フロントページ   »  2015年12月
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
 


 前回の続きのような感じで、「ふつうに考えていた印象とはずいぶん違う」という話――

 地球の中って、暗いでしょうか明るいでしょうか?…


 すぐに浮かぶのは、「地底だから真っ暗闇に違いない」ということでしょう。地獄のイメージもまさにそうだし。

 また、「ドロドロの溶岩があるのだから赤いはず」という人もいるかもしれない。


 実際は、地球の中心部の温度は6,000度で、これは太陽の表面と同じだ。高温のものは光を発する。
 つまり、もし地球を真っ二つに割ってみたとすれば――、その中身は、太陽のようにまぶしく輝いているということだ。

 地球は、外から見たら自ら光っていないけれど、でも「内なる輝きをたたえた星」といえるわけですね。(もちろん地球に限らずどの惑星もそうでしょう)


 ところで、地球の中の構造の話って――、何だかスピリチュアルな天上界の比喩みたいな感じで、なかなか面白いです。


 地球の構造は、アボカドに似ている。
 アボカド表面の皮にあたるのが、地上で私たちが生きている「地殻」だ。

 そして、食べられる実の部分が、地球内部の「マントル」にあたる。

 さらに地球の中央には、アボカドの丸い種のような「核(コア)」がある。


 ただ、そう言うと――、「溶岩は真っ赤に焼けた色だから、緑色のアボカドとはずいぶん印象が違うぞ」と思われるかもしれない。
 ところが、地球科学の最近の研究によると、地球内部のマントルはなんと、宝石のように輝く「緑色」だそうだ。

 誰も見ることはできないけど、まるで信じられないような世界ですよね…。


 地球内部の「マントル」は対流していて、私たちがいる表面の「地殻」はそれに伴ってゆっくりと動いている。

 これが大陸移動。
 不動に思える大地も、地球の壮大なエネルギーの流れによって、まさしく無常なわけだ。


 地殻はやがて、流れに従って、地球内部のマントルの中へと引きずり込まれていく。
 このへんはよく「地震が起こる仕組み」などで、図解つきで説明されていますよね。

 引き込まれた地殻は、温度が低くて比重が重いため、地球の中をゆっくりと沈んでいく。

 いわば、それまで「地上世界の一部」だった部分が、自らの源である地球の内へと導かれる。
 そこでは「宝石のような輝き」の中を、中心の光に向かって進んでいくわけだ…。

 そうして、アボカドの種にあたる、地球の「コア」へと到達する。


 マントルは、「コア」の中へ入っていくことは決してできない。

 コアは、比重の重い鉄でできているため、軽いマントルとは混じり合わないからだ。
 水と油分が分離しているドレッシングと同じ原理である。


 コアの周りは鉄が溶けた液体になっていて、その流れが磁気を発している。

 磁気は、地上を超え、さらに外側の宇宙へと広がり、地球を包み込む大きな磁場を形成している。

 この、奥深くのコアからの磁場が、生命に危険な宇宙線が地上に降り注ぐのを防ぐバリアになっているわけだ。


 まさに、根源からの壮大な「守護」や「恩寵」のようですよね…。


 で、前述のとおり、「地上世界の一部」だった部分が、「宝石のような輝き」の中を進んでいって、まぶしい光を放つ「コア」へと到達するわけだけれども――、そのコアの中にまでは入っていくことはできない。

 でも、中には入っていけないけれど、その接点では、コアからの「熱エネルギー」が受け渡される。

 そうして高温を帯びたマントルは、上昇する対流となり、ふたたび地上世界がある地球表面へと向かっていくわけだ。


 ちなみにこの、「直接的に入れないけれどもエネルギーが受け渡される」というのは、何となく、子宮の「胎盤」を思わせますね。

 お腹の赤ちゃんと母親の接点である胎盤では、互いの血液が混じり合わないよう完全に「分離」されている。
 (よく「血を分けたわが子」とも言うけれど…、もしも血液が互いに行き来したら、母親と赤ちゃんの血液型が異なる場合、「違う血液型を輸血」していることになるわけだから、生きていられなくなってしまう)

 そうして「胎盤」では、血液そのものを通さずに、母親の血液からの酸素や栄養分だけを、赤ちゃんの体へと受け渡すという仕組みになっている。


 勝手な推測なのだけれど――、
 私たちがこの世を去って、光り輝く「魂のふるさと」へと帰っていくときも、「これから先へは決して入れない」というコアの次元のようなものが、あるのではないかと思う。

 でも、直接的には入れなくても、私たちに必要な根源的なエネルギーがそこから受け渡され、そうしてふたたび地上世界へと転生していく――

 また、そのコアから発せられる恩寵が、いつもこの地上世界をくまなく包み込んでいて、私たちを守ってくれている――

 そんなふうに感じますね。

 ややこじつけ感もあるかもしれないけれど…、自然・宇宙の原理やいとなみには、私たちの想像力とか魂の記憶を喚起する何かがあるように思います。


 それにしても――、自分が立っている地表の奥底に「緑色の宝石のような輝き」や、太陽と同じ明るさの光が発せされていると考えるだけでも、地球に生きている印象が変わってきますよね…。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Santiago「Path to inner peace」。
スポンサーサイト
  ☞ コメント:27

 


 言われてみると間違いのない「単純な事実」なのだけれど、けっこう想像を超えて不思議に感じること――

 「自分の先祖の人数」も、その一つでしょう。


 人には誰でも「両親」が2人いる。
 その前の代の「祖父母」は、父かたと母かたで、計4人だ。
 さらにその前の代である「曽祖父母」は、(祖父母4人にそれぞれ両親がいるわけだから)計8人になる。

 このあたりまでは、実感としてもイメージできることでしょう。「幼い頃に、ひいおばあちゃんに遊んでもらった」という人もいるだろうし。


 これをもっと計算していくと――
 その前の代にあたる「曽々祖父母」の人数は16人になる。その前の代は32人。その前の代は64人。その前の代は128人――
 と、世代をさかのぼるに従って、自分の先祖の人数は倍々にどんどん増えていく。

 親の数というのは必ず2人なのだから(1人や3人というのは絶対あり得ないから)、計算違いをする余地もない。


 そうして、10代前の「曽々々々々々々々祖父母」までいくと、その人数は実に1,024人にもなる。

 10代前というと、江戸時代後期くらいだろう。十数代も続く老舗が現存しているわけだから、それほど大昔の話というわけではない。
 その時代に、自分の直系の血筋にあたる人が、驚くべきことに千人以上もいたわけだ…。


 そんなにも大勢の先祖たちが、それぞれの人生を生き抜き、夫婦として出会い、次の世代が生まれるというのを積み重ねてきて――、その結果として、今の自分がこうして生を受けている。
 このことは、自分という存在が、想像以上に多くの人々の生のうえに成り立つ、ひとつの「集大成」であるとも言っていいのではないかな…。

 外で遊ぶ小さな幼児も、道行く見知らぬお年寄りも、駅で見かけるサラリーマンや主婦も、誰もが例外なくそうした「集大成」としてここに生きている。
 そう考えると、なかなか感慨深いですよね。


 ところでこの計算をもっと続けていくと、妙なことになる――
 15代前(江戸時代初期くらい)の自分の先祖の人数は、約3万3,000人に上る。
 さらに20代前(戦国時代くらい)には、何と100万人を超えてしまう…

 そのことについて、ブログのけっこう初期の記事「無数のパラレル宇宙の収束」で書いたことがあります。


 で、今回、別の角度でちょっと不思議に思えることは――

 私たちの先祖というのは、何十代という程度で片付く話ではない。実際に過去から何百、何千、何万という世代を重ねてきている。
 その間に、数えきれないほど大勢の人々の遺伝子が混じり合い、膨大なパターンの「交配」が繰り返されてきた。


 それほど徹底的なまで掛け合わせられたうえで、今の私たちが生まれてきているわけだから――、
 例えばたくさんの色の絵具を混ぜ合わせたように、誰もが似たり寄ったりの同じような人間になっても、おかしくないのではないだろうか?…

 単純に考えれば、多くの人々のさまざまな遺伝子が全体に混じり合えば混じり合うほど、容姿や先天的な性質などの個性が、どんどん平準化されていくようにも思える。

 ところが実際は、そうにはならない。
 身近な人を見回してみても、一人ひとり相当に異なっている。


 個性というのは、世代を経て平準化されて消えていくものではなく、むしろ受け継がれていくようにできている。
 そもそも生物の「有性生殖」による遺伝は、大きな環境変化が起こっても種として生き残れるように、「多様性」を生むための仕組みであるわけだから…。

 そうしたことによって、膨大な数の先祖たちの集大成でありながらも、自分というものは個性的であり、身近な周りの誰もがそれぞれに個性的なのだといえる。


 さらに踏み込んで言えば――
 そのように個性や多様性が損なわれない仕組みだからこそ、魂は転生によって本当にさまざまな経験が可能なのでしょう。

 そして私たちは、自分とは異なる個性や多様性に常に囲まれた形で生きている。

 これはきっと、そのような世界の経験を通じてしか見いだせないことがあるから、多様性の中でしか起こすことのできない変化があるからなのでしょうね。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Midori「Sleepy Time」。
  ☞ コメント:34

 


 僕がサラリーマン生活を辞めたのは、息子が中学3年のときでした。

 それから息子は高校に進学。
 早期退職してからは僕が家事全般を担当することにしたので、息子の弁当は毎朝僕が作ってきた。

 そして、高校3年の2学期末が近づいた先日、「最後の弁当」を作り終えた。やれやれである。(ラストのメニューは、すき焼き風の「牛肉弁当」)

 「これから先の人生で、もう子供の弁当を作ることはないのだな」と思うと…、戻ることのない家族史の一節が過ぎて行ったような、ちょっとした感慨を覚えるものですね。

 息子も、帰宅して空の弁当箱を洗い場に置くとき、サラッとした口ぶりで「3年間ありがとう」といちおう言ってくれた。


 ちなみに、一緒にPTA役員をやっている人で5児の母親がいて、一番上の子が幼稚園のとき以来、実に20年以上も毎朝弁当を作り続けてきたそうだ。
 そして先日、一番下の娘さんの「最後の弁当」を作り終えて、ほぼ四半世紀にも及ぶ弁当作りが満了した。

 それに比べると、僕の「子供1人分を3年間」なんて、ほとんどものの数に入らないかもしれない。
 でも、「やるべきことを一通りやり終えた」といった実感は、それなりにやはりあるものだ。

 相当に言い過ぎだけど、どことなくの感覚として、「今生のひとつのカルマを片付けた」くらいの気持ちさえするような…。


 「弁当」って、見た目にも味わいにも、素晴らしい良さがありますよね。最近は海外でも「BENTO」と言うみたいだし。

 でも、その本当の「見えない真価」って、実は弁当を「作る」こと(家族とかのために毎日毎日作り続けること)にあるのではないかなと、思ったりもする。


 大がかりではないけれども、一食分なりの手間をかけて調理して、コンパクトな箱の中に配膳するように詰め込んで――、それを家族に手渡して、出発していく姿を見送る。

 戻ってきたら弁当箱を受け取って、洗って乾かして、翌朝に再び作ってというのを、何年間も繰り返していく。


 そこには、毎回言葉にはしない作り手としての思いや、表現や、結び付きなどが、少なからず込められている。
 特別な愛とまでは言えないけれど、とても具体的で確かな行いが、日常生活の課程の中に積み上げられていく…。

 「そうすることによってしか果たせない何か」が、無意識の世界の中で、少しずつ果たされていくような気がする。


 ほかにも例えば、家族の洗濯物を一枚一枚干したり、それぞれの部屋の床掃除しているときなどにも――、「意味をとらえきれない小さくて大切な何か」が、わずかながらも着々とどこかでやり遂げられていくようにも思える。

 こういうのが、ブログの標題にもしている「行為のヨガ」でもあるのかな、というふうに感じますね。


 ときどき「主婦の家事労働を賃金に置き換えてみると」といった試算を目にするけど――、
 そんなこと以上に、「見えない世界に積み上げられていく働き」としては、主婦業って実のところものすごく「価値や収益性の高い仕事」という一側面もあるのではないかと思います。

 もっとも僕自身、そこまでのやり甲斐や実感をもって日々の家事をしているわけでは、もちろんない…。

 でも、「最後の弁当」といった一区切りに、そうした日常に込められた魂のニュアンスのようなものが、ふと心をよぎったりするのは、大切な瞬間だと感じます!



 結びのヒーリング・ミュージックは、Soren Hyldgaard「Children's Playground」。
  ☞ コメント:36

 

 ドイツの生物学者で哲学者のヤーコプ・フォン・ユクスキュルは、「新しい生物学の開拓者」と呼ばれる人物。
 その著書は、古典的名著として今も読まれています。

 僕が確か高校生のときに読んだ同氏の本の中に、次のような内容があったのを覚えている。


 カタツムリを棒でつつくと、どういう行動をとるか?――

 当然、カタツムリは棒をよけようとしますよね。
 ヒュッと殻の中に入ったり、「何すんだよ、じゃまだなー」って感じで、体を曲げて違う方向に進んでいったりと。


 では――、1秒間に4回以上の速さで、小刻みに棒でつつくとどうなるか?

 何とカタツムリは、棒をよけずに、その棒にはいあがってこようとするそうだ…。

 どうしてそうなるのかと言うと、カタツムリの感覚では、「1秒間に4回」よりも速いスピードは知覚できないためだ。
 なので、それ以上の速さで振動する物体を、「静止した物体」として認識してしまうのだという。


 カタツムリにとってその棒は、見た目にも触れた感覚でも、疑いなく「まったく動かない硬い棒」にしか思えないのでしょう。

 そして、誰かが意図的につついているのではなく、自然にただ静かに存在する一部となってしまうわけだ…。


 ユクスキュルによると、同じように人間の感覚の場合は「1秒間に18回」だそうで、それ以上に高速に振動するものを私たちは「静止している」と認識してしまう。

 例えばだけど、扇風機の羽根とかもそうでしょうね。
 もちろん現代人ならば、一見して羽根が回っていると常識的に分かる。

 でも、扇風機というものを一度も見たことのないアマゾン奥地の原住民に、高速で回転する羽根を指でちょっと触れさせてみたならば(危ないけど)――、
 きっと、「これは硬い半透明の円盤で、さわると指がジーンとする」というふうに思うことだろう。

 また映画のコマは1秒間に24回だけど、それも私たちが「1秒間に18回よりも速い瞬間は認識できない」からこそ、ああしてスムーズに動く映像として目に映るわけですね。


 で――、この世界のあらゆる物体は、「分子の振動」によってできている。
 その物体が、いかに確たる形をした硬いモノであっても、それは中身がスカスカな「振動」の集まりにすぎない。

 このことは、よく言われながらも、日常感覚ではまったく実感を伴わないことだ。


 それは当たり前のことで、分子の振動周期というのは1秒間に百万回~1千万回である。目にも止まらない、という表現すら当てはまらないレベルの、すさまじいスピードである。
 一方で人間は「1秒間に18回」までしか認識できないのだから、とても太刀打ちできるはずがない。

 その振動というのは、今の感覚を「10万倍」以上に鋭敏にしないと分からないわけだ。
 生き物の生体機能なんかでは、絶対に知覚不能といえる。


 ところで、肉体から抜け出した臨死体験者の中には、この世界のありとあらゆるものが「愛」によってできているのを見た、といったことを証言している人も多い。
 超越した意識の覚者もまた、同じことを説いている。


 おそらくそういうのは、「1秒間に18回」までしか知覚できない肉体機能の縛りが外れることによって――、
 あらゆるものの「振動」そのもの、あるいは振動を起こさせている「本質」の存在を感覚的に目の当たりにして、そう語っているのかなとも思います。


 いま私たちの目に見えている世界とは、「1秒間に18回」までしか認識できないという制限にもとづいて知覚した世界。

 でもその知覚の制限を超えた、目にも止まらないレベルでは――
 ユクスキュルが言うカタツムリのように、私たちはいわば「愛」の棒によってつつかれているのでしょうね!…



 結びのヒーリング・ミュージックは、Medwyn Goodall「Rose Quartz」。
  ☞ コメント:56

 


 私たちは、この人生の旅を終えたあと、魂のふるさとへと帰っていきます。

 その、ふるさとに向かって羽ばたいていく力というのは――、生きている間に「私自身」のことをどれだけ愛したのか?――、その愛の大きさにかかっているといえます。

 「私自身」への愛が大きければ大きいほど、より速く、そしてふるさとの深奥へと、戻っていくことが可能になるのです。


 魂のふるさととは、すなわち、「真の私」の源のこと。

 「私自身」を愛することは、「真の私」を希求することを意味します。


 そうして、生を終えたあと――

 私自身への愛が求心力となり、
 私自身への愛に導かれていく。


 自らを愛するそのハートの感覚や香りを手がかりに、自らが帰るべき原点へと向かって、遡上していくのです。


 もし、愛のエネルギーが不足していると、途中で迷子になってしまうかもしれません…。

 私自身への愛の大きさは、今こうして生きている時間にしか高めることができないものです。


 私たちはいつも、魂にとって特に重要なこの問いに直面しているのです――

 「いま、どれだけ私自身のことを愛していますか?」




 結びのヒーリング・ミュージックは、Oöphoi & Louisa John-Krol「A Vessel for Michael」。
  ☞ コメント:18

 


 孔子の『論語』には、折にふれて耳にする有名な言葉がいくつもありますよね。
 「われ五十にして天命を知る」もその一つ。

 この言葉は、たいていは、「50歳になり、自分がこれまで志して努力してきたものごとが、天から与えられた使命であることを悟る」――、といったような趣旨でとらえられている。

 たとえば、企業人が「今後もこのビジネスを通じて世界に貢献していくことが私の天職だ」とか、音楽家が「自分の曲でもっと多くの人々に感動を与えていくことが役割だ」とか…。

 そのように、自らの使命とするところに、ピタッと巡り合って一筋に活躍できる人は、本当に幸せだし立派だと思う。


 ところが、実は――、孔子が語ったのはそのような意味ではない、というとらえ方もある。


 孔子は、古典の学問を政治に反映させたいと願い、自ら政治家になることをずっと目指してきた。

 そして50歳になってようやく、晴れて祖国である「魯」のしかるべきポストに就く。
 しかし、結局は望んでいた改革を果たすことができず、そのまま国を去って長年の流浪の旅に出てしまう…。

 つまり、「政治家は自分の天命ではなかった」「望み通りにいかないのも天の配剤だ…」とあきらめたわけで――、
 これが「天命を知る」ということの意味であるというとらえ方もされている。
 こちらのほうも、けっこう一般的な解釈だ。


 何だかずいぶんと後ろ向きな姿勢のように思えてしまうけれど…、
 でも、孔子が自ら50代のときに直面した状況を考えると、そのような考え方も確かに納得できるように感じますよね。

 そこから孔子は「教育の道」に専念して(そこに天命を見いだして)、後世の人々の思想に多大な影響を与えたわけだから――、
 人生の半ば(というより当時の寿命)の時点で、「これまで目指してきたことは、自分の天命ではなかった」と自覚したことが、きわめて重大な転機だったといえるでしょう。


 これまで長年にわたり培ってきた考えや生き方を、スパッと「断捨離」するのは、誰にとっても容易なことではない。

 でも、それに踏み切る人――、つまり「これはやっぱり違うな…」という形で「天命を知る」人って、最近けっこう増えているのではと思う。
 先日に、不食の弁護士・秋山佳胤さんの『誰とも争わない生き方』を読んでいたら、こんな個所がありました(一部中略)

 「ちょっと皆さんの周囲を見回してください。ここ数年、自分の意志で会社を退職・独立・起業するとか隠居される方が、意外といませんか? そういう方々は直感的に、まもなく新しい時代がスタートするということを予感している方々かもしれません。
 私の大学時代の同期で世界的な電機メーカーに入社した友人が、いきなり会社を辞めて、現在は整体師として独立しています。ほかにも銀行を辞めてヒーラーをはじめた方、大手企業をやめて農業をはじめた方、ここ数年、本当に多くに方々の転身を、直接的にも間接的にも多数見ています。

 経験者は分かると思いますが、サラリーマンを辞めるとそれまで当たり前のように銀行口座に入っていた月給がなくなります。これからどうやって暮らせばいいのかと不安になるでしょう。
 それでも、会社を辞めて独立する方が増えているのは、自分がこの地上に降り立つ前に決めてきたミッションに、ある瞬間、気付いたのではないかと思います」――


 僕自身も、長年勤めた会社を辞めた一人でもあり(46歳のとき)、そのためにはけっこう大きな勇気が必要だった。
 でも、「この生き方は、自分にとって違うな」「そろそろ離れないと…」という感覚には、やはり抗しきれないものがあった。

 今も、かつての会社勤めに戻りたいとは少しも思わないし、特に不自由なく生きていけているわけだから――、それなりに「配剤」の通りに進んでいるのかなとは感じています。


 脂の乗ってからの現役世代後半の真っただ中に、同じような転換点を迎える人って、今後ますます増えてくると思う。
 仕事だけでなく、社会的な関係性や、守ってきた価値意識などに関しても、これまでのものを手放さなくてはならない状況に直面することもあるかもしれない。

 そんなときに、「孔子もそのような形で天命を知ったのだ」という解釈は、一定の心の支えになるのではと思いますね。

 その人にとっての最も大切な転機は、生きている限り、決して「遅すぎることはない」のでしょう!



 結びのヒーリング・ミュージックは、Kip Mazuy「I Am Free」。
  ☞ コメント:42

 


プロフィル

Koudai Mitsuna

Author:Koudai Mitsuna
 
光奈 広大(みつな・こうだい)

 20年のあまりのサラリーマン生活を経て、いわゆる「ザ・マネーゲーム」を何とか卒業。今では束縛されない自由な日々を存分に味わっています!

 そうした中で心がけているのは、普通の日常的な行いを通じて、意識の進化を目指す「カルマ・ヨガ」。

 日々の喜びや学び、インスピレーションから得たスピリチュアルな気付きなどをブログで紹介しています。

 妻子と都内在住――。

最近の記事
ツイッター

CALENDaR 12345678910111213141516171819202122232425262728293031
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。