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 今回は、けっこう重いテーマについて言及してみます。

 「あらゆるものごとは、起こるべくして起こっている」「この宇宙は完璧なのだ」――とったことは、スピリチュアル分野ではかなり原則論的に言われることだ。

 それに対して、「じゃあたとえば、ナチスによるユダヤ人大量虐殺はどうなの?…」といった疑問はよく投げかけられる。

 ヒトラーが率いたナチスは、軍事力や残虐性において、人類史上で最強最悪な力の象徴だろう。
 その過去の現実から、「あやまちを二度と繰り返してはならない」といった教訓を得ることはもちろんできる。
 だが、起こるべき必要性とか、宇宙の完璧さからは、正反対にかけ離れた出来事にしか思えない…。


 しかしそれでも――、
 臨死体験をした人が、あの世で宇宙の叡智に包まれながら人々の歴史を振り返ってみたとき、「どれほど恐ろしく思える出来事でも、起こることすべてに価値がある」という、まったく疑いようのない理解に至るのだという。

 ただしその理解は、地上に持ち帰ることはできない。
 生きながらそうした真実を理解できれば本当に素晴らしいけれど、きっと人間の限られた頭脳では、認識しきれないことなのでしょうね。


 一方、退行催眠療法で有名なブライアン・L・ワイスの本の中に、ナチス・ドイツ時代のユダヤ人だった過去生を思い出した人の話が出ていた。
 その過去生では、強制収容所に送られて家族全員が引き離され、生き地獄のような労働と飢餓のすえに、惨殺された。

 そうして肉体を離れゆくときに抱いていた思いは、ナチスに対する憎しみや、人類の過ちについての教訓でもなく――、驚いたことに、「愛」の存在や絆への絶対的な確信だったと語る…

 家族たちがどうなったのかは知らない。それもどうでもよくなっていた。
 ナチスでさえも壊滅できないほど強い絆を、私たちは持っていることが分かっていた。
 愛する人を失うことはない。私たちはいつもそばにいるのだ。


 これは、強制収容所の悲惨極まりない記録などからは、ちょっとうかがい知れないことかもしれない…。

 スピリチュアルのマスターたちも、繰り返しこう語っている。私たちの本質とは「愛」であり、周りの世界の現実というのは「幻」にすぎないと。
 そしていかなる幻も、私たちの本質を傷つけることはおろか、触れることさえもできないのだと。

 実際に、ナチスという「最強最悪の幻」による圧倒的暴力をもってしても、それを傷つけることなどまったくできなった。

 この真実を、当時の迫害された人々が体験的に理解して、私たちの魂の共有経験の中に刻み込まれたのであれば――、
 それは、悲惨さとか教訓を超えた、ある意味で「高らかな達成」と呼んでいいのではないか、とも思える…。


 前述のユダヤ人の過去生とほぼ同じ理解を、強制収容所を体験した精神科医ヴィクトール・E・フランクルが、著名な『夜と霧』の本の中で述べている――

 何キロもの雪道を転びながらやっとの思いで進んでいく間――、誰もが伴侶のことに思いを馳せていた。精神がこれほど生き生きと人の面影を想像することは、以前のごく真っ当な生活では思いもよらなかった。
 強制収容所に入れられ、耐えがたい苦しみにただ耐えるしかない状況にあっても、人は内に秘めた愛する人のまなざしを呼び出すことによって、満たされることができるのだ。

 ところがそのとき、あることに思い当たった。妻がまだ生きているのかどうか、まったく分からないではないか!…
 そうして私は知り、学んだのだ。
 愛は、生身の人間の存在とはほとんど関係なく、愛する人の精神的存在が共にあるということなのだと。
 肉体としてまだ存在しているかは、まったくの問題外なのだ。もはや生きているのか死んでいるのか、収容所では知るすべもないし、分からなくたってどうでもいい。


 「人の愛としての存在は、失われることがない」「ナチスでさえも、それを傷つけることなどできなかった」――
 私たちは、自らの本質やその強さについて、いつもつい疑いをもって見てしまう。でもそれは疑うべきでなく、人類の史実として「すでに実証がなされたこと」と考えてもいいわけだ。

 もちろん、「それを実証することが、ナチスの行為の意味だった」とまでは言えるはずもないけれど――、
 悲惨な歴史に込められた、「地上世界に持ち帰ることのできない意味」の一端なのではないかな、と感じます。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Petruta Küpper「Einsamer Hirte」。

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 昨年のことだけど、外出中の妻から「今夜ある講演セミナーを2人分申し込んでいるんだけど、一緒に行くはずだった人の都合が悪くなって、受講料がもったいないから来てくれないか…」という、ずいぶん唐突な電話がありました。

 何のセミナーなのかもよく分からないまま行ってみたところ――、元風俗嬢で性生活や生き方をテーマにしたブログが人気の「子宮委員長はる」さんと、子供の胎内記憶の研究で知られる産科医・池川明さんの対談講演だった。

 会場にいるのはほとんど女性で、男性はぽつりぽつりという感じ。
 僕はそういうシチュエーションはヨガ教室やPTAで慣れているのだけど、女性参加者のあまりに赤裸々な中身の質疑応答を聞いているのは、さすがに肩身の狭い思いがした…。


 でも、子供の胎内記憶の話は、なかなか興味深いですよね。
 関連本などは、臨死体験や退行催眠ほどは多くないものの、昨年に池川氏も登場するドキュメンタリー映画『かみさまとのやくそく~胎内記憶を語る子どもたち』が公開されたりもした。




 講演のメモを取ってなかったため少々違いがあるかもしれないけど――、池川氏ももともとは、そうしたスピリチュアル方面への関心はほとんどなかったそうだ。
 ところがあるとき、クリニックに来ている母親たちから、「子供が、生まれてくる前のことをしゃべるのでびっくりした」という話を何度か耳にした。

 あまりにも不思議に感じ、病院のスタッフとの間でも話題にしてみたところ、「それはけっこうあることですよ、先生は知らなかったのですか?」とあっさり言われた。「院長の私だけが知らなかったこと自体が、ものすごく衝撃的だった」と振り返る。
 そうして今や、「医師である自分が、胎内記憶や魂について講演して、それを多くの人たちに受け入れてもらっているわけだから、10年前からすればまったく信じられないことだ」と語る。


 人の一生涯をよく「揺りかごから墓場まで」と表現するけど、臨死体験というのは「墓場からあと」のことで、この胎内記憶は「揺りかごより前」の視点と言える。
 そしてその両側は、輪としてつながっている。

 臨死体験については、今や世界中に何万もの証言があり、その内容は地域・文化・宗教などを超えて驚くほど共通している。
 死後に自分の体を空中から眺めたり、人生のさまざまな場面を瞬時に回想したり、すでに亡くなった親しい人と会ったり、トンネルを通り抜けて天上界へ行って、光り輝く崇高な存在に対面したりと――。


 同様に、「生まれてくる前の記憶」の場合も、ほぼ共通のパターンがあることが聞き取り調査によって分かってきた。
 それは……

▼生まれる前の子供たちは、雲の上みたいな世界にいて、神様のような大きな存在に見守られながら、穏やかに心地よく過ごしている。
 その世界にはたくさんの子供たちがいて、一緒に遊んだりもしている。

▼そこから子供たちはこの地上世界を眺めて、「どのお母さんのもとに生まれるか」を決める。そうして地上に降りてきて、母親のおなかに宿る。
 中には、この世に生まれることをためらう子もいるが、ほとんどは自分自身で母親を選んだ上で、進んで生まれてくる。

▼その「雲の上の世界」にいるより以前のことを覚えている子供もいる。
 今とは別の人としてこの世で生きて、死んだ後に体を離れて雲の上へ来た。そうしてしばらく休んでから、再び地上に戻っていくのだという。


 ふつう一般的には、「子供は親を選べない」とよく言われる。またドラマなどで、反抗期の子供が親に対して「自分を産んでくれなんて頼んでない!」なんていう定番のセリフもあるけれど――
 実はそれとは、まるっきり逆といえるわけですよね…。


 もうひとつ面白いと思うのは、おなかにいる赤ちゃんは外の様子を「見ている」ということだ。
 外の音が「聞こえている」ことはよく言われるし、音楽をかけたり読み聞かせをする「胎教」は最近かなり一般的になっている。

 ところがそれどころか、胎内記憶を語る子供たちは――、母親が妊娠していた当時に着ていた服や、室内の様子、散歩のときの風景、見ていたテレビ番組まで言い当てるケースがあるそうだ。
 中には3歳の子供が、「おなかから見た2月は、29日まであった。おかしいな」と言った例もあるという。その子はうるう年の生まれで、生まれ年のカレンダーはこれまで一度も見たことがなかった…。

 こうした外の様子について、「おへその穴から見ていた」という子供が多い。
 とても不思議だけど、臨死体験でも自分の肉体から出て周りを見たりしているわけだから、生まれる前もそういうことがあるのかもしれない。


 そして、もうひとつ――
 前述の通り、「子供たちは自ら親を選んで、進んで生まれてくる」ということだ。でも現実には、自分の親や家庭環境に、子供のころからかなり不満を抱いている人は少なくない。
 しかも、仏教では輪廻そのものが苦しみと言われる。だから、「本当は生まれたくなかった」という魂が多いのではないか、とも思えるのだけれど…。

 米国の産科医で催眠療法士でもあるデイビッド・チーク氏が、2,000人もの被験者に退行催眠を行って調査した結果によると、そのうち「生まれたくなかった」と答えたのはたった6人だけだったという。

 しかも中には、親のことを憎んで「こんな親のもとに生まれてこなければよかった!」と嘆いていた人が――、退行催眠によって「実は自分は、この人の子となって助けてあげたいと決意して、望んで生まれてきたのだ」ということを思い出した事例もあるそうだ。


 さらに池川氏が行った調査でも、「なぜお母さんを選んだか」との質問に対して子供たちは、「優しそうだったから」「かわいかったから」といった答えだけでなく――、「さびしそうだったから」「泣いていたから」「助けてあげたかったから」などの理由も多くあげられたという。


 私たちの魂がこの世界に生まれてくる目的とは、「人を助けるため」とか「関係性の中でともに進化していくため」と言われるけど、こうした子供たちの話からも同じことが見えてくるようですね!



  結びのヒーリング・ミュージックは、Kristian Borregaard「City Walk」。
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 初期仏教の瞑想法で、導入前に念じるこんな言葉があります――

 「私が幸せでありますように」


 「世界人類が~」という看板は色んなところで目にするけど、一方でこの「私が~」というのは、実に精妙な言葉だなと感じる。

 と言うのも、人間のエゴ意識(自我)というのは、表面上は「私の幸せを第一に願い求めている」ように見せかけておいて――、
 奥にある魂胆としては、「私には決して幸せになってもらいたくない」と考えているからだ。


 エゴ意識にとって、「私」というものは――、切り離されたちっぽけなかけらのような、頼りないほど不安定で、大切な何かが欠けている、「そのままでは不幸せな性質」のものでなくてはならない。

 私たちにそのような自己像を抱かせることによって、「今あるもの」ではなく「これから獲得すべきもの」へと目を向けさせ、そして心の欲求に従って「先の幸せの実現」だけを延々と追い求め続けるようにする――
 これがエゴ意識の手口といえる。

 それによって人は、内なる「本当の私」に目を向けることなく、エゴ意識と自己同一化した形で、一生涯を送っていくことになる。

 よく言われように、「不幸せな私」「そのままではダメな自分」というのが、エゴ意識にとって必須のエネルギー源なわけだ。


 もし私たちの内が、喜びや幸せで本当に満たされてしまうと――、そこにエゴ意識はもはや存続していくことができなくなってしまう。
 「私が幸せでありますように」という純粋な願いは、エゴ意識にとっては存続基盤を危うくする、とても不都合な言葉といえる。


 そのため、たとえば世界人類の幸せを願うときには、まったく何の異論も湧いてこなくても――、
 こと「私が幸せでありますように」と願ったときに限って、心の片隅で「やはり幸せになるためには○○が必要だ」とか、「今の自分はまだ幸せを受け取る資格はない」といった、エゴのささやきが聞こえてきたりする…。

 そのささやきは一見、きちんと理屈の通る自分自身の思いのように感じ取れるけど――、実際は、自己同一化したエゴの、巧妙な生き残り手段にすぎない。



 もう一つ、心の底で抵抗感が出てくる、単純きわまりない言葉――

 「お父さんありがとう、お母さんありがとう」


 これは翻訳家の山川紘矢さんが、いくつかの自著に書いている体験談だけど――、
 もともと大蔵省の高級官僚だった山川さんは、重い喘息を患って退職せざるを得なくなった。
 病気の具合が少し良くなったとき、あるセミナーに参加した。そこで、全員が輪になって手をつなぎ、「お父さんありがとう、お母さんありがとう」と繰り返し唱えるワークがあった。

 山川さんは、「何でこんなところまで来て、幼稚園みたいなことをしなくちゃならないのだ」とばかばかしく思い、帰宅後に奥さんに「とてもつまらないセミナーだったよ。新しく学んだことなんて何もなかった」とこぼしたそうだ。


 ところがその夜、寝床に就いたあと――、両親をはじめこれまで出会った人たちの顔が次から次に浮かんできて、それに向かって「ありがとう、ありがとう」という大きな声が、止まらないほど内からあふれ出てきた。
 そのうち、世界や宇宙への感謝の気持ちで満たされ、その全体と一つになっていく体験をしたのだという。

 さらにその翌日から、何年間も治らなかった喘息がどんどん快方に向かったそうだ――。


 両親への感謝を、まったく何の抵抗感もなく心から言える人は、もちろんたくさんいるだろう。
 でも一方で、言うこと自体に気が重い人や、あるいは言葉としてはサラッと口にできても、そのときの心の奥底にある感覚にはあまり触れたくないというケースも少なくないと思う。

 僕自身はというと、親との確執などはほとんどないはずなのだけど、あえて「お父さんありがとう、お母さんありがとう」と唱えてみると――、どこかにかすかな引っかかりというか、正体不明のスッキリしない違和感は確かに感じる…。

 おそらくは、何かわだかまりとなる幼少期の潜在記憶があるのかもしれないし、もしかしたら今の両親と過去生において、感情のもつれた関係性があったのかもしれない…。


 エゴ意識や潜在記憶、過去生から持ち越された未清算の課題など――、私たちは浄化して手放すべきものを、まさしく内面に山積した状態で生きている。
 それらの原因は容易に分かり得るものでないし、メカニズムは非常に複雑だ。

 でも、それらを解消するための一つの有効な手立てといえるのが――、
 エゴが抵抗を示す、身近でシンプルな言葉を、あえてはっきりと「宣言」してしまうことかなと思います。

 「私が幸せでありますように」
 「お父さんありがとう、お母さんありがとう」


 こういう言葉を見て、心の中でどこか反射的に敬遠したり、ケッと思ったりするようなところがあったなら――、それが内にある「浄化すべき対象」なのでしょうね。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Soren Hyldgaard「Children’s Playground」。

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 今回はけっこう軽い、日常シーンの話題です。
 息子が通う高校のPTAの役員をしているのだけれど、先日にちょっとしたポカをしてしまいました…。

 何十人か集まる会議の配布資料を作って持ってきたところ、会場に着いてバッグを開けてみると、入っているはずの資料一式がまるまるない!!

 絶対に忘れないようにと、前日にちゃんとバッグの中に入れておいて、間違いなく確認したのに…。
(誰もが同じような経験があるだろうけど、当事者にとっては「最も恐れていたことが起こった」くらい、信じられない衝撃ですよね)


 「まさか、そんなはずが」と、真っ白になった頭で思い返してしてみれば――、
 家を出るちょうど間際に、出席者の一人から、「体調を崩したので欠席します」というメールが届いた。返信メールで伝えておく要件がいくつかあったため、バッグの中から資料のファイルを取り出してメールを打ったのだけど、そのファイルを机の上に置いたまま急いで家を出てきてしまったのだ…。

 あぁ、何ていうことだ。
 しかもあの資料、こま切れの時間を使って、一週間がかりで作り上げたものだ(配布する一人ひとり内容が違うので)。
 そこまでしたのに、うかつにも肝心なところでこんな「落とし穴」にはまってしまうなんて。もう、いったい自分は何をしているんだか。

 しかも資料がないと、けっこう大事な打ち合わせがそもそもできない。皆が集まるまであと10分。でも家に取りに帰るには、電車で片道20分…。


 で、結局どうしたかというと――
 議題の順番を少し変えてもらい、たまたまちょうど帰宅した息子に電話かけて届けてもらった。

 そして、大いに動揺したのが嘘のように、まるで何事もなくその日の会合が終わった…。


 「救いの天使」というのは、こちらの困惑をよそに、まるで軽わざのようにことを運ばせていく。
 ひょっとしたら、それを見せて示すために、わざわざ事前のトラブルなども細かく仕組んでいるのかも。

 それは決して迷惑な話ではなくて、「とりあえずどうにかなった」という宇宙の軽やかな性質のほうに着目すべきなのでしょう。


 まぁ、PTAの会議ならまだしも――、会社勤めをしていたときには、重要な取引先がかかわる場面でも似たような事態に直面したこともあったから、それはいま思い出すだけでも背筋に緊張が走って冷や汗が出てくる。

 でも誰にとっても、「いったい自分は何をしているんだ!」と思わず自分自身を責めてしまうような局面でも、最終的には「どうにかなった」というケースが、実際にはほとんどだろう。
 またその時点では問題であっても、何年もたってみると、「そのことをまだ気にしているのは自分だけ」ということだって少なくないはずだ。


 そうした「オーライな結果」や「時間による解消」、さらには「すごく心配ていたけど実際には起こらなかった出来事」とかも含めて考えてみると――
 人生における「幸運率」というのは、ふだん考えている以上に、かなり高いのではないでしょうか!



 結びのヒーリング・ミュージックは、Bruno Sanfilippo & Mathias Grassow「Ambessence piano & drones 1」。

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 10年前と比べてみると――、自分の状況も意識のあり方も、本当に大きく変わったなとつくづく実感します。

 10年前の僕はバリバリのサラリーマンで、タバコを吸って酒を飲んで、ストレスを抱えて時間と格闘しながら、仕事にまい進していた。
 「この生き方はどこかちょっと違うのでは?」という疑念が心をよぎっていたものの、スピリチュアル分野への関心はほぼ全くなかった。


 それに対して今は、当時とはぜんぜん違う日々を送っている。四六時中、束縛されるようなものは特にないし、生活スタイルはどんどんシンプルになっていった。交友関係も、最近は波長の合う人としか出会わないようになった。
 大人から子供までがものすごく忙しいこの日本で、「自由人」と呼べる立場でいられるのは、実に恵まれたことだなと思う。


 そうした僕個人の状況だけではなく、世の中の全体的な様相についても、だんだんとさま変わりしてきたように感じる。
 10年前はスピリチュアルのブログなんてまだ存在しなかったし、また書店の「精神世界のコーナー」は、真っ当な社会人は近寄るものではないような怪しげなイメージもあった…。

 でも今や、そうしたブログやセミナーに大勢の人が集り、スピリチュアル・メッセージや臨死体験などの本が売れ筋になったりもしているわけだから、これは「隔世の感」と言っていいのではないかとも思う。


 さらには…
 あの4年前の大震災の頃くらいからだろうけど、私たち日本人の意識の奥深くに、何かとても根底的で決定的な変化が芽吹きはじめているように感じる。

 もちろん人によって色んな違いはあるものの――、「私たちはひとつである」とか「目覚めたい」といった、本人もまだはっきりとは気付かない意図のようなものが、心の地表のぎりぎりのところまで昇ってきているケースが、けっこう多いのではないだろうか。


 ただしそうした変化の半面で、決して見過ごせないのが――、
 それとはまったく「逆方向の動き」というのも、以前よりもはるかに強く顕在化していることだろう。

 大きなものでは、「戦争」への政治的な方向性や、また隣国を意識した「ナショナリズム」などは、10年前の日本においては今ほど見られなかったものだ…。
 それが、最近はニュースの中心にもなっているわけだから、こちらのほうも明らかに大きな一つの潮流といえる。


 こういうのはスピリチュアル分野でも諸説あることだけど――、これからすべての人類の意識が、まとまって並列的にシフトしていくという展開は、おそらくないのではないかと僕自身は思っている…。
 それより、これもよく強調されているように、人々のはっきりとした「二極化」というのは、避けることのできない道筋なのではないかなとも感じる。

 つまり、スピリチュアルな意識が多くの人の中で高まっていく一方で、対立や争いに向けた社会的な動きのほうのも、どんどん活発化していく…、そのような「二極化」だ。
 でも、それもまた、新しい時代に進んでいくために「必要なプロセス」なのだろうと思う。


 対立や争いに終止符を打つのは、共感と許しである。
 でも中には、対立や争いに突き進むことによってでしか最終的に解き放つことのできない、人類共有の潜在エネルギーとかカルマというものが、たぶん存在するのだろう…。

 また「二極化」といっても、相反する2つの極というのは、棒の両端に位置するような関係ではない。
 陰陽が交わる円形の「太極図」のように、2つの極は互いに結び付いていて、一方が「極まることによって転じる」という関係にあるといえる。

 だから、逆方向へと極まっていく過程というのも、この次元の法則的には、やはり不可欠なものなのではないかなと思う。

 そして、対立や争いの方向に突き進んでいく当事者たちの生き方も、今生にその役割を請け負って、最終的には「それを手放したい」という魂の意図があってのことだと考えている。


 もちろん、対立や争いへの動きについて僕は決して支持しないし、必要な場合は意見もするだろうし、選択権を使って回避するよう努めるだろう。
 だが、それだけではどうしても避けられない局面も出てくることは、心得ておく必要があるのではないかと考えている…。


 この「二極化」の動きとどう向き合っていくかは、これからのスピリチュアルにおいて、けっこうウエートの高いテーマになっていくはずだと思う。

 何しろ、ワンネスや意識の目覚めとは逆方向の動きに、自分自身が内的にどう向き合っていくかは――、純粋にスピリチュアルを志向すること以上に、難しいテーマと言えるでしょう。


 たぶんそれについての考え方は、単に「こうするべき」という一律パターンの答えでは済まないはずだ。
 ひとりの中にも、いわば「多面的な向き合い方のスタイル」が求められると思う。


 で、ここからが本題のようになるけど――、
 このブログ(パソコン画面)の右のほうにも出ているように、これまで読んだ本の中で印象に残った言葉を、ツイッターで日々紹介している。
 その過去のぶんをパラパラと見ながら、「今後はこのような向き合い方が大事だろうな」と思う言葉を、いくつかピックアップしてみました。

 スピリチュアルにおける原則的テーマとまでは言えないけれど、知らないうちに道からそれて行ってしまわないために、こうした観点がこれからとても強く求められていくのではないかと思う。


 まずは、今後の「二極化」というプロセスの中で大事になっていくポイントのひとつが――、
 信念や行動を異にする人々に対して、「自分の価値尺度を用いて裁かない」ということだろう。その点を言い表しているのが、たとえばこんな一文だ――

 他人の魂の旅を判定するのは、あなたの役割ではない。あなたは、自分が何者であるかを決めるべきであって、他の誰かが何者であるのか、何者でないかを判定する必要はない。(ニール・D・ウォルシュ)

 自分の道に確信を抱くために、他人の道が誤っていることを証明する必要などない。そのようなことをする人は、自分自身の歩みに自信が持てない人なのだ。(パウロ・コエーリョ)


 さらには、これはとても難しいことだし、このような考え方そのものがどうかしていると言う人もいるだろうけれど――、たとえ相手の信念や行いが「誤ったもの」である場合も、そのことを糾弾したりせずに、必要なプロセスであると認識するということだ。
 誤った行為によってでしか学べないテーマや、解消できない人類の潜在エネルギーというのもあるのだろう…。

 人間の文明の方向性は、はるか昔から導かれてきた。歴史をふり返れば、人間は数えきれないほど間違いを犯してきたように見える。しかし、狂気の中にも道筋はある。私たちは、学ぶために間違う。自分で選んで間違ったときしか、それに向き合って向上しようとはしないのだから。(ボブ・フィックス)

 人は道を踏み外すことがあるが、道を踏み外すことで何かを学ぶ。後に、道を踏み外したことを幸せに思うだろう。なぜならば、世の中には道を踏み外すことによってしか学べないことがたくさんあるからだ。(OSHO)


 また、そうした異なる信念や誤った行動を目にしたとき、私たちの心では「怒り」の感情反応がわき起こることもある。
 でも怒りというのは、「相手の問題」を指摘しているようでいて、その本当の目的は「自らの内の問題」を照らし出すことにある。

 怒りを手放すのは難しい。自分の正直さと名誉がその怒りにかかっていて、試されているように感じるからだ。人間社会という大いなる学校での唯一のテストは、怒りを手放して愛の受容を学んでいるかどうかだ。愛は永遠であり、怒りは一時的だ。(ブライアン・L・ワイス)

 あなたの怒りに責任がある他者は、誰もいない。その怒りに対する責任は、あなた自身にある。しかし多くの人は「他者が自分に対して責任があるのだ」と、マインドに深く刻み込まれてしまっている。(レナード・ジェイコブソン)


 悲しいことに世の中には、「怒りを覚えずにはいられない非道な出来事」が実際に数えきれないほど起こっている。とくに紛争地域などではなおさらのことで、カメラがとらえて報道されているのは、ほんのごくごく一部だけだろう。

 しかし、そうした世界の現実が厳然と存在する中にあっても、怒りの感情そのものは本当に個人の内側の問題であって――、外側の社会の問題解決にあたっては、「怒り」とはまったく違うところから取り組んでいく必要があるはずだ。
 怒りが、本当の平和を実現していくことは、まずあり得ないのだから…。


 「二極化」のプロセスの中で、ある意味で私たちは「試されている」とも言えると思う…。
 周りの状況がどんな方向に動いていっても、自らの「内なる平和」を本当に大切に守ろうとしているのかどうか、そしてその思いを外側の世界へと発展させようとしているのかどうか――。

 この点で、スピリチュアル分野でしょっちゅう言われる「自分の内側の状態が、世界の現実を作り出している」という見方は、やはり大事だろうと思う。

 「真の平和」というのは、私たちの魂の内に生まれる。他者との間や、あるいは部族間の平和というのは、「真の平和」の似姿にすぎない。まず「真実の平和」を知っておかない限り、ほかの平和などとうてい実現しないことを、何よりも理解しなくてはならない。(アメリカ先住民族の言葉)

 もし私が幸せなら、宇宙も幸せです。私が自分を愛していれば、他の皆も私を愛するでしょう。私が平和なら、すべての創造物が平和なのです。(アニータ・ムアジャーニ)


 真理というのは、とても「論拠に乏しい」ものだといえる…。きっと宇宙の意図として、わざとそういう性質になっているのだろうと思う。
 私たちがこれからはっきりと問われていくことは――、根拠や実感もないような状況にあっても、それでもなお他者のことを信じるかどうか、自分のことを信じるかどうか、宇宙のプロセスを信じるかどうか、ということなのでしょう。

 あなたには「信じる心」が授けられています。たとえ誰かがあなたを傷つけたとしても、たとえあなたが大きな間違いを犯したとしても――、決して他人や自分を見放すことのないように、あなたには他人や自分を「信じる心」があるのです。(シャーリーン・コスタンゾ)



 結びのヒーリング・ミュージックは、Aetherium「Beacon of Light」。

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 著名人でスピリチュアルなメッセージを伝えている人というと、世界的には女優のシャーリー・マックレーンが筆頭的な存在でしょう。
 またコメディー俳優のジム・キャリーが、「意識の目覚め」の体験について語っているのも面白いし、今後は同じような有名人の発言がもっと増えていくに違いないと感じます。

 日本では、元・格闘家の須藤元気の立ち位置なんか、けっこう好きですね。
 バシャールの影響も強いためか、「スピリチュアルな生き方をするために、スピリチュアルな知識は特に必要ない」と言い切っているところなど、なかなか共感できる。


 最近ではミュージシャンの谷村新司が、ヒット曲の「昴(すばる)」は、実は宇宙人からのメッセージを受け取って作ったと告白して、話題になった。
 今さら奇をてらった発言で注目してもらう必要なんかない人だから、そう言わずにはいられないものがあったのだろう。

 曲のインスピレーションを与えてくれた宇宙人が「プレアデス星人」だそうで、プレアデス星とは和名で「昴(すばる)」のことだから、聞いて「へぇ…」と思える話だ。
 当の本人も、歌詞を書き留めているときには「さらば昴って、どういうこと?」「青白きほおって、何?」と意味不明だったそうだけど、後年になってやっとその真意に気づくようになったということだ。


 で、僕自身は、宇宙人に関してはぜんぜん詳しくない…。
 チャネリングなどの本には「プレアデス星人」ってよく出てくるけど、どういう星なのかと思って、ちょっと調べてみた。

 自動車の「スバル」のマークを見ても分かる通り、そもそもプレアデスとは1つの星のことではない。その点で、「火星人」とか「シリウス星人」というのとは、範囲が異なるともいえる。

 プレアデスは、肉眼では5~7個の星だけど、実際にはおよそ120個もの恒星からなっている。
 それだけの数の星が、直径12光年という比較的近距離に集まっている状態で、天文用語で「散開星団」と呼ぶそうだ。

 「12光年」と言われても、その大きさがピンと来ないだろうけど、地球がある太陽系全体の直径は、たったの「0.001光年」にすぎない。
 パソコン画面でこの図を見た場合、太陽系の大きさというのは、わずか百分の1ミリにも満たない計算になる。もう小さくて絶対に見えない。太陽系全体がですよ…。

 プレアデスって、まさにケタ違いのスケールである。
 ただ、これだけの星をまとめて「プレアデス星人」と呼ぶのは、いくら何でもひとくくりにし過ぎのようにも思えるのだけれど…。

 でも、身体を持たない「高次の意識体」の場合、きっと「大きさ」なんていう概念は当てはまらないのでしょう。
 人体をいくら詳しく解剖しても、気功の「経脈」とか「チャクラ」が見つからないように、宇宙のそうした存在というのも、物理的な観点からはとらえようがないのかもしれない。


 プレアデス星団はとてつもない大きさだけれども、そのプレアデスも、私たちがいる太陽系も、「天の川銀河」の壮大な渦巻きの中にある。
 天の川銀河の直径は実に「10万光年」もあるから、その中ではプレアデスでさえも、かすかな星屑にすぎない。

 さらに言えば――、チャネリングの分野では「アンドロメダ星人」なんていうのもよく聞く。
 アンドロメダは、言うまでもなく一つの銀河であり、私たちがいる天の川銀河よりもさらに大きい直径「25万光年」の中に「1兆個」もの星が集まっている。

 そんな1兆個もの星に対して「アンドロメダ星人」という呼び方をするのも、ちょっとまとめすぎではと思えてしまうけれど…。
 もっとも、そうした宇宙の観点では、どれくらいの「大きさ」だとか、どこに「帰属している」という考え方自体が、本当に意味をなさないのだろう。


 最近の天文学・物理学では、宇宙空間に存在する「通常の物質」というのはごくわずかに過ぎず、大部分は「ダーク・マター」と呼ばれる、人間には観測できない物質で満ちていると言われる。(「ダーク」というのは正体が分からないという意味で、闇勢力のようなものではもちろんないです…)

 その点で、私たちの本当の正体というのは、「ダーク・マター星人」なんてふうに言えるのかもしれない。

 まさしく、「不可知」とか「空」ということですね…。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Relaxx Project「Negro-El Silencio」。

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 『覚醒の炎 プンジャジの教え』の本について何本かの記事で紹介してきましたが、今回が最後になります――。


 教えを説くマスターたちは、よく「たとえ」を使って話をする。人がこの世界で歩む道について、天の国とはどのような場所であるかについて…。

 その語り手の、一番の代表格といえるのがイエスだろう。
 ただイエスの場合、生きていたのが日本の弥生時代にあたり、また当時のユダヤ社会の風習などをベースに語られているから、今の私たちが聞いて「どれも胸にストンと落ちる」という感じでは必ずしもないかもしれない…。

 近年のマスターでは、OSHOがかなり多くの比喩を語っていると思う。
 ただこれも、好みがけっこう分かれるでしょう(下ネタの笑い話とかもあるし)


 で、プンジャジもこの本の中でいくつかのたとえ話をしているのだけど、それがなかなかスマートに表現されていて、うまいなと感心する(オリジナルの作話かどうかは知らないが…)

 今回はその話の紹介です。
 まずは、「自らの本質を忘れずに生きる」とはどういうことかについて、「劇団の経営者」を例にこんな話している――

 ある劇団が、街で公演を行っていた。
 ところが、王の召使いの役をする役者が、上演の間際に病気になってしまい、来ることができなくなった。
 ほかに役者はいなかった。そこで劇団の経営者が、その召使い役を代わりに演じることになった。

 劇の中で経営者は、王様役の命令に従った。
 王が「出かけるから靴をはかせろ」と言ったら、召使い役はひざまずいて靴をはかせた。
 召使い役の経営者は、王のもとで常にへりくだって振る舞い、そうして舞台を引き立てた。

 ところで彼は、「自分が劇団の経営者である」ことを、ひとときでも忘れただろうか?


 自分が「真我」であることを知りながら生きれば、どこにいてもその役を演じられる。すべての行いは、とても美しいものとなる。
 それが、シンプルで自然で自発的な生き方だ。

 このことが難しく思えるのは、周りの誰もがそのように生きていないからだ。
 実際はそれが、いちばん簡単な生き方なのだ。なぜなら、それがあなたの本性だから。


 ――なかなか見事な語り方ですよね。

 すべての人の人生は、生まれてくる前に、魂があらかじめ目的やテーマを決めてきたのだとよく言われる。そうして、まさに脚本の通りに演じているわけだ。
 もちろんその内容にはすべて必然的な意味があって、おろそかにはできないものだけど――、でも、あくまでもそれは「今だけの当面のキャスティング」に過ぎないのだろう。

 そして私たちは、「端役をこなすだけで、もはや精一杯」といった、実力不足の小さな役者みたいな存在ではない。
 その一つの役にかかわりながらも、舞台全体に息を吹き込んでいる、そんな存在なのだと思います。


 もう一本、これは「この世界に生まれてきた魂の目的」についてのたとえ話――。

 むかし、子供に恵まれない王がいた。
 その王は、自らの没後に世継ぎの騒動が起こらないように案じて、養子を受け入れることを決めた。
 そして、王国に住んでいる誰もが、次の王になるための面接を受けられるようにした。

 面接の日、大勢の人々が宮殿に集まってきた。
 宮廷の者たちは、次の王となるかもしれないすべての人々を、とても手厚く迎えた。
 王に謁見するために、来訪者には宮廷のはなやかな衣装が渡され、皆それに身を包んだ。
 さらに王が享受しているすべての場所が提供され、好きなところで思うままに過ごすことができた。次の王にふさわしいぜいたくなごちそうも振る舞われ、踊り子が舞うのを楽しんだ。

 そんな調子で時が過ぎていき、そのうちに皆、自分が何のために宮殿に来たのか忘れてしまった…。
 王は面接のための部屋で待ち続けていた。だが結局、誰も会いに来る者がいなかった。
 そして一日が終わろうとするとき、王は全員に家に帰るように告げたのだった。


 もし途中で目を奪われずに、王のもとに行く者がいたなら、すべての宝はその人のものとなっただろう。だが、誰もが宮殿にやって来た目的を忘れてしまった。
 人はそのように一生を終えて死を迎え、そして再び誕生して苦痛と快楽の人生を続けていくのだ。


 ――これも、ちょっとハッとさせられる内容ですよね…。

 また一方で、「今の自分の服も食事も立場も、ぜいたくと呼ぶには程遠いぞ。これのどこが、次の王にふさわしいもてなしと言えるのだ?」なんてふうに思えるかもしれないけれど――、
 自分が日々している経験の、いったい何が掛け替えのないものであるかを考えることも、この比喩に込められた大事な意図なのでしょう!



 結びのヒーリング・ミュージックは、Frederic Delarue「Sincere Communion」。

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プロフィル

Koudai Mitsuna

Author:Koudai Mitsuna
 
光奈 広大(みつな・こうだい)

 20年のあまりのサラリーマン生活を経て、いわゆる「ザ・マネーゲーム」を何とか卒業。今では束縛されない自由な日々を存分に味わっています!

 そうした中で心がけているのは、普通の日常的な行いを通じて、意識の進化を目指す「カルマ・ヨガ」。

 日々の喜びや学び、インスピレーションから得たスピリチュアルな気付きなどをブログで紹介しています。

 妻子と都内在住――。

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