のなる木」としてテレビなどで紹介されることも多い。

 ただ…、「蝶がちょっと苦手」という人(実は僕もそうだ)にとっては、かなりギョッとしてしまう光景かもしれないです。


 メキシコの森で冬を越した無数のモナーク蝶たちは、春の訪れとともに、いっせいに大空へと旅立ってゆく。

 その目的地は、何と、はるか3,000km以上も彼方のカナダである――。

 彼らは小さな体で、北米大陸縦断の壮大な旅をするのだ。

 この距離を日本にあてはめれば、沖縄の西表島から北海道の稚内までに相当する。
 それを、あのヒラヒラの羽根で飛んで行くわけだから、信じられないような旅路といえる…。

 モナーク蝶のことを、「渡り鳥」のように、「渡り蝶」という呼び方もされる。
 ただしその旅には、鳥と決定的に異なる点がある。それは――


 渡り鳥は、同じ個体が旅をしてまた戻って来るけれど、蝶の成虫は寿命がわずか数週間しかない。

 そのため、メキシコを旅立ったモナーク蝶は、旅のなかばで卵を産み、そこで一生を終えてしまう…。
 羽根がボロボロにくたびれた姿で地に落ち、そのまま死んで朽ちてゆく。


 ところが、ここからがモナーク蝶の旅の驚異的なところだ。

 旅先で産み付けられた小さな卵から幼虫が生まれると、その地で葉を食べながら、どんどん育っていく。
 (アメリカの有名な絵本の「はらぺこあおむし」みたいな感じですね)

 成長した幼虫は、さなぎに変わり――、
 真新しい羽根を身に付けた、次の世代が羽化していく。

 そして、生命のバトンをつなぐように、本能としてカナダに向けてふたたび飛び立つ――!

 ところが、何とこの成虫もまた旅路の途中で、はかなく死滅してしまう…。
 そこでもさらに、卵から生まれた幼虫が羽化し、北上の旅を続けていく。

 世代交代を繰り返しながら、モナーク蝶は実に3~4世代をかけてようやく、目的地である夏のカナダへと到達する。


 そうして夏のカナダで生まれた新しい世代は――、秋を迎えるころ、今度は越冬地メキシコへと戻っていくための南下の旅に出る。

 帰りゆく先は、その蝶自身にとってはまだ一度も見たことのない、何世代も前の先祖たちが旅立ってきた地である。


 ここでモナーク蝶の謎とされているのは――、
 カナダへ北上する旅ではいくつもの世代交代を重ねたのに、越冬地へ帰る旅のほうは、何と「1世代」だけで行われることだ。

 しかもその新しい世代は、先祖が飛んで来たのと同じルートをたどってゆく。

 さらには越冬地の森に着くと、先祖がとまっていた同じ木に戻ることもあるという。

 そのようにしてやっと、世代をつないだ一連の驚異的な「渡り」の旅が終結する――。


 スピリチュアルの分野では、私たちのもともとの本源は、「大いなるひとつの魂」だったと言われる。

 そこから、ばらばらの小さな魂に分かれた。
 そして私たちは、個別の小さな魂の形で、これまで何百回にもわたる「転生の旅」を続けてきている――。

 それは、人の想像をはるかに超えた、途方もなく遠大な旅路だ。
 でも決して、闇雲にあてのない旅を繰り返しているわけではないだろう。


 そしてやがては――、源へと帰る旅が始まり、しかもそれはたった「1世代」だけで行われるのかもしれない。
 ひょっとしたら、その1世代とは、いま生きている私たち自身という可能性だってあり得る…。

 そして、すべての旅の目的も道のりも、実は私たち自身が最初から本能として知っているか、あるいは見えないガイドによって導かれている――

 そんなふうに、感じています。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Kevin Kendle「Butterfly Meadow」。
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 このブログでよく引用しているエリザベス・キューブラー・ロスの言葉の中で、僕がとくに好きなのが以下の一節です――

 子供に教えなくても、子供の体はちゃんと成長する。咲き方のセミナーなど開かなくても時期がくれば花は咲くし、いちいち指示がなくても惑星は正確に軌道どおりに運行する。
 宇宙は、こうした驚異的に複雑な作業を、信じられない巧みさでやってのける。

 私たちが自分を明け渡すことを恐れている相手とは、実はこの宇宙の力そのものなのだ――。


 本当にそのとおりであり、まさしく「サムシング・グレート」が動かして見守っている世界を、私たちはこうして生きているのだなと感じさせられますよね。

 ところで、この中に「惑星の運行」の話があるけど――、要はこれは、「太陽を中心にくるくる周っている」だけのことだとも言える。万有引力によって。
 もちろんその運行は、とてつもなく巨大スケールであり正確であるけれど、体の成長や開花に比べると、物理的にかなりシンプルな話のように思えてしまう…。

 ところが実は、地球の運行というのは本当に信じられないほど精妙であり、私たち生命体が存在できる根本的理由がそこにある――、といった話題です。


 この地球上に「生命」が満ちているのは、言うまでもなく「水」があるからだ。
 その水が地上に存在できるかどうかは、ほかならぬ「太陽からどれだけの距離に位置しているか」の条件によって決まる。

 地球よりも太陽の近くを周っている、お隣の「金星」の場合は――、水はすべて蒸発してしまって、400度という高温のガスの雲となっている。

 もう一方のお隣、地球よりも太陽から遠い「火星」では――、気温があまりに低いため、水は氷のかたまりとなって極地や地下に眠っている(火星の北極・南極では、二酸化炭素もドライアイスになって凍っている)


 太陽系広しと言えども、その中で「水」が液体の状態で地表に存在できるのは、金星と火星の中間の、まさに「地球があるこの位置」でしかあり得ないわけだ。

 こんな絶妙なポイントに、いったい誰が配置したの?…、というふうにも思えますよね。


 さらに一段と微妙な話で、かなり理系的な内容になります――

 地球は決まった軌道の上を周っているけれど、だからと言って「気候」がずっと一定なわけではい。
 地球の気候は、長期的な周期で「氷河期」と「温暖期」を繰り返している。

 地球の歴史で起こった最も過酷な氷河期には、気温はマイナス50度まで低下。地表全体が厚さ1,000メートルもの氷で覆われ、それまで繁栄していた生命(原始の微生物)は完全絶滅の寸前まで追いやられた。

 それもまた地球の自然な姿なのだと思うと、今のような温かい地球にいることができて、良かったですよね…。


 で、こうした氷河期が起こる原因はいったい何かと言うと、一つが地球の「地軸の傾きの変化」である。

 地球儀を見れば分かるとおり、地球が回転する軸は少し傾いていて、その角度は23.4度だ。
 この傾きがあるからこそ、一年のなかに「季節」というものが生じる。

 ところがこの角度は、実はずっと一定でなくて、およそ4万年の周期で、22.1度~24.5度の間を揺れ動いている。
 揺れ動いていると言っても、きっと並べて見比べても違いがよく分からないくらい、すごく微妙な変化といえる。

 でもこの微妙な傾きの加減によって、日射による加熱と冷却のバランスが微妙に変化し、地球全体の気候に影響を及ぼすことになる。
 ――それが、氷河期が起こる原因の一つ。


 もう一つの原因が、地球の「歳差運動」といわれるものだ。

 回るコマの軸をよく見てみると、軸の上端が微妙な円を描くように「首振り運動」をしているのが分かるだろう。
 地球の自転軸も同じように、約2万年かけてそのような首振り運動をしている。
 これが前述の「地軸の傾きの変化」と相まって、気候に影響を与えている。


 氷河期が起こるさらにもう一つの原因が、地球の「公転軌道の変化」である。

 地球は太陽の周りを正確に周っているけれど、その軌道も何と一定ではないのだ――。
 極端に言うと「伸びた楕円形」になったり、「真円に近い形」になったりと、10万年周期で変動している。

 そのため地球と太陽との距離は、最も近付いたときと最も遠ざかったときとで、1万8,000kmも変わってしまう。
 とはいえ、地球は太陽から実に15億kmも離れているから、この変化もたった1%程度の差に過ぎない。

 でも、その1%という微妙な違いが、氷河期のサイクルの一因であるわけだ…。


 で、面白いのは、これらの条件の1つだけが当てはまったとしても、地球は氷河期にはならないということだ。

 3つの条件が、微妙に複合的に組み合わさることによって、氷河期と温暖期の周期が繰り返されている。
 そしてその気候の変化が、生命の繁栄や進化に、多大な影響を与えているわけだ。


 このような、一見シンプルなようで、実はとてつもなく精妙な惑星の動きによって――、水の存在や、氷河期などの気候変動や、季節の変化や、そして生命のプロセスがコントロールされているなんて…
 本当に、計り知れない神秘性を感じてしまいますよね。

 「いやいや、地球がたまたまその位置にあって、そういう運動をしていることの偶然の結果として、色んな生き物や私たちが生きているのだ」という説明のほうが、むしろ作り話的であるような…。



 結びのヒーリング・ミュージックは、 Llewellyn「Guardian Angel」。
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 「人は考える葦である」という言葉でとても有名な、17世紀フランスの思想家パスカルは、こんな問いかけもしています――

「ウサギ狩りに行く人は、本当は何が欲しいのか?」

 「狩り」というのは、言うまでもなく肉体的に相当きつい行為である。
 成果があれば嬉しくてエキサイティングだろうけれど、日が暮れるまで山野を駆けずり回ったあげく、まったくの「くたびれ儲け」に終わることだって少なくない。ときに危険な事態に遭うことだってあり得る。

 それでもきっと、彼ら狩猟民族にとって、狩りはまさに日常の一部なのだろう。
 苦労は多くても、獲物は食料や毛皮という形で、暮らしの「豊かさ」につながっていくはずだ…、というふうに思う。


 ところがパスカルは、そうではないと言い切る。そして何と、その理由をこんなふうに説明する――

 「ウサギ狩りに行く人は、ウサギが欲しいのではない。人間は『退屈』に耐えられないのだ。その退屈から逃れたいから、ひいては、人間のみじめさから目をそらしたいから、狩りに行くのである」


 ずいぶん踏み込んだ洞察のようだけど、「確かに言い得ているかもなぁ…」と感じますよね。
 いまの私たちも(と言うより現代人はなおさら)、ずっと一人きりで家にいて、することが何もないという退屈感には、とても我慢できないという性質がはっきりとある。

 かつてサラリーマン時代の自分は、まさにその典型だった。
 忙しすぎて暇なんて全然なかったという実状はあるものの――、収入に直接関係のない休みの日や、わずかな隙間の時間まで、せっせと「退屈を埋める」ことに努めていた。

 生産的であろうとして本を読んだり、パソコンに向かったり、それに疲れたらテレビやビデオや見たり、用事を見つけて外出したり…、
 あげく、もう何もしないでリラックスしたいという気持ちになったときも、「退屈さとともに過ごす」なんていうことは全くなくて、夕方早くからアルコールを飲んで気分をまぎらわせていた…。


 さらに言えば、当時の自分自身なら間違いなく全面否認するだろうけれど――、
 会社での「仕事」にも、パスカルの言うウサギ狩りと同様に、「退屈から逃れる」という隠れた主目的があったようにも感じる。

 もちろん、「社会で役立ちたい」とか「日々生活していくため」という意図は、直接的なものとしてあった。
 でも半面で…、「自分は人から求められる、価値のある忙しい存在である」という有用感や自負心にもとづいたエゴ意識――
 それをしっかりと維持・存続させながら、退屈さと向き合うことを忌み嫌って避けていた、という一面もあったことは否定できない。


 たぶん人が胸の内に感じる「退屈さ」の奥には、すべてを身ぐるみはがされた「丸裸の自分」がいるのでしょう。
 そして、そんなみじめな自分の姿を、誰も見たくはない…。

 だから世の中には、ゲームとか、ツイッター、フェイスブック、ラインといった(こうしたブログもそうだけど)、日常の退屈感を封じることに有効なさまざまなツールが、どんどん充実していくのだろう。


 ところで、退屈さの奥にいる自分というのは、とても直視できないくらい、本当にみじめなものなのでしょうか?――

 実はそれはまったく逆で、OSHOはこのように力強く語る。
 (以下、言い回しなどを多少簡略にしています)

 「『退屈』は、人間の生活の中で最も重要なことだ。それは、大いなる理解があなたの中に生じつつある兆しであり、マインドが覚醒にどんどん近づいたときに起こるものだ」

 「そこから逃げる方法は無数にある。しかし退屈とは人間の成長の一部であり、それに直面しなければならない。それについて瞑想し、それと一緒にいて、それになりきるのだ」


 そして、実はその「退屈」こそが本当の瞑想への入り口であり、意識の目覚めへと導くものだとOSHOは説明している――。

 「瞑想とは、『退屈』に正面から向かうことなのだ。瞑想者は黙って座り、自分のハラを見据え、呼吸を観察する。こういうことを彼らは楽しんでいると思うかね? 彼らは実は、まったく退屈しているのだ!」

 「もし逃げずに退屈を見つめ続ければ、それはどんどん強烈になって、やがてピークに達する。そして突然、退屈が消える。
 退屈はただの覆いに過ぎず、その中にはあなたの『大いなる無』が詰まっている。退屈から逃げるのは、自分自身の無から逃げているのだ。
 あなたはここで、生の究極の無を見る。つまりあなた自身が消えるのだ。すると誰が退屈するのだろうか? 何に退屈するのだろうか? あなたはもう存在しないのだ。退屈とともに生きるならば、それこそが瞑想である」

 「退屈は作り出されなければいけない。退屈がやってくるのを待つのではなく、自分から進んで退屈の中に入り、退屈を探求するのだ。退屈に直面するには大きな勇気がいる。それはほとんど死ぬようなものだ。実際のところ、それは死ぬよりも難しい。
 しかし、仕事をしたり、お金を稼いで貯金をすることに喜びを感じ、レストランで食事をし、映画や旅行に行ったり、あれやこれや参加しているうちは――、人は退屈なんかしないし、楽しんでいる。しかしそれは、まだ本当の人間ではないのだ。
 人は退屈を感じはじめたとき、初めて人間になる」


 スピリチュアルの分野ではよく、「『する』エネルギーから『在る』エネルギーへ」とも表現されるけど――、そのシフトを実践面から平たく言うと、要は「退屈とどう向き合うか」なのでしょうね…。
 つまり、退屈を避けて何かを「する」のではなくて、退屈さを積極的に見つめながらただ「在る」。

 そしてさらに極端に言い切るならば――、実はその「退屈」こそが魂にとっての本物であり、ほかの行為や楽しみとかは幻想のようなものなのかもしれない。


 幸いにもというか、今の日本は、かつての高度成長期やバブル期に比べて「退屈になりやすい時代」といえるだろう。
 これまで忌み嫌って、とにかく最下位に追いやっていた「退屈の優先順位」を、上げていける時代でもある。

 僕自身、以前に比べてかなり「退屈」と共にいることができるようになったものの、まだまだ落とすべきものが多いなと実感する。
 そして実は昨日から、自分の内にある退屈感にもっとじーっと向き合ってみたいような気持ちになってきた。日常の「主婦業」はやらなくちゃいけないけど、何かを「しよう」とか、外を出歩こうという意向が、なぜだかすごく減退している。
 OSHOの言う、瞑想としての「退屈の探究」に引き込まれていくような感じもする…。


 気になってちょっと調べてみたら――、ちょうど12月1日から8日までは、禅宗で「臘八大摂心」という修業期間にあたるそうだ。
 釈迦が菩提樹の下で7日間の坐禅をしたのち、12月8日の未明に悟ったという言い伝えにちなんで、宗派によっては不眠不休で座禅に打ち込むのだという。

 ひょっとしたら、そうしたエネルギーが伝わってきたのかもしれないですね…。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Hilary Stagg「Reflections of Love」。

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プロフィル

Koudai Mitsuna

Author:Koudai Mitsuna
 
光奈 広大(みつな・こうだい)

 20年のあまりのサラリーマン生活を経て、いわゆる「ザ・マネーゲーム」を何とか卒業。今では束縛されない自由な日々を存分に味わっています!

 そうした中で心がけているのは、普通の日常的な行いを通じて、意識の進化を目指す「カルマ・ヨガ」。

 日々の喜びや学び、インスピレーションから得たスピリチュアルな気付きなどをブログで紹介しています。

 妻子と都内在住――。





http://facebook.com/koudaimitsuna

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