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 電話機で操作するテレフォン・バンキングや、宅配便の再配達サービスなどの音声案内でよく、「最初に『米じるし』のボタンを押してください」というのを聞きますよね。

 でも、手元のボタンをよく見てみると分かるとおり――、電話機にあるのは「*」であって、米じるしの「※」ではない。
 「米じるし」と呼ぶには、明らかに画数からして足りない…。

 もし小学校の漢字テストで、「米」の字を「*」のように書いたとしたら、必ずバツが付けられるはずだ。
 つまり、あのボタンを「米じるし」と呼ぶのは、情報として明らかに間違いと言える。


 電話機のボタンにある「*」の正しい呼称は、「アステリスク」もしくは「スター・マーク」という。

 しかし――、もしも音声案内で、「最初に『アステリスク』のボタンを押してください」といきなり言われても、たいていの日本人は、何を押していいやら分からないだろう。
 これは手に負えそうもないと思い、電話を切ってしまう人もいるはずだ…。

 あるいは、スター・マークだから「星じるし」という呼び方をしたとしても――、「☆」のボタンはどこかと探して、「おやすみモード」の操作ボタンを押すかもしれない。


 この場合、案内の言葉をいくら「正しい」ものにしても、その言葉はあまり役割を果たさないといえる。
 聞く人に、しかるべき「*」のボタンを押してもらうことこそが、音声ガイダンスのそもそもの目的なのだから。


 同じく、電話の音声案内で、「暗証番号の後に『シャープ』を押してください」というもあるけど――、実はそれも間違っているのだ。

 電話機のボタンにある「#」のボタンは、正しくは「パウンド・キー」と呼ぶ。


 パウンドの記号の「#」は、横棒が「水平」だ。
 一方、シャープは「♯」で、こちらのほうは横棒が「斜め」という違いがある。

 そんな細かいこと言うなよと突っ込まれそうだけど――、音楽記号のシャープの場合、楽譜の五線と重なっても分かりにくくならないようにと、横棒が斜めになっているわけだ。
 ちゃんとした理由がある、異なった文字なのである。


 でも、これももし音声案内で正確に、「暗証番号のあとに『パウンド』のボタンを押してください」と言ったとしても…、前述の「アステリスク」と同様に、ほとんど通じないだろう。


 スピリチュアルの分野では、私たちの日常感覚では到底とらえきれない本質的なものごとを、言葉によってあくまでも「便宜的」に表現しながら語られているケースが大部分だ。

 しかもそうした言葉には、人によって定義やイメージが相当にまちまちな、観念的な用語が使われている。
 「真我」とか、「空」とか、「本源」「愛」「意識」「ハート」「魂」……

 そして、嘘も方便というか、「*」を「米じるし」と呼ぶみたいに――、言い方や考え方としていくぶんポイントが違ってしまっても、「日常表現に近い、より伝わりやすい言い方」があえてされている場合もよくある。


 で、そのときに、自分が持っている言葉の定義をもとに、言い方や意味付けの「正しさ」を論じても、あまり意味がないだろう。
 「米じるしというのはまったくの誤りであり、それはアステリスクが真実だ!」「愛とは、空とは、宇宙とは、こういうもののはずである」とか…


 大切なのは、言い方の正しさよりも、ガイダンスが示す「*」のボタンを押すこと――

 すなわち、言葉が指す「それ」そのものに、意識を向けることである。


 言葉や教えというのは、あくまでも「道しるべ」にすぎない。
 道しるべは、「目的地を指す」ものであって、「目的地に立っている」わけではない。

 ところが、その道しるべの前にとどまって、かんじんの指しているものには目を向けないまま――、道しるべそのものの形とか、由緒とか価値とかを、いつまでもあれこれ言っているようなケースって…、案外少なくないですよね…。


 結びのヒーリング・ミュージックは、James Harry & Juliana 「A Trusting Gaze」。
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 「真理は言葉にできない」ということは、よく言われることです。

 ただ、言葉にできないそれを、余計な装飾のないぎりぎりの言葉によって、何とか指し示そうとするものもある。
 たとえば「非二元」の立場はそうだろうけれど――、ただそうした言葉は、多くの人にとってもはや「教えとしての情報性」さえないような場合も少なくない…。


 そこで、私たちが聞いてある程度の「意味」を受け取れる言葉にするためには――、
 どうしても、この物質世界や、分離した個人や、相対的な関係性や、社会生活という枠組みに立脚する必要があるとも言えるだろう。

 さらにその上に、いろいろな理屈とか、仕組みとか、技法とかの話を盛り込んでいかなくてはならないのかもしれない。


 こうした「言葉にできない真理」と、「非二元の教え」と、「二元的な観点」って、それぞれが明らかに矛盾している。
 でも、「どれが正しくて、それ以外は誤り」というものではなくて、いわば表現する「層位」の違いであり、プロセスの違いなのでしょう。


 インドのラマナ・マハルシは、近代・現代の覚者の中でも、とりわけ著名な一人だろう。
 彼の質疑応答を集めた『あるがままに』の本で、弟子である編集者が序文を書いていて、その中でラマナのいわば「教えの変遷」のようなものが、とてもコンパクトに述べられている。

 ラマナ・マハルシは16歳のときに意識が覚醒して真我に目覚め、その状態に没入したまま何年も山の洞窟や付近の寺院で暮らしていた。やがて彼のもとに帰依者が集まるようになり、師としての活動を始めた。

 その当初の教えの様子は、次のようなものだったという――

 ラマナはほとんど話すことはなく、彼の教えは特異な方法で伝えられていた。言葉による教えを与える代わりに、彼は絶え間なく「沈黙の力」を放射し続けたのだ。
 それに同調した者は心を静められ、ときによっては、ラマナ自身が絶えず没入している状態への「直接体験」さえも与えたのだった。


 これはまさに、常人のなせる技ではないです…。
 その沈黙のまなざしや、神聖なエネルギーに打たれて、何人もの意識のあり方が変わっていっただろう。

 ただし「それに同調した者は」と書いてあるように、真価を受け取れたのは、やはりけっこう限定的だったのではないかな。
 おそらく、聖者がいるという噂を聞いてやって来た人の中には、「ふんどし姿のおっさんが、じっと黙って座っているだけで、何だかよく分からないなぁ…」というケースも、多かったに違いないと思う。


 そうしてのちに、彼の教えのやり方は少し変化していく。
 沈黙だけでなく、そこに「言葉」が加わるようになった――

 後年にラマナは、言葉による教えを与えるようになる。
 しかし、生涯を通じて彼は、「沈黙の力」こそが自らの教えの最も直接的に凝縮された形であり、言葉による教えは、沈黙を理解できない者たちに与えられたものであると強調していた。

 言葉による彼の教えの最高度の表現は、「ただ意識だけが存在する」だ。
 分割不能な普遍の意識のほかには、いっさい何も存在しない――。人々があまりにも自己限定の観念に巻き込まれていたため、ラマナはその観念を捨て去るように勧めた。


 その表現を、今ふうに言えば、「個としての『私』はいない」「この世界は、一つの意識が色んな形をして現れているだけ」、という感じでしょうかね。

 ただ、そう完結的にシンプルに言い切られても、聞く人は「???」と、ただ黙ってしまうしかない…。


 前述の「同調」の場合と同じように――、たとえば非二元について人々に説けるくらいに理解を深めていて、でもつい習慣的な個としての観点に舞い戻りがちな人にとっては、理屈も知識も抜きに本能的にスパッとそう言い切る言葉によって、「おお、その通り!」という新鮮な気付きはあるだろう。

 でも、それもまたかなり限定的なものであって、普通は「だから何?」「もっと実践的な導きが必要」というふうになるのでしょうね…。


 実際に、ラマナのところへ訪れる人々は、そうであったようだ。
 そしてラマナ自身も、それに応える形の教えを説くようになった――

 それでも多くの人たちは満足できず、他の方法についての助言を求めたり、理論的・哲学的な討論に彼を引き入れようとした。
 そのような人々に対して、ラマナは一時的に彼の絶対的見地を捨て去り、尋ねられたレベルにふさわしい助言を与えたのだった。

 人々の異なった必要性に応じるというこの方針は、必然的に多くの矛盾をもたらすことになった。
 例えば、ある人に向かって「個人としての自己は存在しない」と告げたかと思えば、別の人に向かって、個人としての自己がいかにして機能し、因果応報を重ね、輪廻転生するかを語ったりした。


 初期の「沈黙の力」だけによる伝え方とは、ずいぶん大きな違いを感じますよね。

 一方で、そうしたラマナの教えには、「幸せ」や「進歩」「境地」といった表現が盛り込まれ、とても取っ付きやすく、多くの人に理解しやすいものになったといえる。


 もちろんそれは、意図的に人々に迎合したのでなく、教えのレベルを引き下げたわけでもないはずだ。
 ただ、教えとしてそのように現れ、自然に展開されていったものなのだろう。

 ラマナによる多様で矛盾する説明というのは、その質問者が今いるのと同じ見地に立って、そこから指し示したものであって――、指し示す先にあるものは、まったく変わらないと思う。

 『あるがままに』の編集者は、こう記している――

 ラマナ自身の体験による絶対的見地からすれば、「ただ意識だけが存在する」という観点こそが、矛盾する形で表された真理を評価できる、唯一の基準なのだ。
 この基準から外れた他の表現がいかなる程度であろうとも、それらは「希釈された真理」であるといえる。


 このように、ラマナ・マハルシの教えは、「沈黙」→「非二元」→「二元的な観点」という変化をたどったといえる。

 他方、私たちのスピリチュアルな学びは多くの場合、それとちょうど逆の順に、「二元的な観点」→「非二元」→「沈黙」といったプロセスで進んでいくのだろうと思います。


 ところで、アルコールのことを「スピリッツ」と呼ぶけど――、人がそれを飲み物として楽しむためには、ある程度の薄さに「希釈」する必要があるのかもしれない。

 100%のアルコールがもはや飲用物ではないように、完全に純粋な真理というのは、個としての生身の人間が取り入れられるものではないのかもしれないですね…。



 結びのヒーリング・ミュージックは、John Serrie「Once in Royal Davids City」。
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 僕は東京・杉並区のマンションに住んでいます。
 3階なのだけど、ゆるやかな坂の上に立地しているためか、ベランダからけっこう遠くまで見晴らせる。

 4年前に越してきて間もなくのこと――、
 夕暮れの時間になるとときどき、暗くなった南東の空に、不思議な光の点が何個も浮かんでいることに気が付いた。

 記事タイトルの下にあるのは、「こんなふうに見える」という光景を、パソコン・ソフトで描いてみたもの(最初は写真を載せようと思ったのだけど、暗い中で望遠ズームを使うと、うまく撮れなかったので…)


 どうです。見るからに奇妙な感じでしょう。

 この光、多いときには6~7個くらいが空中に並んでいる。
 ほぼ静止しているようなのだけど、よく見れば少しずつ動いているのが分かる。

 じっと観察していると、いちばん左側の光だけが、だんだんと輝きを増していく。
 そして、かなり明るくなると同時に徐々に地上に近づいていき――、街の向こうへと、吸い込まれるように消えていく。


 しばらくすると、2つ目の光が、同じように街の向こうに降りていく。

 さらには――、夜空のどこかから、別の光が現れて来て、いくつも並んだ列の中に加わっていく。
 まるで「編隊」を組むように…。

 そのような動きが、ゆっくりと何度も繰り返されていく。


 この謎の光が現れるのは、天気の良い日の3~4日に1度くらい。
 時間は、夕暮れから夜8時か10時ごろまでで、深夜になるといなくなってしまう。

 高校生の息子は、「うわーっ、これはUFOだ!…」と目を輝かせて眺めていた。


 あまりにも奇妙なので、地図を見てみると――、家からその方向の5kmほど先に、野球グラウンドや陸上トラックを備えた広い運動公園がある。
 調べてみたら、過去に防災訓練でそこにヘリコプターが着陸したこともあったらしい。

 きっと、人がいなくなった夜の運動公園で、消防や警察などのヘリが集まって、合同で訓練をしているに違いない――、という、僕なりの推論に至った。


 それから今までの数年間、光の編隊は何日かに1度、当たり前のように現れ続けた。

 その様子を眺めているうちに、どうも「ヘリの合同訓練」という推論は当てはまらないような気がしてきた。
 というのも、頻度があまりに多いからだ…。

 いくらなんでも、3~4日に1度(ときには連日)同じ訓練を何年も続けているのは妙である。

 しかも運動公園の周りは住宅密集地だから、あれだけの数のヘリが上空を飛んでいたら、騒音が家の中にも響いてくるはずだ。
 夜10時まで続けていたら、住民からの苦情が殺到してしかるべきである。

 だが、そのあたりに住んでいる知人からも、そのような騒音問題の話は聞いたことがない。


 どうも不可解で仕方なので、空に光がいくつも現れたある晩、自転車を飛ばして、いったいどんな様子なのか実際に見に行ってみた――

 ところが、運動公園に着いたときには、ちょうど訓練が終わったのか、すでに1機のヘリも飛んでおらず、何かが行われた形跡などもまったくなかった。
 夜の暗い運動公園に1人ぽつりと立って、まるで狐につままれたような感じだった…。

 空振りに終わった別の日にも、再度、自転車を全力でこいで急いで行ってみたのだけど、同じ状況だった。


 疑問がまったく晴れないので、色々とネット検索をして調べてみると――、
 杉並区議会議員の人が、何年か前に「杉並にUFO!」というブログ記事を書いているのを見つけた。

 記事では、杉並区の上空を毎日、多くのヘリが低空飛行をしていることを取り上げている。
 同じ場所を旋回したり、ひどいときには夜10時にサーチライトを照らしながら飛んでいるとのことだ。

 それを読んで、「そう、まさしくこれ!」と思った。
 この議員の事務所の住所を見ると、ちょうどあの光が見える方角にあたる。


 で、さすが区議会議員だけあって、警察庁や消防庁、自衛隊基地などに、「いったいどこが、こんな非常識な飛ばし方をしているのだ!」と問い合わせたそうだ。
 すると何と驚いたことに――、どこも「そのようなヘリを飛ばしていない」という返答だったという。

 つまりそれら何機ものヘリは、どこのものなのか正体不明で、文字どおり「未確認飛行物体」ということになる…(その議員のブログ記事では、「残るは米軍の可能性しか考えられない」と結んでいた)。


 さらに踏み込んでネットを調べてみると――、
 ずいぶんオカルト的な内容なのだけど、UFOがヘリコプターや飛行機などの形状に「擬態」するなんていう話もあった…。

 誰もが見慣れたものに姿を変えることによって、地上の人々から怪しまれることなく、都市の上空を好きに行き来できるわけだ。
 なるほど確かに、もしも自分が宇宙人の立場だったら、きっとそうするでしょうね。


 ひょっとしたらあの不思議な光は、ヘリの編隊に姿を変えたUFOなのでは、なんてふうにちょっと本気で思えるようにもなった。
 もしかして、光が降りていく場所には、UFOの秘密基地が…。


 そのようにも思いながら、つい先週のこと――、
 光が現れた夕暮れにベランダに出て、「いったい何なのか?」と問いかけるように、しばらくじーっと眺めていた。

 すると、まったく前触れもなく急に、ふっとひらめくものがあった。
 ひらめにき少し遅れて、「もしかして、でもまさか…」という思考がわき上がった。


 部屋に戻って地図を広げてみると、
 家からその運動公園を超えた、さらにずーーっと先のところ位置しているのが――、羽田空港である…。

 ええっ!? これは意外というか…、あまりに当たり前というか…、でもそんな遠い場所のことまで、考えてみたことがなかった。

 しかし、羽田までは電車で1時間半(直線で約30km)もの距離がある。
 それに、ジェット機のライトならば、「上空で静止している」なんて動きはあり得ないはずだ。
 どういうことなのか?――


 で、今は本当に便利な世の中になったもので、「Flight Radar 24」というサイトで、世界中の旅客機がどのように飛んでいるのかをリアルタイムに見ることができる。
 それで羽田空港を見てみると――

  このように、夕方の時間になると、着陸してくる飛行機が、行列をなして順番待ちをしているのが分かる。
 まるで回遊する魚の群れみたいですよね(管制官の仕事は大変だろうな…)

 で、僕の家の方向というのは、羽田に着陸してくる飛行機の列を「ほぼ正面から見る」位置にある。

 つまり、飛行機が横方向に動くことなく、まるで止まっているかのように見えながら、どんどん近づいてきて着陸する、という格好だ。
(まっすぐな線路のかなり遠くに、こちらへ走って来る電車があっても、ほとんど止まっているように見えますのもね)


 着陸する飛行機は「ランディング・ライト」という、車のヘッド・ライトみたいな強力な明かりを灯しているから、正面方向からは相当遠くからでも見えるのだろう。

 羽田空港に着陸するその飛行機の列を、東京湾から撮影した写真がネットにあるのを見つけました。

  あー、まさしくこれですね。

 ここまで分かれば、もう納得…。


 また空港に着陸していく進入ルートは、天候や風向きによって変更され、さらには「深夜ルート」というのもあるそうだ。
 そうならば、光が何日かに1度現れて、夜中には見えなくなるという理由もよく分かる。


 「なんだ、UFOではなく空港だなんて、あまりにもつまらない」「ぜんぜんスピリチュアルな話じゃないではないか」と思われるかもしれないけど…


 でも、超常的な真実ではなくても、こういう当たり前の答えが「急にふと分かる」というのもまた、大切で素敵なことのように感じます。

 何年間もずーっと謎だったのが、何げなく「問いを発した」とたんに、特に手掛かりもないのにその答えが浮かび上がってきたり、どこかから与えられたりする――
 これもまたきっと、見えない力の働きの一環なのかもしれませんね。


 また、パソコンで着陸機のリアルタイム情報を参照しながら、「へー、あの光の点は、札幌から飛んできた便なのか」「今度はバンクーバーから、これはパリから」…
 なんてふうに眺めていると、胸の奥にいとおしい旅情のようなものが湧いてきて、なかなか感慨深い趣があるものです。


 ところでだけど、前出の区議会議員の人がブログに書いていた「未確認飛行物体」のヘリについては、どうやら未解決のままのようだ。

 実は――、着陸する飛行機というのは見せかけであり、本当は「羽田空港に擬態したUFO基地」という可能性も…、完全にゼロというわけでもないです。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Llewellyn「Archangel Ariel」。
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 優れた作品を世に送り出す芸術家、革新的な発明・発見をする科学者たちは、いわゆる「チャネラー」のような存在だろう――、という話を前回記事でしました。

 そうした観点から、ある有名作家は、「私は単に、水を流して庭にまくためのホースのような存在に過ぎない」というふうに語っている。


 それと同様にと言うか、なおさらと言うか――、スピリチュアルのメッセンジャーに至っては、まさしくそのような「ホース」と呼べる存在だろう。
 そしてときに、そうした人や教えに対して、「ホースはホース」という割り切り方が、けっこう大事になることがあるのではないかなとよく思う。


 「ラブレターを届ける郵便配達人に、キスをしてはいけない」――
 これは、インドの神秘家OSHOの言葉だ。

 本当に大事なのは、言うまでもなくラブレターであり、送り手とのハートの結び付きそのものである。
 にもかかわらず、手紙を届けに来た郵便局の人にキスしたくなるのは…、(それくらいの気持ちの高ぶりも分からなくはないけど)やはり見当違いといえる。


 でもスピリチュアルのメッセージの場合、その内容が特別に大切なものだけに――、それを届ける「郵便配達人」のことも、「特別に大切な存在」として思うことが通常である。

 もちろん、そうしたメッセンジャーが敬愛すべき人物であることは多いし、魂を鼓舞するメッセージを語れること自体、進んだ精神性の持ち主とも言える。
 その人に長く深く寄り添うことによって、自分が求めるメッセージの真髄に近づいていく、というプロセスも当然あり得るだろう。


 ただ一方で、ずっと特定の人物なり教えに傾倒し続けることによるマイナス面というのも、やはり場合によって少なからずある。

 そのひとつが――、その人の言葉やガイダンスだけを特別視するフィルター(同時に、他の矛盾する考え方を除外しようとするフィルター)を、自らの内に養ってしまうことだろう…。


 何年も前だけど、トヨタの高級車「セルシオ」の広告コピーに「セルシオか、それ以外か」というのがあって、実にうまい言い方だなと思ったことがある。

 選ばれるべき特別な車。それが「セルシオ」であり、その誇るべき品質からすれば、メルセデス・ベンツも、BMWも、ジャガーも、全部「それ以外」というくくりになる、というわけだ――。

 もちろんこれはトヨタの「売り文句」であって、普通そこまで思い入れのある一般ユーザーはそういないはずだ。


 ところが、ことスピリチュアルの分野となると…
 たとえば、「OSHOか、それ以外か」(これはあくまでも例としての当てはめですよ、たとえばの)、といったような特別な位置づけが、かなりよくあると言える。

 その対象が特定の人物のこともあるし、もちろん宗派などのグループであることもあるし、さらに目に見えない精霊や宇宙人という場合だってある。

 でも、どれほど素晴らしいメッセージが内包されていていようとも、やはりそれを届けるのは「郵便配達人」であり、あくまでも「ホース」なのだと思う。

 本当に大切なのは、自分は何を受け取るか、それを通じて何に気づくかであって――、どのホースを特別に信奉するかでは当然ないはずだろう。


 誰にとっても普遍的なスピリチュアルなホース(教えや言葉)というのは、きっと存在しない。

 たとえば、イエスの教えとは何のかかわりもなく生きながら、「愛」の本質について気づく人だってもちろんいる。

 また目に見えない精霊や宇宙人や神だって、それ自体がメッセージの本源・本質というわけではなくて、それもまた「仲介する存在」に過ぎないと思う。

 ある人には有効で崇高な教えであっても、別の人にとってはそれほど必要がないもの、というケースだっていくらでもある。
 その教えだけが「あらゆる人にとっての唯一の道」ということは、決してあり得ないのだから。


 でも、そのような可能性をあまり踏まえる気もなく、「こちらこそが選ばれるべき正しい考え」「これこそが付いて行くべき人や教え」という信念を強調したくなったら――、
 そういうときこそ、「ホースはホース」という見方が大事なのだろうと思います。

 特定の人や教えを迷いなく信じたからこそ、大切な真実を見いだせることもあるし、プロセスとしてそのような一時期が必要な場合もあるだろう。
 ただ一方で、そうした固執が、自らの可能性を制約してしまうことだってある…。これが、「傾倒」がもたらす最大のマイナス面といえる。

 そのマイナスを避けるためには、あるホースだけを特別視するのではなく――、色んなスピリチュアルのホースからのメッセージを自分なりに「編集する能力」というのは、やはりどこかで必要だろうなと思う。


 そこで本当に頼るべきは、自分の「直感」と「出会い」なのでしょう。
 それはきっと、私たちに「与えられているもの」だと思います。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Kamal「The Quiet Earth」。
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 僕は、色んなジャンルの本の中でも、スピリチュアルなファンタジー物語が特に好きです。

 過去にも何度か書いたことがあるけど、そのベスト3を挙げるならば――

『アルケミスト』(パウロ・コエーリョ)
『モモ』(ミヒャエル・エンデ)
『アミ 小さな宇宙人』(エンリケ・バリオス)

 ――という感じ。
 「私も同じ!」という人も、きっと多いでしょう。


 で、これらの本は、著者が「自分で物語を思い付いたわけではない」と明言している(あるいは示唆している)ところが、共通点ともいえる。

 まずパウロ・コエーリョは、『アルケミスト』を書いたときのことについて、「特別なゾーンに書いてあったものを、ただ書き写しただけ」と語っている。
 それは「創作」というよりも、「すでに完成しているものを、天からこちら側に下ろした」ような感覚だったそうだ。


 ミヒャエル・エンデも、『モモ』の物語のあとがきで、「白状すると、この物語は私が人から聞いたものを、そのまま書いたのだ」とはっきり記している。
 彼が1人で長い旅をしていたときのある晩、夜汽車でたまたま奇妙な旅行者と一緒になり、その人が夜通しこの話をしてくれたのだという。

 もちろん、あとがきにそんなミステリアスな物語性を加味しているところが、エンデらしいのだろうけれど…
 でもおそらくきっと、まるで誰かから話を聞くように物語のアイデアが浮かんできて、その状況を「夜汽車で奇妙な旅行者が語ってくれた」と表現しているのではないかなとも感じる。


 エンリケ・バリオスの『アミ』の物語では、主人公の少年が宇宙人のアミの円盤に乗り、進化した星での暮らしや、地球を救うための「愛」の大切さを伝えられる。
 そして少年はアミから、この体験を一冊の本に書くよう言われる。「子供向けの童話のように、おとぎ話のように書くんだ。そうでないと人はみな、きみを嘘つきか、頭がおかしいと思うからね」と――。

 そのためこの本は、実は著者の不思議な体験がもとになっているのではないか、という憶測も起こった。
 ただしバリオス自身はそれを寡黙な態度で否定し、「アミの物語の真髄は、UFOや宇宙人が実在するのかなどではない。魂で何を感じるかが重要なのだ」と言い切っている。

 とは言え、アミの表紙絵を描いている漫画家のさくらももこが、バリオスに「あなたはスピリチュアルなマスターなの?」と尋ねたとき――、「そう、僕の心はものすごくピュアな部分で話のできる神聖な存在だよ。大切にしてるんだ」と答えていて、見えないメッセージなどを受け取る感受性は、相当に鋭敏な人なのでしょう。


 そのような点で、これらの物語の創作には、スピリチュアル分野でいう「チャネリング」のようなものが働いていた、というふうに言えるかもしれません。


 こうしたことを実にきっぱりと明言している人もいて、アメリカの作家ジョイス・キャロル・オーツは、こんな言葉を語っている――

 「人々が作家としての私をちやほやするのは、さっぱり理解できない。
 私は単に、水を流して庭にまくホースのような存在に過ぎないのだ」


 しかし「ホース」というのは、謙遜を超えて、何だかすごいですよね…。
 「チャネラー」といった呼び方だと、その人特有の能力や存在性みたいなものを感じさせるけど――、ホースというのはまさに「ただの道具」である。
 しかも、中に空っぽの穴があいただけの道具である…。


 とらえ方にもよるだろうけれど、あらゆる物語や小説、絵画などの芸術作品、さらには科学的な発明・発見なども、すべては一種のチャネリングのようなものであるともいえる。

 そして、その画期的な創作物を世に送り出した作家も、芸術家も、科学者も――、その役割を突き詰めると「ホース」ということになる。

 さらに言えば、スピリチュアルのメッセンジャーにいたっては、なおさら「ホース」である…。


 もちろん、「アルケミスト」や「モモ」や「アミ」の物語を素晴らしく思うのと同様に、作家のコエーリョやエンデやバリオスのことを敬愛している。

 さらには天才的な画家や、ノーベル賞科学者などのことも、当然ながら心底からすごいなと感じる。
 そして、魂を鼓舞してくれる、スピリチュアルのメッセンジャーについても同じである。


 でも、やはり最終的には(とりわけスピリチュアルな領域においては)、「ホースはホース」という割り切り方が、けっこう大事になるのではないかなと考えています。

 この点は、また後述したいと思います…。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Liquid Mind「Zero Degrees Zero」。
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 前回記事で、太陽や月の「アナレンマ」現象について書きました。

 太陽は、1年がかりで空に雄大な「8」の字を描く形で運行している。
 でもそのことは、私たちが太陽のもとで日々暮らしていながらも、太陽がただ昇ったり沈んだりしている様子を眺めているだけでは分からないことだ。


 で、ほかならぬ私たち自身の人生や、世界のさまざまな出来事というのも、それにやや似た側面があると言える――

 毎日が次々に過ぎゆき、いったい何の意味があるのかと思えるような災いなども、世の中には満ちている。
 それが起こることの真意は、その中をリアルに生きながらも、到底うかがい知ることができない…。


 でも、臨死体験者などの証言の中には、肉体を離れてあの世に行ったときに、人生や世界に起こるあらゆる出来事の意味を、突然はっきり理解したという話がある。

 起こるすべてのことは必然であり、完璧であり、さらに実は、その答えはいつも私たちの目の前にあって、ハートの奥底ではずっと真実を知っていたのだと――。


 このことは、「そのとき」が来たら、すべての人に明かされる神秘なのだろう。

 混沌とも思えるこの世の中に、精妙な完璧性があるというのは、もちろんすごく驚異的なことに違いない。

 でも、案外それ以上に驚嘆してしまうのは――、私たちがその答えを「つねに目の当たり」にしながら、まったく気づくことなく生きてきたという事実のほうかもしれない…。


 それが分かったときの驚きというのは、日常感覚からはかけ離れたものだろう。
 でも、おそらく「図式」としてはこんな感じなのだろうな…、というのが今回の話題です。

 一読をお勧めする内容というわけでは必ずしもないのだけど――、『しあわせの書―迷探偵ヨギガンジーの心霊術』(泡坂妻夫著)というミステリー小説がある。

 このようなタイトルだからと言って、幸せになるための技法が説かれていたり、何かスピリチュアルなメッセージが秘められているというわけでは全然ない(僕はちょっとそう勘違いをして読んだのだけど…)
 あくまでも、事件の謎解きをしていく、通常のミステリーだ。


 で、「amazon」の読者レビューなどを見てみると分かるのだけど、この本は、実は他に類例のないタイプの小説なのである。

 感心するのは、特段の見せ場もないような「可もなく不可もなし」という内容の展開が、ただただ過ぎていく。
 やがて、残りのページがもうほとんどなくなって、「う~ん、何かなぁ…」と気抜けしたような感じで最後のタネあかしを読んでみると――、
 「えっ、まさかそんなことが!」と、思いもよらない仕掛けに驚かされることになる。


 そして、何ページ、何十ページと繰りながら前に戻ってみて、あっけに取られながらこう思う――

 「ヒントどころか、答えそのものをつねに目の前にしながら、ぜんぜん気がつかなかった…。というよりそもそも、普通に読みながら、こんなことに気づけるわけがないじゃないか!
 しかしまぁ、このような本をわざわざ書き上げた作家の信じられないほどの酔狂さには、何とも感服してしまう…」


 いつも、ブログでの本の紹介は、けっこう踏み込んで説明しているけど、今回のはミステリー小説なので、詳しく書くわけにはいなかい…。

 「amazon」の読者レビューを読むと、皆がネタばれしないように配慮しつつ、物語を超えた予想外の仕掛けに対する驚嘆が、率直に語られていて面白いです。


 あくまでも「図式」としてはだけど…、
 答えそのものをいつも目にしながら、まったく気づくことがなく、最期のときになって真実を知って驚かされるところは――、この世界というのは、本当に物好きな創造主が作った「しあわせの書」みたいに感じますね。

 人生や世界に起こるものごとの意味、すなわちリアルなミステリーとしての答えは――、すべてが目の前にありながらも、まさに「物語」としての観点や枠組みを超えたところにあるのでしょう!


結びのヒーリング・ミュージックは、Neil H. 「Secrets of Faeries」。
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 前回記事で、月の力と海の満ち引きについて書きましたが、今回はそこから脇道に行ったような話題です――


 2年ほど前の「0時00分の太陽」という記事で、太陽の「アナレンマ」現象について触れたことがあります。

 ふつう何のことやら分からないだろうと思いますが…
 太陽は正午に「南」に来ると学校では習ったけど、実はその位置は、時期によって少しずつずれがある。

  正午ちょうどの太陽を1年間にわたり撮影すると、この写真のように、空に大きな「8」の字を描く形になる。

 これが「アナレンマ」と呼ばれる現象で、地球の地軸の傾きと、地球が太陽の周りを回る公転軌道が楕円であるため、このようになるのだそうだ。

 「太陽の首飾り」なんてロマンチックな言い方もあって、実に壮大で神秘的な美しさですよね。


 ちなみに、今回の記事タイトル下にある写真は、航海用の古い地球儀に描かれたアナレンマの図だ。
 太陽の位置関係を正確に把握することは、長い航海においてとても重要なことなのでしょう。

 また、宇宙に浮かぶ天体は完全な物理法則によって運行されているわけだけど――、それは直線や真円といった完璧さとはまた違い、精妙なゆらぎを伴うバランスにもとづいていることを感じさせますよね…。


 で、太陽にはそのようなアナレンマがあるけど、月の場合はどうなのだろうと、前回記事を書いたときふと思って調べてみた。

  すると、ちゃんとありました。月のそれを撮影した写真が(場所はスペインのダリ劇場美術館)――

 月もこのような雄大な「8」の字を描きながら、夜空を運行しているのですね!
 しかも、満ち欠けを伴って「8」になっているところが、何とも見事な感じがします。

 ただ月の場合、「同じ時刻」に撮影するのは無理である(たとえば「深夜0時」の場合、満月のころの月は南の空にあるけど、新月に近くなると地球の裏側に行ってしまうので、見ることができない…)
 そのためこの写真は、毎日51分ずつ時間を遅らせて撮影されているのだそうだ。


 こうしたアナレンマの現象は、太陽や月をふつうに眺めているだけでは分からない。
 1年間(月の場合は28日間)正確に撮影してはじめて、目にすることができるものだ。

 誰も見ない山奥で可憐で優美な花が咲いたり、降り積もる雪の一粒一粒すべてが端正な結晶であったりと――、世界には私たちの想像を超えた、不思議な「美」が満ちている。

 この宇宙や大自然は、サムシング・グレートの「壮大なキャンバス」とも言える。

 太陽や月が空に描くアナレンマもまた、そのひとつに思えます。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Llewellyn「Alluring Undines & Mermaids」。
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 私たちが生きているこの物理的現実の世界は、一定の「法則性」が支配しています。
 ところがそれでも、理屈とはまるで「逆の状況」が起こってしまう――、という話です。


 先日の真ん丸に輝く「スーパー・ムーン」は、夜空が澄みわたっていて、本当にきれいでした。
 ところで「満月」の日は、海の満潮・干潮の差が最も大きい「大潮」の日になる(「新月」の日も同様)

 で、スーパー・ムーンだった日、気分転換に電車に乗って湘南の海まで行って、人がほとんどいない平日昼間の砂浜をぶらぶら散歩した。
 そうして、夕方に近づくにつれて、潮が満ちてくるのを見ていて、「あれれっ、そうなの!?」と、すごく不思議に思えてきた…。


 よく、「潮の満ち引きが起こる仕組み」として、このような図を見ますよね。



 月や太陽からの引力(起潮力)によって、海水が引っぱられて、満潮が起こる。
 学校などで習って、たいていの人は知っていることでしょう。
 (月の起潮力は太陽の2倍。また起潮力は、月や太陽の反対方向にも同時に働く)

 ところで、このメカニズムだと――、
 満潮が起こる時間は、地上から見て「満月が真上に来たとき(つまり深夜0時)」と、そして「太陽が真上に来たとき(正午)」ということになるはずだ。

 上の図を見れば、そうなるのが一目瞭然でしょう。


 しかしながら、現実は、まったくそうではない。
 釣りやヨットが趣味といった、海とかかわりの深い人には当たり前のことだろうけど…

 各地の潮位データをまとめた「潮汐表」というのを見ると、スーパー・ムーンの日の東京の満潮時刻は、「朝4:30」と「夕方5:00」である。
 理屈でいう「深夜0時」と「正午」とは、ずいぶん違っている。

 ちなみに、より正確に見てみようと思って、日本標準時の基準である兵庫県明石市も調べてみると、その日の満潮時刻は「朝6:30」と「夜7:00」で、むしろ東京よりもずれが大きい…。

 満潮の時刻が、5~7時間もずれているということは――、
 それを図で示すと、論理的な仕組みとはまるで逆の、こういうことになってしまうわけだ…。



 分かるでしょうか。何とも不思議ですよね…。
 つまり、月や太陽の引力を受けて引っぱられているところが、盛り上がらずに、むしろへこんだ状況になる…。

 こんな図を理科のテストで書いたら「×」になるだろうけど、むしろこれこそが現実に起こっている姿に近い。


 どうしてこんなふうになるのかというと、月や太陽の引力に引っぱられても、海水がそこへ移動していくには「時間がかかる」からだ。

 水というものがいくら「方円の器に従う」ほど流動的だといっても、満潮を起こすほどの大量の海水が、瞬時に反応して移動できるわけはない(もし海でそんな激流が起こったら、世界は間違いなく壊滅する)


 そのため、起潮力のパワーが最大になるのは「正午」と「深夜0時」(満月の日の場合)だけれど――、実際にそこに海水が集まって満潮を迎えるのは、何時間も遅れることになるわけだ。
 そしてその場所が満潮となるころには、地球の自転によって、月や太陽の位置関係とはかなり違うところまで動いて行っている。

 この時間のずれを「月潮間隔」と呼ぶそうで、東京ではそれが平均で5時間ほど。
 また瀬戸内海などは、地形の関係から海水が集まるのにもっと時間がかかるため、11時間ものずれが生じるところもある。

 潮の満ち引きが当たり前に起こっている地球に何年も住みながら、こういうことは調べてみて初めて知りました…。


 自然界には、色んなずれがある。
 太陽が一番高いのは「正午」だけど、気温が最も上がるのは午後2時くらい。
 日が一番長くなる「夏至」は6月下旬だけど、最も暑いのは8月である。

 でもそいういう「何割かの遅れ」ならまだ分かりやすいのだけど――、東京の満潮のように、理屈とはまるで「正反対の状況」になるというのは、なかなか面白いことだなと思う。

 いわゆる「引き寄せ法則」とかでも、そういった状況がもたらされことも少なくないのでしょうね。
 こういう現れ方は、物理的現実の世界に暮しているうえで、念頭に置いていてもいいことでしょう!



 結びのヒーリング・ミュージックは、Simon Cooper「Nursery Dreams」。
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プロフィル

Koudai Mitsuna

Author:Koudai Mitsuna
 
光奈 広大(みつな・こうだい)

 20年のあまりのサラリーマン生活を経て、いわゆる「ザ・マネーゲーム」を何とか卒業。今では束縛されない自由な日々を存分に味わっています!

 そうした中で心がけているのは、普通の日常的な行いを通じて、意識の進化を目指す「カルマ・ヨガ」。

 日々の喜びや学び、インスピレーションから得たスピリチュアルな気付きなどをブログで紹介しています。

 妻子と都内在住――。

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