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 インドの覚者・プンジャジの対話集『覚醒の炎』の本について、これまでの数回の記事で紹介してきました。

 プンジャジが説くのは、自らの内にある「真我を見いだしなさい」という、きわめてシンプルな教えだ。
 この本の対話の中には、とても興味深いテーマがまだ色々と盛り込まれているので、さらに続けてみますね――。


 「思考は現実化する」というのは、色んな本などで語られている。
 その想念の働きが、私たちの経験する「人生の現実」を生み出しているのだとよくいわれる。
 それだけでなく、何と、「死後の世界」までをも思考が作り上げてしまうことを、プンジャジは以下のように語っている――。

 あなたが考えれば、あらゆるものごとが現れる。心は何であろうと構築することができるのだ。
 一見あり得ないようなことや、さらには神々の領域でさえも、心によって構築することは可能なのだ。

 「神への帰依」という二元性は、あなたを死後に神々の領域へと連れてゆく。そのような天上界の描写は、数多く存在している。しかし、それらはみな概念――心の想像物でしかないのだ。
 たとえ偉大な聖者であろうと、そのような概念を信じ、自らの概念に応じた天国へ行くことになる。なぜなら彼らの心には、「死とともに天上界に行く」という条件付けがされているからだ。
 心の力がそうした天国を作り出し、そこに行って長く楽しい時を過ごしているが、しかしそれが「実在」だという意味ではない。


 たとえば、自爆した若いテロリストたちは、「殉死者は天国に行って、何十人もの乙女たちと永遠に暮らせる」という教えに扇動されたのだという話がある。
 それを聞くと、「そんなおとぎ話みたいな教義に洗脳されて、罪もない人々の命を奪うような奴らは、地獄に落ちるに決まっている!」なんてふうにも普通思うだろう。

 でも案外、彼らはそのような「天国」を想念によって作り出し、今ごろ本当に何十人もの乙女たちに囲まれて暮らしているのかもしれない…。


 ただし、「天国」というと素敵そうにも思えてしまうけれど…、プンジャジが強調するとおり、それは「実在」する世界ではない。
 そして、そこにとどまり続けることが、輪廻転生を無意味に引き延ばし、真理から遠のいてしまうのだという――。

 強烈な帰依心を持った人々は、そうした概念が作り出した天国の中に、何千年間もとどまってしまう。だが遅かれ早かれ、彼らはまたここへ戻って来なければならない。

 「真の自由」とは、そのような様々な世界に不必要に現れ続けることから、あなたを開放することだ。それらの世界においては、この「真の自由」について語られることはないのだ――。


 死後世界にずっと囚われてしまう話は、変性意識を生み出す技法の「ヘミシンク」で有名な、ロバート・モンローも語っている。

 モンローは、ヘミシンクを使って「物質を超えた宇宙」をくまなく探索し、その階層的な構造を「地図」として描いた。
 それによると、私たちがいま生きている日常世界と、次の転生への入り口となる地点との間には、死んだ人々の想念が生み出した「囚われの領域」が存在するのだという。

 そこには、同じ強固な価値観を持つ人たち同士が、寄り固まっている。
 例えばキリスト教の同じ宗派の人々が、自分たちが「これが天国だ」と信じて疑わない世界をそのまま作り出し、いつまでもそこから出ることなく押しとどまっている。
 この領域には、そのような集団が作った「疑似天国」のようなものが、たくさん点在しているそうだ。


 もっともこの「囚われの領域」にいるのは、そうした宗教的な集団ばかりではない。
 人を傷付けることに喜び感じる者同士が、互いに傷付け合いを果てしなく続けている世界や、泥棒たちが相手のものを盗み合う世界、アルコールをはじめ様々な依存症の世界など――、人々が固執するありとあらゆる価値意識によって生み出された世界が、細分化して存在している…。

 この「囚われの領域」については、過去記事の「フォーカス23」で、やや詳しく説明しています。

 また、落雷事故や心臓病で3回も臨死体験をしたアメリカ人男性のダニオン・ブリンクリーも、死後世界に無数の魂が閉じ込めらている不気味なエリアが存在することを証言している。
 これについても過去記事の「ブルーグレーの場所」で書いています。


 ほかにも、前世からの生まれ変わりの記憶を持つ人が、「あの世の風景などは、一見この世と変わらない。ただしあの世では、同じ考えの人たちにしか出会わない。またあの世には、変化というものが起こらない」とも語っている。
 これも、死後の想念が作り出す「天国」や、「囚われの領域」の基本的な性質と同じといえる。


 これに対し、私たちが生きるこの世というのは、色んな異なる他者とかかわり合わなくてはならない「相対性・関係性の世界」だ。
 そして、あらゆるものごとが絶え間なく変化していく「諸行無常の世界」である。

 でもそうした特質があるからこそ、「進化」や「浄化」ということが可能なのだろう。
 異質なものが存在せず、変化が起こらない世界では、それがまったく不可能といえる。

 だから魂は――、たとえ苦しみを伴う経験であっても、この世での輪廻転生を続けるしかないわけだ。
 プンジャジが言うように、「彼らはまたここへ戻って来なければならない」のだ。それが魂の「本能」ともいえるだろう。


 でも、死後の「囚われの領域」にいる人々は、そこから抜け出るすべを知らない。
 自分たちの集団がいるところとは違う「別の世界」が存在するということさえも、完全に忘れてしまっている…。

 そこがあまりにも苦しい場所ならば、「もうやめたい!」という衝動がひょっとしたら起こるかもしれない。
 でも、そこが「天国」であったならば――、何十人もの乙女たち(あるいはイケメンたち)と、永遠に楽しく過ごしていたならば――、その領域から出ていこうという気持ちが浮かぶはずがない…。


 でも、私たちの魂は、いつかは自らの意志で戻るのだろう。
 昔話の「浦島太郎」には、そういうポイントも含まれているのではないかなとも思う。

 浦島太郎は、いじめられている亀を助けて、亀のガイドによってまさに天国のような竜宮城に連れて行かれる。そこで美しい乙姫たちに、素晴らしい踊りやごちそうで歓待される。
 自分が施した善意へのお礼として招かれたわけだし、乙姫からもずっといて楽しんでほしいと請われる。帰る理由なんて何ひとつない。
 浦島太郎は長逗留するわけだけど、でもやがて「やっぱり帰ろう!」と決意する。

 そうして、再び地上の浜辺へ戻ったときには、実はもう何百年もの歳月が過ぎていたことに愕然とする。
 浦島太郎が玉手箱を開けると、年老いたじいさんになってしまうわけだけど――、たぶんこれは、間もなく死んで生まれ変わる輪廻転生に戻った、ということなのでしょうね。

 竜宮城に滞在していた日々は、「変化も進化もない幻」だったといえる…。
 それでも、「自らの意志で戻ることができる」ことが物語に描かれている点は、一種の福音でもあるのでしょう。


 禅では、悟りを妨げる幻影について、「仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺せ」と厳しく言い放っている。
 それと同様に、「竜宮城に招かれたら、すぐそこから出なさい!」ということなのでしょう。

 いつのことか分からないけど、もしも死後に天国のようなところへ連れて行かれ、何十人もの乙女たち(あるいはイケメンたち)に囲まれたときには――、「あっ、そういえば生前に読んだブログで、確かこんなことが書いてあったぞ…」と思い出してもらえたら、ものすごく有意義ですね。


 もう一つ、「天国」の話に近い、スピリチュアルのとりわけディープな話。

 私たちは、偽物の自分であるエゴを捨てて、いよいよ「真我」に到達しようとするとき――、最後の最後に首の皮一枚のような執着が残り、それがどうしても手放せないのだとよく言われる。

 プンジャジが語るのは、最後に脱すべきその罠とは、何と「至福」なのだという――

 5つの罠が存在する――。まず「肉体」との自己同一化、そして「生気からなる身体」との同一化だ。さらに、「精神的な心の身体」と「知性の身体」があり、最後に「至福の身体」がある。
 「私」というものは、これらの身体を通じて機能している。これらの鞘(さや)が「罠」となるのだ。
 人は真の自由に直面する前に、これらの自己同一化のすべてを超えていかなくてはならない。

 至福の中にいる心は、もちろんとても幸せだ。多くの人たちがそこにとどまってしまう。聖者でさえこの地点を超えられずにいる。
 至福の体験は美しく、この障壁を乗り越えるのとても難しい。だが、そこを超えたところに究極の真理があると知れば、そこにさえとどまるべきではない。

 しかしエクスタシーの中で、あなたは泥酔したようになっている。それを放棄するか取っておくかという選択肢は、あなたにない――


 最後の執着が、見るからに「しぶとい敵」のような存在だったら、誰だって力を振り絞って払い除けるだろう(ちょうど映画「クリフハンガー」や、「ダイ・ハード」の一作目の最後で、腕をつかんでくる悪のリーダーを振り落とすみたいに)

 ところが、その振り落す相手が、こともあろうか「至福」となると…、これはもはや絶対に無理ですね。


 僕は、この世界というのは、「神が自らにかけた魔法」なのだと思っている。
 何せ「神の魔法」だから、魔法にかかっている神自身でさえも、そう簡単に魔法から抜け出ることができない。

 この「最後の罠が至福」というのも、本当にうまく仕組んだものだなと思う。


 でも、これもまたいつのことかは分からないものの――、もし意識の目覚めが進んで「至福の極み」にまで達したときに、素晴らしい恍惚感の中で「そういえば以前に読んだブログで、確かこんなことが書いてあったぞ」と思い出してもらえたら、ものすごく有意義だけれど…
 もちろん僕自身も含め、誰一人として覚えていられないでしょうね。



結びのヒーリング・ミュージックは、David Ison「Sleep」。

 
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「自由への欲求」と「炎」
コメント
6093
光奈さん、こんにちは。

今日は午前中から朦朧としています。
黒点がとても多くなっていたんですね。そして強風。
変化が始まっているのかも。

いえいえ、常にすべては変化していますよね。

さて、至福が罠だとは・・・。
幸いなことに至福感は続きません。時々突然感じてもそれは短い間です。
それでよかったのですね。

とても眠いです。でも明日は母の誕生日。
お花屋さんへ花を注文に行きます。強風の中を歩いて。

6094
強風(暴風)の中、歩くのはやめました。
吹き飛ばされそうな北風が吹いています。

電話で注文済ませました(笑)。

6097
吉田無ーん様

 こんにちは!

 もちろん、日ごろ感じる幸せや喜びは、存分に味わうべきでしょう。ここでいう罠というのは、魂として究極的な場面での話です。

 強風は危険ですね。僕は湘南海岸を歩いているとき、体ごと吹き飛ばされそうになったことがあります…。

6099
死んだ後
そういう場所に行ったらどーしよう、ちゃんと行くべき所に直行できるだろうか・・と思ってしまいますが、考えてみると、今ここに生まれているという事は少なくとも前回死んだ後にちゃんと然るべき場所に行ったという事ですし、過去何十回何百回と繰り返し成功してきた訳で・・・。(時間を直線的に見るならば)
多分、何度かはすぐに直行出来なかった事はあったかもしれませんが。
まあ、大丈夫でしょう^^

6100
Clary Sage様

 こんにちは!

 そうなんですよね。私たちはそういう世界を、きっとすでに(もしかしたら幾度も)経験済みなんですよね。

 そのうえで、今こうして、ここに生きているわけですから。我ながら信じられないくらい、すごいことです…。

6101
エクスタシーの状態でもこのブログは思い出すんじゃないでしょうか。
ついさっきまで夢の中で私はこのブログを読んでいました。

私が持っている情報も、ここに記しておきます。

覚醒に至る為のエクスタシーの放棄に続いて非二元の道(マインドの道)を選んでいた人間の場合、
自我の断末魔とでもいうべき「永遠かつ無限の虚(無)」と遭遇するらしいです。
そのあまりの説得力の為、霊的達人ですら足元をすくわれてしまうのだとか。
そこで引き返してしまった場合、いわば殺されかけた自我の残党は皆蘇り、
自我からの集中砲火を浴びた求道者は言葉を発する事さえ不可能な深刻なうつ状態にまで追いやられてしまうのだそうです。
そこを安全に抜けるには2つの事を覚えておくと良いそうです。

1つ目は神に自ら進んで全てを捧げてしまう、退却はそもそも自分には可能性としてすら存在しないという断固たる神へのコミットメントです。

2つ目は「神の十全性に対極は存在しない」という、
「神の十全性」VS「愛をも超越したかに見える虚」という最後の2元性を超越することです。
「虚」を前にした時、「虚」が真理ならばコレを体験している自分は何か?って思い出せば、「虚」はおのずと虚偽である事も思い出すと思います。
I am(私は在る)ですね。
日々において体験している自分を信じ切る利点とは、こういうところにもあるのではないでしょうか?
ともかく、「無限の永遠の虚無」には更に致命的に欠けているものが一つあって、
それは「神の愛」が全く不在である、ということらしいです。
「神の愛」に反するものは可能性としてすら実在しないと覚えておけばいいと思います。
この記事の意義を増す事に成功できてると嬉しいです。


過去記事を思い出したんですが、
確かに今我々が生きている時代は、
グルやマスターの恩寵に浴することで一気に覚醒へと至るのではなく、
「自己」の素晴らしさをそれぞれの人が持つ個性で味わいつつ、
自学自習を繰り返して着実に確実な覚醒へと向かっていく時代なのだろうという気がします。
移り変わっていく諸行無常に意義があるとすればこのような時代に我々が存在できている素敵さではないでしょうか?
ネットとか無ければそもそもこういうコミュニケーション・情報交換が容易には出来ませんし…

それでも尚、更に時代は移り変わっていくので、
諸行無常を追っても疲れてしまい相手や世界を変えることも出来ず、
従って意義という観点を超越しなければ真の幸せに生きることはもう無理だと、
完全に思い知るポイントが各々の人生で色鮮やかに設定されているとも思います。

結局は、各々が感情の投資先を諸行無常ではなく、
永遠にして不変かつ偏在する真理に徐々に切り替えていく事にならざるを得ないのだろうと思います。

人間の本性はそこじゃないかと。

それはその人の意志とカルマが完全に見事に一致するポイントで為されて、
周りをもこのブログのように巻き込んで、
発射されたロケットのように自我という重力圏内を突破し意識の進化は加速してついには光の速度を超え、
意義を後にし啓示を超えて変容を超え恍惚を超え、覚醒を超えて解脱を超え「自己」すら超えていつの間にかもはや何もしなくとも神へと航行している自分に気付く。
そこから新たなる次元が展開していく・・・
なんてストーリーをファンタジーじゃなく現実として突き進む事になっていくのだと思います。
ほぼ右脳的な感じでここは書いたんでちょっと良くわからなかったらすみません…

人間の持っている可能性は、本人の信念体系が恣意的に決めたものを次々と解除して後にしていけば、
無限まで行けると思うんです。
その解除こそが真の贖罪(あがない)なのだと公然と言ってしまっていい時代にまで達していると私は信じたいです。

6102
パシャ様

 こんにちは!

 すごい内容ですね…。「自己が完全に消滅してしまう虚無への恐怖」については、さまざまなところで聞くことがあります。

 こうした話が、ブログなどで(日常的にとは言わないまでも)語られること自体、特別な時代だなと感じます。

6103
光奈さん、はじめまして!
ぼくは「空意識=無条件の至福」がゴールと思ってましたので・・
今日の記事はちょっとショックでした。
それとも竜宮城の至福は「条件付きの至福」と解釈できるのでしょうか?
いつも楽しく読ませていただいています。
ありがとうございます。

6104
光奈さん、こんにちは。

至福が罠は、魂として究極的な場面での話なんですね。

とはいえ、日常的な至福を継続的に感じることは、現在の私にはないです。
ありがたいなー、幸せだなーという思いはいつも存在していますが。

至福と幸せは同じなのかしら???

以前にもコメントしたと思いますが、
至福感が突然訪れるのは、散歩中です。なぜでしょうか。

6105
つまり、この世で全ての人を愛することができれば、あの世では愛する人しか現れないってことではと思います。逆もまたしかり、それが天国であり、地獄であるのでしょうね、
私達が寝ている時に観る夢があの世ではと思います。肉体がないので、痛みはなく、次々と自分の想念が具現化されていき、肉体がない分感動や感覚や恐怖が鋭い、私はこれも神の御業であって、あの世での生活を体験させているのだと感じます。常に今の心の状態があの世の現実として顕れる、いつも心を穏やかに愛のある日常を送ることが一番肝心ということでしょうね。

6106
ミルパ様

 初めまして! コメントを有難うございます。

 ここで言う「竜宮城」とは、死後の想念が作り出してしまう「疑似天国」のことですから、相当に特殊なケースの至福です。
 だから、普通にスピリチュアルなものごとを考えるときには、特段に留意する必要はないことでしょう…。

 また日常生活にある「条件付きの至福」も、生の経験の一部ですから、訪れたときには普通に味わうべきものだと思いますね。
 ただ、それだけが人生の目的となると、問題かもしれませんが。

6107
吉田無ーん 様

 こんにちは!

 英語では、至福が「bliss」で、幸福が「happiness」です。

 プンジャジの言葉にも「それが至福であり、幸福であり、自由であり、悟りである」というのがあって――、別々に言い換えてはいるものの、要は一つのものだということですね。

 あれっ…、ここでは「至福=悟り」だと彼は言っているんですね。
 こういうのは、言葉にこだわりすぎないほうがいいのでしょう。

6108
空様

 こんにちは!

 記事で少し触れている臨死体験者のダニオン・ブリンクリーは、死後世界で「生きている間に他者に与えた危害を、相手の気持ちになってすべて味わう」という体験をしたそうです。

 彼の場合、ベトナム戦争の暗殺部隊にいたという経歴もあって、この体験はまさに地獄のようだったと語ります。

 その後に彼はボランティア活動に熱心に取り組み、そして2度目の臨死体験をするのですが――、
 今度は、手助けしてあげた相手の喜びや感謝の輝きが、自分の中にあふれ出てきたと言います。

 本当に、そういうのがあるのですね。

6109
こんにちは!
初めてコメントさせてもらいます。
『死後の想念の世界』が有る事をロビンウイリアム主演の映画(タイトル思い出せませんが)を観た時知りましたが
記事を読ませてもらって
生前の死後への考え、想いだとかの世界や
生前の
拘っていたことの世界にまた居ることになることを確信しました。
それと「自由になりたい」その願いに到達するまでに過去の自分の積み重ねがそうさせたことが、今の自分は環境も状況も完璧なんだと気づきました。
上手く表現出来ませんがとにかく衝撃でした。感謝です。

6110
こんにちは
五つの罠を超えた状態とはどんな状態なのか想像すらできないです。至福すらこえる・・「無」にたどりつけということかな? 難しすぎてわかりません。笑  



6111
coco様

 初めまして! コメントを有難うございます。

 「こだわっていたことの世界に、またいることになる」というのが、この世とあの世、そして転生したあとも続いていく真実のようです…。

 でもこれも、あらゆる魂が「自由になりたい!」と希求するための仕組みなのかもしれません。
 その意味で私たちは、常に正しい道のりにいるのだと思いますね。

6112
タカヒロ様

 こんにちは。実にいいコメントですね!

 プンジャジも本の中で、いかにそれが理解・描写不能であるかを、とうとうと語っています。
 「自分で体験しながら、説明したいのに全くできない」という難しさについて、ここまで率直に語るマスターも珍しいし、その熱意と無念さも伝わってきて、けっこう面白いと思います。

 以下に引用しますね――



 私自身、何が起こったか説明しようがない。何度も同じ体験を取り戻しもしたが、決して「理解」することはなかった。心にはその状態を理解して描写することができない。説明することや、それを語ることは不可能だ。
 何か新しいことが起こったのではない。すでに知っていたことの再確認だった。だがそれもまだ言い表せず、定義できないままでいる。

 だから私はそれを「描写できないもの」と呼ぶのだ。だが私には、それを説明し、それについて語ろうとする衝動はある。
 これはまだ為されていないことなのだ。ほかはすべて成し遂げられた。だが、この仕事に限っては、いまだに達成されていない。それは語られないままだ。それができればと願うが、今に至るまで一度も起こっていない。私はあらゆる賢者の言葉に目を通してきた。だが同意できるものは一つもなかった。

 もし誰かがあなたに、それについて説明したとしても、受け入れてはならない。なぜなら、いかなる教えもその真理に触れることはないからだ。これだけは確実だ。いかなる言葉もそれを言い表すことはなかった。
 あなたは自分自身で見なければならない。あなたは一人でこの状況に直面しなければならないのだ。

6113
至福・・・
こうして意識を働かせている間は
至福は訪れないという事ですよね

何かを掴みたい 捉えたい たい たいが続く間は
決して到達も 空も 無も訪れない

意識が融けて空気のように一つなら
至福もありはしないのでしょう

6115
いやー大変興味深いですね。ありがとうございます。 
2つまえの記事の ”「輪廻とその終わり」について” の中に書かれていることが ”それ” に近づくための、プンジャジが最大限に言語化した具体的なコツのように思います。

6116
はじめまして
いつも拝読させて頂いております。
昔そんな内容の夢を見た事がありました。
自分は幸せしかない場所にいて、みんな幸せに笑っている。
けれど、私はここを出て困難多き地上の国へ行こう…

そんな夢でした。



6117
こんにちは。面白いですね。難しくていまいち理解できませんが。w

私の中では天国はあの世の世界で、現世の囚われた想念の具現化と思っています。そして、この囚われた想念が輪廻転生への原動力でもあるわけです。

ゆえに解脱によって輪廻転生を抜け出すことが究極の魂の目的であると思っています。では解脱によって輪廻転生を超えた世界はどんなものかと言うと無であって「真理(神?)」との融合ではないのかな?なんて現時点では思っています。

無が究極であるのなら至福はそれに至るまでの過程(それ自体は高次元ではある)であり、それゆえそれ自体も囚われの一つだと思います。

6118
光奈さん、こんばんは!

なぜ散歩中に至福を感じるのか。

散歩中はほとんどマイケルの曲を聞いていますし、
色々なことを考えながら歩いています。

でも、一瞬というか短い時間、無(?)になる。思考が停止する時があって、
その時に至福を感じるのではないか、そんな気がしました。

つまり、無の空間ができた時に入り込んでくるのが至福なのかも。
至福はどういうものか、言葉では表現できません。
幸福と同じようであり、幸福よりも静寂というか。

これ以上、至福を語るのはやめておきますね(笑)

6119
光子様

 こんにちは!

 「意識が融けて空気のように一つになる」って、素敵な表現ですね。
 まさに、自由で至福という感じです!

6121
タカヒロ様

 こんにちは!

 「それ」そのものを言語化することは無理ですが、自らの内にある「それ」に向き合うように、言葉を通じて誘導していくことは可能なんですよね。
 優れた師がするのは、まさにそういうことでしょう。

 いつも外側に向かおうとする注意を、自分の内側の本質へと方向転換させる言葉を、禅では「転語」というそうです。

6122
しーや 様

 初めまして。コメントを有難うございます!

 まさに今回の記事テーマにぴったりの夢ですね。転生してくる前の記憶なのでしょか…。

 世界中に言い伝えられている古い神話にも、「住み慣れた地を離れて苦難の旅に出る」という物語パターンはすごく多いんですよね(日本では桃太郎とか)。
 きっと私たちの共通の記憶なのでしょう。

6123
ひまわり様

 こんにちは!

 難しいと言われる一方で、実に素晴らしい見方をされていますね。
 言い回しとかは違っても、著名なマスターが語っている内容とほぼ同じだと思います!

6124
吉田無ーん様

 こんにちは!

 以前に深い至福を体験した人の話を聞いたことがありますが、「もうこの世で味わう感覚からはからはかけ離れた素晴らしさ」らしいです。

 ただ問題は、一度味わうと、再びそれを取り戻すために人生のすべてを投じてしまうようです…。
 「散歩中に感じる一瞬の幸せ」くらいが、バランス的にいいのかもしれないですね。

6126
光奈さん、こんにちは。

プチ至福が今の私にちょうどいいのでしょう。

昨日、母の付き添いで病院へ。母の決断どおり、抗がん剤をお断りしました。
執刀医の先生も、自分で決めるのがいいとおっしゃってくださいました。

母の場合、若いとは言えませんし、
抗がん剤でかえって体力をなくし辛いことになりそうです。

これで3月末まで病院外来はなしです。
抗がん剤を受けることにしていたら、2週間ごとに病院へ。
さらに苦しむ母を見守ることになりそうでした。

母の決断に感謝です。私の自由時間を増やしてくれました。
母はガンをきっかけに人生の宝箱を開けたような気がします。

6127
はじめまして。リククーブログの閲覧でお世話になっているトロポサイトです。
私は、チャネリングなど、霊的現象が自分の思い込みで著しいバイアスがかかるのを経験して、
知り得た情報を一旦おいておいてバイアスを排除してチャネリングするべきだということと、
本当の神はそうしたバイアスのない、何もしらない人があの世にいくと出会う神だと思いましたが、
まさかここまで話が展開するとは驚きました。
URLはまた別の私のブログです。

6129
吉田無ーん様

 こんにちは!

 抗がん剤治療に対しては、色んな見解がありますよね…。
 自分で納得して決断することが、何より大事だと思います。

 しばらくは病院と縁遠くなれるというのは、いいことでしょうね。

6130
トロポサイト様

 初めまして。コメントを有難うございます!

 ブッダも「私に依拠してはならない。私が教えることを安直に信じないで、自分で確かめるように」と弟子を戒めたくらいですから――、
 チャネリングをする人も「この声が伝えてくる情報は、本当にその通りなのだろうか?」という姿勢も必要なのではと、僕もときどき思いますね…。

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プロフィル

Koudai Mitsuna

Author:Koudai Mitsuna
 
光奈 広大(みつな・こうだい)

 20年のあまりのサラリーマン生活を経て、いわゆる「ザ・マネーゲーム」を何とか卒業。今では束縛されない自由な日々を存分に味わっています!

 そうした中で心がけているのは、普通の日常的な行いを通じて、意識の進化を目指す「カルマ・ヨガ」。

 日々の喜びや学び、インスピレーションから得たスピリチュアルな気付きなどをブログで紹介しています。

 妻子と都内在住――。

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