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 「受容」や「許し」は、私たちの生における最重要なテーマのひとつとでしょう。

 スピリチュアルのマスターには、自分に起こってくるものごとを「イエス!」と言って受け入れなさいと説く人も多いし、僕自身はかなりそちら寄りの考え方だ。

 とは言え、「じゃあ、どんなことでもぜんぶ無批判に受け入れるのか?」という異論はよくあるし、また「どこまで受け入れるべきか、どういうことまで許すべきか」の見きわめは、誰もが生きる中で幾度も直面する大きな課題だと思う…。


 本や講話で「許し」や「受容」などについて語られる際に、「ただし、こんなことまで受け入れなくもいいのですよ」という補足が付けられているケースもある。

 たとえば、舌鋒鋭い覚者であるアジズ・クリストフは、「自己の癒し」について語る中で、「ときには否定的感情だって、それが正しい反応だということもある」と付け加え、こう述べている。

 「もしあなたの妻がいつもほかの男と寝ているのに、嫉妬が起こるのを許さず、それを癒そうとしているとしたら――、それはただ、あなたがバカ者だということだ」


 ずいぶん辛辣な言い方というか…、
 でもそのようなケースでは、無理やりに抑圧せずに、まずは感じることをストレートに言い合うのが自然なことだろう。

 もっともこういうのは、覚者にわざわざ説いてもらうまでもなく――、「普通に生きて行動すれば、普通にそうなる」というたぐいのケースといえる。
 そこにスピリチュアルな理屈を杓子定規にあてはめると、かえって変なことになってしまう。たいていの人は、ごく普通に分かっていることだと思う。


 ほかにも、よく聞くような似た問いかけがありますよね。
 「家に泥棒が入っても、ただ起こったこととして受け入れるのか」とか、「大通りに子供が飛び出したとき、あるがままに放っておくのか」とか…。

 ただこうした、ちょっと字義的にとらえ過ぎた見方というのは、小学生のころによくあった「先生が死ねと言ったら、お前は死ぬのか」というやり取りにやや近いようにも思えてしまう。

 要はシンプルに、「当然の対応をしましょう」ということでしょう。
 スピリチュアルな理屈をいちいち考え合わせるまでもなく、泥棒に入られたらすぐさま110番すべきだし、ふつう誰もが、通りに飛び出す子供を反射的に止めるはずだ。


 そのような仮定の話とは違って、私たち自身が経験しているこの現実の人生には、その人にとって受け入れるべき(魂の目的ともいうべき)、ありありとした「個人的テーマ」があるのだと思います。


 エリザベス・キューブラー・ロスも、最晩年の著書『ライフレッスン』にの中にある「明け渡しのレッスン」という章で、こう語っている――

 「起こることは何でもかんでも受容せよと言っているわけではない。くだらないと思ったテレビ番組に自分を明け渡す必要はない。仕事がいやなら、別の仕事をみつければいい。
 変えようとすれば変えられるような、何らかの状況が気に入らなかったら、それを変えればことは済む」


 キューブラー・ロスは、気に入らないものは受け入れずに変えてしまいなさいと言い切る。
 しかしその上で彼女は、変えようとせずに「そのまま受け入れるべきもの」があることを強調する。

 その受け入れるべきものとは――、「自分の幸福を阻害しているように見える、決定的に克服しがたいもの」のことだという。

 たとえば、心の傷として残るつらい子供時代の記憶とか、ふられた恋人とか、さらには重い病気とか…。
 それは人を不幸へと落とし入れ、その事実を変えることはできない。

 つまり、自分のことを幸せだと思えない理由――、なおかつ、もはや変えることのできない理由――、
 それこそが、全面的に受け入れるべきものだということだ。


 現にそうなっているこの人生に、自分自身のすべてを明け渡してしまうことによって――、「それを変えることができなくても、いま幸せになることはできる」とキューブラー・ロスは明言する。


 アメリカの宗教哲学者のラインホルド・ニーバーが唱えた、「ニーバの祈り」とか「平静の祈り」と呼ばれる、広く知られた一文がある――。

 神よ、「変えることのできるもの」については、それを変える勇気を与えてください。

 「変えることのできないもの」については、それを受け入れる平静さを与えてください。

 そして、「変えることのできるもの」と「変えることのできないもの」とを分別できる知恵を、私たちにお与えください。


 受容や許しのテーマは、どこまでを受け入れるのかとか、どうするほうが正しいかという議論よりも――、
 まさにこの、変えらるものと変えられないものとを「分別できる知恵を与えてください」という、祈りの気持ちに尽きるのではないかと僕は思う。

 過去からの知識や信念、感情の反応などが、適切な分別をするわけでは必ずしもないのだから。
 私たちにでき得る姿勢としては、最終的にはもう祈るしかない…。


 でもそうやって、静かに祈る気持ちでいることによって――、
 感情に任せた衝動がおさまったり、受け入れるべきものごとを平静に受け入れられたり、変えるべきものごとに対するヒントが浮かんだり、そして普通に対応すべきものごとはごく自然に対応したり――、
 というふうになっていくのではないかなと思います。

 このテーマは次回も続きます。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Frederic Delarue「Eyes of Your Heart」。

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  ☞ コメント:27

 
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コメント
7485
「そして、「変えることのできるもの」と「変えることのできないもの」とを分別できる知恵を、私たちにお与えください。」

本当に智慧があれば進む未知は明るいですね
ただ智慧がなかなか身につきません

7486
平静の祈りは素晴らしいですが
なかなかこの「分別できる知恵」というのが・・・そもそも本当に分別できるのか?という疑問もあります。

「決定的に克服しがたいもの」と言うが、本当にそうなのか?
子供時代の傷は、今、両親と話し合い、喧嘩し、対決する事で何がしかが変えられるかもしれない。
ふられた恋人とは、努力すれば復縁できるかもしれない。復縁できなくても見方を変える事は出来るかもしれない。
完治不可能、余命1ヶ月と宣告された重い病気も、変えられないものとして受け入れず、様々な療法を試した結果治るかもしれない。

「自分の幸福を阻害する、決定的に克服しがたいもの」というのは本当に存在するのか?という疑問はあります。つまり、何も成すすべも無く、何一つ変えられず、自分には克服しがたいものとして、ただ受け入れるしかない・・・・といったものが本当にあるのかどうか。

逆に、自分が気に入らないものを変えたが、あまり肯定的な結果にならなかった、という事もあるでしょう。

私の思うに、「変えられるか・変えられないか」が問題ではないような気がします。

7487
勿論
「自分の気に入らないものを変える」というのは、大抵は肯定的な結果になると思います。

私が思った肯定的でない結果というのは、例えば「相手が気に入らない言動をしたから、自分の気に入るように相手の言動をコントロールしようとする」とか、「今でも十分痩せすぎているのに、自分の体型が気に入らないのであと10キロダイエットをする」とか。
「自分の気に入らない状況を変える事は出来るけれど、やらない方がいいだろう」というのも結構あるなと思ったので。

「変えられること」「変えられないこと」って、変動します。
昨日、「変えるのは無理」と思った事が、今日は「変えられる」と思ったり。
「見分ける知恵」といっても、その時々で変わるんじゃないかな。

あの祈りは凄くいい事を言っていると思うのだけど、でもよく考えると「何か違うかもしれない」と思います。

7489
『「変えることのできるもの」と「変えることのできないもの」とを分別できる知恵を、私たちにお与えください。』

これは精神的な苦悩や葛藤の場合であって……。
さらにつきつめれば、
『分別できる知恵と受容する力を、お与えください。』
ではないかと思います。

筋萎縮側索硬化症や、四肢麻痺、末期癌のような絶望的な状態におかれたとき、人は怒り、抗い、祈り……最終的に、その状態を全面的に受け入れます。

この段階で、キューブラー女史の『それを変えることができなくても、いま幸せになることはできる』という段階に至るのでしょう。

どうにもならないと思ったら、自分を明け渡す。
聖なる對象に全てを委ねるということでしょうね。
その委ねた状態が、祈りだと思います。

守護霊、ハイアーセルフ、光、神、大宇宙などなど、
信じて祈ればバックアップされることは確かです。

本日のタイトルについては、全てを受け入れるのではなく、私の場合、ロス博士に近いかも……です。


7492
光子様

 こんにちは!

 あらゆるものごとや道筋を正しく見通す、いわば「叡智」のようなものを身に付けるのは、ふつう無理かもしれないです…。
 でも、その都度、その時々に、「ここで自分はどうすればいいか」というひらめきがふと与えられることは、どんな人でもたまにあるだろうと思います。

 一昨日にもそのような、ちょっとした個人的エピソードがあって(とても困った状況を、ふと思い立って受け入れたら、すぐに解消したという)、今回のテーマの記事を書いてみました。

7493
Clary Sage様

 こんにちは!

 変えられること、変えられないこともまた、「無常」なものでしょうね。

 そして、与えられる「分別する知恵」のほうも、固定的な「正答」みたいなものでなく、時々にふさわしいしなやかな答えがあるものだろうと思っています。

7497
どちらでも
受け入れても、変えても、どちらでもいいのでは?
大事なのは、受け入れるにしろ変えるにしろ、そうすることに迷いがないこと・納得していること・覚悟ができていること、ではないかと思います。

7498
この有名な一文は結構好きで、良い祈りだなと思っていましたが
久しぶりに改めて読むと、ちょっと感じ方が違いました。(よくある事ですが、自分の感じ方や考え方が変化しているのに気付くのは面白いですね)

変えられる事・変えられない事が無常なら、この祈りには意味があるんだろうか?とも思います。(個人的には、この祈りは「変えられる事・変えられない事」は固定しているイメージで捉えている印象があります)

ヒーラーが目の見えない人の視力を蘇らせたり、歩けない人を歩けるようにしたり・・・といった”奇跡的”な話は数多くあります。

「神に出来ない事があってたまるものか!」という信念がもうちょっとあってもいいのではないか・・・と、今はこの祈りに対してそう思います。まあ、私もあんまりないですけど。











7499
無題
「他人は変えられない、変えれるのは自分だけ」
というのはよく聞きますね。

7501
受容・許しで何より大切なのは、まず自分(自身・気持ち・行動など)を受容する、ということではないかと思います。
「夫が浮気して許せない自分を許す」「夫が浮気したのに許した自分はバカだと思う、そんな自分をまるごと許す」「変えることができるものとできないものが分別できない知恵のない自分を受容する」「知恵のない自分を受容できない自分を受容する」「それでも知恵が欲しくて祈るしかない自分を受容する」などなど。
このプロセスをとばして、こう対応するのが普通・正解、という話にするとおかしくなりやすいのではないかと思います。

7502
受け入れること、変えることはの判断ができる人とは、
故・河合隼雄さんのような人なのではと思いました。
患者さんである男の子の箱庭に登場する人物への暴力が
あまりにひどくなって、やめてくれって止めたんだそうです。
(元になる本の題を忘れました、ごめんなさい。)
カウンセラーのしていることの一つは受け入れる事だと思うのですが、
なんでも受容していては狂った価値観が出来上がりますね。
しかも、自分の意向を無視しているという。
反射的なものはとても大事だと思います。

7503
怒りや悲しみなど、苦しいという感情を素直に感じることが最初の『受け入れること』なのではないのかと思います。

そのあと『起こっている事実を受け止める』や『相手の気持ちを受け止める』や段階があり、そのあとのあとに『許す』があるのではと思います。

『受け入れて許す』は段階を経てない状態で、誰かに言われたり、そうしないといけないと苦しみを感じてしまうと思います。

その苦しみを感じた。という出来事そのものを『受け入れて許す』ことを経験するということが生きるということなのかもしれないなと思います。

7504
怒りや悲しみなど、苦しいという感情を素直に感じることが最初の『受け入れること』なのではないのかと思います。

そのあと『起こっている事実を受け止める』や『相手の気持ちを受け止める』や段階があり、そのあとのあとに『許す』があるのではと思います。

『受け入れて許す』は段階を経てない状態で、誰かに言われたり、そうしないといけないと苦しみを感じてしまうと思います。

その苦しみを感じた。という出来事そのものを『受け入れて許す』ことを経験するということが生きるということなのかもしれないなと思います。

7505
森猫様

 こんにちは!

 その通りで、納得や覚悟ができれば、その人の中での問題というのは収束したに等しいでしょう。

 ただ――、納得しがたいけど受け入れなくてはならない、覚悟がつかないけど進んでいかなくてはいけないといった課題も、人によっては少なくないように思います。

 人生のシナリオでは、大きな転換点や、克服すべきテーマなどで、そのような形の課題が現れるように感じます。

7506
Clary Sage様

 こんにちは!

 僕もあまり詳しくないのですが――、
 作者のニーバーは、神学者・哲学者であるとともに、労働者闘争や政治運動などにも力を入れ、米国社会のオピニオン・リーダーとして活動した人物です。
 
 おそらく、固定した唯一の正答よりも、柔軟で現実的な選択を求める人だったのではなかろうかと推察します。
 そうした中で、現実の課題を直視して取り組みつつ、かつ祈ることを欠かさなかったのでしょう…。

7507
kori様

 こんにちは!

 他人がしてくる行動は、自分の内面を映し出す鏡ともよく言いますからね。

 受け入れるものも、変えるものも、結局は自分の内側の話だといえます。

7509
ruri様

 こんにちは!

 ruriさんの言われる考え方は、僕はとても好きですね。

 僕自身も、それをいつも心がけて(今ではほぼ習い性のように)生きています。
 本当に、欠かすことのできないプロセスです!

7510
yuki様

 こんにちは!

 河合隼雄さんは、インタビューや対談集などを読むと軽い口調で話されていますけど、本当に深い洞察をされていますよね。

 物語の中の暴力がひどくなると、戻ってこれなくなるといった話を、何かの著作の中で僕も見た覚えがあります…。

7511
ぼん様

 コメントを有難うございます!

 すごく分かりやすく明快な、素晴らしいとらえ方だと思います。本当にそうですよね。

 「感情を素直に感じる」ためには――、感情を拒否したり、そうした自分を責めたり、習慣的な反応パターンの繰り返しにならないよう、最初のうちは意識して感情を見つめて受け入れるプロセスが大切でしょう。

 ぼんさんが言われるように、本当にそうした意味での受け入れや許しが「生きること」だと僕自身も感じます!

7512
光奈さん、こんにちは。

受容や許しの前に、判断、ジャッジありますよね。
白黒はっきりさせることが大好きだった私なんですが、
今は判断すること自体が曖昧になっています。

それがいいことなのか悪いことなのかもよくわからないし、
すべてはいいことにつながるとも信じているし。

とは言っても、生きていれば色々な判断とそれに伴う感情が湧いてきます。
ただそれが途中でどうでもいいやとなってしまいウヤムヤの中で終息します。

そういう曖昧な態度は無責任ではないのかと昔の私なら自分を批判したはず。
自分を批判&否定しないことで、自分以外も受け入れやすくなりましたね。
結局は自分次第なのでしょうね。

変えようとしなくても、すべては変わっていく。でも、
どうしても変えたいことは変えようするのが悔いのない人生だと思います。
自分に正直になり感情を表現していくのも素敵ですよね。

曖昧にしたくてもできないことがある。それが私を変えてくれるのでしょう。

7513
『神さまとのおしゃべり』
最近読んだ『神さまとのおしゃべり』に、
「ネガティブに考えちゃった、ヤベッ」って思うことが悪いのであって、ネガティブになっても「イーンダヨ!」

とあってこれがすごく楽でした。
否定的になってもいいんだよ。その感情を責めなければという考えは、私にとって本当に楽になれます(^^)

7514
あおむし様

 こんにちは!

 なるほどです。「すべては変わっていく。でも、どうしても変えたいことは変えようする
のが悔いのない人生」とうのは、まさにパラドックスな事実だと思います。

 そこに生きる実感とか、だいご味がありるものですよね!

7515
かよ様

 コメントを有難うございます。

 感情そのものは純粋な波動であって、それに善し悪しを付けるのは余計な判断ともいわれますね。


 きょうツイッターに出したのが、ちょうど同じような意味の以下の言葉です――

 「真の幸福とは、限られた感情だけを経験することではなく、あらゆる種類の感情を目いっぱい経験することなのです。
 ネガティブな感情は悪いもので、幸福とはポジティブな感情であると信じている間は、あなたが幸福になることは決してないのです」(ロバート・シャインフェルド)

7516
ニーバの祈りは大分前に読んだことがあります。自分を成長させていくためには、まさにこの勇気と冷静さと判断力さえ身に付けたら人は無敵だなあと思います。また、私は人間関係においての基本は、自分が相手に望むことを相手にすることだと思います。話を聞いてほしいなら、相手の話をしっかり聞く。自分のしていることを認めてほしいなら、相手のしていることを認める。そしてブログを読ませてもらって、感じたこと、光奈さんのブログはスピリチュアルという感じよりは、心理学と言った感じの方が近いなあと思いました。スピリチュアルと心理学も同じことなのかもしれませんが。ありがとうございました。

7517
丹後のきんちゃん様

 こんにちは!

 「自分が望むことを隣人にしてあげる」「自分が望まないことを隣人にしない」というのは、多くの宗教にある黄金律ですね。
 私たちの根幹に埋め込まれた、大切な基本なのだと思います。


 スピリチュアルと心理は、書店でも隣の書架に置かれているように、まさに隣接関係にあります。

 僕の妻は心理学関係の本をよく読む一方、スピリチュアルにはほとんど関心がないのですが――、
 本棚の中にはバイロン・ケイティのワークの本や、「コア・トランスフォーメーション」とかもあって、そのあたりは共通部分だなと思います。

7605
大きな盲点
 受け入れるべき「変えられない部分」と、自分で選択できる「変えられる部分」。これもこの宇宙にある遊び(車のハンドルとかの)の一つでしょうね。
 そしてその線引きは正に人の数だけある状態ですが、koudaiさんの他の記事も読んでいる内に、そのラインは自分が思っていたよりはずっと自由度があるのかもと思えてきたりもします。
 ここにスポットライトを当ててもう一度自分なりに定義し直してみることは誰にとっても凄く大切だと感じます。価値判断の前提として知らず知らずの内に固まってしまっていて盲点になりがちな上に、ここのスタンスをどうとるかで一人一人の理想と現実(特に叶えたい夢や在り方と現実的な金銭問題とかとの折り合いのような、人生の根幹にまで影響を持つ部分)の観念が大きく変わってくるので。
 その上で「やっぱりこれは何かあるな」というものについてはそのまんま受け入れて、囚われ無く日々を自然に楽しもうと思います。
何と言うか、耐えがたきを耐えるというゴリゴリ感じゃなくて、静かに向き合って胸にすっと入れて、「うん、よしよし」みたいな感じで。
 koudaiさん、いつも本当にありがとうございます。

7608
masahiroGN様

 コメントを有難うございます!

 どのような生き方を選ぶかは、この「線引き」による部分がけっこう大きいと思います。

 「静かに向き合って胸にすっと入れて」というリラックスした姿勢は、とても大切でしょう。
 「魂の目的」とか「人生に定められたテーマ」というと重々しい感じですけど、そうしたものを受け入れることによって、格段に「生きやすく」なるのは確かだなと感じます。

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プロフィル

Koudai Mitsuna

Author:Koudai Mitsuna
 
光奈 広大(みつな・こうだい)

 20年のあまりのサラリーマン生活を経て、いわゆる「ザ・マネーゲーム」を何とか卒業。今では束縛されない自由な日々を存分に味わっています!

 そうした中で心がけているのは、普通の日常的な行いを通じて、意識の進化を目指す「カルマ・ヨガ」。

 日々の喜びや学び、インスピレーションから得たスピリチュアルな気付きなどをブログで紹介しています。

 妻子と都内在住――。





http://facebook.com/koudaimitsuna

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