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 暑さ真っ盛りの季節だけど、そんな中でも週1回ほどは、趣味の「河川敷ウォーキング」に行っております。

 昨日は、埼玉の入間川沿いの自転車・歩行者専用道を10kmほど歩いてきた。
 これまでは20~30kmを延々とガシガシ歩いていたので、最近は距離的にちょっと短くなった感じ。

 どうして距離を落としたのかというと、じつは靴に理由がある…。


 僕はニューバランスの「MW880」というウォーキングシューズをずっと愛用している。
 初めて買ったのは5年前で、「この靴は、自分がこれまでの半生で履いてきた何十足というスニーカーとはぜんぜん違う!」と感動してしまうほど足の相性が良くて、「もう他のウォーキングシューズは買うまい」と心に誓ったくらいだ。

 最初に買った「1代目」は、すり減った靴底を何度も補修し、中敷きを替え、あれこれ3年近くも履いた。たぶん累計の歩行距離は何千キロかになるのではないかと思う。
 ここまで徹底的に履いて歩いてもらえれば、「靴冥利に尽きる」に違いない。


 で、次にまた同じものを買ったのだけど、その間にこの靴がモデルチェンジをしていて、サイズが微妙に大きく感じられた。
 なので、その「2代目」を履きつぶす前に、ワンサイズ下の「3代目」を買ったのだけど…、今度はそれが微妙に小さい。

 普段履きにはぴったりなのだが、何キロかウォーキングして足がむくんでくると、きつくなって指先が痛んでしまう。
 なかなかうまくいかないものだ…。


 そんな理由で、最近はウォーキングの距離が落ちるという結果となった。
 距離だけでなく、歩くスピードのほうも、以前のガシガシ歩きからかなりスローダウンしてきている。


 ただ、それでも「怪我の功名」というか――、比較的ゆっくり歩くことで、周りの風景の美しさに魅せられる瞬間がとても増えた。

 もちろん観光地のような絶景なんて河川敷にはないのだけど…、青空にぽっかりと浮かぶ雲や、青々と茂る草木が風になびいて踊ったり、無数の葉が日の光を跳ね返してチラチラ輝いているのが目に入ると、ハッと立ち止まり、我を忘れてしばらくじーっと見入ってしまう。


 これまでも、歩きながらぽーっと眺めることはよくあったけど、今は足を止めずにいられない。
 何かとてつもなく優先度の高い瞬間に立ち会っているみたいな感じで、そこに釘付けになってしまう。

 言うまでもないけど、歩くとの止まるのとでは、ぜんぜん違う。
 大空をゆっくり移動する雲の流れや、生命感ある雲の湧き立ち、そして草木の舞いや輝きも、こちらが完全に止まって見ることによって初めて分かるものだ。
 歩いた状態のままでは、その本当の現れに気づくことができない。

 とは言え、あまりしょっちゅう立ち止まっていたらウォーキングにならないのだけど…、僕のウォーキングの目的は運動そのものよりも、「浄化」のためにしているつもりだから、その浄化の質が変わってきたのかもしれないです。


 世界的に知られるベトナム出身の禅僧ティク・ナット・ハンは、「歩く瞑想」というのを、彼のもとに集まる人々に伝えている。
 それは、穏やかにゆっくり、呼吸を意識しながら歩くものだ。

 ティク・ナット・ハンはこう語っている――
 「走るのをやめて歩くことは、革命である」


 歩くことが「革命」であるならば、止まることはもはや「天変地異」とも言えるのかな――、なんてふうにも思います。

 僕の年代なら多くの場合、会社の管理職になって、仕事に関係ないものごとはほとんど眼中にない状況でも当たり前だろう…。
 でもこうして平日昼間に、誰もいない河川敷に立って、雲や草木や遥か遠い景色に目を奪われているわけだから――、ある意味、まるで天変地異によって覆った生き方ですよね。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Bernward Koch「Travel Lightly」。

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 ちょっと無理のある問いかけかもしれないけど…
 もし神や天から、これからの人生について、以下の一方を選ぶように問われたとしたら、どちらを選びますか?――

1)これから十億円の資産が手に入る。ただし、それによる幸せ感はほとんどなくて、人生の幸福度は並み以下。

2)これから、どれほどお金があっても得られないほどの幸せを感じられる人生になる。ただし、経済的な豊かさは並み以下。


 おそらくは、たいていの人の場合、「2」の幸せ感のほうを選ぶのではないかな。
 何十年か生きていれば、「幸せを伴わないお金」にあまり意味がないことは、色んな例などを見て承知していることだろう…。

 もちろんお金と幸せは、対極に位置しているわけでは決してなく、いくらでも両立可能なものだ。
 「お金も幸せも欲しい」というのが、ごく真っ当な望みである。

 でも、その思いを突き詰めていくと――、お金はあくまでも幸せになるためのツールであって、心底では「幸せこそが欲しい」と望んでいるはずだろう。


 これはお金に限ったことではなくて、前述の問いの「十億円」を、たとえば「理想のパートナー」と置き換えても、同様のことだと思う。
 お金よりも多少複雑かもしれないけれど、突き詰めていけばやはり、「幸せこそが欲しい」と望んでいるはずだ。

 かりに理想のパートナーに出会えないとしても、「どれほど魅力的なパートナーがいても得られないほどの幸せを感じられる人生」があるのならば、きっとそちらのほうを選ぶだろう。

 ほかにも、「職場での昇格」や「子供の進学」とかも、実際はそれ自体が目的なのではなく、あくまでも幸せを感じるためのツールといえる。
 社会での「評価」や「人脈」、さまざまな「才能」、さらには「スピリチュアルな達成」がそうである場合もあるだろう。


 いうまでもなく、人の思いや求めるものは千差万別である。
 国や文化や生活水準などによっても、相当な違いがあるはずだ。

 でも、それほど多様な思いがある中で、その根っこに「幸せになりたい」という望みがすべての人に共通してあるというのは――、当たり前と言えば当たり前だけど、考えようによっては不思議なことでもある。


 どうして誰もが、共通して「幸せ」を希求するのか?…
 それは、ほかでもなく、幸せこそが私たちの「本質」だからなのかなと思う。
 後付けの性質とかならば、ここまで同一であるはずがない。

 そして「本質」であるからには、はじめから私たちの内に備わっているものだろう。お金やパートナーがどうであるかにかかわらず…。
 よく言われるように、幸せというのは「心の状態」や「あり方」であって――、外側で獲得されるものではないのだから。

 「幸せになりたい」という気持ちは、「内にある自らの本質を見いだしなさい」という呼び声なのかもしれないです。


 でもそうした呼び声がしても、たいていの場合はお金とかパートナーとか社会的評価といった「幸せになるための条件」を何とか獲得しようとする。

 でもその条件というのは、たいていの場合――、「あの人と同じようになれば幸せだろうな」とか、「自分は持ってないけど、あれがあったら幸せになれるはずだ」といった、いわば「誰かとの比較による推測」に過ぎなかったりもする。

 でも、そうした条件付けに根拠がないことを、実は本心ではちゃんと分かっていて――、だからこそ冒頭の問いかけに、たいていの人が「幸せを感じる人生」のほうを選択するのでしょう。


 外側の条件に依らない幸せ、すなわち「内にある自らの本質を見いだす」という純粋で無条件な幸せ――
 これも、私たちが向かっていく新しい在り方のひとつだと思います。

 要は、あまり難しく言う必要もなく、そのために大切なのが、「そのままの自分を認める」とか「深刻にならずにリラックスして生きる」ということなのでしょう!



 結びのヒーリング・ミュージックは、Bernward Koch「Little Moritz」。

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 昨年のことだけど、子供の「胎内記憶」の研究で知られる産科医・池川明さんの対談セミナーを聞きにいったことがあります。
 そのときの感想などについては、過去記事の「揺りかごより前」でまとめています。

 小さな子供たちが、母親のおなかに宿る前の様子を覚えていてしゃべるというのは、とんでもなく驚異的なことだし――、さらにはその子たちが、「お母さんを選んで生まれてきた」ということを口をそろえて証言しているのは、「子は親を選べない」という昔からの常識をひっくり返す事実といえる。


 で、実は、その記事を書いたときに、「これはかなり異論もあるだろうしなぁ」と思って触れなかったことがあるのだけど…、今回ちょっと書いてみますね。

 そのセミナーの質疑応答の時間に、「子供が親を選んで生まれてくる」ということに対して、誰もが思うであろう次の質問が会場からあった。

 「世の中には、親からひどい虐待を受けて苦しんでいる子供たちが何人もいる。そうした子供も、その親を自分で選だと言えるのか?」――


 池川氏の返答は、「このような見方にとても抵抗のある人もいるかもしれないが、子供はそうした経験も承知のうえで、その親を選んで生まれてきている」というものだった。

 当日にメモなどをとっていなかったので不確かかもしれないけど――、そうした子供は「自分がその親を救ってあげたい」と願って、あえてのその親のもとに生まれてきているのだという。
 実際に胎内記憶を持つ子供が、「お母さんが成長していけるように、ぜんぶ分かって生まれきた」と話す例もあったそうだ。

 さらには、子供の魂自身が、痛ましいものも含めたあらゆる経験を通じて「自らが成長していく」という目的も持っているのだという。
 その「成長」こそが魂の「喜び」であって、それはこの世の中の感覚や常識とはかなり違うものといえる…。


 もちろんだからと言って、「自分で親を選んだのならば、周りは何があっても干渉しなくていい」というのはまったく違うと思う。

 もし目の前で虐待があったら、とっさに止めに入るのが当然の行動のはずだ。
 非道な行いをさせないように、不幸な家族関係にならないように願って力添えをすることが、人としての自然な良心であり道義であろう。
 そのことに勇気をもって努めることが、周りにいる人たちにとっての大切なライフ・レッスンだと思う。


 ただ、それでも一方――こう見るのは僕自身も常識的にちょっと承服しにくいような感覚もあるけれど――、当事者である子供の「魂のレベル」においては、生まれてくる親も、互いの関係性も、具体的な経験も、すべては「自ら選んできた」といえるのだろう…。


 結果的にその子が向かうべき行動というのは、ひょっとしたらその親のもとから「立ち去る」ことかもしれない。
 去られることによって、親が大切な何かを学ぶこともあるわけだから、それが当初からの目的のシナリオというケースもある。

 あるいはまた、暴力性へと走ってしまった親の弱さを、憎しみや恐れを超えていつか「認めて許す」ことが、目的という場合だってあり得るかもしれない。
 暴力性は、後の世代にも連鎖してしまう性質がある。相手の過ちを決意して許し、その連鎖を止めることは、ある意味で「輪廻を断ち切る」と言っていいほどの崇高な達成であろうと思う。


 そうした親子関係が「自分で決めてきたこと」だとするならば――、
 人生を左右するほかの経験もまた、「自分で決めてきたこと」であってもおかしくないだろう。

 自分にとってとうてい「受け入れがたい出来事」や「許しがたい相手」が、実は生まれる前に「自分で決めてきたこと」ということだってあり得る。
 虐待という極めて悲痛な経験でさえ、前世記憶のある子供がそうだと証言しているくらいなのだから…、私たちが「こんな嫌な出来事を自分で選んだわけがない」と言い切れる根拠はないかもしれない。


 で、過去2回のブログ記事で「受容」や「許し」について書いてきたけど、私たちが本当に受け入れるべきこととは――、
 自分に何か出来事が起こったとき、「これは自分で決めてきたもの」であることを受け入れる、ということではないかなと思うのです。

 「自分で決めてきたこと」として出来事を見ると、例えば単純な被害者としての自分自身や、とにかく憎悪すべき相手というのは、もはや存在しなくなる。
 その問題は、自分の人生プロセスのために起こった、とても個人的でユニークな意味を持つ出来事として見ることができる。
 そこでは、「例えばもしこういうケースならばどうか」という一般論的な仮定の話は、ほとんど意味を失ってしまう。


 「すべての問題は、その中に答えを宿している」とも言われる。
 目の前の出来事を「自分で決めてきたものだ」と認めることによって――、そこに宿されたふさわしい答えが明かされていくのではないかな。
 もちろんそれは「理屈」としての答えではなくて、「納得」という形の答えかもしれない。

 そうして、「自分で決めてきた」ということを前提に、出来事に対してどうするかを選択する。そこが大切なのだと思います…。


 ――「受容」や「許し」については、記事によってどうしても見方がコロッと変わってしまう。字義的に読むと、互いに矛盾しているようにしか思えない点もある。
 それくらい、本当にさまざまなレベルや切り口のあるテーマなのだと感じますね。

 でも実は、そうした結び付きが悪くて矛盾する要素を「自分の中で統合していく」ことこそが、本当に大事なのでしょう。

 それはスピリチュアルのさまざまなテーマについても言えることで――、
 この「自分の中で統合していく」というプロセスを抜きに、とにかく一義的にスパッと断言しているものだけを求めていると、どうも妙な方向に進んでいってしまう…、ということもあるように感じます。



 結びのヒーリング・ミュージックは、The Echelon Effect「Tracking Aeroplanes」。

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 前回に続いて、「受け入れ」や「許し」のテーマです――。

 自分が置かれた状況がとうてい受け入れられなかったり、相手の言動がぜったいに許せないと思えてしまうことって、少なからずあるでしょう。

 多くの場合は、ふつうに対処して解決に努めるべき事柄だろうけど――、
 中には、その人にとって「人生で本当に向き合うべきテーマ」が、そのような形をとって現われてくることもある。


 自分が「受け入れるべき」課題というのは、当然のことながら最初の時点においては、自分にとって非常に「受け入れがたいもの」であるはずだ…。

 「どうして自分に限ってこんなことが起こるのか」と思える問題や、いったん拒絶しても何度も繰り返し起こってくるような事態は、その人にとって何らかの大切な意味を持っている可能性もあるだろう。


 僕自身の場合は、過去記事でもときどき書いているけど、鬱を患った妻との関係性において、そういうケースが本当に多かった。

 「なぜ自分が理不尽にも、こんなきつい言葉を浴びせられなくてはならないのか」、「いったいどうして自分が、こんな居心地の悪い状況にいなくてはならないのか」…
 そういうことを色々と考え、言い争いもさんざんしてきたのだけど――、ある時点で「理由は分からないものの、これは自分が受け入れるべきテーマなのではないか?」と気づいたときから、状況は本当に着々と良い方向に進んでいった。

 今では妻との関係性については、何があってもたいてい無条件に受け入れるようにしている。
 それが僕自身にとって、内にある古い感情エネルギーの存在に気付かされてそれを癒したり、いらない価値判断を手ばなしたり、意識を広げていくための、本当に重要な機会になっていることを実感している。


 とはいえ、実際に感情を逆なでされるような場面にあって、相手の容赦ない言動などをそのまま受け入れるのは、やはり簡単なことではない…。

 そんなときに、僕がよく頭の中で浮かべていたのは――、
 江戸時代の禅僧・白隠のエピソードに出てくる、「ああ、そうであったか」という言葉だ。


 白隠は、諸国行脚で修行を重ねて20代で開悟したのち、34歳のときに沼津の松蔭寺の住職となった。

 そうしたころ、寺の門前の家で、未婚の娘が身ごもるという出来事があった。
 父親は娘を強く責め、「おなかの子は誰の子か」と厳しく問い詰めた。
 怖くなった娘は、父親が日ごろ信奉している白隠の名を使えば許してもらえると思い、「白隠さんの子です」と嘘を口にした。

 月が満ちて子が生まれると、父親は赤子を抱えて白隠の寺に上がりこみ、「これはお前の子だから、お前が育てろ」と押し付けた。
 すると白隠はひとこと、「ああ、そうであったか」と言って、何の弁解もなしに、そのまま赤子を引き取ったのだという。


 隠し子のうわさはたちまち広まり、白隠の信用はすっかりなくなってしまった。

 そんな様子を知った娘は、ついに良心の呵責に耐えられなくなり、父親に「本当は白隠さんの子ではなくて…」と、交際していた男の名を打ち明けた。

 びっくりした父親はすぐさま寺へ行き、平謝りに謝った。
 そこでも白隠は、「ああ、そうであったか。この子の父親が分かって良かった」とだけ言って、いっさいの非難も口にせずに、子供を返したという――


 まるで、ジム・キャリー主演のコメディー映画「イエスマン」を、度を越した形で体現したような話ですよね…。

 もっとも、こんな濡れ衣までも無条件に受け入れ、さらに事態を良い方向に帰結させていくなんていうのは、高僧だからこそ成せるわざである。
 ふつう、「こんな言われもないことを、なぜ自分が…」なんて心の中で思いながら状況を受け入れても、ろくな展開にならないだろう。


 でも、自分が本当に「受け入れるべきテーマ」というのは、いっさいの言い逃れや非難もなしに、ただひたすらに受け入れるしかない――、そういうものだと思うのです。


 この白隠のエピソードは、歴史上の人物にありがちな、後年に創作された話ともいわれる。
 しかしながら、この「ああ、そうであったか」は、まさに受け入れのキーワードのように僕はいつも感じます。

 とうてい受け入れられないような状況に直面したり、ぜったいに許せない言動を投げかけられたとき――、それに対し頭の中で「ああ、そうであったか」と言うと、拒絶・抵抗しようとする感情エネルギーが、なぜか自然と薄らいでいく感じがする。

 そしてかなり理不尽なことでも、特にややこしい理屈を付ける必要もなく、淡々とストレートに受け入れられたりもする。
(もちろん、「何でも無批判に受け入れるべき」という考えではないことは、前回記事で書いたとおりです)


 「ならぬ堪忍、するが堪忍」ではないけれど、「受け入れにくいもの」を受け入れることによって、人生の状況が好転したり、自分の意識が広がったりする――、このことは僕自身がとても強く感じます。

 このテーマは、さらに次回も続きます。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Deuter「Earth Light」。

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 「受容」や「許し」は、私たちの生における最重要なテーマのひとつとでしょう。

 スピリチュアルのマスターには、自分に起こってくるものごとを「イエス!」と言って受け入れなさいと説く人も多いし、僕自身はかなりそちら寄りの考え方だ。

 とは言え、「じゃあ、どんなことでもぜんぶ無批判に受け入れるのか?」という異論はよくあるし、また「どこまで受け入れるべきか、どういうことまで許すべきか」の見きわめは、誰もが生きる中で幾度も直面する大きな課題だと思う…。


 本や講話で「許し」や「受容」などについて語られる際に、「ただし、こんなことまで受け入れなくもいいのですよ」という補足が付けられているケースもある。

 たとえば、舌鋒鋭い覚者であるアジズ・クリストフは、「自己の癒し」について語る中で、「ときには否定的感情だって、それが正しい反応だということもある」と付け加え、こう述べている。

 「もしあなたの妻がいつもほかの男と寝ているのに、嫉妬が起こるのを許さず、それを癒そうとしているとしたら――、それはただ、あなたがバカ者だということだ」


 ずいぶん辛辣な言い方というか…、
 でもそのようなケースでは、無理やりに抑圧せずに、まずは感じることをストレートに言い合うのが自然なことだろう。

 もっともこういうのは、覚者にわざわざ説いてもらうまでもなく――、「普通に生きて行動すれば、普通にそうなる」というたぐいのケースといえる。
 そこにスピリチュアルな理屈を杓子定規にあてはめると、かえって変なことになってしまう。たいていの人は、ごく普通に分かっていることだと思う。


 ほかにも、よく聞くような似た問いかけがありますよね。
 「家に泥棒が入っても、ただ起こったこととして受け入れるのか」とか、「大通りに子供が飛び出したとき、あるがままに放っておくのか」とか…。

 ただこうした、ちょっと字義的にとらえ過ぎた見方というのは、小学生のころによくあった「先生が死ねと言ったら、お前は死ぬのか」というやり取りにやや近いようにも思えてしまう。

 要はシンプルに、「当然の対応をしましょう」ということでしょう。
 スピリチュアルな理屈をいちいち考え合わせるまでもなく、泥棒に入られたらすぐさま110番すべきだし、ふつう誰もが、通りに飛び出す子供を反射的に止めるはずだ。


 そのような仮定の話とは違って、私たち自身が経験しているこの現実の人生には、その人にとって受け入れるべき(魂の目的ともいうべき)、ありありとした「個人的テーマ」があるのだと思います。


 エリザベス・キューブラー・ロスも、最晩年の著書『ライフレッスン』にの中にある「明け渡しのレッスン」という章で、こう語っている――

 「起こることは何でもかんでも受容せよと言っているわけではない。くだらないと思ったテレビ番組に自分を明け渡す必要はない。仕事がいやなら、別の仕事をみつければいい。
 変えようとすれば変えられるような、何らかの状況が気に入らなかったら、それを変えればことは済む」


 キューブラー・ロスは、気に入らないものは受け入れずに変えてしまいなさいと言い切る。
 しかしその上で彼女は、変えようとせずに「そのまま受け入れるべきもの」があることを強調する。

 その受け入れるべきものとは――、「自分の幸福を阻害しているように見える、決定的に克服しがたいもの」のことだという。

 たとえば、心の傷として残るつらい子供時代の記憶とか、ふられた恋人とか、さらには重い病気とか…。
 それは人を不幸へと落とし入れ、その事実を変えることはできない。

 つまり、自分のことを幸せだと思えない理由――、なおかつ、もはや変えることのできない理由――、
 それこそが、全面的に受け入れるべきものだということだ。


 現にそうなっているこの人生に、自分自身のすべてを明け渡してしまうことによって――、「それを変えることができなくても、いま幸せになることはできる」とキューブラー・ロスは明言する。


 アメリカの宗教哲学者のラインホルド・ニーバーが唱えた、「ニーバの祈り」とか「平静の祈り」と呼ばれる、広く知られた一文がある――。

 神よ、「変えることのできるもの」については、それを変える勇気を与えてください。

 「変えることのできないもの」については、それを受け入れる平静さを与えてください。

 そして、「変えることのできるもの」と「変えることのできないもの」とを分別できる知恵を、私たちにお与えください。


 受容や許しのテーマは、どこまでを受け入れるのかとか、どうするほうが正しいかという議論よりも――、
 まさにこの、変えらるものと変えられないものとを「分別できる知恵を与えてください」という、祈りの気持ちに尽きるのではないかと僕は思う。

 過去からの知識や信念、感情の反応などが、適切な分別をするわけでは必ずしもないのだから。
 私たちにでき得る姿勢としては、最終的にはもう祈るしかない…。


 でもそうやって、静かに祈る気持ちでいることによって――、
 感情に任せた衝動がおさまったり、受け入れるべきものごとを平静に受け入れられたり、変えるべきものごとに対するヒントが浮かんだり、そして普通に対応すべきものごとはごく自然に対応したり――、
 というふうになっていくのではないかなと思います。

 このテーマは次回も続きます。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Frederic Delarue「Eyes of Your Heart」。

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 何だかここ2週間ほど、体調がおかしい感じです…。
 体調が悪いというより、「変」なのだ。

 前週末に長野・群馬に旅行したのだけど、途中で突然ものすごい立ちくらみがして、気を失いそうになった。
 あれほど意識が遠のいていく感覚は、生まれて初めて。もしかしたら、そのまま倒れて死ぬんじゃないかくらいに思えた。

 ところが即座に回復して、そのあとはレクリエーションのバレーボールをしたり、宴会にも普通に参加して(酒は飲まないけど)、「いったいあれは何ごとだったのか?」という感じ…。


 今はまた別の症状で、夏風邪をひいたように頭がボーとして、全身がだるくて仕方がない。
 体が重いような、フワフワするような変な感覚で、熱は全然ないのだけど、高熱が出たときのように関節がしびれ、目の奥がジーンとする(病院に2度も行って薬をもらったのだけど、あまり効き目がない)

 本当に何なのだろう?
 「波動のシフト」の影響か、それとも単に「男性更年期障害」なのかな…。


 閑話休題――。今回は、このブログでは珍しく、時事っぽいネタです。

 僕はテレビを見ないし、新聞や雑誌も読まないし、ネットのニュース・サイトなども開かないようにしている。
 それでも、どこかから否応なしに入って来る「時の話題」というのは、どうしてもある。

 たとえば昨年のちょうどこの時期は、「号泣会見」がそうだった…。
 今は「新国立競技場」の問題がそうで、報道内容にそれほど詳しくはないのだけど、自分にとって何か引っかかるものがあるという感じ。

 その引っかかりというのは、巨額の建設費そのものではなくて――、ばく大なプロジェクトを決定し、それに踏み切っていくプロセスのほうだ。


 きっと同じような見解があるだろうけど、そのプロセスというのは、かつて日本が「日米開戦」へと突き進んでいった状況に、とても近いように思えてならない。

 誰が決定しているのか、誰が責任者なのかが全くあやふやなまま、計画自体がどんどん進んでいってしまい、さらには、まるで成り行きのように、規模が際限なく膨れ上がっていく――。
 そして、すでに「合理性を欠いた状態」になっているにもかかわらず、ストップをかけられるリーダーがいない。

 そもそも国の誰一人としてそんなものを望んでいなかったし、すべての人々が無謀な計画であることを明らかに分かっているにもかかわらず――、もはや「後戻り」できなくなって、もう推し進めていくしかないという状況に陥っていく。


 日本の組織文化は、「70年前とまったく変わらない性質」をはらんでいると言えるでしょう。
 「憲法9条の改正」が議論されているときに、こういう問題が出てくるのも、何とも皮肉というか示唆的というか…。

 日本人は「好戦的な民族」だとはまったく思わないし、「軍国主義の復活」を夢見ている人もたぶんいないだろう(現政権だって、そんなことを直接的に期待しているわけではないと思う)。
 でも、意思決定者があいまいなまま、「合理性を欠いた計画」がどんどん進んでいって後戻りできなくなってしまうという、組織的に「大きな危うさ」を抱えた国であることは――、70年前からほぼ変わっていないんですよね。


 ヒトラーの右腕と呼ばれた、ナチス高官のへルマン・ゲーリングは、国を戦争へと誘導していく過程について、こんなふうに述べている――。

 「国民は戦争を望まない。しかし決めるのは指導者で、国民を引きずり込むのは実に簡単だ。
 外国に攻撃されつつあると言えばよい。それでも戦争に反対する者を、愛国心がないと批判すればいい」


 あまりに単純なことだけど、これは現在もほとんどの戦争に使われている手法といえる…。

 しかも「外国に攻撃されつつある」というのは、結局は世論形成のためのプロパガンダに過ぎなかったりもする。
 ナチス・ドイツでは、ユダヤ人を脅威として位置づけることで、国民をうまく結束させた。
 また先のイラク戦争では、イラクが「大量破壊兵器」をひそかに保有していることが攻撃の根拠でもあったが、最終的にそんなものは存在しなかった。

 前述の、合理性を欠いた計画が後戻りできずにどんどん進んでしまうという性質に加えて、この「外国に攻撃されつつある」というプロパガンダが広まり、「反対する者は愛国心がない」という世の中の空気になっていくと…、
 日本の社会全体として、それほど大きな抵抗感や違和感もなく、戦争への道筋を進んでいってしまう可能性が高いのかもしれないです。


 「戦争のつくりかた」という絵本があって、昨年くらいに動画サイトでも話題になった。
 僕は「きっと憲法改正に反対の人が、最近作ったものだろう」と思っていたら、それよりずっと以前の10年前の本なんですよね。

 賛否両論が色々ある内容だけど、政策決定や世論形成については、言い当てているところがあるように感じます。





 「戦争」と「平和」は、あらゆる両極の中で最も違いの大きいものだろう。
 でもその両極は、事態の大きさに不釣り合いなほど、互いにとても「近い距離」にあるといえる。
 わずかな拍子で、コロッと反対側に転じてしまうくらい…。


 でも、それだけ近いからこそ――、私たちの意志によって道筋を選ぶことができるはずです。

 この世界は、大きく異なる両極がほとんど隣合わせに存在していて、そのどちらを選ぶかは、突き詰めると私たちの「気持ちの問題」であるということ――

 これを、多くの人が認識して生きていくとが大事だと感じます。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Kavin Hoo「Still, Still, Still」。

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  人には、自分を「不幸せ」にする力はあるけれど、
  自分を「幸せ」にする力はない――

 ということを、最近けっこうよく感じます。
 これだけだと手短に言い切りすぎているから、少し補足すると…

 「不幸せにする力」とは、自らの内に「自分は不幸せである」という気持ちを生じさせる能力のこと。

 つまり、「自分にはあれがない」「自分はそういうのに値しない」「自分はこのどうしようもない状況にいる」「もともと自分はみじめな人間だ」――、だからこそ自分は不幸せなのだと考えて、リアルに実感するパターンのことだ。
 この力は、たいていの人は、かなりふんだんに持っていたりする…。


 一方で「自分を幸せにする力がない」というのは――
 人が乞い求める「幸せ」な感覚やエネルギーというのは、もともと私たちの内に「最初からあるもの」であり、それは意志や努力によって生じさせたり、なくしたりできるものではない、ということ。

 幸せというのは、その「最初からあるもの」をただ感じ取るかどうかであって――、自分を幸せにする力なんていうのは、そもそも私たちに必要がないし、そのような力が存在する意味さえないものだ。


 すごく逆説的だけど、前述の「自分にはこれがないから不幸せだ」という色んな条件付けさえ取り去れば(ある意味で覆いを外せば)、内に秘められた「幸せ」な感覚が自ずと表れ出てくる性質があるのだと思う。


 幸せは「副産物」なんかではない。
 何かを達成したり実現したことに伴って、副次的にやって来るものではない。お金やパートナーが与えてくれるものではない。

 幸せというのは、私たちの生における圧倒的な主軸であり、本質的・根源的なものであり、無条件に内在しているものだ。
 それは、私たちに見いだされて表出する機会を、常にじっと待ち続けている――。


 もちろん、自分の望む状況が実現して幸せな気持ちになることはあるし、それは言うまでもなく素晴らしい経験だ。
 ただし、諸行無常・有為転変のこの世において、そうした幸せはけっこう「もろい性質」と言える。

 条件付きの幸せを手にした人にとって、状況の変化は「幸せの終わり」を意味することにもなる…。


 最も強い幸せとは、実現した条件に応じて得られるものではなくて、特定の理由もなく「ただ内に感じる」というタイプの幸せでしょう。
 最初から内にあるそれは、外側の状況に必ずしもよらず、無条件に見いだして感じることもできる。

 でも、それを感じてみようとする人は、けっこう少ない。
 たいていの場合は、幸せになるために必要な条件をとにかく満たそうとして、その裏返しとして前述の「自分を不幸せにする力」を発揮し続けることになってしまったりもする…。


 禅などでの探求は、「無について論じるのではなく、無そのものになる」ことだといわれる。
 教義の知的解釈に努める人は多くても、教えが指し示す「自らの内にあるそれ」に直接的に向かう人は少ないともいわれる。

 「幸せ」についても、同じ図式があてはまると思う。


 たとえ自分の念願がかなわなかったとしても、望みどおりにいかなかった無念の過去があったとしても――、後悔し続ける必要なんか、きっと全くないのでしょう。

 追い求める条件が実現しなかったことによって、あえてその条件付けを手放すことになったのならば、実は良かったのかもしれない。
 もし仮にそれが実現していたとしても、それを通じて本当の幸せになることは、無理だったのかもしれない…。

 そして実現しなかったことによって、「無条件の幸せ」に少しでも近づいたわけだから。


 外側の条件に頼らずに、内なる幸せを感じることは、ものすごく希薄で頼りないことのように思える。

 でも、その精細な幸せを内にずっと感じていれば、おそらく宇宙はそのままでは放っておかないだろう。
 内面の幸せにふさわしい状況が、現れずにいられない――。そういう性質もあるのだろうと感じます。



 結びのヒーリング・ミュージックはDenean「Angels Calling Me」。

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 「スピリチュアル」と「科学」は、多くの場合かなり縁遠い関係といえるけれど…、でもその両者が急接近しているテーマもあります。

 代表格といえるのが「臨死体験」で、今や世界トップクラスの脳神経学者や専門医などが研究に取り組むようになった。
 救命医療の発達によって、もはや無視できないほど事例が増えたことが大きな理由であろう。

 魂や死後世界のことが解明可能なのかはもちろん分からないものの…、科学の立場からも「その存在を認めざるを得ない」という間際まで来ているように思える。


 その臨死体験と同じように、近いうちに科学の対象として注目されそうなのが――
 「不食」のテーマではないかなと思う。

 何年間も食べ物を口にせず、ふつうに生き続けている人たちが、この世界には実在する。
 これは、栄養学的にも、生物学的にも、医学的にも「絶対に100%あり得ないこと」のはずだ。

 「ヒマラヤ奥地でそんな人が目撃された」くらいの話なら、オカルトの延長みたいな形で済ませられる。
 ところが実際には、不食はそれほど珍しいものではないらしく――、1990年代半ばの時点で不食に取り組んでいる人の数は世界で200人いたそうだが、現在では何とヨーロッパだけで4万人にも上るという…。

 ここまで来ると、「なぜそんな人が現に生存できているのか?」「人を生かしているエネルギーとは、いったい何なのか?」という課題に、科学的に切り込んで行かざるを得ないだろう。


 不食をテーマにした本は最近けっこう人気で、僕も先日『食べない人たち』(秋山佳胤ほか著)を読みました。

 秋山氏は現在40代で、水さえも飲まない生活を、すでに6年間続けているそうだ。
 ちなみにこの秋山氏は、理系の名門・東京工業大学の出身でありながら、知的財産を専門とする弁護士として活躍していて、さらには医学博士でもある(それだけで常人ではないような…)

 何も食べずにどうして生きているのかというと――、食べ物の代わりに、空気中や宇宙に満ちているプラーナ(いわゆる「気」)を食べているのだと説明する。
 昔から「仙人は霞を食べて生きている」と言われているのに近いイメージかもしれない。


 もちろん、誰でもすぐに「プラーナだけで生きていける」というわけではない。

 この本の共著者で、15年前から不食の人体実験に自ら挑んでいる山田鷹夫氏は、「徐々に食べ物を減らしていくことを、根気よく長々と続けることになる。いきなり不食に入ることはしない」と語っている。

 まずはふつうの「少食」からスタートし、空腹に慣れはじめたら、体は空気中からプラーナを少しずつ摂取しはじめるのだそうだ。
 そして空腹の状態に心地よさを感じるまでになったら、プラーナ摂取率は50%くらいになっている可能性があるという。

 これをずっと続けてから「1日1食」へと進む。そしてときどき絶食をしたり、ほとんどカロリーのない「微食」を口にするくらいになる。
 こうしていくことで、プラーナ率が70~90%へと高まっていくのだという。


 このプロセスを、3年から10年かけて行うそうだから、本当に気の長い道のりである…。
(先月、俳優の榎木孝明氏が30日間の不食生活をして注目されたけど、おそらく実施にいたるまでに相当な準備を重ねてきたのでしょう)


 山田氏は、不食の最大のポイントとは、「人は食べなくても生きられる」という意識へ転換することにあると語る。
 そして、「断食」と「不食」の違いについて、次のように説明している。

 「断食は『食べなければ生きられない』と考えている人が、わざわざ食べないようにするので、大変なことになるわけだ。だから断食は修行なのだ。しかも半端な修行ではない。間違えれば死に直結するような苦行になる。
 一方で不食は、『人は食べなくても生きられる』という考え方で行う。食べなくても生きられると考える人が食べないようにすることには、本質的に努力はいらない」――


 2500年前のこの方も、まさにその「大変な苦行」をしたわけだけれども…、この場合も頭の中に「食べなければ生きられない」という考えがあったから、ということなのでしょうかね…。

 とはいえ人だけでなく、イエスが「食べ物のことで思い悩まなくていい」という例えで語った「野の花」や「空の鳥」だって、必要な栄養分を補給しないことには生命維持ができない。


 「意識の転換」によって、人間の限界を超えていくというのは、未踏の記録に挑むトップ・アスリートたちのやり方とも同じといえる。そうして「不可能が可能に」なってきた。
 でもそのやり方で、「生き物として命を維持するための必須条件」までをも超越するなんて(しかも本質的に努力せずになんて)、いったい人の体はどうなっているものなのでしょう…。


 この本で僕がとても面白く感じたのは――、不食をはばむ最大の障害とは、なんと「暇」であるという点だ。
 食事をしたり、料理や後片付けの時間がなくなると、1日の時間が本当に驚くほど延びるのだという。

 不食生活を記した「リビング・オン・ライト」の著者であるオーストラリア人女性のジャスムヒーン氏は、不食をマスターする過程で最も重要なのは「退屈さを克服することだ」と述べている。

 また前出の山田氏も、「不食は本当に暇で困る。その結果、精神が爽快でないとき、それをごまかすためについ食べてしまうのだ」と語っている。


 退屈という空白を埋めたり、もやもやした感覚から気持ちをそらすために食べるというのは、いかにも「人間の思考活動らしい」ことだといえる。

 空白をそのまま放っておいたり、すぐれない気分をただ静かに受け入れたりしたら――、きっとエゴ意識にとっては自らの存続を揺るがす、とても不都合な展開が起こってしまうのだろう。

 だからエゴ意識は、暇なときには私たちにテレビを見てほしいし、本を読んだり、パソコンやスマートフォンを見てほしい。
 音楽を鳴らしたり、やらなきゃならない用事をしたり、どこかへ出かけたり、誰かとしゃべったり――、そうして何としてでも気分をごまかし、空白を埋めてもらうことが、エゴ意識としてはものすごく必要なのだ。

 その一環として、実際にお腹がすいているのかどうかにかかわらず「三度の食事を食べてほしい」――、という側面もあるのかもしれないです。


 で、こうした本を読んだ上で、僕自身が不食を実践してみたいかというと…、まぁちょっと、そこまでは思わないです。

 臨死体験が素晴らしいことを理解しつつも、自分が重病や事故に遭って臨死体験をしてみたいとは思わないのと同様。
 不食についても、人間の可能性や、私たちが「生かされている」という真実を裏付ける、ある意味「ものすごく興味深い読み物」として、このテーマに接したいなという感じだ。

 単純に健康のためなら今の「少食」で十分だと思うし、生かじりな知識や姿勢で取り組んでしまうと、本当に命にかかわるだろうから…。


 でも、もし人類が「食べなくても生きられる」ようになったとしたら、争ったり奪ったりする必要性や、権力に支配される理由などはほとんどなくなってしまうだろう。

 私たちの未来には、本当に色んな面白い道筋が敷かれているものなんですね!



 結びのヒーリング・ミュージックは、Deuter「Loving tourch」。

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プロフィル

Koudai Mitsuna

Author:Koudai Mitsuna
 
光奈 広大(みつな・こうだい)

 20年のあまりのサラリーマン生活を経て、いわゆる「ザ・マネーゲーム」を何とか卒業。今では束縛されない自由な日々を存分に味わっています!

 そうした中で心がけているのは、普通の日常的な行いを通じて、意識の進化を目指す「カルマ・ヨガ」。

 日々の喜びや学び、インスピレーションから得たスピリチュアルな気付きなどをブログで紹介しています。

 妻子と都内在住――。





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