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 10年前と比べてみると――、自分の状況も意識のあり方も、本当に大きく変わったなとつくづく実感します。

 10年前の僕はバリバリのサラリーマンで、タバコを吸って酒を飲んで、ストレスを抱えて時間と格闘しながら、仕事にまい進していた。
 「この生き方はどこかちょっと違うのでは?」という疑念が心をよぎっていたものの、スピリチュアル分野への関心はほぼ全くなかった。


 それに対して今は、当時とはぜんぜん違う日々を送っている。四六時中、束縛されるようなものは特にないし、生活スタイルはどんどんシンプルになっていった。交友関係も、最近は波長の合う人としか出会わないようになった。
 大人から子供までがものすごく忙しいこの日本で、「自由人」と呼べる立場でいられるのは、実に恵まれたことだなと思う。


 そうした僕個人の状況だけではなく、世の中の全体的な様相についても、だんだんとさま変わりしてきたように感じる。
 10年前はスピリチュアルのブログなんてまだ存在しなかったし、また書店の「精神世界のコーナー」は、真っ当な社会人は近寄るものではないような怪しげなイメージもあった…。

 でも今や、そうしたブログやセミナーに大勢の人が集り、スピリチュアル・メッセージや臨死体験などの本が売れ筋になったりもしているわけだから、これは「隔世の感」と言っていいのではないかとも思う。


 さらには…
 あの4年前の大震災の頃くらいからだろうけど、私たち日本人の意識の奥深くに、何かとても根底的で決定的な変化が芽吹きはじめているように感じる。

 もちろん人によって色んな違いはあるものの――、「私たちはひとつである」とか「目覚めたい」といった、本人もまだはっきりとは気付かない意図のようなものが、心の地表のぎりぎりのところまで昇ってきているケースが、けっこう多いのではないだろうか。


 ただしそうした変化の半面で、決して見過ごせないのが――、
 それとはまったく「逆方向の動き」というのも、以前よりもはるかに強く顕在化していることだろう。

 大きなものでは、「戦争」への政治的な方向性や、また隣国を意識した「ナショナリズム」などは、10年前の日本においては今ほど見られなかったものだ…。
 それが、最近はニュースの中心にもなっているわけだから、こちらのほうも明らかに大きな一つの潮流といえる。


 こういうのはスピリチュアル分野でも諸説あることだけど――、これからすべての人類の意識が、まとまって並列的にシフトしていくという展開は、おそらくないのではないかと僕自身は思っている…。
 それより、これもよく強調されているように、人々のはっきりとした「二極化」というのは、避けることのできない道筋なのではないかなとも感じる。

 つまり、スピリチュアルな意識が多くの人の中で高まっていく一方で、対立や争いに向けた社会的な動きのほうのも、どんどん活発化していく…、そのような「二極化」だ。
 でも、それもまた、新しい時代に進んでいくために「必要なプロセス」なのだろうと思う。


 対立や争いに終止符を打つのは、共感と許しである。
 でも中には、対立や争いに突き進むことによってでしか最終的に解き放つことのできない、人類共有の潜在エネルギーとかカルマというものが、たぶん存在するのだろう…。

 また「二極化」といっても、相反する2つの極というのは、棒の両端に位置するような関係ではない。
 陰陽が交わる円形の「太極図」のように、2つの極は互いに結び付いていて、一方が「極まることによって転じる」という関係にあるといえる。

 だから、逆方向へと極まっていく過程というのも、この次元の法則的には、やはり不可欠なものなのではないかなと思う。

 そして、対立や争いの方向に突き進んでいく当事者たちの生き方も、今生にその役割を請け負って、最終的には「それを手放したい」という魂の意図があってのことだと考えている。


 もちろん、対立や争いへの動きについて僕は決して支持しないし、必要な場合は意見もするだろうし、選択権を使って回避するよう努めるだろう。
 だが、それだけではどうしても避けられない局面も出てくることは、心得ておく必要があるのではないかと考えている…。


 この「二極化」の動きとどう向き合っていくかは、これからのスピリチュアルにおいて、けっこうウエートの高いテーマになっていくはずだと思う。

 何しろ、ワンネスや意識の目覚めとは逆方向の動きに、自分自身が内的にどう向き合っていくかは――、純粋にスピリチュアルを志向すること以上に、難しいテーマと言えるでしょう。


 たぶんそれについての考え方は、単に「こうするべき」という一律パターンの答えでは済まないはずだ。
 ひとりの中にも、いわば「多面的な向き合い方のスタイル」が求められると思う。


 で、ここからが本題のようになるけど――、
 このブログ(パソコン画面)の右のほうにも出ているように、これまで読んだ本の中で印象に残った言葉を、ツイッターで日々紹介している。
 その過去のぶんをパラパラと見ながら、「今後はこのような向き合い方が大事だろうな」と思う言葉を、いくつかピックアップしてみました。

 スピリチュアルにおける原則的テーマとまでは言えないけれど、知らないうちに道からそれて行ってしまわないために、こうした観点がこれからとても強く求められていくのではないかと思う。


 まずは、今後の「二極化」というプロセスの中で大事になっていくポイントのひとつが――、
 信念や行動を異にする人々に対して、「自分の価値尺度を用いて裁かない」ということだろう。その点を言い表しているのが、たとえばこんな一文だ――

 他人の魂の旅を判定するのは、あなたの役割ではない。あなたは、自分が何者であるかを決めるべきであって、他の誰かが何者であるのか、何者でないかを判定する必要はない。(ニール・D・ウォルシュ)

 自分の道に確信を抱くために、他人の道が誤っていることを証明する必要などない。そのようなことをする人は、自分自身の歩みに自信が持てない人なのだ。(パウロ・コエーリョ)


 さらには、これはとても難しいことだし、このような考え方そのものがどうかしていると言う人もいるだろうけれど――、たとえ相手の信念や行いが「誤ったもの」である場合も、そのことを糾弾したりせずに、必要なプロセスであると認識するということだ。
 誤った行為によってでしか学べないテーマや、解消できない人類の潜在エネルギーというのもあるのだろう…。

 人間の文明の方向性は、はるか昔から導かれてきた。歴史をふり返れば、人間は数えきれないほど間違いを犯してきたように見える。しかし、狂気の中にも道筋はある。私たちは、学ぶために間違う。自分で選んで間違ったときしか、それに向き合って向上しようとはしないのだから。(ボブ・フィックス)

 人は道を踏み外すことがあるが、道を踏み外すことで何かを学ぶ。後に、道を踏み外したことを幸せに思うだろう。なぜならば、世の中には道を踏み外すことによってしか学べないことがたくさんあるからだ。(OSHO)


 また、そうした異なる信念や誤った行動を目にしたとき、私たちの心では「怒り」の感情反応がわき起こることもある。
 でも怒りというのは、「相手の問題」を指摘しているようでいて、その本当の目的は「自らの内の問題」を照らし出すことにある。

 怒りを手放すのは難しい。自分の正直さと名誉がその怒りにかかっていて、試されているように感じるからだ。人間社会という大いなる学校での唯一のテストは、怒りを手放して愛の受容を学んでいるかどうかだ。愛は永遠であり、怒りは一時的だ。(ブライアン・L・ワイス)

 あなたの怒りに責任がある他者は、誰もいない。その怒りに対する責任は、あなた自身にある。しかし多くの人は「他者が自分に対して責任があるのだ」と、マインドに深く刻み込まれてしまっている。(レナード・ジェイコブソン)


 悲しいことに世の中には、「怒りを覚えずにはいられない非道な出来事」が実際に数えきれないほど起こっている。とくに紛争地域などではなおさらのことで、カメラがとらえて報道されているのは、ほんのごくごく一部だけだろう。

 しかし、そうした世界の現実が厳然と存在する中にあっても、怒りの感情そのものは本当に個人の内側の問題であって――、外側の社会の問題解決にあたっては、「怒り」とはまったく違うところから取り組んでいく必要があるはずだ。
 怒りが、本当の平和を実現していくことは、まずあり得ないのだから…。


 「二極化」のプロセスの中で、ある意味で私たちは「試されている」とも言えると思う…。
 周りの状況がどんな方向に動いていっても、自らの「内なる平和」を本当に大切に守ろうとしているのかどうか、そしてその思いを外側の世界へと発展させようとしているのかどうか――。

 この点で、スピリチュアル分野でしょっちゅう言われる「自分の内側の状態が、世界の現実を作り出している」という見方は、やはり大事だろうと思う。

 「真の平和」というのは、私たちの魂の内に生まれる。他者との間や、あるいは部族間の平和というのは、「真の平和」の似姿にすぎない。まず「真実の平和」を知っておかない限り、ほかの平和などとうてい実現しないことを、何よりも理解しなくてはならない。(アメリカ先住民族の言葉)

 もし私が幸せなら、宇宙も幸せです。私が自分を愛していれば、他の皆も私を愛するでしょう。私が平和なら、すべての創造物が平和なのです。(アニータ・ムアジャーニ)


 真理というのは、とても「論拠に乏しい」ものだといえる…。きっと宇宙の意図として、わざとそういう性質になっているのだろうと思う。
 私たちがこれからはっきりと問われていくことは――、根拠や実感もないような状況にあっても、それでもなお他者のことを信じるかどうか、自分のことを信じるかどうか、宇宙のプロセスを信じるかどうか、ということなのでしょう。

 あなたには「信じる心」が授けられています。たとえ誰かがあなたを傷つけたとしても、たとえあなたが大きな間違いを犯したとしても――、決して他人や自分を見放すことのないように、あなたには他人や自分を「信じる心」があるのです。(シャーリーン・コスタンゾ)



 結びのヒーリング・ミュージックは、Aetherium「Beacon of Light」。

  ☞ コメント:14

 
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コメント
6191
ほんとにそうですね。
ここ10年くらい意図的に「テレビを見ない」ようになってから、世間のニュースに疎くなってしまいましたし、私個人は年々どんどん平和で楽しい世界の中にいる、というか、とても自由でいられることを選択させてもらえています。
会社員という組織に属する立ち位置ではないため、光奈様もおっしゃられている「波長の合わない人々」に無理して接さなくてはいけない場面が、激減してしまいました。

もともとゴーイン・マイウェイタイプだった性格にもっと拍車がかかり・・・あまりの世間知らずっぷりですが、自分的には、まぁこれでなにがイケナイのだ? とは言えます。
・・・と、個人が好きなことをして生きること、好きなことを「言える空気」じたいを・・・おそらくなくしたい勢力があるんだろうな、ということは、一年前くらいからけっこう周到に社会的洗脳が始まってきてることも知ってはいました。(最近は、露骨になってきている様子ですが・・・けっこう、感化されちゃっている人も一定数にはなってきているかもしれませんね)

そして・・・「魂」とかそういう話が、通じない人にはもっと通じなくなっていくのだろうな、という感触もあります。

そういう中で、たしかに、これから自分の中で引き裂かれるような選択、意思表示をしなくてはならない場面も、どんどん増えていくのかもしれませんね。
他者避難、他者否定ではなく・・・自分を肯定、というよりは、誰に認められない日が来ようとも、たったひとりでも「信じた道を行く自分」でいられるかどうか。

もし「今」揺れるもの、未消化のものがまだ心に巣食うなら、きっとその部分が、どんどん試されるかのように現象化する・・・
そういう、浄化の段階にも入ってきていますね。

6192
神崎詞音様

 こんにちは!

 僕自身もテレビは見ないのですが、妻子がニュースなどを見ているときに聞こえてくる内容をたまに耳にすると、最近の動きにすごい違和感を感じてしまいます。

 毎日ニュースを見ていたら、たぶんそれほどの違和感ではないのでしょうけれど…。

6193
命の流れのようなもの
広大さん、こんばんは。

戦争で経済を潤そうなんて思わないで、原発事故から新しい開発技術を生み出し、変えていってほしいですね。
「敵」が必要なら(戦うものが明白なら、皆の思考がぶれにくいですからね)人ではなく安全性を得るため、古い価値観を敵として戦ってほしいです。

個人の心が満たされていること。
それが信じる力に繋がるのだと思います。

物で満たされるのではなく、お金で満たされるのではなく、地位で満たされるのではなく、他者からの不安定な愛ではなく。
己の内に繋がるものを信じ、導かれるものからの絶対的な愛を受け取ることで、己を信じることが出来るのではないかなと思っています。
(信仰ではなく宗教になると戦が始まっちゃいますけどね。。。)
不安定なもので満たされ、自分を維持していると失った時に崩れやすいですよね。

最後のシャーリーン・コスタンゾの「信じる心」についての文章を読んで、
辻征夫の「蟻の涙」を思い出しました。
抜粋です。

”きみがどんなに悪人であり俗物であっても

きみのなかに残っているにちがいない
ちいさな無垢をわたくしは信ずる
それがたとえ蟻の涙ほどのちいささであっても
それがあるかぎりきみはあるとき
たちあがることができる
世界はきみが荒れすさんでいるときも
きみを信じている”

電車の中で彼の詩を読んで、必死に涙を隠したのが懐かしいです。
自分というものを信じることが出来ないでいるときほど
生きているのが辛い時はない。
でも最近、内に繋がるものがあるのだと気づいて、ようやく楽になってきました。
そういうものを本気で信じていいんだと思えるようになって、ブレなくなってきました。

6194
いつもありがとちゃんで~ございますm(--)m
共感と許し...
本当にあたしも
同じ~同じ想いです☆

全てが流れて~
何でも上手く行くのは
信じ続ける事ですよねぇ~(@@)/

6195
tao様

 こんにちは!
 本当に素敵な詩ですね。

 僕も最近よく思うのは、その人の人格とか考えや行動というのは、決して「本当のその人」そのものではないんですよね。
 いわば、かりそめの表層的なエゴ意識でしかない…。

 自分自身についても同じことで、そのエゴ意識のことを自分だと思っていたら、自己否定や自己不信に陥って、生きるのがものすごくつらくなってしまう。

 でも、その否定や不信感って、まさに「正解」なんですよね。
 そうしたエゴ意識は、本当の自分自身ではないわけですから。

 この経験をへて、やがて本物の「内につながるものがある」ことに気づいたり、自他にある「小さな無垢」の存在が信じられるようになっていく――。
 これは本当に大事なプロセスだと思いますし、たぶん短縮化や省略はできないことなのでしょう。

6196
アイズのひろみ様

 コメントを有難うございます。共感いただいて嬉しく思います!

 私たちの誰もがみな、同じ流れの上にいる。だから、流れそのものを信じることが大切なのでしょう!

6197
これは結構前々から感じている事ですが・・・
私は社会派ブログもよく読んでいましたが、言っている事には賛同だし、気持ちはものすっっっごくよく分かる。
しかし、こうした批判(怒り)では変えられないな・・・という事も実感として感じます。
かといって、無関心や「どうせ無理だ」という失望や絶望、恐れといった事も駄目ですが。(恐れや無関心で何も言わない・言えないよりは、批判した方が姿勢としてはずっと建設的だとは思います。ただ、最終的には変えられない・・・場合が多いだろうなと)


二極化については、バシャールの言う「パラレルワールド論」で言えば「戦争の起きない世界に住む」と決めればいいのでしょうね。
尤も、私的には大きな戦争といった事は起きないだろうと思っているのですが。



6200
おはようございます。

いつも興味深く読ませていただいています。
わたしの周りでもこのにこの二極化の話題よく耳にします。
スピリチュアリズムの世界に携わる人達は、自分たちは平和な世界へシフトしていくけど、そうでない人達とは関わらなくなっていくでしょう。みたいな議論が実はとても気になっていました。地球はふたつに割れませんからね笑

答えをもらったようで嬉しく思います。
本当の意味でのワンネスを私たちはこれから経験するのかもしれませんね。

6201
Clary Sage様

 こんにちは!

 僕自身も世界規模の大戦は起こらないと思っています。

 争いの大きさよりも、そうした動きや他者の信念を「自分としてはどう受け止めるか」が一番のテーマなのでしょう。
 これを問うために、そうした社会的な流れがいま起こっているのだろうと思っています。

6203
shanty 様

 コメントを有難うございます!

 そうなんですよね。二極化といっても「シフトしていかない人たちを切り離していく」といったものではないはずです。

 まさに地球全体が本当のワンネスの意識に転化していくうえで、必要なプロセスの一つとして起こっているのだと考えています。

6204
個人的には2極化より多極化なのかなと思います。

今はまだ人の中で積み木遊びや人形遊びをしている連中が起きだすことで始まる大海賊時代ならぬ大英雄時代。

前に解脱うんぬんの話がありましが、俺はすべての連中は今へと還ってきているのだと思っています。
中には、世界の天辺に居残り世界にケンカ売っている奴らもいるでしょうが…。
ではなぜ戻ってきた連中は何もしないのか。
絶望が足りない。英雄はいつでも絶望の中に生まれてくる。
幸せであふれている。英雄が生まれる必要のないほど今は満ち足りている。
解脱と言い出した人はその後の回答を認めたくなかったのだと思います。
英雄の方がそっぽを向いてしまった。その答えを。
その人が英雄に誕生を懇願したときにその誰かはこういったのではないでしょうか。
もう痛いのも苦しいのもごめんだ。
もう何も失いたくないし、誰も殺したくない。
他の奴に頼めばいいだろう。
それでも誕生望むものは続けた。
他の奴がダメだから言ってんだろう。と。
そしてそれが決め手となる。
だったら俺だって生まれない、生まれてやるもんか。
誰がどんだけ死のうが俺の知ったことじゃねぇ。
それを聞きようやく誕生を望んだものは思い知る。
英雄が生まれてこなかったのは自分たちが彼らにとって守る価値のない存在だからという真実に。
どれだけの苦行を積んでも彼らに追いつけていないんだということに。
どこかの漫画であったのと同じように自分が努力していないことを認めるのは難しい。
その誰かはその結果、英雄たちが生まれ変わらないことを解脱と魂の解放としてしまった。
英雄たちは解放された、だから帰ってこれないんだ、
私が彼らに見捨てられたわけじゃない、と。

でも彼らは見捨てたわけじゃなく、今はまだ現実から目を背けてしまっているんだと思います。
人間の中で積み木遊びしながら誰もいない空に「ねぇ、うまくできたぁ」としている。そして、我に返りテレビに映る風刺画を見ながら「そうだ、ここにはお前らはいないんだよな、寂しいなぁ。つまらないなぁ。もう還ってもいいかな」
爆弾テロも、風刺画も、人質も、彼ら英雄たちにとっては取るに足らないつまらない手、だから生まれない。
本当にやりづらい相手、戦って(生まれて)楽しい相手がいない。

そして、そんなうちの一人が目を覚ました時が始まりなのだとおもいます。
一人が目を覚ませば、ほかの連中も目を覚ます。
まぁ、そんな奴が一人でも目を覚ませばここの勢力なんかあっという間に制圧して本当に国になってしまうんでしょうが。
もしくは、世界丸ごと持っていかれるか、そしてその反作用のように対局の誰かが目を覚ます。
そして大英雄時代の始まりへと。

が個人的な希望です。
アニメの見すぎな気がしますが。
現実に打ちのめされた連中がイスラム国になだれ込んでいる的なのを見ると信じてみたくなるんです。
今日も狙うぜ、一発逆転。を夢見てイスラム国に行ったバカどもの中にも人形遊びしてる英雄がいるのを。
それにそのくらい世界中でお祭り騒ぎにした方が世界の天辺でふんぞり返っている耳の遠くなって枯れ果てた老人共も戻ってくる気になるかなと思うので

6205
こんにちは。

究極的にこの世は「自分の為だけにある」のだと思うのです。

裁きを行う唯一の存在が「神」(真理)であるのなら「すべて裁かれる」のは必然であり、ゆえにこの世の社会規律としての道徳(善悪)や法律による「人による裁き」に期待すべきではないのでしょう。

では「何をよりどころにすべきか」はすでに多くの聖人たちの教えにあるように「この世でのなすべきことをなし、なさざるべきことをなさないこと」であるのだと思います。

執着がエゴを生み、エゴが争いを生じさせます。争う者の中で争わず、腑抜けだと揶揄されてもなさざるべきことをなさない者に私はなりたい。とても困難なことではあるのですが。

6206
野良猫様

 こんにちは!
 何ともストーリー性に満ちたとらえ方ですね。

 すべての戦いには、双方のいずれにも「正義」と呼べるものがあるのでしょう…。

6207
ひまわり様

 こんにちは!

 そう、そもそもこの宇宙は、自分のためだけに作られた「自分バージョンの宇宙」だと考えています。
 「私とは何者であるか」を表現する場と言えるでしょう。


 「争う者の中で争わず」というのは、時代によっては、苛烈な戦いの場に赴くよりも極めて困難なことだと思います。

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プロフィル

Koudai Mitsuna

Author:Koudai Mitsuna
 
光奈 広大(みつな・こうだい)

 20年のあまりのサラリーマン生活を経て、いわゆる「ザ・マネーゲーム」を何とか卒業。今では束縛されない自由な日々を存分に味わっています!

 そうした中で心がけているのは、普通の日常的な行いを通じて、意識の進化を目指す「カルマ・ヨガ」。

 日々の喜びや学び、インスピレーションから得たスピリチュアルな気付きなどをブログで紹介しています。

 妻子と都内在住――。

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