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 前回記事で、『覚醒の炎 プンジャジの教え』の本を少し紹介しました。せっかくの内容ですので、その続きを。

 今回は、スピリチュアルなテーマの中でもとりわけディープな、「輪廻の仕組みとその終焉」について。

 こうした話は、「語る人によって色んな表現がされながらも、基本的な図式はだいたい似ている」という感じで、プンジャジの場合もその一つでしょう。
 だから、インパクトのある斬新な切り口というわけではないものの――、でもこうして、マスターたちが語った色んな内容にたびたび触れることによって、私たちの生に対する気づきが深まっていくように思える。


 この世に繰り返し何度も生まれ変わってくる輪廻転生は、私たちの魂には「死」が存在しないことを意味する。そのため、この仕組みを希望的にとらえる見方というのもある。
 ただし、魂そのものは永遠不滅であっても、この世界に肉体をもって生きることは、仏教などでは「苦しみ」とされている。
 その苦しみの生み出す輪廻転生のループから脱して、魂が自由に解き放たれることを、「解脱」と呼んでいる。


 では、輪廻というのは、いったい何ゆえに生じているのか?
 プンジャジは、「満たされなかった欲望」がその原因なのだとして、次のように説いている――。

 誕生と死の果てしない輪廻転生が存在する。それは人の「欲望」によって燃料が注がれている。

 あなたは心の中に「私はこれをするべきだった、あれをするべきではなかった」といった思いをためこんでいる。
 満たされなかった欲望――。それを満たそうとする圧力が、世界という現れを生み出している。これが「サンサーラ(輪廻)」だ。
 こうして私たちは、この生を得て、次の生も得ていく。

 欲望が尽きたとき、サンサーラもまた尽きる。一見終わりがないように見える輪廻転生も、欲望の終焉とともに果てるのだ。


 相当に深遠な話だけど、一方で彼は、こんな身近で分かりやすい比喩も使って説明している。

 あなたが「新車を欲しい」と思っていた場合、それ手に入れたとたんに幸せを感じる。なぜなら、新車を得たいという欲望がなくなったからだ。
 あなたを幸せにさせたのは「欲望の不在」であって、所有物の獲得ではないのだ。

 もはや欲望がないとき、あなたは幸せだ。これが「解脱」なのだ。解脱は、瞑想や聖典を読むことでは起こらない。欲望がある限り、サンサーラは存在する。そのことを、誰でも日々の世界の中に見ることができる。


 そして、さまざまな教義やマスターたちが説いているように――、輪廻もこの世界も、すべての正体は「人の想像が生み出した幻」なのだとプンジャジは語る。
 そして、延々と再生し続けている幻を終わらせなくてはならないと強調する。

 あなたが見て、感じ、考え、味わうあらゆることは、「想像がそれ自身と戯れている」だけなのだ。
 すべてのサンサーラ――何十億年という過去と未来の創造、心の果てしない想像――は、ただ一瞬のうちに起こっている。すべてのサンサーラは、一瞬の創造が拡張されたものでしかない。そしてそれが、私たちが何百万年ものあいだ体験してきたことを、実在だと信じさせている。

 世界という夢を見させ、その中で生き、解脱に向かって努力させてきたこの創造に、あなたは終止符を打たなければならない。永遠に終わらなければならない。


 前述されているとおり、輪廻は「欲望」を燃料にしているわけだけど――、では、その燃料供給を止めるための鍵は何だろうか。
 それは「記憶への執着」にあるとプンジャジは言う。

 心に印象を残したときだけ、欲望は問題となる。
 欲望が起こり、快楽が続き、そして記憶が続く。問題はそのようにして起こっていく。快楽自体に問題はない。ただその後で、それを「回想」することが問題をもたらすのだ。
 快楽が終わっても記憶は残る。その記憶が、同じ対象物を求めようとする欲望を起こさせるのだ。そのようにして、それは無限に続いていく。

 「記憶への執着」が、次の体験へとあなたを引きずり込んでいるのだ。
 解脱した人にも記憶はある。だが、記憶に蓄積された出来事に対する執着がない。記憶が表層に現れても、その後を追いかけたりしないため、欲望が生み出されないわけだ。
 記憶によって新しいカルマを生み出すような方向へと、解脱者が連れて行かれることはない。そのためカルマは作り出されず、再誕生もあり得ない。

 何であれ為すべきことが起こったら、ただそれを行いなさい。そして忘れてしまいなさい。それについて考え続けてはならない。
 頭にこびりついた想念が、あなたを果てしない輪廻転生に連れ戻すのだ。欲望がまったくないとき自由がある。無欲がニールバーナ(涅槃)なのだ。


 そして、「記憶への執着」を取り払うために必要なプロセスが――、執着の起きる地盤でもある「自分が行為者であるという感覚」を超えていくことだと説いている。

 あなたはこの世界で、あたかも「自分がものごとをしている」と考えている。だが真実は、「気づき」がすべての活動を維持しているのだ。すべては気づきの中で起こり、気づきの中で維持されている。あなたは何もしていない。

 すべての活動を行うのが、あなた自身でなく気づきであることを知れば――、記憶に足跡が残らず、カルマを蓄積することもなくなる。次の誕生を生み出すカルマはもはや存在しなくなり、こうしてサンサーラは終焉するのだ。


 あなたが消し去らなければならないのは、行動パターンではなく、それに伴う「行為者という感覚」だ。害となるのは、行為そのものではなくて、「私はこれらの行為をしている」という観念なのだ。
 解脱を得たあとでさえ、行為は続いていく。それが解脱の妨げになることはない。なぜなら、それは身体にプログラムされたものだからだ。あなたは、しなければならない活動でいっぱいの倉庫を持っているようなものだ。それが身体の生き続ける間に果たしていく運命なのだ。

 だが、行為者という観念が消え去ったとき、身体がすることやしないことについての関心はもはやなくなる。解脱を得た瞬間、大いなる「炎」が現れ、行為者という感覚は焼き尽くされるのだ。それとともに、未来に生まれ変わるカルマの倉庫も焼かれ、あなたの輪廻転生を終結させる。


 記憶への執着、行為者としての感覚――
 これらもまた、さまざまな本に繰り返し書かれている内容とだいたい同じかもしれない。そして私たちはそれを読むたびに、「そう簡単に言い切られても、言うは易しなんだけどなぁ…」というふうに感じる。

 でも、「魂を自由に解き放ちたい」という思いを持ち、その取り組みが可能な環境にこうして生きていること自体が、何世にもわたる徳と幸運が積み重なった稀有な結果なのだと、プンジャジは力説している。
 そして最終的に、欲望と想念を終わらせるのは、気づきの「炎」なのだと説く。この「炎」というのは、本のタイトルにも付けられている通り、この人の教えの象徴的ポイントだろう。

 それは実際に、「するも易し」であることも明言されている。
 これについては、また後日に続きの形でまとめてみたいと思います――。


 一点、やや付随的な話題を。

 死とカルマに関連したことだけど、聖者や覚者と呼ばれた人の中には、癌などに冒されて病死しているケースが少なくないですよね…。誰でも少し気がかりに感じることだろう。
 その事実について、プンジャジは次のように言及している。

 ラマナ・マハルシは癌だった。ラーマクリシュナも癌だった。ヨガナンダも癌を患っていた。
 人の身体は、過去の行為の結果を体験し続ける。真我を実現していない人の場合、未完結のカルマは、来世に繰り越される。だが解脱者にその可能性はない。今生で真の自由を獲得した人は、再び生まれ変わることがないからだ。
 それはつまり、この最後の人生で未完の身体的カルマを、すべて結実させなければならないことを意味している。そのために、解脱した人はときおり非常に病んだ身体で最期を迎えることになる。次の生に延期することができないからだ。

 しかし彼らが、そのことを気に掛けることはない。自分というものが、病気で苦痛を体験している身体ではないことを知っているからだ。ただ、身体を通してプラーラブダ(果たされるべき運命)が完結されていくのを、超然と見守るだけだ。


 結びのヒーリング・ミュージックは、Aeoliah「The Light of Tao」。

  ☞ コメント:44

 
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仕事や日常か、スピリチュアルか
コメント
6018
そうですね・・・
私も「欲望がなければ楽だろうなあ・・・」と思う時があります。

ただ、この世界では欲望は基本的には肯定的なイメージで捉えられている気がします。欲望(したい事)=生命力、エネルギッシュ、生きていく上での糧みたいな。まさに燃料という感じですね。
逆に言うと、「欲望が無い=生きている屍(大げさに言うと)」みたいな観念が一般的には強いと思います。だから「欲望をすべてなくす」といった事がなかなか真剣に価値ある事として考えられにくい。

しかし、例えば物欲など・・次から次へと欲しくなる、という経験をすると(実際経験ありますが)「本当に物欲というのは嫌だ!」と思いますし、酒や煙草、過食がやめられないといった事も本当に苦しいと思います。

回想しないって凄く難しいと思いますが、本当にこれが出来ればね~・・・。(快楽もそうですが、嫌な事については本当にそうなりたいですね^^;)


6019
感情の解放のヒント
広大さん

過去の記憶にまつわる激しい怒りをはじめとする喜怒哀楽の感情は「人として再び戻ってくるための活力」だったり「人として世に存在するためにある」ものだったりするんでしょうかね。

捉え方が変わったので、何となくフラッシュバックが起こった時に発生する、その当時の感情だったりが抑えられています。

お陰でやらなきゃいけない事に集中して取り組めるかも。
集中力が必要な時に 昔の怒りや思い出が蘇ることが多くて、失敗ばかりでした。

うまく人生の教訓につながりますように。

欲ばかり生まれてしまうけれど、少しずつカルマをクリア出来ますように。

前回の記事といい、色々とありがとうございます。
時間があるときに、過去記事にコメントを残しますね。

6020
欲って、間違った概念から生じるモノのような気がします。

メディアや学校教育やその他の影響で、幸せの定義が、自分の本心からでなく、他者から植えつけられてしまう、そんな感じです。

世間一般の価値観に違和感を覚え、本心に沿いたくても、でも長い習慣の洗脳からか、自分の本心を間違った考えと判断し、自責の念にかられる(なんで私は人と違うのか?ダメな奴だ等)。

でも、そういう植えつけられた固定概念を振り払って、自分の本心に沿って生きると、段々と本当の意味での満足感とか幸せが見えてきて、それらは物や名誉などの物質から得られないものだと知った時、不思議に物欲が無くなります。
又、そういう自分を責める事もなくなりました。

6021
Clary Sage様

 こんにちは!

 欲望をうまく満たすことができたとき、人は「生きている価値」のようなものを感じるのでしょう。
 でも、「死ぬときに後悔すること」のリストなどを見ると、欲望をもとに手にしたものが結局は価値を持たないものだったことが、最後の最後に判明するみたいですね…。

6022
tao様

 こんにちは!

 「人として再び戻ってくる」とか「人として世に存在する」というのは、高邁で素晴らしいことだとも思えるのですが――、でも記事に書いた通り、それは「苦」であり「幻」なんですよね…。

 もっともこの輪廻のメカニズムは、何か「罰」として無理に課せられたわけではなくて、そういうのを経験したくて、自らわざわざ創造した、という側面もあると言えます。


 創造してから破壊する、旅立ってから戻って来る、蓄積してから清算する、バラバラにしてから一つにする――
 こうした全体が、天の性質であり喜びなのかもしれません。

 私たちは、想像を超えた壮大ないとなみの中に生きています。

6023
匿名様

 コメントを有難うございます!

 「欲」は周りから植え付けられたものというのは、本当にその通りに思います。

 アマゾン奥地で1万年前と変わらない暮らしをしている「ヤノマミ」という部族を取材した本を読んだことがあるのですが、彼らは物欲というのがもともと希薄です。
 ところが、ナイフとか衣類といった文明社会からの物資が少し入ってくると、「自分もくれ!」と要求したり、持っている他者を嫉妬したりと、欲も感情もまる出しという感じです。

 人というのは、「欲」に対する耐性が非常に弱くて、すぐ感染してしまうんですね…。

6024
光奈さん、こんにちは。

昨夜、長いコメントを記入したのですが、送信しませんでした。
混乱している自分を感じたので。

私たちは色々な経験をしたくて生まれ変わりを繰り返していると思ってます。
ゴールは死ではなく、輪廻転生を終了することでもなさそうな気がします。

とにかく今生きていることを大いに楽しむ。
それができればいいのかなあの心境です。

生まれ変わったら歌手になりたいと思っていた私が(歌うことが好きなので)、
それなら今カラオケに行き歌えばいいじゃないかという発想に変化。

この世で叶えられることのなんと多いことか。
やろうとすれば今できることもたくさんあります。
やるっきゃないでしょう、自分の神聖なる欲望(?)に従って。

6025
「欲(望み)」を肯定するか、そうしないか
というのは、私にとってどーーしても考えが定まらない事柄なんですよね。
殆どの人には、自分にとって考え(姿勢)がはっきりしている事柄と、考えが定まらない事柄、両方あると思います。なかなか定まらず、揺れ動くという事柄こそがその人にとっての課題なんでしょうね。
「この世界に生きている間は肉体を持った人間なんだし、欲(望み)を肯定して叶えるのが幸せだ」という考えと、「欲はなくす方がいい」という考え。方向性は正反対なのに、両方尤もというか・・・。
どっちでもいいから、自分の考えが定まって欲しいと思います。(でもやっぱり、なくす方が魂の方向性かな・・・)


以前「夢を見ていて、目を覚ましたいのに夢の中でやりたい事・やらなければならないと思っている事に引っ張られてなかなか目を覚ませない」という経験を書きましたが、あんな感じなのかもしれませんね・・・目が覚めてしまえば夢の中でやりたいと思った事柄は全くどうでもいい事なのですが。




6026
こんにちは。

興味深く読ませていただきました。

個人的には今の世は欲望によって形成されていると思っています。欲望=物質=存在であり、存在=欲望がこの世の仕組みであるゆえに人は欲望から逃れることが難しいのです。

しかし物質は究極的には波動によって形成されると言われるように物質も本当は存在しません。つまり「存在すると信じている物質は本当は存在しない」=「欲望さえ本来は存在しない」のです。

こうして「この世で演じられているすべての事象は幻である」という極論に至るわけですが、「現実に存在しているのに本当は存在しない」という背反を理解することは難しいことです。

ゆえに人はこの世の存在を信じ、その結果欲望を生じさせ物質の支配を求めるのでしょう。

しかし、「すべての事象は幻である」と考えるならこの世のある意味も、この世での生き方も自ずと知ることができるかとも思います。

6027
吉田無ーん様

 こんにちは!

 きっと人間の頭脳というのは、この問いの答えが出せないように設計されているのではないかと思います。

 すべてが幻であるとして、輪廻を脱する目標のためだけに生きたとしても、たぶんうまくいかないのかもしれないです(だからこそ前回記事のように、「日常を大切にする」という観点が説かれているのだと思います)


 これも色んなマスターが語っていますが、「そうだと知ったうえで楽しみなさい」ということなのでしょうね。

6028
Clary Sage様

 こんにちは!

 これもまさに、物理的次元を生きる魂にとっての、パラドックスの最たるものだと言えます。
 前のコメントにも書きましたけど、人の頭脳では考えても答えが分からないようになっているのかもしれません…。

 でも、たとえば天命や天職を生きているような人って、高い望みや熱意や行動力はあっても、「欲」とはまた違うようにも感じます。
 そういうケースは、パラドックスではない方向性の一つでしょうね。

6029
ひまわり様

 コメントを有難うございます!

 素晴らしい洞察ですね。物質そのものがそもそも存在しないわけだから「欲望さえ本来は存在しない」というのは、まさしくその通りだと思います。


 この世界の現れを「物質」として存在せしめるためには、「これは物質である」と認める「自我」がなくてはならないです。
 そして、物質があるところに「欲望」が生じ、その欲望が自我をより強固なものにしていく…。

 こうして、「自我」「物質」「欲望」の揺るぎない相互関係ができるのでしょう。

6030
解脱の終了
「 「記憶への執着」が、次の体験へとあなたを引きずり込んでいるのだ。
 解脱した人にも記憶はある。だが、記憶に蓄積された出来事に対する執着がない。記憶が表層に現れても、その後を追いかけたりしないため、欲望が生み出されないわけだ。」

解脱したい 悟りたいという過去の学習の記憶から解放されて 人としての最低限と言われるプライドさえも 持ち合わせず 日々を淡々と過ごす事が出来れば・・・

ただ そう生きたいと願えば 
瞬時にして 人としての欲も執着も現われてくる

紙一重のような綱渡りが中庸なのでしょうか・・・

ただただ 生きるという事が
活かされている・・・ことなのでしょうか

6031
光子様

 こんにちは!

 どのマスターもそうですけれど――、真の道がいかに見いだしにくいかを語る一方で、実はとても簡単で自然なことだとも述べています。

 プンジャジも、こんふうに言っています――。

 「それが難しく見えるのは、周りの人々が違った振る舞いをしているからだ。あなたもこれまで、周りと同じように振る舞ってきた。シンプルで、自然で、自発的な生を生きることのどこが難しいのか。難しく見えるのは、誰もがそのように生きていないからだ。実際、それが一番やさしい生き方なのだ。なぜなら、それがあなたの本性だからだ」

6032
初めてのコメントです(^ ^)
出来たらもう少し解説していただきたいのです。
「害となるのは、行為そのものではなくて、「私はこれらの行為をしている」という観念なのだ。」と「すべての活動を行うのが、あなた自身でなく気づきである」の二つについて。

「行為をしているという観念」、特に「気づき」の方がよく分かりません。
よろしくお願いいたします。

6033
ポポ様

 初めまして!

 コメント欄でさらっと答えるには難しいのですけれど…、でも特に重要なポイントをとらえた質問だと思います。


 まず「気づき」ですが、これは一般的な言葉でありながらも、スピリチュアル用語のひとつと言えます。

 「私」というものの本質とは何かを突き詰めていくと――、それは物理的な肉体でも、人格や思考でもありません。

 そうしたものが現れる基盤である「意識」こそが、「私」というものの本質です。映画のスクリーンや、真っ白なキャンバスみたいな、いわば何もない「空間」ですね。
 日常感覚的にはとらえにくいとですが、インドのマスターや、最近のスピリチュアルな教えでも、これは共通して説かれている根幹的なことです。

 で、その私というものの本質である「意識」は、そこに現れてくる色んなものごとや感情・思考などに常に気づきながら見ている。だからそれを「気づき」とも呼びます。


 しかしながら私たちは、この物理的な形質を持つ肉体や人格こそが自分自身そのものであると認識して、そこに「私」というものを同一化させながら生きています。

 周りに起こるものごとや、自分自身の行為も、本当は「気づき」というスクリーン上に映し出された現れにすぎない。
 ところが、肉体や人格と同一化していると、「自分がその行為をしている」という、本当に疑いようのない感覚を抱きます。
 このことが「行為をしているという観念」なのです。

 この、自分が「行為者」であるという観点を前提に、私たちはさまざまな欲望や不満を持ち、感情や記憶をためこんでいくわけです。


 日常感覚や社会常識からは、相当にかけ離れた話ですけれど…、
 でもまさにこうして「真の私の本質」を忘れてしまっていることが、果てしない輪廻転生を生じているといえるのです。

6035
光奈さん、こんにちは。

そうですね。頭脳は考えても答えが出ない設計なのでしょうね。
だから答えを出すことをあきらめて、日常を精一杯生きる。
すると、ふとわかることがあるんでしょうね。気づきとして。

母の入院手術、通帳紛失騒動などを通して
過去の自分からの解放がさらに進んでいるような気がします。

執着しないと、心が軽くなりますね。
心が軽くなれば、周りの反応も気にならなくなります。
そしてさらに心は解放され、ますます心が軽くなっていくんですね。

6036
自我
結局私達は自分の思い通りになりたいという自我の意識にとらわれているのですね、世の中の常識や固定観念、概念にがんじがらめになってしまっている意識を普遍的な、どのようなものにも対応できる意識に戻るために気の遠くなるほどの転生をくりかえしているのだと思います。
たとえば、せっかく精神世界に目覚め、学びを得ようと誰かの教えや、宗教団体に入っても、これは駄目、これは良しなどと視野を狭めてしまい悪い方向へと進んでしまう、まあそれも勝手な解釈でその人の道であるので、それが遠回りだ悪い方向だとも言えないのでしょうね

6037
創造してから破壊する、旅立ってから戻って来る、蓄積してから清算する、バラバラにしてから一つにする――
 こうした全体が、天の性質であり喜びなのかもしれません。


これは、真剣に積み上げたブロックや積み木を、最後には派手に壊して大笑いしている、子どもの様子に似ていますね(笑)。

気に入らないから壊すのではなく、子ども自身は、積み上げる喜びをただそのまま感じているのでしょう。

そして「創造」という、私たちの誰もが持っている力を、幼い子どもはただシンプルに、ただ喜びのためだけに使っているようにも見えます。


「自我」「物質」「欲望」の三点セットがあってこその、この世の中。
そしてたとえ幻でも、そんな世界でさえ発露していく『神性(真正)』には、その根本となるエネルギーを、さらに拡大させるほどの美しさや喜びがあるのかもしれません。

6039
こんにちは
「輪廻とその終わり」
題名に引きつけられ…コメント失礼します。


私は友人とよくその話をしました。

魂は最初は完璧で
この世から、あの世の全ての叡智を有し、
知り語る事も出来ますが経験が無い。
全てを経験する為に魂は二つに分けられ輪廻の旅へ出ます。
それが伴侶の魂と呼ばれるもう一つの自身。
魂は、この世の微生物から始まる螺旋の中に在り人型を目指しています。
人型になっても更に、輪廻を繰り返し、
進化、向上を目指し、輪廻を卒業して、更に階層を上がり、
上から第二番目の階層にソウルメイト達と共に辿り着いたら、ここからは伴侶の魂と共に、輪廻での学びを活かした活動に入ります
その働きを認められたら第一の階層に伴侶の魂と上がり。。。



…だいぶ割愛してありますが、そんな話をしました。
友人は他界してしまい
もう「話す」ことはありませんが
少しだけ、亡くなった後の事を体験させてもらいました。


「執着」は生きるうえで大切です。
「執着」が無くなったら…アガリですから


6040
こんにちは。

欲望は、恐ろしいものですね。
そのように知りながらも、欲をもってしまうのが、
人間の悲しいところなのでしょうか。

とても哲学的ですね…。

6041
記憶と感情
こんばんは。

過去の記憶に今現在になっても振り回されてしまうのは記事にも書かれているように
“「記憶への執着」が、次の体験へとあなたを引きずり込んでいる”のでしょうね。

そのことに大分苦しみましたが、記憶そのものが悪いわけではなく、その記憶を良し悪しで判断していること、感情が残ったままで執着したままであること等が苦しいのだと思います。

記憶が蘇ってしまうのは仕方がないとして。
蘇ってしまった時に、
「今を支配するのは、この記憶とその時の感情ではない、
ネーティ、ネーティ(今はこれではない)」
「今、(導きやらマスターやらが)見せたい現実、見て学ばせたいのは、過去の記憶ではない、ネーティ、ネーティ」
など、ネーティ、ネーティ(おまじないみたい)で記憶と感情を解放しやすくなってきました。

ゆっくり焦らず、上手になっていければいいやと思っています。

過去に影響されず、今をしっかり生きている。
今を生きることを楽しんでいる。
それってシンプルだけど、幸せなことですよね。

じゃ、また。

thx masters, thx 広大さん


6042
こんにちは。

「あなたを幸せにさせたのは「欲望の不在」であって、所有物の獲得ではない」、とてもわかりやすく納得でした!
俗世において欲望や執着、そして自我に囚われないようになれば、解脱に近づけるのでしょうか・・・。
「するも易し」の続きを楽しみにしています!

6043
いつも見させていただいています。
 私も本来仏教の求道を目指しているものです。そしてカルマは最大のテーマです。今回の記事興味深く拝見させていただきました。そこでお願いがあります。今回も記事を私のブログに掲載させてください。悪意はありません。広く紹介したいだけです。

6045
吉田無ーん様

 こんにちは!

 「執着しないと、心が軽くなる」というのは、その通りですね。
 私たちにとって最も重い荷物とは、形のある物ではなくて、まさに「執着心」のほうだと思います。

 形ある物のなら人生を終えるときに手放すしかないですが、「執着心」はカルマとして持ち越しなのでしょうね…。

6046
空様

 こんにちは!

 そうなんですよね、「遠回り」や「悪い方向」は、本当の意味では存在しないのでしょう。

 「真の私」というあり方から離れて、放蕩して延々とさまよい、そうしてから再び本源へと帰還していく――。そのプロセスは、きっと省略できないのだと思います。

6047
kutaneko様

 こんにちは!

 インドの神話でも、「創造の神」「維持の神」と「破壊の神」がいますけれど、それは破壊そのものが目的ではない――
 この世界を作って、動かして発展させていくためには、破壊という要素はどうしても不可欠なのでしょう。

 おっしゃる通り、積み上げだ積み木は崩さないと、積み木遊びそのものがそこで止まってしまいますしね…。

6048
かりん様

 こんにちは!

 ソウルメイトも含めた、素敵な切り口ですね。こうした話をできる友人は、まさに大切な関係性だと思います。

 転生の旅の味わいや経験を深め、そしていわば「効率的に学ぶ」ために、ツインソウルやソウルメイトがいるのだと僕も感じます。

6049
おっしー様

 コメントを有難うございます!

 どうしても人は欲望を持ってしまうものですけど…、でもそれも「手放すことが可能なもの」だということは、喜ばしいことなのでしょうね。

6050
tao様

 こんにちは!

 記憶そのものに問題があるわけではなくて、それへの「執着」が問題を生じるのでしょう。

 現実的な問題に色々と頑張って対処しているつもりなのだけど、そのこと自体も実は「執着」だったりもして…、そういうのがとても厄介ですね。

6051
Yuki様

 こんにちは!

 「あなたを幸せにさせたのは『欲望の不在』であって、所有物の獲得ではない」の一言は、かなり説得力がありますよね。確かにその通りだなと感じます。

 そして「それが解脱なのだ」と言い切られると――、私たちは「解脱」というものの本質を、ものすごく難解にとらえ過ぎているのではないかな、とも思えます。

6052
丸山一郎様

 こんにちは!

 仏教にお詳しい方にブログに共感いただいて、本当に嬉しく思います。
 引用や紹介などはご自由にしていただいて、まったく問題ございません!

6053
光奈さん、こんにちは。

1999年までは創造も好きでしたが、破壊がもっと好きでした。
創造と破壊は対のものでしょうが、今はその中間にいるような感覚です。

もっとも、こうして生きていることは
常に創造と破壊を繰り返していることなんでしょうけど。

創造することにも執着しなくなったような気がします。
もちろん結果にはもっと執着しなくなってきました。

本物の自由人に近づいている、と信じます(笑)。

6054
はじめまして。

いつも感慨深く読ませて頂いています。

欲望がまったくないとき自由がある。。。。

なぜか、心に響きました。

私はまだまだ輪廻転生を続けることになりそうです。(^^ゞ

6056
返コメありがとうございます
「気づき」は普段使われる意味とは全然違うのですね!
他の方のコメント&返コメも併せて読んでみて、あらたに「なるほど!」と思う発見もあり、理解の助けにとても役立ちました<(_ _)>

私なりの感想ですが、人は何がしかをこの世で創造して行くと思いますが、創造する行為を楽み、創造したものについては執着しないでいられる状態が理想なのかな・・・と。
そして、創造したものについて執着しないでいられるためには、全く同じものを再度創造できなくても良しとし、新たに創造できる内なる創造の泉を大切にすることなんじゃないのかな・・・と(^ ^)

6057
吉田無ーん様

 こんにちは!

 創造・維持・破壊は、3つまとめて「ひとつの輪」であり、ある意味でそれが世界や生の在りようと言えるでしょうね。

6058
ようこ様

 初めまして! コメントを有難うございます。

 こうした根源的ともいえるテーマが心に響くのは、きっと何か大切なシフトの局面にいらっしゃるのだろうと思います!

6060
ポポ様

 こんにちは!

 素晴らしいとらえ方ですね。
 「創造」は起こってくるものであり、「執着」はこちら側の態度です。態度というのは、自分で即座に選ぶことが可能でしょう。

 また、この本には出ていないですが、創造された現実を「これは善い、あれは悪い」と価値判断しないことも、よく言われる大切なポイントだと思います。

6062
こんにちは^_^
以前コメントさせて頂いた者です。
今回のコメ欄に気付きと行為者としての「私」、このテーマがあり
一番知りたいテーマで思わず乗っかってしまい失礼します^_^;
この事が完全に腑に落ちる為には
やはり自我が無くなる体験を
しないと分からないのでしょうかね?^_^;
ただスピリチュアルの最たるパラドックスだと思うのですが、
自我を無くそうと考えている、無くしたいと思っている感じているのは自我ですから
自我は無くならないですよね。
いわゆる恩寵。
もしくは、行為者はいないので
自我が無くなる体験をするシナリオなら
無くなるし、無くならないシナリオなら
無くならない。
自我(思考)には現実を変える力は無いとも
言われてますし。
その中で、ミツナリ様が今回のコメ欄に説明されていた気付き、
その通りなんだろうなと思うのですが
自我が無くなる体験もないですし
知的理解に留まったままで
いっこうに前に進めません。
腑に落としたいのですが
ミツナリ様はどの様に腑に落とされましたか
ご教授願いたいのですが宜しいでしょうか?
思考で考えても答えは出ないのしょうが
そこをなんとか...^_^;


6064
crew 様

 こんにちは!

 こうした「スピリチュアルのパラドックス」を知的理解によって解いていこうとすると――、間違いなく迷宮に入っていくことになると思います。

 魂がめざすのは最終的には「解脱」ですけれど、「肉体と自我を持って生きる経験」というプロセスもまた、この次元が創造された重要な目的と言えるでしょう。

 だから、プンジャジのような極め付けの観点の一方で、「最終目標を知りながら、プロセスをしっかり生きる」という見方も、僕自身を含めた多くの人に必要だろうなとも考えています。


 こうしたパラドックスを受け入れるティモシー・フリークという人の切り口はけっこう好きですね。
 過去記事でも紹介しています。

 http://mitsunakoudai.blog.fc2.com/blog-entry-259.html

6070
ティモシー・フリークの過去記事を読んで
「スワミとティモシー・フリーク、両方分かるなあ。私の中に両人がいるようなものだ」と思ったら、当時も同じようなコメントしてましたね(笑)
約1年前から進歩してないのか・・・^^;

やっぱり、「明晰夢」を見るような状態で、この夢の世界を生きるのが一番いいんでしょうが・・・しかし、そのためには一度目を覚ますのが必須なのかな??(臨死体験者は言ってみれば「一回目を覚まして、その記憶を保ったまま夢の中に再度戻った人たち」かなと思います)

6076
Clary Sage様

 こんにちは!

 「スワミとティム」のやり取りは、うまく書かれていますよね。
 きっとティモシー・フリーク自身も、まさにそうした自問自答をしてきたに違いないです。

6131
一つ質問させていただいてもよろしいでしょうか。ヨガナンダが癌を患っていたということをどこでお知りになったのですか。彼に関する本を随分読みましたが、どこにも死因は記されていませんでしたが。

6132
匿名様

 こんにちは!

 その個所は、冒頭に記したとおり、『覚醒の炎』の本から引用したプンジャジの言葉です。

 でもヨガナンダが癌だったことついては、確かにほかの本などでは僕も見たことがないです…。

 ヨガナンダの生没が1893-1952で、プンジャジが1913-1997と、ほぼ同時代を生きたインドの覚者ですから、たぶん誤りはないだろうなと思いますが。
 

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プロフィル

Koudai Mitsuna

Author:Koudai Mitsuna
 
光奈 広大(みつな・こうだい)

 20年のあまりのサラリーマン生活を経て、いわゆる「ザ・マネーゲーム」を何とか卒業。今では束縛されない自由な日々を存分に味わっています!

 そうした中で心がけているのは、普通の日常的な行いを通じて、意識の進化を目指す「カルマ・ヨガ」。

 日々の喜びや学び、インスピレーションから得たスピリチュアルな気付きなどをブログで紹介しています。

 妻子と都内在住――。

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