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 幸せや宝物を探しに遠い旅に出て、最終的にはそれを自分がもともといたところで見つける、というお話がありますよね。

 有名なメーテルリンクの童話『青い鳥』がそうだし、ブログでよく紹介するパウロ・コエーリョの『アルケミスト』もそうだ。


 合理的な結果論を言うならば、「わざわざ無駄足になる旅なんか行かずに、最初から自分のいる場所を探せばよかったのに」というふうにも思えるけど…、物語もこの世界の現実も、そうにはいかないのでしょう。
 作者のコエーリョも、こんな言葉を語っている。

 「たとえ宝が自分の家に埋められていたとしても、それを見つけるのは家を遠く離れたときだ。ものごとの本当の価値を知るのは、それを失い、そして再び手に入れたときである。
 その近道を探そうとしても、無駄なことなのだ」
――と。


 幸せとは、「外側の状況」ではなく、「内側のあり方」だとよく言われる。最終的な幸せは、まさにそこで見いだされるものなのだろう。
 ただ、私たちが最初から内側に着目することはまずない。

 人生において、幸せや宝物を探しに出る旅というのは――、これがあれば自分は幸せになれるという「外側の要件」を満たそうとするプロセスだともいえる。

 つまり、たくさんのお金が得られれば、理解し合える素敵なパートナーがいれば、仕事で成功して周りから認められれば、もっと容姿が魅力的だったら――「自分はいまと違ってきっと幸せになれる!」と信じて、それを求めて一所懸命に努力するという段階が、ほとんど誰の人生にもあるはずだ。

 ふつうそれは、健全な憧れであるし、成長のための歩みである。
 あるいはコンプレックスの裏返しや、欠落感の埋め合わせという場合もあるかもしれない。

 いずれにせよ自分という主人公は、幸せになるための「外側の要件」をめざして冒険の旅に出る――。


 ところが、どう頑張っても望みがかなわないことは少なくない。また思い通りの結果を手にしても、「まだ何かが足りない…」と心が満たされないケースもある。

 さらには、ラッキーなことに「望みがかなって幸せを感じる」という場合でも――、それはいわゆる「条件付きの幸せ」であって、基盤がもろいものだ。

 無常なこの世界、手にしたその「幸せの要件」が、何かの変化で自分のもとから抜け落ちてしてしまう事態はよく起きる。
 すると、あっけなく再び「幸せではない状態」に振り戻ってしまうことになる。

 かくして、幸せ探しの旅はずっと続く…。


 そんな努力の中で、もっと効果的ないい方法はないものかと考えているうちに、一部の人はいわゆる「成功法則」などの本に出会ったりする。

 あるいは、何かがおかしいこの世の中の真相が知りたいという思いから、「陰謀論」や「闇の支配」といったテーマに興味を持つ人もいる。
 また、傷ついた心を癒すために、ヒーリングの本を読んだりもする。

 そうして手にした本の内容は、どういうわけか引き込まれるように面白く感じてしまう。ふつうの読書のように、ある程度で済ませることができない。
 自分の根底にある、あらがいがたい「希求心」のようなものが、次々と近いテーマの本を呼び寄せては読み進めさせる。


 そのうちに、やがて『神との対話』とか『ニュー・アース』といった、バリバリのスピリチュアル本に巡り合うことになる。

 このあたりで、幸せを求めて外側の先へ先へと進んでいた旅路が、いつの間にか180度方向転換して、自分の内側へと向かうわけだ。マラソンの折り返し地点のように。

 魂の目論見どおりである…。


 もちろん人によって、きっかけやプロセスは色々だろうけど、近道のない「外から内へ」という図式は、かなり共通するものだと思う。


 ところが、この折り返し地点から先の道のりも、ずいぶんと遠かったりする。
 さらにたくさんの本を読んだり、ワークなどにも参加したりするのだけど、決定的なものがなかなか見いだせない…。


 それもそのはず、見いだすべき答えは、本の文章やワークで伝えられる内容ではなく、純粋に「自分の内側」そのものにある。
 つまり、本やワークというある種の「外側」にまだ目線が向いたままで、本当の「自分の内側」には向いていないわけだ。

 180度折り返したつもりだったのが、実はちゃんと折り返せていなかった。そのまま外向きの延長で進んでいた…。

 こういうのは、スピリチュアルの罠とも呼べるかもしれないです。


 自分の内側にただ向き合うことは、かなり「退屈」な取り組みだ。

 そして、幸せとは「内側のあり方」と言われるものの――、
 はたして「外側の要件」が特にない状態で、本当に内なる幸せを見いだせるのなのだろうか?…、と思えてしまう。

 でも、それは間違いなく感じ取れる。
 少なくとも、その発端をとらえることはできると言える。


 私たちはふだん、何にもないところから「恐れ」や「不安」を感じることは、しょっちゅうしている。
 目の前には起こってもいない、不確定な未来のものごとをあれこれと想定しては、とてもリアルな恐れや不安感を抱いている。

 そうして多くの人は内側の恐れや不安と共に生き、これこそが「現実に即した生き方」だと習慣的に思い込んでしまっている…。


 ところがそれとは反対に、目の前で起こってもいない「うれしいこと」を勝手に想定して、リアルな幸せを感じることは、普通あまりしない。
 そうすることに、抵抗感やばからしさを感じる人だって少なくないだろう。


 これは本筋から外れた方法かもしれないけど――
 「これがあれば自分は幸せを感じられる」という外側の条件付けが、この際ぜんぶ思い通りにかなって満たされた状態を、じっくりイメージしてみるとどうか。

 仕事が成功して十分な所得や財産があり、天職で才能を発揮して生き生きと活躍して、たくさんの人から敬意と称賛が寄せられている――
 親しい仲間たちに囲まれて、喜びを分かち合う理想のパートナーが一緒にいて、豊かな自然に抱かれた素敵な家や、あるいは眺望の見事なマンション最上階に暮らし、世界中の行ってみたい国々を自由に旅行して、おいしい料理を楽しんで、体が若々しくどんどん健康になっていって――と。

 さらにもっと、虚栄心まる出しの望みでも構わない。
 高級スポーツカー、自家用飛行機の操縦、有名人との交友、子供が名門校に進学などなど…


 謙虚さや慎ましさといった美徳は、この際は脇に置いておく。
 頭の中の理性的な部分が、それをどうやって実現するのかとか、可能性はないとか言ってくるけど、そういうのは微塵も考えない。
 そうして静かに集中しながら、「すでにそうなった現実」の中いる自分の様子や感覚を、できるだけリアルにじっくり想像してみる。


 すると、それが実現したときの「あぁ、うれしい」「もう大丈夫」「これでOKだ」という幸せ感が、ふっと心に浮かんだりする。

 イメージをやめて、内側だけをじっと感じてみても、幸せ感はそこにある。とてもリアルな感覚がよぎることもある。


 ここで大事なのは、実際には「外側の状況」のほうは、いっさい何も変わっていないということだ。
 ところがそれにもかかわらず、「幸せ」の感覚を内に感じることができる。

 確かに「呼び水」として、条件が満たされるイメージはしたけれど、それが方便の絵空事であることは、頭の中でちゃんと分かっている。
 「外側の状況」という裏付けは、そこには明らかに存在していない。

 つまり「幸せ」というのは、外側の世界とは直接的にかかわりない「独立したもの」として、私たちの内に最初から秘められていると言えるだろう。その事実を垣間見ることができる。


 これは、願望実現ためのイメージングや引き寄せとは違う。
 むしろそれとはまったく逆に、実現なんかしなくても、そのままでも「幸せ」を自分の内から掘り起こすことができるのだということに気づく、大きな一歩である。
 むなしい空想なんかではなく、画期的な勝利とも言っていい。


 内側の幸せに意識が向くようになると――、「条件付け」なんかとはまったくかかわりなく、日常的にその感覚がちらちらと表出してくることが分かる。

 たとえば、人の笑顔を見たとき、美しい青空を目にしたとき、おいしいものを味わったとき、お風呂につかったとき、息を大きく吸い込んだときに――。


 ところが、そのような小さな「幸せ感」がふっと浮かび上がるやいなや、ほぼ無意識にこんな反応が生じる。「まだ何の条件も満たしてないぞ」「そんなことで、うかうかしているな」と。
 そうして、わき上がる感覚にブレーキをかけ、打ち消してしまう…。

 幸せに生きることがじょうずな人というのは、このブレーキを作動させない人でもあるでしょう。
 そういう人はたくさんいるし、きっと例外なく誰でもなれるはずだ。


 こうした話は、ちょっとした気分の切り替えとか、発想法といったレベルのものではない。

 幸せを求めながら苦しみ続けてきた小さな自我に、「ほら、幸せは最初からこの内側にあるのですよ」と、実際に見せて感じさせて気付かせてあげることは、私たちの生の大きな目的の一つだと思うのです。

 魂がめざす宝は、その小さな幸せ感の下に埋まっているはずです――。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Monroe Institute「Sleeping Through the Rain」。

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 ある本に、「魂が人間の肉体をまとうことは、『養成ギブス』を付けるようなものだ」という表現があって、なるほど確かにそうかもなぁ…と思いました。

 一定世代の方には分かるだろうけど、養成ギブスとは、漫画「巨人の星」の主人公・星飛雄馬が少年時代に装着していた、あの見るからにすご味のあるトレーニング器具のことである。

 ふつうに身動きができないほどの強力なバネが腕や肩に張り巡らされ、そのギブスを身に付けた不自由な状態で日常生活を送ることによって、豪速球を投げる筋力が鍛えられるというものだ…。


 私たちのおおもとの魂は、まさしく際限なく自由な存在である。
 行きたいところへ瞬間的に飛んで行けたり、どんな相手ともテレパシーで交流できたり、飢えや苦痛を抱えることもない。

 そして、あらゆる存在がひとつであること、この宇宙が大いなる愛によって創造されていること、そして自らが永遠無限な存在であることを、忘れることなく知って感じている。

 それほど自由で幸せな魂が、制限のきつい「養成ギブス」を身に付けて物質界を生きるわけだから、これはとんでもなく大変なことだ…。


 どうしてそんなことをしているのかと言えば、やはり魂としての進化のためなのだろう。

 皆がバラバラに分離しているようにしか見えない世界の中で、はたして「隣人に愛を与える」ことができるのか?――
 必要なものが足りないとしか思えない状況において、「他者と分かち合う」ことが現に可能なのか?――
 色んなことが思い通りにならず、自分がみじめで恥ずかしくて卑小な者にしか感じられないときに、それでもなお「自分を愛する」ことができるのか?――

 そのような経験を通じて、自らの真の本質に気づいていくことができるのか?――

 これは、永遠無限の存在である魂でさえも(神でさえも)、実際に「体験」したことがないことなのだろう。


 もちろん、答えとなる自らの「在り方」というのは、魂自身は分かっているし、それは「絶対的に不変なもの」である。

 けれど、すべてを忘れた状態になって、その「絶対的に不変なもの」さえも「かなり不確かな選択肢の一つ」にしか見えないような状況で――、 本当にその通りの選択ができるのかどうかは、実際にやってみないことには分からない。

 その「どうなるのか、やってみないと分からない」ことをやってみる――。そこに、魂とって未体験で未知のシフトがあるのだろうと思います。

 そのシフトのために、わざわざ制限された物質世界をつくり出し、こうして「養成ギブス」を身に付けて奮闘中なのでしょう…。


 では、そうした観点から見て――、自らが永遠無限の存在であるという真実に気づいた「覚者」とは、どのような人なのかといえば…
 養成ギブスが何かの拍子に、ポロッと外れちゃった人だともいえる。

 すると腕は思うままに軽やかに動くし、色んな動作が素早く力強く自然にできる。
 それを見て、周りでギブスを付けたまま苦戦している人たちは驚嘆してしまう。「この人物は偉大だ!」「どうすれば自分も外すことができるのか?」といった具合に…


 覚者とは、「本来の私たちは、これほど自由なのですよ」という真実を伝える使命のために、そんな特別な出来事が身に起こった人なのでしょう。

 やがては誰もが、しかるべきタイミングに来たとき、同じように養成ギブスが外れていくのだろうと思う。

 そして、そのとき気づく。
 「鳥を閉じ込めていた鳥かごは、本当はなかった」と禅などで言われるように――、養成ギブスも、そもそも最初から付けていなかったのだと…。


 結びのヒーリング・ミュージックは、Dreamscape「I Hope U Feel Well」。

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 ダニオン・ブリンクリーの近著『死後の世界を知れば、人生が輝き始める』を読みました。

 ブリンクリー氏は、これまでの人生で落雷事故と心臓病と脳卒中によって3度も臨死体験をして生き返ったという、死後世界の「生き字引き」とも呼べるような人物である…。


 1度目と2度目の体験については、初の著書『未来からの生還』に記されていて、その内容をブログの過去記事「すべての他者は、私につながる」でも紹介しています。

 ブリンクリー氏は学生時代に殴り合いのけんかを6千回以上はしたという荒くれ者で、高校卒業後はベトナム戦争で暗殺の特殊任務に就き、敵側の政府役人や民間人を何人も殺した。
 肉親からも「お前は死んだら、間違いなく地獄に落ちる」と言われるような半生を送った。

 そして彼は25歳のときに、頭から雷に打たれて心肺が停止。病院で死亡が確認された。
 このとき彼の魂は、焼け焦げた身体を抜け出し、あの世へと旅立った。すると意外なことに、そこは地獄などではなく、まばゆい愛の輝きに満たされた壮麗な世界が広がっていた。

 ブリンクリー氏は光に包まれながら、自らの人生を回想させられた。その回想とは、自分のすべての行いを「相手の心」になって追体験するというものだった。
 非道を積み重ねた彼にとって、その回想は極めてつらいものだった――。


 彼は、遺体安置所に運び込まれる手前で突然息を吹き返し、奇跡的な回復を遂げる。
 退院後は生き方を一転させ、福祉施設でのボランティアに携わった。

 後に39歳のときに心臓まひで倒れ、2度目の臨死体験をする。
 そして再び天国の光に包まれながら、福祉施設で自分が手を差しのべた「相手の心」になって追体験をした。それは喜びがあふれ出る、華々しい体験だったという。


 こうした経験から彼は、「魂は永遠であり、死は存在しない」こと、「こんな自分でも天国に行けたのだから、地獄なんていうものは存在しない」ことを、講演などで断言していた。


 ところが――、
 今度は47歳のときにくも膜下出血で倒れ、生存率8%という困難な手術を受ける。
 その手術の最中に、3度目となる「あの世への旅」を体験する。

 彼にとってはもう慣れた道のりのはずだったが、天国へ向かう途中で、無数の魂がさまよう恐ろしく陰鬱な場所を目の当たりにする。
 その魂たちは肉体を持たず、天国にも昇らず、2つの世界の間に、無気力や否定性や失意を抱きながら、延々と留まり続けていた。
 そこはまさに「地獄」と呼んでいい場所だった…。


 この3度目の臨死体験の様子は『光の秘密―天国からのレッスン』という本に出ていて、その内容も過去記事の「ブルーグレーの場所」で紹介しています。


 で、前置きが長くなってしまったけど――、今回読んだ『死後の世界を知れば、人生が輝き始める』には、そのような天国の「仕組み」について、彼なりの解釈が述べられている。

 それは、「天国にはいくつかのレベルがある」というとらえ方だ。
 3度目の体験のときに見た地獄のような場所も、正確には「天国の下のレベル」にあたる。

 聖書には「7つの天国がある」と書かれている。ブリンクリー氏の考えがそれに一致するわけではないものの、構造的にはやや似ているかもしれない。


 彼は、最初の臨死体験で光り輝く天国に行ったとき、自分がいるところよりさらに上の場所にも、そして下の場所にも、多くの魂がいるのが分かったという。

 「上にいる魂は高い周波数を発していて、それを感じると、自分の振動も高まっていった。
 一方、下にいる魂たちの周波数はゆっくりで、見ているとこちらの振動も不快なくらい鈍くなっていった。そのため、あまりじっと見ていられなかったのだ」と振り返る。

 そうした感触から、「何となくぼんやりと、天国にはレベルがあるだろう」という認識は持っていたものの、3度目の臨死体験のときにそれが明確になったという。


 さらには、下のレベルで迷子になった魂が、いわゆる「憑依霊」として私たちの周りに現れてくることがあることも、この本では語られている。
(臨死体験と心霊現象は、どちらかというと「別分野」という印象があるけれど、この本はその辺りをちょっと踏み込んで語っていますね)

 さまよえる霊に対して大事なのは、除霊によって「取り払う」のではなく、敬意をもって心からの祈りをささげることだという。
 そうして「愛のエネルギー」を与えることが、魂を上へ上へと押し上げるのを助けるのだという。


 そんな内容を読んで僕が思ったのは、私たちの「内面世界」というのは、この「天国の仕組み」と同じなのではないか、ということだ。

 天国の下のレベルには、じっと見ていられないような振動数の低い魂がさまよっているのと同様に――、私たちの内面の奥にも、じっと向き合うのも耐えがたいほどの、振動数の低い何かが色々と存在している…。

 そして大事なのは、そうした内なる不快な存在を無視したり、強引に消し去ろうとするのではなく、愛のエネルギーをもって受容し、癒し、昇華させてあげることだろう。

 つまりある意味で、私たちは「小さな天国」であると言える。


 でも、単なるミニチュア版にとどまらない、もっともっとすごいところは――、
 あの世をさまよう魂は、そのままでは癒されることがない。何百年も昔の戦争で亡くなった兵士が、延々とそこに留まり続けているケースもあるという。
 そもそもあの世には、「変化」というものがないのだ。

 一方でこの世は、絶えず変化し続ける「無常」の世界である。
 私たちの内面の癒しは、時間がかかるように思えるけど、あの世とは比較にならないほどスピーディーなのだ。場合によってはほんの一瞬で癒しが起こることだってある。


 あの世では成し得ないほどの、まさに劇的な癒し、浄化、救済を内面にもたらすこと――
 これが「小さな天国」として地上世界に現された、私たちの機能と目的なのではないかと思います。

 そして、天国の上のレベルには、感じるだけでこちらの振動が高まるような魂がいるように――、私たちの内面にも、焦点を合わせるだけで波動が高まっていく、喜びや幸せが存在している。

 それを見いだすのも、「小さな天国」である私たちの役割でしょう!



 結びのヒーリング・ミュージックは、Deuter「The Source」。

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 「私たちはひとつである」「究極には愛しかない」「誰もが見守られ、導かれている」――

 そうした、スピリチュアルな教えが説くあまりに素晴らしい「真実」と、周りの世界に起こる何とも生々しい「現実」とを、どう折り合いを付けて生きていくのか?…
 これは、多くの人にとっての、実質的で最も大きな問題ともいえるでしょう。


 スピリチュアルな見方や技法を身に付けることで――、望むものをほしいままに引き寄せられたり、神秘的なシンクロが次々に起こったり、天使の羽がいつも舞い降りてきたり、マインドの雑音や不快な感情がきれいに消え去ったり、高次の存在が現れて苦しみから救済してくれたりしたならば、まったく何の問題もないだろうけれど…
 ふつう実際には、そうはいかない。

 あいかわらず目の前には厄介な出来事が起こり続けて、内面にも色んな感情エネルギーや思考パターンを抱えながら日常を生きていく――
 そのあり方は根底からは変わらないだろうし、こうした状況をわざわざ経験するために、私たちはこの世を生きているというふうにもいえる。


 僕自身が、スピリチュアルな歩みにおいて大切だと思うのは――、「目に見えない素晴らしい『真実』を100%信じながら、目の前の日常社会的な『現実』に100%向き合っていく」ことだ。

 これはまったく相反する考えではないし、現実の状況に我慢しながら無理に信じているわけでもない。そして、決して難しいことでもない。

 なぜなら、私たちは「丸い地球」の「平らな地面」の上を、こうして自然な感覚で生きている。それとある意味で似たようなものだと思うからだ。


 「地球は丸い」という真実を疑う人は、まずいないだろう。

 でも、自分で測量して証明したわけでもないし、実際に宇宙から地球を眺めて確認したわけでもない。
 教わったことをただ信じているだけなのだけど、「実はそれは嘘なのでは?」という疑念を持つことさえナンセンスなくらい、誰にとっても圧倒的な真実だ。

 ところがその「地球は丸い」という真実を、日ごろから体感しているかといえば…、むしろその逆だろう。
 私たちは大昔の人たちと同じように、あくまでも「平らな地面」という感覚で暮らしている。

 「丸い地球」の上に立っているならば、日本の位置だと、人は斜めに傾いて立っていることになる。南半球だと、頭を下のほうに向けて立っている。
 でも、そうした「真実」をイメージしたら、ふつうに立ったり歩いたりするのも変な感覚になってしまう…。


 さらに地面は、静止して動かざるものの象徴である。
 ところが真実は――、地球が回っていることくらい現代の誰もが知っている。

 地球が自転する速度は、赤道付近で時速1,700km(マッハ1.4)である。
 また地球は太陽の周りを1年かけて1周しているけど、そのスピードはさらに速くて、時速11万km(1時間でほぼ地球3周ぶん)に達する。

 さらにいえば、地球を含む太陽系は、銀河の渦の中を回転していて、それはもっと速い時速83万km。
 そして銀河全体も、宇宙の膨張によって猛スピードで動いており、その速さはまさにケタ違いの時速210万kmになる。

 これらをぜんぶ組み合わせると…、実際に自分が、地球ごとどちらの方向にどれだけ動いているのか、人間の頭ではとうてい感覚的にイメージすることができないだろう。


 地球の引力に引かれ、人間サイズで生きている私たちにとっては、あくまでも「平らなで動かない地面」という現実感覚に根差して暮らすほうが、明らかに自然である。

 でもこの「平らで動かない地面」というのは、決して誤った幻想なんかではない。
 丸い地球という「真実」の一部にほかならない。


 かくして私たちは、丸い地球という「真実」を疑いなく100%信じながらも――、見るからに平らな地上の「現実」に、まさに100%地に足を付けて生きている。
 それをごく自然なこととして、私たちはやっている。

 スピリチュアルの「真実」と、目の前の「現実」の関係も、それに近いものだろうと思うのです。


 大自然の中で、息を飲むほどの星空を眺めた経験は、多くの人があるだろう。
 地上の世界とは違う、荘厳な天上界の姿を目にしているようだ。

 でも、その星空の向こう側からこっちを眺めたら、こちら側も息を飲むほどの星空に違いない。
 さらにもし、惑星の一つひとつまで見ることのできる望遠鏡で眺めたならば、きっと地球は格別に美しく映るだろう。

 地上で繰り広げられている人々のみにくい行いなども、すべて凌駕してしまうほどの美しさだと思う。


 さらにもし、私たちの「内面の痛みや苦しみ」までも、遥か遠くの星々から感知することができたならば――、きっとそれを見つめる存在は、こう思うだろう。
 「その小さな痛みや苦しみを、包んで癒してあげればいいのに。それをまったく難なくできるくらい、あなたがたは美しく、荘厳な存在の一部であるのに。それに早く気付けばいいのに」…

 これも「気休め」のイメージでは決してなく、「真実」として100%信じていることです。



結びのヒーリング・ミュージックは、Patrick Kelly「Spring」。

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 スピリチュアル分野周辺でにわかに注目される映画って、ありますよね。
 数年前だと、世界を操る影の支配システムを暴露するドキュメンタリー『スライブ』や、「真の自分の探求」を神話の冒険物語になぞらえた『ファインディング・ジョー』などがそうだ。

 で、最近特によく話題に上がっているのが――、1996年作のフランスのコメディー映画『美しき緑の星』だろう。

 僕自身も、ここのコメント欄で教えてもらったのをはじめ、スピリチュアル関連のブログやフェイスブックなどでちょくちょく紹介されているのを目にして、とても興味を持って動画サイトにあるものを見てみたのだけど――、
 うまく作られた面白い内容だし、20年近くも前にこんな「ど真ん中ストレート」なテーマをよく描いたものだなと感心してしまう…。


 この物語の主人公は、地球から離れた小さな惑星に暮らす異星人だ。
 彼らは、産業化された文明や貨幣経済をすでに何千年も前に卒業し、今では豊かな自然と調和しながら、皆で収穫物などを分かち合いながら幸せに暮らしている。

 有名な『神との対話』の本の3巻目に、地球外にいる「高度に進化した存在(HEB)」という話が出てくるけど、まさにそのような人々だ。
 ファンタジー物語『アミ 小さな宇宙人』に登場する「オフィル星」にも似ている。その主人公のアミは「宇宙の基本法とは『愛』であり、地球はまだまだ未開の星だ」と語っているけど――、「美しき緑の星」の映画も、まさしくそのような図式である。

 だから、アミの物語が好きという人は、きっとこの映画も気に入ると思いますね。


 せっかくだから映画のあらすじを説明すると――
 その小さな惑星に暮らす人々が、山の上で集会を開いているところから話が始まる。

 集会では、ほかの惑星への派遣について話し合われる。
 司会の長老が「ナボ星に行きたい人!」と呼びかけると、大勢がいっせいに手を上げる。「クリスト星への希望者は!」と言うと、これもまたたくさんの人たちが我先にと名乗りを上げる。

 ところが、「では、地球へ行きたい人は」と尋ねると、皆が急にうつむて、シーンとなってしまう。

 ある者は思わず口にする。「ほっときましょう」。
 長老は困って言う。「しかし、もう200年間も無派遣だよ」。
 すると別の者があきらめるように、「無駄さ。ほかの星ならまだしも、地球は論外だ」とこぼす。
 集まった人々はそれに賛同する。「まったくだよ。圧政、不平等、差別、独占、飢餓。ひどいところさ。しかも貨幣経済だし」――

 そんな行き詰まった雰囲気の中、ミラという一人の女性が手を上げる。「あの、わたし行ってもいいわよ!」


 「高度に進化した宇宙人が、遅れた地球にやって来る」という設定は、「アミ」がまさしくそうだし、トミー・リー・ジョーンズが演じる缶コーヒーのCMだってそうだし、SFのもはや定番と言っていいだろう。

 でも、そんなお決まりパターンでありながらも、この「美しき緑の星」が他にない異彩を放っている理由が――
 地球にやって来たミラが、さまざまな人々のいわゆる「意識の目覚め」を誘引していく、という展開にある。


 これは映画のかなり「要点」になってしまうけれど…、でも要点を知ってから見ても魅力が損なわれることはないだろうから、ちょっと踏み込んで紹介しますね(余計な情報はいらないという人は、読み飛ばしてください…)。

 地球についての情報不足なままパリの中心街に降り立った異星人のミラは、何か疑問を抱くたびに、目の前にいる忙しそうな人たちを呼び止めては質問をする――
 「ここは何という街ですか?」「この四角い紙がお金というものですか?」「きれいな水はどこで飲めますか?」…

 尋ねられた人たちは皆、「あんたは病気か」「付き合ってられん」と、怒りながら立ち去ってしまう。
 ところが、そうしてミラに接した人は、しばらくするとはたと何か大切なことに気付く。自分がそれまで当たり前と思っていたことが全く違って見えたり、そのへんの街路樹の美しさに魅了されてしまったりと…。

 さらにミラは、頭の固い役人などに追い詰められてピンチに陥ったとき、「切断」と呼ばれる裏技を繰り出す。
 これにかかると、人間は突然雷に打たれたようになり、世の常識、社会システム、思考活動などからいっさい切り離されてしまう。
 そして、完全にありのままの「素の自分」になってしまう…。

 中世の聖者のフランチェスコを描いた『ブラザー・サン シスター・ムーン』という映画で、豪商の家に育った青年のフランチェスコがあるとき突然、この世界のすべてが神の愛に満たされていることを悟り、至福に包まれて恍惚となるシーンがあるのだけど――、ちょうどそのような感じ。


 「切断」された人の中には、街行く人々や、木や地面に向かって、ただただ「ありがとう、ごめんなさい」と唱えはじめる人もいる。
 これ、20年前の映画ですよ…。

 人々の「意識の目覚め」という、ある意味でスピリチュアルの最も中心的テーマに、これほどまっすぐに切り込みながらも、作風そのものはハチャメチャなコメディーである。
 この点は、冒頭に挙げた大真面目な『スライブ』や『ファインディング・ジョー』とはかなり異なる。

 そして終わりに近づくほど、羽目を外すようにハチャメチャの度合いが増していき、やがて人によっては、「こんなくだらない低級コメディーなんか見てられない」という感じになっていく…。


 でも実は、この映画のメッセージ性があまりにも濃くて本質的であるために、ちょっとでも引いてしまう人を振い落そうという意図で、わざとこのような作りになっているのでは――、なんてふうにも勘ぐってしまう。

 その「隠された意図」の通りと言うべきか…、映画が作られた当時は、ほぼすべての人に見向きされないまま、お蔵入りになってしまった。


 僕がこの映画でとくに面白く感じたのは、冒頭の集会シーンでの台詞だ。
 地球に200年前に派遣されたことがある男が(この星はものすごく長寿なのだ)、自らが目にした当時の地球の状況をこんなふうに振り返っている――

 「パリという街に革命が起こって、共和制に移行したんだ。でも、すぐにおかしくなって、皇帝が即位した。戦争で多くの人が死んだよ。皇帝の命令でそうなったんだ。本当にどんどんひどくなっていったね。それでもう仕方なく、逃げて帰ってきたというわけさ」


 この200年前のパリというのは、『レ・ミゼラブル』の舞台として描かれている時代である。
 まさに政治も、社会も、人々の心も、どうしようもなくすさんでしまっていた…。

 でも、異星人が逃げて帰るほどの悲劇的状況にあった中でも――
 レ・ミゼラブルの主人公ジャン・バルジャンが修道院から銀食器を盗み出して捕えられたときに、「その食器は私がこの人に差し上げたものです」とかばってくれる司教がいたという、そんな時代でもある。

 そしてジャン・バルジャンは、受けた愛に応えるため、他者を救うために果敢に生き続け、さらには自分を追い詰めよとする宿敵のシャベール警部の命をも救う――


 救いようのないほどすさんだ時代でも、「無償の愛」や「希望」が人から人へと細々と受け継がれ(さらには後にもっと悲惨な戦争を幾度も経験しながら)、何とかここまで至ったことを考えると――、人類の歩みも決して捨てたものではないと思える。

 そして今、こうした「美しき緑の星」という映画がシェアされることも、ひとつの時代の進展かなと思います。


 映画を作ったコリーヌ・セロー監督のインタビューがネット上にあったので、以下に引用します。

 「世の中の仕組みを根底から問い直すクレイジーな映画を撮ってみたいと思いました。そして長い時間をかけて考証を行ったのです。アイデアを書き留めたノートが何冊にもなりました。
 完成した台本を見た人たちの反応は実にさまざまでした。プロデューサーは『本当にこの映画を撮るつもりなのか?』と言うので、私は熱を込めて『もちろん』と答えました。

 かくして映画は封切られたのですが、完全な失敗でした…。誰も興味を示さなかったのです。客が入らず、批評家からは酷評されました。業界にとって、この作品は理解不能なUFOだったといえます。
 しかし、この映画は死にませんでした。逆境にもかかわらず『美しき緑の星』は生き残り、生き物のように成長し、人の話題となったのです。この映画が必要とされているからでした。一緒に映画を見て語り合うサイトが、いくつもネット上に見られるようになりました。

 私は早すぎたのでしょうか? この映画のように、価値観を根底から問い直すことで世の中を変えることが必要な、ぎりぎりのところにいま私たちは来ているのかもしれません」


 結びのヒーリング・ミュージックは、Painted Water「Ilana's Mansion」。

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 先日、東京の晴海埠頭に、客船の出航の見送りに行ってきました。
 駅や空港の見送りは何度かあるけど、船を見送るのは初めての経験で、これはなかなか感慨深いものですね。

 世界的な豪華客船には及ばないものの、かなり立派な船で、停泊中に船内を見て回らせてもらったのだけど、まるで大きなホテルの建物にいるようにしか思えない。
 この大きな全体が動いていくなんて、感覚的にちょっと信じられないくらいである。


 で、いよいよ出航のとき、船員が銅鑼をゴワーン、ゴワーンと、あわただしい音で打ち鳴らす。
 何百人もの乗客がデッキに出てきて、こちら側の桟橋で見送る人たちを眺める。

 陸と船をつないでいたタラップが離され、乗船の扉が閉じられる――。これで陸と船とは、行き来のできない、いわば「別世界」となったわけだ。

 船を係留していた何本もの太いロープが取り外される。
 やがて船がブォォー、ブォォーと汽笛を繰り返しとどろかせながら動きはじめると、乗客たちから一斉にたくさんの紙テープが投げられる。
 この日は天気がとても良くて、色とりどりのテープの筋が、まるで鮮やかな光芒のようだった。

 船はゆっくり岸を離れ、そしてみるみる港から離れていく。

 目も前にあったときは、とても巨大な「別世界」のように思えたのに、遠くから眺めると、今度は逆に不思議なほど小さく見える。

 海の広さから比べると、本当に取るに足らない点のようになっていく…。


 旅の無事を祈る船出のときに、縁起でもないと言われそうだけど…
 どんどん遠くなっていく船を眺めながら、ふと「死の瞬間って、こんな感覚なのかな」なんてふうに思えた。

 肉体から離れて遠ざかるにつれて、生きているときには「これがすべて」と信じていた現実世界が、だんだん小さなものに見えてくる。
 そしてそれが、無限に広がる輝かしい次元の中にある、驚くほどちっぽけな一部に過ぎなかったことに気付かされる――

 …という感じなのかもしれないです。


 かなり以前に見たものだけど、ネット書店のスピリチュアル本のコメント欄に、「他界した父親が、こんな不思議なことを最期に言い遺した」という書き込みがあった。
 当時「へーっ」と思って、コピーして取っておいたので、ちょっと紹介します。

 「今までお前たちをがんじがらめにして本当に申し訳なかった。人はみんな力を持っているから自由にした方が良い、楽しまなくてはいけない。すっかり悟りを開いた。業が消えた。行く道は決まった。何も心配いらない。
 とてつもなく広く美しく、言葉では言い表せない素晴らしいところだ。人間界は小さい、小さい――。どんな人間もみんな頑張っている。消えていい人間なんて一人もいない。諭して許すことだ。
 人間界の現実、金、欲望、そんなものはどうでもよいこと。本当に大切なものはただひとつ、愛だぞ」


 ちなみにこのお父さんは、とても怖くて厳しい性格で、宗教には無関心で、「愛」という言葉を口にすることなんかあり得ない人だったそうだ…。

 現実世界から離れ、その小さな全容を眺めるときに、そのような真実が見えるのでしょうね。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Jonn Serrie「Amazing Grace」。

  ☞ コメント:30

 


 以前にも一度だけ書いたことのある、「寄付」の話題です。

 こういうのは本来(とくに日本社会の場合)、人知れず「陰徳」として行うものであって、あからさまに言うことではないのだろうけど――、ちょっとまた「ブログのネタ」として書いてみますね。


 僕は、中南米の最貧国のひとつである、エルサルバドルに住む男の子の生活支援をしている。

 といっても、実にささやかなもので…
 月々5千円を国際NGO(非政府組織)に振り込み、それがその子供が暮らす地域の教育・医療などの支援活動に役立てられる、というものだ。
 そして子供の家族から近況の手紙や、成長記録などが定期的に送られてくる。

 この寄付を始めてから、あれこれ11年になる。


 実は4年前に会社を辞める際に、自分自身も収入がなくなるわけだから、寄付を続けるのをやめようかとも考えたのだけど…(年間6万円というのは、そこそこの額ですしね)
 でも、家計がすぐに困窮するわけではないし、支出の中で唯一の「篤志」と呼べる部分なのだから、これを切り詰めるのはまだ後にしようと、何とか思いとどまって今日に至っている。


 で、先日、そのエルサルバドルの男の子から手紙が届いた。

 参考までに並べると、写真の左側が寄付を始めた5歳のときで、右がつい最近の姿だ。

 男の子は16歳になり、中学校を出て今はもう働いているのだという。

 小さかった男の子が、親よりも大きく成長し、そして家族を支える力なっているなんて――
 地球の反対側に暮らすこの子の成長の、わずかながらも一助になれていると思うと、本当に感慨深い気持ちですね。


 でも、この年齢ですぐ働かなくてはならないのは(現地では当たり前かもしれないけど)、やはりそれだけ暮らしが厳しいということだろう。
 また悲しいことに、4人いた兄弟の一人が、昨年亡くなったそうだ。理由は書かれていないけど、早すぎる死は、やはり貧しさとかかわりがあるのかもしれない…。

 現実というのは、本当に、手放しには喜べないものだ。
 それでも、男の子の着実な成長と、頼もしそうな笑顔は、「この世界は十分に素敵なものだよ」と伝えてくれているような気がする――。


 例えばフリーエネルギーのような、尽きることのない富が世の中にもたらされたのなら、世界の問題は解決するだろうか?…

 貧困や飢餓は、当面は克服できるかもしれない。
 でもおそらく、「多くの富を集中的に手にしたい」「富の流れを牛耳ろう」とする人々の思惑や動きは、そのままでは止むことがないはずだ。

 そうした思いが引き起こす流れによって、再び富がかたよる状況が生じ、やがて不満や対立や争いが起こってくるに違いないと思う。
 経済水準や技術力が高まったぶん、紛争がより苛烈になる可能性だってある。

 けっきょくのところ、世界の「富の規模」がどれほど拡大しても、問題解決にはあまりならないだろう…。


 それよりもっと大事なのは、限られた規模の富であっても、それを「分かち合う」という人々の気持ちのほうだと思う。

 富の「引き寄せ」は、必ずしも簡単なことではない。
 でも「分かち合い」は、たいてい誰でもできる。

 魂がこの地上世界でやってみたいのは、実は「無限の富の創造」という離れわざではなくて、誰でも可能な「限られたものを分かち合うこと」のほうではないかな…。


 未来学者のリチャード・バックミンスター・フラーによると――、人類は1970年代の時点ですでに、「誰もが健康で快適な生活ができる十分以上のレベル」の経済力を手にしているのだという。

 問題は、その十分以上の経済力があまりに極端に遍在していて、分かち合われていないことにある。
 それは突き詰めつと、経済や国際情勢の問題というより、まさに私たちの「気持ちの問題」なのだといえる。


 もちろん、寄付というのは「分かち合い」の一形態にすぎないから――、その人その人の考え方によって、本当に色んな「分かち合い」のやり方があると思います!



 結びのヒーリング・ミュージックは、Kevin Kendle「Stars」。

  ☞ コメント:28

 


 このブログをスタートしてから、今月で4年目に入ります!

 始めた当初は自分でも「数カ月でネタ切れするに違いない」と思っていたものの…、
 結果として振り返ってみると、けっこう続けていけるものですね。


 ブログ内にボタンが付いているように、「ブログのランキング」にいくつか参加していて、その順位もだいたい「定位置」にいるようになった。

 ランキングに参加しているのは、「ブログ内容に縁のある人にとっての『入り口』になれば」という意図からなのだけど、入り口として十分な位置にいることができていると思います。
 ボタンを押してくださっている方々、いつもありがとうございます!


 スピリチュアル分野のブログの中で、このブログがやや「異色」かなと思えるのは――、僕自身がいわゆる覚醒体験をしていたり、見えない何かの存在とのチャネリングができるわけではない、ということだ。

 だから、特別な「メッセージ」と呼べるものを書いているのでは全然なくて…、
 「同じ興味を持つ人たちとシェアしたい」と思うことがらを、まさにブログのタイトルに通り「ノート」のように綴っている感じである。


 毎回の記事のネタみたいなものは、インスピレーションとしてフワッと内にわき上がってくることもある。
 またふつうの思考活動として思い付くこともあるし、誰かとの会話や、読んだ本などから気づきを得ることも多い。

 そうしたことも全部含めてチャネリングなのだと言えなくもないけれど(きっと真実はそうだろうけど)…、でも「普段の日常的な出来事」と呼ぶほうが素直でしょうね。


 そうした個人的な出来事の話題を、もの好きにもわざわざ文章に書き出した上で、その書いた「ノート」を周りの人たちにも回し読みしてもらっている――というのが、このブログの性質といえる。


 比喩としての当てはまりがあまり良くないけれど、人々の意識がシフトしていく時代を「革命」にたとえるならば…
 スピリチュアルなメッセンジャーというのは、新しい世のビジョンを伝えて大勢を導く、リーダーの活動家のような存在でしょう。

 他方で、このブログの書き手としての僕自身はというと――
 「レ・ミゼラブル」の物語の後半場面に出てくる、民衆蜂起のバリケードの前面に立つ小生意気な少年のような…、まぁ、せいぜいそんなふうな立場かなと思います。

 もちろん指導者ではなく、あまり戦力でもないものの、新しい時代を渇望して踏み出していく人たちの「真っただ中にいる当事者の一員」である。


 これからも、「真っただ中にいる当事者の一員」としての目線から、読み物としても楽しめるブログを書いていきたいなと思っています!



 結びのヒーリング・ミュージックは、Llewellyn「Reiki Sleep」。

  ☞ コメント:35

 


プロフィル

Koudai Mitsuna

Author:Koudai Mitsuna
 
光奈 広大(みつな・こうだい)

 20年のあまりのサラリーマン生活を経て、いわゆる「ザ・マネーゲーム」を何とか卒業。今では束縛されない自由な日々を存分に味わっています!

 そうした中で心がけているのは、普通の日常的な行いを通じて、意識の進化を目指す「カルマ・ヨガ」。

 日々の喜びや学び、インスピレーションから得たスピリチュアルな気付きなどをブログで紹介しています。

 妻子と都内在住――。

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