フロントページ   »   スポンサー広告  »  スポンサーサイトスピな散文  »  「私が幸せでありますように」
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
 


 初期仏教の瞑想法で、導入前に念じるこんな言葉があります――

 「私が幸せでありますように」


 「世界人類が~」という看板は色んなところで目にするけど、一方でこの「私が~」というのは、実に精妙な言葉だなと感じる。

 と言うのも、人間のエゴ意識(自我)というのは、表面上は「私の幸せを第一に願い求めている」ように見せかけておいて――、
 奥にある魂胆としては、「私には決して幸せになってもらいたくない」と考えているからだ。


 エゴ意識にとって、「私」というものは――、切り離されたちっぽけなかけらのような、頼りないほど不安定で、大切な何かが欠けている、「そのままでは不幸せな性質」のものでなくてはならない。

 私たちにそのような自己像を抱かせることによって、「今あるもの」ではなく「これから獲得すべきもの」へと目を向けさせ、そして心の欲求に従って「先の幸せの実現」だけを延々と追い求め続けるようにする――
 これがエゴ意識の手口といえる。

 それによって人は、内なる「本当の私」に目を向けることなく、エゴ意識と自己同一化した形で、一生涯を送っていくことになる。

 よく言われように、「不幸せな私」「そのままではダメな自分」というのが、エゴ意識にとって必須のエネルギー源なわけだ。


 もし私たちの内が、喜びや幸せで本当に満たされてしまうと――、そこにエゴ意識はもはや存続していくことができなくなってしまう。
 「私が幸せでありますように」という純粋な願いは、エゴ意識にとっては存続基盤を危うくする、とても不都合な言葉といえる。


 そのため、たとえば世界人類の幸せを願うときには、まったく何の異論も湧いてこなくても――、
 こと「私が幸せでありますように」と願ったときに限って、心の片隅で「やはり幸せになるためには○○が必要だ」とか、「今の自分はまだ幸せを受け取る資格はない」といった、エゴのささやきが聞こえてきたりする…。

 そのささやきは一見、きちんと理屈の通る自分自身の思いのように感じ取れるけど――、実際は、自己同一化したエゴの、巧妙な生き残り手段にすぎない。



 もう一つ、心の底で抵抗感が出てくる、単純きわまりない言葉――

 「お父さんありがとう、お母さんありがとう」


 これは翻訳家の山川紘矢さんが、いくつかの自著に書いている体験談だけど――、
 もともと大蔵省の高級官僚だった山川さんは、重い喘息を患って退職せざるを得なくなった。
 病気の具合が少し良くなったとき、あるセミナーに参加した。そこで、全員が輪になって手をつなぎ、「お父さんありがとう、お母さんありがとう」と繰り返し唱えるワークがあった。

 山川さんは、「何でこんなところまで来て、幼稚園みたいなことをしなくちゃならないのだ」とばかばかしく思い、帰宅後に奥さんに「とてもつまらないセミナーだったよ。新しく学んだことなんて何もなかった」とこぼしたそうだ。


 ところがその夜、寝床に就いたあと――、両親をはじめこれまで出会った人たちの顔が次から次に浮かんできて、それに向かって「ありがとう、ありがとう」という大きな声が、止まらないほど内からあふれ出てきた。
 そのうち、世界や宇宙への感謝の気持ちで満たされ、その全体と一つになっていく体験をしたのだという。

 さらにその翌日から、何年間も治らなかった喘息がどんどん快方に向かったそうだ――。


 両親への感謝を、まったく何の抵抗感もなく心から言える人は、もちろんたくさんいるだろう。
 でも一方で、言うこと自体に気が重い人や、あるいは言葉としてはサラッと口にできても、そのときの心の奥底にある感覚にはあまり触れたくないというケースも少なくないと思う。

 僕自身はというと、親との確執などはほとんどないはずなのだけど、あえて「お父さんありがとう、お母さんありがとう」と唱えてみると――、どこかにかすかな引っかかりというか、正体不明のスッキリしない違和感は確かに感じる…。

 おそらくは、何かわだかまりとなる幼少期の潜在記憶があるのかもしれないし、もしかしたら今の両親と過去生において、感情のもつれた関係性があったのかもしれない…。


 エゴ意識や潜在記憶、過去生から持ち越された未清算の課題など――、私たちは浄化して手放すべきものを、まさしく内面に山積した状態で生きている。
 それらの原因は容易に分かり得るものでないし、メカニズムは非常に複雑だ。

 でも、それらを解消するための一つの有効な手立てといえるのが――、
 エゴが抵抗を示す、身近でシンプルな言葉を、あえてはっきりと「宣言」してしまうことかなと思います。

 「私が幸せでありますように」
 「お父さんありがとう、お母さんありがとう」


 こういう言葉を見て、心の中でどこか反射的に敬遠したり、ケッと思ったりするようなところがあったなら――、それが内にある「浄化すべき対象」なのでしょうね。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Soren Hyldgaard「Children’s Playground」。

  ☞ コメント:37

 
次の記事→
揺りかごより前
←前の記事
救いの天使の軽わざ
コメント
6238
幸せになってもいいのかな?
いつもステキな音楽をありがとうございます。
今日のも、メロディも楽しく、伴奏のリズムも、
もうすぐ春が来るよ~と言っているようで、ウキウキしてきました。
「私が幸せになりますように」は、やはり少し抵抗を
感じてしまいました。
身近にいる人達の幸せを祈るほうが、なんか気が楽なのです。
皆の苦労話を聞いたり見たりすると、自分だけが幸せになってもいいのかな?と遠慮が出て、これは、小さい時からの癖もありますが、一人はしゃぐ癖をいつも両親から、注意を受けていました。
人の幸せを祈っている方が楽・・と言う事は、
思いやりの無い自分がいる・・と責める私を認める勇気が必要なのでしょうね。
また、勉強させていただきます。
いつもありがとうございます。


6239
ちゃんみいい様

 こんにちは!

 この音楽、ポカポカした春の日差しのような、楽しげな感じですよね。
 20年ほど前にCDを「ジャケット買い」して、気に入った曲です。


 「人の幸せを祈っている方が気が楽」と感じている人は、ふつうに多いと思います。
 たぶん、小さいころに親などから、それがいいことだとずっと言い聞かされたからでしょう。

 でも――、「人を助けると、やがて自分にも良い報いがあるはず」とか「自分だけ楽しい思いをしていると、必ずしっぺ返しが来る」といった、結局は自己本位な「恐れ」がベースにあったりもします…。
 そういうのはいかにも、エゴ意識らしいですよね。

6240
「私が幸せでありますように」
と思っても良いのなら、気持ちがとても楽になります。
私の周りの世界では、
「自己犠牲するのが当たり前」みたいな
世の中に感じるから。

その思想のせいか、
私の周りでは 自分を大切に出来ないで、
満たされていない人が多い気がします。

私は とっても私を大事にしてると思っていて、
それが罪悪感だったから、救われる気持ちです。

それと確かに 幸せで満たされていたら、
幸せを願いませんよね。
一生幸せを願い続ける事が出来るのは、
エゴのお陰なのですね。

それから、先日のヒューレン博士の動画のお言葉を
全部メモして、毎日実践していますよ。

紹介して頂いて、ありがとうございます。

ささやかですが、内なる変化を楽しんでいます。

ありがとう
この言葉も良い言葉です。
祖母が毎日 沈む太陽に ありがとうを言ってました。

6241
cael様

 コメントを有難うございます。

 自分を愛すること、自分に幸せを許すことは、本当にかなりの難題でもあります。
 愛の語り手であるあのエリザベス・キューブラー・ロスでさえ、最晩年に「自己愛については、自分はまるで失格だった」と振り返っているくらいですから…。


 『神との対話』の本にあった、「神」が言った以下の言葉はとても好きです。

 あなたが本当に親切で思いやりがあり、分かち合い、共感と愛にあふれる人間なら――、その相手に「自分自身」も含めるはずだ。それどころか、まず自分から始め、自分を第一にするだろう。

6242
ありがとうございます。
自分だけ楽しい思いをしていないで、皆に分け与える・・は良く言われ続けられました。
それが、しなくっちゃ・・になって(自己犠牲が美徳のような)
こんなに楽させてもらってて、いいのかな~の
恐れがすぐ頭をよぎってしまいます。
幸せの罪悪感ってエゴだったのですね・・・・。
また勉強させてくださいね。

6243
ほっとしました。
久しぶりにコメントします。
すごくほっとする話でした。日本って自己犠牲が尊い風潮があり、そういう人にならなくちゃっていう気持ちと、どうせ私は自分勝手な性格だから、、という自虐の繰り返しであたま抱えることが多かったので。感謝についても、
自分のバレエクラスの生徒たちに『いつもありがとう。スタジオで待っています。』というメッセージを毎回書き込んでいる友人がいて、生徒にありがとうってあざといんじゃないかな?と思ったものの、真似してみたらすごく心が落ち着くようになったんですよね。別にへりくだったりおもねっているわけではなく、心から『来てくれてうれしい。一緒に踊って楽しもうね!』っていう気持ちだと思います。
まだまだ精進が足りず、口に出して言うには抵抗があったり、口先だけじゃダメなんじゃないかとか迷いますが、まずは心の中で『ありがとう』という気持ちを大事にしたいと思います。

6244
ちゃんみいい様

 こんにちは!

 「幸せの罪悪感」って、僕自身も長年ずっと陥っていたものです…。

 それに気づかされたのが、5年前にたまたま出会った以下のブログ記事で、とても参考になると思いますよ。
 ちなみに、そこのコメント欄に書いている「M」というのが実は5年前の僕で、当時はサラリーマン人生の真っただ中でした。

 http://sissy711.blog65.fc2.com/blog-entry-69.html


 あらためて振り返ってみると、その半年後に大震災が起こり、1年後には決心して会社を早期退職し、そうして今こうしたテーマのブログを書いたりしているわけですから――

 人生の流れを感じて、すごく感慨深いですね…。

6245
いづんつぁん様

 お久しぶりです。コメントを有難うございます!

 バレエ・スタジオの「ありがとう」のメッセージは素敵ですね。
 営業上のへりくだった感謝は誰でも口にできるだろうけれど、「自分がこんなに楽しませてもらえて、ありがとう!」くらい、ある意味で「利己的なありがとう」を純粋に言えたなら実に素晴らしいです。

 そういう場は、きっと魅力を放って繁盛すると思いますね。
 『ラムサ』という本に出ていた「利己的とは利神的なのだ」という言葉は、そうした核心を突いたものだと感じます。

6246
使いやすい言葉には、棘がある。
こんにちは。
カリメン2号です。

なかなか言うのが、難しい言葉ですね。
自己本位になってしまう場合もあれば、感謝自体が嘘っぽく聞こえてしまう場合もあるかと思います。

6247
臨死や幽体離脱の話を他人の体験でなく、自分自ら、それも1度だけでなく、3度経験すると、そういう事を一切信じない自分も、さすがにいろんな事を否定出来なくなりました。

その体験中に出会った人とか、アドバイスをくれた人を思い出すと、やっぱり何か思う事があって、すると日に何度もシンクロニシティが起きるようになりました。

それも、漫才みたいなキャッチボールです。
例えば必要な日用雑貨を買いに行ったら、つい趣味の売り場で時間を潰し、そのまま帰ろうとすると、他の買い物客が私の横にいた店員に
「、、、は何処ですか?」と、
私の買いに来た商品を思い出させてくれる。

それとか、メモをせず外国の馴染みのないスパイスを買いに行ったら、やっぱり思い出せない。
店員さんを困らせていると、他のお客さんが「、、、ください」って、私の探していたスパイスを注文。

そんな時まるで見えない誰かが
「アホ〜〜」
そして私が
「テヘヘっ」
と苦笑い、そんな漫才の様なタイミングが日々あります。

そういう事を通じて感じた多くのひとつに、
「私は人の人生に責任を感じる必要はない」
でした。

各人、私のようにアホな漫才しながら、私自身の誰かと二人三脚で人生を歩いているなら、他の人もそうである。
ならば私が
「他人を助けないと!」
などと責任を感じる必要はない。

そして嫌な役や良い役を買って出てくれる人も全て、私の人生勉強に必要だし、私も他の人の人生勉強のお役に立ってる、持ちつ持たれる。
お互いの頑張りましょ〜とマラソン仲間の様な気持ちになってしまいました。

自分の、何かを確信する以外ない3度の体験が、各人の二人三脚の人生を教えてくれて、そして日々の中で漫才のキャッチボールをすると、悩みや不安を持つことは無意味と知りました。

6248
今日もステキなお話をありがとうございます。
朝から、心が洗われました。
私をこの世に誕生させてくれた、今は亡き両親に声を出して感謝しました。

6249
カリメン2号様

 こんにちは!

 感じ方が繊細になるほど、さまざまな声が聞こえてくると思います。

 こうした言葉を言う自分に対して、「自己本意だ」「嘘っぽい」と反応してくるのも、まさにエゴだったりもします。
 落ち着きの悪い「うずうず感」や「しらけ」「気恥ずかしさ」などに包み込んで、幸せを願うピュアな気持ちをどこかに追いやりたいんですよね…。

 エゴは言葉たくみだし、そして存続するために本当に必死です。

6250
匿名様

 コメントを有難うございます。

 臨死体験を3回もされたなんて、ただごとではないですね…。

 「私は人の人生に責任を感じる必要はない」というのは、本当にその通りだと僕も思います。
 前々回のブログ記事で「他人の魂の旅を判定するのは、あなたの役割ではない」という言葉を紹介していますが、その観点に近いですね。

 まさに人それぞれに色んな役割があると思いますが――、そんな中でも、それほどの体験をされたというのは、きっと何か「特別な役」をお持ちなのではないかなと思います。

6251
そら太朗ママ様

 こんにちは!

 親がいま生きているかどうかは、「感謝」には関係ないことなのでしょうね。
 まさに無条件です!

6252
与える事の方が楽
しっしーさんのブログ素晴らしいです!ご紹介ありがとうございます。分かり易く「ウ~ン」と唸ってしまいました。
M様のコメントの「与え続ける・・・」の気持ちは、私もそうでした。

私がまだ、生まれて何ヶ月もしない頃母が病気になり、母が言うには、「夢で向こう岸から、母の死んだ父親がまだ来るな、来るな、と言っていた」そこで目が覚めたそうですが、その時そばで、寝ていた私が泣いて、祖母が駆けつけて、母を起こして命拾いをした・・。と言う話を聞かされました。私は言い事を知らないでしていたのかな・・と嬉しかったのですが、母が辛い時があると、あの時、私が泣かなかったら、今の苦労はしなくても良かった・・の様な事を口にする時があり、でも母は、軽く冗談のようでしたので、あまり気にしていませんでしたが、今までの自分の心癖を振り返りますと、与え続ける方が楽で、その後、すぐに、余計な事したかな~?と
相手の事を気にしてしまう・・を繰り返していました。

表面的な精神世界の本から、活字の鵜呑み段階から、
もっと深い所の学びが出来たら素晴らしいのでしょうね。

もっと、もっと学ばせて頂きます。
ありがとうございます。
(お父さんありがとう・・・を言って寝ましたら、山川先生のお話のように、主人の母や、兄達、小さい頃一緒に暮らした弟子達・・沢山の懐かしい人達に出会えました。初めて夢で会えました。お礼が足りていませんでした。)



6254
なるほど
光奈さん、こんにちは。
ほんとうですね。 昔からの言葉には、続きや、真意があるのに、道徳教育、あるいは教義で、ことばだけが一人歩きした感じです。さらには、自分が幸せになるためのテクニックとして使われたり。(愛がほしければ、愛を与える)

ありがとう を何度もいう という 教え?
に抵抗があったのです。
♡がこもっていない ありがとうに何の意味があるのか。(意味を求めるのもエゴですね)
でも、今日の記事を読んでわかりました。
そうすることで、ブロックを外すんですね。

ところで、落ち込んだり、ネガティブになっているとき、
エゴはそのエネルギーに浸っていたい といいます。
でも、イマジネーションなり、アファメーションなり、
瞑想なり使って、 そのエネルギーからでることが
大切なのでしょうか?

6256
ちゃんみいい様

 こんにちは!

 臨死体験談の中には、すでに亡くなった家族が現れて「まだこちらに来てはいけない」と告げられたという話は、けっこうあります。

 でもそれは「命拾いした」というわけではなくて――、「まだこの世でするべきことがあって、戻って来る運命だった」というケースが多いようです。
 それくらい、起こる出来事はすべて必然といえるのでしょうね。

6257
ずいぶん穏やかになったと思っていたら、昨日母が言いました。
「いちいちうるさい!」とコワイ顔で。
ちょうど妹が母にお花を贈ってくれて、その花を前にして母が言った言葉です。


遠くに住む妹は色々送ってくれます(妹の罪悪感かな。でも私は喜んでます)。
そのことに対して母は嬉しそうな反応をしません。
もっとも母はめったに嬉しそうな反応はしません。ほぼ無反応、無表情です。
反応があるとすれば、お金や物で返します。

母は幸せになってはいけないと今も思っているのかな。
だから自分に罪悪感を抱かせるような発言をするのでしょうね。
病気をきっかけにそういうところが薄らいだと思ったら・・・。

暴言を吐いたアトの母の行動パターンはいつも、無言での労働です。
「言い過ぎちゃったね」と舌ペロリができません。

私は今のところ必要最低限の会話で大人しくしています。
そうなると我が家には会話がなくなります(笑)。
母は何か(料理とか掃除とか)をテキパキとするようになります。

そういうことの繰り返しを何回もしてきました。

私は違和感なしに両親に感謝の言葉が言えます。いつも両親に感謝しています。
両親との確執がありましたが、今は私にとっての最高の両親だと思っています。
しかし母は私たち子供への罪悪感も持っていますね。

母は様々な罪悪感(父への思いを含め)を手放せず、幸せになろうとしない。
仕方ないですね。そういう母を受け入れます。

今回の記事も私へのグッドアドバイスでした。ありがとうございました。

6258
micky様

 こんにちは!

 最後の問いかけは、重要なポイントだと思います。

 ネガティブな感情エネルギーの中にずぶずぶと沈み込まずに、それをじっと感じてあげながら清めていくためには――、
 「肉体とエゴ」としての自分ではなく、「広がった空間」のようなになって、包み込むようにすることが大事です。

 自分をそのような在り方にするのが(本来の在り方に戻すのが)、瞑想だと言えます。

6260
願いなさい
こんにちは、広大さん。

以前「きちんと幸せになりたい」って思いなさいっ!!!て助言を頂いた事があります。
御先祖様と交信できる、と言われている方に。

ああ、思っていいんだ。思ったことなかったなって感じたことを覚えています。
本当に、潜在意識にそういった言葉を聞かせてあげないといけないんでしょうね。

手紙などの末尾でも、相手の幸せを祈ることはいとも簡単に出来るのに、自分自身には叱咤激励になりがちですよね。

今ちょっと精神的余裕があるので、気になっていたアニータさんやエックハルト・トールの本を読んでみようと思います。

6261
「ハッピー・マトリックス」の記事とコメントを読みました。
「自分は幸せになる権利はない、それは許されない事だ」というのは、私は考えた事が無いです。(もしかしたら自覚していないだけかもしれませんが・・・)
こういう言葉は時々聞きますが、「幸せになる権利や資格があるとかないとか何の話だろう・・・」という感じです。
私は私でまた別の思い込み・観念があると思いますが、これは今生に思い当たる節が無いなら、いかにも「過去生で何かあった」結果の観念(罪悪感)という気がします。

今はもうすっかり無くなっているのでしょうか。
もし、まだあるならかなり根幹に関わる観念だと思うので、本気で過去世療法などをやってみたらいいのでは・・と思いました。

6262
吉田無ーん様

 こんにちは!

 身内などからの好意を「いちいちうるさい!」と拒絶するのも、その人のエゴ意識によるものでしょう。
 エゴ意識の奥にある本質部分では、手放しに喜んでいるに違いないと思います。

 鬱を患っていた僕の妻も、そういう感じでしたから…。
 エゴ意識が表層的に示す態度ほうではなく、その奥にある見えない本質のほうに、こちらとしては常に目を向けようとすることが大事だなといつも感じています。

6263
tao様

 こんにちは!

 幸せになりたいと「思ったことなかったな」というのは、けっこう大事な気づきです。

 まるで独裁国家に生きる人々みたいに、そういう望みを持つこと自体忘れてしまっているケースが多いんですよね…。
 それくらい、エゴ意識の支配というのは強力です。

 アニータ・ムアジャーニとエックハルト・トールの本は、ぜひ読まれるといいと思います!

6264
Clary Sage様

 こんにちは!

 誰もが内面に何かしらのものを抱えていると思いまが、その抱えているもののタイプなどは、人によって色んな違いがあるでしょうね。

 僕の場合、心理カウンセリング的な本を読むとき、自己批判や罪悪感についての内容は「なるほどなぁ」とよく感心します。
 でも、思い当たる原因というのは、はっきりとはないですね…。

6265
こんばんは
広大さんへ

最近、広大さんのBLOGに癒され過ぎて、
かなりときめいて危険です(笑)^^
BLOGだけでなく、ツイッターの言葉
にも、勇気付けられています!!!
自分の内にある幸せに気付かないと
誰かに幸せになってもらいたいと思え
ないんじゃないかなぁ~~~
なんて最近とても感じます。
ただ今、存在して幸せを感じることが
出来ることを、両親に心から感謝しています。

勝手にリンクさせて頂きましたが、
大丈夫でしょうか?
お嫌でしたら教えて下さいね^^

6266
光奈さん、こんばんは。

今日はボランティアのついでにプラネタリウムで宇宙旅行を楽しんできました。
母のことでとやかく言っている自分のことを許すことができました。

母の暴言は突然やってきます。それを気にして何も言わないことは私も苦しい。
母が暴言を言ったら、今後は沈黙することにしました。

これまでは母の暴言に対して、たいていは私が説教していました。
あるいは、口の達者な私が母を言い負かしていました。
感情的にはなっていませんでしたが、それがまた母を追い込んでいたような。

これからは「お母さんらしくないこと言っているわ」と聞き流すことに。

母の心のはけ口(初代は父。父は私よりひどいことを言われていました)
になれたことを誇りに思います。

あんなに人のいい母が暴言を吐くなんて。エゴ意識、恐るべし。
私が無反応になれば、きっとエゴ意識も元気をなくすでしょう(笑)。

6267
Loo様

 こんにちは!

 ブログを評価いただいて、有難うございます。
 ツイッターの言葉も、個人的な好みの偏りがかなりあると思うのですが、共感いただくと嬉しいですね!

 リンクは自由にしていただいて、まったく問題ございません。

6268
吉田無ーん様

 こんにちは!

 「暴言に対して沈黙」というのは、大事なことだと思います。

 僕も、鬱だった妻が攻撃的な発言をしてきたときに、そういうのを何とかあらためてもらいたいと考えて、あれこれ内容や角度を変えながら色んなことを言ってきました…。
 でも、そこから建設的な方向に展開していくケースは、一度もなかった。ただ黙って聞いているだけのほうが、状況の好転することが圧倒的に多かったです。
 それに気づくまで、実に10年近くかかりました…。


 エゴ意識からの暴言というのは、その人の本質とは違う、いわば「死人がしゃべっている」ようなものだと思っています。
 それに対してただ沈黙しているのは、こちら側のエゴにとっても、つらくて傷つくことですが…、でもこれもまた、いわば「死人の反応」に過ぎないです。
 そうした自分の一部も、なるがままに放っておけばいい。

 イエスが語った「死人のことは死人にまかせておきなさい」という言葉にはそういう意味もあるのでは、というのが僕の勝手な解釈です…。

6269
いつも素晴らしい気付きを頂き、感謝しております。
私の最近の関心事がエゴだったので、タイムリーな話題を提供して下さりとても有難く思います。

私も <エゴ意識の呪縛に気付いてそこから開放されるプロセス> は、真の自己実現のための大切な取り組みだと思います。

私はエゴ意識の呪縛に気付くようになって以来、自分のエゴを敵視するもの、それと戦って主導権をエゴから奪還しなくてはいけないものだと思い、その思いからの取り組みを通して多くの気づきや学びを得ることができました。
ただ、最近はエゴ意識に対する見方がすこしずつ変化してきているのを感じるのです。

というのも、様々な制約の多い地球で肉体を持って誕生し、生まれてきた目的も分からないまま手探りの日々を過ごす宿命にあって、親や社会からエゴに基づく価値観や信念をプログラムされたが故にそのプログラムに従って忠実かつ健気にナビゲート役を務めてきたのが自分のエゴの姿だとも思うからです。

ところが幸運にもエゴの自己同一化から一歩抜け出すきっかけを得た瞬間に、まるで自分を苦しめてきた元凶のようにエゴをみなし、積年の恨みを投げつけるかのような被害者的な態度に転じるのでは、エゴに対する新たなエゴを創り出している結果になってはいまいかとも思うのです。

私は56歳です。確かにもっと早く気付けていたらあんなにエゴに振る舞わされずにもっと、、、、と思ったこともありますが、今は、エゴに振り回されていたのではなくて、エゴ自身が苦しみながら私を支え、気付きの瞬間が訪れるのを根気強く待ち続けてくれていたのかもしれないなと思うようになってきました。
そしてもう一つ、エゴは認識と観念を担うという役割において、現世で生きていくための良い意味でのサポートは(不完全なりにも新たなプログラムに書き換えられて)これからも果たし続けてくれるのではないかとも考えるのです。

そう考えると、エゴは私の気付きの最大の功労者になり、そのエゴに対して感謝の念が浮かんでくるのです。そしてこれまでもこれからもエゴは私の中のとても大切な私の一部なのではないかと思うのです。
(長文ご容赦頂ければ幸いです)

6271
大好きな記事です
初めてコメントさせていただきます。
いつも私の(本当に拙い)ブログに足跡を残してくださりありがとうございます☆。
足跡から光奈さんのブログを知り、
光奈さんの文章が好きになりいつも拝見しておりますが、
今回の記事は特に好きで何度も読んでいます。
Facebookでも紹介させていただきました(*^_^*)。
差し支えなければ、私のブログでも紹介させていただいてもよろしいでしょうか?
これからも光奈さんの言葉を楽しみにしています☆。


6272
実輝様

 はじめまして。コメントを有難うございます!

 ブログを気に入っていただいて、とてもうれしく思います。紹介などは自由にしていただいて全く問題ございません。
 よろしくお願いします!

6273
ももんが様

 こんにちは!

 素晴らしい洞察ですね。僕もまったく同感です!
 エゴというのは「信念のプログラムに従って忠実かつ健気にナビゲート役を務めてきた」というのは、本当にその通りだと考えています。

 「健気」って、いい表現ですね。色んな定義もありますが、エゴの性質の一部を「インナー・チャイルド」と呼んで子供になぞらえるように、エゴは本当はそういう純真に頑張っている存在だといえます。
 最終的には、そうしたエゴの立場やはたらきを理解して、感謝して、抱きしめて癒してあげることが大事です。

 そうした観点にのっとった、「コア・トランスフォーメーション」という浄化技法もあります。


 今回のブログ記事では、「エゴ」の存在そのものを指して批判的に言うのは僕自身もちょっと不適切という感覚があって――、そのため「エゴと自己同一化した状態の私たちの意識」というニュアンスを込めて、あえて「エゴ意識」という書き方をしています。
(ただ、そういうのを詳しく定義していくと、くどくて読みづらい文章になってしまうので、特には説明していないです…)


 とはいえ、エゴに対するそうした見方は、やはり「自己同一化」から一歩引いてみて初めて気づくものでもあります。
 一歩引くきっかけを得るうえでは――、エゴの作用をいわば「詐欺師」のように見立てたうえで、「自己同一化から対象化に移行する」というプロセスが、多くの人にとってはやはり有効だろうと思います。

 何とも不思議なことですね。
 同一化した状態のままだと、ちぐはぐな歩みにしかならないのに、いったん離れることによって方向性が定かになっていくって…。

 これもまた、スピリチュアルの「パラドックス」といえます。
 エゴは、苦しみを生みながらも実はガイドであり、同一化から離れるべきものでありながら実は受容すべきものでもある。
 そしてそもそもエゴがないと、他者との関係性も(特にネガティブな関係性は)全面的に経験できないだろうし、「真我」へと還る旅も成立しない…。

 まさに、そういうものなんですね。余計なものは何一つないのでしょう。

6274
光奈さん、ありがとうございます。

>「暴言に対して沈黙」というのは、大事なことだと思います。
私自身がそこに辿り着くまで、
余計なアドバイスをされなかった光奈さんに感謝します。
私も母に余計なアドバイスを控えようと、改めて思った次第です。

ももんがさんにも同感です。(ちなみに私も56歳です)。
エゴに守られ、支えられ、気付きも与えられ。日々色々お世話になっています。
エゴにもありがとう。エゴは素晴らしきガイドの一人ですね。

この世に悪いだけのものはないし、必要だから存在しているのでしょう。

今朝、母が話しかけてきました。私も普通に応えました。
おだやかに、時々は笑いながら、母と暮らせたら満足です。

6275
「私が幸せでありますように」というのは本当にそう思います。
ただ、この言葉にどことなく違和感を感じるとしたら、「自分には幸せになる資格が無い」といった罪悪感から、という場合もあると思いますが、この言葉の「私」は全体から分離した「私」をイメージさせる気がする所でしょうか。

「人類が平和(幸せ)でありますように」という言葉を考える時、二通りのイメージがあると思います。
自分以外の人類の事をイメージする場合と、自分を含めた人類をイメージする場合。
私は「すべてが平和で幸せでありますように」と思う時、当然その中に自分も含めているので、ある意味わざわざ「私が幸せでありますように」と思う必要はないような気がします。


罪悪感や無価値感などの様々な恐れから、親切にしたり与えたりするのではなく、ただ愛から親切にする、与えるというのは誰にとっても喜びだと思います。ほんの少し手を貸したり、一言二言力づける言葉を言ったりといった小さな事であっても。
臨死体験前のダニオン・ブリンクリーがやった数少ない善行に「ヤギを虐待していた男をぶちのめしてヤギを助けた」というのがありましたが、その時ヤギが「ありがとう」と感謝していたとか。やっぱりそういうのが一番嬉しいというか喜びであり、幸せなのではないかと思います。



6276
ちょっと話は違いますが・・・
私は「人類」というのは「銀河系」のようなものだなとたまに思います。人間一人一人は銀河系の中の恒星のようだと。

銀河系の星たちは互いにものすごーーーーく離れていますが、外から全体像を見れば、間違いなく一つのまとまりです。
人間も互いに離れているし、てんでんばらばらに活動していますが、外から全体像を見れば、間違いなく一つのグループです。
どうしても「グループ」というと、数人とか数十人単位で考えがちですし、どんなに大きくても「国」単位でのグループ分けが一般的には限度という感じですが、70億人の人類はやはり一つのまとまったグループに間違いない。
「(70億人の)人類」と考えると「大げさすぎる、大きすぎる」と思ってしまいがちですが、この単位のグループを意識するのは、特にこれからは大事なんじゃないかなと思っています。


「地球と宇宙」という言葉がおかしいように(地球は宇宙の中にあるから)「私と人類」という言葉もおかしい。ついでに「私と神」という言葉もおかしい。(私は神の中にあるから)
でも、この「と」という言葉を使って、分離してしまう(分離しているもののように思い込ませる)というのはよくあります。

6277
吉田無ーん様

 こんにちは!

 「何も言わないで話を聞いてあげるだけ」が、最良のアドバイスというケースはとても多いと思います。

 あらゆる人が、自らの問題の答えを、本当は知っているのでしょうから。

6278
Clary Sage様

 こんにちは!

 銀河が集まった「銀河団」というグループもあるくらいですから、宇宙のスケールは本当にとてつもないです。

 そのスケール感と対等なくらい、私たちが日常で「身近に接している相手」というのは、深遠な意味が込められているのかもしれないです。

コメントの記入
 管理者にだけ表示を許可する


プロフィル

Koudai Mitsuna

Author:Koudai Mitsuna
 
光奈 広大(みつな・こうだい)

 20年のあまりのサラリーマン生活を経て、いわゆる「ザ・マネーゲーム」を何とか卒業。今では束縛されない自由な日々を存分に味わっています!

 そうした中で心がけているのは、普通の日常的な行いを通じて、意識の進化を目指す「カルマ・ヨガ」。

 日々の喜びや学び、インスピレーションから得たスピリチュアルな気付きなどをブログで紹介しています。

 妻子と都内在住――。

最近の記事
ツイッター

CALENDaR 12345678910111213141516171819202122232425262728293031
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。