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 東京はちょうど桜が満開です!

 あたりが暖かく春めき、草木には初々しい新緑が芽吹きはじめ、風の波に花びらが舞うこの時期は、一年の中でも何かとても「特別な時」という感覚がしてくる。


 学校の始業や、多くの企業の会計年度は「4月」からだけど、これは世界的に見て日本特有の決まり事らしい。
 でもここで暮らしている限りは、「この時期以外にはあり得ないでしょう!」と思えるほど、新しい始まりを予感させる節目といえる。

 それくらい、春の桜が一斉に咲き誇っている壮麗さには、本当に特別で象徴的な感慨を受けますよね。


 話は少し変わるけど――
 会話のできない重度の自閉症である東田直樹さんの本が、一昨年あたりからものすごく注目されるようになって、僕自身もその繊細な言葉にはハッとさせられることが多かった。
 たとえば…

 絵の具で色を塗っているとき、僕は色そのものになります。
 目で見ている色に、なりきってしまうのです。
 筆で色を塗っているのに、画用紙の上を自分が縦横無尽に駆けめぐっている感覚に浸ります。

 ものはすべて、美しさを持っています。
 僕たちは、その美しさを、自分のことのように喜ぶことができるのです。


 僕も小さな子供のころは、クレヨンなどで思いのままに絵を描きながら、同じように感じた覚えがある。
 また、あらゆるものには「美しさ」があって、その美しさを「自分のことのように喜ぶ」というのは、本当に素晴らしい体験であり、この世界との大切な向き合い方だなと思う。

 私たちの魂がこの次元を生きる大きな喜びとは、真の私の現れでもあるこの世界の美(仏教でいう「色」)を、直接的に存分に味わうことであると、高名なマスターたちも語っている。


 で、その東田さんは、「満開の桜」について、自らのこんな思いを語っている…

 僕はきれいな桜を、長く見続けることができません。
 それは、桜の美しさが分からないからではありません。
 桜を見ていると、なんだか胸がいっぱいになってしまうのです。
 繰り返す波のように、心がざわざわとかき乱されてしまいます。
 その理由は感動しているせいなのか、居心地の悪さからくるものなのか、自分でもよく分かりません。
 分かっているのは、僕が桜を大好きだということです。


 これはとても驚かされたというか…、僕も桜を眺めながら心の奥底でどことなく感じていながら、自分自身でもそう感じていることをはっきりとは認識できていなかったことを、本当に率直にうまく語っているなと思う。

 もちろん、桜の花を100%ポジティブに「わぁー、超きれい!」という思いで目にしている人もたくさんいるはずだ。
 でも僕の場合は若干そうだし、おそらくある程度の割合の人も、「不思議なつらさ」というか、「はっきりとは分からない居心地の悪さ」みたいなものを、心の片隅で細やかに感じているケースが少なくないのではないかと思う…。

 東田さんの言うとおり、それが何なのか、本当によく分からない。
 異性の美しさに対する胸の痛みとはまた違うし、遠くなつかしい記憶を思い起こすときの感傷でもない。もっと、割り切れない何か。


 咲き誇る桜が、渾身の生命力を開け広げて、その美しさを目の前に現しているのに――、そのすべてを受け止めきれない、自分の心の隅の閉ざされた一部分…
 そんな、内にある微妙な「原罪」のようなものを感じ取ってしまうみたいな、そんな思いもする(こういうのは、余計な言葉で語るほど、感覚の精妙さから遠のいてしまいますが…)


 でも、わけも知れず心のどこかが乱されてしまうところに、私たちにとっての桜の「特別な美しさ」があるのだろうなとも感じます。


 東田さんの本は、日本だけでなく、海外にも広まっている。イギリスではベストセラー1位になり、今や20カ国以上で出版されているそうだ。
 その大きなきっかけになったのが、映画「クラウドアトラス」の原作者である作家のデイヴィッド・ミッチェル氏の目にとまり、彼自身が翻訳を手がけたこと。

 どうして海外の有名作家がこの本に巡り合ったのだろうと思っていたら――、ミッシェル氏にも重い自閉症の息子がいて、また作家になる前は日本で英語教師をしており、日本語が堪能だそうだ(奥さんも日本人)。


 動画サイトを見ていたら、ミッチェル氏が東田さんを訪ねるNHK番組があった(昨年に放送されたものらしい)。

 ミッチェル氏はこれまでずっと、重い自閉症の息子をどう愛せばよいか戸惑いながら、自分には理解できない行動や言動やその思いを、何とか知りたいと考えていた。
 そうしたところに、世界でも非常にまれな、重度の自閉症を抱えながらも高い表現力を持つ東田さんの本に出合ったという。


 ミッチェル氏は番組の中で、東田さんにこんな質問する。「父親として、どうすれば自分の息子の力になることができますか?」
 これに対し東田さんは答える――

 僕はそのままで十分だと思います。お子さんもお父さんのことが大好きでそのままで十分だと思っているはずだからです。

 子どもが望んでいるのは親の笑顔です。誰も僕のために犠牲になっていないと思わせてくれたところが、僕の家族のすごいところです。


 そばにいてくれる人は、どうか僕たちのことで悩まないでください。
 自分がつらいのは我慢できます。しかし、自分がいることで周りを不幸にしていることには、僕たちは耐えられないのです。思いはみんなと同じなのに、それを伝える方法が見つからないのです。

 子どもが一番望んでいることは、自分を受け止めてくれる場所と、親の笑顔です。



 僕はミッチェル氏の「クラウドアトラス」の原作は読んでいないのだけど、あの「マトリックス」の監督が手掛けた映画を見て、本当に圧巻の物語だなと思った。
 何しろ、過去生・未来生にわたる人と人のつながりと、それを通じた学びについて描き出しているのだから。

 でも、それ以上に――
 稀有な自閉症の青年が日本にいて、一方でたまたまそんなバックグラウンドを持つ国際的作家がイギリスで活躍していて、その両者が出会って世界に言葉を広めるって…、そういう現実こそが、物語よりもすごいことだなと感じますね。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Frederic Delarue「A Healing Gift to Humanity」。
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 「辛抱強さが欲しいと願うと、銀行で長く待たされる」――、なんていう人生訓があるそうです。面白いですね。

 つまり、この世界では、自分が欲しい何かを求めたときに、その「欲しいもの」そのものがストレートに与えられるわけではない、ということ。
 そうではなくて、「欲しいものを手に入れるために必要な状況」が与えられる――、そのような仕組みということだ。

 そうして自分に与えられる状況というのが、「銀行の長い行列」みたいに、社会生活上ではとても厄介でイライラさせられるものだったり、非常に嘆かわしいものだったりもする…。


 いわゆる引き寄せ法則的には、「そうならば、どのように願えば、欲しいものを効果的に手にできるのか」ということになるだろう。
 もちろんそれも、取り組んでみるべき一つの方向性だ。

 でもそれ以上に、私たちが知るべきポイントは――、「自分が求めているものは、常にすべて受け取っている」ということなのだろうと思う。


 同じことを、イスラムの一派・スーフィーの指導者であるハズラット・イナヤットカーンは、こんな言葉で語っている。

私は強さを求めた。すると神は、強くなるための困難を私に与えた。
私は英知を求めた。すると神は、解決を学ぶための問題を与えた。
私は愛を求めた。すると神は、助けるべき人を与えた。
私は求めたものを受け取れなかったが、必要なすべてを受け取った。


 これは確かに、かなり普遍的に色々と当てはまりそうですよね。
 たとえば、「私は平和を求めた。すると神は、平和をもたらすべき世界を私に与えた」とか、「私は豊かさを求めた。すると神は、豊かに満たすべき心を私に与えた」、「私は自由を求めた。すると神は、自らを解き放つべき制約を私に与えた」とか…。

 一神教の教えだから「神は」という言い方になっているけど、最近のスピリチュアルな見方ならば、神とはすなわち「真の私」である。
 つまり、何か欲しいものを求めると、それが必要となる状況が目の前に現れる。そして、その上で――、最終的に求めている「強さ」や「英知」「愛」、さらに「平和」「豊かさ」「自由」については、創造主であるあなた自らが生み出しなさい、ということだとも言えるでしょう。

 自分が求める者であり、また自分が創造して与える者でもある。


 多くの人がこの世界で共通して学ぶべきテーマ――、そのひとつが、「自分自身を愛する」ということでしょう。
 たいていは誰でも、愛するに値するとは思えない要素や状況を、多かれ少なかれ自らに抱えている…。

 でもその自分は、どのような自分であっても――、「私は自己愛を求めた。すると神は、自ら愛すべき自分を私に与えた」という形によってもたらされた、まさに贈り物なのだと思います。

 そして、この場合の求めるものこそ、まさに自らが生み出す以外にないものですよね。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Paul Avgerinos「Love Is」。

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 僕はふだん、テレビを見ない生活をしている。
 でも昨夜、息子がつけっぱなしにしていたテレビを消そうと思ってリモコンを手にしたところ…、なぜかふと気になる感じがして、何とはなしにNHK-BSのチャンネルを押した。

 するとたまたま、立花隆の「臨死体験」のドキュメンタリーをやっていた。
 昨年秋に、地上波の「NHKスペシャル」として放送されたもので、僕としてはめずらしく楽しみに見た番組だ。

 同じ内容の再放送と思いながらしばらく眺めていると、どうも見た覚えのない場面が出てくる。
 番組情報で調べてみたら、「未編集映像も加えたオリジナル版」を、全3回のシリーズでNHK-BSで放送しているとのこと。


 僕が見始めたのは番組中盤からなのだけど、以前のNHKスペシャルの1時間枠ではカットされていた、けっこう興味深いシーンが色々と盛り込まれていた。

 まず、世界トップクラスの脳外科医であり、自らが脳の病におかされて臨死体験をしたエベン・アレグザンダー氏の不思議な証言。
 アレグザンダー氏は、7日間にもおよぶ昏睡状態に陥ったとき、肉体を離れて光り輝く広大な世界へ行った。
 そこで1人の美しい女性に出会い、一緒に天上界を旅した。
 このとき、その女性が誰であるのか、まったく分からなかった。

 アレグザンダー氏は、生後間もなく養子として育てられたという生い立ちがあり、実の親きょうだいとは面識が全くなかった。
 ところが、脳の病から奇跡的に回復して間もなく――、実の妹が数カ月前に亡くなったという手紙を受け取る。そこに生前の妹の写真が添えられていた。
 これまでの人生で一度も会ったこともなく、顔も知らなかった妹。何と、彼女こそがまさしく、天国で会った美しい女性その人だった――、という信じられないような証言。

 この話は、著書の『プルーフ・オブ・ヘヴン』に書かれているけど、NHKスペシャルの1時間枠の中では確かカットされていた(アレグザンダー氏を取材した別の民放番組では、紹介されたことがあるうようです)


 脳の専門医であるアレグザンダー氏は、自分自身の昏睡中の診療データを示しながら説明する。
 「このとき自分の脳の大部分が機能停止しており、その状態で幻覚を見ることは医学的にあり得ないことだ」と――。


 番組では続いて、脳神経学者のケヴィン・ネルソン氏にインタビューする。
 この人は、臨死体験は決して超常現象ではなく、脳内物質などによって起こる生理現象であるとして、そのメカニズム検証に取り組んでいる第一人者だ。

 立花氏は、アレグザンダー氏の取材ビデオを見せながら、この現象に対してどのような意見を持つかをネルソン氏に尋ねる。
 その回答もなかなか明快だ(この部分も、地上波のNHKスペシャルにはなかったと思う)。

 ネルソン氏が強調するのは、脳のスキャニング画像や脳波データなどは、あくまでも「一時的な局面しかとらえられない」という点だ。
 アレグザンダー氏は7日間も昏睡しており、脳は「機能停止」と「再起動」との間を何度も揺れ動いていたのではないか。
 そして、脳が再起動の状態にあったときに、幻覚としての臨死体験が起こった可能性はある、とネルソン氏は考察する。


 なぜ会ったことのない実の妹が現れたのかまでは踏み込めないけれど…、
 「診療データで脳機能が停止していた」というだけでは、幻覚を否定する証拠にはならないことは、確かになるほどとうなずける。


 番組の中で立花氏は、取材途中での思いを以下のように語っていて、これも非常に言い得ているなと感じる――

 臨死体験には、本人の「証言」しかない。
 真偽を明らかにする「エビデンス(証拠)」というものが存在しない。
 本人にとっては、どれほどリアルで素晴らしい体験であっても、エビデンスを示しながら第三者に伝えることは不可能だ。

 臨死体験とは、そもそもそういう性質のものなのだ。

 彼らが見たものは、はたして真実だろうか?
 それとも、真実を見たと信じているだけだろうか?――


 この発言も確か、地上波のNHKスペシャルではカットされていた部分だ。

 昨年のこの番組に対しては、特にスピリチュアル分野に詳しい人から、「とにかく知的に解き明かそうとする立花氏の姿勢が、何とも頑固でもどかしく思えた」といったような感想が多かった。
 でも、今回のノーカット版であるBSのほうを見てみると、当初から「証拠を示すことはできない」という前提に立ったうえで、色んな人たちにインタビューしながら考察をしていたわけですね。

 この「証拠を示すことはできない」というポイント。そして「はたして真実なのか、真実と信じているだけなのか」という疑問は、スピリチュアルのさまざまなテーマにも当てはまるものでしょう。


 きっと、こうしたテーマについて「どれが真実か」の証拠が示されることは、今後もないだろう。
 でも――、自分自身にとって「どれを信じた方がいいか」については、おのずと決まってくるという人が多いのではないかなと思う。

 かりに「死後の魂は存在しない」と信じるならば――、それはつまり、私たちの命のそもそもの目的というのは、「この1回きりの人生を生きるためだけにある」ということになる。
 そして、その信念にもとづくならば(もちろん人や場合にもよりけりだけど)、どうしても目の前の現実を生きていくため、あるいは食べていくため、なるべく有利な環境で安全に過ごしていくためということを主眼に、行動を決めざるをえない側面も大きくなるだろう…。

 一方で「死後の魂は存在する」と信じるならば――、私たちの命の目的は、「目の前の現実を超えたところにある」ということになる。
 それを具体的にうかがい知ることは難しいものの、でもそうした視点に立つことによって、現実的・常識的といったことに縛られずに、自分なりの考え方や生き方を選びやすくなるのではないかとも思う。


 ただし、「死後の魂は存在する」と信じて生きたけれど、本当はそんなものは実在せず、自分が死んだら意識や存在のすべてが消滅してしまった…、ということもあり得る。真実は分からないのだから。
 でも、もしそうなっても、何ひとつ失うものはない(そもそも自分の存在ごと消えるわけですしね)。

 他方、いちばん困ってしまうパターンというのは――、
 「死後の魂は存在しない」と信じて、自分の立場を危うくしそうなリスクを避けながら、現実的・常識的な道を歩んできたのだけど…、実際に死んでみたら魂はずっと存続していて、「そうならば余計なことを心配せずに、もっと思うように生きれば良かった!」と、人生全体を反省してしまうことだろう。

 真実は分からないけど、そんな事態だけは避けたいというのは、なぜか痛いほどよく分かる…。


 私たち自身に求められているのは、「どれが真実か」の証拠集めをすることではなくて、「どれを信じるか」であり、それにもとづいて「どう生きるか」なのでしょう。

 そういう見方でいると、スピリチュアルなテーマへの向き合い方も、少し変わってくるのかなとも思います!



 結びのミーリング・ミュージックは、James Harry & Juliana「Lux」。

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 スピリチュアルの分野では、色んな体験が起こるこの現実世界のことを、コンピューター・ゲームに例えることがよくあります。

 画面上のキャラクターを動かし、飛んだり跳ねたり、襲われたり落っこちたりして、そしてプレーヤー自身もあせってハラハラしたり、「やった!」と喜んだりしながら、ゲームをクリアしていく。

 そうしたところが、この世界の比喩として、とても当てはまりがいいなと感じる


 またもう一つ、僕が思うには――、
 スピリチュアルな真実として、「そもそも時間というものは存在しない」ということがよく説かれる。ただそれは、私たちの日常感覚からすれば、とりわけ理解しにくい点だろう。
 現にこうして生きて暮らしている実感として、時間は常に流れ続けているようにしか思えない…。

 このポイントについても、コンピューター・ゲームになぞらえて言うことができる。


 ゲームでは、始まりから終わりまでのさまざまな局面が、「時間の流れ」に沿って展開されていく。
 ゲームのプレーには、時間がかかるものだ。だからこそ、「子供がずっとゲームばかりやって困る」なんていう親の悩みも存在する。

 もしも仮に、ゲームが「時間の流れ」にまったく無関係なもので、スタートしたその瞬間にたちまち終わってしまったならば、ぜんぜんゲームにならない。


 ところで一方、こんな見方をしてみたらどうでしょう――

 ニンテンドー3DSなどで使う「ゲームソフト」を買うと、それはCDケースくらいの大きさの製品パッケージに入れられている。
 パッケージの中から出てくるのは、指でつまむくらいの、小さなカード型のチップだ。

 カードの中身がどうなっているかというと、このような半導体メモリーがある。
 この半導体メモリーに、ゲームのプログラムが一式書き込まれているわけだ。


 ところで、ゲームをプレーするには時間が必要だけれど…
 一方で、ゲームのおおもとである、この小さなチップの場合はどうだろうか。
 チップにおいて、「時間の動き」というものは、存在するだろうか?

 チップそのものをじーっと眺めても、何の変化もない。
 それは、時間と無関係なまま、完全に「静止」した状態にある。


 この、時間にかかわりのない静止したチップの中に、ゲームの始まりから終わりまでの全部が詰め込まれている。
 つまり、ゲームのありとあらゆる内容が、「今という一瞬」に同時にすべて存在しているわけだ。

 しかもそのプログラムの中身は、映画のフィルムみたいに、決められたコマが単に時間順に並んでいるのとも違う。
 ゲームの操作によって起こりうる、「無数の展開パターン」がその中に内在している。


 でも、いくら「今という一瞬」に「無数の展開パターン」が内在しているといっても――、そのチップがただ手元に在るだけでは、ゲームとしての面白さはまったく何もない。
 何も見えてこないし、何一つ起こらない。


 そのソフトを、ゲーム機に差し込むことで初めて、画面上にキャラクターや周りのステージが、目に見える形で映し出される。
 そして、無数の展開パターンの中なら、一つひとつの局面が「時間の流れ」に沿って順々に展開されていく。

 これによって、私たちはゲームのプレーを楽しむことができるわけだ。

 つまり、この「ソフトをゲーム機に差し込んだ状態」が――、
 私たちの魂が、物理的な3次元世界へと差し込まれて(まさに3DS!)、人生をプレーしている状態にあたるといえるでしょう。


 さらには――
 ゲームをすべてやり終えた後も、「時間の流れ」というものは再び関係なくなる。

 ゲームをプレーした経験は、その人の記憶の中に残る。
 その記憶は、いちいち時間軸に沿って再生される必要はない。
 「面白かった!」という感覚と、印象的な場面とが、ひとかたまりのパッケージのようになって記憶される。

 このひとかたまりの記憶をパッと瞬間的に呼び出すことによって、自分にとってのゲームの体験や楽しみを思い起こすことができる。


 つまり、もともとのゲームソフトのチップには、「時間」がない。
 それを楽しんだあとの記憶もまた、「時間」は無関係だ。

 その間に位置する、「時間に沿ってゲームをプレーしているとき」というのは――、実はとても限定的で「特別な状態」なわけですよね。


 でも当然ながらだけど、現実世界のゲームは、まったく楽しいと思えないこともある。
 そうした中でも私たちは、「無数の展開パターン」を常に内に抱えている。

 たぶん、そうしたパターンの最初の現れというのが実は――、日ごろ何となく感じている「心のムード」や「気分」なのではないかと思う。
 それらは漠然としたもので、言語的に説明しにくいものだ。

 でも、いま胸の奥にあるその漠とした感覚の中には、まさにゲームのプログラムのように、これから先の展開パターンのすべてが内包されているのではないか…、というように感じます。

 「心のムード」や「気分」に意識的であること――、これがゲームを楽しむための一つの鍵なのでしょう!



 結びのヒーリング・ミュージックは、Kip Mazuy「Sanctuary」。

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 僕がサラリーマンを辞めてから、いまで3年半になります。

 満額の退職金をもらい、「これから自由で新しい生き方をしていくんだ!」と嬉々とした意気込みで、会社を飛び出していった。
 ただ心の深くでは、「もうこれ以上は、精神的に無理かも」という限界感みたいなものは、確かにあった。


 退職したあとで、占星術に詳しい知人に見てもらったところ、僕が会社を辞めることは当初から定められていたものの、そのタイミングは「予定よりも早かった」そうだ。
 本来ならば数年後に、もっと過大なストレスがかかる職場に異動し、そこで精神的に押しつぶされてもはや辞めざるを得なくなる――、という展開が待っていたらしい。

 その知人は、「あなたの鋭敏な魂が先のことを察知して、いちはやく行動に出たのだろう」と言ってくれた。


 今こうして元気で自由な日々を送れているのは、もちろん素晴らしいことだ。
 でもひょっとしたら、本来のシナリオ通りに精神的に押しつぶされたあと、実はもっと深い気付きや意識のシフトが起こっていたなんて可能性もあるから…、どちらが良かったと単純に割り切れるものではないだろうとも思う。


 スピリチュアルの分野では、自分が今とは違う人生を生きている「パラレル宇宙」が、並行していくつも存在しているという話がよくされる。

 僕も、占星術に出ていた通りに「会社のストレスによって精神的に破綻した自分」というが、きっと別の宇宙を生きているのではと感じることがある。
 きっとその自分は、大きな心の苦しみを抱えながらベッドに横たわり、妻に色々と身の回りの面倒をみてもらっているのだろう。


 そして、そうしたパラレル宇宙は、はるか遠い次元に位置しているわけではない。
 ふとした拍子に、今とは違う宇宙に移ってしまう可能性だってあるはずだ。

 また普段から、別の宇宙を生きている自分が、こちらの自分にエネルギー的な影響を及ぼしたり、別の宇宙の姿がこちら側に投影されたりもしている――
 並行する宇宙というのは、実はそんな、互いに近く通じ合う位置関係にあるのではないかなと思う。

 僕はたまに、気分も体調もとても良いにもかかわらず、どういうわけか体がだるくて仕方がないときがある。
 そのときに「もしかしたら、パラレル宇宙にいる療養中の自分のエネルギーを受け止めているのでは…」なんてふうにも感じる。


 また僕の妻は――、過去の記事でも書いたけど、かつて重い鬱を患って、10年以上にわたる通院治療を経てほぼ克服したのち、40代半ばから大学院で臨床心理を学んだ。
 ただ大学院を修了しても、望み通りの就職先がなかなか見つからず、現在は精神障害者の就労支援のスタッフとして働いている。

 その施設の利用者の中には、もともと世界的メーカーのエンジニアや、大手金融機関の中間管理職だった人が、仕事のストレスによって精神を害してしまった、というケースが少なくないそうだ。
 以前はビジネスの大舞台で活躍していた人が、今では僕の妻に付き添われながら、社会復帰のための掃除の軽作業をしたり、外の公園を一緒に散歩したりしている…。


 そんな話を聞くと、実はその人たちは、パラレル宇宙にいる「もう一人の僕自身」の投影なのではないか、なんてふうにも思えてくる。

 本来定められた通りの展開ならば、妻は、精神的に押しつぶされた僕の面倒を見るはずだった。
 ところが僕自身は、違うシナリオを選んで進んでいった。

 そこで、僕が負うべきものを、別の人が代わって負ってくれて、そして妻の世話を受けている。
 そうすることによって、本来のシナリオで解消されるべき何かが、ここで解消されているのではないかとも感じる。


 たぶん私たちは、この世界に生きながら、別の宇宙から本当に色んな影響を受けているのかもしれない。
 そして同時に、こちらの側からも、別の宇宙へ影響を与えている。

 こちら側で自分自身を癒したり、どこかにいる「もう一人の自分」の投影をいたわってあげることによって――、パラレルに存在する宇宙全体の波動が高まっていく。

 そんな相関関係にあるのだろうと思っています。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Calling My Angels「From Heaven to Earth」。

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 音楽プロデューサーで、ニュージーランドに移住して自給自足生活をしている四角大輔さんの本の中に、こんな一文がありました。

 一流のアーティストたちに共通すること。それは、「すべてをさらけ出すこと」に対して、まったく迷いがないことだ。
 彼らにも、ダメなところや弱いところはいっぱいある。それでも、舞台に立った瞬間、すべてをさらけ出すことができる。
 何万人の心に気持ちを届けられるのは、歌のうまさではない。ありのままの、まっすぐな思いを伝えたい、その感情を開放できる情熱だけだ。


 本当にまさしくその通りだと思います…。
 歌でも絵でも文章でも、いわゆる器用さや無難な上手さは、何十人くらいの周りの人からは「うまいね」「才能あるね」と感心してもらったり誉められたりもする。

 ところが何万人が相手となると、それだけではぜんぜん不足なはずだ。
 自分のダメさや、弱さや、それを覆うものを超え、心の奥にある「すべてをさらけ出す」ことによって――、多くの受け手の内にもある同じものが呼応して共鳴するのだろう。

 歌の場合は聴き手が、「どうしてこの人は、自分自身でも気付かなかった気持ちを分かってくれて、それをこんなに鮮やかに表現しているのだろう」と、感銘を覚えることもある。


 ふつう私たちは、何万人も前にしたステージに立つ機会はないけれど、日常場面で「すべてをさらけ出す」ことに対しての恐れや抵抗感はかなり強くありますよね…。

 たまに、自分の気持ちを隠し立てなく自然に伝えられるような人に出会うと、素敵な性格だなと感心してしまう。


 一方で、「もし自分のすべてをさらけ出したら、言いたい放題やりたい放題の、無茶苦茶な人間になってしまう」なんて考えている人もいる。
 ただそれは、「すべてをさらけ出す」ことの真意を、うまくとらえられていないように思える。

 たとえば、何万人ものステージに立つミュージシャンだって、「プレッシャーが恐ろしい」とか「あいつが腹立たしい」「先々のことが不安」といった、色んな感情や思いを内に抱えているはずだ。
 でも彼らは、それを歌にしたりはしない。なぜなら、そうした感情というのは、本当にさらけ出すべきものをむしろ「覆い隠しているもの」であることを、当然のこととして分かっているからだろう。


 そうした覆いのさらに奥には――、さらけ出すことによって他者と反発し合うのではなく、逆に深く共感し合えるものが、多くの人たちの間に地下水脈のように流れている。

 それらは必ずしも、直接的にポジティブな感覚とは限らない。悲しさだったり、切なさや空しさだったり、単純な言葉には置き換えにくい何かだったり…。
 でも、自分自身の本質や、人と人の真のつながりを知るうえで、すごく大切な精妙な感覚だ。

 そしてさらに、その一段と奥には――、内と外の隔たりのない、澄み切った「輝き」がある。


 「すべてをさらけ出す」というのは、ネガティブな本音をぶちまけることとは、またちょっと違う(浄化のワークなどで、そうした吐き出しのプロセスも重要ですが)
 むしろ、本当の奥にある輝きを外へ開け放っていく――、これが、「すべてをさらけ出す」ことによって行き着くところでしょう。

 自分の内には、本当に素晴らしい「輝き」がある!
 それを信じることが、「すべてをさらけ出す」ことへの恐れや抵抗感を弱め、真に開け放つべきものを明らかにしてくれる、重要な一歩なのだと感じます。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Neil H. 「To Touch The Dream」。

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 先週にネットで広まった「ドレスが青と黒に見えるか、白と金に見えるか?」の話題は、あっという間に世界を席巻しました。

 こうした人間の目の錯覚って、本当に面白いですよね。
 人の感覚がいかにそれぞれで異なっていて、それにもとづいた「こうに違いない」「自分は正しい」という見解がどれほどいい加減であるかを、あらためて強く認識させられる…。


 実は僕は、錯覚の話題がけっこう好きで、このブログをはじめた初期のころにもときどき記事にしていた。
 「違う色」に見えてしまう錯覚で、特にすごいなと思うのが、以下の絵だ。

 円柱形のブロックがX字状に組まれているけど、その中央部分のブロック(矢印を付けた部分)がどちらも「同じ色」だと言われたら、どう思いますか…


 「はぁ? 同じ色って…。左側が濃い青系で、右側はあきらかに黄色じゃないか。誰がどう見てもぜんぜん違う色だし、もしこれが同じだというなら、眼科で診てもらった方がいいんじゃないか」――なんて思われるでしょう。

 ところが、何と実際は、本当に全く同じ色なのだ!


 でも、そう言われてじっと見比べてみても、決して同じ色には見えてこない。
 そこで、該当の中央部分だけを拡大して並べてみると、以下のようになる。

 これでもまだかなり微妙で、片方ずつを見たら、やはり違う色に見えてしまう。
 でも、重ねた図が隣接している真ん中あたりや、やや遠巻きに全体をとらえるように見てみると――、確かにどちらも同じ灰色であることが分かるでしょう。

 この錯覚は、一方の背景が青色で、もう一方の背景が黄色だから起こるものだ。
 人間の視覚が、周りに合わせて色を「自動補正」してとらえ、その結果、左右のブロックが違う色に見えてしまう、というわけだ。


 こうした自動補正は、まぎらわしい余計な機能のようにも思えるけど、生き物としてのきちんとした利点がある。

 たとえば、暗い陰になった場所に赤いリンゴを置いた場合、そのままだとリンゴはかなり黒っぽい色になっているはずだ。
 でも、周りに応じた自動補正によって、私たちの視覚には「黒いリンゴ」ではなく、ちゃんと「赤いリンゴ」として映る。

 樹上で暮らすサルたちも、木の陰に濃く熟した果実があるのが目に入ったとき――、「何か黒っぽいかたまりがあるぞ」というふうには認識しない。
 瞬間的に視覚が自動補正されて、「あそこにおいしそうな色の実がなっている!」とパッと分かるから、食べ物を手にして生存していけるわけだ。


 色の見え方とはまた違うけど、白黒パターンに何が描かれているかを当てる「だまし絵」も、なかなか面白い。

 下の絵は、テレビなどにも出て有名なものだけど、もし初めて見る人がいたら、ぜひ当ててみてください。

 いったい何が描かれているでしょうか!?



 答えは――、庭を歩き回る犬のダルメシアンで、色を付けてみたらすぐにそれと分かる。




 ――ここですごく興味深いのは、この絵に対する認識というのは、完全に「不可逆的」であるという点だ。

 つまり、一度ゆで卵にしてしまうと生卵に戻すことができないように、「これはダルメシアンの絵だ」ということがいったん分かってしまうと、二度ともとの「何が描いてあるか分からない状態」には戻れない。

 同じ絵をふたたび見てみると…



 ほら、もう「ダルメシアンの絵」だということが分かってしまい、その絵にしか見えないでしょう――。

 きっと中には、「この絵を何年かぶりに見た」という人もいるだろう。
 それでも「ダルメシアンの絵」であることが、パッと見ただけで認識できたはずだ。

 まさにそれくらい、もとの「分からない状態」には、決して立ち返ることができないというわけだ…。


 それでは引き続き、同じ白黒パターンの問題。
 これは、何が描かれているか分かりますか? (2つの絵を、左右に並べてあります)



 答えは――
 これもまた、色を付けてみると分かる。
 左側が、頭をこっちに向けた「牛」。右側が、樹の前に立つ「キリスト」の絵だ。



 前出の「ダルメシアン」よりも難解、というよりかなり意地悪な問題だろう。
 とくに牛のほうなんて、「こんなの、白黒のままいくら眺めても分かるはずないだろう!」と思える。

 それでも――、ふたたび白黒のパターンを見てみると、「これは牛やキリストの絵だ」と、けっこう容易に(人によっては目に飛び込んでくるように)分かってしまうのではないでしょうか。



 「何が描かれているのか、どう見ても全然わけが分からない」と思っていた以前の自分が嘘みたいだし、その「分からなかった状態」に戻りたいと思っても、もはや戻ることは無理だ。


 それと同じように――

 スピリチュアルの分野では、「本当の私とは、肉体や思考でもなく、意識の広がりである」ということが、よく説かれる。

 はじめのうちはそう聞くと、「何を言っているのか、わけが分からない! この自分の体こそが、自分自身にほかならないし、思考についても、『われ思ゆえにわれ在り』だろう」と言い返したくなる。


 ところが、いったんそれに気づいてしまうと――
 もはや、私とはそれ以外の何ものでもないし、もとの「まったく分からない状態」には戻ることができない…。

 まさしく、そういうものなのでしょうね!



 結びのヒーリング・ミュージックは、山本純ノ助「時空への旅立ち」。

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 こうしたテーマをあまり好まない人もいるかもしれないけれど…、今回も引き続き、ナチスによるユダヤ人虐殺に関する話です。


 退行催眠療法で有名なブライアン・L・ワイスの近著の中に、過去生記憶の「特殊なケース」として、こんな事例が紹介されていた――。

 通常は、ひとりの人が退行催眠によっていくつかの過去生を思い起こした場合、それぞれの生は「異なった時代」ものだ。
 たとえば、最初の記憶が古代エジプトの役人で、次に中世ヨーロッパの農民、そしてアメリカ南北戦争の兵士…、といった感じである。
 同じ時期に重複して生きていることは、普通ない。

 ところがその特殊なケースというのは、「同じ時代における3つの過去生」を持っている被験者の話だ。


 まず1つ目の記憶が、「ナチスの親衛隊」だったというもの。
 何人ものユダヤ人を連行し、機関銃を撃って殺りくした。そのときの自分は、何とおぞましいことに、あざけ笑っていたそうだ。

 そうして全員を殺したあと、ユダヤ人が何か金目のものを身に着けていないか、転がった遺体を物色していたのだという…。


 2つ目が、それとはまったく逆の立場で、自分が迫害される「ユダヤ人女性」だった記憶。
 泣き叫ぶ小さな子供を腕の中から奪い取られ、自分はそのまま強制収容所に送られて行った。

 この場面がよみがえったとき、耐えきれないほどの悲痛と恐怖で、胸がはち裂けそうになったそうだ。


 3つ目に出てきたのは、「ドイツ軍の将校」だった過去生。
 このとき、人のいない薄暗い執務室の中で、ある書類に押すスタンプを探していた。誰にも見られないよう、周りの物音などに神経を張りつめながら。
 その書類とは、大勢のユダヤ人を逃す許諾を出すためのもので、当時のドイツでは明らかな不正行為である。

 やがてこれが発覚して、自分が銃殺刑になることは分かっていた。それでも、自らの命と引き換えに、何とかして彼らを救うことを望んでいた…。


 ――という3つの過去生記憶だ。
 まるで映画の脚本のようだけれど…、でも潜在意識下の記憶を呼び起こしている催眠状態のときに、物語をうまく仕立てていくなんて器用なことは、きっとできないはずだろうと思う。

 同時期に異なる過去生があること自体とても不思議なことだけど、この話がそれ以上に興味深いのは――、
 「虐げる人」と「虐げられる人」、そしてそれを「償う人」の3者が存在して、それらが実は根本的に「ひとつの魂」なのではないか、と思える点だ。

 一人二役ならぬ、いわば「一魂三役」である。


 もちろん生きているうちは、そんなことにまず気づきようがないだろう。
 でも、それらの過去生記憶が1人の中から出てくるということは――、その3者はやはり、別々だった肉体を超えて、互いの経験を「共有し合うつながり」にあったのだといえる…。


 もう一つ関心を引くのが――、
 一般にカルマの清算や償いというのは、「時間軸」に沿って行われるものだろう。
 つまり、過去に蓄積したカルマや罪を、現在あるいは未来に解消していくという形だ。

 ところがこの「一魂三役」の場合、加害・被害・償いが、同時期に行われているともいえる。
 これは、ある意味でちょっと「新しい宇宙観」のようにも思えてくる…。

 もっともこういうのは、「どっちの図式が正しい」と割り切れるものではなくて、きっと「時間軸」と「一魂三役」のようなことが、精妙に入り交じりながらことを運ばせているのでしょう。
 (究極的なことを言えば、魂の次元では時間は存在しないし、あらゆる魂のおおもとは「ひとつ」なわけだから…)


 戦時下の民族迫害に比べれば、あまりにも卑近な当てはめ方かもしれないけど…、こんな見方もできるのではないかなと思う。

 もし自分に対して(あるいは誰かに対して)、何か不愉快・不道徳な行いをしてくる人がいたとしても――、それは見えないどこかで別の人が、きちんと償っているのかもしれない。
 自分からその相手に反撃を加えなくても、すべては今の時点で、きれいに完結しているのかもしれない。

 また、もし自分の過去に、取り返しのつかない過ちや、忘れ去ることのできない恥があったとしても――、すでにどこかで、別の誰かがその償いをしてくれているのかもしれない。
 そしてもう今では、気にするまでもないほどに、美しく清められているのかもしれない。

 さらには、もし今の自分自身に、不当としか思えないような心の苦しみや、つらい状況があった場合――、
 それはもしかしたら、別の誰かが背負っているカルマや罪を、自分がそうした形で償ってあげているのかもしれない…。


 「償う人」の力というのは、実はとても強大なものだと思う。

 世界の歴史や、今のニュースを見ても、「加害・被害」はすさまじく甚大な規模で行われている。
 一方で「償い」というのは、ほとんど目に付かないようなものだ。

 「それは十分にきちんと償われていないからだ」とも、もちろん考えられるだろう。
 でも、「加害と被害」によってネガティブ・エネルギーがどんどんばく大に膨れ上がっていっても、世界の人々のいとなみがこうしてずっと存続できているということは――、目に付かないようなわずかな「償い」によって、何とかうまく均衡が保たれているからではないだろうか…。


 何百世代にもわたる業(ごう)も、悟りの炎によって一瞬にして焼き尽くされる。
 地上に生きたあらゆる人々の罪が、イエスの十字架によってあがなわれる――

 「償い」には、それに似た相当な影響力あるのだと思います。
 聖書にある「一粒の麦」のような。

 ハワイの浄化法のホ・オポノポノで「ごめんなさい、許してください」と唱えることにも――、きっと普通に想像する以上に、大きな意味と力があるのでしょうね。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Bruno Sanfilippo & Mathias Grassow 「Ambessence piano & drones 7」。

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プロフィル

Koudai Mitsuna

Author:Koudai Mitsuna
 
光奈 広大(みつな・こうだい)

 20年のあまりのサラリーマン生活を経て、いわゆる「ザ・マネーゲーム」を何とか卒業。今では束縛されない自由な日々を存分に味わっています!

 そうした中で心がけているのは、普通の日常的な行いを通じて、意識の進化を目指す「カルマ・ヨガ」。

 日々の喜びや学び、インスピレーションから得たスピリチュアルな気付きなどをブログで紹介しています。

 妻子と都内在住――。





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