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 近年のハリウッド映画の中には、たまにスピリチュアルの本質的テーマに切り込むような内容のものがありますよね。

 よく引き合いに出される『マトリックス』はそうしたメタファーが敷き詰められているし、『アバター』も「身体と意識とどちらが自分なのか?」という問いを投げかけている、ようにも受け取れる…。

 僕は、ピクサー・スタジオのアニメ『カールじいさんの空飛ぶ家』がけっこう好きで、あれは徹底的な「断捨離」を描いた映画だと思う。
 亡き最愛の妻との思い出だけに生き、外の世界への関心をなくしていた頑迷固陋なカールじいさんが、最後の最後にガラクタのような古い遺品を一気に手放したら――、新しい喜びの人生が始まった、という内容だ。


 で、その「カールじいさん」の監督が『インサイド・ヘッド』という新作アニメを作っているのだけど、これもまた面白いテーマを手掛けたものだな…と思う。

 物語の舞台は、11歳の少女テイラーの頭の中。
 主人公はテイラー本人ではなくて、何と彼女の内側にいる「喜び」「悲しみ」「怒り」などの感情たち――、といった作品だ。




 家族との会話シーンを描いた予告編映像もあるのだけど、母親や父親の頭の中にも同じ姿の「怒り」や「恐れ」がいるところなんか、なかなかおかしい。
 内にある感情エネルギーというのは、人による違いのない「同質」なものなのでしょう。

 しかも、家族が感情的に衝突をしているときは、「人対人」というより、「怒り 対 怒り」の図式になっている点も、うまく表しているなと思う。




 そして、とりわけ印象的なポイントが――、
 人をコントロールしている主体が、頭の中にいる感情であることだ。
 人の言動や行動というのは、感情からの指令にもとづいた、単なるアウトプットにすぎない…。

 このことは色んなスピリチュアル本などにもよく書かれているけど、それをアニメ映像で表現して世界的に上映するというのは、なかなかすごいことだなと感じる。


 この映画は、エンターテインメント作品らしいスリリングな冒険物語へと展開していく(まだ公開されてないので詳しい内容は分からないけど)
 でもきっと見る人によっては、アニメで描かれる頭の中と、実際の自分の頭の中を照らし合わせてみて――、やがて色んな問いや気づきに結び付いていくのではないかな、とも思う。

 たとえば――

 「たしかに自分の頭でも、こうした感情たちが出てきては、色々としゃべっているよね。
 ときには、感情が激しく高ぶって、自分のすべてを巻き込んでいく…。

 じゃあ感情のほうが主体であって、自分というのはただ動かされるロボットのようなものなのだろうか?

 う~ん、そうとも言えるけれど…、どこか決定的に違うような気がする。

 そうそう、実際の感情や思考というのは、浮かび上がってきては、消えていくものだよね。
 でも、そうした感情や思考が現れようが消えようが――、それとはかかわりなく、『私』という感覚は常にずっとある。

 ということは…
 感情は感情であって、それが自分にとっての主体というわけではない。

 それよりも、いつもベースにある『私』という感覚、つまり感情や思考をじっと見つめている視点――、それこそが自分であると言えるのではないかな…。

 ではその、感情や思考を見つめる『私』というのは、いったい何者なのだ?」――

 …なんていう具合に。


 ま、人それぞれに色んな考え方のプロセスはあるはずだけど、最後の「私というのは何者か?」という問いは、必ず共通して行き着くポイントだろう。

 そして、そこから先に重要と思うのは――、
 「私というのは何者か?」という問いについて、何か具体的な説明や理解を得ることが(さらには何か特別な体験を得ることが)、私たちの生の目的ではない、ということだ。

 そうでなく、何者か分からないその不変な「私」の視座に立ちながら、自らの感情を経験したり受け入れたりすること――
 それこそが、この世界において魂がしたいと望んでいることではないかと思う。


 「ザ・マネーゲームから脱出する法」の著書で知られるロバート・シャインフェルドは、人の生をシンプルに2つの段階に分けている。

 まず第1段階は、「本来の自分」の力や知恵を見失い、周りの出来事を「これが現実だ」と信じて振り回されている状態のこと。
 世の中の大部分の人々は、この段階にずっととどまり続けている。

 そして第2段階というのが、それまでの自分のあり方に疑問を抱いて、「本来の自分」を取り戻すプロセスだ。
 ひとたび取り戻せば、何の制約も受けずに「人間ゲーム」を楽しめるようになると、著者のシャインフェルドは語る。


 頭の中の感情や思考についても、同じことが当てはまるだろう。
 第1段階は、感情からの指令にコントロールされて、振り回されてしまっている状態。
 そして第2段階が、「本当の自分」としての視座に立ちながら、感情を経験したり受け入れられる状態だ。

 この第2段階へのシフトは、革命的ともいえる転換をもたらす。
 それによって初めて、生の目的の一つである「感情との正しい向き合い方」が可能になる。


 スピリチュアル分野の教師であるステファン・ボディアンは、こんなふうに説いている。

 苦しみの感情を「自分を表すもの」として受け取ってはならない。「私のさびしさ」ではなく「さびしさ」そのもの、「私の怒り」ではなく「怒り」そのものなのだ。
 それを愛と受容の心で受け止めれば、やがて分散消滅する。
 苦しみの感情は去るために現れるのであって、とどまるためではない。


 内に浮かぶものに向き合い、それを見つめ、受け止め、癒やす者――
 「本当の自分」とはそういう存在なのだと言えますね。


 結びのヒーリング・ミュージックは、Healing Therapy Music「Flowing Peacefulness」。

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 過去の記事で、「火災が起こったときにだけ発芽する」という、珍しい植物について書いたことがあります(→「目覚めの種子」

 ふつう植物の種子は、暖かい春になったり、雨が降って周りの土が水分を含んだタイミングで、芽を吹くものだ。

 ところがオーストラリアに自生する「バングシア」という木は、種がとても硬く厚い殻に包まれていて、普段はその状態のまま、ひたすらじーっと「ことが起こる」のを待っている。
 そして、山火事が発生して炎にあぶられたとき、種が殻から放たれて発芽していく。

 実に不思議な特性だけれど、それにはちゃんとした理由と利点がある――、という話でした。


 今回もそれに似た話題で、こんな面白い性質の花がある。
 南アフリカの海岸に咲く「オルフィウム」の花は、花粉がおしべの袋の中に入っている。
 そのおしべの袋は、写真のようにグルグルにねじれていて、先端の口をギュッと固く結んでいる。
 虫がやって来て、いくら突っついたり、こじ開けようとしても、中の花粉を取り出すことはできない。

 そのままだと肝心の受粉ができなのだけれど――、この花、なんと音階の「ド」の音がしたときだけ、袋を開いて花粉を放出する性質なのだ。


 花に音が聞こえるわけではなく、特定の「振動数に共鳴」する構造なのだろう。

 実はその「ド」の音というのは、クマバチの羽音の振動数だ。
 つまりオルフィウムは、クマバチが飛んできたときだけ、固く閉じた袋をパッと開いて、花粉を与えている。


 どうしてまた、そんなふうになっているのかと言うと――

 童謡のチョウチョウで「菜の花に飽いたら、桜にとまれ」というのがあるけど、実はそれは植物にとって、あまり有難くない話なのだ。
 だって、菜の花の花粉を、桜のめしべに付けられたところで、受粉して繁殖することはできない。


 そこでオルフィウムの花は、クマバチの羽音だけに反応し、その一種類の虫だけに花粉を与えるように進化した。

 クマバチにとっては、栄養価のある花粉を、ほかの虫たちと争うことなく享受できるわけだから、まさしく願ったりの厚遇といえる。
 そうしてクマバチは、「オルフィウムの花からオルフィウムの花へ」と、飽くことなく飛び回ることになる。

 一方のオルフィウムにとっても、自らの花粉を同じ種類の花へとほぼ確実に届けてもらうことができるわけだ。

 大自然の知恵というのは、実にすごいですよね!


 有名な生物学者であるデービッド・アッテンボローの本によると――、
 オルフィウムの花は、「ド」の音がしたときに、「花粉を黄色い噴水のように放出する」と書かれている。

 いったいどんなふうなのだろうと思っていたら、それを撮影したイギリスのドキュメンタリー番組がありました!

 音叉を花に当てて実験しているのだけど、固く閉じていたおしべが振動数に呼応して開き、花粉がパァーッとあふれ出る様子を見ていると――、ハートが特別な波動に共鳴して開くというのも、こういうことなのかな、なんてふうにも思います…。




 もう一つ、数日前からネット上でよく紹介されている動画(デンマークの宝飾品ブランドのコマーシャル映像)

 「目隠しした小さな子供が、お母さんを見つけられるか」というのを試したものだけど――、本当に素晴らしいくらい、ちゃんと分かるものなんですね。

 見知らぬ大人の体をちょっと恐る恐る触っていた子供が、「あっ、これはお母さん」と分かったときの、あふれ出る笑顔が素敵です。


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 ここ数日、息子の学校のPTA役員会や家の雑事など、何かとせわしい日々が続いたので――、それらが一段落した昨日、気分転換に多摩川と玉川上水をウォーキングしてきました。

 「玉川上水」は、江戸の飲料水不足を解消するために開削された、古い手掘りの人工水路。
 多摩川上流部の羽村というところで取水して、そこから延々40km以上も先の江戸市中まで水を引いたライフラインだ。


 ただ、それだけの長い距離でありながらも、起点から終点までの高低差はたった90mしかない。

 当たり前のことながら、水は高いところから低いところにしか流れない。
 いったん水が低い位置まで下りきってしまうと、そこから先へ進むことはできなくなる…。

 そのため玉川上水は、流れが余計に下ってしまうことがないように、「武蔵野台地」の尾根部分をつたって、すごく緩やかな勾配で流れるコース取りがされている。

 つまり、一度下ったら取り返しのつかない「高さ」を、可能な限りケチケチと少しずつ使いながら、水の流れる力が遠く江戸まで続くようにしているわけだ。


 そうした工夫によって、多摩川上流から江戸を結ぶ、一本の水路を通すことができた。
 昔の測量技術で、よくそれほどの正確な計画や工事が行えたものだと感心してしまう。


 ここからはさらに、何年か前にNHKであった(今でもあるのかな?)タモリがうんちくを語る散歩番組のみたいな、ややマニアックな話題です…。

 玉川上水には難工事のポイントがいくつかあって、その筆頭格が「立川崖線越え」だ。


 さっき、玉川上水は武蔵野台地の上を流れるコース取りがされていることを言ったけど――、もとの水源である多摩川は、当然ながら低い谷の底を流れている。

 つまり、谷を流れる多摩川から引いた水を、周囲より高い台地の上に乗っけなくてはならないわけだ。
 台地の上を流れるようにしないと、水が江戸まで到達するルートを敷くことができない。

 ところが武蔵野台地と多摩川の間には、「立川崖線」と呼ばれる高さ十数メートルの崖が、巨大な壁のように立ちはだかっている。
 もちろんそんな崖を、水が登っていけるわけはない。江戸時代だから、揚水ポンプなんて存在しない…。

 でも何とかその崖を越えない限り、水は多摩川へと戻っていってしまうことになる。


 そこでどうしたかと言うと――
 この写真は、羽村で取水して1kmほど下流に行ったところの玉川上水だ。

 左側の急な斜面が「立川崖線」で、その崖下を玉川上水が流れている。
 見てのとおり、この崖の上に水路を乗せるなんて、無理にしか思えないでしょう…。


 写真の右側の先は谷になっていて、その谷底を多摩川が流れているという形だ。

 このあたりの多摩川は、やや急な流れで下っている。川の水面の標高は、徐々に低くなっている。
 それに合わせ、実は崖のほうも、少しずつ標高が下がっていっている。


 このような自然の地形に対して――、玉川上水はできる限り「水平」を保つ形で、水路が敷かれている。
 つまり、崖のてっぺんと、玉川上水の水面は、下流に行くにつれて相対的にどんどん近付いてくる、というわけだ。

 そうして、あるポイントに来たところで、水路は左側の崖のほうに向かって、くねっと少し左カーブする…。(写真のフェンスの向こうが玉川上水)

 するとそこから先は、いつの間にか玉川上水が崖のてっぺんを流れる格好になる。

 つまりここで、水路が立川崖線を越えて、武蔵野台地の上に乗っかったのだ。
 (もちろん流れの水面の高さは変わらないから、水路の溝の掘り込みは深くなっている)


 このポイントは実に巧妙で、意識しながら歩いていても、「あれっ、どこで崖線を越えたのだろう?」と不思議に思うくらいだ。
 歩いて戻って、再度確かめてみて、ようやく「なるほど、ここね」と分かる。

 ましてや、地形のことなんか特に考えずに散歩している人にとっては、「水路が谷から台地の上へとシフトした」なんてことには、何ひとつ気づかないだろう。
 それくらい、あっという間で、違和感のない転換なのだ。


 そこから少し下流へ歩くと、見晴らしのきく場所に出る。
 谷を見下ろすと、ずっと向こうから、ザーッという多摩川の水流の遠い響きがかすかに聞こえてくる。

 そして一方の玉川上水のほうは、高台の上をゆるやかに流れている。
 2つの流れは、まるで違う次元に位置しているようにさえ思えてくる。
 ほんの少し上流で、同じところから分かれてきたなんて、信じにくい感じもする…。


 こういうのを見ると――、スピリチュアルな意味での私たちの「運命の流れ」も、こんなふうにいつの間にかシフトするのかなと思える。


 定められた人生のシナリオは変えられないと、よくいわれる。
 でもそうしたシナリオは、実は無数に並行して存在している、ともいわれている…。

 そして、「今いるシナリオを変える」ことはできないものの、「別のシナリオへと切り替える」ことは可能であるとも説かれる。


 ときに私たちの潜在的な意志によって、あるいはガイドの存在からの恩寵によって――、特に気づくことなく運命の切り替えが起こっているというのは、十分に考えられることではないでしょうかね…。

 たとえば何年か以前は、しかるべき覚者などが、世界規模の天災や紛争や経済崩壊など、相当に悲劇的な未来を語ることが少なくなかったと思う。
 眉唾な予言者でなく、以前はそういう話をしなかった人物までが言及するケースもあったから、口にせずにはおられないほど明瞭なインスピレーションがあったのだろう。

 当時の私たちは、本当にそのような運命の流れの上にいたのかもしれない。


 ところが幸いにも、そうした世界的大参事のシナリオは、今のところ現実化していないといえる。
 たぶんきっと、どこかで運命の流れが切り替わったのではないでしょうか。

 ある意味で私たちの魂は、「悲劇を経ずに進化できる道」を選び直した、というふうにも考えられる。


 そんな、「シナリオの切り替え」が起こり得る宇宙観というのは、僕としてはけっこうしっくり来る感じがする。
 私たち個人の人生のシナリオも、気付かないうちにどこかでうまくシフトしているのかもしれないし、それはこの世界に生きる面白さでもあるとも思う。
 その切り替えを、うまく自分で選択することができれば、なおさらだろう。


 もっとも、多摩川と玉川上水は、分かれたあと別々の方向へと流れていくわけだけど――、
 最終的にはどちらも、同じ東京湾に注ぐのですけどね…。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Planetary Heart「Inner Radiance」。

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 ときどき話題として触れることですが――、ここしばらく「体調はいいのだけど、なぜか体がだるくてヘロヘロ」という状態が続いています…。

 思考活動さえもあまりする気がしないから、気分的にはむしろとても平穏。
 そして、じっと静かに呼吸をするだけで、体の芯から本当に心地がいい。

 一方で、全身が不思議なくらい重くて仕方がない…。
 体が鈍っては良くないと思い、今朝はひさびさに天気が良かったので、2kmほどランニングした。
 前の週に比べると多少ましになったものの、足腰にうまく力が入らない。「ももの筋肉が、以前より何割か減ってしまったのではないか?」と思えるくらいだ。

 宇宙ステーションにしばらくいた宇宙飛行士が、無重力状態の中で筋肉が衰退してしまい、地上に戻ったときにうまく歩けないという話があるけれど…、まるでそんな感じさえしてくる。


 幸いにも僕は勤め人の身ではないから、「ヘロヘロ」モードのときは、そのままヘロヘロになって暮らしていればいい。
 こんなときに会社の仕事があったら、ものすごく大変なことだと思う。何かとんでもないトラブルを起こすに違いない。

 もしも自分がイルカだったら、浜に打ち上げられてしまってもおかしくないです…。


 「ヘロヘロ」の理由は、地球の波動がシフトしているからとか、太陽フレアや宇宙線の影響とかも言われるけど、よくは分からない。
 実は単に、男性更年期障害かもしれないし…。


 話はまるで変わるけど――
 先日に『トランサーフィン』(ヴァジム・ゼランド著)というロシアのスピリチュアル本を読んだ。
 著者名はペンネームで、もと量子物理学者という正体不明の人物。本国ロシアではベストセラーとなり、日本でもすでに4巻のシリーズが出版されている。

 本の主たるテーマはいわゆる願望実現で、「自分の思いが人生の現実となる」という趣旨は、よくあるものと同じといえる。
 ただ理系の人らしく、それが起こるメカニズムを理知的に解説している点がなかなか興味深く読めた。

 とりわけ、この人が説く宇宙観は、「運命はすべて決まっている」と「未来は自分の意志で選べる」という両面がうまく成り立ちうる図式で(パラレル・ワールドにも近い)、「なるほどな」と感じられる。
 このあたりは、また機会があれば書きたいと思います。


 で、僕がこの本の中で、副次的な内容ながらも「身近な実用面」として面白かったのが――、
 目の前にいる不機嫌な相手や、感情的に攻撃してくる相手を、どのように穏やかにさせるか、という技法だ。

 たとえば職場で上司が、自分のことをあまりにもひどく叱責・非難してきたとする。
 こちらとしては色々と意見もしたいのだけど、上司のほうは感情の渦に巻き込まれてしてしまって、今の時点では前向きな話し合いには絶対なりそうもない。

 ――という場合、
 その人が本当は何を必要としているのかを考えてみて、「それで満たされている状態」をイメージする、というものだ。


 上司がそこまで怒りの感情を振りまく理由というのは、実はとても疲れているからかもしれないし、あるいは家庭でもめごとがあったのかもしれない。
 彼は「安らぎ」を必要としているわけだ。

 そこで怒っている上司を目の前にしながら、その上司がリラックスできるソファでくつろいでいる様子をイメージしてみる。あるいは、好きな趣味を楽しんでいる姿を思い浮かべてみる。
 (たいてい一方的に怒られているときは、口で「はいはい」と言いながらも、頭の中ではまともに話を聞いていないから、こういう余計なことを考えるのは可能だろう)



 あるいは、もしその上司が責任を負うことを恐れているならば、彼はもっと「自信」を取り戻す必要がある。
 そこでその上司が、スポーツカーを運転したり、パーティーで話題の中心になっている光景をイメージしてみる。

 著者のゼランド氏は、こう説明する――

 「あなたを困らせる相手は、間違いなく何かの『不安』を抱えている。そこで、その人が必要としているものを受け取っている状況をイメージしてみよう。
 その相手が満足しているところをイメージするだけで十分なのだ。あなたからの思考エネルギーは、間接的ながらも、必要としていたものを与えることができる。
 間もなく相手は、攻撃的だった態度を、好意へと切り替えるだろう。信じがたいと思われるだろうが、ぜひ試していただきたい」

 「この快適なシナリオについては、深く考える必要はない。想像上で相手を喜ばせることができたなら、相手は理由がはっきり分からなくても、満足感や喜びを味わっているのだ。
 その相手には、あなたといるとどうして心が安らぐのか、一向に分からない。このことは秘密にしておこう」


 うちの場合、人間関係のストレスでいつも不機嫌な妻と、反抗期の息子がいるのだけど、この技法はなかなか効果があるなと実感している。

 そして、とてもやりやすいものだと思う。著者も「シナリオを深く考える必要がない」と言っているし、出ている例も、リラックスできるソファとか、スポーツカー、パーティーなど、はっきりいって安直なものばかりだ。

 自分の将来や、相手に「こうなってもらいたい」という願望がある場合だと、イメージの細部やつじつまにこだわってしまい、うまく思い描くことが難しかったりもする。
 でもこれくらい勝手で安直なシーンならば、誰でもそれほど難なくイメージできると思う。


 もっともこれは、相手の根本的な「あり方を変える」というより、単に自分の「目の前の状況への対処」としての技法でしょう。

 でも、感情的になっている相手と向き合うとき、イメージによって「まずこちらの心にも平穏さをもたらすことができる」という、対処としてなかなかいい選択肢だと思います。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Kip Mazuy「Now is Forever」。

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 私たちが、いつも色々と感じたり考えたりしている「意識」というものは、なぜ存在しているのか?――

 現に自分にこうして「意識がある」ことは、誰にとってもあまりに明らかで、当たり前のことだろう。
 でも、その意識というものがいったい何であるかは、人類の最大の謎の一つとなっている。

 それは、「宇宙のあらゆる神秘の中でも随一の謎」と言っていいくらいだ。
 なにしろ、宇宙の神秘を問うている私たちの意識そのものが、はたして何であるのかが分かっていないわけだから…。


 脳科学では長年、脳の中に「意識」を生み出している神経細胞があるに違いないと考えて、研究されてきた。
 ところがいまだに、それは見つけられていない。

 そうした中で、近年最も注目されている考え方が――、
 アメリカの神経学者クリストフ・コッホが提唱する「統合情報理論」というものだ。

 コッホ氏は、「私たちの意識は、特定の細胞にあるわけではない」としている。
 そして、「意識とは、脳細胞が『複雑なつながり方』をして、一つに統合されたときに生まれるものだ」と説く。


 私たちの脳には、1,000億個以上もの神経細胞がある。
 そしてそれらの細胞同士は、非常に複雑なネットワークでつながり合っている。

 そのネットワークの中で、視覚や聴覚、熱さや痛みといったさまざまな「感覚」、喜びや怒りなどの「感情」、さらに過去の「記憶」や「思考」といった膨大な量の情報がやり取りされている。

 この複雑なつながりや情報が「ひとまとまりのもの」となったところに、おのずと意識が生まれる――、というのがこの理論の示すところだ。


 この見方は、とても面白いなと思う。
 私たちの意識は、生体や物質などのいわば「実体」の中に存在しているわけではない――。このことを、脳神経科学の立場からも主張しているのだから。

 たくさんの神経細胞による複雑な「つながり」という、ある意味で見えない「場」とか「空間」のようなものが、私たちの意識の正体になるわけだ。


 ただし、こういう点は科学とスピリチュアルの相容れないところなのだけど――、
 人が死ぬときには、意識を生み出している脳のつながりも機能停止する。そのため、「死とともに意識はいっさい消えてなくなってしまう」というのがコッホ氏の見解だ。


 ところで一方、「複雑なつながり」の構造を持つものは、人間の脳だけではない。

 この情報統合理論では、「意識の量」というのを数式で表している。
 そして神経細胞の数が多いほど、またつながりが複雑化するほど、「意識」の大きさは増大するのだとしている。

 たとえばコンピューターなどの電子回路も、将来さらに複雑なつながりを持つように設計されるようになれば、やがてそこに意識が生まれる可能性だってあり得るわけだ…。


 同じように、「複雑なつながり」という視点で見れば――、たとえばアリやミツバチの群れにも、そのような「意識」の力が働いているのではないかなとも思える。
 一つの巣で、あれほど効率的にうまく役割分担をしながら、あたかも全体が一つの生き物のように活動している。
 ところが彼らには、人間の会社組織のようなピラミッド型の命令系統があるわけではない。

 とても不思議な生態だけれど、たくさんのつながりを持つことによって、ひとまとまりに動くための共通の「意識」がそこに生じているのなら――、かなり自然に納得できるような感じがする。


 さらに言えば、私たちの人間のつながりも、相当に複雑なものだ。

 複雑な脳を持っているうえに、人間同士のネットワークも複雑きわまりないとなると――、それによって世の中全体に強力な「意識」が発生していると考えてもおかしくない。
 これがきっと、スピリチュアル分野でよく言われる「人類の共有意識」というものだろう。

 その「人類の共有意識」が、アリの巣の集団のように、私たち一人ひとりの心や行動に少なからぬ影響を及ぼしているのかもしれないです…。


 ここで、少し前述した「死後」の話に戻るけど――、
 臨死体験者の中には、肉体を離れていった後、あの世へと向かう途中で「無数の死者たちが漂っている場所」を見た、という証言がいくつもある(「囚われの領域」とも呼ばれる)

 その死者たちは、同じ宗派や信念や嗜癖といった、共通の価値観を持つ者同士で、グループになってかたまっているのだという。
 そして、その場所から抜け出せない状態のまま、延々と滞留しているそうだ。

 これは、臨死体験者が目にした、「人類の共有意識」の姿ではないかなとも思う…。


 人の意識は、死によって脳が機能停止したあとは、その肉体ではもはや存続できなくなる。

 でも、コッホ氏が言うように「消えてなくなってしまう」のとは違って――、より大きな「複雑なつながり」である、「人類の共有意識」の一部として取り込まれ、存続するケースもあるのではないだろうか。


 ただ幸いなことに、そんなおぞましい「囚われの領域」にとどまってしまうのは、かなり限られたケースのようだ。
 ほとんどの臨死体験者は、その領域を通り過ぎて、天界へと迎え入れられている。
 そしてそこで、壮大で崇高な存在と一つになるという、信じられないような至福を体験したことを、多くの人が語っている。

 その壮大な存在とは――、まさしく「宇宙」そのものではないかと思う。


 私たちが住む地球は「天の川銀河」に位置していて、その銀河には実に1,000億個もの星が集まっている。
 これだけでも途方もない数だけど、宇宙にはそうした銀河が1,000億個も存在している。

 膨大な数の銀河は、宇宙空間の中にまんべんなく広がっているわけではない。

 石鹸を泡立てたときにできる、幾重にも重なった泡のような構造で分布している。
 たくさんの泡の「膜」にあたる部分に銀河が集まっていて、泡の中は何もない空洞だ。

 つまり宇宙の無数の星々は、脳神経をはるかに上回る「複雑なつながり」を形成していて、そこに「最大で根源的な一つの意識」が生み出されているのではないでしょうかね…。


 人の死後、脳に位置していた私たちの「意識」は、壮大な「宇宙の意識」の全体へと取り込まれていって、それと一つになる。

 また逆に、地上世界にいる母親の胎内で脳が形づくられたとき、壮大な「宇宙の意識」の一部がそこに宿る。
 よく私たちの個々の命のことを「神の分け御霊(みたま)」と表現するのは、そういう仕組みだからとも思います。


 「意識」――、それはある意味で「命」や「魂」とも呼べるし、さらには「本当の私」とか、純粋な「存在」と言ってもいいでしょう。
 それは、生体や物質そのものに備わっているわけではない。
 細胞のつながり、人々のつながり、星々のつながり――。その「つながり」という、実体のない「間」に、それはある。

 イエスが「神の国はあなたがたの間にある」と語ったのも、そういう観点が含まれているのかな、とも感じますね!



 結びのヒーリング・ミュージックは、 Aetherium「Sahasrara Crown Chakra」

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 ブログを日ごろ読んでくださっている方ならおおよそ察しが付くかもしれないけど――、僕は「所有物」というのがかなり少ない暮らしをしています。

 もともと中学から大学まで一貫校で寮生活をしていて、当時から寝る布団と少ない服、勉強道具、洗面用具くらいしか持たなかった。
 寮での部屋替えや引っ越しは、荷物を両手に抱えて3往復くらいすればぜんぶ済んだので、ほかの生徒よりもダントツに早く片付いた。


 今は3人家族で3LDKの賃貸マンション暮らしなので、家電・家具などの共用品や、妻子の持ち物は周りに色々あるものの――、こと「僕自身の持ち物」となると、30年前の学生時代からそれほど量が変わっていないように思う。

 たとえば読み終えた本は、気に入った言葉をパソコンに書き写してから、ほとんどの場合は捨ててしまう。
 衣類なども、1~2年間着なかったものは、ほぼ未使用であってもスパッと処分するようにしている。
 日常の買い物も、事前に用意したリスト以外の品物を買うことはまずないし、旅行に行ったときのおみやげとかも、食べればなくなる菓子などに限っている。

 とにかく徹頭徹尾、身軽でいることが自分にとってごく自然な性分であるため、「断捨離」系の本には個人的にあえて用のない感じだ。
 (たとえて言うなら、ネイティブ・スピーカーに語学教本が必要ないことと似ているかもしれないです…)


 で、そんな根っからの「物欲欠乏症」ともいえる性質なのだけど、実は近ごろとても魅力的に思えて、いつか手にしたくて仕方ないものがある。

 それが――、このような「家」だ。
 「スモールハウス」と呼ばれるもので、3坪(約10㎡)ほどの中に、住宅として必要な機能を収めてある。
 駐車場1台ぶんのスペースがだいたい2m×5mなので、ちょうどそれと同じくらいの広さだ。

 そんなに狭いところに、本当に人が住めるの?… と思えるけど、以下が中の様子と間取りである。


 もう十分すぎるくらい素敵だし、ちゃんとキッチンも、トイレとシャワー付きのバスルームも、小さなクローゼットだって備わっている。ベッドは屋根裏のロフトにある。

 昔からよく言われる「起きて半畳、寝て一畳」まではさすがに及ばないものの、「心地よい実生活ができる最小空間」がこれくらいなのだろうと思う。
 ある意味で、「人の身の丈に合ったスペース」ともいえる。

 ま、こういう家が欲しいと思うのは、そもそもモノを持たない性質の延長なのだけれど…。


 ちなみにこのスモールハウスはアメリカ製で、価格は4万ドル(今の為替レートだと約480万円)、自分で組み立てる場合は1万6000ドル(約190万円)ほど。都会の家賃の何年かぶんくらいだ。
 トレーラーでの移動も可能で、つまり駐車場1台ほどの土地があれば、マイホーム生活ができてしまう。

 あとは食費などの生活コストさえ何とかすれば、自由な暮らしを送っていけるわけだ。
 住宅は「人生最大の買い物」であるだけに、そこを思い切ってミニマム化することで(別に思い切らなくても、それが好みであれば)、人生の自由度を相当に広げることが可能といえる。


 まさにそのような生活スタイルを提言する『スモールハウス』(高村友也著)という本の中で、以下のような考え方が述べられている。
 これは僕自身の立場からしても、諸手をあげて賛同できる内容ですね――

 現代では、「経済からの自由」というものの価値は、ずいぶん低く見られている。むしろ責任のない身分というのは、社会人として良い印象を持たれないことすらある。何か責任を背負って生きている人、常に何かやるべきことを抱えて忙しそうにしている人が、概して「まともな人間」として認められている。
 人によっては、「そもそも仕事のない人生など考えられない」という人すらいるかもしれない。忙しくてもそれなりに充実を感じ、面倒ではあるけれど仕事を中心に人間関係が広がり、週5日間、朝から夜まで働くことに違和感はないという人もいるかもしれない。そういう人は、仕事を辞めてまで手に入れた自由で、いったい何をしようというのか、不思議に思うだろう。そういう人が無理にこのような生活をする必要はない。
 しかし、「忙しさに対する充実感」なるものに疑問を抱き、その感情に距離を置き、その感情を解体し始めてしまった人にとって――、スモールハウスは衣食住の心配なく自由に生きていく可能性を開いてくれる。


 けっこう価値観が分かれるかもしれないけど、「忙しさに対する充実感」よりも自分は「経済からの自由」のほうを選び取りたいと望んでいる人は、今の日本では一昔前よりもかなり増えているのではないかと思う。

 そうした望みに対して、スモールハウスというのは、生き方の全般を含めた意味での「理想の住まい」になり得るわけだ。


 さらには、小さな居住スペースが可能にするのは、それだけではない。自由との引き換えに、身を削るようにしぶしぶと家を狭くするのとは違う。
 僕の場合も、「経済からの自由」は一応ある程度の形ですでに手にできているのだから、その目的のために狭いところに暮らしたいわけではないです…。

 それでもあえて、ミニマムな居住スペースに深く憧憬してしまう理由というのは――、
 いわば限られた空間ならではの、精神的なフィット感や静謐さなのだと思う。
 前述の『スモールハウス』の本でも、こんなんふうに語られている。

 スモールハウスのように小さく閉じられた空間は、その中にいる「独りの心」を守り、意識を大きく開くことを可能にしてくれる。
 おそらく私たちは、外部との交流がある開かれた空間では、生活上の現実的な問題に対処するために、無意識のうちに記憶や想像を抑圧したり、逆に反芻したりして、このとき自己意識は閉じられてしまう。自分の意識を大きく開くためには、物理的に外界から閉ざされ、平穏を獲得する必要がある。


 狭い空間の中だからこそ、意識が開いていくというのは、確かにあるだろうなと感じますね。
 (例としては悪いけど、独房で悟ったなんていうケースもあるそうだし…)


 アメリカ製のスモールハウスも素敵だけど、僕がさらに憧れるのは――、純和風の「茶室」だ。
 写真は京都・高台寺の遺芳庵で、茶室の広さはわずか2畳。

 もっとも茶室というのはものすごく高価だし、居住のためのスペースでは全然ない。
 でも、日本人にとっての「やすらぎ感」は圧倒的でしょう。
 こういう建物に、押入れと台所と風呂とトイレを付けて暮らせたら、さぞ心地良いだろうなぁ…と思う。

 2畳だと、大の字で寝転がるのは難しいけど、ヨガの「太陽礼拝」は何とかできそうだ。


 もうひとつ、僕が憧れてならないのが――、
 過去のブログでも書いたことがあるけど、エンリケ・バリオスのファンタジー物語『アミ 小さな宇宙人』に出てくる、空飛ぶ円盤だ。
 中の構造を漫画家のさくらももこさんが描いているのだけど、宇宙を旅するにはあまりに極端すぎるシンプルさが、何とも魅力的。

 実用的な優先度はそっちのけで、見るからにリラックスできそうな「瞑想ルーム」があるところなんか本当に素敵だ。


 数年前から世界では、家や持ち物や消費活動を最小化しながらも豊かに生きる「ミニマリズム」という考え方が出てきている。
 地球上の限られた資源で人類が暮らしていくうえで、それが一つの「共生の道」とも言われている。

 これを我慢とか貢献とかではなく、自分の「心底からの憧れ」として実践できたら、いちばん素敵なことだなと思いますね!



 結びのヒーリング・ミュージックは、Silvia Nakkach「Inside Memories,Saudades」。

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 前回に続き桜の話題です。
 下の写真は、埼玉の入間川沿いをウォーキングしているときにあった桜――

 分かりますかね。中央にある枝が、上のほうでベキッと折れてしまっているんですよね…。それで真下に向けて、だらーんと垂れ下がっている。

 そんな「首の皮一枚」みたいな状態なのに、枝いっぱいに満開の花を咲かせている。

 この辺りはときどきウォーキングしているのだけど、この桜の枝は、花が咲いたあとに折れてしまったわけではない。
 確か昨年2月のこと、関東で観測史上最大の豪雪が降ったときに折れたものだ。
 「これはもうダメだろうな」と思っていたところ、翌月の開花時期にはきれいに花を付けていて驚いた。

 でもさすがに、ひとシーズンを越したら枝は枯れてしまうだろうと見ていたら…、今年もこうして、見事に満開の花をたたえていた。

 桜の生命力というか、花を咲かせようとする本能のパワーは、本当にすごいものだなと感心します!


 ところで、前回記事のコメント欄でも書いたのだけど――、
 咲き誇る桜の花って、圧倒的な自然のいとなみを感じさせる一方で、やや過分ともいえる不自然な印象もありますよね…。

 それもそのはずで、桜の代表種である「ソメイヨシノ」は、江戸時代に人工交配による品種改良で作られたといわれる(自然交雑によって生まれたという説もある)。


 そして特殊な交配種であるために、種子での自然繁殖ができないのだそうだ。
 各地にあれだけある木はすべて、人の手による接ぎ木などで増やしたものだ。

 北海道から九州まで、ソメイヨシノはどこでも見かけるけど、それを営々と接ぎ木で植え続けてきた日本人の「桜好き」は、すごいものだなと感心してしまう。


 また一方で――、
 種子による繁殖ができないのなら、ソメイヨシノがあれほどたくさんの花を見事に咲かせるパワーというのは、いったい何の意味があるのか?…、というふうにも思えてくる。
 花を咲かせ、種を実らせても、まったく何にもならないわけですしね。

 ソメイヨシノは、植物として異様なまでに、「咲くことだけに特化した交配種」といえるわけだ。


 で、かく言う私たち「人類」も、その起源は正確には分からないし、実は宇宙人との配合種なんていう一説まである…。

 ほかの地上の哺乳動物に比べ薄い体毛や、巨大な脳も、どのような進化過程でそうなったのかは謎だ。
 そして地球の生態系の中で、人間は明らかに不自然な位置に存在する。


 「人は考える葦である」とも言われるように、複雑高度な思考活動は人間の重要な特性だ。
 ただ瞑想とかをしていると、絶え間なく続く思考の内容というのは、ほとんど無意味な反復や憶測ばかりであることが分かる。じゃまで仕方ないのだけど、そう簡単には消えない。

 人のマインドは非常にダイ・ハードで、まるで桜の枝が折れても花が咲くように、首の皮一枚になってもそのにぎにぎしい活動をやめようとはしない…。


 一方でもちろん、素晴らしい側面も大きい。

 野生動物が仲間を救ったり、互いに思いやる態度を撮影した映像を見ると、「動物でもそうなんだ。すごいな!」と感動する。
 でもそれ以上に人間は、より複雑で深い感受性をもって相手のことを思い、言葉による交流や色んな社会的仕組みも使いながら、日常的に他者を助けたり支え合ったりしている。

 互いの助けによって、こうして生き、繁栄している種だといえる(もちろん、まるっきり逆の行動をとることも多いけれど…)


 そういうのは、適者生存の原則などからすると、無駄だったり意味のない部分も大きいのかもしれない。
 でも人は、その特質を大切にする。そこに、生きる意味そのものを見いだしもする。

 桜の花は、ものすごいパワーで無数に咲き誇り、散っていく。私たちの日ごろの思いやいとなみも、それと似たような側面もあるだろう…。
 人間は、生き物としては異様なまでに、「そこの部分だけに特化した配合種」なのかもしれない。


 スピリチュアルの分野では、人間の肉体のことを、「魂の乗り物」というふうによく表現される。
 それはまさに、「魂が乗るために作られた種」なのだと言えるでしょうね!



 結びのヒーリング・ミュージックは、Kevin Hoo 「Waltzing Leaves」。

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プロフィル

Koudai Mitsuna

Author:Koudai Mitsuna
 
光奈 広大(みつな・こうだい)

 20年のあまりのサラリーマン生活を経て、いわゆる「ザ・マネーゲーム」を何とか卒業。今では束縛されない自由な日々を存分に味わっています!

 そうした中で心がけているのは、普通の日常的な行いを通じて、意識の進化を目指す「カルマ・ヨガ」。

 日々の喜びや学び、インスピレーションから得たスピリチュアルな気付きなどをブログで紹介しています。

 妻子と都内在住――。





http://facebook.com/koudaimitsuna

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