フロントページ   »   スピな散文  »  器の水にうつる月


 魂は、人の体の中に「宿っている」と、よく表現されます。
 でも、より適切に言い表すなら――、私たちの体がいわば鏡のようになって、おおもとにある魂を「映している」のだ、というふうに言われることもある。

 ちょうど、お椀のような器に水を入れて、その水面に月を映している様子を考えてみるといいだろう。
 その器が肉体で、映っている月が私たちの魂であり、あるいは「私は在る」という感覚ともいえる。

 そんな器が世界中にたくさんあって、その1つひとつに月が明るく映し出されている。
 でも、おおもとの月は、もちろん1つしかない――。


 そして、ある1個の器の水がこぼれて無くなってしまったら…。そこにはもう、月の光は映らなくなる。これが「肉体的な死」なのだろう。
 でも決して、月そのものが無くなるわけではない。
 また、空っぽになった器は、役目を終えた抜け殻のようなものといえる。

 昔の日本では、この世に生きる身を「うつせみ」と呼んだ。
 これは「映し身」とか、蝉の抜け殻を意味する「空(うつ)蝉」のことだけど、まさにその通りに言い当ててますよね。


 私たちは、こうして3次元世界での社会生活をしていると、自分の存在がとてもちっぽけなものに思えてしまう。
 本当はそうではなくて「大いなる魂」の一部なのだ、壮大で永遠の存在なのだと言われても…、実感としてふつうピンと来ない。

 このことも、器の中に映る月を見て感じられることと、同様といえる。
 映った月を、器や周りのもと比べてみると――、その月はまるで、手の中に収まる小さなサイズのようにしか思えない。

 一方で、実際の月が地平に昇るときなんかは、すごく壮大なものに感じられる。遠景の山や建物と見比べて月を眺めることで、相対的に大きく見えるからだ。


 でもそのどちらの月も、目に見える大きさ(視角)としては、実は全く変わらない同じ大きさなのだ。器の水面に月が縮小されて映っているわけでは全然ない――。

 そして当然のことながら、本当の天体の月というのは、とてつもなく大きい。「ちっぽけな存在」というのは、まるっきりの錯覚や誤解といえる。


 さらに言えば、私たちは器として月の光を映しているけど、その月もまた、自ら光っているわけではない。
 それは、さらなる本源の光によって、こうこうと照らされている。


 話は飛ぶけど、月の光にかかわる僕自身の思い出話をひとつ――。

 以前、エジプトに行ったときのこと、アスワンというナイル川中流の街のホテルに夜遅く到着した。
 部屋の窓から暗闇の景色を眺めてみると、川岸に茂る木々の向こう側に、ぼんやりと白く光る巨大な山のようなものが見えた。

 僕はすぐにそれを「雲」だと思った。
 ただ、砂漠地帯に雲がたれ込めるのも変だなと考えながらも、他にありうるものが思い当らない…。(たぶん冬の長野とかで同じものを見たら、疑いなく「雪山」だと結論づけただろう。そんな見え方だった)


 翌朝、再び窓から眺めてみると――
 その雲だと思ったものは、そびえ立つような「砂丘」であった。
 茶色い砂丘は、夜に月明かりに照らされると、白銀色に輝くのだ。そんなこと全然知らなかった…。
 (後で吉村作治氏の本を読んだら、月夜に見るピラミッドや神殿は、全体が白く光ってものすごく壮麗な絶景だそうだ…)


 考えてみれば、月そのものにも、そういう性質がある。
 NASAが公開する月の石や砂の写真を見ると、かなり黒っぽい色をしている。
 そんな黒いはずの月が、地球から見るとまるで透き通るように白く鮮やかに輝いているのは、これもまた不思議ですよね…。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Paul Avgerinos「Love Is」。
  ☞ コメント:17

 
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コメント
861
ワンネスを上手く比喩されてますね
光奈様

器に映る月と実体としての月の関係は、
各人は別々の魂を持って存在しているようで、
実は一つにつながっているとの考えである、
ワンネスを上手く比喩する表現と思いました。
勉強になりました。
気づきを与えていただき、ありがとうございます。

862
素敵な表現ですね^^
水がすべてこぼれ落ちた時、映った月も無くなるということは魂さえ幻想であるということ・・・
月が月自身の姿見にお椀とお水を用意した。
お椀とお水があったからこそ月は月自身を認識できたんですね^^

863
ドナ夫様

 こんにちは。評価いただいて嬉しく思います!

 よく言われる「神の分け御霊」と同じことかも知れないですが、でも「器に映る月」のほうがワンネスの点ではしっくりきますよね。
 月は1つしか在りようがないですし――。

 ただ、月は手の届かない彼方にあるけど、魂はあらゆるものよりも最も近いところにある…。このへんの食い違いは、比喩の限界なのでしょう。
 どうしても真実の一面しか例えることができない。

864
明神様

 素敵なコメントを有難うございます。

 なるほど! 器の魂は幻想、月自身の姿見のため――。
 色んなスピリチュアルな教えと、とてもうまくつながりますね。明神さんの見方を加えることで「このお話はできあがり!」、という感じです。

865
こんばんは~~!
わかりやすい表現ですよね。

6年前母が亡くなり、間に合わずに病室へ入ったとき、
あ、、、魂が入っていない!と思ったのを覚えています。
空っぽ、、のような。

866
Mitsuna様
こんばんは
「でもそのどちらの月も、目に見える大きさ(視角)としては、実は全く変わらない同じ大きさなのだ。器の水面に月が縮小されて映っているわけでは全然ない」
本当にそうですね
お椀の中の月も、地平に昇る壮大な月も同じ大きさ
少し視点が違いますが出来事にも言えるかと思います
同じ大きさの出来事、お椀の中に小さく移すこともできるし、身体で大きく感じることが出来る
出来事によって自分の視点を変えられることが出来れば、いい結果が産れるのだはないかと
ただ1つ解らないことがありました
「そんな器が世界中にたくさんあって、その1つひとつに月が明るく映し出されている。
 でも、おおもとの月は、もちろん1つしかない――。

1つの魂をみんなの器で分け合っているのでしょうか?
読解力不足で申し訳ありません
ちなみに私は月が大好きです

867
「砂の船」より
月は波に揺れて幾百幾千
古い熱い夢の数だけ

月は一つであるが、それを映し出す物さえあれば幾百にでも幾千にでも増える。
自分に映る月が一つである必要も無い。
情熱や想いと言う波が無限にある限り、月もまた無限に存在しうるのである。
器の月を見ると、器が自分であるかのような錯覚に陥る。
が、実はそこに注がれた水こそが自分であり、水はこぼれても尚、幾多の月を映し続けている。

わっかるかなー。わっかんねーだろーなー。私もわからん。

868
ami様

 こんにちは!
 亡くなった方の遺体と対面したとき、本当にそう思いますよね…。

 でも一方で、すべての重荷を手放したような、本当に安らかな表情を浮かべられていることもあります。
 財産とか肩書は持って行けないけど、きっと幸せや喜びは持って行けるのだろうな、なんてふうにも感じますね!

869
鑑様

 コメントを有難うございます!
 記事中の「そんな器が世界中にたくさんあって」という記述部分、丁寧に言うと以下のようになります――。


 私たちは皆、1人に1つずつ、水を入れた器を手に持っています。

 それを覗いて見ると、誰の手もとにも、器の中に明るい月が映し出されている。
 それは、1人ひとりに与えられた、魂の輝き――。

 1人の手もとには、1個の月が映って見える。
 隣にいる人の器の中にも、1個の月が映っている。別の人の器にも、1個の月が映っている――。

 千人の人がいれば、それぞれの器に映っている月は、計千個になる。そうして世界中には、70億個の月が映し出されている。

 でも、おおもとの月は、もちろん1個しかない。




 ――という感じでしょう。
 鑑さんのおっしゃる「1つの魂をみんなの器で分け合っている」という見方でいいと思います。
 私たちの魂のことをまさに「神の分け御霊」という言い方もありますし。

870
miss.key様

 丁寧なコメントを嬉しく思います!
 miss.keyさんがおっしゃる通り、「水こそが自分」というのも真だと思います。
 魂は「水」にもよく例えられますよね。ひとすくいの大海の水とか、その本質はまさにワンネスです。

 ただ、水の比喩と月の比喩を合わせた上で、意味の整合性を取ろうとすると…、本当に難解すぎるというか、マインドが好きそうな謎解きというか…、だんだん変な方向に行っちゃいそうな感じもします。


 「わっかるかなー」って、思い出深いなつかしいフレーズですね! 僕自身、小学生のときに現役で流行っていた世代です。

871
夏に至るとき月満ちるとき
今日は夏至ですね

そして、明後日は満月
しかもsupermoonです◎

停滞したものが浮上しやすく、それを手放し
宇宙と繋がるとても良い流れが『ここ』に来ていますね☆彡

今回のmitsunaさんのブログは、夢幻の姿(盃にうつる月、うつせみ)と、本来の姿(月、ひとつ)を

一編の詩を詠まれたが如くの美しい言葉で、とても清々しい気持ちになりました☆感謝☆

ところで、mitsunaさんはヴェーダンタって、ご存知ですか?

私には、さっぱり解りませんでしたが(解らないのに聞いて、すみません)
どうやらヨガの基本にヴェーダがあり、カテゴリーとしてはインド哲学で、

8月に長野でスピ女子会で進んでいた話が、村井先生というインド哲学の先生のセミナーをする運びとなり驚く間もなく(@_@)

偶然にも長野の山が今回このブログに言葉として出てきたので、私も前日、旅で山々の神々しいエネルギーを頂いた引き寄せ!?お導き!?と感じ、mitsunaさんがご興味があれば、お知らせさせて頂きますが、いかがでしょうか?

私も未知の領域で(笑)
難解で複雑な宇宙の仕組みを、村井先生は笑いを交えて楽しく伝えて頂けるとの事でワクワクしています♪

872
358の住人様

 こんにちは!
 夢幻の姿と本来の姿――。うまく言われますね。共感いただいて、とても嬉しいです。


 「ヴェーダ」はサンスクリット語で「科学・知識」という意味ですから、「ヴェーダ○○」と称する技法や教えって色々ありますよね。
 そのヴェーダンタというのは知りませんでした。何だか面白そうですね。

 ただ今は僕としては、「気付きを保つ」とか「ハートを感じる」とか、すごく個人的・日常的でシンプルなやり方に特化している状況で、スピリチュアルなワークなどをあまり進んで受けていないんです…。
 でも、もし素敵な体験などされたら、ぜひ感想を聞かせてください!


 そういえば長野とか、山梨の八ヶ岳のふもととか、スピリチュアル関係の方がけっこう住んだり活動されていますよね。
 あと、東京のJR中央線の高円寺~西荻窪あたりも(僕もその界隈に住んでおります)。

 そして最近は――、ブログとかを見て、個人セッションやセミナーなどが面白そうだなと思う人って、なぜか「大阪」が多いように思うのですが…。

873
ヴェーダンタのサットサンガ
最近、未知との遭遇ばかりです(@_@)
ヴェーダンタはヨガやマクロビなどの根本原理で…それを伝えるのがサットサンガって言ってました…何が、何やらですけど(笑)全ては既に書かれている(マクトゥーブ的な)らしいですよ!

わぉ!私、南阿佐ヶ谷に住んでたんですよ!!善福寺方面
そうなんですか!懐かしい(^o^)

30年位前に上京して初めて住んだのが阿佐ヶ谷で、
友人も高円寺と荻窪にいて、仲屋むげん堂(夢幻、繋がりですね)とか、今あるのかな?

荻窪の友人は東大の座禅会とかに行ってました(笑)

そうそう!中央線沿線て精神世界の住人が多いですよね☆☆

吉祥寺でも仕事してましたが、スピ人口もお店も昔から多くてカレーも美味しくて(笑)大好きな街です!!
少し飛んで、今回の八ヶ岳周辺には、縄文遺跡(土偶、埴輪)が多く、女神信仰や太陽信仰があり、諏訪世界もインドの神々との繋がりがあるようで、長野県のナーガっもサンスクリットの蛇神なんじゃない?って思っていて、この地と繋がるのは意味があると感じています♪

また、セミナーの内容こちらでシェアさせて頂きますね…月の恵みがありますように☆☆☆

874
月下の世界に生きる
器が身体で水が心、ですかねえ。

水がいつもきれいであるように、
そして、その面がまっさらに静かであるように励めば、

ひとりひとりが月のありのままの、真実の姿を映しとれるんでしょうね。

さらなる本源の光を月を拝して映すようになっている、と思ったら・・そこに、愛があるような気がします。
月下の世界に生きる、って、素敵なことのように思えました。
ありがとうございます^^

875
mizuki様

 こんにちは!

 本源の光は「愛」――。素敵ですね!
 月の光も、器に映る月も、本源の光そのものであることに違いないでしょう。
 
 「月下の世界に生きる」って、美しい表現ですね。

934
かっこいい

936
すず様

 コメントを有難うございます。
 共感して評価いただけることは、どんなことでも本当に嬉しく思います!

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プロフィル

Koudai Mitsuna

Author:Koudai Mitsuna
 
光奈 広大(みつな・こうだい)

 20年のあまりのサラリーマン生活を経て、いわゆる「ザ・マネーゲーム」を何とか卒業。今では束縛されない自由な日々を存分に味わっています!

 そうした中で心がけているのは、普通の日常的な行いを通じて、意識の進化を目指す「カルマ・ヨガ」。

 日々の喜びや学び、インスピレーションから得たスピリチュアルな気付きなどをブログで紹介しています。

 妻子と都内在住――。

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