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 前回に続いて、「受け入れ」や「許し」のテーマです――。

 自分が置かれた状況がとうてい受け入れられなかったり、相手の言動がぜったいに許せないと思えてしまうことって、少なからずあるでしょう。

 多くの場合は、ふつうに対処して解決に努めるべき事柄だろうけど――、
 中には、その人にとって「人生で本当に向き合うべきテーマ」が、そのような形をとって現われてくることもある。


 自分が「受け入れるべき」課題というのは、当然のことながら最初の時点においては、自分にとって非常に「受け入れがたいもの」であるはずだ…。

 「どうして自分に限ってこんなことが起こるのか」と思える問題や、いったん拒絶しても何度も繰り返し起こってくるような事態は、その人にとって何らかの大切な意味を持っている可能性もあるだろう。


 僕自身の場合は、過去記事でもときどき書いているけど、鬱を患った妻との関係性において、そういうケースが本当に多かった。

 「なぜ自分が理不尽にも、こんなきつい言葉を浴びせられなくてはならないのか」、「いったいどうして自分が、こんな居心地の悪い状況にいなくてはならないのか」…
 そういうことを色々と考え、言い争いもさんざんしてきたのだけど――、ある時点で「理由は分からないものの、これは自分が受け入れるべきテーマなのではないか?」と気づいたときから、状況は本当に着々と良い方向に進んでいった。

 今では妻との関係性については、何があってもたいてい無条件に受け入れるようにしている。
 それが僕自身にとって、内にある古い感情エネルギーの存在に気付かされてそれを癒したり、いらない価値判断を手ばなしたり、意識を広げていくための、本当に重要な機会になっていることを実感している。


 とはいえ、実際に感情を逆なでされるような場面にあって、相手の容赦ない言動などをそのまま受け入れるのは、やはり簡単なことではない…。

 そんなときに、僕がよく頭の中で浮かべていたのは――、
 江戸時代の禅僧・白隠のエピソードに出てくる、「ああ、そうであったか」という言葉だ。


 白隠は、諸国行脚で修行を重ねて20代で開悟したのち、34歳のときに沼津の松蔭寺の住職となった。

 そうしたころ、寺の門前の家で、未婚の娘が身ごもるという出来事があった。
 父親は娘を強く責め、「おなかの子は誰の子か」と厳しく問い詰めた。
 怖くなった娘は、父親が日ごろ信奉している白隠の名を使えば許してもらえると思い、「白隠さんの子です」と嘘を口にした。

 月が満ちて子が生まれると、父親は赤子を抱えて白隠の寺に上がりこみ、「これはお前の子だから、お前が育てろ」と押し付けた。
 すると白隠はひとこと、「ああ、そうであったか」と言って、何の弁解もなしに、そのまま赤子を引き取ったのだという。


 隠し子のうわさはたちまち広まり、白隠の信用はすっかりなくなってしまった。

 そんな様子を知った娘は、ついに良心の呵責に耐えられなくなり、父親に「本当は白隠さんの子ではなくて…」と、交際していた男の名を打ち明けた。

 びっくりした父親はすぐさま寺へ行き、平謝りに謝った。
 そこでも白隠は、「ああ、そうであったか。この子の父親が分かって良かった」とだけ言って、いっさいの非難も口にせずに、子供を返したという――


 まるで、ジム・キャリー主演のコメディー映画「イエスマン」を、度を越した形で体現したような話ですよね…。

 もっとも、こんな濡れ衣までも無条件に受け入れ、さらに事態を良い方向に帰結させていくなんていうのは、高僧だからこそ成せるわざである。
 ふつう、「こんな言われもないことを、なぜ自分が…」なんて心の中で思いながら状況を受け入れても、ろくな展開にならないだろう。


 でも、自分が本当に「受け入れるべきテーマ」というのは、いっさいの言い逃れや非難もなしに、ただひたすらに受け入れるしかない――、そういうものだと思うのです。


 この白隠のエピソードは、歴史上の人物にありがちな、後年に創作された話ともいわれる。
 しかしながら、この「ああ、そうであったか」は、まさに受け入れのキーワードのように僕はいつも感じます。

 とうてい受け入れられないような状況に直面したり、ぜったいに許せない言動を投げかけられたとき――、それに対し頭の中で「ああ、そうであったか」と言うと、拒絶・抵抗しようとする感情エネルギーが、なぜか自然と薄らいでいく感じがする。

 そしてかなり理不尽なことでも、特にややこしい理屈を付ける必要もなく、淡々とストレートに受け入れられたりもする。
(もちろん、「何でも無批判に受け入れるべき」という考えではないことは、前回記事で書いたとおりです)


 「ならぬ堪忍、するが堪忍」ではないけれど、「受け入れにくいもの」を受け入れることによって、人生の状況が好転したり、自分の意識が広がったりする――、このことは僕自身がとても強く感じます。

 このテーマは、さらに次回も続きます。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Deuter「Earth Light」。

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受け入れるか、変えるか、それが問題だ
コメント
7518
受容・許しがなぜそれほど大切か、いろんな説明の仕方があると思いますが、スピリチュアルの理屈で説明することもできると思います。

一つは、自分の前に「現実」として現れるもの(現象〜自分の反応・感情も含む)は、鏡の法則により、自分を映し出したものでしかないこと。
それを拒絶・侮辱(受容・愛の反対)することは、自分をそうすることと同じであること。
二つ目は、自分でこの人生を選んで生まれてきたということ。基本的にこの人生を愛してるはず(自身や家族などは特に愛してるはず)なので、愛に反する態度は何かが間違っているのだろうこと。

そう考えた時「あり得ない、とうてい納得できない、簡単に言うんじゃねえ!」というような強い反応が自分の中に生まれたら、ああこれは私が向き合うべきテーマなんだろうな、ひえー、と思っています。

7519
ruri様

 こんにちは!

 起こってくる出来事や、相手のことを受け入れると言っても――、本当はまさに、それを投影している源の「内なる自己を癒やす」という図式なのだと思います。

 その大切さに気付かないと、「自分が映る鏡に向かってほえ続ける犬」みたいになってしまうわけでしょうね…。

7520
こんにちわ^^
人の言動の中には、深い真意や苦悩が潜んでいたりします。
例えば、米国に押し付けられた課題を、強行採決で突破しなければならない阿部総理の心中は察するものがあります。
それを鬼の首でも取った様に「見たか!これが民意だ」とはしゃいでいる麻生元総理などの自民党幹部は愚人にしか見えません。
いつも、米国の圧力に屈しなければならない自民党=日本の姿は、阿部総理の目にはどう映ってるのでしょうか?
「ああ、そうであったか」…国民が知れば、敗戦国の悲哀がよく分かると思います。

7521
sado jo様

 こんにちは!

 すべては、その人たちが「良かれ」もしくは「必要」と思ってしていることなのでしょう。

 ただ、それを同じ土俵で議論したり憂慮したりしても、世界にあまりいい創造的エネルギーが生じないようにも思います…。

 それとはまた別の意識から、人類や地球の未来を見つめていければ、というふうにも思いますね。

7522
傍に潜む神の愛?
遠くにいる 見える人にはたいていの場合
冷静に良い状態の自分で接する事が出来るでしょう
その場から立ち去る事も出来るのですから・・・
しかしすぐそばにいるいちばん近い他人
血が繋がっていないという現実が自分のなかで
他人として意識する芽を芽吹かせるのでしょうか?

赤の他人には決して行わない行為も
夫婦と言う近い他人には 
なぜか簡単に行い 発言してしまいますよね

それが許された…そうするべく用意してきた現象ならば
白隠さんのように「ああそうであったか」と
受け入れれば…
日日是正 日々が明るく過ごせるのでしょうか

我欲が我を飲み込んでしまいそうで

ただただ「うけいれる」それをしてみる事も
前に進む1つの道だとまずは気づいた時から始める
ですかね・・・

7523
これが実話だとすると
白隠は、「自分がどう思われても、評判が落ちようが気にしない(特に事実無根の事ならば)」という周りの評価に捕らわれない心と、「娘が自分の名を出したにはのっぴきならない事情があったのだろう。それに自分が”違う”と言えば、娘さんは嘘をついた事で父親に更に責められるだろうし」という慈悲の心があったんでしょうね。

「何でも無批判に受け入れるべきではない」と言っても、この辺の境界もまた曖昧です。
前記事にあった「妻が浮気をしている」といった例も、もしかしたら「受け入れた方がいい」ケースもあるかもしれません。アジズは「100%受け入れるなどあり得ない」という考えですが、白隠だったらどうでしょうね。


「何でも無批判に受け入れるべきではない」「とても受け入れがたいと思う事でも受け入れる」・・・この二つの境界をどこに引くか。かなり難しいでしょう。

7524
タデウス・ゴラス著 「なまけ者のさとり方」
やさしい言葉で綴られた薄っぺらい本ですが、
30年前の私には理解ができませんでした。
ですが本の波動の高さが気になり、じっくり読むこと5回。
目からうろこの悟り本でした。

『ああ、そうだったのか』は、
ここでは家に流れ込んできた水に例えられています。
せき止めるのではなく(抵抗)、水が流れていくための溝を掘れと……。

さまざまな苦悩や、理不尽も『耐えられない魂には来ない』
いうことを教えられ、以来、私にとってのバイブルの一冊になりました。

受容できず抵抗したとしても、それなりの学びがあります。自らのレベルを自覚することで、いつの日か進化したいと願うようになります。それが魂の目的ですから……。

7525
光子様

 こんにちは!

 そうなんです。家族の言動は、本当に容赦ないです…。
 もちろん、言いたい放題に感情をぶつけても安全な相手であると分かっているからこそ、そのようにできるわけですけどね。

 それゆえに、家族関係というのは、学び、受け入れ、進化していくための機会が本当に多いと思います。

7526
Clary Sage様

 こんにちは!

 白隠の考えについてのClary Sageさんの推察は、なるほどお見事ですね。
 普通はよく「超然と悟っていたから、判断を加えずに受け入れられたのだ」という解釈が多いようですが…、それよりもむしろ、即座にそこまでを見通したうえでの慈悲心が、白隠ならではなのでしょう。


 受け入れの「境界」は難しくて、「例えばこんなケースはどうなのか」と色々と考えてみても、おそらくこれといった答えは出てこないように思います。

 でも、自分が直面している「この問題をどうすればいいか」という問いかけには、何らかのヒントがふと浮かんでくることがあります。
 ガイドは、そういう問いかけに答えてくれるのかもしれないです。

7527
風子様

 こんにちは!

 「なまけ者のさとり方」は素晴らし本だと思います。僕はこの本の中の次の言葉が好きですね――

 「愛とは、他人と同じスペースにいるという具体的な行為のことだ。私たちは、自分で決めて、愛を広げたり引っ込めたりすることができる。私たちがなすべきことはたった一つ、愛や意識を広げることだけだ」


 この本にも白隠の話が出てましたっけ?
 確かエックハルト・トールの本にも引用されていた覚えがあります。

7528
配偶者について。
人生のパートナーがmitsunaさんのようであったらいいのに。
 わたしの夫は私の大切にしているものの価値を認めない。
でも意味は・・・あるんだろうとはおもう。
 スピリチュアルな人生を望む私にあくまでも物質主義的な夫。それで、バランスがたもてているのかもしれない。

7529
なのはなS様

 こんにちは!

 僕も「互いに理解し合えるパートナーだったら、もっと楽しく生きられるはずなのに…」と思うこともあるのですが、でももしそうだったとしたら、いま学べていることも学べなかったのかもしれないです(スピリチュアルへの興味もあまりなかったかも)

 たぶん、親密な夫婦関係は、過去生ですでにたくさん経験していて、今回の生はこのような経験のシナリオを選んで生まれてきたのかなと思っています。

 きっと生まれる前に、妻と一緒に細かく打ち合わせをして、「このときは、こういうきつい言葉を言ってね」とこちらからお願いしたに違いないと考えています。

7530
光奈さん、こんにちは。

私は家族だから言いたいことが言えるということが
ずっと理解できませんでした。若い頃、実家は居心地悪かったです。
家族だからこそ、素直になれず何も言わなかった自分。

とはいえ、素直になれない自分をさらけ出せた存在という意味で
家族には大いに甘えていたし、まさに家族だったのだと思います。

父の死後に、母との葛藤に大いに傷つきましたが(同時に母を傷つけた)
その結果お互い言いたいことが言えるようになって、
やっと本当の家族になれたという満足感があります。
一番良かったと思うのは、私は今傷ついているんだとか
私は本当に幸せだと言えたことでしょうか。

母とのやりとりを通して、私は変化しました。
母のおかげで相手を受け入れることができるようになったので、
色々な人の言動に対して、まあいいかの心境へ達する時間が短くなりました。

私は慈悲心ではなく、自分を痛めつけないために
「ああ、そうであったか」と言うかもしれません。
争いの中に自分を置くことはとても辛いからです。心が痛くなります。
自分を守るために、受け入れることを覚えたのかもしれませんね。

母がガン告知され、母が死んでも死ななくても私は幸せだと実感しました。
だから母は母の望むように生き、死んでくれることを望んでいます。
母が望んでいるのか、今の所は再発もなく、順調に回復しています。
これもまた幸せなことです。

7531
あおむし様

 こんにちは!

 あおむしさんは母親との関係性が、本当に大きな学びの機会だったのですね。

 僕の「ああ、そうであったか」も、慈悲心からはちょっと遠いかもしれません…。
 状況に対する達観とも、降参とも、あきらめともいえるような、「受容モード」になるためのマントラみたいな感じです。

7532
多分、この禅僧にとっては信用を失うことより大切なことがあっただけなのかなと思います
諸国行脚、僧の昔の立ち位置から考えて、この人は散々見てきたのではないでしょうか。
売られていく子供も、捨てられる子供も、もっと酷い…も。
もし、その人の元にまだ救える子供が現れたなら。
捨てられてしまったのだと思います、信用も何もかも。
この人にとっては本当に受け入れられないものを許容してしまわないようにしたのだと思います。
ちょうど今アニメでやっていたセリフを使うなら
「人間て奴は人が作った法以外に自分の法って奴を持ってるもんだ。お前の親父はそれだけは冒しちゃいない。(略)信念だけは曲げちゃいない。それが善事であるのか、悪事であるのか、人なのか鬼なのか、そんなことは知らねーよ、ただいい奴だった」
このセリフじゃないですがこの僧は自分の法を守っただけでないでしょうか。
ただ自分がしたくないことをしなかったというだけではないでしょうか。

そして、自分の法を持つそれこそが今この国に必要なことではないでしょうか。
政治家の責任を問う人がいますが、政治家が果たすべき責任とは説明することでも、国民を守ることでもないのだと思います。
本当に果たすべき責任とは、もっと難しいこと。
一人一人、自分の法というものを持ち自分の頭で考え答えを出していくということをできるようにすることではないでしょうか。
それは教えることのできるものではなく、身に着けさせる?、自分で見つけさせるもの。
いつか誰かが間違ったときにそれを止めることができるにしておくこと。
誰かを英雄にしてしまわない、誰かに罪を押し付けないこと。
自分の目で見たままを受け入れられる人間を育てつづけること。
そういう社会を作り維持し続けること。
それが政治家の果たすべき本当の責任なのだと思います。
そして、その責任は政治家だけでなく全ての人が負うべき責任、そう思います。
その責任を拒絶した世界、それが俺にとってのもっとも受け入れることのできないものかなと思いました。

7533
野良猫様

 こんにちは!

 確かに、江戸時代の農村の貧しい暮らしの中で、幼い子供の置かれた状況というのは、とても過酷だったと思います。
 白隠もその散々な状況を、各地でずっと目にしてきたのでしょう。

 子供を育てるのが本当に大変だった時代、白隠は家族に恵まれない子供を何人も引き取ったという話もあります(そのため「白隠には隠し子がたくさんいる」とまで噂されたようです)。
 そうせずにはいられなかったのかもしれないですね。

7534
状況のとらえかた次第
人生の課題に向き合っているのか、
無意味な自己犠牲に人生を費やしているのか。

同じ状況に対しても、それをどうとらえるか、によって
向かう方向が異なるわけですね。

7535
光奈さんの人生には奥様との関係が大きく影響しているなあというのを感じていました。私もそこらへんが、どこか似ているようにも思いました。何故ということの問いかけと、その謎解きの連続です。そういう意味でも奥様とは生まれる前から決められていたともいえるぐらいの感覚もあるのかもしれません。ああ、そうであったのか。それは、光が見えた時に感じる言葉ですね。奥様に対しての自分の傲慢さが見えた時に人は成長していくのかもしれません。奥様も同時にそれに近い感覚を感じておられるように思いますよ。

7536
この有名な逸話は
色々解釈できますよね。私はすぐに白隠は色々慮ったのだろうと思いましたが、一般的な解釈の通り「完全に無頓着な在り方だった」という見方も出来るし、(それも興味深い在り方です)また、「どんな事があっても自分に起きて来た事は一切の判断なしに受け入れると決めていた」という解釈も出来ます。

「どんな事があっても、起きた事を抵抗せずに受け入れる」というのも一つの決意というか、生き方だと思います。深い信頼と胆力の要る生き方ですが。
そして、多分これには注釈が付くと思います・・・・「一つの例外も無しに」という。
「どんな事であっても」というのはまさに文字通りの意味で、自分で取捨選択を一切しない。「常識的に言ってこれは受け入れては駄目だろう」「これは受け入れがたい」「これはいいかな」といった事を考えず、宇宙を100%信頼する。(聖書のヨブ記にも似ているかも?)
そういう決意をしていた、という可能性もありますね。



7537
私は白穏さんの話は受容の話としては何か好きになれないです。母親の話も聞かず「ああ、そうであったか」なんて適当なウソを言って、そんなこと大して興味はないと言わんばかり。やはり子供のことを第一に考えての言動だったのではないかと私も思います。

それにこの話を受容の美談として賞賛する人たちは、より多くの困難なものを受容できる人間が優れている、そうでない人は劣っている、と考えていないでしょうか。人間には受容できないことがあるということを受容することも、一つの立派な受容であるのに。

受容のテーマが自然に現れてくるのは、本当に逃れられないこと(一番分かりやすいのは死や病気など)に直面した時だと思います。白穏さんの話は受容の話なのか?と今の私には見えます。

7538
光奈さん、こんにちは。

ああ、そうであったのか、という言葉で連想したのは、死ぬ時のお楽しみです。
この人生で起きたあれこれを、
ああ、そうであったのか、と死ぬ時にわかるのだと思うとわくわくします。

今はまだ死にたくたいです。
あれこれ起こってくることをすべて楽しみたいです。
受容が基本になると、人生の楽しさが増えると思いながらも
受容に反発し、がむしゃらに動き回ることもまた素晴らしい経験。
達観していながら、達観していないような人生がいいです。

話変わりますが、映画「インサイド・ヘッド」鑑賞、
今の段階では?となりました。できるだけ観たいと思っております。
光奈さんは、ご覧になるのでしょうか。

7539
お久しぶりです。
台風もやっと!行ってくれました^^こちらでは山間部が土砂崩れで大変でしたが、住まいの方は大丈夫でした。自然は怖い!ですよね。忙しくてブログにも開けない状態ですみませんでした。ランキングもポチっと!入れときました^^また、来て下さいね^^

7540
全肯定、全感謝、全托
 この白隠禅師の生き方は、スピ的には次の様に理論付けられます。

(1)全てをありのままに受止めて、世の中に、悪いことというものが存在しないことを理解する―全肯定。(全ては良くなるための仕組。-日月神示)

(2)全てのことが良いことだということが解れば、全てに感謝出来る―全感謝。(一切を受入れ、一切を感謝せよ。ー日月神示)

(3)全てに感謝出来るようになれば、それは既に全てを天に任せた心境―全托。(全てを神に任せ切れよ。ー日月神示)

参考記事: 「全肯定、全感謝、全托」(http://hituki8910.blog.fc2.com/blog-entry-281.html
 
 しかし、一方ではオレンジャーが言うとおり、「何故、この世を創ったのか」、「何のために不自由なこの世に生れて来たのか」を知ると、「それはちょっとおかしいぞ」という気もします。「三次元の学びを放棄しているんじゃないか?」という疑問です。
 で、私が現在一歩を踏み出しているのは、全知全能なる神の分霊たる「内なる神=高我(ハイアーセルフ)」に直接繋がることは出来ないか? という新たな挑戦です。勿論、群がり起る邪神、邪霊との壮絶な闘いは避けられません。
 それに成功すれば、こちらのブログでやっているような、ああでもない、こうでもないという議論を塵のように一吹きで飛ばすことが出来るでしょう。
さて、どんな結末になるか、私にも分りません。否、魂はもう知っている筈です。


7541
バカになること
今回も内容の濃い記事でした。そして、「ああ、そうであったか」という言葉に関し、妻がうつになったとき、私も同様な対応をしたことを思い出しました。

そのときは思ったのが、本の題名は忘れましたが「バカになれる人はすごい、そして男はバカになれる」という言葉です。そして、妻を責めるのではなく、「悪いのは自分だ」という気持ちで妻に接したところ、なんとか嫌な雰囲気を脱することができました。

 まさに、「ああ、そうであったか」と言えること、すなわち「バカ」になれることが場合によっては問題解決の道であるということを思いだしました。
草々

7543
こんにちは。
『ああ、そうであったか』なんですよね。。

私は両親との苦しい関係や姉妹の死や、現家族もバタバタと問題が浮上したりと数年前から急に慌ただしく過ごしています。

現在も外からは私の家族は『大変そうだ。辛そうだ。』と見えるようですが、内側からジワジワと上向きになるのを感じます。広がっているというか。。

私自身、苦しみながらもひとつひとつ乗り越えてきていたようで、主人が『ゆっくり家族が噛み合ってきた感覚がある』と昨日言っていました。

物理的な物の見方だけをしていたときが、遠い昔のような気がします。

見方は偏るのではなく、拡大していくものなのですね。。

『ああ、そうであったのか』、、と出来るときと出来ないときがありますが、振り返ってそう思えた時、ホッとする感覚になります。

7544
森猫様

 こんにちは!

 人生の課題と、無意味な自己犠牲では、同じ状況であってもずいぶん違いますよね…。

 でもたとえ無意味であっても、過程としては欠かすことのできない意味があったりもしますから、要は「これから自分がどうしていくか」が問われているのだろうなとよく思います。

7545
丹後のきんちゃん様

 こんにちは!

 妻との関係性は、きっと生まれる前に決めていたと思います。
 こらからどう展開していっても、きっとこの世を去るときに「ああ、そうであったのか」と、すべてのシナリオに気づくのだろうなと思います。

7546
Clary Sage様

 こんにちは!

 まさに「宇宙を100%信頼」という決意でもあったのだろうと思います。

 開悟した禅僧ですから、自と他の隔たりなしに、ただ起こっている場として在った、というのかもしれないです…。

7547
ありがとうございます
自分が求めている言葉に出会えたような気がします。
書かれている内容は半分も理解しておりませんが、
理屈はともあれ、多分そうなのだろうと思います。

論理的な思考だけが真実に迫る方法ではないという
思いがしました。こんな風に考えたのは初めてです。

7548
光奈さん、こんにちは。

ああ、そうであったのか ではなく
ああ、そうであったか、でしたね。

同じようで、ずいぶん違いますよね。

7549
ruri様

 こんにちは!

 この話は、受容のストレートな具体例というより、「受容の姿勢」を示すための「比喩」として見たほうがいいでしょう。

 何でも受け入れるべきという考えでないことは、前回からも言っているとおりです。ましてや、多く受容するほうが「優れている」と考えている人がいるならば、それは困ったものです…。

 またruriさんが言われる「受容のテーマが自然に現れてくるのは、本当に逃れられないこと」というのは――、記事に書いている「自分が本当に受け入れるべきテーマ」にあたるでしょうし、どちらもかなり近い考え方だと思いますよ…。

7550
あおむし様

 こんにちは!

 この世を去るときは、人生の全容を見渡して「ああ、そうであったか」と感じることになるのでしょう。

 映画の「インサイド・ヘッド」は、今のところ特に見る予定は決めてないです。
 でも、ふとその気になったり、外出先でかなり空き時間ができたときなどに見るかもしれないです。

 「ああ、そうであったか」は、色んな言い方で伝わっています。
 「ほう、そうか」というのもあります。

7551
フェレパパ様

 応援ありがとうございます!

 関西は台風がすごかったみたいですね。
 かわいいご家族ともご無事で何よりです。

7552
666様

 こんにちは!

 まさに、すべてのことを「魂はもう知っている」に違いないです。

 知っているのにあえて、こうして「分からない状態」を体験しているところが、この世界の妙味なのでしょうね…。

7553
ささげくん様

 こんにちは!

 奥様が鬱でいらしたとのこと、同じ立場としてその大変さが分かります。

 「悪いのは自分」という気持ちまで持つ必要はないかもしれませんが…、でも、ものすごく理不尽な言動でも、相手の精神状態や脳機能においては「それでもきちんと理にかなっている」と受け取ることは、とても大切に思います。

 そして精神状態や脳機能がどうであっても、その人の魂としての「本質」は変わらないものでしょう。

7555
ぼん様

 こんにちは!

 ご家族の関係性で、本当に色々と大変なご経験をなされたのですね。

 でも「上向きなっている」「かみ合ってきた」という感覚は素晴らしいと思います。
 具体的な境遇によるものよりも、内に何となくわきあがる感覚こそが、大切な変化なのだと思います。

7556
wonwon様

 こんにちは!

 この「ああ、そうであったか」こそ、論理的思考が当てはまらないものだと思います。

 理屈に抜きに感じるものがあるのは、とても素晴らしいことですね!

7557
理想です。
光奈様

理屈抜きに「ああ、そうであったか」と

深く思えたら、どんなにか素晴らしいでしょうね~

どんなにか、晴ればれとするでしょう~

いつも素晴らしい題材をありがとうございます。


7558
ちゃ様

 こんにちは!

 目の前で起こる出来事は、実はすでに自分が受け入れているからこそ、それが起こっているのだと説く人もいます。

 本当にそういう側面もあるだろうなと思います。
 マインドは色んな理屈を並べますけれど…。

7560
こんにちは
比較的軽微な事柄についてはありうるかもしれないけれど、冤罪で、社会的ニュースになるような事件の犯人にされてしまったとき‟ああ、そうであったか”でいける人って現実に存在するのでしょうか。僕の場合100パーセント無理です。笑  
どちらかというと世の中では、がんばって無実を証明するとそれがちょっとした感動話になるパターンが多いですね。

7561
上記は
タカヒロです。

7562
タカヒロ様

 こんにちは!

 前のコメントにも書きましたけど、この話は、受容の「模範的な具体例」というわけはなく、受容の姿勢を示すための「比喩」として見たほうがいいでしょう。

 誰にも、そのような姿勢で取り組む、「人生で受け入れるべきテーマ」があるのではないかということです。


 話の「額面通り」に、身に降りかかった冤罪までも無条件に受け入れる必要はないはずです。この点は、前回記事で覚者がきっぱりと指摘した通りだと思います…。

7563
ああ、そうであったか 
 「ああ、そうであったか」にぴったりの、私の好きな話です。出典は神智学。

 「臨終の、時間にしてほんの数秒の間に、人は自分の過去の全生活をどんな些細なことでも事細かに次々と見せつけられる。
そして今生における因果の鎖全体を一瞬にして了得し、かくして彼は今や一切の虚飾を剥取られ、在るがままの己自身の相(すがた)を悟る。
 彼は数々の成功と失敗、数々の愛と憎しみを見、その全てを支配して来た傾向を観、自分の全生涯を支配して来た考え方が浮彫りにされ、死後の生活の主要部分を送る界層が明らかとなる」

 こういう現象は、魂の情報処理能力が、スパコン「京」などより遥かに大きいと考えると理解出来るでしょう。


7564
安倍総そは安保について、アメリカからの圧で動いているのだと思いますが、実は問題を表面化させて、国民に真意を問う形、結果通らない法案、と安倍総理はそれをわかってのでは、、と思ってしまいました。

もちろん、今は問われている段階なので、あちこちで行われている運動には私自身も参加したいと思っています。

白隠さんの『そうであったか』は人生の出来事のひとつとして広い意味で受容しているのかな。と私は意味を受け取りました。ちょっと軽薄ですが『おお、そうきたか』というような。。

安倍総理の動向も『おお、そうきたか』というようなどんでん返しを期待したいです。

でも、わかるのはずっとあとからなのでしょうね。。

7565
光奈さん、こんにちは。

東京だと映画館がたくさんあっていいですよね。
それはいいわけかな。観たいものはなんとしても観るでしょう。

縁あって10年以上色々と送り続けたハンガリー在住の知人が
小さな子供たちと帰国中。実家は千葉。
ぜひ会いたいと言われたので、つくばで子供たちも一緒にランチします。
映画の予定をそれに変えました。

会いたくないわけではないですが、どうしても会いたいとも思っていません。
(夏は遠出したくないのです。笑)

ハンガリーへ色々送るのも今年で終了。
本当は収入が減った数年前に終了するつもりでした。
来年以降は絵手紙をコンスタントに送ろうかと思っています。

死ぬ時に、ああ、そうであったか、と
ハンガリーに送り続けた理由もわかるはずです。楽しみです。

7566
666様

 こんにちは!

 臨死体験でも、そのような証言が多いですよね。
 肉体としての脳は、それほどすごい本質を制限するためのフィルターの働きをしているのかもしれないです。

7567
ぼん様

 こんにちは!

 ニュースや新聞を見ないので、首相の思惑とかはほとんど分からないです…。

 でも戦後70年の時点で、日米安保や憲法9条の意味を改めて考え、そして「再選択」するプロセスは意味があるだろうなと思いますね。

7568
あおむし様

 こんにちは!

 へー、ハンガリーの方とそうしたご縁があるって素敵ですね。

 僕はエルサルバドルの子供を支援していますが、彼が日本に来られることはたぶんないだろうな…。僕も現地に行く機会はないだろうし。

 袖も触れ合わない縁ですが、大切にしたいですね。

7569
長々と済みません(^_^A)
こんばんは。
受け入れがたい事態ってば、人間関係に起因することが多いです。
個人として独立してる以上、自分を含めみんなそれぞれの領域を持ってるし、相手を無条件に受け入れるのは難しいです。
もっと大きな、受け入れがたいけど受け入れるべき人生の?テーマって事なら、自分の場合癌なのかな、やっぱり。
う~ん、受け入れ難かったという記憶がない…(^_^A)
がん告知というより、大腸内視鏡検査で、お医者さんと一緒に自分も画像を見てたのです。
「この赤黒いトコ、癌ですね。大きいですよ。6cmぐらいあるかも…」
「へ~、ほ~。」
単に自分が天然なダケかもですが、画像だったので実感わかなかったのもあるかも…(←言い訳)。
困ったのは、親にどう話せばいいかでしたが、検査後、飲まされた下剤が合わなくて吐いたり、タイヘンなことになりそのまま入院なったので、両親へは医者が代わりに連絡する羽目になったのでよかったです。
ん?話がそれた?
…なので最初から「なっちまったものはしょうがない」って心境でした。
事態がどう転ぶかも含め、自分ではどうにもできないから、受け入れて天にお任せするしかなかったと思います。(^^ゞ
人間関係は逆に、どーにか出来るのでは、と思ってしまうので難しいのかもですね。

7570
なつかしい。
五井昌久氏の本にも取り上げられているエピソードですね。
わたし、この本を小学校3年生くらいの時に読んで感動した覚えがあります。
深き悩みと闘う人の文はそれがにじみでていることがあります。
あなた様の文章にはそれが感じ取れます。

7571
光奈さん、こんにちは。

ハンガリー在住の元職場後輩Tさんは、事務の仕事が苦手で
でも私のパズル仕事の補助では実にいい仕事をしてくれました。
なぜか彼女には「Tさんには事務は向いていない」とハッキリ言えました。

その後、デザイン関係の仕事に変わり、海外青年協力隊でハンガリーへ。
そこで出会いがあり、結婚したようです。

ハンガリーでの生活はなかなか大変なようで、忍耐しかないと
以前手紙に書いてきた記憶があります。
5年前に会った時もちょっとつらそうでした。
3人の子供の出産&子育てを経験し、彼女も変化したことでしょう。

今回は3人の子供が一緒なので色々話せないとは思いますが、
将来じっくりと話しを聞いてみたいです。

ちなみにTさんはとても素直な性格で、笑顔が可愛い女性です。
こんな人を奥さんにしたら幸せだろうなと昔から思ってました。
まさかハンガリーの方と結婚するとは! 
Tさんはたくさんの受容を経験していることでしょう。

7572
星乃裕華 さんへ 
 私が答えるべきことではありませんが、ガンを治すのは簡単ですよ。
「ガン 重曹」、「ガン 温熱療法」で検索して自分で調べてみなさい。
問題は、ガンになった根本原因を知り、それを除くことです。(カルマも含めて三次元の学び)
何でも無批判に受容れれば良いというものではありません。




7573
星乃裕華様

 こんにちは!

 受け入れの器の大きさに、驚いてしまいます…。

 エリザベス・キューブラー・ロスも、誰もがとても受け入れがたい出来事として、よく癌を例に話しています。
 それだけの難題を、葛藤もないままゆだねられるのは、本当に並みならぬことだと感じます。

 お金のことも、病気のことも、ましてや人間関係の問題も、「どうにかできる」と心底から思っている人は、実際にどうにかなっていくのかもしれません!

7574
yama様

 コメントを有難うございます!

 へー、五井氏の本にも出ているのですね。
 小学3年生でこの話に感動できるって、すごいと思います…。

 「ああ無情」の物語にある、盗まれた銀食器を「これはこの人に差し上げたものだ」という場面も、子供でも分かる素敵な話だなと思います。

7575
あおむし様

 こんにちは!

 人生には予想もつかない転換があるものですね。
 ひょっとしたら「事務には向いていない」と言われたことが、のちに海外へ行くきっかけの一部になったかもしれないです。

 そういうふうに、色んなものごとがタペストリーのようにかかわり合っているのでしょう。

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プロフィル

Koudai Mitsuna

Author:Koudai Mitsuna
 
光奈 広大(みつな・こうだい)

 20年のあまりのサラリーマン生活を経て、いわゆる「ザ・マネーゲーム」を何とか卒業。今では束縛されない自由な日々を存分に味わっています!

 そうした中で心がけているのは、普通の日常的な行いを通じて、意識の進化を目指す「カルマ・ヨガ」。

 日々の喜びや学び、インスピレーションから得たスピリチュアルな気付きなどをブログで紹介しています。

 妻子と都内在住――。

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