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 インドの覚者・プンジャジの対話集『覚醒の炎』の本について、これまでの数回の記事で紹介してきました。

 プンジャジが説くのは、自らの内にある「真我を見いだしなさい」という、きわめてシンプルな教えだ。
 この本の対話の中には、とても興味深いテーマがまだ色々と盛り込まれているので、さらに続けてみますね――。


 「思考は現実化する」というのは、色んな本などで語られている。
 その想念の働きが、私たちの経験する「人生の現実」を生み出しているのだとよくいわれる。
 それだけでなく、何と、「死後の世界」までをも思考が作り上げてしまうことを、プンジャジは以下のように語っている――。

 あなたが考えれば、あらゆるものごとが現れる。心は何であろうと構築することができるのだ。
 一見あり得ないようなことや、さらには神々の領域でさえも、心によって構築することは可能なのだ。

 「神への帰依」という二元性は、あなたを死後に神々の領域へと連れてゆく。そのような天上界の描写は、数多く存在している。しかし、それらはみな概念――心の想像物でしかないのだ。
 たとえ偉大な聖者であろうと、そのような概念を信じ、自らの概念に応じた天国へ行くことになる。なぜなら彼らの心には、「死とともに天上界に行く」という条件付けがされているからだ。
 心の力がそうした天国を作り出し、そこに行って長く楽しい時を過ごしているが、しかしそれが「実在」だという意味ではない。


 たとえば、自爆した若いテロリストたちは、「殉死者は天国に行って、何十人もの乙女たちと永遠に暮らせる」という教えに扇動されたのだという話がある。
 それを聞くと、「そんなおとぎ話みたいな教義に洗脳されて、罪もない人々の命を奪うような奴らは、地獄に落ちるに決まっている!」なんてふうにも普通思うだろう。

 でも案外、彼らはそのような「天国」を想念によって作り出し、今ごろ本当に何十人もの乙女たちに囲まれて暮らしているのかもしれない…。


 ただし、「天国」というと素敵そうにも思えてしまうけれど…、プンジャジが強調するとおり、それは「実在」する世界ではない。
 そして、そこにとどまり続けることが、輪廻転生を無意味に引き延ばし、真理から遠のいてしまうのだという――。

 強烈な帰依心を持った人々は、そうした概念が作り出した天国の中に、何千年間もとどまってしまう。だが遅かれ早かれ、彼らはまたここへ戻って来なければならない。

 「真の自由」とは、そのような様々な世界に不必要に現れ続けることから、あなたを開放することだ。それらの世界においては、この「真の自由」について語られることはないのだ――。


 死後世界にずっと囚われてしまう話は、変性意識を生み出す技法の「ヘミシンク」で有名な、ロバート・モンローも語っている。

 モンローは、ヘミシンクを使って「物質を超えた宇宙」をくまなく探索し、その階層的な構造を「地図」として描いた。
 それによると、私たちがいま生きている日常世界と、次の転生への入り口となる地点との間には、死んだ人々の想念が生み出した「囚われの領域」が存在するのだという。

 そこには、同じ強固な価値観を持つ人たち同士が、寄り固まっている。
 例えばキリスト教の同じ宗派の人々が、自分たちが「これが天国だ」と信じて疑わない世界をそのまま作り出し、いつまでもそこから出ることなく押しとどまっている。
 この領域には、そのような集団が作った「疑似天国」のようなものが、たくさん点在しているそうだ。


 もっともこの「囚われの領域」にいるのは、そうした宗教的な集団ばかりではない。
 人を傷付けることに喜び感じる者同士が、互いに傷付け合いを果てしなく続けている世界や、泥棒たちが相手のものを盗み合う世界、アルコールをはじめ様々な依存症の世界など――、人々が固執するありとあらゆる価値意識によって生み出された世界が、細分化して存在している…。

 この「囚われの領域」については、過去記事の「フォーカス23」で、やや詳しく説明しています。

 また、落雷事故や心臓病で3回も臨死体験をしたアメリカ人男性のダニオン・ブリンクリーも、死後世界に無数の魂が閉じ込めらている不気味なエリアが存在することを証言している。
 これについても過去記事の「ブルーグレーの場所」で書いています。


 ほかにも、前世からの生まれ変わりの記憶を持つ人が、「あの世の風景などは、一見この世と変わらない。ただしあの世では、同じ考えの人たちにしか出会わない。またあの世には、変化というものが起こらない」とも語っている。
 これも、死後の想念が作り出す「天国」や、「囚われの領域」の基本的な性質と同じといえる。


 これに対し、私たちが生きるこの世というのは、色んな異なる他者とかかわり合わなくてはならない「相対性・関係性の世界」だ。
 そして、あらゆるものごとが絶え間なく変化していく「諸行無常の世界」である。

 でもそうした特質があるからこそ、「進化」や「浄化」ということが可能なのだろう。
 異質なものが存在せず、変化が起こらない世界では、それがまったく不可能といえる。

 だから魂は――、たとえ苦しみを伴う経験であっても、この世での輪廻転生を続けるしかないわけだ。
 プンジャジが言うように、「彼らはまたここへ戻って来なければならない」のだ。それが魂の「本能」ともいえるだろう。


 でも、死後の「囚われの領域」にいる人々は、そこから抜け出るすべを知らない。
 自分たちの集団がいるところとは違う「別の世界」が存在するということさえも、完全に忘れてしまっている…。

 そこがあまりにも苦しい場所ならば、「もうやめたい!」という衝動がひょっとしたら起こるかもしれない。
 でも、そこが「天国」であったならば――、何十人もの乙女たち(あるいはイケメンたち)と、永遠に楽しく過ごしていたならば――、その領域から出ていこうという気持ちが浮かぶはずがない…。


 でも、私たちの魂は、いつかは自らの意志で戻るのだろう。
 昔話の「浦島太郎」には、そういうポイントも含まれているのではないかなとも思う。

 浦島太郎は、いじめられている亀を助けて、亀のガイドによってまさに天国のような竜宮城に連れて行かれる。そこで美しい乙姫たちに、素晴らしい踊りやごちそうで歓待される。
 自分が施した善意へのお礼として招かれたわけだし、乙姫からもずっといて楽しんでほしいと請われる。帰る理由なんて何ひとつない。
 浦島太郎は長逗留するわけだけど、でもやがて「やっぱり帰ろう!」と決意する。

 そうして、再び地上の浜辺へ戻ったときには、実はもう何百年もの歳月が過ぎていたことに愕然とする。
 浦島太郎が玉手箱を開けると、年老いたじいさんになってしまうわけだけど――、たぶんこれは、間もなく死んで生まれ変わる輪廻転生に戻った、ということなのでしょうね。

 竜宮城に滞在していた日々は、「変化も進化もない幻」だったといえる…。
 それでも、「自らの意志で戻ることができる」ことが物語に描かれている点は、一種の福音でもあるのでしょう。


 禅では、悟りを妨げる幻影について、「仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺せ」と厳しく言い放っている。
 それと同様に、「竜宮城に招かれたら、すぐそこから出なさい!」ということなのでしょう。

 いつのことか分からないけど、もしも死後に天国のようなところへ連れて行かれ、何十人もの乙女たち(あるいはイケメンたち)に囲まれたときには――、「あっ、そういえば生前に読んだブログで、確かこんなことが書いてあったぞ…」と思い出してもらえたら、ものすごく有意義ですね。


 もう一つ、「天国」の話に近い、スピリチュアルのとりわけディープな話。

 私たちは、偽物の自分であるエゴを捨てて、いよいよ「真我」に到達しようとするとき――、最後の最後に首の皮一枚のような執着が残り、それがどうしても手放せないのだとよく言われる。

 プンジャジが語るのは、最後に脱すべきその罠とは、何と「至福」なのだという――

 5つの罠が存在する――。まず「肉体」との自己同一化、そして「生気からなる身体」との同一化だ。さらに、「精神的な心の身体」と「知性の身体」があり、最後に「至福の身体」がある。
 「私」というものは、これらの身体を通じて機能している。これらの鞘(さや)が「罠」となるのだ。
 人は真の自由に直面する前に、これらの自己同一化のすべてを超えていかなくてはならない。

 至福の中にいる心は、もちろんとても幸せだ。多くの人たちがそこにとどまってしまう。聖者でさえこの地点を超えられずにいる。
 至福の体験は美しく、この障壁を乗り越えるのとても難しい。だが、そこを超えたところに究極の真理があると知れば、そこにさえとどまるべきではない。

 しかしエクスタシーの中で、あなたは泥酔したようになっている。それを放棄するか取っておくかという選択肢は、あなたにない――


 最後の執着が、見るからに「しぶとい敵」のような存在だったら、誰だって力を振り絞って払い除けるだろう(ちょうど映画「クリフハンガー」や、「ダイ・ハード」の一作目の最後で、腕をつかんでくる悪のリーダーを振り落とすみたいに)

 ところが、その振り落す相手が、こともあろうか「至福」となると…、これはもはや絶対に無理ですね。


 僕は、この世界というのは、「神が自らにかけた魔法」なのだと思っている。
 何せ「神の魔法」だから、魔法にかかっている神自身でさえも、そう簡単に魔法から抜け出ることができない。

 この「最後の罠が至福」というのも、本当にうまく仕組んだものだなと思う。


 でも、これもまたいつのことかは分からないものの――、もし意識の目覚めが進んで「至福の極み」にまで達したときに、素晴らしい恍惚感の中で「そういえば以前に読んだブログで、確かこんなことが書いてあったぞ」と思い出してもらえたら、ものすごく有意義だけれど…
 もちろん僕自身も含め、誰一人として覚えていられないでしょうね。



結びのヒーリング・ミュージックは、David Ison「Sleep」。

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 前回記事で、『覚醒の炎 プンジャジの教え』の本の中から、輪廻転生の仕組みとその終わりをテーマにまとめてみました。
 今回はその続きになります――


 この世に何度も生まれ変わり、それが延々と繰り返される輪廻転生のループ。
 仏教などでは、それが人間の生にとっての、果てしなく続く「苦しみ」だとしている。

 プンジャジは、この輪廻を生じている要因とは、私たちの「欲望」や「記憶への執着」であると説く。
 そのような固執を手放すことによって、「輪廻に終止符を打たなくてはならない」ことを私たちに強調する。

 そして、それに向けて私たちが霊的に「自由になりたい」という願いを持つこと自体、これまでの長い転生の積み重ねによる、非常に貴重な恩恵なのだと、プンジャジは語っている――。

 何千万年もの間、あなたはさまざまな生まれ変わりを重ね、今のこの生にたどり着いた。何世にもわたる功徳と幸運が、あなたをこの地点へと導いたのだ。

 「真の自由」を得るためには、稀有な出来事の結び付きが必要だ。良い国で良い家庭に生まれること、そして「自由になりたい」という欲求を抱くことだ。
 この欲求を抱くことが許されない国は多く存在する。それを許さない宗教もある。あなたは幸運だ。このように考えることを許す社会に来たのだから。あなたの両親もそれを許し、そしてあなた自身も、自分がこの欲求に従うことを許した。何という幸運な出来事の重なりが、あなたをここへ連れてきたのだろう。

 あなたはそのために、すでに何千万年も生きてきた。もう十分すぎる。あなたはこの幸運な欲求が起こる人間としての生に達したのだ。
 そして自由が達せられたとき、何世にもわたるすべての誕生が、あなたをこの地点へ導いたことを知るだろう。


 ただし、この魂の願望といえるものは、私たちにとって大きな苦悩になることも少なくない。
 でもそうした、どうしても消化しきれない熱意もまた「導き」なのだと言う。

 自由への欲求は、心でコントロールできない場所からわき起こる。この願いが呼び起されると、それに抵抗することさえできなくなる。あなたの注意を呼び覚ますのを止めることもできない。
 そして、見つけがたい自由を求めて、あなたはさ迷い続けることになる。「自由への欲求」はあなたを悩ませ、それを満たすまで落ち着くことができない。

 それは極めてまれな出来事でもあるのだ。この自由への欲求がそれほどまでにあなたを苦しめるとき、それは何としても自由を得ようとする力を持つ。


 果てしない輪廻に終止符を打つためのもの――、輪廻を生じさせている、私たちの欲望や記憶へのとらわれを終わらせるもの――、
 それは、気づきの「炎」であるとプンジャジは語る。

 瞑想のレッスンなどでよく「思考のわき上がりに気づいていなさい」と言われる。そうして現れてくる思考に気づいている限り、その中にどんどん巻き込まれていくのを避けることができる。
 プンジャジは、さらにこの「気づき」というものには、想念を焼き払う「炎」としての働きがあるのだと言う。

 気づきの究極の状態は「炎」だ。この炎の役割は、ただものを照らして見るためだけではない。それは燃やすためのものでもある。

 「私は自由だ」という意識は、近づいてくるどんな想念をも焼く炎なのだ。
 記憶の中の欲望を見なさい。炎を手にしなさい。それは燃えていく。何であれ侵入しようとするものは、その炎に焼かれて灰と化す。


 確かにそういうのは、経験的に分かりますよね。浮かんでくる思考に気づいて、じーっと眺めていると、それはまるで見られることに耐えられないかのように、消え去っていく。
 本の中でも、内に渦巻くマインドについての質問に対して、こんなやり取りをする場面がある。

 プンジャジ 「炎を手に取って、それらを照らし、何が照らされているかを私に言いなさい。あなたの心の前面に現れた思いは何かね?」

 質問者 「…何の思いもありません」

 プンジャジ 「ああ、その通りだ。何の思いもない。あなたがこの炎を手に取り、想念や欲望を探そうとすれば、すべて消える。これがニールバーナ(涅槃)なのだ。ほかに何があろう?」


 「ほかに何があろう」って…。本当に、それだけがすべてだと言い切っちゃうんですね。
 なんとも、極端にシンプルすぎて、こちらも言葉を失ってしまう…。

 もしもかりに、高名な覚者(たとえばラマナ・マハルシとか)の頭の中の状態がどういうものなのかを実体験できたとしたならば――、「なんだこれは、まるで空っぽではないか!」ということになるのかもしれないです…。
 掘り出した宝箱を開いたら、まったく何も入ってなかったというお話しがあるけれど、それに近いことでもあるのでしょう。
 でもその「空っぽ」とは、いわば「宇宙のすべてを包み込む空っぽ」と言える。

 瞑想などをある程度してきた人には、ノーマインドのやすらぎがどれほど心地よくて、軽やかに広がった、自然な状態であるかが分かるだろう。
 とはいえ通常は、そのうちに雑多な想念がどんどんわき上がってきて、平安な「空性」をいつの間にか覆い隠してしまう。

 だから、さまざまなマスターが「それにとどまりなさい」と言っていても――、「そりゃ一時的には可能だけれど、でもねぇ…」という感じになってしまう。


 この本の中でも、質問者からの同様の突っ込みがある。
 それに対して、プンジャジはこのように答えている。

 想念が現れ、あなたはそれを見た。そして想念は消え去った。あなたはその消滅を見た――。そこであなたは「一時的な気づき」があると言った。
 私はその「一時的な気づき」に働きかける。


 この「働きかける」というのは、まさしく「マスターの臨在」のすごさで――、そうした一時的な気づきにある人を、一気に意識の目覚めへと持っていくこともある(プンジャジがそれをしている映像も動画サイトにある)。

 でもそれは、現実的にはめったに起こらないことと言っていいだろう。
 それはまた、努力を超えたハプニングであり、マスターの助けによって引き出されるものだともいわれる。


 かつて、意識の目覚めにはそうした「マスターの臨在」が不可欠なものともされていた。
 でも、これはかなり私見だけど――、最近の色んなスピリチュアルな教えなどを見ると、そうした「マスターの臨在」を強調している人はほとんどいないように思う。
 これは一つの大きな、時代変化なのではないかなと感じる。

 また最近は、「特別な存在のマスターを多くの人々が取り巻く」という明らかな師弟関係よりも、「志を共有する仲間がサークル的に集う」といった形の活動のほうが盛んな印象だ。
 そうした輪の中から、意識の目覚めが起こってくるようになるという人もいる――。


 プンジャジの場合はどう語っているかというと、「外側の師の存在も、内なる真我の現れである」としている。この説明も、とても分かりやすいと思います。
 
 ただ「恩寵」だけがそれを起こすのだ。いかなる身体的努力をしても、悟りには達せない。もしそうなら、誰もが努力してそれを得ていたことだろう。努力なら誰でもできる。たがそれでは十分ではない。ただ恩寵さえあれば十分なのだ。

 恩寵には2つの種類がある。「真我の恩寵」と「グル(師)の恩寵」だ。
 「自由になりたい」という願いは、真我の恩寵の現れだ。その恩寵が現れると、それがあなたの真の本性を指し示してくれる。だがほとんどの人は、自分に語りかけるこの内なる声を理解しない。そのため真我は、人の言語で語る何者かを差し向ける。そしてその人が「真我はあなたの内にあり、それを探ささなくてはならない」と教える。これがグルの恩寵だ。
 たとえグルの姿という外側の現れによる恩寵が起こっても、それは内なる真我を指し示している。

 グルとは、あなた自身の真我にほかならない。真のグルは、常にあなた自身の真我へと連れ戻す。あなたの外側に向かう傾向を抑え、内側へと向かわせるのだ。
 ただ静かに、何もせずにいなさい。それが満たされるべき条件だ。もしあなたに徳と幸運があれば、それが起こる状況はおのずと現れるだろう。


 そして同時にプンジャジは、誤った師に付くことの危うさも説き、それよりも「自らを頼りにする」ことの大切さを強調する。
 すべての導きは内にあるというポイントは、これからもっともっと意識されていくだろうと、僕も思います。
 それくらい、多くの人の「内なる導き」がはっきりとした時代になっていくのではないかなと感じますね。

 師を注意深くテストしなければならない。もしそのような師を見いだせなければ、ひとりでいたほうがいい。
 「真の自由」は次の生まで待つことができる。だが、あなたを導く資格のない愚かな教師に自分を明け渡すことは、あなたの霊的な将来を非常に長いあいだ傷つけてしまう。あなたは自由を達成しないまま死ぬだろう。そしてその後、何世にもわたって、サットサン(真理の集い)に出会わない誕生を通り抜けることになるだろう。

 一方、真我に注意を払うことで道を踏み外すことは決してない。「自身の真我を頼りにする」ことが、常に最高の道なのだ。
 そうすれば、決して道に迷うことはない――。


 結びのヒーリング・ミュージックは、Patrick Kelly「Guiding Light」。

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 前回記事で、『覚醒の炎 プンジャジの教え』の本を少し紹介しました。せっかくの内容ですので、その続きを。

 今回は、スピリチュアルなテーマの中でもとりわけディープな、「輪廻の仕組みとその終焉」について。

 こうした話は、「語る人によって色んな表現がされながらも、基本的な図式はだいたい似ている」という感じで、プンジャジの場合もその一つでしょう。
 だから、インパクトのある斬新な切り口というわけではないものの――、でもこうして、マスターたちが語った色んな内容にたびたび触れることによって、私たちの生に対する気づきが深まっていくように思える。


 この世に繰り返し何度も生まれ変わってくる輪廻転生は、私たちの魂には「死」が存在しないことを意味する。そのため、この仕組みを希望的にとらえる見方というのもある。
 ただし、魂そのものは永遠不滅であっても、この世界に肉体をもって生きることは、仏教などでは「苦しみ」とされている。
 その苦しみの生み出す輪廻転生のループから脱して、魂が自由に解き放たれることを、「解脱」と呼んでいる。


 では、輪廻というのは、いったい何ゆえに生じているのか?
 プンジャジは、「満たされなかった欲望」がその原因なのだとして、次のように説いている――。

 誕生と死の果てしない輪廻転生が存在する。それは人の「欲望」によって燃料が注がれている。

 あなたは心の中に「私はこれをするべきだった、あれをするべきではなかった」といった思いをためこんでいる。
 満たされなかった欲望――。それを満たそうとする圧力が、世界という現れを生み出している。これが「サンサーラ(輪廻)」だ。
 こうして私たちは、この生を得て、次の生も得ていく。

 欲望が尽きたとき、サンサーラもまた尽きる。一見終わりがないように見える輪廻転生も、欲望の終焉とともに果てるのだ。


 相当に深遠な話だけど、一方で彼は、こんな身近で分かりやすい比喩も使って説明している。

 あなたが「新車を欲しい」と思っていた場合、それ手に入れたとたんに幸せを感じる。なぜなら、新車を得たいという欲望がなくなったからだ。
 あなたを幸せにさせたのは「欲望の不在」であって、所有物の獲得ではないのだ。

 もはや欲望がないとき、あなたは幸せだ。これが「解脱」なのだ。解脱は、瞑想や聖典を読むことでは起こらない。欲望がある限り、サンサーラは存在する。そのことを、誰でも日々の世界の中に見ることができる。


 そして、さまざまな教義やマスターたちが説いているように――、輪廻もこの世界も、すべての正体は「人の想像が生み出した幻」なのだとプンジャジは語る。
 そして、延々と再生し続けている幻を終わらせなくてはならないと強調する。

 あなたが見て、感じ、考え、味わうあらゆることは、「想像がそれ自身と戯れている」だけなのだ。
 すべてのサンサーラ――何十億年という過去と未来の創造、心の果てしない想像――は、ただ一瞬のうちに起こっている。すべてのサンサーラは、一瞬の創造が拡張されたものでしかない。そしてそれが、私たちが何百万年ものあいだ体験してきたことを、実在だと信じさせている。

 世界という夢を見させ、その中で生き、解脱に向かって努力させてきたこの創造に、あなたは終止符を打たなければならない。永遠に終わらなければならない。


 前述されているとおり、輪廻は「欲望」を燃料にしているわけだけど――、では、その燃料供給を止めるための鍵は何だろうか。
 それは「記憶への執着」にあるとプンジャジは言う。

 心に印象を残したときだけ、欲望は問題となる。
 欲望が起こり、快楽が続き、そして記憶が続く。問題はそのようにして起こっていく。快楽自体に問題はない。ただその後で、それを「回想」することが問題をもたらすのだ。
 快楽が終わっても記憶は残る。その記憶が、同じ対象物を求めようとする欲望を起こさせるのだ。そのようにして、それは無限に続いていく。

 「記憶への執着」が、次の体験へとあなたを引きずり込んでいるのだ。
 解脱した人にも記憶はある。だが、記憶に蓄積された出来事に対する執着がない。記憶が表層に現れても、その後を追いかけたりしないため、欲望が生み出されないわけだ。
 記憶によって新しいカルマを生み出すような方向へと、解脱者が連れて行かれることはない。そのためカルマは作り出されず、再誕生もあり得ない。

 何であれ為すべきことが起こったら、ただそれを行いなさい。そして忘れてしまいなさい。それについて考え続けてはならない。
 頭にこびりついた想念が、あなたを果てしない輪廻転生に連れ戻すのだ。欲望がまったくないとき自由がある。無欲がニールバーナ(涅槃)なのだ。


 そして、「記憶への執着」を取り払うために必要なプロセスが――、執着の起きる地盤でもある「自分が行為者であるという感覚」を超えていくことだと説いている。

 あなたはこの世界で、あたかも「自分がものごとをしている」と考えている。だが真実は、「気づき」がすべての活動を維持しているのだ。すべては気づきの中で起こり、気づきの中で維持されている。あなたは何もしていない。

 すべての活動を行うのが、あなた自身でなく気づきであることを知れば――、記憶に足跡が残らず、カルマを蓄積することもなくなる。次の誕生を生み出すカルマはもはや存在しなくなり、こうしてサンサーラは終焉するのだ。


 あなたが消し去らなければならないのは、行動パターンではなく、それに伴う「行為者という感覚」だ。害となるのは、行為そのものではなくて、「私はこれらの行為をしている」という観念なのだ。
 解脱を得たあとでさえ、行為は続いていく。それが解脱の妨げになることはない。なぜなら、それは身体にプログラムされたものだからだ。あなたは、しなければならない活動でいっぱいの倉庫を持っているようなものだ。それが身体の生き続ける間に果たしていく運命なのだ。

 だが、行為者という観念が消え去ったとき、身体がすることやしないことについての関心はもはやなくなる。解脱を得た瞬間、大いなる「炎」が現れ、行為者という感覚は焼き尽くされるのだ。それとともに、未来に生まれ変わるカルマの倉庫も焼かれ、あなたの輪廻転生を終結させる。


 記憶への執着、行為者としての感覚――
 これらもまた、さまざまな本に繰り返し書かれている内容とだいたい同じかもしれない。そして私たちはそれを読むたびに、「そう簡単に言い切られても、言うは易しなんだけどなぁ…」というふうに感じる。

 でも、「魂を自由に解き放ちたい」という思いを持ち、その取り組みが可能な環境にこうして生きていること自体が、何世にもわたる徳と幸運が積み重なった稀有な結果なのだと、プンジャジは力説している。
 そして最終的に、欲望と想念を終わらせるのは、気づきの「炎」なのだと説く。この「炎」というのは、本のタイトルにも付けられている通り、この人の教えの象徴的ポイントだろう。

 それは実際に、「するも易し」であることも明言されている。
 これについては、また後日に続きの形でまとめてみたいと思います――。


 一点、やや付随的な話題を。

 死とカルマに関連したことだけど、聖者や覚者と呼ばれた人の中には、癌などに冒されて病死しているケースが少なくないですよね…。誰でも少し気がかりに感じることだろう。
 その事実について、プンジャジは次のように言及している。

 ラマナ・マハルシは癌だった。ラーマクリシュナも癌だった。ヨガナンダも癌を患っていた。
 人の身体は、過去の行為の結果を体験し続ける。真我を実現していない人の場合、未完結のカルマは、来世に繰り越される。だが解脱者にその可能性はない。今生で真の自由を獲得した人は、再び生まれ変わることがないからだ。
 それはつまり、この最後の人生で未完の身体的カルマを、すべて結実させなければならないことを意味している。そのために、解脱した人はときおり非常に病んだ身体で最期を迎えることになる。次の生に延期することができないからだ。

 しかし彼らが、そのことを気に掛けることはない。自分というものが、病気で苦痛を体験している身体ではないことを知っているからだ。ただ、身体を通してプラーラブダ(果たされるべき運命)が完結されていくのを、超然と見守るだけだ。


 結びのヒーリング・ミュージックは、Aeoliah「The Light of Tao」。

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 何年も前に発刊された本だけど、『覚醒の炎 プンジャジの教え』を先日読みました。

 プンジャジは、著名な聖者ラマナ・マハルシのもとで覚醒を得たマスター。
 『ポケットの中のダイヤモンド』の著書で知られるガンガジは、プンジャジのお弟子さんだ。

 この本は、彼のもとを訪れた「質問者」との対話をまとめたもので、そうしたタイプの本(「アイ・アム・ザット」など)と同様、たくさんの深長な言葉にじっくり向き合いながら読んでいかなくてはならない。
 内容はさすがに素晴らしくて、本の最初から終わりまでが付箋だらけになった。


 全体を通して強調されているポイントは、「長い修練や瞑想によって真我を見いだせるわけではない」「今この瞬間に、ただ自分の内にある源を見いだしなさい」ということ。
 そして、その「真我」というものは、特定の教えとして説いたり、理解したりすることも不可能だとしている。


 で、そうした主テーマの脇にある部分的な内容とも言えるのだけど――、僕自身がひとつ「なるほどな」と思えたのが、さまざまな教えに対する「否定や棄却」についてだ。
 たとえばプンジャジは、インド最古の聖典である「ヴェーダ」について、こんなふうに語っている。

 ヴェーダとは「知識」という意味だ。そのヴェーダでさえ、知識を言葉で表すことはできないと述べている。
 そこでは「ネーティ、ネーティ」、つまり「これではない、これではない」とだけ語っている。あなたが知識について何を言おうとも、ヴェーダは「ネーティ・ネーティ」で答える。


 さらに、仏陀が悟りを得るまでの歩みの中にも、それと同様に否定の姿勢があることを挙げている。

 仏陀は何年も修行をし、多くの規律・戒律を守ってきた。最終的に、彼はすべての規律を拒絶して自分自身の内にそれを見いだしたのだ。
 彼は規律を守らなくてはならない多くのアシュラムを訪れ、その一つ一つを拒絶してきた。「これは違う、これは私が探し求めていたものではない」と――。
 こうして出会ったすべてを拒絶していった結果、最後は木の下に座り、自分自身でそれを見いだしたのだ。


 また仏陀は入滅するときに、弟子たちに「私に依拠してはならない」と言って、安直に信じないで自分で確かめるように説いたとも伝えられている。

 つまり、真理というのは、「正しい真理とはこれである!」なんて明言することはそもそも不可能であって(明言しようとしている人は多いけれど)、ただ「こういうのは間違い、ああいうのも誤り」という否定形でのアプローチをしていくしかないのだろう。


 さらに言えば、そのような批判姿勢を持たずにスピリチュアルな道を歩んでいくと――、偏った教えや技法に傾倒してしまったり、スピリチュアルな取り組みを通じてエゴ意識を満たすだけといった「罠」に陥ってしまう恐れも少なくないかもしれない。

 ただし、そうした「しかるべき批判や棄却」を行うためには、やはり並はずれて鋭敏なセンスと、基軸のしっかりした探求心がなくてはならないのだろう。誰でもできることではない…。


 そうした中で、私たちが道を外さないようにしながら、スピリチュアルな歩みを続けていくための方法だと僕自身がよく思っているのが――、
 仕事や家庭などの「日常を大事にする」、ということではないだろうか。

 僕自身は(今は会社勤めをしていないけれど)、20年以上のサラリーマン生活はやはりものすごく大事だったし、今は主婦業もしながら家族の課題とも向き合い、その色んな経験を通じて本当に貴重な気づきを得られていると感じる。


 私たちには、ブッダが行ったような、苦行を重ねながら一つ一つの教えを厳しく確かめて棄却していくという道は、到底無理だろう。
 だが、それに比肩すると言わないまでも――、日常の行いを大事にすることによって、スピリチュアルな歩みの「偏り」や「踏み外し」を適宜是正していくことが、自然とできているのではないかなと思う。

 日常というのは、なかなか暇ではない。スピリチュアルな志向に傾注していくことを、そう許してはくれない。
 自分が理想としているものとは、まるで違う現実が差し向けられたりもする。
 私たちは、「スピリチュアルな志向」と、「そうは言ってもという現実」の間を、揺れ動きながら生きていると言える。

 でも、そうすることによって――、
 振り子が何度も行き来しつつ中心に落ち着いていくように、あるいはスパイラル状に旋回しながら徐々に上昇していくように、どこかへ行き過ぎてしまうことなく、全体としてしかるべき道筋にうまく乗っているのではないだろうか…。


 魂の道というのは、「不可逆的」なものだと思う。
 いったん進み始めると、その志向は、もはや抗しきれないものとなるはずだ。
 「仕事や家庭のことがとても忙しいから、もうこの先はスピリチュアルなことをいっさい忘れてしまおう」という展開には、きっとなり得ない。

 一方で同時に私たちは、「食べていく」という必然性から逃れることも、普通できない。
 スピリチュアリティーだけにのめり込んで行こうとしても、やはりある程度の社会生活の中に引き戻され、そこでの課題に取り組まされる。

 それが多くの人にとっての現実的な図式であり、そしてそれこそがガイダンスであり、道であろうと思う。
 もちろんこの見方には、「日常の旧習から踏み出していくことが道である」といった異論も多いかもしれないけれど…。


 ちなみにプンジャジも、日常を離れて修行にのめり込むことには否定的な見解で、『覚醒の炎』の本の中でこんな体験も述べている。

 多くの人が、逃げ出すことによって、人生に新しいことが起こるに違いないと考える。だがそのようにはいかない。
 私はヒマラヤで、実際に超能力を達成した行者に会ったこともある。ところが、ヒマラヤを広く探し回ってみたところ、そこにいる行者の中で「真の自由」に達した人は誰もいなかった。

 一方で私は、インドでも西洋でも、家庭を持ちながら優れた人たちに出会ってきた。彼らは、世間で一般の生活をしながら、行者よりもはるかに成功を収めている。
 それゆえ私は、仕事や家庭から逃げ出すことを勧めない。仕事をするがいい。仕事をするかしないかは、「真の自由」とはまったく関係がない。逃げ出すのは時間の無駄だ。逃げ出して、新しい場所を探すまでの間に使う時間を、今ここで自分自身のために使うほうがいいのだ。


 そしてプンジャジは、仕事や日常生活も、すべてが起こるがままに起こってくるのだと説く。
 それにゆだねることによって、自らのいわば本領なり天命を生きるのだという。

 時が来れば、あなたは行動しなければならない。あなたのダルマ(定められた義務・役割)が何であれ、「源」を忘れてはならない。瞑想しようと、仕事をしようと、源は同じだ。いつであれ源に気づいていて、源に指示を仰ぎなさい。それが、なすべきことをあなたにさせる。
 源に気づいて、それが命ずるままに行為すれば、何の問題も起こらない。高次の力があなたに命じている。それを受け入れ、その通りに行為が起こるのを許せば、自ら行為をすることなどなくなる。あなたはただ、高次の力が命じることをするだけだ。

 起こるべきことは起こるだろう。行為すべきか、無為にとどまるかを決めたところで、物事の流れを変えることはできない。その選択はあなたの手の内にないのだ。


 ときどき説明することだけど――、このブログでは、タイトルに「カルマ・ヨガ」というのを掲げている。

 「カルマ」といえば、ふつうは「過去性からの業(ごう)」のことを指す。
 だが、カルマ・ヨガの「カルマ」はその意味ではなくて、単に「行い」という意味である。
(「業」の漢字にも、「過去性からの業」の意味とともに、ふつうの「行い」という意味もありますよね。「作業」とか「営業」とか)

 僕自身が心がけているのも、まさにそうした、日常を大事にすることです。
 もちろんそれは、日々やるべきことの中に没入してしまうことではない。日常の行いを通じて、真に大切なものを見いだしていくことだ。


 この本の中で最も心に響いたプンジャジの言葉――

 世界のためにできる最高の奉仕は、「あなた自身」を知ることだ。それで十分だ。あなたがどこにいようと、世界はその恩恵を受けるだろう。



 結びのヒーリング・ミュージックは、The Amnis Initiative - Relaxation Music Part 1 Inner Spirit
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 実家に帰省してあれこれ雑用をしているうちに、ブログの記事更新の間隔がけっこうあいてしまいました…。
 その間も、多くの方に訪問していただき、さらに拍手やランキングのボタンも押してくださって、本当に有難うございます!

 お陰さまで、父親が無事に退院できて、僕も明日には東京の自宅に帰って平常運転に戻れそうです。


 京都の実家は、ふだん80歳の両親が2人だけで暮らしている。
 父親は、聴覚がずいぶん衰えてきているのだけど、頭はわりとしっかりしている。
 一方の母親は、認知症の物忘れが進んでいるものの、耳のほうははっきり聞こえる。

 そんな年寄り夫婦2人の、実に心もとない「補完関係」によって、日常生活は何とか(綱渡り的に)やり繰りできている様子だ。


 心配は心配だけど、とりあえずは2人ともまだ体は元気だから、あとは「宇宙グループホーム」に信頼してゆだねておく感じですね…。


 1週間以上も実家にいたのは、かなり久しぶりのことだ。
 それだけに、台所や掃除をしたり、病院の見舞いに付き添うだけでも、親からは本当に何度もお礼を言ってもらえた。

 よく、「人生の値打ちは、人にどれだけ『ありがとう』を言ってもらえたか(言ったか)によって決まる」という考え方もある。
 僕の場合、「親の手助けをする」というのは、多くのポイントをまとめて得られる手法なのかもしれない…。


 またお礼を「言ってもらう」のとは逆に、「言う」ほうに関しては、近くの神社やお寺に行って、とにかく感謝するという手もあるわけだから――、ポイント獲得のチャンスは色々と存在するものですよね。


 もう一つ、ちょっと余禄的な話題。

 認知症の母親の脳に何か良い効果があればと思って、母親の頭部に「気」を送るように手をかざしてみた。
 べつに僕はそういうのに詳しいわけではなくて、かなり以前に話題になった「超能力サラリーマン」のまねごとをしてみただけ(あの人も確か最初に、心臓病の母親に何気なく手を添えたのがきっかけだったと思う…)

 すると、少し不思議なことが起こった。

 手をかざして間もなく、目を閉じて静かに座っていた母親が急に、「あっ、何かが近づい来る!」と驚きながら口にした。
 まぶたの裏に、何かイメージが見えるらしい…。

 「あぁー、これ、お父さんの背中や!
 目の前に、はだかの肩がある。若い、きれいな肌。
 皮膚のぽつぽつしたきめまで、はっきり見える。
 襟首の、短く刈り上げた髪の毛が分かる。
 いやー、不思議やわ! 何でこんなんが見えるんやろ?
 ふだん目をつむっても、こんなん見えたことがないのに」

 僕のほうも、思いがけないことだ。
 脳にある、何かセクシャルな記憶領域が刺激されたのだろうか…


 で、翌日にもう一回してみたところ――、
 今度もまたすぐに、「あれっ、何か見える!」と言う。

 「花がある。黄色い花!
 タンポポみたいな花が、たくさん咲いてる。
 赤い花もある。広々とした、なんとまぁ、きれいな景色!
 小さい花やけど、遠くにある花ほど大きく見える…
 あれっ、ふつうと逆やね。どういうことやろ?
 あぁ、遠い向こうのほうが、空に続いているのが分かるわ」


 ――といった様子で、まるで臨死体験だ…。
 ふだん母親には幻覚症状はないけれど、でも認知症の脳だから、現実にはないイメージが現れやすい状態なのかもしれない。

 確か立花隆の本の中で、脳に直接電極を当てて、臨死体験を再現するという生体実験が出ていたのを覚えている。
 それと同じようなことを、外側からの手かざしで行った、という感じなのでしょうかね…、よくは分からない。とても不思議だ。


 で、これによって母親の物忘れ症状がどうなったかというと――、まったく何の効果もなかった…。

 そのあと、台所の床が汚れていたので、僕が掃除機をかけて、母親にふき掃除をしてもらった。
 終わってから「床をふいたからピカピカになったね」と僕が言ったら――、「うわー、ふいてくれたんか! ありがとうなー」とお礼を言ってくる始末。

 そういうふうに感謝さるのもねぇ…。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Denean「Angels Calling Me」。


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 父親が手術入院することになり、いま京都の実家に帰省中です。

 鼠径ヘルニア(脱腸)なので大そうなことでは全然なく、両親も「わざわざ東京から来てもらわなくてもいい」と言っていたものの…、やはり帰ってきて助けになれて良かったなと思う。
 父親の手だけでは入院の持ち物が運べないし、病院での手続きとかもままならない。認知症のある母親が付き添ったら、一人の帰り道で迷子になってしまう可能性も大である。

 近所に女きょうだいがいて、面倒を見てくれれば心強いのだけれど…、でももしそうなら、きっと任せっきりなって、僕はほとんど実家に帰らないと思う。
 きっといま自分は、「親との関係性を大事にすべき」という人生の時期にあって、最初からそういう設定になっていたのでしょう。


 もの忘れが進んできた母親は、ついさっきしたことや言ったことをすぐに忘れてしまい、料理がだんだんできなくなってきて、家の中も整理や掃除がしきれていない。
 昔から見慣れた家の中に、これまではなかった埃(ほこり)がかぶっているのを見ると、「ずいぶん変わってしまったなぁ…」と思えてくる。


 そういう状況もあって、最近は認知症や介護の本などもよく手にする。
 医師など専門家による本が中心だけど、このまえ漫画家の岡野雄一さんが書いた「ボケて幸せな生き方」を読んで、これはなかなか面白かった。

 岡野さんは、認知症の母親を描いたベストセラー漫画「ペコロスの母に会いに行く」の作者だ。(僕は漫画本のほうはまだ読んでいないのだけど、本の中にいくつかの作品が収録されていた)
 この漫画が多くの人に支持される理由は、認知症や介護の体験での「面白話」にとどまらず、これまでに親子が歩んできた「家族史」の部分がはっきりと描き出されている点にあると思う。

 ただし、その家族史というのは、かわいらしい画風に似合わず、決してほのぼのとした内容ではない…。
 それだけに、「魂が織りなす物語って、こういうものなのかな」と、とても深く感じさせるものがある。


 ちょっと説明すると――

 長崎で生まれ育った著者の父親は、造船所のまじめな職員で短歌が趣味だった。
 ところが酒ぐせが非常にひどくて、飲んでは母親に暴力を振るっていた。今でいうDVの典型である。
 また、給料袋ごと先輩社員に渡してしまって、家の生活費がなくなることもあったそうだ(借用書は何枚もあったが、お金が戻ってくることは一度もなかった)

 すさんだ家庭から離れるために、著者は東京に出て出版社に就職した。
 そして十数年のち、著者は離婚して長崎の実家へUターン。そのころには父親は、ドクター・ストップがかかり飲酒をやめていて、もの静かな好々爺になっていた。
 やがてその父親が他界し、母親は認知症になっていく。


 そうした母親の様子を見ていると、「楽しかった幸せな記憶だけが濾過されて残っていくようだ」と著者は述べている。
 もちろん父親のことを忘れたわけではない。でも父親について語るとき、「ひどかった」とか「憎い」という記憶はなく、ただ「あの人は弱い人だったから…」と口にするのだという。

 つまり母親は、具体的な行為としての「暴力」のほうではなく、父親の内面にあった「弱さ」のほうを鮮明に覚えていて――、
 それを認知症になってもなお分かってあげて、受け止めているのだとも考えられる。


 さらには何と、認知症が重くなった母親の目には、もう亡くなった人たちの姿があちこちに見えるのだそうだ。
 そして、他界した父親が、あの世からこちらを訪ねてきては、「生前は本当に迷惑をかけました」と詫びるだという…。

 弱さゆえの暴力、受け入れと許し、記憶の濾過、亡き人の謝罪――
 これはある意味で、ペアの魂が人生を通じて取り組んだ、「浄化の物語」と言えるのではないかなと思う。

 プロセスは非常に大変なものだけれど、これによって「弱さ」としてこの世に持ち込まれた一つのカルマが、清算されたのだと感じる。
 もちろん、同じ道筋でさまざまなDVが解決していくわけでは全くない。でも少なくともこのケースは、これで帰結したのだろう。


 もしも著者の母親が認知症になる前に早く亡くなっていたら、そんな内面的な深い実情まで、周りは知るよしもない。
 外見上の「粗暴な夫にただ耐えた妻」としか思えない。

 さらにはそんな話を、息子である著者が地元のタウン誌で漫画に描いて、結果的に全国的なベストセラー本になり、こうして私たちに伝わるというのも、本当に大事なことだなと感じる。


 で、僕の実家の場合も、それなりの「家族史」のようなものはある。
 さすがにDVのような深刻なものはないけれど、いいことばかりがあったわけではない。
 それでも、認知症の出てきた母親が口にするのは、「楽しかった幸せな記憶」だけである。

 色々と悪口を浴びせられたことのある祖母(姑)についても、「私のことをあんなに大切にしてくれた、優しいおばあちゃんはいない」としょっちゅう言っている。
 たぶん、相手に対するわだかまりがすっかり解消されて、心に映った美しい部分だけが記憶に鮮かなのだろう。


 スピリチュアルの世界では、「今」だけがすべてであり、過去は実在しないとよく言われる。
 僕自身も、日常の色んな場面を、「今」だけがすべてということをなるべく意識するように生きている。

 ところが、両親のことに限っては――、いま目の前にいるこの「年寄り夫婦」がすべてだとはまず思えない…。
 過去に歩んできた色んな家族史を含めてこそ、それが僕にとっての両親のすべてだと言える。

 スピリチュアルな真実とは違うけれども、これも「また真なり」だろうと思う――。


 芥川龍之介の「杜子春」の物語では、仙人になることを目指す主人公が、山にこもって「何があっても口をきかない」という試練を受ける。
 そして虎や大蛇に襲われたり、地獄の恐ろしさを味わっても、無言を貫く。

 ところが――、苦しみながらも自分のことを思ってくれている母親の姿を見せられると、主人公は耐えきれず「お母さん!」と一声叫んでしまう。
 すべてが台無しになってしまうのだが…、実はそれこそが進むべき真の道だった、というお話しだ。

 途中で弱音を吐いても失格なのだろうけれど、でも親に対する気持ちだけは「話が別」なのだと言える。


 スピリチュアルにおいて、親との関係性というのは、きっと例外的なほど重要で繊細な意味を持つテーマなのでしょうね。

 今こうして実家に帰りながら、本当にそんなふうに思います…。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Hilary Stagg「Prelude to Love」

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 僕がブログの話題として好きなのが、物理や生命などの理系的なテーマから、スピリチュアルなメッセージのようなものを見いだすことです。
 これまでにも、原子の構造や、宇宙のビッグバン、惑星の軌道、生物の大量絶滅、血液成分、遺伝子、蝶の旅――等々、いろんなネタを書いてきました。


 そうした話の展開はたいていパッと思い浮かぶのだけど、ときには「何か面白い意味がありそうで、つかめないな…」といったケースもある。

 今回はそんな、「頭の引き出しにしばらく入れておいたのだけど、そのまま使い道が見つからなかった」というテーマをちょっと書いてみます。
 いわば、比喩にならない「比」だけの話。


 今年は4月に「皆既月食」がある。
 あの深い赤色の「ブラッド・ムーン」は実に神秘的ですよね。昨年も10月に見られたし、その前は2011年の12月にあった。

 そうして振り返ると、皆既月食は、けっこう頻繁に起こっている現象といえる。


 一方で、太陽が隠れる「皆既日食」や「金環日食」のほうは――

 東京で金環日食が見られたのは、2012年5月だった。
 テレビのニュースなどでも大きく報じられたし、「アセンションのきっかけ」なんていう説もあったから、記憶に鮮やかだろう。

 その前に東京で金環日食があったのはいつかと言うと、何と1839年! である(東京でなく江戸だった)。
 さらに、皆既日食があったのは1406年! ということだ(江戸すらまだなかった…)。

 で、次回に東京で起こるのは、金環日食が2312年!(日本はまだあるのだろうか)。皆既日食は2702年! だという(人類はまだいるだろうか…)。
 (それまでに、2035年には東京で太陽が99%以上欠ける「部分日食」が起こる。これは見られそうですね)

 こうして考えると、皆既日食や金環日食というのは、本当にものすごく希少な現象といえるだろう。


 ところが――
 月食よりも日食のほうが本当に珍しいのかというと、そうではない。

 21世紀の100年間で、地球上で起こる月食の回数は「142回」ある(内訳は、皆既月食が85回、部分月食が57回)

 一方で、日食が起こる回数は、それを上回る「224回」だ(内訳は、皆既日食が75回、金環日食が72回、部分日食が77回)

 なんと実際には、日食のほうが月食よりも頻繁に起こっているのだ…。


 どうしてまた、このように逆になってしまうのかというと、それは「食」が起こる範囲の違いである。

 まず月食のほうは、すごく広いエリアで観測することができる。
 昨年の皆既月食の場合も、日本と同時に、はるか離れた南半球のオーストラリアなどでも同じブラッド・ムーンを眺めることができた。

 それに対し日食は、観測できるエリアがかなり限られる。
 2012年の金環日食は、東京などでは見ることができたが、長野や仙台では完全な金環日食にはならなかった。
 2009年にも鹿児島県のトカラ列島などで皆既日食が起こったが、九州や本州では部分日食だった。
 (だから、日食を観測する目的で世界中を飛び回る「日食ハンター」というマニアはいるが、「月食ハンター」は存在しない。わざわざ世界を飛び回らなくても、自分の住んでいるところにいれば見られるから)


 つまり、「地球全体」の視点で見た場合には――、実は皆既月食よりも皆既・金環日食のほうが、しょっちゅう起こっている。

 でも、東京など「ひとつの地域」に限って見た場合は――、皆既月食はたびたびあるのに、皆既・金環日食はめったに起こらないすごく珍しい現象になるわけだ。


 このように、同じようで同じではなくて、視点の範囲によって逆にとらえられるって――、どことなく意味ありげですよね。
 何かスピリチュアルなメッセージに結び付きそうな感じもするのだけど、いい落とし込みがひらめかなかったので、この話はここまで…。


 これと同様に、同じようで同じでない、比喩にならない「比」だけの話の2つ目――

 北極と南極と、どちらが寒いでしょうか?

 どちらも「緯度ゼロ」なわけだから、気温も同じくらい低いように思えるけれど…、
 北極の冬の平均気温はおよそマイナス25度。これに対し、南極の冬の平均気温はマイナス50~60度で、南極のほうがもう圧倒的に気温が低い。


 どうしてこんな差が出るのかと言うと、北極は「海」であり、南極は「大陸」というそもそもの違があるからだ。

 北極は、海の上に厚さ「10メートル」の氷が張っている。

 他方の南極では、大陸の地面の上にばく大な量の氷雪が積み重なっていて、その標高は実に「2500メートル」にも上る。南極は「氷の山地」なのだ。(温暖化問題で言われる通り、その氷がもし全部溶けたら、世界中の海面が数十メートルも上昇するほどの量だ)

 当然のことながら、「平地」よりも「高い山」のほうが気温は低くなり、また「大陸の内陸部」の冬はすさまじく冷え込む。
 そうしたことから、北極よりも南極のほうが圧倒的に寒いというわけだ。


 この話もまた、「同じゼロ・ポイントであっても」といったメッセージ性が何となくありそうな気もするのだけれど…、パッとひらめかないので、このへんで。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Tim Wheater「Dark Falls the Night」。

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 明けましておめでとうございます!
 本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。


 いきなり正月っぽくない話なのですが…、先の年末を、またちょっともの好きな過ごし方をしました。

 以前に、真夜中の荒川河川敷をウォーキングした話をブログで書いたけど――、それ以降、「人がいなくなった時の都心部でも同じことをしてみたいな」と思っていた。
 で、その思いを果たすべく、12月30日の終電から翌朝の始発電車にかけて、未明の東京を歩いてきた(本当は大晦日から元日にかけてと思っていたけど、天候が悪そうだったので1日繰り上げ)

 別にどんなコース取りでも良かったものの、せっかくだから神社めぐりをしてみようと考えて――、
 明治神宮(原宿)→ 日枝神社(赤坂)→ 靖国神社(九段下)→ 神田明神(御茶ノ水)というコース。


 もちろん正月以外は夜の神社は閉まっているから、入り口や鳥居の前で一礼するだけ。
 また、このルートだと距離が短すぎるので、途中に東京駅方面へ皇居をぐるっと遠回りした。結局はそれでもまだ短すぎて、ゴールの御茶ノ水駅に始発の1時間前に着いてしまったため、追加で東京大神宮(飯田橋)にも足を延ばした。


 ふだんの都心部は、どんな夜遅くでも人がいるものだけど、年末年始となると本当に文字通り、人っ子ひとりいなくなるんですよね…。
 最初のうちはまだ時間も早くて(と言っても終電の時間)、多少の人通りが残っていた。そこから歩いていくにつれて、どんどん夜も深まり、中心部の霞ヶ関、丸の内、大手町にかけては、まったく誰一人として人に出会うことがなかった。

 真っ黒の国会議事堂が、廃墟のようなシルエットで浮かび上がっている。
 官庁や大企業のオフィスビルには、どの窓にもほぼまったく明かりがともっていない。林立するビル群全体が、生命感の消え失せた、巨大な炭のようなかたまりと化している。

 通りの街灯が場違いなほど明るく照り、信号は不自然に規則正しい青黄赤の点灯を繰り返している。その中を、時おり空車のタクシーが走行音を響かせてどこかへ通り去っていく。

 普段ここには、見渡す限りあふるほどの人々が集積して、色んな思惑や情報やマネーが飛び交い、国やビジネスを動かしているなんて――、まるで嘘のような幻にしか思えない…。
 今ここにいる僕自身と、周りにあるただの闇の広がり。ただそれだけが、本当にリアルなものとして存在しているのだというふうに感じられる。


 静かにウォーキングしていると、歩くことは「浄化」だなとよく思う。

 かく言う僕自身も、数年前のサラリーマンだったときは、まさしくこの都心部をあわただしく行き来する一人だった。
 色んな懸案事項や、アイデアや、使命感や、精神的負担や、打開策や、閉塞感など、複雑に入り組んだありとあらゆる想念を抱えながら、20年以上にわたってこのへんの通りやビルを駆け回ってきた。

 目に触れる街角のあちこちに、自分の過去の想念の痕跡が感じ取れる…。
 いま、人の気配のない都心部を、こうして一人でただ通り抜けながら、未消化のまま積もっている過去を清算しているように思える…。


 都会の真ん中にある「神社」というのは、そこだけがまるで異なった空間である。
 真っ暗な深夜も、異界のような雰囲気がありありと漂う。

 そびえる鳥居の向こうに続く、深々とした闇…。
 そこが、果てしない不可知な次元の、何か「最前線」のように感じる。
 その空間的な境目に立ちながら、新しい年への時代の境目を迎えている――

 2015年は、どんな変化が起こってくるのでしょうね!



 結びのヒーリング・ミュージックは、Santiago「Path to Inner Peace」。

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プロフィル

Koudai Mitsuna

Author:Koudai Mitsuna
 
光奈 広大(みつな・こうだい)

 20年のあまりのサラリーマン生活を経て、いわゆる「ザ・マネーゲーム」を何とか卒業。今では束縛されない自由な日々を存分に味わっています!

 そうした中で心がけているのは、普通の日常的な行いを通じて、意識の進化を目指す「カルマ・ヨガ」。

 日々の喜びや学び、インスピレーションから得たスピリチュアルな気付きなどをブログで紹介しています。

 妻子と都内在住――。





http://facebook.com/koudaimitsuna

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