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 伊豆諸島の「八丈島」は、日本に数ある離島の中でも、かなり有名なところでしょう。僕も一度、家族旅行で訪れたことがあります。
 東京都心からは名古屋と同じくらい離れているのだけど、羽田空港から50分で着くし、住所も東京都なので島を走る車は「品川」ナンバーだ。

 島は、「八丈富士」と「三原山」の2つの火山が連なってできていて、全体がちょうど「ひょうたん島」の格好をしている。

 その2つの山は、上の写真を見て少し分かるかもしれないけど、同じ島でありながら、自然の様相がかなり異なっている――。

 「三原山」のほうは、ジャングルのような鬱蒼とした森林が生い茂り、深い渓谷がいくつも複雑に刻まれ、沢には水がザーザー流れている。
 山の中には大きな滝や、湿地帯もある。

 一方の「八丈富士」のほうは、その名の通りきれいな円錐形をしていて、高い木は生えておらず、なめらかな山肌には水の流れる川は存在しない。
 眺望は広々とした牧場のようで素敵だけど、水資源が非常に乏しいだけに、人や生き物が暮らすには大変だろうと思う…。

 どうしてそんな違いがあるのかというと、2つの山は「古さ」がまったく異なるからだ。

 三原山ができたのは「10万年前」で、八丈富士のほうは「1万年前」。
 1万年前でも相当な昔のように思えるけど、山としては新しいものだそうだ。

 日本の山といえば、森があって谷に水が流れているのが当たり前に思えるけど――、
 そこに風雨によって谷や川が作られ、山肌を覆う木々が生い茂り、豊かな水をたたえる地になるまでには、1万年ではぜんぜん足りなくて、何万年もの「年期」を重ねる必要があるわけだ。


 で、八丈島はそのような「古さの違う2つの山」でできているわけだけど――、
 私たち人間の身体にも、それと似たような構造を見いだすことができる。

 そのひとつが、「脚」と「腕」の骨格だ。

 まず下半身の「脚」については、人間が直立二足歩行を始めたおよそ「500万年前」に、こうした形になった。
 これもとてつもない太古の昔としか思えないけれど、生命の歴史や進化の尺度では、「まだ間もないこと」と言える。


 リリース間もない新製品には、色んな不具合が付きものであるように――、直立二足歩行の構造もまだまだ完全なものではない。

 たとえば、過去記事でも書いたことがあるけど、僕は朝のランニングをするようになって膝が痛むようになった。
 一般に「ランナーズ・ニー」と呼ばれる、「腸脛靭帯摩擦症候群」というものだ。

 これは、走るときに脚を曲げ伸ばしするたびに、ももの靭帯が骨のでっぱりにこすれて炎症を起こす、というメカニズム。
 ふつうに走っているだけで症状を引き起こしてしまう、まさしく「構造上の不具合」であるわけだ…。

 本当に人間だからまだいいものの、もしチーターとかインパラとかだったら「命にかかわる欠陥」といえる。
 開発したメーカーに、苦情の電話の一本でも入れたいくらいだ。


 ほかに「腰痛」や「立ちくらみ」なども、二足歩行ゆえの弊害の部分である。

 そしてその最大級のものが、「産みの苦しみ」だろう。
 安産祈願で有名な東京・水天宮には犬の像が置かれているように、四足歩行の動物は、人間に比べ格段にお産が軽い。

 人間のお産は母親にとってもちろん大変なことだし、生まれてくる赤ちゃんのほうも、狭い産道をくぐり抜けることによる「バース・トラウマ」なんてものを抱えることになったわけだ…。


 一方、上半身の「腕」の骨格のほうは、歴史がもっともっと古い。
 その構造は、霊長類が樹上生活に適応した「5000万年以上前」に作られたものだ。

 脚にくらべ、10倍以上もの年期の差があるわけで、「リリース間もない新製品」と「改良を尽くした定番製品」くらいの完成度の違いと言っていいかもしれない。


 で、その腕の骨格というのは、実はかなり複雑な作りになっている。

 ここでひとつ質問だけど、腕の骨は、どこで胴体とつながっているでしょうか?――


 ふつうに考えれば、腕の付け根である肩のあたりだと思うでしょう。

 答えは…
 腕の骨はまず肩のところで「肩甲骨」につながっている。
 ところがその肩甲骨は、胴体には直接つながっていない。

 肩甲骨は「鎖骨」につながっていて、その鎖骨が、図の赤丸のところで、胴体の骨につながっている。

 つまり、腕の骨が胴体につながっている場所というのは、なんと「首の下あたり」ということだ。


 意外に思えるし、どうしてそんなややこしい構造をしているのかと言うと、それによって腕の「可動域」が格段に広がるからだ。

 たとえば、腕が胴体に直接つながった構造のこの有名なロボットの場合――、映画を見て分かる通り、腕を高く上げることができない。
 せいぜい肩から下の範囲で、小刻みに手振りをする程度だ。
 もちろん彼に樹上生活など、とても不可能である…。


 他方、樹上で生きる霊長類の流れをくむ、私たちの腕はというと――
 その骨格の動きを、わざわざCGで描いた動画がありました。
 この複雑な構造によって、どれだけ広い範囲の動きが可能であるのかが一目瞭然です!



 いつも何も思わずに動かしているけど、心底から感心させられるくらい、本当によく出来ていますよね…。


 今回はちょっと極端な見方で、もちろん人間の脚だってものすごく精巧な作りになっていることに違いはない。

 ただ、足腰に見られる「構造的な不具合」のようなものは、肩や腕の場合はほとんどないですよね(「肩こり」や「四十肩」は姿勢や運動不足の問題だし…)

 そうした完成度が、「歴史の差」の現れなのかな、とも感じます。


 そして最後にもう一つ、年期の違う古いものと新しいものが「ひょうたん島」的につながってできているのが――、

 ほかならぬ、私たちの「脳」である。


 私たちの脳は、その中核に脳幹がある。
 「爬虫類脳」ともいわれる、原初の脳の部分で、ここは生命の維持や、危険をとっさに避けるなどの反射行動を担っている。

 脳幹のまわりの中間部分は、大脳辺縁系というのが覆っていて、これは「哺乳類脳」とも呼ばれる。
 この部分は、本能や感情をつかさどっている。

 そして最も外側にある大脳新皮質は「人間脳」といい、理性や論理的思考を動かしている部分だ。


 私たち人間の脳は、進化に伴ってどんどん大型化・高度化してきたわけだけど――、
 それは原初の脳から次々に外側に付け足していく形で、「増築」されていったと言えるわけだ。


 で、爬虫類脳には実に「2億年以上」もの歴史があり、かたや人間脳が大きくなったのは「250万年前」である。
 キャリアとして実に100倍もの開きがあるわけだ。

 生物学的に適切な解釈ではないかもしれないけど…、人間脳というのはものすごく高度なものの、ソフトウェアで言えばまだ「実地テスト中のβ版」くらいの状況なのかもしれないです。
 頭の中が思考の雑音でうるさかったり、止まらず暴走してしまうのも、分かるような気がする…。


 もちろん、それぞれの脳は役割が違うし、爬虫類脳で言葉をしゃべったり思考活動することはできない。
 ただ、突然ひらめくインスピレーションや、直感的な判断は、実は爬虫類脳から来るものだともよく言われる。

 そうした直感が浮かんでも、人間脳で理性的にあれこれと考え込んだ結果、直感とは違う選択をすることは誰でも普通よくあるだろう。


 どちらの判断が正解とまでは当然いえないものの――
 私たちは「爬虫類脳」と「人間脳」が連なった構造の頭で世界をとらえ、判断しているということ、そして爬虫類脳のほうは人間脳の100倍もの歴史があること――

 そのあたりをふまえて、「直感」をもっと尊重して信じてみるのもいいかもしれないですね!



 結びのヒーリング・ミュージックは、Dreamscape「I Hope U Feel Well」。

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 熱した鉄を水の中に入れると、その熱は水を温め(鉄は冷えて)、やがて鉄と水とは同じ温度になります。

 また、たとえば「気圧の異なる部屋」が隣り合わせにあって、その間をつなぐ扉を開いたならば――、
 空気が気圧の高いほうから低いほうへと流れていき、両方の部屋の気圧は同じになります。

 自然界にはそのような、不均衡な状態を解消して「平衡」させるという、法則の力が働いている。


 では、もっと大きい地球のスケールで見てみると、どうだろうか――

 地球の大気には、天気図にも見られるように、「高気圧」と「低気圧」の状態がある。
 やがてその気圧差が解消されて、地球全体の気圧がどこも均一になるのかといえば…、そんなことはない。

 平衡するどころか、高気圧や低気圧は、絶えることなく生まれ続けている。


 どうしてそうなるのかと言うと、「太陽エネルギー」が常に降り注いでいるからだ。

 太陽の熱が、地表の空気を温めて上昇気流を生み、空気が上昇したところの気圧は低くなる。
 低くなったところには、周りからの空気が風となって吹き込む。

 上昇気流の中では、空気が上空で冷やされて水滴を生じ、それが雲となって雨を降らせる。
 ――これが、風雨の起こる仕組みである。


 面白いのは、太陽の光を覆い尽くししまう雨雲も、青空の対極ともいえる嵐も、すべては「太陽エネルギー」が生じさせているということだ。

 それによって地上に多くの水がもたらされ、木々が育ち、生き物が養われ、渓谷が削られ――、この地上に雄大な景色と命のいとなみが展開されている。


 地上の法則では、ものごとは安定した「平衡状態」になろうとする。
 その性質を超えて、高気圧と低気圧、晴天と雨天という対極が絶えず循環する「無常」を生じさせ、その変化による創造・進化を可能にしているのが――、地上に降り注ぐ「太陽エネルギー」と言えるだろう。


 古いインドの神話では、宇宙の始まりには「オーム(OM)」という聖なる原初の音があり、その波動が広がってこの宇宙のすべて――あらゆる物質や、ものごとや、思考など――を生じたのだとされる。

 また最近のスピリチュアルな教えでも、宇宙の根源には「大いなる愛」が唯一の存在としてあり、この世界のすべてが「愛」を源に生じているとよく説かれる。

 とはいえ…、周りの状況を見渡しても、「これの一体どこが愛の現れなのだ?」と思えてしまう。


 でも、「太陽エネルギー」が雲や雨や嵐を生じさせているように――、
 根源の「愛のエネルギー」がこの地上世界に降り注ぐことによって、その愛自体をも覆い隠してしまう「愛以外のもの」を生じさせているのだといえる。

 そして、その降り注ぎ続けるエネルギーが――、争いと平和、悲しみと喜び、成功と失敗、出会いと別れ、生と死といった、対極が絶えず循環する「無常」をもたらし続けているわけだ。


 愛のエネルギーは絶対的に「不変」なものである。
 でもその不変のものが、「無常」の変化を生み出している。
 それは何のためか?――

 太陽エネルギー自体には、何の姿形もない。
 でもそれが地球上に作用して変化を生じることによって、エネルギーの働きが多様な命のいとなみや雄大な景色という形をとって現われる。

 愛のエネルギーも、それそのものに実体はない。
 それが地上世界に作用して変化を生じることによって初めて、「思い」や「行為」という形をとって現われることができるのだろう。


 そういうふうな観点で世界を眺めていると――
 色んな出来事が身の回りに起こる中でも、「あぁ、これも実は、愛のエネルギーを源にもたらされているのだな…」と受け止めることができたりもします。

 そのうえで、自らの選択を決めることもできます。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Oöphoi & Louisa John-Krol「A Vessel for Michael」。

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 聖書のよく知られる一節に、「持っている人は与えられて、ますます豊かになる」というのがあります。

 これはもちろん、愛や信仰についての例えだけれど、現実社会の「お金」についても、そのような傾向があることは確かでしょう…。


 イタリアの経済学者のパレートが唱えた説によると、「世界人口の20%の人々が、世界の富の80%を所有している」のだそうだ。

 近年の富の偏在はもっと著しくて、ある国際支援団体の試算では、なんと「世界のわずか1%の富裕層が、世界の富の半分を所有している」ことになるという…。


 こうした不平等や偏在は、資本主義や市場経済の弊害的な側面であろう。

 以前にブログで紹介した映画『美しき緑の星』で、共存共生の文明を持つ進化した宇宙人が、「地球はまだ貨幣経済なのか!」とあきれるシーンがあるけど――、そうした未来的な観点からすれば、お金というのは「未開文明の象徴」であるわけだ。


 やがていつか地球でも、貨幣経済は役割を終えていくのだろうと、僕も思っている。
 ただ、不平等や偏在などお金にかかわる問題というのは、「お金そのものの性質」というわけでは必ずしもないといえる。

 もしお金が言葉をしゃべれて、それに向かって「お前は何者なのだ。人の欲望をかき立て、深刻な問題をたくさん生み出すひどい存在だ」と問うたとすれば…、
 たぶんお金は、「私は何者でもありません。人々の意志のとおり忠実に、一銭の間違いもなく流れているだけです」と答えることだろうと思う。


 お金にはもちろん、ほかのどんなものにない、優れた特質はある。
 たとえば、貧困からの救済支援や、被災者への義援金などは、「現地に直接行かないと力になれない」というのでは、何もできなくて困ってしまう。
 銀行の振り込みによって、誰もがその一助を担うことができるのは、やはり「お金のおかげ」である。


 また、一部の人々だけに集中してしまうというお金の流動性は、ひっくり返せば、「世界中に分配して届けやすい」という性質を備えていることも意味する。

 お金を分配するといっても、「誰もが全財産を手放して喜捨する」といった極端な話ではない。
 ときどきブログに書いているけど、先進各国の「防衛費」の総額は、世界の貧困問題を「すぐにでも解決できる規模」に相当するそうだ。
 その一部を充てるだけで、本当に「世界が変わる」ような状況が実現できてしてしまう。

 ましてや、世界の富の半分を所有する1%の人が、さらに世界の富の80%を所有する20%の人々が、その一部を困っている人々を助けるために分かち合ったならば――、まさしく「ニュー・アース」と呼べるほどの状況になっていくはずである。

 それは、人々の意識の持ち方によって十分可能な「すぐそこにある未来」の話だ。
 そして、お金以外の方法よりも、「お金を使って問題解決にあたる」ほうが、圧倒的に効率が良いであろう。


 スピリチュアル分野で「貨幣経済の終焉」というと――
 アセンションや高次元の力によって、お金のいらない世の中が実現したり――、世界規模の金融破綻によって、お金が価値を失ってしまうといった話はときどきされる。

 でも一方、もちろん過渡期のやり方であるけれど――、いわば「貨幣経済を使って貨幣経済を超えていく」というシナリオも、人類がお金に関して取り組んでいく一つの道なのではないかなと思います。


 ある修行系の覚者が、サットサン(探求の集い)の場で、「われわれはマインドを使ってマインドを超えていく」と語っていて、それはとても面白い説明だなと感じる。
 マインドやエゴというと、スピリチュアルな歩みの妨げとしてよく敵視されるけど…、でも実はそれこそがプロセスであり、さらには「それ自体を超えるためのツール」でもあるとも言えるわけだ。

 お金についても、関係性についても、感情についても――、「それによって、それを超えていく」という道筋も、ありなのではないかなと思います。


 結びのヒーリング・ミュージックは、Llewellyn「The Healing Pool」。

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 前回記事からのつづきで、僕が好きな言葉をツイッターで紹介している中から、特にリツイートやお気に入り登録が多かったものをランキングにしてみました。
 今回は5位から1位まで。

 その前にちょっと前置きで――、自分が取り上げた言葉をあらためてざっと見てみると、精神科医のエリザベス・キューブラー・ロス、作家のパウロ・コエーリョ、「神との対話」のニール・ドナルド・ウォルシュのものがけっこう多い。
 当然のことながら、僕自身の読む本や、言葉の好みとしての偏りはかなりある。でも、それ以上に感服してしまうのは――、この人たちは、短い一文にメッセージを込める名手だなということ。

 と言うのは、ツイッターで書ける文字数は「140字」という制限がある。
 いっさいの前置きや注釈などをなしに、それだけの文字数の中で意味を完結できる人って、案外限られてしまうのですよね。


 どんな素晴らしい言葉でも、ツイッターで紹介するには不向きというケースもけっこうある。
 たとえば、インドの覚者のニサルガダッタ・マハラジの「I AM THAT」の本から、140字の言葉をピックアップしてみても、きっとその一部分だけだと余計に難解なものになってしまうだろう…。

 また、日本人が著者の本もそうで、大切で精妙な内容のメッセージを「前後の文脈」を含めた中で語られているケースがけっこう多い。
 要は「とても丁寧に説明している」わけで、そういうのも本当に国民性だなと思う。


 善しあしは別にして、とにかく短文でバシッと語ってあるものが「ツイッター向き」である。
 そのあたりの性質なども加味しつつ、見ていただければなと思います。

 ではランキング――。


【第5位】――

 他人に「間違いをする余裕」を与えなさい。何てことはない、彼らは叡智を得ようとしているところなのだ。その余地を十分に与え、過ちを探してはならない。
 両親が適切に育ててくれなかったとしても、許しなさい。人を育てる方法を本当に知っている者など、そもそもいないのだから。(ラムサ)


 これはチャネリング本の『ラムサ』の中で語られていた言葉だ。
 前回記事でも触れた「バーソロミュー」とともに、僕自身が好きなチャネリング本のひとつである。

 自分にとっての「正しさ」を基準に、他者の言動をとがめたり、正そうとすることは、日常社会での対立や争いを生じるばかりか――、スピリチュアルな歩みにおける「罠」ともいえる。
 特に、スピリチュアルなものごとに詳しくてひたむきな人ほど、陥りやすい罠だと思う。

 私たちの生において「真に大切な経験」とは、ほかならぬ自らの心をオープンにすること、相手のことを分かってあげること、そして「許す」ことだろう。
 でも、自分が抱える「正しさ」というのは、かたくなにその逆をやらせてしまうことが多い…。
 これに近い意味で、次のような言葉もある――

 あなたにとって「正しい」ことをするために、誰かを「悪者」にしていませんか? (テリー・コール・ホイテッカー)

 自分の道に確信を抱くために、他人の道が誤っていることを証明する必要などない。そのようなことをする人は、自分自身の歩みに自信が持てない人なのだ。(パウロ・コエーリョ)


 このラムサの言葉はさらに、「両親」との関係について言及している。
 親との確執を抱え続けている人は少なくないし、だからこそこの言葉にハッとさせられるのかもしれないです…。

 自分に対する過ちと「許し」という、この世界で最も難易度の高いレッスンを学ぶ場――。「親子関係」にはそうした重要な側面もあるのでしょう。


【第4位】――

 人生で何を「取り戻せるか」を心配しなくていい。何を「与えるか」だけを考えていればいい。
 生きるとは、最上のものを得ることではなく、最上のものを与えることだ。(ニール・ドナルド・ウォルシュ)


 これは、有名な『神との対話』に出てくる言葉。
 ウォルシュ本人ではなく「神」が語ったというわけだけれど、本の著者名がウォルシュなので、他のものも含めて彼の言葉という形にしています。

 報いを望まずに「愛を与えなさい」ということは、色んな宗教や道徳でも説かれている。
 その大切さはよく理解できるものの、「とは言っても現実には、そればかりしていたら生きていけないからねぇ…」と、どうしても思えてしまう。

 でも、真の現実は、本当にそれさえすればいいのだ。
 自分が死んでから振り返ったとき、その人生の意味や価値は、唯一「愛」によってのみ計られる――。このとこを伝える言葉も、けっこうあります。

 死と向かい合ったとき、大事なのはあなたが与え、受け取った「愛」だけなのだ。他のいっさいのもの――手柄や争いなどは、思い出そうとしても忘れてしまっていることだろう。(リチャード・アレン)

 人は死んだ後、あの世の入り口で誰もが同じ問いを尋ねられる。「どれだけ愛を与え、また受け取ってきたのか?」――。そのときに答えればいいと思っていたら、手遅れになる。(エリザベス・キューブラー・ロス)


【第3位】――

 あなたは道を踏み外すかもしれないが、道を踏み外すことで何かを学ぶ。後に、道を踏み外したことを幸せに思うだろう。
 なぜならば、世の中には道を踏み外すことによってしか学べないことがたくさんあるからだ。(OSHO)



 出典は、インドの神秘家OSHOの講話録『究極の旅』。
 前にラムサの「他人に間違いをする余裕を与えなさい。何てことはない、彼らは叡智を得ようとしているところなのだ」という一文を紹介したけど――、それと同じことを「自分自身の過ち」に対して語った言葉ともいえる。

 自分の過去というのは「失敗や後悔や恥や罪悪感のかたまり」みたいに思えてしまうこともあるだろうけど…、そんなときに素直に励まされる言葉ですよね。

 ある意味で、私たちの歩みは、「道を外れたところにしか道がない」くらいに言っていいのかもしれない。
 それが生におけるプロセスであり、そして次のように語れている通り、ほかの道はないのだろう…。

 たとえ宝が自分の家に埋められていたとしても、それを見つけるのは家を遠く離れたときだ。ものごとの本当の価値を知るのは、それを失い、そして再び手に入れたときである――。その近道を探そうとしても、無駄なことなのだ。(パウロ・コエーリョ)


【第2位】――

 「やりたいことだけをやる」、というのは本当に大切です。そんなことをしたら貧乏になって、狭い家に引っ越さなくてはならなくなると思うでしょう。
 でもその代わり、全身全霊で生きることができます。世を去るときに、自分の人生を祝福することができるのです。(エリザベス・キューブラー・ロス)


 これは、キューブラー・ロスの講演集『死ぬ瞬間と死後の生』で語られているもの。
 おそらく日本のツイッターの中で、キューブラー・ロスの言葉を紹介しているのは僕がかなり多いほうだと思うけど――、その中でいちばん人気があったのが、このあまりにストレートな一言だ。

 彼女の最晩年の著書『ライフ・レッスン』でも、こんな強い調子で言い切っている。

 私たちの個の力は、「なりたい自分」を実現するためにある。その力は、「するべきこと」をするためだけに与えられたのではない。するべきことをしているだけの人生は、最悪の人生である。(エリザベス・キューブラー・ロス)


 また『神との対話』の中でも、先々のことに腐心する失業中のウォルシュに対して、「神」がきっぱりと明言している。

 あなたが本当にしたいことを、どんどんしなさい! ほかのことをしてはいけない。生活のためにしたくもないことをして、人生の時間を無駄にしようなどと、どうして考えるのか? そんな人生が何だというのか? そんなのは生きているのではなく、死んでいるのだ。(ニール・ドナルド・ウォルシュ)

 死ぬときになって、人がいちばん後悔することのひとつが――、
 こうした明快なメッセージを何度も受け取りながらも、いろんな現実的な理由を付けたうえで、本当に「なりたい自分」をあきらめてしまったこと、なのでしょうね…。


【第1位】――

 書きなさい。手紙でも、走り書きでもいい。誰の目に触れなくとも、心を込めて書きなさい。
 書く、という行為は考えをまとめ、自分を取り巻くものが何なのか、はっきりさせる。苦しみを癒し、夢を明確にし、失われていた希望を取り戻したりする。
 言葉には力があるのだ。(パウロ・コエーリョ)


 栄えある1位は、パウロ・コエーリョの短編集『マクトゥーブ』にあるこの言葉。
 僕自身も意外に感じるのだけど、リツイートやお気に入り登録の件数が、ほかのよりも格段に多いんですよね…。

 きっとツイッターをしている人は、自分の経験や思いを、たとえ些細なことでも「書きたい!」と感じていて、そうした気持ちに深く響くからだろう。

 さすが、世界的な作家の「言葉の力」です!



 結びのヒーリング・ミュージックは、Deuter「City of Lights」。
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 このブログをパソコン画面で見ると右側のずっと下のほうに出ているけど、僕が読んだ本の中で「これは素敵だな!」と思った言葉を、日々ツイッターで紹介しています。

 一昨年から始めたもので、当初は毎日手作業で入力していた。
 昨年の途中からは、これまでのぶんが300件ほどになったこともあり、過去のものも含めながら自動でアップする仕組みにした。
 なので「これは以前にも見たぞ」というのも出てくるけど、色々と本を読むたびに書き加えているので、ツイートする言葉は常に増殖しつづけている。

 そのツイッターのページを見ていると、紹介した言葉が「お気に入り登録」されていたり、リツイートされることもあって(拡散と呼べる規模では全然ないけれど)、それなりに共感して受け取っていただけているのだなと感じます。


 で、先日ふと、「これまで紹介した中で、果たしてどの言葉が多くお気に入り登録やリツイートされたのだろう?…」という興味がわいて、そのランキングをざっとまとめてみました。

 ただ、母数となるフォロワーも過去より増えているので、単純なリツイート数などの多さではなく、その時期における水準とか、さらには同じ人の言葉ばかりにならないようにと調整したうえでのランキングになります。


 せっかくなので、ツイッターの限られた文字数では書ききれなかった出典や、関連する言葉などにも触れながら、人気が高かった言葉のベスト10を挙げていきますね!


【第10位】――

 あなたに授けられた最高の贈り物とは、「あなた自身」です。そのことに気付いたとき、あなたは出会ったこともない数多い仲間と結ばれていることに気付くでしょう。
 すべてを生かし、生かされ、喜び、感謝する人生が、あなたのものになりますように。(シャーリーン・コスタンゾ)


 これは、『12の贈り物』という本にあった言葉。
 親が子供に、「人が生まれながらにして等しく授けられている素晴らしい贈り物」について、優しく語りかける内容だ。
 その贈り物とは、「友情」「希望」「信頼」など。例えば信頼については、以下のように語っている――

 あなたには「信じる心」が授けられています。たとえ誰かがあなたを傷つけたとしても、たとえあなたが大きな間違いを犯したとしても――、決して自分自身や他人を見放すことのないように、あなたには自分や他人を「信じる心」があるのです。(シャーリーン・コスタンゾ)

 素晴らしいメッセージですよね!
 そうした全部で12の贈り物の最後が、ほかならぬ「あなた自身」というわけだ。


 自分自身を「贈り物」という見方は、有名な『神との対話』の本にもあって、こちらは自分にとっての贈り物であるばかりか、「周りの他者にとっての贈り物」でもある言っている――

 あなたという人が「贈り物」であることを忘れないように。人生でかかわりを持つすべての相手にとって、贈り物でありなさい。誰かが思いがけずあなたの人生にかかわってきたら、「その人はどんな贈り物を受け取りにやって来たのだろう」と考えなさい。(ニール・ドナルド・ウォルシュ)


【第9位】――

 あなたが愛に満ちることで、他人が愛してくれるかどうかは問題ではなくなる。ひとりでいるときも、人に囲まれているときも、同じだけの愛が感じられるようになる。
 愛はあなたの内部にあり、失うことなどできないことが分かる。(バーソロミュー)


 これはチャネリング本の『バーソロミュー』からの言葉。
 チャネリングというと「バシャール」や、引き寄せ法則の「エイブラハム」などがとても有名だけど、僕は個人的にこのバーソロミューがとても好きですね。

 愛というと、「愛する」とか「愛を与える」という表現が普通よくされる。一方、ここで説かれているのは「自らが愛そのものとして在る」ということ。
 「愛する」という場合、どうしても相手に受け入れてもらえるかどうかや、拒否れたときに自分が傷ついてしまうことを恐れてしまうけれど…、「愛の本質」について、次のように語っている。

 愛するというと、相手に優しくしたり、気に入られることだとよく考えられる。そんな考えを持つと、とても傷付きやすくなる。外的条件に頼るとうまくいかない。「自分が愛に満ちている」と信じることから始めなくてはならない。(バーソロミュー)

 恐れの感情は、「誰かに傷つけられるぞ!」と、あなたを脅すだろう。しかし傷つくというのは、単に傷つくことに過ぎない。ただそれだけだ、ということを受け入れ、痛みから逃げることに一生を費やすのをやめると――、自分の世界は完全に変わってしまうことに気づくだろう。(バーソロミュー)


 同じ様な意味で、有名な心理学者のこんな端的な一言にもハッとさせられますね。

 傷つくならば、それは「愛」ではない。(チャック・スペザーノ)


【第8位】――

 この地上には、ひとつの偉大な真実がある。お前が誰であろうと、何をしていようと、お前が何かを本当にやりたいと思うときには、その望みは宇宙の魂から生まれたものなのだ。
 それが、地球におけるお前の使命なのだよ。(パウロ・コエーリョ)


 これは、物語『アルケミスト』のキーとなる台詞。
 「運命の旅」は、この作家の主要テーマであり、ほかにもこんなふうに語っている。

 自分の運命を実現することが、人間の唯一の責任なのだ。お前が何かを望むときには、宇宙全体が協力して、それを実現するために助けてくれる。(パウロ・コエーリョ)

 船は港にいるとき最も安全であるが、それは船が作られた目的ではない。(パウロ・コエーリョ)


 コエーリョは、アラビア語の「マクトゥーブ」という言葉を好んで使っていて、アルケミストの話にも出てくるし、本のタイトルにもなっている。
 マクトゥーブとは、「すべては神の手によって既に書かれている」といった意味だ。

 でも、すべてが決まっているのなら、先の知れない冒険の旅に出るというのは、どこか矛盾しているようにも感じられるけれど…。
 その点について、彼はこのような説明も語っている。運命と自由意思についての、ひとつの解釈でしょう。

 マクトゥーブとは「書かれている」という意味だ。だが、アラブ人は「書かれている」だけでは、うまい翻訳だとは思わないだろう。
 なぜなら、あらゆることの筋書きがすでに書かれていても、神は慈悲深いからだ。そのペンとインクは、私たちを助けることのみに使われる。(パウロ・コエーリョ)



【第7位】――

 相手に勝つためや、傷つけるために話をするのはやめよう。肯定的なことが心に浮かんでくるまでは、反射的に話してはならない。
 目的は勝つことでなく、心を開くことである。(ブライアン・L・ワイス)


 ワイス氏の代表的な著書『前世療法』に出てくる一文。けっこう実践的な内容の言葉ともいえるけど、お気に入り登録が多かったです。

 私たちが他者と向き合うとき、本当に大切なのは、相手を「ただす」ことではなく、相手のことを「分かろう」とする気持ちだ。
 ところが、自らの内にある先入観や感情に流されて、それができなくなってしまうことも少なくない。

 過去生をテーマにしたこの本の中には、以下のような、恐れや怒りについての注意がよく出てくる。
 死んでから人生を振り返ったとき、感情反応にもとづいた振る舞いをしていたことが、心底から悔やまれるのでしょうね…

 自分の中の勝手な情報を他人に投影したり、他人には無いはずの意図や動機をあてはめたりして、現実を歪めてしまうことに注意しなくてはならない。この逆恐怖のメカニズムは、他の誰にもできないほど、自分自身を傷付けてしまうからだ。(ブライアン・L・ワイス)

 怒りを手放すのは難しい。自分の正直さと名誉がその怒りにかかっていて、試されているように感じるからだ。人間社会という大いなる学校での唯一のテストは、怒りを手放して愛の受容を学んでいるかどうかだ。愛は永遠であり、怒りは一時的だ。(ブライアン・L・ワイス)


【第6位】――

 出来事や経験に「悪」というレッテルを貼るのをやめ、かわりに「イエス」といって受け入れるとき、そして物事をありのままに放っておくとき、どんな変化が起こるか観察してみてください。(エックハルト・トール)


 これは、確か『さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる』に出ていた一文。
 つらい現実に直面したとき、「価値判断せず、そのままを受け入れる」「抵抗して格闘するのではなく、ただ見つめる」ということだ。

 社会常識的には、「問題意識が欠如した弱腰な生き方」のように思えてしまうかもしれない。
 でもそれこそが実は、「叡智に満ちた生き方」なのだと言える。人生の苦難について、同じように説いた言葉は本当に多いです――

 変化はたいがい、離別や喪失などによって、ドアがバタンと閉められたときに始まる。この不確定な時期はつらいものだ。変化に抵抗しようとする人は、人生そのものに抵抗していることになる。必要なのは変化に乗じること、少なくとも、変化を受け入れることである。(エリザベス・キューブラー・ロス)

 大切なことは忍耐とタイミングだ。すべてのことには時がある。人生を焦ってはならない。人生は、期待するようにうまく予定通りにいくとは限らない。その時々にやってくるものを受け入れるのだ。(ブライアン・L・ワイス)

 私たちは、悲しみは避けなければならないと考えている。しかし実際はその逆だ。悲しみにとって耐えがたいのは、抱きしめられることだ。何かの活動とか手法に逃げ込でも、悲しみが終わることはない。その状況を抱きしめ、抵抗する余地がなくなることで、悲しみは終わる。(ルパート・スパイラ)

 自分の感情の全波長を、何の判断もせずに受け入れることでのみ、私たちは「無条件の愛」という自分の純粋な本質とつながるのです。(アニータ・ムアジャーニ)

 抵抗すれば、相手はかえって強くなる。ただ見つめれば、相手は消える。抵抗するというのは、相手にエネルギーを付与することだ。そうして相手は実体を持つ。一方でじっと見つめれば、相手は見透かされ、幻想であるという事実をさらけ出す。(ニール・ドナルド・ウォルシュ)


 ……と、色々と書いていたら、ここまででもけっこう長くなってしまいました。
 続きの5位~1位は、次回の記事で!



 結びのヒーリング・ミュージックは、Frank Mills「Happy Song」。
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 今回は、現金な話題です。

 財布のひもを握る主婦のことを「うちの大蔵省」という言い方があるけど(古いなぁ…)、僕の場合はかつて妻が重い鬱を患っていて、ものごとの整理・計画がかなり苦手だったこともあり、僕自身が大蔵省を担当して労働省や食糧庁も兼ねるという、「小さな政府」による一元管理をしていた。
 そのため家計については、かなり細かく把握している。


 で、4年前に会社を辞める際に、今後の資金計画についてできる限り詳しくシミュレーションをした。

 給料が高めの会社に23年間勤めたので、ためてきた貯金と早期退職金を合わせれば、しばらく間は収入がなくても従来どおりの生活水準で暮らしていけるだけの金額になった。
 また支出をある程度減らして、大幅なインフレが起きなければ、厚生年金がもらえる60歳まで資金がもつという算段である。

 余裕の「左うちわ」といえるレベルではないものの、まぁ何とか現実に、40代なかばで「経済的独立」を果たすことができたわけだ。


 会社を辞めてからは、収入はほぼまったくない。
 妻がパートや派遣の仕事をしているけど、そのお金は妻自身が使っている。

 そうした中、僕が意図的に心掛けていたことが――、「銀行口座の残高をあまりチェックしない」ということだ。
 支出がどれだけあるかは、もう感覚的につかめている。
 なので、どうせ残高を見ても、「減っている」ことだけが目に付いて、余計に気がかりになるだけだからである…。

 うちは都内の3LDKの賃貸マンションに住んで、息子は私立高校に通っているから、サラリーマンの平均年収くらいの支出は毎年どうしても出ていく。

 年末に一度、その年の引き落とし金額の合計を見て、自分が感覚的につかんでいる支出規模とだいたい合っているかだけは確認している。
 これまでのところ、ほぼ計画とぴったりの状況で順調に経過してきた。


 で、実は先月、「高校三年生の息子がもうすぐ受験で、来年は大学進学だし…」ということもあって、いま総額でどれだけのお金があるのかを、(もちろん今後の教育資金もすでに織り込み済みだけど)念のため計算してみた。

 いくつかの銀行の普通預金と定期預金、いくつかの証券会社にある投資信託と株式、生命保険会社の個人年金(バブル期に加入した「お宝保険」)――と、個々の口座を確認していくのも、そこそこの手間ではある。有り難いことに。

 そうして集計してみたところ、自分でもまったく理解のできない、とんでもなく不思議なことが起こった――。


 ブログのコメント欄にも書いたことがあるけど、一体全体どういうわけなのか、4年前の総額からあまり「減っていない」のである…。

 しっかりした家計管理を自負する僕にとっては、こんなのはあり得ないことであり、大きな誤差は「あってはならないこと」だとも言える。
 それで、何度も各口座の残高を確認しながら合計してみても、「良い方向」で計算が合わないのだ。

 どうしてこんなことが起こる???…
 まるで狐につままれたというか、奇妙な世界に迷い込んでしまったみたいな感じがする。


 もちろん株式や投資信託の残高は、うれしいことに株価上昇に伴ってかなり増えている。
 とは言えそれは、3年以上ぶんの家計支出をカバーできるまでの金額はもちろんない。

 ほかに唯一考えられる理由は――、4年前の退職したときに僕がかなりの計算違いをして、総額を低く見積もりすぎたということだ。色んな金融商品に分散しているから、そういうこともあってもおかしくはない。
 でも――、A型、かに座、エニアグラムのタイプ1である僕自身の名誉にかけて言うと――、大事なお金のことでそんなポカをするはずが絶対ないのだけど…。


 その後も色々と考えてみたものの、結局は分からないので、「神秘は神秘のまま放っておく」ことにした。
 別に問題解決する必要もない、文句なしに100%喜ぶべきことなわけですし。


 それにしても、お金が減らないのはあまりに不思議と思っていた先日のこと――、実家の父親から電話がかかってきた。
 聞くと、「株がすごい絶好調」とのこと。

 実家は、母親の認知症など色々と大変なことはあるものの、そういう問題にかかわりなく、株を持っていればとにかく今は儲かる時期である。有り難いことに。

 で、父親が言うには――、
 「株で儲かったお金を持っていても、この先ずっと長く生きているわけではないから、やがて相続税で持っていかれてしまう(今年行われた基礎控除の引き下げで、実家の土地の評価額がぎりぎり相続税の課税対象に入ってしまった…)
 なので、自分たちに必要なお金だけ取っておいて、あとは今のうちに、税金のかからない範囲で『生前贈与』をしておきたい」とのこと。

 調べてみると、いわゆる暦年贈与の非課税枠のほか、「祖父母から孫への教育資金」の一括贈与も非課税になる制度があることが分かった。

 そういうわけで図らずしも、これからかかる息子の学費は、うちの家計からではなく、何と「株式市場」から出していただく形になった――。


 お金が「増える」わけではないけど、どういうわけか「減らない」というのも、引き寄せの一種なのだろうか…。でも特に、何かをしているわけでもないけど。

 こういうのはたぶん、「人それぞれの人生のシナリオ」なのではないかなとも思う。
 僕はこのようなシナリオ(金持ちではないけど、お金の不自由や不安はとりあえずなく、独立できる人生)を、きっと生まれる前から描いて生きているのかなと感じる。
 「こうしたから、こうなる」という法則の働きとは、どこか違うような気がする。


 でも、ここであえて僕自身が思っているポイントのようなことを言ってみると――

 いま持っているお金というのは、ずっと以前から「これだけあれば会社を辞められる」と考えて、目指してきた金額である。
 望んでいた金額がその通りに(長年のサラリーマン生活を経て)実現したわけだ。

 でも、ちょっと厳しい見方をすれば、「その数字に固執しているから、お金が減ることはないけれども、それ以上に増えないのだ。そんな枠を取り払えば、さらにもっと豊かになれるのに」なんてふうにも言えるかもしれない。
 よく説かれている願望実現や引き寄せというのは、まさしく無限の可能性、青天井の世界ですしね。

 でも僕にとっては、今のこの金額が「満足のライン」であり、ある意味で「足るを知る」ことのできる自然な水準である。


 きっと誰にでも、自分にとって自然な「足るを知るライン」というのがあるのではないでしょうか。
 それは、人生のシナリオに最初から描かれている金額かもしれないし、その人にとっての「経済的な中道」なんてふうにも言えるかもしれない。

 そうした「足るを知るライン」や「経済的な中道」というのは、その様子をイメージして感じながら目指すことによって、やがては実現し得るものだろう。
 そして、いったん達成したあとは、どういうわけか「減りにくい」ものなのかもしれないです…。


 あともうひとつ、僕が心がけているのが「お金を使うことをいとわない」ということ。
 普段の買い物では野菜の値段を気にしたり、外食もほとんどしないのだけど――、そうした節約志向の一方で、ヨガを習ったりワークに行ったり、途上国への寄付をしたりもしている。妻が何か無駄買いをしていても気にしない。

 やはりお金というのは「流れ」でもあるから、出入りの循環が大事なのかなと思う。
 成功した経営者であり作家のジョー・ヴィターレの言葉は、確かにそうなのかなと感じますね。

 「使えば使うほどお金は減っていく」とほとんどの人が思い込んでいる。私もずっとそう信じていた。
 しかし私はこの信念を、「使えば使うほど、お金を受け取ることができる」に変えてみた。今はそれが現実になっている。この新しい信念を理論的に説明することはできない。


 そう、やはりそういうのは「理論的に説明できない」ものなのでしょうね――。


 結びのヒーリング・ミュージックは、Mike Rowland「Protect The Children」。

  ☞ コメント:49

 
 スピリチュアルと呼ばれるものごとの範囲や中身は、じつに千差万別です。
 前回記事では、スピリチュアルの全体像というのを、かなり大ざっぱにとらえてみたらどいうふうになるのか――という、僕自身の私的な見方について書いてみました。
 今回はその続き(とても観念的な話になってしまいますけれど…)

 前回に示したように、その全体像というのは、大きく3つの領域でとらえることができる。

 まずは、あらゆるものごとの基盤となる「空」の領域(図のグレーの部分)
 それは絶対的な「ワンネス」であり、「大いなる魂」とか「本源」「神」とも呼ばれる。
 この広大無辺な「空」だけが、実は唯一実在するものだ。


 そうした中に、私たちが生きている「現実」の領域がある(図の濃い青の部分)
 「この世」とか「物質世界」と呼ばれるところで、つまりは「人間が五感で知覚できる範囲」のことだ。

 この現実世界の大きな特質は、「経験」が可能ということ。
 そして自分と他者という「分離」が伴う。それによって、隣人に愛を与えたり、誰かから愛を受け取ったり、互いに分かち合ったりといった行為が可能になる。
 だが一方で、その分離が「恐れ」の感覚を生じ、対立や争いなど悲痛な出来事も引き起こす。


 そして「空」と「現実」の間に、いわゆる「スピリチュアル」の領域がある(図の黄色い部分)
 「守護天使」や「高次の存在」、物質を超えたさまざまな「宇宙法則」、さらには「カルマ」や「輪廻転生」などもここに位置づけられる。

 現実世界にいる私たちが、根源的な「ワンネス」や「本当の私」を希求するとき――、その橋渡しとして、スピリチュアルの領域が「人それぞれにふさわしい形」で現れて、力を作用させて、助けて導いてくれる――。そういう仕組みなのだと思う。

 そこには普遍的な絶対というものはなくて、法則や原理さえも超越した、自由な現れ方をする。
 そのため、スピリチュアルの多様なものごとは、「あると言えばあるし、ないと言えばない」ということにもなるだろう。

 …そこまでが前回の話です。


 で、この全体をふまえた上で――
 じゃあ「スピリチュアルなものごとを理解」することや「スピリチュアルな生き方」というのはどういうことなのかというと――、「空」と「スピリチュアル」と「現実」を、自らの中で一貫して統合させる、ということかなと思います。

 つまりは、図の縦方向をつなぐ赤い矢印の「バランス」の上に、しっかりと立って生きるということ。
 スピリチュアルのテーマだけに詳しくなることや、そこに傾注して、周りとの関係性や社会生活をおろそかにしてしまうのとはもちろん違う。


 スピリチュアルというのは、圧倒的な真理を備えた「宇宙の金科玉条」のようなものではなくて、「ふまえるべき要素のひとつ」のような位置づけであると、あえて言っていいかもしれない。

 もちろん究極的には、おおもとにある「空」こそが真理であり、またそれが「真の私」であり「創造主」である。
 でも、その真の私なり創造主が、現実やスピリチュアリティを含めた宇宙をわざわざこうして創造して展開させているわけだ。
 だから、「空」を希求することだけが狙いではなく、この全体を通した統合やバランスそのものに、「私たちにとっての真理」があるのではないかと思うのです。


 現実世界は、単に軽視してもいい幻とか、脱出すべき箱のようなものではない。
 この現実の中にいながら、「スピリチュアリティ」や「空性」、あるいは「神性」や「無条件の愛」や「許し」や「喜び」をいかに見いだすか。そして、自らがそれをこの世界でどう表すのか――
 これこそが、現実をスピリチュアルに生きる本当の要点だと感じます。


 ただ、空とスピリチュアルと現実とを結びつけるとなると、それはなかなか難しい。
 そこには、互いに矛盾し合う点がとても多いからだ…。


 「空」の観点から見れば、「スピリチュアル」はそもそも存在しない。他方で現実は「幻」とはいえ、私たちにとってその幻こそが「現実の人生」である。

 さらに私たちは「分離」しているようだけど「ひとつ」であり、ものごとが「時間」に沿って展開するけれども、本当は「今この瞬間」だけしか存在しない。
 時間がないということは「運命は確定」していると言えるけれども、一方で「自由意思」によって選択もできる。また「本当の私」とは何者なのかに気づくためには「努力や集中」が必要だけれども、「ただくつろぐ」ことこそがポイントで…
 と、スピリチュアルの肝心なテーマに迫るほど、決定的なところが矛盾している。

 矛盾なく言い切っているものは真実ではない、くらいに言っていいのではないかとさえ思える。
 少なくとも人間の知能では、矛盾のない形で把握することができないものなのだろう。


 そうしたパラドックスに整合性を持たせようとか、腑に落ちるまで理解に努めようというのは、相当に無駄なことであり、スピリチュアルの大きな「迷い道」なのかもしれないです…。

 スピリチュアルを広く理解するうえで重要なのは――、「相反する全体を併せ呑む」ということなのでしょう。


 空とスピリチュアルと現実との間には矛盾があるけど、スピリチュアルの領域の中にある千差万別なものごとはさらにパラドクスだ。
 この部分も「相反する全体を併せ呑む」とか、「自分に合うものをチョイスする」しかないのだろう。


 とくに問題を生じやすいのが、スピリチュアルの中身同士での相対化である――

 つまり、あるひとつの教義・法則「A」と、それとは食い違う教義・法則「B」とを、比較して批判したり、さらに相手を正そうとすることだ。

 そうした話は互いに交わり会わないし、証明しようもないし、解答が見いだされることもまずない。進歩の助けにもあまりならない。
 「正しさ」を求めようとか主張しようとすること自体が、スピリチュアルの本来から外れてしまっているような気がする…。

 そして最もひどい場合――、現にそのような「義憤」が、テロや紛争を巻き起こしているわけだ。


 従来は、「スピリチュアル」と「現実」、そして「教え」と「教え」同士が、厳しい対立関係にあることが普通だったと言える。

 でも最近、「ワンネス」と「分離」とを背反させずに、その両局面が一体となったあり方を説く人も出てきて、そういう見方がこれからの流れになっていくのかなと感じます。


 マザー・テレサのよく知られる言葉で、ある人から「世界平和のために自分は何をすれば良いか?」と尋ねられたときに、「家に帰って家族を大切にしてください」と答えたというのがあるけど――、
 「スピリチュアルの探求のために何をすれば良いか?」という問いに対して、「家に帰って家族を大切にしてください」という答えも、成り立ち得るのではないかと思う。

 家族の色んな問題にしっかり向き合いながらも、現実を超えた壮大な真実や、スピリチュアルの導きを信じる――
 そうした、全体を併せ呑む見方なり統合によって、人間の視座から「神の遊び(リーラ)」ができるのではないかと思うのです。


 もちろんスピリチュアルの「切り札」として、意識が目覚めて自己が消滅すれば、すべてが解決となる。

 ただそればかりは――、たとえが悪いけれども「死」と同じようなもので、「来る時になれば来るのであり、本人の望みでやって来るものではない」と言える。

 僕自身も、日常的に瞑想や浄化ワークとかを熱心にしているほうだ。
 でも、目覚めが起きるのを目指すことや、アセンションしたらどうしたいという望み以上に――、
 「それがまだ起こっていない状況において、自分はどうあるのか?」というのが、実はスピリチュアルのとんでもなく大きなテーマなのではないか、と思います。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Singh Kaur 「Crimson Vol. Guru Ram Das」。
  ☞ コメント:37

 


 「スピリチュアル」という言葉やテーマは、そもそも何のことを指しているのか?――
 人によってその答えは、かなり違ってくるでしょう。

 ふつう社会一般的には、スピリチュアルというと、まず「心霊現象」を思い浮かべられることが多い。

 現に公共の図書館では、スピリチュアルの本は主に「心霊研究」というカテゴリーに分類されている。
 シャーリー・マックレーンの『アウト・オン・ア・リム』も、ニール・ドナルド・ウォルシュの『神との対話』も、ブライアン・L・ワイスの『前世療法』も、エックハルト・トールの『ニュー・アース』も――、どれも「心霊研究」の本になっている。
 亡霊とかお払いの話が出てくるわけでもないのにね…。

 でも最近は、スピリチュアルというテーマは、「意識の目覚め」や「本当の私の探求」、あるいはもっと広く、目に見えない力によって「幸せになること」という意味でとらえることが主流になりつつあると言える。


 そんなふうに、「スピリチュアルとは何か」でさえ、あまりはっきりしない。その上に、そこで説かれる中身というのは、もうかなり千差万別なものだ。
 理解しようと色んな本を読めば読むほど、ますますややこしくなって、スッキリしなくなったりもする…。

 そこで、「スピリチュアルの全体」をざっくりとらえてみたら一体どういうふうになるのかという、僕自身の私的な見方を今回ちょっとまとめてみます。

 そのような「全体像」があると、たとえ千差万別なものごとも、「複雑化させずに、全体の中に位置づけながらとらえる」ことができるのではないかと思うのです。


 で、僕自身がとらえる、スピリチュアルの全体像というのが、このような感じ――

 これは、スピリチュアルにかかわる要素を、大胆すぎるほど大ざっぱにとらえた、あくまでも一つの「見方」を描いたものです。
 「学びの体系」とか、「宇宙の構造」のようなものではまったくないです…。


 まず、いちばん外側にあるのが、「空」という領域(図の薄いグレーの部分)
 この「空」は、究極的な「ワンネス」であり、「大いなるひとつの魂」「ただ在るもの」「宇宙の本源」「神」など、いろんな呼び方もされている。

 また領域といっても、形や大きさがあるわけではない。
 それは果てしない広がりであり、あらゆるものが創造される基盤であり、真っ白いキャンバスのようなものだ。

 そして究極的には、この広大無限な「空」だけが唯一実在している。


 そして「空」とは、根源的な「ゼロ」の状態である。
 皆がひとつにつながって、キラキラと輝いて、とてもハッピーでといった、よく想像されがちなある意味「生やさしい」ものではないといえる…。
(「ワンネス」なのにどうして「ゼロ」なのかは、後日にまたまとめてみます)


 そうした「空」に対し、私たちが生きているのが、いわゆる「現実」の領域だ(上の図の濃い青色の部分)

 ここは、「この世」とか「物質世界」「現象世界」「三次元宇宙」などとも呼ばれる。
 「空」に対してこちらは、良きにつけ悪しきにつけ、あらゆる側面でカラフルだ。


 そしてこの領域の最大の特質は、「経験」が可能であるということ――。

 おおもとの「空」は宇宙をつかさどる叡智であるから、あらゆる森羅万象が備わっている。
 ただしそこでの森羅万象は、姿かたちや感覚もない、いわば可能性とか観念といった状態で潜在している。
 それを実際に、形あるものとして出現させて体験できるのは、この「現実」の領域だけなのだ。

 また根源的な「空」について、「大いなる愛」という表現もされる。
 その通りで、「空」はまさには愛そのもの。あらゆるもの(愛以外のものまで)を包み込んで受容する、究極的な「無条件の愛」である。
 ただし「空」の状態のままでは――、自らが「愛」そのものでありながらも、愛を与えたり受け取ったりする「相手」というのがそこには存在しないわけだ…。

 隣人を愛し、色んな条件付けを手放して自分自身を愛し、多くの他者と互いに分かち合うといった愛の行いは、この「現実」の領域にあって初めて可能となる。

 そう思うと、根源的な「空」が、わざわざこの物理的次元を創造したのも、何となく分かる気がしますよね!


 ただしそうした「経験」を可能にする半面――、「現実」の領域には、自分と他者がバラバラに分かれ、そして神や本源から切り離された「分離」の性質が伴う。
 そこから「恐れ」などの特有の感覚が、私たちにもたされる。

 その分離や恐れが、対立や憎しみ合いや争いなど、悲痛な出来事をこの世界に巻き起こす…。


 で、「空」と「現実」の間に位置しているのが、いわゆる「スピリチュアル」の領域だ(上の図の黄色い部分)
 それが両者の橋渡しをしている。

 ガイドや守護、天使、精霊、高次の存在、物質を超えたさまざまな宇宙法則、奇跡や恩寵などがこの領域にあたる。
 ただし一方でそこには、カルマや輪廻転生など、私たちの生にとって「苦」となる仕組みも含まれている。


 ところでさっき、「いわゆるスピリチュアルの領域」と、「いわゆる」を付けたのには、2つ理由があります――

 その1つ目は、おおもとの「空」までを含めてスピリチュアルと呼ぶケースも多々あるということ。
 でも、スピリチュアルの中には、目に見えない本当にさまざまな要素が含まれる。そうした中で「空」というのは「スピリチュアルの一部に含まれるもの」として位置付けるには、あまりにも広大無辺で根源的すぎる…。

 そのため、とらえ方としてはあえて、スピリチュアルの枠組みにあるすべてを取り巻く、さらに壮大な領域として見たほうが分かりよいと思う。


 「いわゆる」を付けた2つ目の理由は、スピリチュアルに相当詳しい人の中でも、「このような領域はない」と断言しているケースがあるということ。

 とりわけ「非二元(アドヴァイタ)」の考え方では、守護天使とか、死後の魂などの話は、入り込む余地がないように思える。

 著名な覚者であるラマナ・マハルシも「無知が存在する限り、輪廻転生は存在する。本当は、輪廻転生などまったく存在しない」と語っている。

 また、「色即是空」と説明するとスパッと割り切れるけど――、その間にスピリチュアルの領域を加えると、何だか「半透明の色」があるみたいで、どうもあいまいな感じになってしまう…。


 スピリチュアルな領域というのは、「あると言えばあるし、ないと言えばない」と――、平たく言ってしまえば、そういうことになるのかなと思う。

 つまり究極的な「空」や「非二元」のレベルから見れば――、現実世界さえもすべてが幻なわけだし、スピリチュアルな領域もまた存在し得ない。

 他方の「現実世界」のレベルから見ても――、スピリチュアルな領域というのはふつう知覚できない。


 ところが、「現実」の世界にいる立場から、それを超えた「空」や「ワンネス」や「本当の私」を希求する場合――、
 その橋渡しとしてのスピリチュアルの領域が、「人それぞれにふさわしい形」で現れて、力を作用させて、助けて導いてくれる――、そのようにとらえられるのではないかなと感じます。

 意識の目覚めを体験し、「非二元」にもとづいた教えを強調している人の中にも、その半生には、「見えない何かに導かれた」としか思えないようなエピソードがあったりもしますしね…。

 ある意味でスピリチュアルな領域には、普遍的な絶対はない。法則や原理さえも超越した、自由な現れ方をするのだと思う。


 また一方で、今は「ワンネス」や「本当の私」なんかを希求していない人の場合でも――、カルマや輪廻転生の働きによって、やがてはそれを求める生のステージへと連れられていく。
 マハルシは「無知が存在する限り、輪廻転生は存在する」という、とても厳しい言い方をしているけれど…、輪廻もまた、叡智に向かうために作られた道筋でもあるのでしょう。


 やはり、ここまで大きな話はかなり長くなってしまうので、続きをまた次回に書きたいと思います!



 結びのヒーリング・ミュージックは、Steven Halpern「Deep Theta」。

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プロフィル

Koudai Mitsuna

Author:Koudai Mitsuna
 
光奈 広大(みつな・こうだい)

 20年のあまりのサラリーマン生活を経て、いわゆる「ザ・マネーゲーム」を何とか卒業。今では束縛されない自由な日々を存分に味わっています!

 そうした中で心がけているのは、普通の日常的な行いを通じて、意識の進化を目指す「カルマ・ヨガ」。

 日々の喜びや学び、インスピレーションから得たスピリチュアルな気付きなどをブログで紹介しています。

 妻子と都内在住――。

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