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 高校3年の息子が通う学校のPTA役員を引き受けていて、このところ空き時間があれば、秋の文化祭に向けた準備とか、後任への引き継ぎ資料の作成ばっかりやっています…。

 今回は、高校生活にちょっと関連するような話題――


 「微分・積分」は、高校のときに数学で習いましたよね!
 ただ、とくに文系に進んだ人にとっては、わけの分からない複雑で難しい計算ばかりやらされて、単に無意味な苦労を強いられたという覚えしかないかもしれない。
 あの「Σ」とか「∫」の記号を目にしただけで、気分がげんなりしたとかね…。

 実際に社会に出ても、事務や営業職などの場合、あるいは主婦業の場合も、「あの知識が人生で役に立った」なんて経験は、まったく何ひとつとしてないという人が多いでしょう…。


 でも微積分というのは、この世界の現象を分析するための有効な手法であり、数学だけでなく、広範囲な科学分野における枢要な基礎だ。

 例えば、さまざまな機器や建物の設計開発、マーケティングなどに用いる統計、さらには宇宙開発などにも微積分は不可欠である。
 現代の私たちの暮らしや社会の多くの部分が、「微積分法の応用によって形づくられている」といっても過言ではない。

 あの数学の授業のとき味わった気分に似合わずというか――、微積分というのは、まさに人類の劇的なパラダイム・シフトをもたらしてきたわけだ。


 で、その微積分法は、誰が発見したのか知っていますか?――

 答えは、17世紀のイギリスの天才科学者のニュートン。
 リンゴが木から落ちるのを見て万有引力を発見した逸話で超有名な、あのニュートンである。
 「ニュートンの功績は、万有引力よりも微積分法の発見のほうが大きい」という人もいるくらいだ。


 ただし、ニュートンという答えは、実は「半分だけ当たっている」とも言える。微積分法の発見者は、もう1人いる。
 それが、ローマの天才数学者のライプニッツだ。

 ここで非常に面白いのが――、
 ニュートンとライプニッツは、直接的な面識もなく、互いの研究を知ることもなかった。
 それぞれまったく違う場所と立場にいたにもかかわらず、微積分法のアイデアを別々に、そして「ほぼ同時に」思い付いたのだ。


 ちなみに、微積分の論理的な基礎となるのは、幾何学や代数学なのだけど――、
 当時、幾何学はすでに2000年以上の歴史があった。
 同様に、代数学も500年も前から知られていたという。

 そうした伝統ある分野をもとに、人類の跳躍をもたらす重大な新しいアイデアが(関連する論理の蓄積は色々あっただろうけど)、ある意味でいきなり「2人同時に別々に」生み出されたというのは、何とも不思議に思えてしまう…。


 たとえば「電話の発明」とか「南極点への到達」のように、2人の発明家や冒険家が早さを競っていたのなら、ほぼ同時というのはあり得るだろう。

 でも、この微積分法の発見については、そういう状況では全然ない。
 微積分なんてものを当時の世界ではまだ誰も知らなかったわけだし、両者とも、自分以外に同じ研究をしている者がいるということさえ、考えになかったのではないか。

 くだんのオリンピックのマークみたいに、「たまたま似ていた」とか「パクった」というのとも、次元の違う話である…。


 時代を変える発明・発見は、1人の天才のインスピレーションや研究努力によって実現するようにも見える。

 でも実は、そうしたインスピレーションというのは、1人の相手に個人的に与えられるのではなくて――、必要なタイミングで「人類全体にもたらされる」という形なのではないだろうか。


 先日に読んだ『こころのウイルス』(ドナルド・ロフランド著)というセラピーに関する本の中で、こんな考え方が紹介されていた。

 「新たな時代の思考形式やパラダイムは、適切な時代になると、発見されることを待ちわびて空気のように世界中を満たす。
 この新たなパラダイムを敏感に感じ取る人が、その呼びかけに答えることができる」――



 そのような、地球全体を覆う「進化の空気」から、1人の天才だけがひらめきを得ることもあるし――、微積分法のときのように、「2人同時に」というケースが起こってもおかしくない。

 さらには、もっと多くの人々が「進化の空気」をキャッチするということもあるはずだ。
 たとえば、古代人類の道具の利用や、火の発見、言葉の始まり、農耕なども、必要なタイミングになったときにあちこちで生じたのではないだろうか。


 そしていま、人類の「意識」にかかわる「進化の空気」が、地球全体に満ちていっている――
 そういうふうに感じますね!

 きっと敏感な人から、何かを体験したり、インスピレーションを得たり、それを伝えてシェアしたりしているのでしょう。

 やがてそれを起点に――、微積分が世界中の高校の授業にまで広がったのと同じように、新しい意識の変化がこれから広がっていくのだと思います。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Deuter「Nadabrahma Meditation」。


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 誰にでも簡単にできる何でもないことのように思えて、実はものすごく難しいことの代表といえるのが――、「相手の話を聞くこと」でしょう。

 色んな人間関係の問題、とりわけ家族の関係性においては、この「聞くこと」こそが要点だったりもする。
 そして、まさにそれこそがすべてと言っていいくらい、解決の力を発揮するケースもある。


 ミヒャエル・エンデのファンタジー物語『モモ』の中にも、聞くことの大切さが語られている。

 町はずれに住み着いた浮浪児の少女モモを、はじめは大人たちがかわいそうに思って手助けしてあげるのだけど――、
 やがてこの小さな少女がものすごく人の役に立つことが分かり、町の人々が何か困った問題があるごとにモモのところへ相談に行くという場面がある。

 別に彼女が賢いアイデアを出してあげたり、慰めの言葉を与えたりするわけではない。
 モモがしたのは、ただ相手の話をじっと聞くということだけだった。
 物語ではこのようにつづられている――

 「小さなモモにできたこと、それはほかでもありません。相手の話を聞くことでした。なあんだ、そんなこと。と皆さんは言うでしょうね。話を聞くなんて、誰にだってできるじゃないかって。
 ところが、本当に聞くことのできる人はめったにいないものです。その点でモモは、ほかに例のない素晴らしい才能を持っていたのです。

 モモに話を聞いてもらっていると、どんな人も急にまともな考えが浮かんでくるのです。モモがそういう考えを引き出すようなことを言ったり質問した、というわけではないのです。彼女はただじっと座って、注意深く聞いているだけです。その大きな黒い目は、相手をじっと見つめています。すると相手には、自分のどこにそんなものが潜んでいたかと驚くような考えが、すっと心に浮かび上がってくるのです」――


 物語では、殺し合いになりかねない大げんかをした隣近所の男2人が、モモに話を聞いてもらっているうちに互いの立場をだんだんと分かり合い、やがて完全に打ち解けて仲直りするというやり取りが描かれている。
 そのあたりの描写は、さすがエンデと思わせるほど、ファンタジーを超えたリアルな説得力がありますね。


 僕自身も、「聞くこと」によって家族のぎすぎすした問題などが解決されていったという経験は少なくないし、自分の「聞く力」をもっと高めることができればと願っている。

 「聞くこと」について書かれた本の中で、僕にとっていちばん素晴らしいなと思えるのが、鈴木秀子著『愛と癒しのコミュニオン』だ。

 この本で説いているのは「アクティブ・リスニング」という手法。相手の話に進んで耳を傾ける姿勢で、ただ「聞くこと」にひたすら専念するというもの。
 解釈や提案などをいっさい口にせずに、なるほどと言いながら、ずっと共感的理解をもって聞く。

 そうして、「相手の言葉を聞くことで、相手の魂の中に入り込む」、「愛とは全霊をもって聞いて受け入れることで、つまりその人と一致して存在すること」だと著者は述べる。

 アクティブ・リスニングは臨床心理学の手法なのだけど、この本で語られているのは、けっこうスピリチュアル寄りの見方のようにも思える(ちなみに著者の鈴木氏は臨死体験者でもある…)


 ところが実際にこれを心掛けようと思ってもなかなか難しいのは――、話を聞いているうちに、ついついこちらの考えや意見を口にしてしまうことだ。

 私たちは「問題を抱える人には教訓や指示が必要だ」と考え、良かれと思ってそうしている。
 しかしそれが実は、相手の心を閉ざしてしまう最大の要因なのだそうだ。


 話を聞きながら賛成・反対の反応が浮かぶと、その考えがだんだんと心の中で大きな位置を占めてくる。
 すると心の中の「相手の話が入って来るスペース」が狭まってしまう…。

 さらに聞き手が、「聞くこと」と「判断すること」の間を行ったり来たりしていると、自分と相手との意識の距離を遠ざけていくことになる。
 そして、自分の解釈や判断を口にして、「相手を変えよう」という意思を示したならば、相手はその意思に抵抗することに精力を使い、問題自体を見つめなくなるのだという――。


 これはなるほどというか、自分自身が過去に経験した「うまくいかなかった対話」を思い返してみると、当てはまるところがけっこうあるのではないでしょうか…。


 でも、他人事の話ならば、自分の意見を交えずに「聞くに徹する」こともしやすいけれど――、家族との対話においては、ことはそう簡単ではない。

 何しろ相手が口にする批判の矛先が、ほかならぬ聞き手の自分だったりもする。
 また子供が、親の意向に沿わないような考えであれば、それを何とか正したいと思って意見するのがふつうだろう…。

 でも、この本ではこのように強調している――

 「自分を批判する言葉を聞くあいだも心をざわつかせず、言い訳や反対や拒否を返す考えが生じても、引っかからない。
 結論を急ぎたい、丸くおさめたいという衝動を抑えて、相手の話に最後まで付き合っていく。相手と一致して存在し、ひとりで歩み出すまで、全身を耳にして付いて行く」――


 「聞くこと」とは、何ともそこまで難しいものなのかと思えてしまうのだけど…、
 でも、そのために必要なのは実にシンプルで、まずは「沈黙しながらあいづちを打つ」こと、そして「受容の言葉」だ。

 これはたとえば「勉強したくない」という子供に対して、「なるほど、勉強したくないのだね」と応じて、その気持ちを認めてあげること。

 逆に聞く側がよく「非受容」な態度を示してしまうのは、そこに必ず「恐れ」が介在しているためだという。
 家族が相手なら、余裕のなさの度合いが高まり、何とか助けたいと思うゆえに動揺してしまう。
 そうして「恐れ」から逃れるために、評価やアドバイス、非難をしてしまう、というわけだ…。


 アクティブ・リスニングでは、「誰もが自分の問題を、自力で解決する能力がある」と考えている。

 問題を抱えている人でも、最初はいったい何が問題であるのかはっきり分からずに、心に渦巻く非常な不快さを味わっている。
 その感覚や思いを人に聞いてもらうことによって、ストレスで隠されていた自分の心の中をしっかりのぞき込み、自分の声を聞くことができるのだという。
 そこから、覆われていた「潜在意識の知恵」が出てくる。

 「人は、自由に語ることが許され、否定されない安心感があるとき、自主的に自分の問題に答えを出し、人生の中で成長する」――、と著者は語っている。


 そのように言われると、「聞くこと」は単なる受動的な行為ではなく、まさに人を成長へといざなう非常に大きな力なのだなと感じますよね。

 さらに言えば…
 実はいちばん話を聞いてもらって、成長に導いてもらいたいと願っているのは、問題を抱える他者や家族でもなく――、自分自身の内にいる「小さな自分」なのでしょう。

 そうなるとちょっと別テーマになってしまうけれど、方法とか姿勢は今回の話と同じだと思います。



 結びのヒーリングKarl Jenkins「Adiemus」。

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 ある人気作家が、短編小説についてこんなことを語っていました――

 「定評のある優れた短編作家でさえ、せいぜい十編書いて、その中にひとつかふたつ素晴らしい作品があれば上出来だと思う」

 よく、野球のトップバッターでもヒットの数よりアウトの数のほうが圧倒的に多いことは言われるけど、小説の分野でも似たようなことが言えるわけですね。


 確かに、同じ作家の作品がいくつも載っている短編集を読んでも、「これは面白い!」と全面的に評価できるものは、やはりけっこう限られてしまうだろう。
 それ以外の作品はちょっとイマイチだったり、つかみどころがうまく分からなかったりもする…。

 でも、全体がそうであっても、その共感できる素晴らしい一部をもって、自分にとって「とても好きな作家」になることもある。


 同じように、絵の展覧会とかもそうだ。
 美術館の中を一通り見て回って、どの展示品もすべて例外なく素晴らしいと思えるケースなんか、普通まずあり得ない。

 しかしその中に、目を見張るいくつかの作品が一部あれば、「これは見に来てよかった!」と心から感じられる。


 小説や絵、音楽の楽しみというのは、そうした「素晴らしい一部」によってもたらされていることは――、わざわざ言われなくても、誰でも無意識のうちに分かっていることだ。

 だから自然に、素晴らしさに着目するように心がけながら見ている。


 逆にもし、「十編のうちひとつかふたつ素晴らしいものがあれば上出来」といわれる短編小説集の中で――、自分が良いと思える一部はそっちのけにして、他の多くの気に入らない作品のほうに焦点を当てながら、「この作家の書くことは本当にくだらないものばかり!」と批判していしたとすれば…、それはちょっと「エネルギーの無駄」だろう。

 美術展でも、自分にとっては評価に値しないような展示品だけにわざわざ着目して、「見に来たかいがなかった」と感じていたとするならば…、それは「ものの見方そのものを間違っている」とも言える。

 また、例えばCDアルバムをかけるとき、素敵に感じる曲のほうはスキップして、あえて自分が好きでない曲ばかりを繰り返し聴いていたとする。
 そしてふだんも頭の中で、その気に入らない曲のフレーズを延々と再生し続けては、うんざりした気分になっていたとしたら…、それはすごく「生きづらい生き方」をしてしまっている。


 で、こうした小説や絵や音楽のことならば、違和感なくその通りだと思えても――、
 一方で、こと現実的な世界観とか人との関係性においては、まさにそのようなエネルギーの無駄や、ものの見方の間違いや、生きづらい生き方をしてしまっていることが、けっこう少なくないように思います。

 さらには、そうすることをむしろ、自分にとっての価値意識や知性の表れであるとか、相手や世の中のことを思っての行動だと考えているケースまであったりもする…。


 この世界に生きる「喜び」の鍵とは、まさに「素晴らしさ」のほうにどれだけ意識のスポットライトを当てられるか、なのでしょう。

 自分の周りにも、広い世界の出来事にも「素晴らしさ」は確実に存在するはずだ。
 それは数少ないごく一部のことかもしれないけれど、でもそれは、その一部をもって「世界は素晴らしい」と感じるに値するものに違いないと思う。


 ところが私たちのエゴ意識は、そういう見方をすることをいっさい好まないようで――、常にあえて気に入らないものや、嫌悪感をかき立てる問題などに着目するよう、関心の方向を仕向けようとする。
 それによってエゴは、存続するためのエネルギーを得ている。


 素晴らしさにスポットライトを当てることは、決して人生を直視していないとか、嫌な問題から目をそむけているのではない。
 むしろそれこそが、展覧会の絵を見るときのような、自然なものの見方なのだと感じます。


 そして、そうした見方を心がけていると――、やがて自分に起こるたいていのことが「素晴らしいもの」として見えてきたりもします。



結びのヒーリング・ミュージックは、「Tingara」。

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 ブログを書いている人なら、何度か「あれっ!?」という体験をするであろう不思議なこと――
 それは、ブログの内容が、他のブログとシンクロすることがある、ということです。

 その時々のトピック的なテーマなら重複するのは当然だろうけど、そうではなくて、たとえば「今ごろこんな話題を取り上げても…」とか、「こういう話の落とし込み方はどうかなぁ…」と自分でもちょっと思いつつブログ記事をアップしてみたら――、他のブログの最新記事でもまったく同じ話題について書かれていたり、同じような話の落とし込みがされていた、ということがときどき起こる。

 また逆に、「さっき私のブログを書いてからこのブログに来てみたら、一緒のことが書いてあるので驚いた」というコメントをもらうこともある。


 そのような「同じタイミングで一致」というのはいいのだけど、ちょっと困るのは(困るほどのことではないけれど…)、「この話は1回にまとめるには長いので、2~3回に分けて書こう」と思って最初の記事をアップしたら――、最後の回で書こうとしていた内容が、ほかのブログに先回りするように出ていたというケースである。

 後から書くのは、ちょっと気兼ねしてしまうような…
 でも、そうしたシンクロがあると、きっと「この方向でいいのですよ」「私たちはつながっているのですよ」というお知らせだろうなと解釈しています。


 ブログの書き手と読み手の関係で、そういうことが起こるケースも多い。

 「ちょうど自分が求めていたヒントが書いてあったので、初めてコメントします」という投稿をもらうこともときどきある(遠慮されて非公開コメントになっていることが多い)

 それに驚いてしまうのは実は僕のほうで――、そのような記事のほとんどが、自分でも書きながら「どうして今回はこの内容なのだろう?」と、どことなく疑問に思っていたものばかりだからだ…。


 これはときどき言うことだけど、おそらく読む人の意向のほうが先にあって、それが無意識の次元みたいなところを通じて、ブログの書き手へと伝わって来ているのではないかとも思う。

 伝わって来ると同時に何らかのインスピレーションが与えられ、読む人にとって必要なことが、書く人の手を使ってつづられていく。
 そうしてまた何らかの配剤によって、もとの意向を発した読み手が、そのブログにやって来る――、というふうになっているような気もします。

 こういったシンクロは、スピリチュアル系に限らず、ペットとかお料理とか色んなブログでも、同じように起こっていることなのかもしれないです。


 私たちはやはり、どこか見えないところでつながっている――、
 ということを実感する機会が増えたことも、ブログをやっていて本当に良かったと思える点です。

 同じことを感じている書き手や読み手の方も、きっと多いのではないかな。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Michael Stearns「Sabana」。

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 終末期医療の草分けである精神科医のエリザベス・キューブラー・ロスの話は、このブログでしょっちゅう引用しています。

 彼女は、終末期医療のあり方について端的にこう語る。
 「愛において、人生において、臨終において、そばにいることはすべてである」――

 この考え方は、彼女が「わたしの最高の師」と生涯にわたって呼び続けた、ある無名の人物との出会いがきっかけとなっている。
 以前もブログで紹介した有名なエピソードだけど、ちょっとあらためて書いてみますね――


 若き日のキューブラー・ロスが、アメリカの大学病院に勤めていたときのこと、あるとても奇妙な出来事に気が付いた。

 病院には、一人の黒人女性が清掃員として働いていた。
 その黒人女性が病室の掃除を終えて出ていくたびに――、ベッドにいる瀕死の末期患者たちの表情が、明らかに変化しているのだった。
 もはや治る見込みのない状態なのに、精神的に急に元気になっている様子だった。

 清掃員の女性が、医師のいない病室の中で、一体どんなことをしているのか…
 キューブラー・ロスは何としてでも知りたくなり、その女性と廊下ですれ違いざまに、「私が担当する患者たちに、あなたは何をしているの?」と出し抜けに尋ねてみた。
 するとその女性は、「私はお掃除をしているだけです」とこわばった声で答え、すぐに立ち去ってしまった。

 50年前当時のアメリカにおいて、黒人の清掃員が、白人の医学部教授と普通に話をすることの難しさを、スイス出身のキューブラー・ロスは理解してなかったのだという…。


 それから何週間か後のこと、キューブラー・ロスが一人で廊下を歩いていると、その黒人女性にいきなり腕をつかまれ、誰もいない小部屋に連れて行かれた。
 そしてそこで、自身の身の上話を聞かされた――

 彼女は以前、スラム街の劣悪な暮らしの中で子育てをしていたという。
 電気や水道はなく、食べ物も貧しく、医者にかかるなんて特別なぜいたくだった。

 ある冬の夜、3歳の息子が重い肺炎にかかってしまった。地元の病院に連れて行ったが、過去に10ドルの未払いがあったために診てもらえなかった。
 彼女はあきらめず、遠くにある公立病院まで息子を抱いて歩いていった。そこならば、お金のない貧困者でも診てもらえるはずだった。

 その病院で、何時間も絶望的な気持ちになりながら、医者が来るのを待った。しかし、誰も来なかった。
 自分の腕の中で、小さな我が子が死んでいくのを、彼女はただじっと見守るほかなかった…。


 清掃員の女性は、この悲痛な体験を、否定的な言葉を口にせず、人を責めたりせずに、ただ静かに語ったという。
 キューブラー・ロスは、「なぜそんな話を私にしてくれたの?」と尋ねた。
 すると彼女は、こう続けた――

 「私にとって、死はなじみ深いものなんです。死にそうな患者さんの部屋に入っていくと、すごくおびえていることがよくあります。石のように固くなっているもともあります。話してくれる相手が、誰もいないんです。
 それを見ると、私はついそばに行って、体に触れずにはいられないんです。ときには手を握って、心配することはないと言ってあげるんです。私が死をたくさん見てきたこと、死はそんなに怖いものじゃないと。
 あとはただ、そばいにいてあげるだけです。ときどき逃げ出したくなることもありますが、逃げません。その人のために、そばにいてあげようと、思ってしまうのです」


 このやり取りが、延命のみを至上目的としてきた医療のあり方に、キューブラー・ロスが一石を投じていく大きな契機となった。

 それから間もなくしてキューブラー・ロスは、何と、この清掃員の黒人女性を、自分の助手として採用したのだ。
 大学の同僚たちは、その行動に仰天してしまったという…。


 ――以上は、過去の記事でも紹介したことのある内容で、実はここまでが今回の前置きになります。

 このエピソードは、彼女の著書のいくつかに共通して出てくる。
 その一冊に『死ぬ瞬間と死後の生』という本があって、これはキューブラー・ロス自身が執筆したものとは少し違い、彼女の講演を録音したテープを、後年に編集者が書き起こしたものだ。

 そのため、会場での聴衆の反応とか、講演中の言葉の調子などが、カッコ書きで添えてあるところが特徴的である。


 で、講演の中で「清掃員の黒人女性を助手に採用し、医学部の同僚たちから仰天された」というこのエピソードを話したとき――、当然のことながら会場から大きな拍手喝采がわき起こった。

 ところが意外なことに…
 キューブラー・ロスは、その拍手の中に、人々が秘めるとてもネガティブな感情があることに気づき、話を中断してしまう。それに会場の皆が驚いてシーンと静まり返る――、という場面が描写されている。

 そのあたりを、やや長めですけれど、以下に引用してみます――


 「あなたの教師は変装して現れます。子供の姿で、よぼよぼのおばあちゃんの姿で、または黒人の清掃員の姿で、あなたの前にやって来るのです。
 あの清掃員は、自分が何者であるかを知りません。自分がどんな役割を果たしたのか、自分がどれだけの人の命に触れたのかも分かっていません。
 私はこの女性を最初の助手に採用しました。大学の同僚たちは仰天しました(笑いと拍手喝采)。なぜならこの人は……

 (ここで話を中断し、聴衆に向かって穏やかな調子で聞いた)正直に答えてください。さっき拍手をした人の中で、何人が敵意なしに拍手をしたでしょうか?(会場は驚いたようにシーンとなる)
 では何人が敵意を抱いて拍手をしたでしょうか?(静まり返った雰囲気が続く)
 医者や権威に対する敵意でしょうか?(拍手と笑いがばらばらと起こり、やがて「ブラボー」という声)。そうね。でも、皆さんが敵意を抱いている限り、事態が良くならないのは皆さんの責任です(しぶしぶながらという雰囲気だが、拍手が広がる)

 (あいかわらず穏やかな声で)大切なことなので、どうか学んでください。私たちは悪態をつき、疑問を抱き、非難し、見下します。そのようにして非難したり見下したりするたびに、世界に対してマイナスの感情を付け加えているのです。
 (とても穏やかな調子で)もし世の中を癒やしたいなら、まずこのことを理解してください。自分自身を癒やさない限り、世の中を癒やすことはできません。
 誰かを攻撃したり、非難したり、見下したりする限り、ヒロシマ、ナガサキ、ベトナム、アウシュビッツ、マイダネクで起こったことの責任はあなたにあるのです。このことははっきり申し上げます(会場、シーンとなる)」――


 …という内容です。
 もし自分が講演会場にいたとしても、あの話の個所では、ふつう拍手するでしょう。

 清掃員を助手に採用するなんて、今の医学部教授でもあり得ないことだ。
 そんなことを、常識などお構いなしにやってのけてしまう型破りなところが、いかにもキューブラー・ロスらしくて痛快だし――、「権威主義のお堅い医師たちにガツンと言ってやれ!」みたいな皆の共有感覚と場の空気で、拍手がわき起こったに違いない。

 ところが、講演者である彼女自身は、その聴衆の感覚の中に、見過ごすことのできないような敵意や攻撃性が潜在しているのを読み取った。

 キューブラー・ロス自身、十代後半を第二次大戦中のヨーロッパで過ごし、終戦直後に医療ボランティアとして破壊されたポーランドの街やユダヤ人強制収容所の救済に駆けつけた。
 人間がこれほどまで容易に残虐で凶暴になって、地獄絵のような世界を作り出せてしまうという現実をまざまざと知らされた。

 そうした体験を通じて、人の心に潜む敵意こそが「戦争へとつながる真因」であり――、それを癒やさない限り戦争はなくならないし、自らの内を癒すことが「世界に対する私たち自身の責任」であるということを、きっと痛切に感じていたのだろうと思う。


 その敵意は、ほとんどの人に大なり小なりあるものだろう。
 たとえばネット上の書き込みを見ても――、権威のある政治家や有名人だから、いくらでも非難を浴びせても構わないといった考え方で書かれた誹謗中傷はたくさん目にする。

 間違った考えを持つ悪い人物だから、見下すべき犯罪者だから、こてんぱんに攻撃してやろうというものも多い。
 彼らはそうされるに値する者であって、自分は正義を発揮しているのであり、善の側に立っていると言わんばかりに…。


 もちろん、異なる考え方に意見したり、権力者などの行き過ぎに抗議するのはむしろ大事なことだ。
 ただ、外見上はそのような正当な衣をまといながらも、実は内に秘められた「敵意」の現れだったり、それにもとづいた感情のはけ口になっているケースは、本当に少なくないのではないかと思う…。

 反戦や平和を訴える場合でも、特定の政治家などをターゲットに挙げて、攻撃的に非難していることも多い。
 でも、実際に国が戦争に向かうとき――、時の指導者は、人々の心にあるまさにその「敵意」をたくみに利用して、それが敵国への憎しみと戦意に向かうようにうまく仕向けるんですよね…。


 私たちは、過去に日本が日米開戦へと突き進んだのと同じ敵意、ナチスドイツがユダヤ人を迫害したときと同じ敵意、アメリカが原爆投下したのと同じ敵意を――、全人類で共有するように、心の奥底でひそかに抱えている。
 そしてその敵意がある限り、同じような戦争をいくらでも起こす可能性があるだろう…。

 キューブラー・ロスが語った、「自分自身を癒やす」という道――
 それがまさに、地球を戦争のない星にしていくための、本当に唯一の道なのではないかと感じます。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Llewellyn & Juliana「Marble Halls」。

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 きのう8月6日は、70年目の広島原爆の日。
 あさって9日は長崎原爆の日です――。

 有名な『神との対話』の本の2巻目の中で、「神」がアメリカの原爆投下について言及する個所がある。

 そこで神は、「地球という星が直面している問題の中で、子供たちの教育ほど大きなテーマはない」と前置きしたうえで――、
 いまの教育は「社会が積み上げてきたフィクションを記憶させるものだ。世界を無知から遠ざけるのではなく、無知へと追い立てている」と厳しく指摘する。

 そうして、次のように語っている――

 「アメリカでは、日本の2つの都市に原爆を落とし、おびただしい人間を殺傷する結果となった決断について、子供たちにすべてを教えていない。あなたがたが見たがっている事実だけを教えている。
 ものごとを別の視点から、この場合は日本の側から見て、バランスをとろうという動きが起こると――、あなた方は怒り狂い、足を踏み鳴らしてわめきたてる。学校がこの重大な歴史的事実について、データを提示しようと考えることさえ、けしからんと言う」


 この「神」の言うことに対して、著者のウォルシュ氏はアメリカ人の価値意識からこう反論する――

 「アメリカがヒロシマやナガサキにしたことは『悪』だったと考えるべきだなんて、おっしゃらないでください。
 私たちは『戦争を終わらせた』のですよ。何千人もの生命を救ったのです。しかも、敵と味方、両方の人命です。あれは戦争の代償だった。誰もあんな決断はしたくなかったが、そうするしかなかったんです」と…。


 すると神は、「あなたがたは子供に嘘をつくように、自分自身にも嘘をついている」と言って、こう続ける――

 「だまされてはいけない。ほかの人に押し付けられたことを記憶するだけでなく、批判的な考え方をしてごらん。本当にヒロシマに原爆を落とす必要があったと思うかね?
 事実を知る人々の証言を研究したアメリカの歴史学者は、日本は原爆投下より前に、戦争を終わらせたいとひそかにアメリカに打診していた。
 かりにヒロシマの原爆投下が必要だったとしても、それではなぜ、2度目の原爆投下が必要だったのだろう?」――


 日本人の立場としては、ぜひともアメリカ人に考えて見つめ直してもらいたいことだと思いますね…。

 ただ、この話の核心はそこにあるのではなく――、
 「あなたがたは、子供たちが自分なりの結論を出すことを好まない。あなたがたと同じ結論を出させたがる。あなたがたのやってきたことが、子供たちに批判されるという危険があるのが怖いのだ。『私たちは正しかった、おとなしくそう思え』。これをあなたがたは教育と呼んでいる」――と神は強調する。

 この教育のあり方については、日本の私たちにとっても、かえりみるべき重要テーマに違いないでしょう…。


 原爆投下によって何十万もの人々が亡くなった悲劇的現実があり、そして70年という長い歳月を経ながらも――、その決定に対する見解は、今も二分されたままである。
 まして、それにかかわる教育のテーマについては、世界的にほとんど手つかずの状態ともいえる。

 人類の学びは、本当に遅々として進みにくいものです…。


 ただ、ひとつ明確に言えることは――、日本への原爆投下以降、70年間にわたり、人類は一度も実戦で「核兵器を使用していない」ということだ。

 現在もなお、世界には1万6,000発もの核弾頭がある。
 軍拡競争のピークである1980年代後半には、何と7万発もの核弾頭が地球上に存在し、それは「人類を50回も滅亡させられる数」とも言われた。

 冷戦下の国防費負担によって、アメリカは財政赤字を著しく増大させ、ソ連は崩壊した。
 それくらい、対立は深刻を極めた状況だった。


 にもかかわらず、核兵器が一度たりとも使用されず、そのきっかけとなる直接的な武力衝突にも踏み出さなかったのは(さらにいえば、不慮の事故やミスによる発射さえも起こらなかったのは)――、表現は適切でないけど「奇跡的」というか、ある意味で「状況に不釣り合いな出来事」とも思える。

 それはやはり、広島・長崎の現実的経験を通じて、核の時代における大国の武力衝突が「世界を終わらせてしまう」ことが、政治や軍事関係者の頭にはっきりあったからではないか。


 だから、今こうして私たちの社会が無事に存続できているのも、何十万の人たちの甚大な犠牲によって発せられた世界への「警告」が力を持って働いていたからであり――、それによって何億人(あるいは何十億人)の人々を救っているのではないか、というように感じます。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Frederic Delarue「Peace」。

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 以前、このブログでは珍しい時事ネタとして、「新国立競技場」の問題について触れました。

 誰が責任者なのかがあやふやなまま、計画自体がどんどん進んでいって規模が膨れ上がり、合理性を失った状態に陥っていくというのは――、かつて日本が「日米開戦」へと突き進んでいった状況に近いのではないか、という内容でした。

 先日に新国立競技場の計画は、全面見直しとなった。
 当然のことといえるけど、後戻りできない状況からいったん足を引き抜くという意思決定は、とても大事だと思う。

 のちの関係者の発言を見ても、本当にどこにも責任者が存在していないんですよね…。

 これほどの一大プロジェクトが、よくもまぁこのような状態で進められてきたものだと驚いてしまう。

 誰がどう考えても、東京スカイツリー4本ぶんもの建設費がかかるスタジアムなんて、今後の日本に必要なはずがないでしょう…。


 しかし、予算をとんでもなくオーバーした巨大プロジェクトでも、「これは作って良かった!」と皆に思われるものもある。

 その代表格が、かつての国鉄が作った「東海道新幹線」だろう。
 計画された予算は1700億円だったが、物価高騰などによって最終的な総工費は、その倍以上の3800億円に上った。

 当時の世論では、「これから自動車や航空機の時代になるのに、どうして鉄道を作る必要があるのか」と散々に批判されたという。
 「世界三大無用の長物は、万里の長城、戦艦大和、新幹線」とまで揶揄された。


 ただし新幹線の場合は、明確な「責任者」がいた。

 その主要な一人が、新幹線の生みの親である国鉄技師長の島秀雄だ。

 かなり著名な人物だけど――、
 父親の島安次郎は、蒸気機関車の名機「D 51(デゴイチ)」の設計者で、また戦前に発案された東京-下関を結ぶ「弾丸列車計画」にも携わった。

 この「弾丸列車計画」は戦局悪化のため消滅してしまったのだが――、父親と同じ鉄道技師の道を歩んだ息子の島秀雄が、戦後の「新幹線計画」の指揮を執ったわけだ。


 当時、旅客列車のスピードは時速160kmが限界というのが世界的な常識だった。
 そんな時代に、「営業速度210km」を計画の前提に掲げ、そのために必要な振動や騒音などの技術的難題を次々に克服。
 そして着工から5年後、東京オリンピック直前の1964年10月1日に見事開業した。

 ところが、東京駅で行われた華々しい新幹線の出発式には、当の生みの親である島秀雄の姿はなかった。
 予算超過の責任をとって、自ら国鉄を退職したのだ。式の様子はテレビで見たという。

 実にいさぎよい身の振り方ですよね…。

 最近は記者会見とかで辞任を問われた経営トップや政治家が、「引き続き責任者としての職務を全うしていきたい」とか発言して、要はポストに居座り続けたがる人はよく見るけれど…、それとは価値意識をまったく異にする生き方だと思う。
(国鉄を退職した島秀雄は、後年に「宇宙開発事業団」に転身した)


 現在の新幹線の便利さは、多くの人が認めることだろう。
 ちなみに、もしも東海道新幹線が存在しなくて、それを航空機でまかなったとしたら――
 世界で最も旅客数の多い航路が実は「東京-札幌」間なのだけど、その9倍の乗客が「東京-大阪」間に集中することになるそうだ。
 羽田空港のキャパシティーからしても、それはどう考えても無理といえる…。


 またイギリスのエコノミスト誌によると、もしも新幹線の輸送をすべて自動車で代替したとしたら――、
 年間に交通事故によって1800人が死亡し、1万人が負傷してしまう計算になるそうだ…。


 そう考えると、倍以上の建設費がかかったとはいえ、「やはり作って良かった」と誰もが思えるはずだ。


 ここでちょっと、スピリチュアル的に思いつくことを付け加えると――

 「人生のあらゆる出来事は、100%自分に責任がある」ということがよく言われる。
 でもたいていの場合は、「私のせいではない」とか、「あの人にこうされたから」「こんな状況が悪い」と考えて、自分の責任であるという認識を持つことを避けてしまう。

 一方で相手のほうだって、こちらに対する何か責任があるとは思っていなかったりもする…。

 そして、まるで新国立競技場計画のたらい回しみたいに、どこに責任があるのかはっきり見えない状態のまま、誰もストップをかけることなく――、色んなわだかまりや未消化のエネルギーを抱えながら、自らの人生がどんどん先に進んでいってしまう――
 そんなケースって、少なくないように思います。


 もちろん出来事が起こるメカニズムとしての原因は、自分以外のどこかにあるだろう。

 でも、それによって起こった現実を引き受けて、自分の反応パターンや感情エネルギーを癒やしたりするのは――、やはり「自分の責任」以外にあり得ないのだろうと思います。


 とは言え、ふつう「100%責任を取る」というと、何とか問題解決しようとして頭を悩ませたり、努力奮闘しようとするのが通常だ。

 そうしたプロセスにも大事な意味があるけれど――、それを続けることはいわば、前述の「ポストに固執し続ける人」みたいなものだと思う。
 本当に責任を取るということは、まさに責任者としての自分の地位を「辞任」すること――、つまりきっぱり「明け渡してしまう」ことだと思うのです。


 「コントロールを手放す」とか「すべてをゆだねる」ということをよく言われるけど、それを徹底してできるときというのは――、もはや自分ではどうにもできない問題に押しつぶされて、苦悩と「絶望」のどん底に落ちてしまったときだろう…。

 そのような状況下で、本当の内的な解放や、意識の目覚めが起こったという体験談も色々ある。


 でも幸か不幸か、私たちのほとんどは、そこまでは絶望していない。
 そして、自分なりに頑張れた人生、そこそこの人生、人によっては多少誇らしい人生を築いてきただろう。
 もちろん「新幹線」のような立派なものには見えないけれど、どんなものでもそれは、一つの生のプロジェクトの達成である。

 ただしその達成の半面で、自分の中に色んな感情エネルギーやエゴ意識をどんどん増大させてきている。
 そのことに対し、私たちはきちんとけじめを付け、その責任者としての立場を辞任しなくてはならない…。


 それが、これから多くの人が直面していくことではないかな、と思います。
 そして、「絶望」を抜きに、そのような「明け渡し」が可能な時代になっていくように感じます。



 結びのヒーリング・ミュージックは、TINGARA「神々の時間」。

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プロフィル

Koudai Mitsuna

Author:Koudai Mitsuna
 
光奈 広大(みつな・こうだい)

 20年のあまりのサラリーマン生活を経て、いわゆる「ザ・マネーゲーム」を何とか卒業。今では束縛されない自由な日々を存分に味わっています!

 そうした中で心がけているのは、普通の日常的な行いを通じて、意識の進化を目指す「カルマ・ヨガ」。

 日々の喜びや学び、インスピレーションから得たスピリチュアルな気付きなどをブログで紹介しています。

 妻子と都内在住――。





http://facebook.com/koudaimitsuna

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