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 何年も前に発刊された本だけど、『覚醒の炎 プンジャジの教え』を先日読みました。

 プンジャジは、著名な聖者ラマナ・マハルシのもとで覚醒を得たマスター。
 『ポケットの中のダイヤモンド』の著書で知られるガンガジは、プンジャジのお弟子さんだ。

 この本は、彼のもとを訪れた「質問者」との対話をまとめたもので、そうしたタイプの本(「アイ・アム・ザット」など)と同様、たくさんの深長な言葉にじっくり向き合いながら読んでいかなくてはならない。
 内容はさすがに素晴らしくて、本の最初から終わりまでが付箋だらけになった。


 全体を通して強調されているポイントは、「長い修練や瞑想によって真我を見いだせるわけではない」「今この瞬間に、ただ自分の内にある源を見いだしなさい」ということ。
 そして、その「真我」というものは、特定の教えとして説いたり、理解したりすることも不可能だとしている。


 で、そうした主テーマの脇にある部分的な内容とも言えるのだけど――、僕自身がひとつ「なるほどな」と思えたのが、さまざまな教えに対する「否定や棄却」についてだ。
 たとえばプンジャジは、インド最古の聖典である「ヴェーダ」について、こんなふうに語っている。

 ヴェーダとは「知識」という意味だ。そのヴェーダでさえ、知識を言葉で表すことはできないと述べている。
 そこでは「ネーティ、ネーティ」、つまり「これではない、これではない」とだけ語っている。あなたが知識について何を言おうとも、ヴェーダは「ネーティ・ネーティ」で答える。


 さらに、仏陀が悟りを得るまでの歩みの中にも、それと同様に否定の姿勢があることを挙げている。

 仏陀は何年も修行をし、多くの規律・戒律を守ってきた。最終的に、彼はすべての規律を拒絶して自分自身の内にそれを見いだしたのだ。
 彼は規律を守らなくてはならない多くのアシュラムを訪れ、その一つ一つを拒絶してきた。「これは違う、これは私が探し求めていたものではない」と――。
 こうして出会ったすべてを拒絶していった結果、最後は木の下に座り、自分自身でそれを見いだしたのだ。


 また仏陀は入滅するときに、弟子たちに「私に依拠してはならない」と言って、安直に信じないで自分で確かめるように説いたとも伝えられている。

 つまり、真理というのは、「正しい真理とはこれである!」なんて明言することはそもそも不可能であって(明言しようとしている人は多いけれど)、ただ「こういうのは間違い、ああいうのも誤り」という否定形でのアプローチをしていくしかないのだろう。


 さらに言えば、そのような批判姿勢を持たずにスピリチュアルな道を歩んでいくと――、偏った教えや技法に傾倒してしまったり、スピリチュアルな取り組みを通じてエゴ意識を満たすだけといった「罠」に陥ってしまう恐れも少なくないかもしれない。

 ただし、そうした「しかるべき批判や棄却」を行うためには、やはり並はずれて鋭敏なセンスと、基軸のしっかりした探求心がなくてはならないのだろう。誰でもできることではない…。


 そうした中で、私たちが道を外さないようにしながら、スピリチュアルな歩みを続けていくための方法だと僕自身がよく思っているのが――、
 仕事や家庭などの「日常を大事にする」、ということではないだろうか。

 僕自身は(今は会社勤めをしていないけれど)、20年以上のサラリーマン生活はやはりものすごく大事だったし、今は主婦業もしながら家族の課題とも向き合い、その色んな経験を通じて本当に貴重な気づきを得られていると感じる。


 私たちには、ブッダが行ったような、苦行を重ねながら一つ一つの教えを厳しく確かめて棄却していくという道は、到底無理だろう。
 だが、それに比肩すると言わないまでも――、日常の行いを大事にすることによって、スピリチュアルな歩みの「偏り」や「踏み外し」を適宜是正していくことが、自然とできているのではないかなと思う。

 日常というのは、なかなか暇ではない。スピリチュアルな志向に傾注していくことを、そう許してはくれない。
 自分が理想としているものとは、まるで違う現実が差し向けられたりもする。
 私たちは、「スピリチュアルな志向」と、「そうは言ってもという現実」の間を、揺れ動きながら生きていると言える。

 でも、そうすることによって――、
 振り子が何度も行き来しつつ中心に落ち着いていくように、あるいはスパイラル状に旋回しながら徐々に上昇していくように、どこかへ行き過ぎてしまうことなく、全体としてしかるべき道筋にうまく乗っているのではないだろうか…。


 魂の道というのは、「不可逆的」なものだと思う。
 いったん進み始めると、その志向は、もはや抗しきれないものとなるはずだ。
 「仕事や家庭のことがとても忙しいから、もうこの先はスピリチュアルなことをいっさい忘れてしまおう」という展開には、きっとなり得ない。

 一方で同時に私たちは、「食べていく」という必然性から逃れることも、普通できない。
 スピリチュアリティーだけにのめり込んで行こうとしても、やはりある程度の社会生活の中に引き戻され、そこでの課題に取り組まされる。

 それが多くの人にとっての現実的な図式であり、そしてそれこそがガイダンスであり、道であろうと思う。
 もちろんこの見方には、「日常の旧習から踏み出していくことが道である」といった異論も多いかもしれないけれど…。


 ちなみにプンジャジも、日常を離れて修行にのめり込むことには否定的な見解で、『覚醒の炎』の本の中でこんな体験も述べている。

 多くの人が、逃げ出すことによって、人生に新しいことが起こるに違いないと考える。だがそのようにはいかない。
 私はヒマラヤで、実際に超能力を達成した行者に会ったこともある。ところが、ヒマラヤを広く探し回ってみたところ、そこにいる行者の中で「真の自由」に達した人は誰もいなかった。

 一方で私は、インドでも西洋でも、家庭を持ちながら優れた人たちに出会ってきた。彼らは、世間で一般の生活をしながら、行者よりもはるかに成功を収めている。
 それゆえ私は、仕事や家庭から逃げ出すことを勧めない。仕事をするがいい。仕事をするかしないかは、「真の自由」とはまったく関係がない。逃げ出すのは時間の無駄だ。逃げ出して、新しい場所を探すまでの間に使う時間を、今ここで自分自身のために使うほうがいいのだ。


 そしてプンジャジは、仕事や日常生活も、すべてが起こるがままに起こってくるのだと説く。
 それにゆだねることによって、自らのいわば本領なり天命を生きるのだという。

 時が来れば、あなたは行動しなければならない。あなたのダルマ(定められた義務・役割)が何であれ、「源」を忘れてはならない。瞑想しようと、仕事をしようと、源は同じだ。いつであれ源に気づいていて、源に指示を仰ぎなさい。それが、なすべきことをあなたにさせる。
 源に気づいて、それが命ずるままに行為すれば、何の問題も起こらない。高次の力があなたに命じている。それを受け入れ、その通りに行為が起こるのを許せば、自ら行為をすることなどなくなる。あなたはただ、高次の力が命じることをするだけだ。

 起こるべきことは起こるだろう。行為すべきか、無為にとどまるかを決めたところで、物事の流れを変えることはできない。その選択はあなたの手の内にないのだ。


 ときどき説明することだけど――、このブログでは、タイトルに「カルマ・ヨガ」というのを掲げている。

 「カルマ」といえば、ふつうは「過去性からの業(ごう)」のことを指す。
 だが、カルマ・ヨガの「カルマ」はその意味ではなくて、単に「行い」という意味である。
(「業」の漢字にも、「過去性からの業」の意味とともに、ふつうの「行い」という意味もありますよね。「作業」とか「営業」とか)

 僕自身が心がけているのも、まさにそうした、日常を大事にすることです。
 もちろんそれは、日々やるべきことの中に没入してしまうことではない。日常の行いを通じて、真に大切なものを見いだしていくことだ。


 この本の中で最も心に響いたプンジャジの言葉――

 世界のためにできる最高の奉仕は、「あなた自身」を知ることだ。それで十分だ。あなたがどこにいようと、世界はその恩恵を受けるだろう。



 結びのヒーリング・ミュージックは、The Amnis Initiative - Relaxation Music Part 1 Inner Spirit
  ☞ コメント:31

 
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お礼のパーラー
コメント
5987
同感です
プンジャジの言葉――
 世界のためにできる最高の奉仕は、「あなた自身」を知ることだ。それで十分だ。あなたがどこにいようと、世界はその恩恵を受けるだろう。


この言葉 宮沢賢治の「世界の幸せが来るまで私の幸せは無い」(文言は違うかも?)と同じですね

日々の暮しの中に 世界も地球も
すべて現われているのですね

家事は賽の河原・・・
終わりのない出来事が際限なく
予告も無く 訪れて 消えて行きます

奥底の真我が揺れない
そんなふうに生きて行きたいですね

外界に求めることなく
自己の偽らざる姿を見
エゴのはりつけを乗り越えて
高我の真正に目覚めなさい
真我に目覚めなさい

2002年出会った方に頂いた言葉
偽った自分は自分がいちばん良く解っていますよね
良い悪いの呪縛から解き放たれて
あるがままに受け入れられるように暮したいです

明日 死が訪れるとしても・・・

5988
日常で良いのです。
と思いますが、いろいろ余計な手探りをしたり、試行錯誤するのも人間というもので、それもまた良しなのだと、思っております。
いつも素晴らしい記事で共感ばかりしております。
自分にはとても広大さまのようには書けませんが、こうして
ブログを通して読ませていただき、気づきのエッセンスを分けていただくご縁があったことに感謝します。
非公開では失礼かと存じ、公開OKでコメを残させていただきます。
これからも微力ながら応援させていただきます。
感謝をこめて・・・・・。


5989
心を込めて、、、
私はなんてことのない日常をひとつひとつ丁寧に心を込めて行うことこそがひとつのカルマヨガと理解しています。人間精神世界の学びに入ればどうしてもまず知識を入れてしまう、それはそれである程度までは良いとは思いますが、行きすぎれば、それが大きな壁になる。たとえばひとつの宗教で高い意識まで登り詰めても、最後にその宗教が壁になる。
私の友人に、窓ふきの仕事をしている人がいます、霊的な本などは全くよまないのですが、その人の一言一言がいつも私にとっては目から鱗のようなもので、「悟ってる?」のではとも想うときがあります。
窓ふきの仕事を想像しますと、社会的にはあまりいい仕事とは思えませんが、その人、世界大会にも出たことのある人なのですよ、窓ふきを極めても悟りに近づくのだと私は本気で思っています、
個人個人の日常の仕事で無駄なことはなに一つないとおもいます。洗濯や料理、掃除をする主婦の人も、魚屋さんも、トラックの運転手も、いかに自分の与えられた仕事を丁寧に、心を込めてできるかだと確信しています。過去や未来より、今生きていることを討論しなさいとイエスもいってます、
真理は体験してはじめてわかるものではないでしょうか

5990
スピリチュアルな探求を始める人たちは、最初はそこに非日常性を求めますけど、最後はまた元に戻って、今までとは違った観点に立とうとするんですが、シンプルでありながらこれがまた奥が深すぎて・・。
最近またOSHOの講義録を読んでいますけど、ここでも同じメッセージが語られてますね。。
それにしてもヒマラヤの超能力者までも真の自由に達していないと切るプンジャジさんは、達観してないとそうは言えない言葉だな、、、と思いました。僕には「ヒマラヤ聖者の生活探究」が強烈に印象に残ってるので。

5991
「ヒマラヤで真の自由に達した行者は一人もいなかった」
と判断したプンジャジ自身が本当に「真の自由」に達していたのか、本当にそれを正確に判断できたのかという問題はあると思います。(勿論、これはイエスともノーとも言えないですが)

プンジャジに限らず、修行とか、僧院に入る事に否定的な人はかなりいますね。日常が大事で、修行や出家を「逃避」と見なす考え方はしばしば目にします。
しかし、私は昔からこの考え方には納得がいかない方です。

私は「そういう人たちは世の中に一定人数必要だろう」という思いが漠然とあります。「逃避??出家の決意がそんなに楽なものだと思っているのか」という気持ちもあります。(もしかすると、過去生で自分がそういう経験をしたからかもしれませんね)


5992
光子様

 こんにちは!

 「喜びから人生を生きる」のアニータ・ムアジャーニさんのこの言葉も、似たメッセージで好きですね――

 「もし私が幸せなら、宇宙も幸せです。私が自分を愛していれば、他の皆も私を愛するでしょう。私が平和なら、すべての創造物が平和なのです」

5993
Aya様

 コメントを有難うございます!

 ブログに共感いただいて、とてもうれしく思います。

 もちろん試行錯誤にも、「プロセス」としての意味や、楽しみ、生における価値は大いにあると思いますね。
 それを経験できるように、わざわざこの世界が創造されたと言えるわけですから。

5994
空様

 こんにちは!

 窓ふきの仕事をされているご友人は、何とも素敵な方ですね。

 ある修道僧の話で――、食事の準備でお皿をテーブルにぱぱっと手早く並べたら、年配の僧から「あなたの並べ方には愛がない。そのように並べても意味がない」と言われたそうです。
 ただ皿を並べるだけでも「愛の実践と学びの場」といえますし、あらゆる仕事のあらゆる場面がまさに同じなのでしょう。

5995
SHUN様

 こんにちは!

 「ヒマラヤ聖者の生活探究」は、驚異的な内容ですよね。
 シベリアのアナスタシアもそうですけど、「人には、ここまですごい能力の可能性があるんだ…」と驚かされます。

 でも、それほどのすごいケースでも「輪廻転生を終わらせる」までは達していない、ということなのでしょう。


 「輪廻から脱するよりも、超越的な能力を持ちながら生きてみたい」というふうにも思えるものの、そういうのはいま考えたところで意味がないのでしょうね…。

5996
Clary Sage様

 こんにちは!

 この本は、彼のもとを訪れた「質問者」への話を採録したものですが――、こういう本から言葉を引用する際にどうしても不十分になってしまうのが、「質問者」の存在です。

 ほとんどが西洋人で、また高学歴で「自分が何かになるために努力する」というエネルギーが強い人も多く、さまざまな教義や専門用語や瞑想法などにも詳しくなったうえで、その延長から質問を投げかけています。

 そのため――、まさに今回書いた「あれでもない、これでもない」という答えの一環として、修練への否定を強調した答え方になる、という側面もあるのだろうと思います。
 その質問者にとっては、きっととても必要な回答なのでしょう。

5997
光奈さん、素敵な記事ありがとうございます。

昨日は母の外来で病院に行ってきました。
病理検査の結果、ステージ3ではあったけれど、CからAに変更。
執刀医から、ガンは取り切ったとハッキリ言われました。

そして、予防のための抗がん剤治療を勧められました。
母はしっかりしているので、母に決めてもらと執刀医に私は言いました。

執刀医から家族の協力や理解が必要と説明がありましたが、
それ以前に母がどうしたいのか、それが大事です。

結論としては、抗がん剤で予防をしないことに。
予防できるかどうかもわからないと執刀医もおっしゃっていたし、
母が熟読した小冊子にもそう書いてあったそうです。

でも、その治療を選択する方も多いのではないでしょうか。
その選択も間違いではないと思います。

母は今の状態(あまり食べられないし体力もない)でも
少しでも生きられればいいのだと言ってました。

姉妹の間では鬼コーチと言われている私です(笑)。
すでに家事を色々母にやってもらっていることを栄養士さんにお話ししたら、
スパルタですね、と言われました。

確かにある意味私は鬼コーチではありますが、
母の意思を尊重しているつもりです。母は自主的に色々がんばっています。
おかげさまで血液検査の結果も良いものでした。

実は、母のことも抗がん剤のことも、どうでもよいのです。
深く考えられないのです。とはいえ、ネットで情報を集め母に提供しています。

それにしても、あれだけ立派なガンだったのに、他臓器への転移がなかった。
手術も術後も本当に順調そのもの。たぶんリハビリもうまく行くでしょう。
母は身体から生きろ(楽しく!)と言われたんだと思います。

5998
なるほど・・・
しかし、「ちなみにプンジャジも、日常を離れて修行にのめり込む事には否定的な見解で・・・」と書いてあれば、本を読んだ事のない人は「プンジャジ個人の見解としてそう言ってるんだな」と思いますよね。(ブログの限られた文章で説明するのは難しいとは思いますが・・・)

仰る通り、きっとその質問者には必要な回答だったんでしょうね。

ただ、自分なりに色々考えて出家や修行の道を選んだり、導かれてその道を選んだ人たちも古今東西かなりいると思うので・・・勿論動機が不純な人や生臭坊主も沢山いた(いる)とは思います・・・・「修行や出家は無意味だ」という風に断じて欲しくないなとは思っています。(当然動機が「逃避」の場合もあるとは思いますが、否定する人は修行そのものを否定するので・・)
・・・やっぱり、こういう言葉にムッとするのは、自分も昔「自分なりに色々考えて出家した」事があるからかもしれないですね。



5999
吉田無ーん様

 こんにちは!

 転移がなかったのは、本当に幸いだと思います。

 「治療の選択」は、まさに人生で最も難しい意思決定のひとつでしょう。
 でも、常に「最善の決断」がもたらされるのだと思います。あとは、ある意味で不可知の領域と言ってもいいのでしょう…。
 キューブラー・ロスは、がんの治療法の選択について、「先の事態を決定するのは、神または宇宙である。その問いに答えはない」と語っています。

6000
Clary Sage様

 こんにちは。

 「プンジャジが修行に否定的」というのは、その通りに言っていいと思いますよ。
 本の全編にわたって、同様の発言が繰り返されていますから…。

 プンジャジがそう語る理由の一つは、前述のとおり、まさにそのようなタイプの来訪者の質問に答えているからでしょう。
(だけど、寺に行って修行僧に向かって「あなたたちは無駄なことをしている!」なんてことは、きっと言わないと思います)

 もう一つの理由は、プンジャジ自身もかつて修練を通じた霊的探求に、並み以上の熱心さで取り組んできた人物だということです。(インドのマスターの中で、修行に否定的な人には、過去に修行に明け暮れたというケースが多いと思います)
 その修練の努力と、自身に訪れた覚醒との間に「真実として何の関係もなかった」ということが、非常に明らかなのでしょう。


 それにしても本当に、人によって「心の引っかり方」に、ずいぶんと違いがあるものですね。
 僕自身は、今回のプンジャジのような考えには、まったく抵抗感がないです…。

 ひょっとしたら僕の過去性の中で、「偏った形で修行にのめり込んでしまい、そのまま無為に生涯を終えた」という反省があるのかもしれないです。

6001
本当に・・・
人によって心の引っかかり方に違いがありますね。

私は(組織宗教は嫌いなんですけど)「修行僧」には肯定的なイメージがあります。もし自分がそうだったとしたら、きっと後悔しない人生だったのでしょう。

自分がやってみなければ分からない。仮に最終的に無意味と悟るとしても、修行に人並みなずれて熱心に取り組んだという経験(過程)があったから、それが実感として分かった訳で・・・そうしたい人には同様の過程を踏ませてやればいいのに・・・とは思います。(その意味で修行は全然無駄じゃないと思うんですけどね)
尤も「自分と同じ轍は踏ませたくない。自分のように無意味な事に多くの時間を使わせたくない」という愛情から来ているのかもしれませんが。

6002
Clary Sage様

 たぶん質問者のほうも(おそらくは魂のレベルで)、「自分はそろそろ、修練や知識による学びを離れるべきタイミングにある」ということに、どこかで気づいている人たちなのだろうと感じます。

 だからプンジャジのもとを尋ねていって、「色々と取り組んできたけど、まだ分からない。真我を実現するにはどうすればよいのでしょうか?」といった質問をしたのでしょう。

 この場合、「同様の過程を踏ませてやればいい」という展開とは、少々違う気がします…。


 「真摯な修行が必要な生」にある人は、例えばチベット仏教とか禅宗とか、そのためのしかるべき師と出会う。
 一方で「修練から離れるべきタイミング」にある人も、それに適した師に出会うのでしょう。
 この本は、完全に「後者のケース」の対話を採録したものです。

6003
日常の中で
始めまして
いつも、美しい音楽を聴きながら、読ませて頂いています。難しくって良く理解できない時もありますが、
心に響く何かがあって、分からないまま、読み進んでいます。
今回のお話で、日常の中での気ずき・・のような事かな・・と感じました。と同時に、何年も前に、ラジオ放送深夜便で、千日修行をされた方の壮絶な修行のお話がありました。その方は、母と自分を捨てた父を許せなく、仏門に入られた・・との事でした。
お話の最後の頃インタビューの方が、それで、お父様を許せましたか、と聞かれましたら、「許せません」と言われました。
過酷な修行をしても、許すとは、難しい事なのですね。
お釈迦様の「日常の中での修行」のほうが、本当は厳しいのでしょうか。
初めてのコメントで長くなりました。
これからも、楽しみに読ませていただきます。
いつも、ありがとうございます。

6004
ちゃんみいい様

 初めまして。コメントを嬉しく思います!

 面白いお話しですね。苦行をやり遂げる精神力と、親を許すことは、また違うことなのですね。そこが「人間らしい」と言うか…。

 インドで修行した人の話でも、聖者と呼ばれる人が瞑想中は長時間ずっと無心状態にいたのに、瞑想が終わると、つまらないことで感情的になって人と言い合いをしていたそうです。
 そういう瞑想は、単に「マインドの一時停止」にすぎないらしいです。

6005
はじめてコメントさせていただきます。今の仕事も家事もつらくて、いつしかスピリチュアルに逃避している自分を何となく意識していた矢先の今回のブログ記事でした。
光奈さんのショートショートで2013年3月13日にupされている「覚者の旅立ち」は私の大好きな一文です。仕事で心身ともに疲弊して帰宅、それから山のような家事に取り組む時にその物語の登場人物『ヨグ』を思い出すのです。そして、日常の雑事を行うときこそ修行であり精進につながるのかとヨグに話しかけてみたいと思っていました。
私はあまり勉強していないのでプンジャジというマスターの事も今回はじめて知りました。でも、その語られた言葉にすごくすごく心が落ち着きました。 皆さんのコメントもすごく勉強になります。ありがとうございました。

6006
光奈さん いつもありがとうございます。
今回の記事と皆さんのコメントを読ませていただいてふと思ったことを正直に書かせていただきます。

私の場合、スピリチュアルな事へ興味を持ったきっかけは、客観的に見れば間違いなく現実逃避であったと思います。
たからと言って本格的に出家するだけの才能や根性も無いので普通にシャバで生きてます。
そのシャバでの生活では、やはり嫌なことを人任せにして逃げては、後から罪悪感を感じたて、これこれこういう理由があったからと自分を正当化する思考で頭がいっぱいになることもしばしば。
悲しいかな、それが現実です。
たぶん自分が「悟り」に至るには相当時間がかかると覚悟しています。
いっそ、スピリチュアル的なことから一切足を洗おうと何度思ったかしれません。
全くスピリチュアルなことに興味のない人間の方が実は悟りに近いんじゃないかと思ったりするからです。

ただ、ここからは随分都合の良い考えかもしれませんが、本当は全ての人、いや全ての存在は皆「悟後の修行」をしているに過ぎなくて、故に、悟ったりそうでなかったりとか、出家か在家かとかは問題ではなく、ただ人智では計り知れない何かのためのお役を皆が分担しているに過ぎないのではないか、そういう意味で本当は皆救われているし、祝福されているんじゃないかと。
そう思うと本当に楽になるんです。

こういう考えも現実逃避かもせれませんが(笑)

6007
Fujiwara様

 初めまして。コメントを有難うございます!

 ショート・ショートを評価いただけるのは、とても嬉しいですね。
 追い追い、もっと物語を書いていきたいなと思っています。

 本当に、目の前にある「現実的なごたごた」が現れているって自体、ものすごいことなんですよね。
 本来なら、宇宙はまったくの「空」という可能性だってあったわけだけど、そうはならずに、私たちはこうした多彩な現実が創造された世界を生きている。

 で、この現実に取り組んで、超えた先は何があるのかというと――、結局は空性へと戻る。
 何とも遠大なお話しですよね…。

6008
an様

 こんにちは。コメントを嬉しく思います!

 「逃避」のような形で一歩を踏み出していくケースって、実際にはとても一般的なケースだと思います。
 釈迦だってある意味で、宮廷での暮らしや将来の地位をぜんぶ捨てて抜け出してきたわけですし…。

 病気や倒産など、従来の状況からの「強制撤退」をさせられる人もいます。
 また、何ともしがたい不足感や自己否定などの精神面がきっかけになることもあるし、それを「聖なる不満」と呼ぶ人もいます。

 それは変化に向かうために生じた「きっかけ」であって、別に後ろめたくとらえる必要はないと思いますよ。


 「すべての人は悟後の修行をしている」というのは、僕も同じ考えですね。
 よく「目覚めた意識」という言い方もしますけど、意識というのはそもそも最初から目覚めているし、その状態以外は実はあり得ないものだと思っています。
 よく言われる通り、そのことに気づいていないだけなのでしょう。

 また「スピリチュアルに関心のない人とかのほうが、実は悟りに近いのではないか」というのも、僕もよく実感してきました。
 もちろん人によってはですけど――、かつて職場で出会ったサラリーマンの中には、自他への素直な愛情が発露しているような人もいるし、起こった現実を前向きに受容する人も少なくないです。神聖さやスピリチュアルな知識についての妙なこだわりも、もちろんない。
 
 でもどこかの段階で、魂の道や霊的な在り方に「自覚的」になることが、とても大事な時期が誰にもあるとも思います。

6009
通帳見つかりました!
光奈さん、行方不明になった通帳類(現金3万円含む)が
本日私の部屋で見つかりました。
どうしてここに、というところにありました。
私がしまったのでしょうか。

戻ってきた3万円は今年起きた日本の災害地に寄付することに。
幸いにも寄付の機会がなかった場合は、
来年1月に母や妹たちと美味しいものを食べます。

年明け早々、不思議なこと(ではないのかも)が起こり人生楽しみました。
さっき母と大笑いしました。

6010
吉田無ーん様

 こんにちは。

 不思議と出て来るものなんですね。良かったです!
 神隠しになっていたお金を寄付するのは、いいことだと思います。
 聖書にある「神のものは神に返そう」みたいですし。

6011
おお、定石通りですね(笑)
「消えた」ものが出てくる時は必ず「どうしてここに・・」という場所から、というのは決まり事みたいになっていますが、吉田無ーんさんの通帳類もやっぱりそうでしたか。
「自分が(orお母さんや妹さんが)入れて忘れていたんだ」という考えもありますが・・・でも出てきて良かったです^^(消えてそのまま出てこない事の方が多いみたいなので・・・)



「スピリチュアリティに関心の無い人の方が悟りに近いのではないか」というのは、私は思った事が無いですね。
関心のある人でもろくでもない性格の人も沢山いるし、関心の無い人でも愛情深く素晴らしい人格の人も大勢いる。その逆も然り。それは当たり前すぎるというか・・・。
もし本当に「スピリチュアリティに関心の無い人の方が悟りに近い」なら、この世界はとっくの昔に素晴らしい世界になっています。だからこの言葉は正確ではないですね。「関心の無い人でも素晴らしい人は大勢いる」というだけです。
どちらが偉いとか良いとかいう事は無い。(その人の人格が)スピリチュアリティに関心があろうが無かろうが、本質は同じです。

6012
Clary Sage様

 こんにちは!
 「~な人のほうが悟りに近い」という表現は、確かにあまりいい言い方ではなかったですね。

 その通り、関心の有無だけで測ることはできない、ということです。

6013
天使のはからい
光奈さん、Clary Sageさん、コメントありがとうございました。

あの日、自分が通帳を受け取っていればよかったと後悔していた母が、
もしかすると病院には持ってこなかったのでは、と言い出す始末(笑)。

通帳類は確かに持って行きました。母も通帳の入った袋見ています。
病院へわざわざ通帳類を持って行くという行為、
さらには帰宅後すぐ通帳類をあの場所に保管するという行為、
冷静であれば、ありえない行為をあの日2度もしたようです。
私は別人になっていたのでしょうか。

先ほどコンビニで買い物。
ナナコカードを使ったのですが、ポイント残高が444でした。

通帳類発見も天使のはからい、ということにしました(笑)。

6014
ある時期スピに夢中になった者の一人として言えば、
スピは現実逃避のひとつだと言えますね。
しかし、スピを突き詰めていくと、
日常こそ修行の場ということに辿り着きます。

スピ友の、スピは一度リセットしてからが本番という言葉、
その通りだとも思っています。

スピはどんな人にとっても、いつもそばにいる存在。
スピから逃れようがない。
それなのに、現実逃避でスピに走る。何だか面白いですね。

母のことがどうでもよくなったと昨日書きましたが、
それは母が何を選ぼうと、どう生きようと受け入れるということです。
無関心になったことではないです。

6015
吉田無ーん様

 そうなんですよね。
 現実から逃れることはできないし、真のスピリチュアリティーは自らの内にある…。

 色んな遍歴を経ても、詰まるところは「ここで内に取り組む」しかないんですよね。

6016
はじめまして
はじめまして、sawaといいます。

光奈さんのブログは読みやすいにも関わらず、内容が濃く、また刺激的です。とても魅力があります。
今までそっと読んでいました。が、私の拙いブログに訪問頂いていたのに気づきましたので、改めてご挨拶させていただきます。

光奈さんのインナー・チャイルドの記事に触発されて、私なりの記事を書いちゃいました。

今回の記事に関しましても、来週あたりに私なりの記事を書くつもりです。
どうぞ良かったら、その頃にでもご訪問くだされば幸いです。

6017
sawa様

 初めまして!

 ブログに共鳴いただき、ご自身の観点からさらにっブログ記事にまとめていただけるなんて、とても感激です。

 インナー・チャイルドとアダルト・チルドレンの関係って、僕自身はそれほど詳しく考えてみたことはないのですが、すごく重要なテーマだと思います。
 きっと調べてみたら、色んなポイントが見えてくるでしょうね。

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プロフィル

Koudai Mitsuna

Author:Koudai Mitsuna
 
光奈 広大(みつな・こうだい)

 20年のあまりのサラリーマン生活を経て、いわゆる「ザ・マネーゲーム」を何とか卒業。今では束縛されない自由な日々を存分に味わっています!

 そうした中で心がけているのは、普通の日常的な行いを通じて、意識の進化を目指す「カルマ・ヨガ」。

 日々の喜びや学び、インスピレーションから得たスピリチュアルな気付きなどをブログで紹介しています。

 妻子と都内在住――。

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